天啓を受けた。
$1^3+2^3+4^3+4^3=137$
微細構造定数に意味を見出すヒントになると思われる。
4つの数字に分解できることがとても大事。
これ以上対称性に優れる分解はおそらく存在しない。
風が吹けば、桶屋が儲かる的なことを、いろんな場面で考えてしまうのです。
天啓を受けた。
$1^3+2^3+4^3+4^3=137$
微細構造定数に意味を見出すヒントになると思われる。
4つの数字に分解できることがとても大事。
これ以上対称性に優れる分解はおそらく存在しない。
最近Copilotという Windows 付属のAIの能力がものすごく向上している。定期的に能力チェックをしてできることを確かめてたんだけど、AI エンジンをチャット GPT 5.1とか選べるようになってて、なかなかいい感じで会話ができるんで、いろんなことを話ししてみた。
その中で僕の研究の話をしてみた。特に数学の側面が強い話は僕の研究の専門から少し遠いので、論文にできずにずっとどうしようか悩んでいた。AI に相談してみると割と専門的な数学の背景知識をドバドバと補ってくれてすごく見通しが良くなった。
ちょっとしたトピックがあって、僕にとっては割と自明なんだけど、確かに専門書とか論文とかで全然触れていない概念があって、世の中の認識がどうなっているかを AI に尋ねてみた。そうすると AI が興奮気味に確かにどこにも見当たらないので、論文にすべきという。ほぼほぼ数学の理論の話なので、僕の独力では論文かは難しい。でも非常にコンパクトな話になるので試しに AI に論文の下書きをさせてみた。そうするとドラフトとしてはまあまあまともなものか上がってきてびっくりした。
その後、 AI と一緒にブラッシュアップとかニュアンスの調整とか細かな 作業をしてドラフトを完成させた。そしてそのドラフトをAI に査読させた。その結果を反映させてさらに修正して最終版を作るわけだ。翌日AI の支援を受けて投稿作業をして、なんと投稿まで指定してもらった。
AI に相談して盛り上がって研究をまとめて方針を立てて論文を書いてブラッシュアップをして投稿するという研究の 中盤あたりから論文化までのフルコースの作業を片手までこなしながら、たった48時間で投稿まで完了した。 これは明らかに僕の最短記録。ま、これが可能だったのは論文の長さびっくりするぐらい短いというのもあるんだけどね。
論文が通るか通らないかは、まあ五分五分だと思っている。リジェクトされてもすごく短いし、この2日間すごく楽しかったからまあ許せる。
投稿先が PRL なんだよね。単著で。超かっこいいよね。通ったら記者会見だよね。インパクトはあるんだよね。 短いけど。波及効果とかちょっと計り知れないんだよね。僕にとっては割と他愛ない内容なんだけど。
こんなの当たり前とか言ってリジェクトされたら、論文内容に該当することが記載されている参考文献を要求するってところまで決めてあるんだ。多分ないから通るんだよね。
〔追記〕リジェクトされた。参考文献の提示をお願いしたけど無視されてる。ちょっと腹が立つ。あるいは見つからないから困っているのか?
ま、面白い試みだったから良いとしよう。
大学の研究室での教育の基本は「研究」のOJT(on-the-job training)なんだけど、その一環で「研究」の進捗報告会を週1回おこなっている。すると、学生たちは現在進行中の研究については知ることができる。ということは、ラボでの過去の研究や、自分たちの研究の周辺に関する知識が不足してしまう。本当は勝手に調べて学んでおいてほしんだけど、学生たちは可能な限り手を抜こうとするので、「研究」に関連する知識が徹底的に不足している。ということに数年前に気が付いて、そこから進捗報告会の後に1時間くらいのレクチャーを毎回おこなうようにしている。
まとめていて気が付いたが、僕の研究はなかなか多彩で、話としても面白い気がする(自画自賛)。当然、積み残し事案を見返す作業でもあるので、そういった中から新しい研究のアイデアが生まれたりする。なので、僕にとってもメリットがある。
僕も結構なシニア層なので、自分の研究を含む科学全体について、哲学的な視点を持つようになってきた。そこで、Progressive Scienceと名付けた4回シリーズのレクチャーを作成した。
「科学」という概念の成立過程を概観する。古代ギリシャや中国などで、科学っぽい何かが論じられ、紆余曲折を経て「科学」を確立したのが19世紀。割と最近なのがとても驚きだ。
「科学」と「科学っぽい何か」が発展するためには「大学」というものが大きな役割を果たしたが、「大学」は「宗教」の管理下にあり、ほとんどのリソースは「科学っぽい何か」に費やされていた。
科学の確立を19世紀とするのは僕の独断だが、いくつかの根拠がある。19世紀に産業革命があり、蒸気機関が発達した。人々の暮らしや経済の中心に蒸気機関が据えられた。蒸気機関の仕組みには「神」が介在しない。蒸気機関を理解するためには「神」はむしろ邪魔だ。「神」を意図的に排除することで、蒸気機関の理解が進み、効率が向上し、経済が拡大した。
その経済の拡大の中で、「教育」が「宗教」から分離し、「科学」が民主化した。最終的にも「科学」の民主化が、決定打になった(私見)。
事実、19世紀までの「科学者」はほとんどが「貴族」であった。20世紀にはいるとほとんどの「科学者」は「一般人」である。
「科学」と「宗教」の違いと、離別の歴史を議論する。「科学」と「宗教」の違いはただ一つ。「神」のような実証不可能な存在や現象を前提とするかどうか、ということに尽きる。
「科学」と「宗教」の対立の典型例は地動説に関するガリレオの裁判に見ることができる。じつのところ、当時の知識では地動説と天動説のどちらが正しいかということの結論を得るのはかなり難しかったはずだ。なので、実際の裁判では、裁判手続きが正当なものかどうかということが主に争われたらしい。
実際、天動説でも天体の運動は記述可能だ。もちろん地動説の方がシンプルであるが、計算結果はほとんど違わない。でも今の僕らは地動説が正しいと信じて疑わない。でも本当は天動説が正しい可能性も微レ存している。僕たちが地動説を信じる本当の理由は、地動説の方がシンプルだからだ。
決定打となったのはニュートンによる万有引力という考え方だ。万有引力というたった一つの「原理」を認めるだけで、すべての天体の運動を説明することができて、それが地動説と同じものだからだ。なるべく少ない仮定で現象を説明できるならば、その説明は高確率で正しいとする考え方を「オッカムの剃刀」と呼ぶ。ただし、「オッカムの剃刀」は経験則でしかない。僕たちの「信念」は、最終的には「経験則」に依存している。そういう意味では「科学」と「宗教」に違いはないかもしれない。かつてアインシュタインは記者から「あなたの宗教は何ですか?」という質問に「科学」と答えたそうです(アインシュタインはユダヤ人なので、記者はユダヤ教という答えを期待した)。
「科学」が「科学っぽい何か」と決別するのは実はもっともっと困難だった。典型例は「化学」と「錬金術」の決別の歴史だ。18世紀まで人類はアリストテレスの四元素説を信じていた。一石を投じたのはラボアジェ。四元素のうちの一つ「火(フロギストン)」が「光」と「カロリック(熱素)」からなるとした。今の僕たちからするとまだまだおかしな説ではあるが、重要なのはアリストテレスに盾突いた、と言う事実だ。かのニュートンですら、晩年は錬金術研究に明け暮れていたのだ。
最終的に人類は錬金術を捨て化学を確立した。そのプロセスは「実験事実に基づかない理屈」を徹底的に排除するということだった。それにより膨大な錬金術研究の資料をゴミとせざるを得なかった。これは恐るべき損失だったはずだ。そうした身を切る改革によって19世紀には「化学」の原型が確立した。
「科学」とは「客観的事実」のみから出発し、論理を重ねて構築された知識体系である。正しいか正しくないかを決めるのは、「神」でも「人」でも「裁判」でもなく、「実験事実」である。
理系学生にとっての難敵、微分方程式にまつわる話。論点は2つ。僕らが学ぶ微分方程式の解法は一体何なのか。物理において微分方程式が頻出するのはなぜなのか。これらの2つの疑問に答えることがテーマである。
僕たちが教わる微分方程式の代表的な解法は「一般解」を利用するものである。「一般解として~を仮定すると、」で答案が始まる。普通の命題であれば、「~を仮定すると」で始まれば「矛盾するので、~は正しくない」あるいは「xxが成立するので、仮定は正しいと結論される」と結ばれる。つまり、仮定は検証の対象である。しかし、微分方程式の解法では、「仮定」のまま解を導き、それをそのまま「解」としてしまう。「仮定」の検証は行わず、「仮定」が正しいとしたときの結論を採用してしまう。もし「仮定」が正しくなかったら結論は変化するし、もし別の「仮定」が存在したら、別の結論が導かれるかもしれない。そうした可能性を全然考慮していないのに、「解法」としてよいのか、というモヤモヤがある。
そのモヤモヤは正しくモヤモヤで、「一般解」という「仮定」が十分に正しいわけではなく、別の「仮定」が実際に存在し、別の「解」が存在しうる。だから全然解けていないのだ。
こうしたことが起こるのは、僕らが知っている「一般解」は「本当の一般解」の省略形であるからだ。ぶっちゃけて言うと、「本当の一般解」はフーリエ級数である。フーリエ級数の特別な性質によって、フーリエ級数の省略形を使うだけでフーリエ級数をそのまま使った時と同じ結果が得られることが保証されている。なので、僕たちは省略形を用いた省略された手順のみを学ぶ。ただし「本当の一般解」はフーリエ級数なので、解として調査できる範囲は周期関数だけである。しかしながら、解法の中で周期に関する条件が導かれるので、ほとんどの関数を調べたことになる。でも調べ切れていない可能性は否めない。
水素原子モデルのシュレディンガー方程式を解く際には、球面調和関数とルジャンドル陪多項式というヘンテコな一般解が用いられる。ここから、一般解に多様性があることがわかる。どんなものが一般解として使えるのか、その基準は何なのか?結論すれば級数展開はすべて一般解として使える。知られている級数展開はせいぜい30くらいなので、シュレディンガーはそれらの多くを試したに違いない。そして驚くべきことに、基本的にどんな級数展開を用いても微分方程式を解くことができる。得られる解の見かけは違うこともあるが、計算すればすべて同じになる。ただし、ある級数展開での解は単純だが、べつの級数展開ではうんざりするほど複雑な解になったりする。もちろん、単純な解の方が都合が良いので、僕たちはそちらを採用することになるだろう。これはすなわち「オッカムの剃刀」である。
20世紀初頭にもたらされたネーターの定理が「科学」とくに「物理」の世界を決定的に変革した。ネーターの定理の主張は、空間の対称性と保存則が対応するというものである。実際、エネルギー保存則や運動量保存則などが「いつでも実験結果が同じ(時間併進対称性)」とか「どこでも実験結果が同じ(空間併進対称性)」から得られる。こうした対称性はあまりにも当たり前で、ほとんど仮定すら必要ないほどだ。そうした対称性から直ちにエネルギー保存則や運動量保存則が導かれるのは驚異的である。こうした「物理法則」を確立するのに人類は何百年も費やしてきたからだ。ネーターの定理はそれらの努力が必要ないとするものだ。
だから、それ以降、理論物理の世界では宇宙の対称性を探ることに注力している。宇宙が4次元なのか、5次元なのか、11次元なのかが真剣に議論される理由は、それが明らかになれば宇宙のすべての法則を導き出せるかもしれないからだ。
そしてネーターの定理は物理法則が基本的に微分方程式になることを運命づける。保存則とは系が変化した際に変化しない「保存量(数値)」が存在することを主張する。言い換えると、保存量を$H$とし、系のパラメータを$x$とすれば、$\frac{\partial H}{\partial x}=0$が成立する。つまり微分方程式だ。ここに至り、僕たちは微分方程式から逃げられない運命にあることが証明される。
微分方程式を解く際の「一般解」には選択肢がある。ある一般解で解けたとしても、別の一般解で見かけが異なる解が得られる。この事実は、物理現象の解釈には多様性がある、ということを意味している。「科学」とは「世界を理解する唯一の正しいやり方」を見つけ出すことだと短絡しがちだが、一般解の選択肢は「世界を解釈するやり方」であり、それに多様性があるということは、「世界を理解する方法はいろいろあり得る」ということを意味する。
内容そのものはすでに「レオロジー測定は分光法か?」というエッセイで述べている。
分光とはエネルギー交換(相互作用)の周波数依存性を調べる手法であると総括することができ、そういう意味では粘弾性測定も分光法に分類できる。分光法をこのように理解すると、Higgs粒子を探すために、物理学者たちはLHCを使って「真空」を「分光」したと理解できる。
本当言うとこの話には続きがある。なぜ相互作用には周波数依存性があるのだろうか、という疑問である。複素数の物性値が得られる粘弾性スペクトルや誘電緩和スペクトル、インピーダンスなどにはKramers-Kronigの関係というものが存在し、物性値の実部と虚部を相互に変換できるという数学的要請が存在する。この要請は負の周波数領域で虚部が反転する(複素共役)ということに実質的に等しい。このような関係は、フーリエ空間でヘビサイド関数をコンボリューションするという数学的操作に等しい。ヘビサイド関数の逆フーリエ変換はδ関数を積分したものとほぼ同じである。つまり、Kramers-Kronigの関係は実空間で時刻0以前をゼロとするような関数を乗じるという数学的操作を暗に認めるものである。
これはつまり、現象が時刻ゼロという起点を持つということと同じ意味になる。時刻ゼロから現象が開始するというのは、いわゆる「因果関係」が存在するとすることと等しい。つまり、因果関係が認められる現象にはKramers-Kronigの関係が存在し、対応する物理量が複素数になり周波数依存性を持つ、ということが結論される。つまり、相互作用が周波数依存性を持つのは僕たちの「世界」に「因果律」が存在するからだ、と結論される。
因果律の存在は、「時間併進対称性」の修正につながる。つまり、時刻ゼロ以前には現象が存在しないので、観測結果は異なるだろう。言い換えると、現象が存在する範囲においてのみ「時間併進対称性」が認められる。手放しの「時間併進対称性」ではなく、因果律の範囲内でのみ機能する「修正時間併進対称性」が正しい、となる。
実のところ、この「修正時間併進対称性」はビッグバン宇宙論と相性が良い。ビッグバン以前には世界が存在しないので、ビッグバンをまたぐような「時間併進対称性」は無意味だ。これはビッグバン以前の宇宙の議論をすることは無意味であり、そのような時刻ゼロをもつ宇宙を考えるだけで十分である、ということを保証する。
ここに至り、因果律すら物理法則の一つであるという解釈が可能になる。「科学」は「客観的事実」のみで構成された理論体系であるが、客観的事実の構成要件として、「いつ」「どこで」実験しても「同じ結果」が得られる、が挙げられる。「いつ」「どこで」は「時間併進対称性」と「空間併進対称性」である。そして「同じ結果」は「因果律」と言い換えることができ、「修正時間併進対称性」と言うことになる。いずれも僕たちの住まう宇宙の「構造=対称性」から導かれるものである。逆に言うと、「時間併進対称性」や「空間併進対称性」、「修正時間併進対称性」などが存在しない「宇宙」では、「客観性」の存在が否定される。そのような「宇宙」では、僕たちの信じる「科学」に関する議論全てが全く意味をなさないだろう。そのような対称性をもつ宇宙を構成できるのかどうかは僕にはわからないけど、そのような世界は多分カオス以外の何物でもないに違いない。
「僕の」ではなく、「ラボの」話です。
研究ノートは研究者にとってもとっても大事な「モノ」です。僕の場合はほぼ日記ですが、日々の活動・アイデアなどをすべて記録として残すことは、研究者の常識です。そういう大事なものだからこそこだわりを持って選定しないといけません。
僕が考える研究ノートに必須の要件は次の3つ。
紙のノートは必須要件①が怪しいけど、そのほかは完璧。だから少し条件の付いたノート(糸掛&ページ番号印刷)が今でも用いられていると思います。でもきちんと訴訟に耐えるには、ノートにシリアル番号を付して、そのシリアル番号を別のノートで管理しないといけません。ま、ちゃんとした管理をしている大学の先生を僕は見たことありません(いや、奈良先端大学院大学は全学の制度としてこれを実施してましたね。失敬)。
昨今は学生のノートの管理も徹底せよと言われているので、学生が卒業するときに学生の研究ノートを奪い取らねばなりません。気の小さな僕はそういうのが心苦しいのです。実際、僕が4回生の時のラボでは研究ノートを研究室において出ないといけないルールでした。ノートを手放すのはちょっと寂しかったです。働き出してからは、専門の業者がマイクロフィルムに撮影したりすることがありました。大学のラボレベルでは、そういうのは高コストすぎてできませんから、研究ノートのデジタル化をいろいろ考えていたわけです。Blogなんかのシステムはラボノート向きではありましたが、必須要件①を満たすのがとても難しいので、使えません。
ひところは、Anoteペンという技術を使ったノートを使っていました。特殊なノートと特殊なペンの組み合わせで、ノートに書いた文字がスキャンなしでデジタル化されるというものです。紙のノート(しかもノートは糸掛でページ番号も印刷済み。ラボノートとしての体裁を見たいしています)が本紙で、自動的にデジタルのコピーができるわけです。
2~3年使っていましたが、デジタル化したデータの管理が難しいことと、写真や印刷物を貼れないことが欠点でした。また、器材コストが高く、学生に使わせることは難しいというのも問題でした。
僕は基本的にAppleが嫌いです。わずかな技術的優位性を誇大に主張するやり方はフェアじゃないと思うし、なにより製品が割高です。また、Appleの熱狂的なファンの人たちがちょっと気持ち悪いと感じるのも理由の一つになっています。カルト宗教みたいだし。
そういう偏見を僕は持っているのですが、Apple Pencilだけは素晴らしいと言わざるを得ません。ペン型デバイスはそれまでもたくさんありましたが、筆記用具としての使い心地はどうしても劣るものでした。ラグが大きかったり、位置ずれが顕著だったり。でもApple Pencilは通常の筆記用具と同じような使い心地を提供してくれます。Apple Pencilなら数式を手書きできると思いました。
Apple Pencilを使えば、電子ノートの欠点の一つである「手書きの気持ち悪さ」が解消でき、必須要件②を満たすことができると僕は考えました。つまり、手書き最強ツールであるApple Pencilを擁するiPadを研究ノートに使おうと考えたのです。iPadであればモビリティも十分です。
また、PCでも同じように使えた方が良いに決まっています。iPad含むいろんなプラットホームで動作するノートアプリは大体クラウドなので、Webアプリがあったりして、PCでも動作することが多いです。
クラウドだと、「最終更新日」は大体残っています。だから、必須要件①もかなり満たします。しかし、クラウド故に簡単に更新できて最終更新日が更新されてしまいます。更新されたデータは訴訟能力を失い、致命的です。でも、ノートアプリにロールバック機能があって、特定日付の状態を取得できると、確実に目標日時の状態のノートを入手できることになります。クラウドデータの日付の改ざんはユーザーには無理ですから、ノートの日付はノートアプリ提供会社と言う第三者が保証する価値になります。これ以上の訴訟能力は考えられません。つまり、完全ロールバック機能をもつノートアプリは必須要件①を完全に満たすわけです。ということで、オンライン・クラウド型のノートアプリをいろいろ調査しました。
その方面の需要は結構あるらしく、電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)という分野があります。最大手はBiovia ELNというものらしいです。iPadやAndroidのアプリはありません。PCオンリーで、結構高価そうです。初期導入コストは最低でも数十万円だと思います。
化学系に最適とうたっているのが、ChemDrawとの連携を売りにしているSignals Notebookです。これも携帯端末では使えません。出先の実験で非LAN環境(屋外とか)での使用を想定するとこうしたELN専用システムはダメっぽいです。企業だとセキュリティの都合で嫌がるからかな。つまり、一般企業向けのELNは必須要件③を満たしてはいけないということです。しかたがないので、一般向けの電子ノート(研究用ではない)を選択しました。
電子ノートアプリにはいろいろあるのですが、流行はNotionです。Notionはとても評判が良いのですが、残念ながらロールバック機能がないのでNGです。Microsoft Officeに付属のOneNoteもよいのですが、ロールバック機能が30日しかないので、裁判対策としては使えません。実は数あるノートアプリの中で十分なロールバック機能を持つのはEvenoteの有料プランのみです。
昔はEvernoteが最強と言われていましたが、Notionなどのライバルアプリの登場で苦戦を強いられました。一時は経営が危なかったらしいです。危なかった理由はシステムの陳腐化とストレージの枯渇でした。そこで、有料プランに極振りすることでユーザーのふるい落としを行い、経営を安定させたようです。完全なロールバック機能って無限に容量を食いますからね。2022年あたりから無料プランの貧弱化と有料プランの値上げが行われ、本当にヤバかったです。そして2023年後半あたりから、急激に機能強化が行われました。2025年現在、機能面では他のノートアプリに劣る要素はほぼありません。値段以外は。
僕のラボでは学生全員に研究費で有料プランを契約させています。こうした個人に紐づく「資産」を研究費から出すのは難しいのですが、大学との交渉を頑張りました。ちゃんとしたルートを構築し、適正に運用していますよ。
まずは学生に有料プランの契約方法を説明します。オンラインサービスの契約は個人資産になるため、通常の方法では大学から費用を支払うことができません。特殊な事情があるとして、立替払いをすることになります。しかしながら、学生は立替払い申請をすることができません。なので、僕が代理で申請することになります。もし、契約途中に不備があって立替払いが認められない場合は、道義的に僕が費用を被らないといけなくなります。さすがにつらいので、契約の不備が発生しないように学生に入念に手順を説明します。
実は購入経路によって結構な差が出ます。重要なのは、学割適用することと、Apple経由での契約にしないこと、です。Apple経由だとおよそ15%高くなります。そのためGoogle PlayかWebから契約させます。契約時の支払い画面、契約後のライセンス確認画面を提出させます。費用は僕が現金で立て替えます。その際、学生が僕から支払いを受けたという「申立書」なるものを学生に署名させます。
ライセンスのIDはメールアドレスなのですが、これには大学のメールアドレスは使わせません。というのも、大学のメールアドレスは進学や卒業でわりと近い将来使えなくなるからです。ライセンス契約のIDは学生のプライベートアドレスにしています。
プライベートアドレスだと、学生の名前と一致しません。なので、別途学生の氏名・学籍番号、ライセンスID(プライベートアドレス)、支払い金額の表を作成します。これらの処理を集めて、大学に立替申請をします。この一連のプロセスは大学の経理と相談して構築しました。事前相談なしにやるといろいろ問題になると思います。こうした手間暇は運用コストの一部であると割り切るしかありません。
学生の研究ノートは僕が月初めに当月分を配布します。こうすることで、学生の研究ノートは僕の管理下に置かれます。管理下に置かれるというのは、僕はいつでも読み書きできるという意味です。できるのですが、学生の要請なり必要なりがあるときのみ、学生のノートの内容を見ます。研究ノートであってもプライバシーは基本的に守るべきだと思うからです。誰かに見られる可能性があるノートだと思うだけで、恥ずかしいことは書けないし、書くときにはちょっと考えてから書くようになるでしょう。でもそうしたちょっとした気負いがノートへの記入をためらうように働くかもしれません。なので、僕は学生のノートを基本的に見ないし、学生にそのように公言しています。
さらに、書き込むことはほぼありません。学生に対してノートに書く内容を指示することがありますが、書き込みは学生にゆだねています。何か重要な発見があったと学生から報告があれば、僕が日付入りで手書きサインを入れます。これは特許訴訟対応として必要な手続きですから、しょうがないです。
ちなみに厳密なルールでは研究ノートには毎日上司の日付入りサインが必要とされています。ただ、それは「上司が見た証拠」ではなくて、その日までにノートの当該部分まで記載がなされていることを誰かが確認したという意味になります。ノートの一文一文に秒単位の記録が付属する完全なロールバック機能を持つ電子ノートにおいては、毎日の上司のサインは全く必要ありません。上司のサインがあっても過去の記載部分にちょっとした書き足しはできますからね。上司の日々のサインがあっても訴訟でひっくり返されることは普通にあると思います。ロールバック機能つき電子ノートにかないません。
Evernoteはスマホでも書き込めるので、スマホで写真を撮ってそのままノートに記載することができます。モビリティーという点では最強と言えます。スマホ・PC・iPadのそれぞれで少しずつ機能的に違う部分があるのですが、有料プランではすべてのプラットホームを併用できるので、問題ありません。
手軽に写真をノートにアップロードできるというのは案外メリットが多いです。測定結果のグラフを研究ノートに貼りたいというシチュエーションが多くあります。紙のノートだと、印刷して切って貼って、というプロセスが必要です。でも、スマホで写真を撮れば、ラボノートに切り貼りする必要はありません。PC作業中の画面写真もすぐにコピペできます。なんなら、解析途中のファイルのバックアップにも使えます。
論文のPDFもラボノートにアップロードすれば、すぐにみんなで共有できます。研究報告会の資料はノートにアップロードするルールになっています。
週1回英語の本読み会をしているのですが、本読み会後に確定した翻訳を専用ノートにみんなで書き込むことで、徐々に翻訳本ができます。
学生個人のノートの使い方は基本的に自由ですが、見本として僕のノートは学生全員が読めます(書き込みはできません)。学生は僕のノートを見本として研究ノートの書き方を学べるようになっているのです。ちなみに諸事情により学生に見せられないノート(個人情報や試験関連)は別に作って管理しています。
Evernoteの唯一かつ最大の欠点は値段が高いことです。無料プランは本当にお試し版で全く実用になりません。そして、有料プランは定価が9300円/年で、驚くほど高いのです。僕のラボは一人研究室(僕以外は学生)なので、全員で10名ほどですが、およそ10万円が年間のコストになるわけです。これはとても大変です。
Evernoteは2024年に入って急速にいろいろな機能強化がなされました。項目の折り畳み機能(WORDのアウトライン表示みたいな使い方)とか、LaTexスタイルの数式とか、気の利いた機能が次々追加されています。LaTexスタイルの数式機能は実用までは遠いレベルですけど、そのうちに使い物になると期待しています。
AI関連機能の強化も進んでいて、手書き図表や写真の文字起こし、会議音声からの議事録作成なんかもできます(十分とは言えませんが、下書きには使える程度)。電子ノートなので、検索とかリンクとかいろいろ使えるので、紙のノートよりはるかに機能的です。
手書きメモの文字起こし機能も結構育ってきていて、キーワードとかきちんと拾ってくれます。数式の使い勝手はまだまだダメですけど、将来はどうなるかわかりません。いらない機能もいろいろ追加されていますが、重要な機能も年々洗練されてきていますので、ちょっと期待しています。
僕がEvernoteでの研究ノートを本格導入したのは2018年です。2025年の現在、8年目ということになります。2018年当時は、僕だけが3500円/年程度の有料プランを自腹で契約し、学生たちは無料プランでした。
Evernoteは最近どんどん高価になって、本当に苦しいのですが、乗り換え先がないことと、すでにデータの蓄積があることの2つの理由によって継続使用しています。現在の標準価格は9300円/年です。
機能的にはとても満足しています。運用面のノウハウもたまっていて、使い心地はよいのです。すでに10年くらいの運用実績があって、過去の研究ノートが積みあがっています。学生10人×12月×8年=約1000冊というノートがあるわけです。別のサービスに乗り換えるのはちょっと難しいです。もうEvernoteと心中するしかないレベルです。
以前のEvernoteは少しダサい感じがしましたが、今のEvernoteはすごくモダンでとても使いやすいです。一つのノートをみんなで編集するという機能があって、ちょっと楽しいです。それぞれの人が違う色のカーソルで表示していて、みんなの編集が瞬時に反映されます。誰がどの位置を編集中かがわかるので、そこを避けて別の部分を編集するということがストレスなくできるのです。なんだかおもしろいですよ。
色んなファイルをアップロードできるので、作業中のファイルの履歴として活用することもあります。つまりクラウドストレージとしての側面があるわけです。すると学生は研究室での作業を自宅に持ち帰るのが簡単になるわけです。
学生にファイルを送るのも、メールだとサイズを気にするところですが、Evernoteだとそのあたりが少し緩くなります。学生のノートに僕が直接アップロードしたり、僕が欲しいファイルを学生にリクエストすると、学生の自分のノートにアップロードしてくれるわけです。そのときにファイルに関するいろんな情報を付けてくれてれば、僕は続きの作業ができます。そして、そのやり取りは記録に残るわけです。
研究ノートの電子化・オンライン化・クラウド化は昨今の研究環境の当然の流れであり、すべての研究者に関係のあることだと思います。特に大学では研究不正を防ぐために研究に関する情報の管理が強く求められています。うちの大学のように小さくてのんきなところは、文科省の引き締め要求をそのまま末端の教員に垂れ流し、「各自ちゃんとするように!」と伝えるだけしかしません。具体的にどうしろとかないわけです。やり方を示さず、問題が起こったときに追求だけするぞ、と脅すわけです。もう、やってられません。
情報管理を徹底するには、コストが発生します。実験データを10年保管とか、どれだけのストレージが必要になることやら。そしてそのバックアップコストも発生します。そのコストは大学の要請にこたえるためのものなので、大学に請求できるかというとそうなりません。また、どうすれば十分か、ということも示されていないので、僕たちはとても不安なのです。
というわけで、僕は自衛のために年間10万円を払うわけです。自分の研究費を削って。ちょっと納得がいかない面もあります。他の人たちは相変わらず紙のノートを使い、学生のノートを召し上げるわけですが、それは倫理的にちょっと怪しいと思います。実際、紙のノートも専用の研究ノートでないので、訴訟能力が全くなかったりします。それでええのか?
コクヨの研究用ノートは一冊2500円で年間一人1冊くらいです。厚みは1cmくらい。うちは10人くらいなので、年間10cm成長します。10年で1m分本棚を圧迫します。早晩場所問題が発生します。研究ノートは大学の資産なので、そういう書類系の資産は図書館が管理すべきです。うちの大学は教員が300人くらいいますから、年間30mの本棚が必要になります。100年とか保管しだしたら、3kmですよ!
電子研究ノートというのはスケールメリットが大きいので、大学全体みたいな組織単位で契約すれば多少はコストが圧縮できるはずです。一人当たり年間2500円というのが損益分岐点だと僕は思っています。かつてのEvernoteの価格はそのくらいだったんですけどね~。
研究ノートは裁判の証拠としての機能がありますから、電子ノートで代用するにはロールバック機能が絶対必要です。従ってロールバック機能を阻害する機能は必要ありません。
ロールバック機能を阻害する機能で代表的なのが、データベース内容の引用機能です。データベースはデータを細分化し、管理し、引用を容易にする仕組みです。データ単位(レコード)の登録・更新に日付や履歴が完備しているものは基本的にありません。更新履歴なんて情報は冗長性が高く、大量のデータを整理・保管することが使命のデータベースにとって極めて不利な機能です。データベースではレコードをさらに細かなデータに切り分けますから、更新履歴情報はレコード本体の何倍にもなります。例えば、何月何日の状態にデータベースをロールバックするなんて作業は普通はできません。
電子ノートにデータベース内容を動的にリンクする機能があった場合、その電子ノートは過去の状態を復元することができなくなります。だから、電子ノートサービスの中に動的なデータベース引用機能が含まれていると、裁判の証拠として使えなくなる可能性があります。
調べてみると、Notionが内部に統合されたデータベースとの連携機能を売りにしていて、これはダメです。Notionはロールバック機能がありませんから、そういうことができるわけです。OneNoteは外部データベースの引用はできますが、統合はされてません。共有ノート機能もあるので、ロールバックが30日とか限定されていなければ使えるんですけどね~。
過度な表現力もノートには必要ないと思っています。手書き機能が使えれば表現力の部分は手書きで補えるからです。高い自由度が必要ならばワープロやパワポを使った方が、再利用性も増します。そうして作成したファイルをノートにアップロードすればよいだけです。PDFにしておけば、フォーマット済み文書の中身が、たいていのノートアプリで直接見えます。
必須な機能は以下の通り
あったら良い機能は以下の通り
ない方が良い機能は以下の通り
現状ではEvernoteが最適解だとおもっているんだけど、GoodNoteとかも有料プランなら無限履歴があるっぽい。その場合のコストはEvernoteとどっこいどっこい。どうしたものか。
学校の先生は生徒に授業を行うだけではなくて、成績をつけるために試験もします。試験内容は教材業者のものをそのまま使う(主に小学校)ことも多いですが、自分たちで作成することもあります。そういう行為を「作問」と呼びます。
そういうことなので、作問は授業と並んで先生たちの日常業務なのですが、教職課程(学校の先生になる資格)を終えた学生に尋ねると、作問の勉強はしていないと皆証言します。大学ではかなりきちんとした教職課程のカリキュラムが定められており、いろんな勉強をします。もちろん授業というものがどのような構成になっているかとか、代表的な教授法とそのポイントなんかも具体的に学びます。しかし、「作問」は習わないそうです。
作問の場面は結構あります。定期試験の作問は代表的ですが、機会は多くありません。機会が多いのは「小テスト」の作問です。作問は簡単だ、と思ってみんななめていると思います。
学校で実施する試験には主に3つの種類があります。入学試験など行われる学力判定試験、期末テストなどの定期試験、小規模で日常的に行われる小テストです。これらは同じような形式で実施されますが、目的が明確に異なり、それに応じて内容が調整されねばなりません。
学力判定試験は、受験者の学力を計量する目的行われます。理想を言えば得点が受験者の学力に比例するような結果を望むものです。満点以上の学力は計量することができないため、満点がほとんど取れない設定になっていることが普通です。また、判定したい学力の範囲の中心あたりが平均点になるように調整されます。さらに、得点分布がなるべく広い(標準偏差が大きい)ように問題が設定されます。一方で、得点と学力に精密な正の相関がようにも調整されます。これは得点分布の広さと両立しにくい特性であり、私立大学の入試ではお粗末なものが散見されます。
一方、小テストは、授業内容に関して受験者の理解を確認するもので、得点に応じたフィードバックを受験者に促す目的で行われます。理想的には全員満点を目標にします。平均点が低い場合は授業が失敗していることを意味します。なので、小テストで試験されているのは本当は教師です。そんなわけなので小テストの点数を成績に反映させるというのは望ましくありません。
定期試験はこれら二種類の複合で、授業内容に関して受験者の理解度を計量することを目的としています。授業内容に関して受験者の理解度のチェックは小テストであるということを指摘したことからもわかるように、定期試験は小テストの集合体として構成されるべきものです。ただ、生徒の意欲と好奇心を刺激するための設問を追加してもよいでしょう。
好むと好まざるとにかかわらわず、試験には受験者の能力を計量するという機能があります。一方で体調や運で結果が変化するというノイズも存在します。なので、ノイズを減らし、測定精度を向上させる努力が常に求められます。
ノイズの原因として体調と運を挙げました。体調は受験者の問題なので、試験を実施する側にはどうしようもありません。なので、これは無視します。一方で運は可能な限り排除すべき要素です。運の要素を排除する基本的な手段は選択問題を減らすことです。
共通一次試験でマークシート方式が導入されたときに大きな議論になったのが、運の要素です。単純な選択問題では運の要素が大きなウェイトを占めてしまいます。また、マークの記入ミスも運の要素となります。現在の共通テストでも採用されているマークシート方式は試験方法として根本的な問題を抱えていることになります。
テストにおける運の要素も信号理論におけるホワイトノイズのようにふるまいます。信号理論の帰結としてノイズを抑えて信号の信頼性を向上させる単純な方法は、計数回数を増やすことです。試験においては問題を多く設定することに対応します。単純選択問題は解答に要する時間が短いこともあり、同じ方式の設問が2~4個設定されることが普通です。こういう事情があるので、社会科目では問題量が増え、設問が細かくなりました。さらに問題に採用する範囲が枯渇し、重箱の隅をつつくようなマイナーなトピックスが多くなった結果、大きな批判を浴びてセンター試験は廃止に追いやられました。
共通テストでは、さらに複数選択問題(選択する数が不明)や、複式選択問題(2つ以上の選択肢全てを正解しないと得点にならない)などを採用して、運の排除を試みています。評判は良くなさそうですけど。
マークシート方式のもう一つの問題は、難易度を上げられないことです。試験時間は決まっているので設問数を無限に増やすことはできません。そのため単純選択方式で計量できる得点の範囲は自動的に定まってしまうのです。その結果、得点分布を大きくすることができません。
様々な試行錯誤があったのだと思いますが、センター試験の作問者たちは禁断の間違ったやり方を採用してしまいました。それは「依存性」です。ある設問に正解しないと次の設問に正解できないという設定は得点分布を大きくするのに有効です。しかしながら、運の要素を増大させます。その結果、得点分布が大きくてもノイズも大きくなり、測定精度が低い試験となりました。苦労したのは受験生たち。最悪です。
おそらく作問に関するノウハウが、体系化された学問として教育されてこなかったからこうした良くない試験が横行しているのだと僕は思います。そうした作問教育の不在は実際に教職課程の学生が学んでいないという事実から明らかであり、僕の子供たちに施された学校教育でも感じました。定期試験の作問がダメすぎると高校の先生に面と向かって叱責したことすらあります。
作問を考えるときの基本は「確率・統計」です。試験では多くの受験者が存在し、試験の結果は統計として整理できます。作問は試験結果の統計を左右する要素と位置付けられます。
受験者の50%が正解する問題が1つあったときの平均点は、50点(100点満点)になります。標準偏差は50($=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}$)点です。このように、それぞれの問題に関して、問題の正答率(得点率)で標準偏差は自動的に定まります。
受験者の50%が正解する問題が$N$個あり、すべての問題の配点が同じだとすると、1問当たりの配点は$100/N$です。一問当たりの標準偏差は$\sqrt{(100/N)^2\times0.5-(100/N)^2}=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}/N=50/N$となります。統計学の定理により、標準偏差の2乗に加法性があるので、テスト全体の標準偏差は$\sqrt{(50/N)^2\times N}=\sqrt(50^2)/\sqrt{N}=50/\sqrt N$となります。つまり、問題数が多くなると標準偏差が下がるということです。
共通テストでは平均点50点、標準偏差10点を目指しています。要は、得点と偏差値が一致するように設計しているわけです。文科省の役人あたりが、どうせ成績は偏差値を目安にするんだか、得点=偏差値だったらわかりやすいんじゃね?とか言ったんじゃないかな。浅はかすぎる。
先の例で、標準偏差が10点に達するのは、問題数が25個の場合です。これはすべての設問の難易度が同程度の場合のレアケースで、実際には難易度にばらつきがあります。設問の難易度にばらつきがあると標準偏差は低下します。つまり、共通テストでは問題数の制限と難易度のばらつきの制限ができてしまっている、ということです。
幅広い分野の習熟度の計測を目的とするなら、難易度のばらつきをなくして問題数を最大化することが理にかないます。一方、習熟度自体の計量を目的とするなら、難易度はばらついていた方が合理的です。その場合は問題数を少なくしないといけません。すると、幅広い分野にわたる問題設定が難しくなります。共通テストの理念としては前者なのですが、共通テストの役割は後者です。平均点と標準偏差に数値目標を設定してしまったために、理念と役割がコンフリクトしているのです。
また、あらゆる測定においてノイズの影響を排除したいように、テストでは「運」というノイズを除去したいわけです。4者択一を基本とするマークシート方式のテストではどうしても運の要素を排除できません。選択式の設問の場合、運の要素があると、平均点が上げ底され、標準偏差が低下します。50%が実力で正解する問題の場合、不正解の50%のうちの25%、すなわち12.5%ほどが「運」で正解します。すると正答率は62.5%になり、平均点は62.5点になります。標準偏差は約48.4で元々の50より下がります。
平均点を50点に戻そうとすると、正答率を33%程度にしないといけません。この時の標準偏差は約70でかなり難易度が上がります。つまり、相当難しい問題が混ざってくるということです。
そもそも平均50点、偏差値10点というテストの設定にどれほどの意味があるのでしょう?偏差値$X$と確率$P(x)$の間には大雑把に言って次のような関係があります。
\begin{equation}P(X)\approx 1/10^{|X-50|/(10\sigma)}\end{equation}
ただし、$\sigma$は標準偏差で、$P(X)$は偏差値がXを超えている確率です。偏差値70だと指数部分は2になり、$P(X)=1/100$です。正確ではありませんが概算ではあっているとします。ここから平均50点、偏差値10点というテストにおける上位10人の得点を考察してみます。共通テストの受験者数はおよそ50万人なので、上位10人の確率は、10/500000。$log_10{50000}\approx 4.69$なので、$X=97$ということになります。800点満点に換算すると776点で、上位10人あたりだと2点くらいの差で順位がつく計算になります。テストの機能の一つに能力の順位付けがありますが、入試に限っては合否判定あたりの順位付けという意味であり、最上位陣の順位付けは意味がありません。にもかかわらず、共通テストは合否判定に関係しないような成績優秀者の順位付けに最適な設計になっているというわけです。
英語では小テストのことをQuizと呼ぶので、テスト=クイズと短絡しても仕方ないかもしれませんが、いわゆるクイズとテストは全く別物です。クイズとは単なる遊びです。問題に重要な意味があることはほとんどありません。懸賞クイズなんかで、正解に利益が発生することもありますが、不正解で不利益があったりしません。しかし、テストは問題そのものに意味があったり、不正解だと落第や不合格なんていう不利益が生じます。テストには責任があるのです。
テストで生じる利害関係の責任はテストの実施者とテストの作問者が負うことになります。特にテスト内容に関しては作問者に大きな責任があります。作問者はテストの機能や役割をきちんと理解してその機能と役割にふさわしい問題を設定しないといけません。そのためにはテストをどのように設計するかということが大事になります。設問の具多的な内容より前にきちんと設計することが必要です。その設計に応じて、設問の難易度や数が決まるのです。
誰しもテストを受けた経験はありますが、テストの作問をした経験はあまりありません。教員等になって、作問をする立場になって初めて作問のミッションが与えられるわけで、作り方とか知らないわけです。適当にクイズっぽいものを並べたら、それなりにテストっぽいものができるので、それで安心しているというのが大半だと思います。でもそんなテストをさせられる側が不幸でなりません。作問者はテストされる人たちの利益と不利益を差配する立場にあり、不手際があれば訴えられてもおかしくありません。そういう真剣さが作問者に求められると思うのです。
そのためにも、テストの作り方について、きちんと体系化された教育がなされるべきだと僕は思うのです。
僕は「科学」について、いくつか「非主流」な考え方を持っています。「似非科学」との境界ギリギリを攻めていると言うとわかりやすいかも。僕自身がそれに傾倒しているわけでもなくて、「主流」に対して懐疑的な立場を担保していて、「主流」のアンチテーゼとしていくつかの仮説を持っているという程度です。だから、僕の「非主流」な考え方が正しいと強弁することはありません。でも、つねにそういう「余地」を残すことが、正しい科学につながると思うのです。
かつてアインシュタインはニュートン力学に盾突きました。時間は絶対的なものではなく、空間は平坦ではない、という考え方です。特殊相対性理論と一般相対性理論ですね。ニュートン力学はおよそ300年にわたって正しいと信じられてきました。だから、ニュートン力学にいちゃもんをつけるのはとても勇気が必要だったと思います。アインシュタインが特殊相対性理論を発表したとき、アインシュタイン自身は理論の正しさにどれだけの自信があったのでしょう。僕はそんなに自信を持っていなかったかもしれないと思っています。というのもの、理論物理学者は自身の理論を仮説として提案するのが仕事であり、その仮説が間違っていてもあんまり気にしないからです。ま、特殊相対性理論に関しては、電磁気学においてすでに発見されていたローレンツ変換を電子以外の運動にも適用するような修正なので、当時の物理学者にとっては割と受け入れやすかったのかもしれません。
とはいうものの、当時絶対的に信じられていたニュートン力学という「主流」に対して修正を強いる提案ができたのは、「主流」に対して懐疑的な立場を容認するというメンタリティーが重要だったと僕は思います。アインシュタインが何を信じ、何をなそうとしていたのかは凡人の僕には思い及ばないですが、「主流」に対して何らかの不満があったのでしょうね。
今朝、以下の記事を見つけました。
「物理学者らは未だ量子力学の奇妙さに困惑しており、その真の意味について合意できていないことが『Nature』の調査で判明」
量子力学と言うと、微分方程式と並んで、多くの理系大学生に絶望を与えてきた分野です。どこまで勉強したとしても、「波動関数」が何かわからないし、「スピン」も実体が説明されません。そのくせ、いろんな分野に量子力学の考え方が幅を利かせます。よくわからないけど、受け入れるしかしょうがなくて、みんな正しいと言っているので大丈夫なはず、という分野だと僕は思っています。そして、僕が感じていることは正しいということが、Natureの調査で判明しているという記事です。
日本の同僚たちとの会話で、日本では確実に「そうだ!」とわかっていました。全世界的にそういう状態になっているということは家内(モスクワ大学卒)との会話から感じていましたが、Natureによる全世界的な調査でそれが裏付けられた形です。
量子力学にまつわるあいまいさは今に始まった話ではありません。そもそも波動関数の意味と実体について、考案者のシュレーディンガー自身も良くわからなくて、当時の物理学界での最高権威者であったニールスボーアに教えを乞うたという伝説があるくらいです。その時のボーアの説明は、現在コペンハーゲン「解釈」として多くの科学者に受け入れられています。そう、「解釈」なのです。「仮説」よりはマシですが「説」よりも確度が低い説明という扱いなのです。そして「解釈」はいまだに「解釈」であって、確定した説明になっていません。だから、量子力学はちゃんと理解できなくてもしょうがないのです。
通常、科学の世界では研究が進むと理解が深くなり、より世界が整理されていきます。しかし、量子力学には当てはまっていないようです。
量子力学では「観測」によって事象が確定するという奇妙なふるまいが知られています。これにより波動関数は何らかの確率を表すのだと解釈されています。波動関数が確率的にふるまうのは、観測にかからない「隠れた変数」が内部に存在し、それによって観測結果が変化するのだ、と説明する仮説がありました。そのような「隠れた変数」が存在するならば、特定の不等式を満たすはずだということがスチュアートベルによって示されました(ベルの不等式)。このあたりの議論は極めて哲学的で科学の範疇に収まらないと思われていましたが、当時大学院生だったアランアスペが実験によってベルの不等式が成立していないことを示しました。複数の研究グループによる検証の結果、ベルの不等式の不成立が確定し、「隠れた変数」説が完全否定されました。その結果、波動関数に関する理解はシュレーディンガー以前の混沌とした状態に戻ってしまいました。
この混沌とした状態からトンでも仮説がいろいろ飛び出しました。最も有名なのは「多世界解釈」です。パラレルワールドが実在するとする完全にSFのような世界観をまじめに議論するという、わけのわからない状況が生まれてしまっています。「主流」に余地を残しておくというのは健全な科学の在り方ですが、これはやりすぎだと多く科学者が思っています。
僕自身は「隠れた変数」が存在すると思っています。というかそういうものがなければならないと思っています。実験事実として否定された「隠れた変数」説を改めて支持するというのは科学者として正しい態度ではないという批判はあると思います。
でも僕の考える「隠れた変数」は「観測結果を確定させる」ものではありません。僕は、観測結果は「常に」確定的なんだけど、観測可能な世界の中では確定できない、と考えています。その場合、ベルの不等式は修正を受け、成立しなくなると思っています。
大統一理論の議論中で世界は10次元+1次元であるという説があります。10次元を扱う候補の理論が複数提案されているなかで、次元の選び方を変更すると、候補の理論が相互に変換され、11次元から眺めると一つの理論に見えると言われています。詳しい理論は僕にはわからないですけどね。その余分の1次元とは何だろう?と思うわけです。
どんな理論においても、「時間」は「空間」と区別のつかないパラメータになります。そのような理論においては、過去も未来もすべて確定的な事象になります。つまり、大統一理論が成立した暁には過去も未来も確定してしまうのです。しかしながら、量子力学は「観測」しないと事象が確定しません。つまり、そもそも矛盾をはらんでいるのです。
時間と空間をすべて等価に取り扱う「時空図」を考える(世界を4次元として眺める)と、すべての物体は「線」になります。そして「線」は物体の運動を表すことになります。運動は物理法則に従わなければならないので、「線」にはかなり強い制限が伴います。そしてその線は過去から未来のすべての時間にわたってその強い制限を満たさなければなりません。無数に存在するはずのすべての物体について、そのような制限を「一発」で満たすのは至難の業です。
通常の物理学の考え方であれば、物体の位置や速度が時々刻々変化するとして、時間に関する微分方程式を解くことになります。だから、ある時点でのパラメータがすべて判明すればその後の展開(線)を予測できます。物理法則のほとんどは時間に関して可逆的なので、時間を反転して計算すれば、過去の「線」も遡れます。もし未来や過去において計算が破綻するとしても現在の近傍では問題はありません。
でも「時空図」を描くとき、そこには過去も未来もすべて確定的です。もし遠い過去や未来において現象が破綻する(例えば、ビッグバンとかビッグクランチとか)と、現在の「線」の存在が否定されてしまいます。現在を肯定的に説明するためには、何らかの仕組みによって現在近傍の「線」が確定するような「動的」な仕組みがあるはずだと僕は思っています。「動的」とは通常は時間的な変化を指しますが、「時空図」において時間はすでに使用済みなので、ここでいう「動的」というのは「時間のような何か」を時間に見立てた概念になります。そういう「時間のような何か」が、僕たちに影響する物理法則の埒外にあるもう一つの次元であると僕は思っています。
その「時間のような何か」が変化すると、時空図中の「線」がうにょうにょ動くと考えます。僕たちの主観は「線」に沿って時間方向に移動します。光などの「観測」は「線」と「線」の間をつなぐ「線分」になります。「線分」の両端は発光点と吸収点に対応します。量子力学的には吸収点が「観測」に対応し、吸収点の正確な位置が観測結果に対応します。発光時点と吸収時点における「時間のような何か」が同じであれば、観測結果は「確定的」です。不確定性は発生しません。発光時点と吸収時点とで「時間のような何か」が異なっていれば、観測結果は「別の法則」の影響を受けます。すなわち、「時空図」において「時間のような何か」の変化にともない「線」が変化する「何かの法則」があって、「観測」はその法則に影響を受けると考えらえれます。その「何らかの法則」という僕たちが感知できない全く未知の法則性に支配された観測結果は不確定に見えるでしょう。
このような僕の意見は別に突拍子がないものと言うわけでもありません。アインシュタインが時間と空間の等価性を示した時点で「時空図」の概念は確定的です。時間と空間をともに一つの図の中に収めると、通常の意味での「点」は存在できません。「時空図」中に点が存在するとは、ある瞬間に現れて次の瞬間にはパッと消えてしまう何かの存在を認めることになります。量子的なゆらぎとかの概念かもしれませんが、通常物質ではありえません。「時空図」において、すべての物質は「線」になります。その「線」は過去から未来にずっとつながっているはずです(質量保存則)。
一方、光も「線」になります。光には発光点と消光(吸収)点があるので、「線分」になります。時間と空間を直交座標系にとれば、その「線分」の傾きは光速を表します。この概念は「光円錐」として相対論で導入済みです。相対論では「光円錐」は導入されるけど、物体は依然として「点」として説明されており、あんまりよくないと思います。「光円錐」はとても分かりやすい概念ですが、直交座標系の時空において光線が特定の角度をもつという極めて非対称な現象を認めてしまうという気持ち悪さがあります。これは修正されねばならないと僕は思っています。
「時空図」に光線を描きこめば、線分になるのは自明です。それが直線なのか曲線なのか、円錐なのか、どれが最も自然かと言えば、直線だと思います。そのような図形で相対論を説明する試みもあるのですが、あんまり対称性がたかくないんですよね。だから、「時空図」というものを持ち出す人が少ないのだと思います。
ここで僕が示したいのは僕の主張の正しさではなくて、世間で流通している説以外にも説得力がある説が存在しうるということです。量子力学の理解にあいまいさが残るのは量子力学が難しいからではなくて、もっとよい説明があるのに僕たちが気づいていないだけ、かもしれません。もっとよい説明ってのは、トンデモ学説かもしれません。量子力学だって最初はトンデモ学説だったのです。シュレディンガーが水素原子の電子軌道を鮮やかに示し、炭素の結合手が4本であって正四面体をなすことをうまく説明できたことで、量子力学は正しいとみんなが信じているにすぎません。シュレディンガーも量子力学が完全に正しいなんて思っていなかったと思います。量子力学の理解が難しいのならば、よりシンプルでわかりやすい説明を探し続けるべきだと僕は思います。
微分方程式の議論において、一般解の選択は世界をどのように解釈するかの選択であり、一つの微分方程式が複数種類の一般解によってさまざまに解けるという事実は、世界を解釈する方法は一つだけではないということを数学的に示していると指摘したことがあります。実際、大学院の講義ではその話をしています。これも非主流の考え方ですね。
実際のところ、量子力学は世界を理解するための一つの解釈であり、別の解釈方法も存在すると思います。もしかすると、別の解釈方法の方がシンプルでわかりやすいかもしれません。量子力学がわかりにくいのであれば、量子力学以外の理解の仕方を模索すべきであり、その努力は決して無駄ではないと思うのです。
一般に優秀な人ほど既存の説明をキャッチアップするのに優れます。というのも「優秀」の基準が「既存の説明をキャッチアップする」能力だからです。でもそういうのにすぐれない人が画期的な進歩をもたらすこともあります。
かつてアインシュタインは就職がうまくいかず大学を出てから郵便局に就職しました。郵便局の職員時代に書いた3つの論文こそ、奇跡の年の3論文です。いずれも「既存の説明」をぶっ壊す革新的なアイデアに満ちています。アインシュタインは正直言って「コミュ障」で、「既存の説明をキャッチアップする」能力に劣っていました。自閉気味の人が些細なことにこだわって周囲とトラブルになるというタイプでした。奇跡の年の3論文のうち最も地味な成果がブラウン運動の解明なんですが、この論文のきっかけはなんと浸透圧でした。アインシュタインは浸透圧について理論的な考察を深めた結果ブラウン運動を説明してしまったのです。浸透圧なんて高校の化学で習う内容であり、計算が簡単なことから、試験で出たらラッキー問題扱いです。でも浸透圧とは何なのか、なぜ浸透圧のようなものが観測されるのか、浸透圧にまつわる奇妙な性質はちゃんと説明できるのか、といったことをきちんと説明するのは大変困難です。アインシュタインは心の滓のように引っ掛かっていたそれらの疑問を、希望通りにならなかった就職先でウジウジと考え続けたに違いありません。
浸透圧に思いをはせた科学者はそれまでにもたくさんいたはずです。でもブラウン運動に到達した人はいませんでした。僕も浸透圧を習ったときに「不思議な現象だな」とは思いましたが、真剣に考察することはありませんでした。僕はアインシュタインとの決定的な差をこの時初めて認めました。
相対性理論や光電効果において同じような偏執的な洞察と深い考察を見て取ることができます。その根底には「理解した」として終わりにしないというアインシュタインの独特のメンタリティーがあるのだと僕は思っています。
ひとかどの物理学者にとって「量子力学がわからない」と告白するのは極めて恥ずかしいことです。Natureの記事では1万1千人にアンケートを実施し、回答があったのは千人ちょっととあります。この千人の方々は、ちょっと恥ずかしいけどこの流れに乗れば恥ずかしい告白も目立たない、と考えたはずです。それこそが科学者の良心だと思います。ただ、回答しなかった90%の人々は心配です。
僕たちは民主主義を信奉する国に生まれ、小さい時から学校で民主主義教育を受けてきた。学級会では選挙もどきの多数決を行って、クラスの代表を決めるし、もめごとがあったら多数決で方針を決定するということをずっとやってきた。だから、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義とみなされる。
子供のころはそれでも良いが、大人になっても刷り込まれた価値観によって、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義と考えるようになっている。ベンサム的な幸福論に従えば、多数の幸福を最大化することが社会的に重要なことなのだから、民主主義は幸福を得るための合理的な手段だろう。民主主義を信奉する価値観は僕たちの心のかなり深い部分にまで根ざしていると思う。
でも僕は子供のころから民主主義の欠点を感じてきた。選挙ではよりよい候補者を選ぶのではなく、当選する候補者を選ぶ傾向が強くあることに気づいた。選挙をくじ引きみたいなものと思えば、当たりである当選者を選ぶと気持ち良いものだ。逆に落選に票を投じると自分の行為が無駄になったみたいで悲しさを感じる。
政治家の汚職は定期的に報道される。ま、汚職のようなことがない限り、政治家にはうまみがすくないだろうから、そういうことがあるのはしょうがない気がしている。だからと言ってよくないことはよくないので、そういう政治家や政治団体には投票しないようにしているけどね。政治献金問題をなくすのは実は簡単で、政治献金に少しだけ課税すればよい。政治団体と宗教法人は非課税となっているが、0.1%ぐらい課税すればよい。課税するには金額の申告が必要になるので、闇献金かどうかの区別が簡単になる。そして、政治献金の税率を適用するには献金する側の申告も必要とすればよい。実際、政治献金は寄付の扱いであり、会社や個人が寄付として税金の減免を受けるにはかならず申告しないといけない。だから、献金する側の事務処理は全く変わらない。そして申告漏れに対しては200%くらいの通帳課税をすればよい。
僕は民主主義を絶対視しない感じなんだけど、それでも民主主義は悪くはないんだろうな、と思っている。そういう考え方に影響を与えたのは、恥ずかしながら「銀河英雄伝説(田中芳樹著)」というラノベである。この銀河英雄伝説のテーマの一つに民主主義と独裁がある。
メインの主人公のラインハルトは最終的に作中の世界全体(銀河帝国)を統べる独裁者になる。独裁者ではあるものの割と公平であり、善政を敷く。一方のライバルであるヤン・ウエンリーは民主主義を信奉する自由惑星同盟の軍人である。自由惑星同盟は政治腐敗がひどく、銀河帝国との戦争で多くの国民を戦争に駆り立てる。ヤン・ウエンリーは自国の政治家に愛想を尽かせながらも、善政の独裁者より、汚職まみれの民主主義の方がマシとして、自由惑星同盟に献身する。汚職まみれでひどい政策であっても、民主的なプロセスには自浄作用があり、長い目で見たら民主主義の方が優れている、という信念を随所で語る。
善政の独裁者と汚職まみれの民主主義の二択だったら、当事者の国民としては善政の独裁者の方が利がある。果たしてそれでよいのだろうか?という命題である。それでもヤン・ウエンリーは確信を持って民主主義に殉じる。物語の核の一つになっている。
ヤン・ウエンリーというキャラクターの魅力もあって、民主主義に引導を渡すのは早計かもしれないと思って、これまで生きてきた。でも最近、民主主義の限界を感じている。
独裁体制は、汚職の温床となりやすく、自浄作用が働きにくい。ヨーロッパの中世という時代は1000年以上続くのだが、世界史を勉強すればよくわかるが中世ヨーロッパの歴史というのは学ぶべき項目が異常に少ない。これは中世ヨーロッパのほとんどの国が王政であり、独裁国家であったことと無関係ではないと思われる。さらにキリスト教の政治介入により、支配階級でさえしばしば文盲であったくらいに、知的レベルが低く抑えられていた。その結果、文明は発達せず、民衆は搾取され続けた。
独裁体制と民主主義は相反するものかというとそうでもない。銀河英雄伝説では対立の構図に置かれたが、多くの民主主義国家において、民主的に独裁者を選ぶということがしばしばおこる。最も有名なのはヒトラーである。ヒトラーは最も民主的だとされたワイマール憲法下で民主的に選ばれ、合法的に独裁者となった。ヒトラーの教訓から、独裁者を生み出さないような憲法が世界中で研究され、試されている。我が国の憲法には非常事態条項がなく、数年前に非常事態条項に関する改憲論が取りざたされたが立ち消えになった。ヒトラーはワイマール憲法の非常事態条項を活用して独裁者となっており、日本の憲法に非常事態条項がないのは制定時に日本を統治していたアメリカの希望を反映している。憲法学者はヒトラーの事例をよく知っているので非常事態条項には常に否定的である。
ヒトラーほどでなくても、中国や北朝鮮でも独裁体制が敷かれている。どちらも国名に「民主主義」と入るほどの自称民主主義国家である。ちなみに、国名に民主主義と入っている国は、建前だけが民主主義な国が多いという皮肉な法則があるようだ。
フィリピンは民主主義国家ではあるが、マルコスという独裁者を生んだ。独裁体制下では汚職がまかり通る。マルコスの失脚後かなり経つが、今でも汚職は残っており、フィリピンは汚職大国として有名だ。最近失脚したシリアのアサドは前任者の父親の代からの独裁者だった。割とうまくやっていたが、アメリカが支援する反政府組織により失脚した。武装した反政府組織があるというのはトンデモないことであるが、反政府組織による台頭は民主主義的でないので、民主主義の信奉者としては手放しで喜べる話ではない。
斯く言う我が国も長らく自民党一党独裁体制であり、民主主義的でない部分も多い。独裁体制では官民あるいは政財界の癒着が一般的に強くなる。自民党に関して政治献金不正が話が多いのは明らかに一党独裁体制が影響している。
善なる独裁者もいつかは死ぬ。その後継者が善政を敷くとは限らない。銀河英雄伝説でもその事実は何度も語られ、後半のテーマとなっている。善でない独裁者は悪夢である。独裁者が残虐な行為をしても誰も止められない。止めようとするものは反逆者として処分されるからだ。そこまでいかなくても、愚図な独裁者は摂政がおかれて、取り巻きが好き放題するようになる。こうしたパターンは世界各地で繰り返されてきた。
そうした最悪の事態を回避あるいは改善するために考え出された仕組みが民主主義と言える。民主主義自体はギリシア時代から存在していたが、ヨーロッパではほとんど採用されていなかった。キリスト教教会の方針で、民衆に教育を与えなかったからである。自分の名前すら読み書きできない一般民衆が選挙なんかできるわけがないという論理である。一般民衆が文盲なのは教会の方針なのに、マッチポンプ的な論理を主張していた。
活版印刷が発明され、一般民衆が聖書を読みだした途端、教会の権威は崩れ、各地で宗教改革という混乱が発生した。これは民主主義復活の重要なきっかけとなった。このように民主主義は独裁体制を覆す機能がある。
教育を受けた民衆からなる社会を安定化する方法論が民主主義と理解することができる。
実は民主主義はいたるところで失敗している。独裁体制を生み出すだけでなく、せっかく導入した民主的な社会システムが崩壊する事例が多いのだ。アフガニスタンではアメリカ主導で構築した民主主義体制が、アメリカ軍の撤退と同時に崩壊し、タリバンの独裁政権が復活した。時系列はこの通りだが、実質はアメリカ軍の駐留中から民主主義体制が事実上崩壊していた。汚職が蔓延し、社会が機能不全に陥っていたのである。
最も新しい国として発足した南スーダンでは、民主的な政治体制が導入されたが、たった5年程度で崩壊し、事実上国連の管理下に置かれている。複数の武装組織が争っていて、選挙が行えていない。
ミャンマーは軍事政権が民主主義勢力に折れて、軍事政権と民主主義の融和体制が敷かれたが、先ごろ軍事政権が民主勢力を退け、軍事独裁体制に戻ってしまった。民主勢力が支持を拡大した結果、軍事政権側が危機感を抱き、軍事クーデターを起こし、内戦状態が続いている。
これらの事例に共通するのは、長らく独裁体制であった国に、外国主導あるいは外圧で民主主義が導入されているということである。独裁体制の弊害の一つに教育の軽視がある。中世ヨーロッパでそうであったように民衆の教育レベルが低い方が統治しやすい。なので、独裁体制下では教育が満足に施されない。典型例はカンボジアを支配していたポルポト派である。ポルポト派は独裁体制を確立した後、インテリ狩りを行った。知的階級の人々を弾圧・処刑したのである。なんと眼鏡をかけているだけでインテリと判断され処刑されたそうだ。その結果、文盲率が大幅に上昇した。教育の足りない人々は団結して物事に対応することが難しくなり、独裁政権を打倒するような勢力が発生しなくなるのだ。
幸いなことにカンボジアでの民主主義の導入は比較的成功している。成功要因は本格的な民主主義の導入まで十分な時間をかけたことだと思う。知識層が完全に駆逐されていたカンボジアで最初に行われたことは学校の先生の養成だった。学校の運営再開までに5年ほどかけ、そこから10年ほどかけて教育を施し、ようやく選挙にこぎつけた。このような気長なプロセスが成功したのは、日本がPKOに参加したことが大きいと思われる。
逆に教育の足りないところに民主主義を外部勢力により導入すると、選挙権を持つ人々が選挙の意味を正しく理解できないので、選挙の不正が横行する。典型的には買収が横行するのだ。南スーダンが崩壊した原因はこれである。
別のパターンとして、宗主国が崩壊してタナボタ的に独立国となったケースがある。韓国やウクライナが典型例である。韓国はいまだに選挙で毎回ゴタゴタしているが、これは民主主義の選挙の側面が強すぎて、法による統治への理解が浅いからだと思われる。
一方、ウクライナはソ連崩壊後に発足した国で当初から民主主義に関する理解は十分であった。しかしながら、法による統治への理解が弱く、何度かの独裁体制とその打倒が繰り返され、手が付けられなくなっている。近年では親ロシアと反ロシアの政権がおおむね交互に政権交代を行っており、政策が安定していなかった。挙句の果てが、反ロシアを掲げたコメディアンを大統領にしてしまい、ロシアとの戦争に突入した。ゼレンスキーが行ったのは、これまでの政権の方針を一方的に破棄する行為であり、実質的に宣戦布告である。歴史的には平和条約や不可侵条約、停戦合意などの破棄によって戦争突入となるのが通例であり、これらの破棄をもって戦争の意志ありと判断するのが常識的な歴史観である。破棄されたのはミンスク合意2というもので、ウクライナ東部の自治を認める代わりに停戦するという合意であった。これを破棄するということは、停戦解除するという意味である。停戦が解除になったので、合意以前の戦闘状態に戻るのは必至。停戦合意を破棄するとは頭が悪すぎる。そもそもは、歴史を学んでいない素人を選挙で選んでしまったウクライナ国民の浅慮であり、それは民主主義への理解の浅さの表れだと思う。
ウクライナの戦争は浅はかなゼレンスキーをたしなめて傷が浅いうちに戦闘終結させるべきだった。戦争の原因が停戦合意の破棄なので破棄した側に非がある。停戦合意の破棄とは停戦合意前の状態に戻るという意思表示であり、それは戦闘再開の通告である。これが平和条約や不可侵条約の破棄であれば、戦争までに話し合いのチャンスがあった。しかし、停戦合意の破棄から戦闘再開までのタイムラグは理論上存在しない。イスラエルは停戦合意を破棄せずにガザの爆撃を再開していて、これが普通の停戦合意破棄のパターンである。ウクライナが停戦合意を破棄したということは、ウクライナはすぐに戦闘再開するという意思を示したという意味。停戦合意破棄する側は当然戦闘準備万端と推定されるので、わけで、それに即応するのは当たり前。ロシアがウクライナに攻め込んだことに関して、国際法的にロシアの瑕疵は一切ない。
しかし、ここで民主主義の悪い面が出てしまった。攻め込まれたウクライナ、攻め込んだロシアという構図を喧伝することで、悪いロシア対かわいそうなウクライナという図式が浸透してしまった。もともと対ロシアの組織であるNATOはここぞとばかりウクライナに肩入れした。NATOを中心とする西側諸国のリーダーたちはウクライナ支持を表明すると支持率が爆上がりすることに気が付いた。その結果、西側諸国は相次いでウクライナ支持を表明し、戦闘継続の環境が整ってしまった。
勝てない戦争に肩入れするのは極めて危険な行為であることは歴史で何度も証明されている。日本は三国同盟のドイツ・イタリアが戦争に突入し、なし崩し的に対立の構図に巻き込まれ太平洋戦争に突入することになった。三国同盟を早々に破棄していたら戦争を回避できていたかもしれない。ま、そうでないかもしれないが。少なくとも、戦闘に参加しなくても資金を提供するだけで肩入れしたことになる。すくなくとも、提供した資金を回収するには肩入れした国が勝利する必要がある。勝利の道筋が見えていなければ、資金提供すべきではない、というのが戦略上の常識である。
しかし、西側諸国のリーダーたちは勝利条件すらわからない戦争に大量の資金を提供した。その見返りは国内の支持率であった。ウクライナに肩入れした国々のリーダーは10~20%の支持率の増加を得た。これにより1~2年の政権基盤を得た。しかしながら、ウクライナの戦況が芳しくないことが漏れ聞こえてくると、急激に支持率が低下した。最初に耐えられなかったのはイギリスである。イギリスは首相が4人目である。
次に交代したのはイタリア、しばらくして、日本(日本の首相交代はウクライナが原因というわけではない)。そして、アメリカも交代した。最近になってドイツとカナダも交代し、残るはフランスのみである。ただ、フランスもウクライナの敗戦が決まると耐えられないかもしれない。
当のウクライナは選挙を停止しており、これ以上アメリカの支持を得るには選挙するしかない状況に追い込まれている。そもそもウクライナは議会選挙は一度やっていて、政権側の勢力が負けたことから、続く大統領選挙を延期したという経緯がある。大統領選後にゼレンスキーはフランスあたりに亡命するはずだ。
ともかく、武器が尽きなければ負けないだろうということで西側諸国はウクライナに際限なく援助してきたが、その理由は各国の国内支持率のためである。これはもう、正義とかちゃんちゃらおかしい構図であり、もっともやってはいけないことだ。それに歯止めがかからないというのが民主主義の真実ということなのだろう。
民主主義は大事だ(たぶんそう)。民主主義は正義だ(ちょっとあやしい)。正義は負けてはいけない(そうあってほしいけどね)。そういった理念的なことを掲げるのは素晴らしいことだが、その動機が「支持率」というのがとても悲しいし、そのような動機に基づく行動はたぶん正しくない。
「国際政治はヤクザの抗争がもっとも近い」と僕は大学の国際政治学で教わった。その通りだと思う。「勝った側が正義」というのは日本人は太平洋戦争の敗戦で身に染みて理解したはずなのに、攻めた・攻められたを正義の基準としたいようだ。戦争は殺し合いであり、通常の法律が及ばない。不法滞在の外国人を殺したら、当然殺人罪である。銃を持って人前に出てきたら、脅迫罪だし、応戦されて殺されても正当防衛なので文句は言えない。いちいちそういう理屈をこねると面倒なので、、細かな犯罪行為を無視するというのが「戦争」の本質だ。基本的には戦争に至らないように様々な努力をすることが肝心である。戦争やむなしとなっても勝つ算段は用意しておかないといけない。
勝利条件すら明らかでない戦争に支持率目的で参入したG7リーダーたちのほとんどが淘汰されたことは、きっと良いことだと思う。民主主義の自浄作用と言えるだろう。ウクライナの戦争において勝利条件が明らかでないというと反対意見が多いかもしれない。でも、ウクライナの主張はロシアの完全排除であり、それは第三次世界大戦でも起きない限り無理だ。ロシアはいまだに相互確証破壊を何度も実行できるだけの核兵器を所有している。ロシアが消滅しない限り、ロシアが負けることはない。ゼレンスキーはそれを知っていて、NATOを戦争に参加させようとずっと画策している。そういうのがわかっているからトランプに怒鳴られた。
戦争に負けると、確実に支持率は下がる。そのような判断をポピュリズム傾向の強い指導者が選択するのは難しいかもしれない。日本は昭和天皇という支持率の定義外の存在がいたからそれが可能だったが、ウクライナはどうか。そのあたりに民主主義の限界と絶望が現れるかもしれない。