2025年12月25日木曜日

奇妙な科学哲学の話

 ラボでの教育

大学の研究室での教育の基本は「研究」のOJT(on-the-job training)なんだけど、その一環で「研究」の進捗報告会を週1回おこなっている。すると、学生たちは現在進行中の研究については知ることができる。ということは、ラボでの過去の研究や、自分たちの研究の周辺に関する知識が不足してしまう。本当は勝手に調べて学んでおいてほしんだけど、学生たちは可能な限り手を抜こうとするので、「研究」に関連する知識が徹底的に不足している。ということに数年前に気が付いて、そこから進捗報告会の後に1時間くらいのレクチャーを毎回おこなうようにしている。

まとめていて気が付いたが、僕の研究はなかなか多彩で、話としても面白い気がする(自画自賛)。当然、積み残し事案を見返す作業でもあるので、そういった中から新しい研究のアイデアが生まれたりする。なので、僕にとってもメリットがある。

僕も結構なシニア層なので、自分の研究を含む科学全体について、哲学的な視点を持つようになってきた。そこで、Progressive Scienceと名付けた4回シリーズのレクチャーを作成した。

Progressive Science①歴史

「科学」という概念の成立過程を概観する。古代ギリシャや中国などで、科学っぽい何かが論じられ、紆余曲折を経て「科学」を確立したのが19世紀。割と最近なのがとても驚きだ。

「科学」と「科学っぽい何か」が発展するためには「大学」というものが大きな役割を果たしたが、「大学」は「宗教」の管理下にあり、ほとんどのリソースは「科学っぽい何か」に費やされていた。

科学の確立を19世紀とするのは僕の独断だが、いくつかの根拠がある。19世紀に産業革命があり、蒸気機関が発達した。人々の暮らしや経済の中心に蒸気機関が据えられた。蒸気機関の仕組みには「神」が介在しない。蒸気機関を理解するためには「神」はむしろ邪魔だ。「神」を意図的に排除することで、蒸気機関の理解が進み、効率が向上し、経済が拡大した。

その経済の拡大の中で、「教育」が「宗教」から分離し、「科学」が民主化した。最終的にも「科学」の民主化が、決定打になった(私見)。

事実、19世紀までの「科学者」はほとんどが「貴族」であった。20世紀にはいるとほとんどの「科学者」は「一般人」である。

Progressive Science②科学の方法論

「科学」と「宗教」の違いと、離別の歴史を議論する。「科学」と「宗教」の違いはただ一つ。「神」のような実証不可能な存在や現象を前提とするかどうか、ということに尽きる。

「科学」と「宗教」の対立の典型例は地動説に関するガリレオの裁判に見ることができる。じつのところ、当時の知識では地動説と天動説のどちらが正しいかということの結論を得るのはかなり難しかったはずだ。なので、実際の裁判では、裁判手続きが正当なものかどうかということが主に争われたらしい。

実際、天動説でも天体の運動は記述可能だ。もちろん地動説の方がシンプルであるが、計算結果はほとんど違わない。でも今の僕らは地動説が正しいと信じて疑わない。でも本当は天動説が正しい可能性も微レ存している。僕たちが地動説を信じる本当の理由は、地動説の方がシンプルだからだ。

決定打となったのはニュートンによる万有引力という考え方だ。万有引力というたった一つの「原理」を認めるだけで、すべての天体の運動を説明することができて、それが地動説と同じものだからだ。なるべく少ない仮定で現象を説明できるならば、その説明は高確率で正しいとする考え方を「オッカムの剃刀」と呼ぶ。ただし、「オッカムの剃刀」は経験則でしかない。僕たちの「信念」は、最終的には「経験則」に依存している。そういう意味では「科学」と「宗教」に違いはないかもしれない。かつてアインシュタインは記者から「あなたの宗教は何ですか?」という質問に「科学」と答えたそうです(アインシュタインはユダヤ人なので、記者はユダヤ教という答えを期待した)。

「科学」が「科学っぽい何か」と決別するのは実はもっともっと困難だった。典型例は「化学」と「錬金術」の決別の歴史だ。18世紀まで人類はアリストテレスの四元素説を信じていた。一石を投じたのはラボアジェ。四元素のうちの一つ「火(フロギストン)」が「光」と「カロリック(熱素)」からなるとした。今の僕たちからするとまだまだおかしな説ではあるが、重要なのはアリストテレスに盾突いた、と言う事実だ。かのニュートンですら、晩年は錬金術研究に明け暮れていたのだ。

最終的に人類は錬金術を捨て化学を確立した。そのプロセスは「実験事実に基づかない理屈」を徹底的に排除するということだった。それにより膨大な錬金術研究の資料をゴミとせざるを得なかった。これは恐るべき損失だったはずだ。そうした身を切る改革によって19世紀には「化学」の原型が確立した。

「科学」とは「客観的事実」のみから出発し、論理を重ねて構築された知識体系である。正しいか正しくないかを決めるのは、「神」でも「人」でも「裁判」でもなく、「実験事実」である。

Progressive Science③微分方程式

理系学生にとっての難敵、微分方程式にまつわる話。論点は2つ。僕らが学ぶ微分方程式の解法は一体何なのか。物理において微分方程式が頻出するのはなぜなのか。これらの2つの疑問に答えることがテーマである。

僕たちが教わる微分方程式の代表的な解法は「一般解」を利用するものである。「一般解として~を仮定すると、」で答案が始まる。普通の命題であれば、「~を仮定すると」で始まれば「矛盾するので、~は正しくない」あるいは「xxが成立するので、仮定は正しいと結論される」と結ばれる。つまり、仮定は検証の対象である。しかし、微分方程式の解法では、「仮定」のまま解を導き、それをそのまま「解」としてしまう。「仮定」の検証は行わず、「仮定」が正しいとしたときの結論を採用してしまう。もし「仮定」が正しくなかったら結論は変化するし、もし別の「仮定」が存在したら、別の結論が導かれるかもしれない。そうした可能性を全然考慮していないのに、「解法」としてよいのか、というモヤモヤがある。

そのモヤモヤは正しくモヤモヤで、「一般解」という「仮定」が十分に正しいわけではなく、別の「仮定」が実際に存在し、別の「解」が存在しうる。だから全然解けていないのだ。

こうしたことが起こるのは、僕らが知っている「一般解」は「本当の一般解」の省略形であるからだ。ぶっちゃけて言うと、「本当の一般解」はフーリエ級数である。フーリエ級数の特別な性質によって、フーリエ級数の省略形を使うだけでフーリエ級数をそのまま使った時と同じ結果が得られることが保証されている。なので、僕たちは省略形を用いた省略された手順のみを学ぶ。ただし「本当の一般解」はフーリエ級数なので、解として調査できる範囲は周期関数だけである。しかしながら、解法の中で周期に関する条件が導かれるので、ほとんどの関数を調べたことになる。でも調べ切れていない可能性は否めない。

水素原子モデルのシュレディンガー方程式を解く際には、球面調和関数とルジャンドル陪多項式というヘンテコな一般解が用いられる。ここから、一般解に多様性があることがわかる。どんなものが一般解として使えるのか、その基準は何なのか?結論すれば級数展開はすべて一般解として使える。知られている級数展開はせいぜい30くらいなので、シュレディンガーはそれらの多くを試したに違いない。そして驚くべきことに、基本的にどんな級数展開を用いても微分方程式を解くことができる。得られる解の見かけは違うこともあるが、計算すればすべて同じになる。ただし、ある級数展開での解は単純だが、べつの級数展開ではうんざりするほど複雑な解になったりする。もちろん、単純な解の方が都合が良いので、僕たちはそちらを採用することになるだろう。これはすなわち「オッカムの剃刀」である。

20世紀初頭にもたらされたネーターの定理が「科学」とくに「物理」の世界を決定的に変革した。ネーターの定理の主張は、空間の対称性と保存則が対応するというものである。実際、エネルギー保存則や運動量保存則などが「いつでも実験結果が同じ(時間併進対称性)」とか「どこでも実験結果が同じ(空間併進対称性)」から得られる。こうした対称性はあまりにも当たり前で、ほとんど仮定すら必要ないほどだ。そうした対称性から直ちにエネルギー保存則や運動量保存則が導かれるのは驚異的である。こうした「物理法則」を確立するのに人類は何百年も費やしてきたからだ。ネーターの定理はそれらの努力が必要ないとするものだ。

だから、それ以降、理論物理の世界では宇宙の対称性を探ることに注力している。宇宙が4次元なのか、5次元なのか、11次元なのかが真剣に議論される理由は、それが明らかになれば宇宙のすべての法則を導き出せるかもしれないからだ。

そしてネーターの定理は物理法則が基本的に微分方程式になることを運命づける。保存則とは系が変化した際に変化しない「保存量(数値)」が存在することを主張する。言い換えると、保存量を$H$とし、系のパラメータを$x$とすれば、$\frac{\partial H}{\partial x}=0$が成立する。つまり微分方程式だ。ここに至り、僕たちは微分方程式から逃げられない運命にあることが証明される。

微分方程式を解く際の「一般解」には選択肢がある。ある一般解で解けたとしても、別の一般解で見かけが異なる解が得られる。この事実は、物理現象の解釈には多様性がある、ということを意味している。「科学」とは「世界を理解する唯一の正しいやり方」を見つけ出すことだと短絡しがちだが、一般解の選択肢は「世界を解釈するやり方」であり、それに多様性があるということは、「世界を理解する方法はいろいろあり得る」ということを意味する。

Progressive Science④汎分光論

内容そのものはすでに「レオロジー測定は分光法か?」というエッセイで述べている。

分光とはエネルギー交換(相互作用)の周波数依存性を調べる手法であると総括することができ、そういう意味では粘弾性測定も分光法に分類できる。分光法をこのように理解すると、Higgs粒子を探すために、物理学者たちはLHCを使って「真空」を「分光」したと理解できる。

Beyond Science

本当言うとこの話には続きがある。なぜ相互作用には周波数依存性があるのだろうか、という疑問である。複素数の物性値が得られる粘弾性スペクトルや誘電緩和スペクトル、インピーダンスなどにはKramers-Kronigの関係というものが存在し、物性値の実部と虚部を相互に変換できるという数学的要請が存在する。この要請は負の周波数領域で虚部が反転する(複素共役)ということに実質的に等しい。このような関係は、フーリエ空間でヘビサイド関数をコンボリューションするという数学的操作に等しい。ヘビサイド関数の逆フーリエ変換はδ関数を積分したものとほぼ同じである。つまり、Kramers-Kronigの関係は実空間で時刻0以前をゼロとするような関数を乗じるという数学的操作を暗に認めるものである。

これはつまり、現象が時刻ゼロという起点を持つということと同じ意味になる。時刻ゼロから現象が開始するというのは、いわゆる「因果関係」が存在するとすることと等しい。つまり、因果関係が認められる現象にはKramers-Kronigの関係が存在し、対応する物理量が複素数になり周波数依存性を持つ、ということが結論される。つまり、相互作用が周波数依存性を持つのは僕たちの「世界」に「因果律」が存在するからだ、と結論される。

因果律の存在は、「時間併進対称性」の修正につながる。つまり、時刻ゼロ以前には現象が存在しないので、観測結果は異なるだろう。言い換えると、現象が存在する範囲においてのみ「時間併進対称性」が認められる。手放しの「時間併進対称性」ではなく、因果律の範囲内でのみ機能する「修正時間併進対称性」が正しい、となる。

実のところ、この「修正時間併進対称性」はビッグバン宇宙論と相性が良い。ビッグバン以前には世界が存在しないので、ビッグバンをまたぐような「時間併進対称性」は無意味だ。これはビッグバン以前の宇宙の議論をすることは無意味であり、そのような時刻ゼロをもつ宇宙を考えるだけで十分である、ということを保証する。

ここに至り、因果律すら物理法則の一つであるという解釈が可能になる。「科学」は「客観的事実」のみで構成された理論体系であるが、客観的事実の構成要件として、「いつ」「どこで」実験しても「同じ結果」が得られる、が挙げられる。「いつ」「どこで」は「時間併進対称性」と「空間併進対称性」である。そして「同じ結果」は「因果律」と言い換えることができ、「修正時間併進対称性」と言うことになる。いずれも僕たちの住まう宇宙の「構造=対称性」から導かれるものである。逆に言うと、「時間併進対称性」や「空間併進対称性」、「修正時間併進対称性」などが存在しない「宇宙」では、「客観性」の存在が否定される。そのような「宇宙」では、僕たちの信じる「科学」に関する議論全てが全く意味をなさないだろう。そのような対称性をもつ宇宙を構成できるのかどうかは僕にはわからないけど、そのような世界は多分カオス以外の何物でもないに違いない。