2020年9月18日金曜日

考える技術(1)なぜなぜ分析

研究で大事なことは?

僕は研究を生業にしているわけですが、学生に指導するということもあって、自己分析がてら「研究とは何か」についてちょっと哲学的に考えたりします。

好むと好まざるとにかかわらず、研究には「競争」の側面があります。誰もが「世界初」を目指して努力する世界なので、スピード勝負になりやすいのです。これは決して好ましいものではないと思うのですが、仕方ありません。
ネット社会に移行し、情報は迅速に拡散し、表面的な知識に関する有利不利はかなり小さくなってしまいました。また、実験装置の高度化によって、個人研究者が装置的なアドバンテージを得ることも難しくなっています。

こうした状況の最先端を行くのが分子生物学です。こうした分野では、基本的にすべての研究者が同じ知識・同じ手段を持ちます。アイデアで勝負できればよいのですが、非常に多くの研究者がしのぎをけずっているので、凡庸なアイデアでは太刀打ちできません。その結果、スピード勝負になります。そして、スピードを上げるためには、資金調達・人員増強という手段が有効なので、それらが実際の勝負どころとなっています。

いずれすべての分野がそのようになってゆくと思われます。さらに、分子生物学の研究をAIで行うという試みがあって、それが成功したという報告もあります。知識や手段がコモディティ化すると、個性が消えて、AIが台頭するという図式です。50年くらいしたら、研究者は廃業になっちゃいそうです。

研究というものを単純なフィードバックループに落とし込むと、早晩そのようになるのはほとんど自明です。ただ、僕たちのイメージする「研究」はそんな単純じゃない!と主張したいところです。でもその根拠は何でしょうか?

やはり、アイデアで勝負したいですよね!


アイデアと言っても、なにもないところからひらめいたりしません。知識や経験に基づき、いくばくかの演繹を加えて、アイデアが生まれるものです。大事なのは、知識や経験について考察することですが、その考察が凡庸であると、他者との差別化ができず、重要度が下がります。他者との差別が明白なくらいに深く考察することが、研究者としての武器になります。広く深く物事を考えるという能力は優秀な研究者に共通してみられる特徴だと思います。

ただ、深く考えるというのは、どういうことなのでしょう?「長時間考える」ということでは決してないはずです。あらためて問われた時、「考える」という行為について、実はよくわかっていないことに気づくはずです。

なぜなぜ分析

「考える」という行為を理解しようする助けになるのが、「なぜなぜ分析」です。「なぜなぜ分析」はトヨタが提唱する行動原理「トヨタ方式」の一部になっており、「五なぜの法則」とも呼ばれます。

トラブルなどの原因を探る場合、たどり着いた答えに満足せず、その答えに対してさらに「なぜ?」と問いかけ、5回くらい問答を繰り返すと、「真の原因」にたどり着く、という経験則を体系化したものが、「なぜなぜ分析」です。トヨタは全社的に「なぜなぜ分析」を導入していて、何かトラブルがあると、必ず「なぜなぜ分析シート」を使って報告させるようです。それはトヨタ社員だけでなく、トヨタに納品する関連会社にも要求しているようです。それどころか、その関連会社に納品を行う会社にもそれを課します。

僕はトヨタ本体との共同研究はないのですが、トヨタ関連会社とは仕事をしていて、その際に「なぜなぜ分析シート」を僕自身が書いたことすらあります。僕は「なぜなぜ分析」をずっと前に知っていたので、問題なかったですけど、知らなかったら勉強しないといけないところでした。

なぜなぜ分析の基本は極めてシンプルです。課題に対して答えを考える際に、とりあえず得られた答えを最終回答とするのではなく、さらに問いを深めるという作業を数回繰り返すだけです。でもこれは僕たちが学校教育で訓練されてきたやり方とはずいぶん違います。というのも、テストにおいて問いに対する答えを得たとして、その答えをさらに議論するなんてことは絶対しませんからね。

テストの課題には答えが設定されています。だから、テストというのは設定された答えを探すゲームと言えます。でも、現実の課題では答えの設定はありません。答えがあるのかすら不明です。あるいは、正解らしい答えが得られたとしても、それが正解かなんて誰にもわかりません。だから、その答えが正解かどうかを吟味するという作業は最低限必要です。
しばしば、その答えに欠陥が見つかります。その欠陥に対してさらに分析を加え、より本質的な答えを探す必要があります。それをどれだけ徹底的に繰り返すことができるか、ということが、問題解決能力そのものになるわけです。経験則によって、5回くらい問いを繰り返せばよい、ということがわかっていて、それをフォーマット化したものが「なぜなぜ分析」です。

「なぜなぜ分析」に関する啓蒙書はいっぱい出ていて、日本では、結構メジャーな思考法ですし、かなり効果的だと僕は思います。

なぜなぜ分析は難しい

なぜなぜ分析は習得にかなり時間がかかります。というのも、僕たちはそのような思考法になれていないのです。日本の学校教育では教えられたことに疑問を持つことは禁じられています。そのため、教えられたことを覚えることが勉強であり、テストでは記憶力が試されます。そのため、テストにおける思考の基本は「思い出す」になります。その結果、僕たちは「考える」≒「思い出す」となってしまっています。

一方、なぜなぜ分析は問いの分析・明確化という思考プロセスが重要となります。その際には、論理が重視されます。ロジカルシンキングという思考法がすこしはやっていますが、なぜなぜ分析はさらに進んで、論理的思考を多重化します。

なぜなぜ分析が難しい理由は、一度それをやってみればわかります。問い→答え→問い→答え→…と繰り返すだけなのですが、問い→答えはまあまあできる一方、答え→問いで詰まります。そして、3回目くらいから問いが設定しにくくなります。多くの場合、同じ問いが現れます。それは一般的に「堂々巡り」と呼ばれています。なぜなぜ分析では、堂々巡りを避けるのがとても難しいのです。

問いの分析

問いがあった場合、僕たちはほとんど本能的に答えを探してしまいます。それは、学校教育において刷り込まれている行動原理です。答え探しに終始してしまうのは、学校教育で設定される「問い」自体が疑問の余地のないくらいシンプルだからです。例えば、算数のテストにおける典型的な問題文で「以下の計算をしなさい。」とあったりするわけですが、この問いに関して疑問の余地はありません。だから、問いを無視して計算を始めてしまいがちです。よくある話に、「正しいものを選べ」ではなく「間違っているものを選べ」で問うと正解率が激減する場合がある、というものがあります。多くの人はテストにおいて問いを読むことすらしません。

現実の課題は多種多様です。問いが明文化されていることすら稀です。なので、正しい問いを見つけることすら課題に含まれるのです。その場合、何が問われているのかを分析してからでないと答え探しにすら入れません。なぜなぜ分析では、とりあえず得られた答えを分析し、次の段階の問いを見つけなければなりません。答え→分析→問いという段階を踏むわけです。で、難しいのは、答え→分析なのか、分析→問いなのか、どちらでしょう?実のところ、詳しく分析出れば分析→問いは比較的容易なはずです。というか、それができないということは分析が甘いということです。ということは、答え→分析のプロセスがボトルネックだとわかります。難しいのは、分析なのです。

分析の分析

分析の能力が高ければ、なぜなぜ分析が進むわけですが、どうすれば分析の能力が向上するのでしょう?そのためには、分析では何をしているのかを明確にしなければなりません。

分析という言葉は、「分(分ける)」と「析(木を斧でばらばらにする)」という二つの文字から成り立っています。このことから、複雑な課題を、よりシンプルな部分に分解する、というのが分析の本質だとわかります。なので、分析のプロセスにおいては、課題をいくつかの要素に分解することが大事になります。課題を要素に分解するというのは、科学の手法そのものです。ですから、分析という言葉は科学のイメージ重なります。そして、分析を思考プロセスに強制的に組み込むなぜなぜ分析は「科学的」なのです。

科学における分析では、分析装置の比重が大きいという印象です。ですが、ここで言う分析とは、「思考」による分析です。装置は必要ないので誰でも実施可能なはずです。そのような分析を日常的に行っている人は稀です。つまり、多くの人は分析の訓練が足りていない、ということです。だから、なぜなぜ分析が億劫に感じるのです。

<つづく>



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