2025年12月25日木曜日

奇妙な科学哲学の話

 ラボでの教育

大学の研究室での教育の基本は「研究」のOJT(on-the-job training)なんだけど、その一環で「研究」の進捗報告会を週1回おこなっている。すると、学生たちは現在進行中の研究については知ることができる。ということは、ラボでの過去の研究や、自分たちの研究の周辺に関する知識が不足してしまう。本当は勝手に調べて学んでおいてほしんだけど、学生たちは可能な限り手を抜こうとするので、「研究」に関連する知識が徹底的に不足している。ということに数年前に気が付いて、そこから進捗報告会の後に1時間くらいのレクチャーを毎回おこなうようにしている。

まとめていて気が付いたが、僕の研究はなかなか多彩で、話としても面白い気がする(自画自賛)。当然、積み残し事案を見返す作業でもあるので、そういった中から新しい研究のアイデアが生まれたりする。なので、僕にとってもメリットがある。

僕も結構なシニア層なので、自分の研究を含む科学全体について、哲学的な視点を持つようになってきた。そこで、Progressive Scienceと名付けた4回シリーズのレクチャーを作成した。

Progressive Science①歴史

「科学」という概念の成立過程を概観する。古代ギリシャや中国などで、科学っぽい何かが論じられ、紆余曲折を経て「科学」を確立したのが19世紀。割と最近なのがとても驚きだ。

「科学」と「科学っぽい何か」が発展するためには「大学」というものが大きな役割を果たしたが、「大学」は「宗教」の管理下にあり、ほとんどのリソースは「科学っぽい何か」に費やされていた。

科学の確立を19世紀とするのは僕の独断だが、いくつかの根拠がある。19世紀に産業革命があり、蒸気機関が発達した。人々の暮らしや経済の中心に蒸気機関が据えられた。蒸気機関の仕組みには「神」が介在しない。蒸気機関を理解するためには「神」はむしろ邪魔だ。「神」を意図的に排除することで、蒸気機関の理解が進み、効率が向上し、経済が拡大した。

その経済の拡大の中で、「教育」が「宗教」から分離し、「科学」が民主化した。最終的にも「科学」の民主化が、決定打になった(私見)。

事実、19世紀までの「科学者」はほとんどが「貴族」であった。20世紀にはいるとほとんどの「科学者」は「一般人」である。

Progressive Science②科学の方法論

「科学」と「宗教」の違いと、離別の歴史を議論する。「科学」と「宗教」の違いはただ一つ。「神」のような実証不可能な存在や現象を前提とするかどうか、ということに尽きる。

「科学」と「宗教」の対立の典型例は地動説に関するガリレオの裁判に見ることができる。じつのところ、当時の知識では地動説と天動説のどちらが正しいかということの結論を得るのはかなり難しかったはずだ。なので、実際の裁判では、裁判手続きが正当なものかどうかということが主に争われたらしい。

実際、天動説でも天体の運動は記述可能だ。もちろん地動説の方がシンプルであるが、計算結果はほとんど違わない。でも今の僕らは地動説が正しいと信じて疑わない。でも本当は天動説が正しい可能性も微レ存している。僕たちが地動説を信じる本当の理由は、地動説の方がシンプルだからだ。

決定打となったのはニュートンによる万有引力という考え方だ。万有引力というたった一つの「原理」を認めるだけで、すべての天体の運動を説明することができて、それが地動説と同じものだからだ。なるべく少ない仮定で現象を説明できるならば、その説明は高確率で正しいとする考え方を「オッカムの剃刀」と呼ぶ。ただし、「オッカムの剃刀」は経験則でしかない。僕たちの「信念」は、最終的には「経験則」に依存している。そういう意味では「科学」と「宗教」に違いはないかもしれない。かつてアインシュタインは記者から「あなたの宗教は何ですか?」という質問に「科学」と答えたそうです(アインシュタインはユダヤ人なので、記者はユダヤ教という答えを期待した)。

「科学」が「科学っぽい何か」と決別するのは実はもっともっと困難だった。典型例は「化学」と「錬金術」の決別の歴史だ。18世紀まで人類はアリストテレスの四元素説を信じていた。一石を投じたのはラボアジェ。四元素のうちの一つ「火(フロギストン)」が「光」と「カロリック(熱素)」からなるとした。今の僕たちからするとまだまだおかしな説ではあるが、重要なのはアリストテレスに盾突いた、と言う事実だ。かのニュートンですら、晩年は錬金術研究に明け暮れていたのだ。

最終的に人類は錬金術を捨て化学を確立した。そのプロセスは「実験事実に基づかない理屈」を徹底的に排除するということだった。それにより膨大な錬金術研究の資料をゴミとせざるを得なかった。これは恐るべき損失だったはずだ。そうした身を切る改革によって19世紀には「化学」の原型が確立した。

「科学」とは「客観的事実」のみから出発し、論理を重ねて構築された知識体系である。正しいか正しくないかを決めるのは、「神」でも「人」でも「裁判」でもなく、「実験事実」である。

Progressive Science③微分方程式

理系学生にとっての難敵、微分方程式にまつわる話。論点は2つ。僕らが学ぶ微分方程式の解法は一体何なのか。物理において微分方程式が頻出するのはなぜなのか。これらの2つの疑問に答えることがテーマである。

僕たちが教わる微分方程式の代表的な解法は「一般解」を利用するものである。「一般解として~を仮定すると、」で答案が始まる。普通の命題であれば、「~を仮定すると」で始まれば「矛盾するので、~は正しくない」あるいは「xxが成立するので、仮定は正しいと結論される」と結ばれる。つまり、仮定は検証の対象である。しかし、微分方程式の解法では、「仮定」のまま解を導き、それをそのまま「解」としてしまう。「仮定」の検証は行わず、「仮定」が正しいとしたときの結論を採用してしまう。もし「仮定」が正しくなかったら結論は変化するし、もし別の「仮定」が存在したら、別の結論が導かれるかもしれない。そうした可能性を全然考慮していないのに、「解法」としてよいのか、というモヤモヤがある。

そのモヤモヤは正しくモヤモヤで、「一般解」という「仮定」が十分に正しいわけではなく、別の「仮定」が実際に存在し、別の「解」が存在しうる。だから全然解けていないのだ。

こうしたことが起こるのは、僕らが知っている「一般解」は「本当の一般解」の省略形であるからだ。ぶっちゃけて言うと、「本当の一般解」はフーリエ級数である。フーリエ級数の特別な性質によって、フーリエ級数の省略形を使うだけでフーリエ級数をそのまま使った時と同じ結果が得られることが保証されている。なので、僕たちは省略形を用いた省略された手順のみを学ぶ。ただし「本当の一般解」はフーリエ級数なので、解として調査できる範囲は周期関数だけである。しかしながら、解法の中で周期に関する条件が導かれるので、ほとんどの関数を調べたことになる。でも調べ切れていない可能性は否めない。

水素原子モデルのシュレディンガー方程式を解く際には、球面調和関数とルジャンドル陪多項式というヘンテコな一般解が用いられる。ここから、一般解に多様性があることがわかる。どんなものが一般解として使えるのか、その基準は何なのか?結論すれば級数展開はすべて一般解として使える。知られている級数展開はせいぜい30くらいなので、シュレディンガーはそれらの多くを試したに違いない。そして驚くべきことに、基本的にどんな級数展開を用いても微分方程式を解くことができる。得られる解の見かけは違うこともあるが、計算すればすべて同じになる。ただし、ある級数展開での解は単純だが、べつの級数展開ではうんざりするほど複雑な解になったりする。もちろん、単純な解の方が都合が良いので、僕たちはそちらを採用することになるだろう。これはすなわち「オッカムの剃刀」である。

20世紀初頭にもたらされたネーターの定理が「科学」とくに「物理」の世界を決定的に変革した。ネーターの定理の主張は、空間の対称性と保存則が対応するというものである。実際、エネルギー保存則や運動量保存則などが「いつでも実験結果が同じ(時間併進対称性)」とか「どこでも実験結果が同じ(空間併進対称性)」から得られる。こうした対称性はあまりにも当たり前で、ほとんど仮定すら必要ないほどだ。そうした対称性から直ちにエネルギー保存則や運動量保存則が導かれるのは驚異的である。こうした「物理法則」を確立するのに人類は何百年も費やしてきたからだ。ネーターの定理はそれらの努力が必要ないとするものだ。

だから、それ以降、理論物理の世界では宇宙の対称性を探ることに注力している。宇宙が4次元なのか、5次元なのか、11次元なのかが真剣に議論される理由は、それが明らかになれば宇宙のすべての法則を導き出せるかもしれないからだ。

そしてネーターの定理は物理法則が基本的に微分方程式になることを運命づける。保存則とは系が変化した際に変化しない「保存量(数値)」が存在することを主張する。言い換えると、保存量を$H$とし、系のパラメータを$x$とすれば、$\frac{\partial H}{\partial x}=0$が成立する。つまり微分方程式だ。ここに至り、僕たちは微分方程式から逃げられない運命にあることが証明される。

微分方程式を解く際の「一般解」には選択肢がある。ある一般解で解けたとしても、別の一般解で見かけが異なる解が得られる。この事実は、物理現象の解釈には多様性がある、ということを意味している。「科学」とは「世界を理解する唯一の正しいやり方」を見つけ出すことだと短絡しがちだが、一般解の選択肢は「世界を解釈するやり方」であり、それに多様性があるということは、「世界を理解する方法はいろいろあり得る」ということを意味する。

Progressive Science④汎分光論

内容そのものはすでに「レオロジー測定は分光法か?」というエッセイで述べている。

分光とはエネルギー交換(相互作用)の周波数依存性を調べる手法であると総括することができ、そういう意味では粘弾性測定も分光法に分類できる。分光法をこのように理解すると、Higgs粒子を探すために、物理学者たちはLHCを使って「真空」を「分光」したと理解できる。

Beyond Science

本当言うとこの話には続きがある。なぜ相互作用には周波数依存性があるのだろうか、という疑問である。複素数の物性値が得られる粘弾性スペクトルや誘電緩和スペクトル、インピーダンスなどにはKramers-Kronigの関係というものが存在し、物性値の実部と虚部を相互に変換できるという数学的要請が存在する。この要請は負の周波数領域で虚部が反転する(複素共役)ということに実質的に等しい。このような関係は、フーリエ空間でヘビサイド関数をコンボリューションするという数学的操作に等しい。ヘビサイド関数の逆フーリエ変換はδ関数を積分したものとほぼ同じである。つまり、Kramers-Kronigの関係は実空間で時刻0以前をゼロとするような関数を乗じるという数学的操作を暗に認めるものである。

これはつまり、現象が時刻ゼロという起点を持つということと同じ意味になる。時刻ゼロから現象が開始するというのは、いわゆる「因果関係」が存在するとすることと等しい。つまり、因果関係が認められる現象にはKramers-Kronigの関係が存在し、対応する物理量が複素数になり周波数依存性を持つ、ということが結論される。つまり、相互作用が周波数依存性を持つのは僕たちの「世界」に「因果律」が存在するからだ、と結論される。

因果律の存在は、「時間併進対称性」の修正につながる。つまり、時刻ゼロ以前には現象が存在しないので、観測結果は異なるだろう。言い換えると、現象が存在する範囲においてのみ「時間併進対称性」が認められる。手放しの「時間併進対称性」ではなく、因果律の範囲内でのみ機能する「修正時間併進対称性」が正しい、となる。

実のところ、この「修正時間併進対称性」はビッグバン宇宙論と相性が良い。ビッグバン以前には世界が存在しないので、ビッグバンをまたぐような「時間併進対称性」は無意味だ。これはビッグバン以前の宇宙の議論をすることは無意味であり、そのような時刻ゼロをもつ宇宙を考えるだけで十分である、ということを保証する。

ここに至り、因果律すら物理法則の一つであるという解釈が可能になる。「科学」は「客観的事実」のみで構成された理論体系であるが、客観的事実の構成要件として、「いつ」「どこで」実験しても「同じ結果」が得られる、が挙げられる。「いつ」「どこで」は「時間併進対称性」と「空間併進対称性」である。そして「同じ結果」は「因果律」と言い換えることができ、「修正時間併進対称性」と言うことになる。いずれも僕たちの住まう宇宙の「構造=対称性」から導かれるものである。逆に言うと、「時間併進対称性」や「空間併進対称性」、「修正時間併進対称性」などが存在しない「宇宙」では、「客観性」の存在が否定される。そのような「宇宙」では、僕たちの信じる「科学」に関する議論全てが全く意味をなさないだろう。そのような対称性をもつ宇宙を構成できるのかどうかは僕にはわからないけど、そのような世界は多分カオス以外の何物でもないに違いない。


2025年9月16日火曜日

ラボノート

 うちのラボの研究ノートはEvernoteです

「僕の」ではなく、「ラボの」話です。

研究ノートは研究者にとってもとっても大事な「モノ」です。僕の場合はほぼ日記ですが、日々の活動・アイデアなどをすべて記録として残すことは、研究者の常識です。そういう大事なものだからこそこだわりを持って選定しないといけません。

僕が考える研究ノートに必須の要件は次の3つ。

  • 必須要件①記入日の保証(いざとなったら裁判資料となるため、研究ノートには特別な要件がある。日付が保証されていればデジタルデータに訴訟能力があるという判例が米国に存在する)
  • 必須要件②手書き(数式とか、アイデアとかは手書きの方が良い)
  • 必須要件③モビリティ(出先や屋外など、いつでも記入できること。デジタルノートの場合はスマホでアクセスできること)

紙のノートは必須要件①が怪しいけど、そのほかは完璧。だから少し条件の付いたノート(糸掛&ページ番号印刷)が今でも用いられていると思います。でもきちんと訴訟に耐えるには、ノートにシリアル番号を付して、そのシリアル番号を別のノートで管理しないといけません。ま、ちゃんとした管理をしている大学の先生を僕は見たことありません(いや、奈良先端大学院大学は全学の制度としてこれを実施してましたね。失敬)。

昨今は学生のノートの管理も徹底せよと言われているので、学生が卒業するときに学生の研究ノートを奪い取らねばなりません。気の小さな僕はそういうのが心苦しいのです。実際、僕が4回生の時のラボでは研究ノートを研究室において出ないといけないルールでした。ノートを手放すのはちょっと寂しかったです。働き出してからは、専門の業者がマイクロフィルムに撮影したりすることがありました。大学のラボレベルでは、そういうのは高コストすぎてできませんから、研究ノートのデジタル化をいろいろ考えていたわけです。Blogなんかのシステムはラボノート向きではありましたが、必須要件①を満たすのがとても難しいので、使えません。

ひところは、Anoteペンという技術を使ったノートを使っていました。特殊なノートと特殊なペンの組み合わせで、ノートに書いた文字がスキャンなしでデジタル化されるというものです。紙のノート(しかもノートは糸掛でページ番号も印刷済み。ラボノートとしての体裁を見たいしています)が本紙で、自動的にデジタルのコピーができるわけです。

2~3年使っていましたが、デジタル化したデータの管理が難しいことと、写真や印刷物を貼れないことが欠点でした。また、器材コストが高く、学生に使わせることは難しいというのも問題でした。


Apple Pencilは素晴らしい

僕は基本的にAppleが嫌いです。わずかな技術的優位性を誇大に主張するやり方はフェアじゃないと思うし、なにより製品が割高です。また、Appleの熱狂的なファンの人たちがちょっと気持ち悪いと感じるのも理由の一つになっています。カルト宗教みたいだし。

そういう偏見を僕は持っているのですが、Apple Pencilだけは素晴らしいと言わざるを得ません。ペン型デバイスはそれまでもたくさんありましたが、筆記用具としての使い心地はどうしても劣るものでした。ラグが大きかったり、位置ずれが顕著だったり。でもApple Pencilは通常の筆記用具と同じような使い心地を提供してくれます。Apple Pencilなら数式を手書きできると思いました。

Apple Pencilを使えば、電子ノートの欠点の一つである「手書きの気持ち悪さ」が解消でき、必須要件②を満たすことができると僕は考えました。つまり、手書き最強ツールであるApple Pencilを擁するiPadを研究ノートに使おうと考えたのです。iPadであればモビリティも十分です。

また、PCでも同じように使えた方が良いに決まっています。iPad含むいろんなプラットホームで動作するノートアプリは大体クラウドなので、Webアプリがあったりして、PCでも動作することが多いです。

クラウドだと、「最終更新日」は大体残っています。だから、必須要件①もかなり満たします。しかし、クラウド故に簡単に更新できて最終更新日が更新されてしまいます。更新されたデータは訴訟能力を失い、致命的です。でも、ノートアプリにロールバック機能があって、特定日付の状態を取得できると、確実に目標日時の状態のノートを入手できることになります。クラウドデータの日付の改ざんはユーザーには無理ですから、ノートの日付はノートアプリ提供会社と言う第三者が保証する価値になります。これ以上の訴訟能力は考えられません。つまり、完全ロールバック機能をもつノートアプリは必須要件①を完全に満たすわけです。ということで、オンライン・クラウド型のノートアプリをいろいろ調査しました。


電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)

その方面の需要は結構あるらしく、電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)という分野があります。最大手はBiovia ELNというものらしいです。iPadやAndroidのアプリはありません。PCオンリーで、結構高価そうです。初期導入コストは最低でも数十万円だと思います。

化学系に最適とうたっているのが、ChemDrawとの連携を売りにしているSignals Notebookです。これも携帯端末では使えません。出先の実験で非LAN環境(屋外とか)での使用を想定するとこうしたELN専用システムはダメっぽいです。企業だとセキュリティの都合で嫌がるからかな。つまり、一般企業向けのELNは必須要件③を満たしてはいけないということです。しかたがないので、一般向けの電子ノート(研究用ではない)を選択しました。

電子ノートアプリにはいろいろあるのですが、流行はNotionです。Notionはとても評判が良いのですが、残念ながらロールバック機能がないのでNGです。Microsoft Officeに付属のOneNoteもよいのですが、ロールバック機能が30日しかないので、裁判対策としては使えません。実は数あるノートアプリの中で十分なロールバック機能を持つのはEvenoteの有料プランのみです。

昔はEvernoteが最強と言われていましたが、Notionなどのライバルアプリの登場で苦戦を強いられました。一時は経営が危なかったらしいです。危なかった理由はシステムの陳腐化とストレージの枯渇でした。そこで、有料プランに極振りすることでユーザーのふるい落としを行い、経営を安定させたようです。完全なロールバック機能って無限に容量を食いますからね。2022年あたりから無料プランの貧弱化と有料プランの値上げが行われ、本当にヤバかったです。そして2023年後半あたりから、急激に機能強化が行われました。2025年現在、機能面では他のノートアプリに劣る要素はほぼありません。値段以外は。


運用コスト

僕のラボでは学生全員に研究費で有料プランを契約させています。こうした個人に紐づく「資産」を研究費から出すのは難しいのですが、大学との交渉を頑張りました。ちゃんとしたルートを構築し、適正に運用していますよ。

まずは学生に有料プランの契約方法を説明します。オンラインサービスの契約は個人資産になるため、通常の方法では大学から費用を支払うことができません。特殊な事情があるとして、立替払いをすることになります。しかしながら、学生は立替払い申請をすることができません。なので、僕が代理で申請することになります。もし、契約途中に不備があって立替払いが認められない場合は、道義的に僕が費用を被らないといけなくなります。さすがにつらいので、契約の不備が発生しないように学生に入念に手順を説明します。

実は購入経路によって結構な差が出ます。重要なのは、学割適用することと、Apple経由での契約にしないこと、です。Apple経由だとおよそ15%高くなります。そのためGoogle PlayかWebから契約させます。契約時の支払い画面、契約後のライセンス確認画面を提出させます。費用は僕が現金で立て替えます。その際、学生が僕から支払いを受けたという「申立書」なるものを学生に署名させます。

ライセンスのIDはメールアドレスなのですが、これには大学のメールアドレスは使わせません。というのも、大学のメールアドレスは進学や卒業でわりと近い将来使えなくなるからです。ライセンス契約のIDは学生のプライベートアドレスにしています。

プライベートアドレスだと、学生の名前と一致しません。なので、別途学生の氏名・学籍番号、ライセンスID(プライベートアドレス)、支払い金額の表を作成します。これらの処理を集めて、大学に立替申請をします。この一連のプロセスは大学の経理と相談して構築しました。事前相談なしにやるといろいろ問題になると思います。こうした手間暇は運用コストの一部であると割り切るしかありません。


導入のメリット

学生の研究ノートは僕が月初めに当月分を配布します。こうすることで、学生の研究ノートは僕の管理下に置かれます。管理下に置かれるというのは、僕はいつでも読み書きできるという意味です。できるのですが、学生の要請なり必要なりがあるときのみ、学生のノートの内容を見ます。研究ノートであってもプライバシーは基本的に守るべきだと思うからです。誰かに見られる可能性があるノートだと思うだけで、恥ずかしいことは書けないし、書くときにはちょっと考えてから書くようになるでしょう。でもそうしたちょっとした気負いがノートへの記入をためらうように働くかもしれません。なので、僕は学生のノートを基本的に見ないし、学生にそのように公言しています。

さらに、書き込むことはほぼありません。学生に対してノートに書く内容を指示することがありますが、書き込みは学生にゆだねています。何か重要な発見があったと学生から報告があれば、僕が日付入りで手書きサインを入れます。これは特許訴訟対応として必要な手続きですから、しょうがないです。

ちなみに厳密なルールでは研究ノートには毎日上司の日付入りサインが必要とされています。ただ、それは「上司が見た証拠」ではなくて、その日までにノートの当該部分まで記載がなされていることを誰かが確認したという意味になります。ノートの一文一文に秒単位の記録が付属する完全なロールバック機能を持つ電子ノートにおいては、毎日の上司のサインは全く必要ありません。上司のサインがあっても過去の記載部分にちょっとした書き足しはできますからね。上司の日々のサインがあっても訴訟でひっくり返されることは普通にあると思います。ロールバック機能つき電子ノートにかないません。

Evernoteはスマホでも書き込めるので、スマホで写真を撮ってそのままノートに記載することができます。モビリティーという点では最強と言えます。スマホ・PC・iPadのそれぞれで少しずつ機能的に違う部分があるのですが、有料プランではすべてのプラットホームを併用できるので、問題ありません。

手軽に写真をノートにアップロードできるというのは案外メリットが多いです。測定結果のグラフを研究ノートに貼りたいというシチュエーションが多くあります。紙のノートだと、印刷して切って貼って、というプロセスが必要です。でも、スマホで写真を撮れば、ラボノートに切り貼りする必要はありません。PC作業中の画面写真もすぐにコピペできます。なんなら、解析途中のファイルのバックアップにも使えます。

論文のPDFもラボノートにアップロードすれば、すぐにみんなで共有できます。研究報告会の資料はノートにアップロードするルールになっています。

週1回英語の本読み会をしているのですが、本読み会後に確定した翻訳を専用ノートにみんなで書き込むことで、徐々に翻訳本ができます。

学生個人のノートの使い方は基本的に自由ですが、見本として僕のノートは学生全員が読めます(書き込みはできません)。学生は僕のノートを見本として研究ノートの書き方を学べるようになっているのです。ちなみに諸事情により学生に見せられないノート(個人情報や試験関連)は別に作って管理しています。

Evernoteの唯一かつ最大の欠点は値段が高いことです。無料プランは本当にお試し版で全く実用になりません。そして、有料プランは定価が9300円/年で、驚くほど高いのです。僕のラボは一人研究室(僕以外は学生)なので、全員で10名ほどですが、およそ10万円が年間のコストになるわけです。これはとても大変です。

Evernoteは2024年に入って急速にいろいろな機能強化がなされました。項目の折り畳み機能(WORDのアウトライン表示みたいな使い方)とか、LaTexスタイルの数式とか、気の利いた機能が次々追加されています。LaTexスタイルの数式機能は実用までは遠いレベルですけど、そのうちに使い物になると期待しています。

AI関連機能の強化も進んでいて、手書き図表や写真の文字起こし、会議音声からの議事録作成なんかもできます(十分とは言えませんが、下書きには使える程度)。電子ノートなので、検索とかリンクとかいろいろ使えるので、紙のノートよりはるかに機能的です。

手書きメモの文字起こし機能も結構育ってきていて、キーワードとかきちんと拾ってくれます。数式の使い勝手はまだまだダメですけど、将来はどうなるかわかりません。いらない機能もいろいろ追加されていますが、重要な機能も年々洗練されてきていますので、ちょっと期待しています。


もう8年使っている

僕がEvernoteでの研究ノートを本格導入したのは2018年です。2025年の現在、8年目ということになります。2018年当時は、僕だけが3500円/年程度の有料プランを自腹で契約し、学生たちは無料プランでした。

Evernoteは最近どんどん高価になって、本当に苦しいのですが、乗り換え先がないことと、すでにデータの蓄積があることの2つの理由によって継続使用しています。現在の標準価格は9300円/年です。

機能的にはとても満足しています。運用面のノウハウもたまっていて、使い心地はよいのです。すでに10年くらいの運用実績があって、過去の研究ノートが積みあがっています。学生10人×12月×8年=約1000冊というノートがあるわけです。別のサービスに乗り換えるのはちょっと難しいです。もうEvernoteと心中するしかないレベルです。

以前のEvernoteは少しダサい感じがしましたが、今のEvernoteはすごくモダンでとても使いやすいです。一つのノートをみんなで編集するという機能があって、ちょっと楽しいです。それぞれの人が違う色のカーソルで表示していて、みんなの編集が瞬時に反映されます。誰がどの位置を編集中かがわかるので、そこを避けて別の部分を編集するということがストレスなくできるのです。なんだかおもしろいですよ。

色んなファイルをアップロードできるので、作業中のファイルの履歴として活用することもあります。つまりクラウドストレージとしての側面があるわけです。すると学生は研究室での作業を自宅に持ち帰るのが簡単になるわけです。

学生にファイルを送るのも、メールだとサイズを気にするところですが、Evernoteだとそのあたりが少し緩くなります。学生のノートに僕が直接アップロードしたり、僕が欲しいファイルを学生にリクエストすると、学生の自分のノートにアップロードしてくれるわけです。そのときにファイルに関するいろんな情報を付けてくれてれば、僕は続きの作業ができます。そして、そのやり取りは記録に残るわけです。


こういうのは大学が考えるべき

研究ノートの電子化・オンライン化・クラウド化は昨今の研究環境の当然の流れであり、すべての研究者に関係のあることだと思います。特に大学では研究不正を防ぐために研究に関する情報の管理が強く求められています。うちの大学のように小さくてのんきなところは、文科省の引き締め要求をそのまま末端の教員に垂れ流し、「各自ちゃんとするように!」と伝えるだけしかしません。具体的にどうしろとかないわけです。やり方を示さず、問題が起こったときに追求だけするぞ、と脅すわけです。もう、やってられません。

情報管理を徹底するには、コストが発生します。実験データを10年保管とか、どれだけのストレージが必要になることやら。そしてそのバックアップコストも発生します。そのコストは大学の要請にこたえるためのものなので、大学に請求できるかというとそうなりません。また、どうすれば十分か、ということも示されていないので、僕たちはとても不安なのです。

というわけで、僕は自衛のために年間10万円を払うわけです。自分の研究費を削って。ちょっと納得がいかない面もあります。他の人たちは相変わらず紙のノートを使い、学生のノートを召し上げるわけですが、それは倫理的にちょっと怪しいと思います。実際、紙のノートも専用の研究ノートでないので、訴訟能力が全くなかったりします。それでええのか?

コクヨの研究用ノートは一冊2500円で年間一人1冊くらいです。厚みは1cmくらい。うちは10人くらいなので、年間10cm成長します。10年で1m分本棚を圧迫します。早晩場所問題が発生します。研究ノートは大学の資産なので、そういう書類系の資産は図書館が管理すべきです。うちの大学は教員が300人くらいいますから、年間30mの本棚が必要になります。100年とか保管しだしたら、3kmですよ!

電子研究ノートというのはスケールメリットが大きいので、大学全体みたいな組織単位で契約すれば多少はコストが圧縮できるはずです。一人当たり年間2500円というのが損益分岐点だと僕は思っています。かつてのEvernoteの価格はそのくらいだったんですけどね~。


研究ノートになくて良い機能

研究ノートは裁判の証拠としての機能がありますから、電子ノートで代用するにはロールバック機能が絶対必要です。従ってロールバック機能を阻害する機能は必要ありません。

ロールバック機能を阻害する機能で代表的なのが、データベース内容の引用機能です。データベースはデータを細分化し、管理し、引用を容易にする仕組みです。データ単位(レコード)の登録・更新に日付や履歴が完備しているものは基本的にありません。更新履歴なんて情報は冗長性が高く、大量のデータを整理・保管することが使命のデータベースにとって極めて不利な機能です。データベースではレコードをさらに細かなデータに切り分けますから、更新履歴情報はレコード本体の何倍にもなります。例えば、何月何日の状態にデータベースをロールバックするなんて作業は普通はできません。

電子ノートにデータベース内容を動的にリンクする機能があった場合、その電子ノートは過去の状態を復元することができなくなります。だから、電子ノートサービスの中に動的なデータベース引用機能が含まれていると、裁判の証拠として使えなくなる可能性があります。

調べてみると、Notionが内部に統合されたデータベースとの連携機能を売りにしていて、これはダメです。Notionはロールバック機能がありませんから、そういうことができるわけです。OneNoteは外部データベースの引用はできますが、統合はされてません。共有ノート機能もあるので、ロールバックが30日とか限定されていなければ使えるんですけどね~。

過度な表現力もノートには必要ないと思っています。手書き機能が使えれば表現力の部分は手書きで補えるからです。高い自由度が必要ならばワープロやパワポを使った方が、再利用性も増します。そうして作成したファイルをノートにアップロードすればよいだけです。PDFにしておけば、フォーマット済み文書の中身が、たいていのノートアプリで直接見えます。


必須な機能は以下の通り

  • 「完全」なロールバック機能をもつこと
  • 「データがクラウド保存」され、タイムスタンプの改ざんができないこと
  • スマホ・PCなど「複数のプラットホーム」で利用できること
  • 「手書き」機能が十分であること
  • ノートを「共有」して「集中管理」できること
  • ファイルの「アップロード」に対応していること

あったら良い機能は以下の通り

  • 手書きデータのデジタル化・検索
  • ノート内容の階層化
  • 階層化されたノートの管理

ない方が良い機能は以下の通り

  • データベースとの接続


現状ではEvernoteが最適解だとおもっているんだけど、GoodNoteとかも有料プランなら無限履歴があるっぽい。その場合のコストはEvernoteとどっこいどっこい。どうしたものか。



2025年8月26日火曜日

テストの作り方

作問を勉強したことのある先生はほとんどいない

学校の先生は生徒に授業を行うだけではなくて、成績をつけるために試験もします。試験内容は教材業者のものをそのまま使う(主に小学校)ことも多いですが、自分たちで作成することもあります。そういう行為を「作問」と呼びます。

そういうことなので、作問は授業と並んで先生たちの日常業務なのですが、教職課程(学校の先生になる資格)を終えた学生に尋ねると、作問の勉強はしていないと皆証言します。大学ではかなりきちんとした教職課程のカリキュラムが定められており、いろんな勉強をします。もちろん授業というものがどのような構成になっているかとか、代表的な教授法とそのポイントなんかも具体的に学びます。しかし、「作問」は習わないそうです。

作問の場面は結構あります。定期試験の作問は代表的ですが、機会は多くありません。機会が多いのは「小テスト」の作問です。作問は簡単だ、と思ってみんななめていると思います。


試験の分類

学校で実施する試験には主に3つの種類があります。入学試験など行われる学力判定試験、期末テストなどの定期試験、小規模で日常的に行われる小テストです。これらは同じような形式で実施されますが、目的が明確に異なり、それに応じて内容が調整されねばなりません。

学力判定試験は、受験者の学力を計量する目的行われます。理想を言えば得点が受験者の学力に比例するような結果を望むものです。満点以上の学力は計量することができないため、満点がほとんど取れない設定になっていることが普通です。また、判定したい学力の範囲の中心あたりが平均点になるように調整されます。さらに、得点分布がなるべく広い(標準偏差が大きい)ように問題が設定されます。一方で、得点と学力に精密な正の相関がようにも調整されます。これは得点分布の広さと両立しにくい特性であり、私立大学の入試ではお粗末なものが散見されます。

一方、小テストは、授業内容に関して受験者の理解を確認するもので、得点に応じたフィードバックを受験者に促す目的で行われます。理想的には全員満点を目標にします。平均点が低い場合は授業が失敗していることを意味します。なので、小テストで試験されているのは本当は教師です。そんなわけなので小テストの点数を成績に反映させるというのは望ましくありません。

定期試験はこれら二種類の複合で、授業内容に関して受験者の理解度を計量することを目的としています。授業内容に関して受験者の理解度のチェックは小テストであるということを指摘したことからもわかるように、定期試験は小テストの集合体として構成されるべきものです。ただ、生徒の意欲と好奇心を刺激するための設問を追加してもよいでしょう。


試験の機能

好むと好まざるとにかかわらわず、試験には受験者の能力を計量するという機能があります。一方で体調や運で結果が変化するというノイズも存在します。なので、ノイズを減らし、測定精度を向上させる努力が常に求められます。

ノイズの原因として体調と運を挙げました。体調は受験者の問題なので、試験を実施する側にはどうしようもありません。なので、これは無視します。一方で運は可能な限り排除すべき要素です。運の要素を排除する基本的な手段は選択問題を減らすことです。

共通一次試験でマークシート方式が導入されたときに大きな議論になったのが、運の要素です。単純な選択問題では運の要素が大きなウェイトを占めてしまいます。また、マークの記入ミスも運の要素となります。現在の共通テストでも採用されているマークシート方式は試験方法として根本的な問題を抱えていることになります。

テストにおける運の要素も信号理論におけるホワイトノイズのようにふるまいます。信号理論の帰結としてノイズを抑えて信号の信頼性を向上させる単純な方法は、計数回数を増やすことです。試験においては問題を多く設定することに対応します。単純選択問題は解答に要する時間が短いこともあり、同じ方式の設問が2~4個設定されることが普通です。こういう事情があるので、社会科目では問題量が増え、設問が細かくなりました。さらに問題に採用する範囲が枯渇し、重箱の隅をつつくようなマイナーなトピックスが多くなった結果、大きな批判を浴びてセンター試験は廃止に追いやられました。

共通テストでは、さらに複数選択問題(選択する数が不明)や、複式選択問題(2つ以上の選択肢全てを正解しないと得点にならない)などを採用して、運の排除を試みています。評判は良くなさそうですけど。

マークシート方式のもう一つの問題は、難易度を上げられないことです。試験時間は決まっているので設問数を無限に増やすことはできません。そのため単純選択方式で計量できる得点の範囲は自動的に定まってしまうのです。その結果、得点分布を大きくすることができません。

様々な試行錯誤があったのだと思いますが、センター試験の作問者たちは禁断の間違ったやり方を採用してしまいました。それは「依存性」です。ある設問に正解しないと次の設問に正解できないという設定は得点分布を大きくするのに有効です。しかしながら、運の要素を増大させます。その結果、得点分布が大きくてもノイズも大きくなり、測定精度が低い試験となりました。苦労したのは受験生たち。最悪です。

おそらく作問に関するノウハウが、体系化された学問として教育されてこなかったからこうした良くない試験が横行しているのだと僕は思います。そうした作問教育の不在は実際に教職課程の学生が学んでいないという事実から明らかであり、僕の子供たちに施された学校教育でも感じました。定期試験の作問がダメすぎると高校の先生に面と向かって叱責したことすらあります。


平均点と標準偏差と問題数の関係

作問を考えるときの基本は「確率・統計」です。試験では多くの受験者が存在し、試験の結果は統計として整理できます。作問は試験結果の統計を左右する要素と位置付けられます。

受験者の50%が正解する問題が1つあったときの平均点は、50点(100点満点)になります。標準偏差は50($=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}$)点です。このように、それぞれの問題に関して、問題の正答率(得点率)で標準偏差は自動的に定まります。

受験者の50%が正解する問題が$N$個あり、すべての問題の配点が同じだとすると、1問当たりの配点は$100/N$です。一問当たりの標準偏差は$\sqrt{(100/N)^2\times0.5-(100/N)^2}=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}/N=50/N$となります。統計学の定理により、標準偏差の2乗に加法性があるので、テスト全体の標準偏差は$\sqrt{(50/N)^2\times N}=\sqrt(50^2)/\sqrt{N}=50/\sqrt N$となります。つまり、問題数が多くなると標準偏差が下がるということです。


共通テストに関する考察

共通テストでは平均点50点、標準偏差10点を目指しています。要は、得点と偏差値が一致するように設計しているわけです。文科省の役人あたりが、どうせ成績は偏差値を目安にするんだか、得点=偏差値だったらわかりやすいんじゃね?とか言ったんじゃないかな。浅はかすぎる。

先の例で、標準偏差が10点に達するのは、問題数が25個の場合です。これはすべての設問の難易度が同程度の場合のレアケースで、実際には難易度にばらつきがあります。設問の難易度にばらつきがあると標準偏差は低下します。つまり、共通テストでは問題数の制限と難易度のばらつきの制限ができてしまっている、ということです。

幅広い分野の習熟度の計測を目的とするなら、難易度のばらつきをなくして問題数を最大化することが理にかないます。一方、習熟度自体の計量を目的とするなら、難易度はばらついていた方が合理的です。その場合は問題数を少なくしないといけません。すると、幅広い分野にわたる問題設定が難しくなります。共通テストの理念としては前者なのですが、共通テストの役割は後者です。平均点と標準偏差に数値目標を設定してしまったために、理念と役割がコンフリクトしているのです。

また、あらゆる測定においてノイズの影響を排除したいように、テストでは「運」というノイズを除去したいわけです。4者択一を基本とするマークシート方式のテストではどうしても運の要素を排除できません。選択式の設問の場合、運の要素があると、平均点が上げ底され、標準偏差が低下します。50%が実力で正解する問題の場合、不正解の50%のうちの25%、すなわち12.5%ほどが「運」で正解します。すると正答率は62.5%になり、平均点は62.5点になります。標準偏差は約48.4で元々の50より下がります。

平均点を50点に戻そうとすると、正答率を33%程度にしないといけません。この時の標準偏差は約70でかなり難易度が上がります。つまり、相当難しい問題が混ざってくるということです。

そもそも平均50点、偏差値10点というテストの設定にどれほどの意味があるのでしょう?偏差値$X$と確率$P(x)$の間には大雑把に言って次のような関係があります。

\begin{equation}P(X)\approx 1/10^{|X-50|/(10\sigma)}\end{equation}

ただし、$\sigma$は標準偏差で、$P(X)$は偏差値がXを超えている確率です。偏差値70だと指数部分は2になり、$P(X)=1/100$です。正確ではありませんが概算ではあっているとします。ここから平均50点、偏差値10点というテストにおける上位10人の得点を考察してみます。共通テストの受験者数はおよそ50万人なので、上位10人の確率は、10/500000。$log_10{50000}\approx 4.69$なので、$X=97$ということになります。800点満点に換算すると776点で、上位10人あたりだと2点くらいの差で順位がつく計算になります。テストの機能の一つに能力の順位付けがありますが、入試に限っては合否判定あたりの順位付けという意味であり、最上位陣の順位付けは意味がありません。にもかかわらず、共通テストは合否判定に関係しないような成績優秀者の順位付けに最適な設計になっているというわけです。


テストとクイズは違う

英語では小テストのことをQuizと呼ぶので、テスト=クイズと短絡しても仕方ないかもしれませんが、いわゆるクイズとテストは全く別物です。クイズとは単なる遊びです。問題に重要な意味があることはほとんどありません。懸賞クイズなんかで、正解に利益が発生することもありますが、不正解で不利益があったりしません。しかし、テストは問題そのものに意味があったり、不正解だと落第や不合格なんていう不利益が生じます。テストには責任があるのです。

テストで生じる利害関係の責任はテストの実施者とテストの作問者が負うことになります。特にテスト内容に関しては作問者に大きな責任があります。作問者はテストの機能や役割をきちんと理解してその機能と役割にふさわしい問題を設定しないといけません。そのためにはテストをどのように設計するかということが大事になります。設問の具多的な内容より前にきちんと設計することが必要です。その設計に応じて、設問の難易度や数が決まるのです。

誰しもテストを受けた経験はありますが、テストの作問をした経験はあまりありません。教員等になって、作問をする立場になって初めて作問のミッションが与えられるわけで、作り方とか知らないわけです。適当にクイズっぽいものを並べたら、それなりにテストっぽいものができるので、それで安心しているというのが大半だと思います。でもそんなテストをさせられる側が不幸でなりません。作問者はテストされる人たちの利益と不利益を差配する立場にあり、不手際があれば訴えられてもおかしくありません。そういう真剣さが作問者に求められると思うのです。

そのためにも、テストの作り方について、きちんと体系化された教育がなされるべきだと僕は思うのです。



2025年8月21日木曜日

やべぇ物理学

僕は「科学」について、いくつか「非主流」な考え方を持っています。「似非科学」との境界ギリギリを攻めていると言うとわかりやすいかも。僕自身がそれに傾倒しているわけでもなくて、「主流」に対して懐疑的な立場を担保していて、「主流」のアンチテーゼとしていくつかの仮説を持っているという程度です。だから、僕の「非主流」な考え方が正しいと強弁することはありません。でも、つねにそういう「余地」を残すことが、正しい科学につながると思うのです。

かつてアインシュタインはニュートン力学に盾突きました。時間は絶対的なものではなく、空間は平坦ではない、という考え方です。特殊相対性理論と一般相対性理論ですね。ニュートン力学はおよそ300年にわたって正しいと信じられてきました。だから、ニュートン力学にいちゃもんをつけるのはとても勇気が必要だったと思います。アインシュタインが特殊相対性理論を発表したとき、アインシュタイン自身は理論の正しさにどれだけの自信があったのでしょう。僕はそんなに自信を持っていなかったかもしれないと思っています。というのもの、理論物理学者は自身の理論を仮説として提案するのが仕事であり、その仮説が間違っていてもあんまり気にしないからです。ま、特殊相対性理論に関しては、電磁気学においてすでに発見されていたローレンツ変換を電子以外の運動にも適用するような修正なので、当時の物理学者にとっては割と受け入れやすかったのかもしれません。

とはいうものの、当時絶対的に信じられていたニュートン力学という「主流」に対して修正を強いる提案ができたのは、「主流」に対して懐疑的な立場を容認するというメンタリティーが重要だったと僕は思います。アインシュタインが何を信じ、何をなそうとしていたのかは凡人の僕には思い及ばないですが、「主流」に対して何らかの不満があったのでしょうね。


とっかかり

今朝、以下の記事を見つけました。

「物理学者らは未だ量子力学の奇妙さに困惑しており、その真の意味について合意できていないことが『Nature』の調査で判明」

https://xenospectrum.com/physicists-remain-perplexed-by-the-peculiarities-of-quantum-mechanics-and-have-yet-to-reach-a-consensus-on-its-true-meaning-according-to-a-survey-by-nature/

量子力学と言うと、微分方程式と並んで、多くの理系大学生に絶望を与えてきた分野です。どこまで勉強したとしても、「波動関数」が何かわからないし、「スピン」も実体が説明されません。そのくせ、いろんな分野に量子力学の考え方が幅を利かせます。よくわからないけど、受け入れるしかしょうがなくて、みんな正しいと言っているので大丈夫なはず、という分野だと僕は思っています。そして、僕が感じていることは正しいということが、Natureの調査で判明しているという記事です。

日本の同僚たちとの会話で、日本では確実に「そうだ!」とわかっていました。全世界的にそういう状態になっているということは家内(モスクワ大学卒)との会話から感じていましたが、Natureによる全世界的な調査でそれが裏付けられた形です。

量子力学にまつわるあいまいさは今に始まった話ではありません。そもそも波動関数の意味と実体について、考案者のシュレーディンガー自身も良くわからなくて、当時の物理学界での最高権威者であったニールスボーアに教えを乞うたという伝説があるくらいです。その時のボーアの説明は、現在コペンハーゲン「解釈」として多くの科学者に受け入れられています。そう、「解釈」なのです。「仮説」よりはマシですが「説」よりも確度が低い説明という扱いなのです。そして「解釈」はいまだに「解釈」であって、確定した説明になっていません。だから、量子力学はちゃんと理解できなくてもしょうがないのです。


絶望的な状況

通常、科学の世界では研究が進むと理解が深くなり、より世界が整理されていきます。しかし、量子力学には当てはまっていないようです。

量子力学では「観測」によって事象が確定するという奇妙なふるまいが知られています。これにより波動関数は何らかの確率を表すのだと解釈されています。波動関数が確率的にふるまうのは、観測にかからない「隠れた変数」が内部に存在し、それによって観測結果が変化するのだ、と説明する仮説がありました。そのような「隠れた変数」が存在するならば、特定の不等式を満たすはずだということがスチュアートベルによって示されました(ベルの不等式)。このあたりの議論は極めて哲学的で科学の範疇に収まらないと思われていましたが、当時大学院生だったアランアスペが実験によってベルの不等式が成立していないことを示しました。複数の研究グループによる検証の結果、ベルの不等式の不成立が確定し、「隠れた変数」説が完全否定されました。その結果、波動関数に関する理解はシュレーディンガー以前の混沌とした状態に戻ってしまいました。

この混沌とした状態からトンでも仮説がいろいろ飛び出しました。最も有名なのは「多世界解釈」です。パラレルワールドが実在するとする完全にSFのような世界観をまじめに議論するという、わけのわからない状況が生まれてしまっています。「主流」に余地を残しておくというのは健全な科学の在り方ですが、これはやりすぎだと多く科学者が思っています。


非主流の告白

僕自身は「隠れた変数」が存在すると思っています。というかそういうものがなければならないと思っています。実験事実として否定された「隠れた変数」説を改めて支持するというのは科学者として正しい態度ではないという批判はあると思います。

でも僕の考える「隠れた変数」は「観測結果を確定させる」ものではありません。僕は、観測結果は「常に」確定的なんだけど、観測可能な世界の中では確定できない、と考えています。その場合、ベルの不等式は修正を受け、成立しなくなると思っています。

大統一理論の議論中で世界は10次元+1次元であるという説があります。10次元を扱う候補の理論が複数提案されているなかで、次元の選び方を変更すると、候補の理論が相互に変換され、11次元から眺めると一つの理論に見えると言われています。詳しい理論は僕にはわからないですけどね。その余分の1次元とは何だろう?と思うわけです。

どんな理論においても、「時間」は「空間」と区別のつかないパラメータになります。そのような理論においては、過去も未来もすべて確定的な事象になります。つまり、大統一理論が成立した暁には過去も未来も確定してしまうのです。しかしながら、量子力学は「観測」しないと事象が確定しません。つまり、そもそも矛盾をはらんでいるのです。

時間と空間をすべて等価に取り扱う「時空図」を考える(世界を4次元として眺める)と、すべての物体は「線」になります。そして「線」は物体の運動を表すことになります。運動は物理法則に従わなければならないので、「線」にはかなり強い制限が伴います。そしてその線は過去から未来のすべての時間にわたってその強い制限を満たさなければなりません。無数に存在するはずのすべての物体について、そのような制限を「一発」で満たすのは至難の業です。

通常の物理学の考え方であれば、物体の位置や速度が時々刻々変化するとして、時間に関する微分方程式を解くことになります。だから、ある時点でのパラメータがすべて判明すればその後の展開(線)を予測できます。物理法則のほとんどは時間に関して可逆的なので、時間を反転して計算すれば、過去の「線」も遡れます。もし未来や過去において計算が破綻するとしても現在の近傍では問題はありません。

でも「時空図」を描くとき、そこには過去も未来もすべて確定的です。もし遠い過去や未来において現象が破綻する(例えば、ビッグバンとかビッグクランチとか)と、現在の「線」の存在が否定されてしまいます。現在を肯定的に説明するためには、何らかの仕組みによって現在近傍の「線」が確定するような「動的」な仕組みがあるはずだと僕は思っています。「動的」とは通常は時間的な変化を指しますが、「時空図」において時間はすでに使用済みなので、ここでいう「動的」というのは「時間のような何か」を時間に見立てた概念になります。そういう「時間のような何か」が、僕たちに影響する物理法則の埒外にあるもう一つの次元であると僕は思っています。

その「時間のような何か」が変化すると、時空図中の「線」がうにょうにょ動くと考えます。僕たちの主観は「線」に沿って時間方向に移動します。光などの「観測」は「線」と「線」の間をつなぐ「線分」になります。「線分」の両端は発光点と吸収点に対応します。量子力学的には吸収点が「観測」に対応し、吸収点の正確な位置が観測結果に対応します。発光時点と吸収時点における「時間のような何か」が同じであれば、観測結果は「確定的」です。不確定性は発生しません。発光時点と吸収時点とで「時間のような何か」が異なっていれば、観測結果は「別の法則」の影響を受けます。すなわち、「時空図」において「時間のような何か」の変化にともない「線」が変化する「何かの法則」があって、「観測」はその法則に影響を受けると考えらえれます。その「何らかの法則」という僕たちが感知できない全く未知の法則性に支配された観測結果は不確定に見えるでしょう。

突拍子がないわけではない

このような僕の意見は別に突拍子がないものと言うわけでもありません。アインシュタインが時間と空間の等価性を示した時点で「時空図」の概念は確定的です。時間と空間をともに一つの図の中に収めると、通常の意味での「点」は存在できません。「時空図」中に点が存在するとは、ある瞬間に現れて次の瞬間にはパッと消えてしまう何かの存在を認めることになります。量子的なゆらぎとかの概念かもしれませんが、通常物質ではありえません。「時空図」において、すべての物質は「線」になります。その「線」は過去から未来にずっとつながっているはずです(質量保存則)。

一方、光も「線」になります。光には発光点と消光(吸収)点があるので、「線分」になります。時間と空間を直交座標系にとれば、その「線分」の傾きは光速を表します。この概念は「光円錐」として相対論で導入済みです。相対論では「光円錐」は導入されるけど、物体は依然として「点」として説明されており、あんまりよくないと思います。「光円錐」はとても分かりやすい概念ですが、直交座標系の時空において光線が特定の角度をもつという極めて非対称な現象を認めてしまうという気持ち悪さがあります。これは修正されねばならないと僕は思っています。

「時空図」に光線を描きこめば、線分になるのは自明です。それが直線なのか曲線なのか、円錐なのか、どれが最も自然かと言えば、直線だと思います。そのような図形で相対論を説明する試みもあるのですが、あんまり対称性がたかくないんですよね。だから、「時空図」というものを持ち出す人が少ないのだと思います。

僕が正しいわけではない

ここで僕が示したいのは僕の主張の正しさではなくて、世間で流通している説以外にも説得力がある説が存在しうるということです。量子力学の理解にあいまいさが残るのは量子力学が難しいからではなくて、もっとよい説明があるのに僕たちが気づいていないだけ、かもしれません。もっとよい説明ってのは、トンデモ学説かもしれません。量子力学だって最初はトンデモ学説だったのです。シュレディンガーが水素原子の電子軌道を鮮やかに示し、炭素の結合手が4本であって正四面体をなすことをうまく説明できたことで、量子力学は正しいとみんなが信じているにすぎません。シュレディンガーも量子力学が完全に正しいなんて思っていなかったと思います。量子力学の理解が難しいのならば、よりシンプルでわかりやすい説明を探し続けるべきだと僕は思います。

微分方程式の議論において、一般解の選択は世界をどのように解釈するかの選択であり、一つの微分方程式が複数種類の一般解によってさまざまに解けるという事実は、世界を解釈する方法は一つだけではないということを数学的に示していると指摘したことがあります。実際、大学院の講義ではその話をしています。これも非主流の考え方ですね。

実際のところ、量子力学は世界を理解するための一つの解釈であり、別の解釈方法も存在すると思います。もしかすると、別の解釈方法の方がシンプルでわかりやすいかもしれません。量子力学がわかりにくいのであれば、量子力学以外の理解の仕方を模索すべきであり、その努力は決して無駄ではないと思うのです。

一般に優秀な人ほど既存の説明をキャッチアップするのに優れます。というのも「優秀」の基準が「既存の説明をキャッチアップする」能力だからです。でもそういうのにすぐれない人が画期的な進歩をもたらすこともあります。

かつてアインシュタインは就職がうまくいかず大学を出てから郵便局に就職しました。郵便局の職員時代に書いた3つの論文こそ、奇跡の年の3論文です。いずれも「既存の説明」をぶっ壊す革新的なアイデアに満ちています。アインシュタインは正直言って「コミュ障」で、「既存の説明をキャッチアップする」能力に劣っていました。自閉気味の人が些細なことにこだわって周囲とトラブルになるというタイプでした。奇跡の年の3論文のうち最も地味な成果がブラウン運動の解明なんですが、この論文のきっかけはなんと浸透圧でした。アインシュタインは浸透圧について理論的な考察を深めた結果ブラウン運動を説明してしまったのです。浸透圧なんて高校の化学で習う内容であり、計算が簡単なことから、試験で出たらラッキー問題扱いです。でも浸透圧とは何なのか、なぜ浸透圧のようなものが観測されるのか、浸透圧にまつわる奇妙な性質はちゃんと説明できるのか、といったことをきちんと説明するのは大変困難です。アインシュタインは心の滓のように引っ掛かっていたそれらの疑問を、希望通りにならなかった就職先でウジウジと考え続けたに違いありません。

浸透圧に思いをはせた科学者はそれまでにもたくさんいたはずです。でもブラウン運動に到達した人はいませんでした。僕も浸透圧を習ったときに「不思議な現象だな」とは思いましたが、真剣に考察することはありませんでした。僕はアインシュタインとの決定的な差をこの時初めて認めました。

相対性理論や光電効果において同じような偏執的な洞察と深い考察を見て取ることができます。その根底には「理解した」として終わりにしないというアインシュタインの独特のメンタリティーがあるのだと僕は思っています。

ひとかどの物理学者にとって「量子力学がわからない」と告白するのは極めて恥ずかしいことです。Natureの記事では1万1千人にアンケートを実施し、回答があったのは千人ちょっととあります。この千人の方々は、ちょっと恥ずかしいけどこの流れに乗れば恥ずかしい告白も目立たない、と考えたはずです。それこそが科学者の良心だと思います。ただ、回答しなかった90%の人々は心配です。



2025年3月24日月曜日

民主主義は難しい

民主主義教育によるインプリンティング

僕たちは民主主義を信奉する国に生まれ、小さい時から学校で民主主義教育を受けてきた。学級会では選挙もどきの多数決を行って、クラスの代表を決めるし、もめごとがあったら多数決で方針を決定するということをずっとやってきた。だから、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義とみなされる。

子供のころはそれでも良いが、大人になっても刷り込まれた価値観によって、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義と考えるようになっている。ベンサム的な幸福論に従えば、多数の幸福を最大化することが社会的に重要なことなのだから、民主主義は幸福を得るための合理的な手段だろう。民主主義を信奉する価値観は僕たちの心のかなり深い部分にまで根ざしていると思う。

でも僕は子供のころから民主主義の欠点を感じてきた。選挙ではよりよい候補者を選ぶのではなく、当選する候補者を選ぶ傾向が強くあることに気づいた。選挙をくじ引きみたいなものと思えば、当たりである当選者を選ぶと気持ち良いものだ。逆に落選に票を投じると自分の行為が無駄になったみたいで悲しさを感じる。

政治家の汚職は定期的に報道される。ま、汚職のようなことがない限り、政治家にはうまみがすくないだろうから、そういうことがあるのはしょうがない気がしている。だからと言ってよくないことはよくないので、そういう政治家や政治団体には投票しないようにしているけどね。政治献金問題をなくすのは実は簡単で、政治献金に少しだけ課税すればよい。政治団体と宗教法人は非課税となっているが、0.1%ぐらい課税すればよい。課税するには金額の申告が必要になるので、闇献金かどうかの区別が簡単になる。そして、政治献金の税率を適用するには献金する側の申告も必要とすればよい。実際、政治献金は寄付の扱いであり、会社や個人が寄付として税金の減免を受けるにはかならず申告しないといけない。だから、献金する側の事務処理は全く変わらない。そして申告漏れに対しては200%くらいの通帳課税をすればよい。


銀河英雄伝説の話

僕は民主主義を絶対視しない感じなんだけど、それでも民主主義は悪くはないんだろうな、と思っている。そういう考え方に影響を与えたのは、恥ずかしながら「銀河英雄伝説(田中芳樹著)」というラノベである。この銀河英雄伝説のテーマの一つに民主主義と独裁がある。

メインの主人公のラインハルトは最終的に作中の世界全体(銀河帝国)を統べる独裁者になる。独裁者ではあるものの割と公平であり、善政を敷く。一方のライバルであるヤン・ウエンリーは民主主義を信奉する自由惑星同盟の軍人である。自由惑星同盟は政治腐敗がひどく、銀河帝国との戦争で多くの国民を戦争に駆り立てる。ヤン・ウエンリーは自国の政治家に愛想を尽かせながらも、善政の独裁者より、汚職まみれの民主主義の方がマシとして、自由惑星同盟に献身する。汚職まみれでひどい政策であっても、民主的なプロセスには自浄作用があり、長い目で見たら民主主義の方が優れている、という信念を随所で語る。

善政の独裁者と汚職まみれの民主主義の二択だったら、当事者の国民としては善政の独裁者の方が利がある。果たしてそれでよいのだろうか?という命題である。それでもヤン・ウエンリーは確信を持って民主主義に殉じる。物語の核の一つになっている。

ヤン・ウエンリーというキャラクターの魅力もあって、民主主義に引導を渡すのは早計かもしれないと思って、これまで生きてきた。でも最近、民主主義の限界を感じている。


独裁者と民主主義は相反しないという事実

独裁体制は、汚職の温床となりやすく、自浄作用が働きにくい。ヨーロッパの中世という時代は1000年以上続くのだが、世界史を勉強すればよくわかるが中世ヨーロッパの歴史というのは学ぶべき項目が異常に少ない。これは中世ヨーロッパのほとんどの国が王政であり、独裁国家であったことと無関係ではないと思われる。さらにキリスト教の政治介入により、支配階級でさえしばしば文盲であったくらいに、知的レベルが低く抑えられていた。その結果、文明は発達せず、民衆は搾取され続けた。

独裁体制と民主主義は相反するものかというとそうでもない。銀河英雄伝説では対立の構図に置かれたが、多くの民主主義国家において、民主的に独裁者を選ぶということがしばしばおこる。最も有名なのはヒトラーである。ヒトラーは最も民主的だとされたワイマール憲法下で民主的に選ばれ、合法的に独裁者となった。ヒトラーの教訓から、独裁者を生み出さないような憲法が世界中で研究され、試されている。我が国の憲法には非常事態条項がなく、数年前に非常事態条項に関する改憲論が取りざたされたが立ち消えになった。ヒトラーはワイマール憲法の非常事態条項を活用して独裁者となっており、日本の憲法に非常事態条項がないのは制定時に日本を統治していたアメリカの希望を反映している。憲法学者はヒトラーの事例をよく知っているので非常事態条項には常に否定的である。

ヒトラーほどでなくても、中国や北朝鮮でも独裁体制が敷かれている。どちらも国名に「民主主義」と入るほどの自称民主主義国家である。ちなみに、国名に民主主義と入っている国は、建前だけが民主主義な国が多いという皮肉な法則があるようだ。

フィリピンは民主主義国家ではあるが、マルコスという独裁者を生んだ。独裁体制下では汚職がまかり通る。マルコスの失脚後かなり経つが、今でも汚職は残っており、フィリピンは汚職大国として有名だ。最近失脚したシリアのアサドは前任者の父親の代からの独裁者だった。割とうまくやっていたが、アメリカが支援する反政府組織により失脚した。武装した反政府組織があるというのはトンデモないことであるが、反政府組織による台頭は民主主義的でないので、民主主義の信奉者としては手放しで喜べる話ではない。

斯く言う我が国も長らく自民党一党独裁体制であり、民主主義的でない部分も多い。独裁体制では官民あるいは政財界の癒着が一般的に強くなる。自民党に関して政治献金不正が話が多いのは明らかに一党独裁体制が影響している。


民主主義には自浄作用があるにはある

善なる独裁者もいつかは死ぬ。その後継者が善政を敷くとは限らない。銀河英雄伝説でもその事実は何度も語られ、後半のテーマとなっている。善でない独裁者は悪夢である。独裁者が残虐な行為をしても誰も止められない。止めようとするものは反逆者として処分されるからだ。そこまでいかなくても、愚図な独裁者は摂政がおかれて、取り巻きが好き放題するようになる。こうしたパターンは世界各地で繰り返されてきた。

そうした最悪の事態を回避あるいは改善するために考え出された仕組みが民主主義と言える。民主主義自体はギリシア時代から存在していたが、ヨーロッパではほとんど採用されていなかった。キリスト教教会の方針で、民衆に教育を与えなかったからである。自分の名前すら読み書きできない一般民衆が選挙なんかできるわけがないという論理である。一般民衆が文盲なのは教会の方針なのに、マッチポンプ的な論理を主張していた。

活版印刷が発明され、一般民衆が聖書を読みだした途端、教会の権威は崩れ、各地で宗教改革という混乱が発生した。これは民主主義復活の重要なきっかけとなった。このように民主主義は独裁体制を覆す機能がある。

教育を受けた民衆からなる社会を安定化する方法論が民主主義と理解することができる。


民主主義のスタートアップは失敗が多い

実は民主主義はいたるところで失敗している。独裁体制を生み出すだけでなく、せっかく導入した民主的な社会システムが崩壊する事例が多いのだ。アフガニスタンではアメリカ主導で構築した民主主義体制が、アメリカ軍の撤退と同時に崩壊し、タリバンの独裁政権が復活した。時系列はこの通りだが、実質はアメリカ軍の駐留中から民主主義体制が事実上崩壊していた。汚職が蔓延し、社会が機能不全に陥っていたのである。

最も新しい国として発足した南スーダンでは、民主的な政治体制が導入されたが、たった5年程度で崩壊し、事実上国連の管理下に置かれている。複数の武装組織が争っていて、選挙が行えていない。

ミャンマーは軍事政権が民主主義勢力に折れて、軍事政権と民主主義の融和体制が敷かれたが、先ごろ軍事政権が民主勢力を退け、軍事独裁体制に戻ってしまった。民主勢力が支持を拡大した結果、軍事政権側が危機感を抱き、軍事クーデターを起こし、内戦状態が続いている。

これらの事例に共通するのは、長らく独裁体制であった国に、外国主導あるいは外圧で民主主義が導入されているということである。独裁体制の弊害の一つに教育の軽視がある。中世ヨーロッパでそうであったように民衆の教育レベルが低い方が統治しやすい。なので、独裁体制下では教育が満足に施されない。典型例はカンボジアを支配していたポルポト派である。ポルポト派は独裁体制を確立した後、インテリ狩りを行った。知的階級の人々を弾圧・処刑したのである。なんと眼鏡をかけているだけでインテリと判断され処刑されたそうだ。その結果、文盲率が大幅に上昇した。教育の足りない人々は団結して物事に対応することが難しくなり、独裁政権を打倒するような勢力が発生しなくなるのだ。

幸いなことにカンボジアでの民主主義の導入は比較的成功している。成功要因は本格的な民主主義の導入まで十分な時間をかけたことだと思う。知識層が完全に駆逐されていたカンボジアで最初に行われたことは学校の先生の養成だった。学校の運営再開までに5年ほどかけ、そこから10年ほどかけて教育を施し、ようやく選挙にこぎつけた。このような気長なプロセスが成功したのは、日本がPKOに参加したことが大きいと思われる。

逆に教育の足りないところに民主主義を外部勢力により導入すると、選挙権を持つ人々が選挙の意味を正しく理解できないので、選挙の不正が横行する。典型的には買収が横行するのだ。南スーダンが崩壊した原因はこれである。

別のパターンとして、宗主国が崩壊してタナボタ的に独立国となったケースがある。韓国やウクライナが典型例である。韓国はいまだに選挙で毎回ゴタゴタしているが、これは民主主義の選挙の側面が強すぎて、法による統治への理解が浅いからだと思われる。

一方、ウクライナはソ連崩壊後に発足した国で当初から民主主義に関する理解は十分であった。しかしながら、法による統治への理解が弱く、何度かの独裁体制とその打倒が繰り返され、手が付けられなくなっている。近年では親ロシアと反ロシアの政権がおおむね交互に政権交代を行っており、政策が安定していなかった。挙句の果てが、反ロシアを掲げたコメディアンを大統領にしてしまい、ロシアとの戦争に突入した。ゼレンスキーが行ったのは、これまでの政権の方針を一方的に破棄する行為であり、実質的に宣戦布告である。歴史的には平和条約や不可侵条約、停戦合意などの破棄によって戦争突入となるのが通例であり、これらの破棄をもって戦争の意志ありと判断するのが常識的な歴史観である。破棄されたのはミンスク合意2というもので、ウクライナ東部の自治を認める代わりに停戦するという合意であった。これを破棄するということは、停戦解除するという意味である。停戦が解除になったので、合意以前の戦闘状態に戻るのは必至。停戦合意を破棄するとは頭が悪すぎる。そもそもは、歴史を学んでいない素人を選挙で選んでしまったウクライナ国民の浅慮であり、それは民主主義への理解の浅さの表れだと思う。


支持率至上主義の危うさ

ウクライナの戦争は浅はかなゼレンスキーをたしなめて傷が浅いうちに戦闘終結させるべきだった。戦争の原因が停戦合意の破棄なので破棄した側に非がある。停戦合意の破棄とは停戦合意前の状態に戻るという意思表示であり、それは戦闘再開の通告である。これが平和条約や不可侵条約の破棄であれば、戦争までに話し合いのチャンスがあった。しかし、停戦合意の破棄から戦闘再開までのタイムラグは理論上存在しない。イスラエルは停戦合意を破棄せずにガザの爆撃を再開していて、これが普通の停戦合意破棄のパターンである。ウクライナが停戦合意を破棄したということは、ウクライナはすぐに戦闘再開するという意思を示したという意味。停戦合意破棄する側は当然戦闘準備万端と推定されるので、わけで、それに即応するのは当たり前。ロシアがウクライナに攻め込んだことに関して、国際法的にロシアの瑕疵は一切ない。

しかし、ここで民主主義の悪い面が出てしまった。攻め込まれたウクライナ、攻め込んだロシアという構図を喧伝することで、悪いロシア対かわいそうなウクライナという図式が浸透してしまった。もともと対ロシアの組織であるNATOはここぞとばかりウクライナに肩入れした。NATOを中心とする西側諸国のリーダーたちはウクライナ支持を表明すると支持率が爆上がりすることに気が付いた。その結果、西側諸国は相次いでウクライナ支持を表明し、戦闘継続の環境が整ってしまった。

勝てない戦争に肩入れするのは極めて危険な行為であることは歴史で何度も証明されている。日本は三国同盟のドイツ・イタリアが戦争に突入し、なし崩し的に対立の構図に巻き込まれ太平洋戦争に突入することになった。三国同盟を早々に破棄していたら戦争を回避できていたかもしれない。ま、そうでないかもしれないが。少なくとも、戦闘に参加しなくても資金を提供するだけで肩入れしたことになる。すくなくとも、提供した資金を回収するには肩入れした国が勝利する必要がある。勝利の道筋が見えていなければ、資金提供すべきではない、というのが戦略上の常識である。

しかし、西側諸国のリーダーたちは勝利条件すらわからない戦争に大量の資金を提供した。その見返りは国内の支持率であった。ウクライナに肩入れした国々のリーダーは10~20%の支持率の増加を得た。これにより1~2年の政権基盤を得た。しかしながら、ウクライナの戦況が芳しくないことが漏れ聞こえてくると、急激に支持率が低下した。最初に耐えられなかったのはイギリスである。イギリスは首相が4人目である。

次に交代したのはイタリア、しばらくして、日本(日本の首相交代はウクライナが原因というわけではない)。そして、アメリカも交代した。最近になってドイツとカナダも交代し、残るはフランスのみである。ただ、フランスもウクライナの敗戦が決まると耐えられないかもしれない。

当のウクライナは選挙を停止しており、これ以上アメリカの支持を得るには選挙するしかない状況に追い込まれている。そもそもウクライナは議会選挙は一度やっていて、政権側の勢力が負けたことから、続く大統領選挙を延期したという経緯がある。大統領選後にゼレンスキーはフランスあたりに亡命するはずだ。

ともかく、武器が尽きなければ負けないだろうということで西側諸国はウクライナに際限なく援助してきたが、その理由は各国の国内支持率のためである。これはもう、正義とかちゃんちゃらおかしい構図であり、もっともやってはいけないことだ。それに歯止めがかからないというのが民主主義の真実ということなのだろう。

民主主義は大事だ(たぶんそう)。民主主義は正義だ(ちょっとあやしい)。正義は負けてはいけない(そうあってほしいけどね)。そういった理念的なことを掲げるのは素晴らしいことだが、その動機が「支持率」というのがとても悲しいし、そのような動機に基づく行動はたぶん正しくない。

「国際政治はヤクザの抗争がもっとも近い」と僕は大学の国際政治学で教わった。その通りだと思う。「勝った側が正義」というのは日本人は太平洋戦争の敗戦で身に染みて理解したはずなのに、攻めた・攻められたを正義の基準としたいようだ。戦争は殺し合いであり、通常の法律が及ばない。不法滞在の外国人を殺したら、当然殺人罪である。銃を持って人前に出てきたら、脅迫罪だし、応戦されて殺されても正当防衛なので文句は言えない。いちいちそういう理屈をこねると面倒なので、、細かな犯罪行為を無視するというのが「戦争」の本質だ。基本的には戦争に至らないように様々な努力をすることが肝心である。戦争やむなしとなっても勝つ算段は用意しておかないといけない。

勝利条件すら明らかでない戦争に支持率目的で参入したG7リーダーたちのほとんどが淘汰されたことは、きっと良いことだと思う。民主主義の自浄作用と言えるだろう。ウクライナの戦争において勝利条件が明らかでないというと反対意見が多いかもしれない。でも、ウクライナの主張はロシアの完全排除であり、それは第三次世界大戦でも起きない限り無理だ。ロシアはいまだに相互確証破壊を何度も実行できるだけの核兵器を所有している。ロシアが消滅しない限り、ロシアが負けることはない。ゼレンスキーはそれを知っていて、NATOを戦争に参加させようとずっと画策している。そういうのがわかっているからトランプに怒鳴られた。

戦争に負けると、確実に支持率は下がる。そのような判断をポピュリズム傾向の強い指導者が選択するのは難しいかもしれない。日本は昭和天皇という支持率の定義外の存在がいたからそれが可能だったが、ウクライナはどうか。そのあたりに民主主義の限界と絶望が現れるかもしれない。


2025年2月18日火曜日

How to be a programmer

 プログラミングできない先輩!

小学校からのプログラミング教育の義務化により、これからの若い人たちはみんなプログラミングができるようになるかもしれません。ということは、現在大学生くらいの人たちは後輩から「プログラミングができない先輩」というレッテルを貼られて馬鹿にされる、という未来が垣間見えます。これはあたかも、Windowsが普及して事務処理がPC化したときに、「ワープロのできない上司」を陰でコケにしていたのと似た構図。

「ワープロのできない上司」は10年もしたら定年でいなくなってましたが、「プログラミングができない先輩」はこれから40年近く現役。その間ずっと馬鹿にされ続けるというのはいたたまれないんじゃないかな。ま、教育を受けたからといって全員がプログラミングできる人になるとは限らないし、現状の教科書を見る限りそうなる可能性は極めて低いですけど、馬鹿にされるかもしれない当事者にとっては気が気でないと思うのです。いや、そういう焦りを感じていない人は焦りを感じた方が良いよ。


文科省のプログラミング教育

小学校からのプログラミング教育において決定的にかけている視点が、「プログラミングとは何か?」ということだと僕は思います。狭義のプログラミングとは、何らかのコンピュータ言語を用いて正常の動作するコードを作成することです。でも、コンピュータ言語なんて5年10年で流行り廃りを繰り返すもの。学校で特定のコンピュータ言語を教えることは非合理的です。小学校で一生懸命勉強した言語が大学卒業時にはゴミくずになっていたとしたら、やるせなくなりませんか?

小学校でのプログラミング教育において結構真剣に議論された事柄の一つに、多くのコンピュータ言語ではキーワードに英語(英単語)を用いるが、小学生に英語(アルファベット)はなじみがないので教えにくいというものがあります。キーワードとして日本語を用いるコンピュータ言語や、グラフィカルインターフェースでプログラミングするScratchという言語、さらに日本語化されたScratchなどが検討されました。ただ、小学生だと日本語であっても難しい漢字が使えなかったりするので、日本語化Scratchでも問題が解決しません。NHKの教育番組では漢字交じりの日本語化Scratchを使ってましたけど、どの学年向けだったんだろう?小学校での英語教育義務化に伴い、無理して日本語化しなくてもよいのでは?という機運が出てきているような気配があります。どうなるのかな?

ま、でも小学生だと「ゲーム作りたい!」とかなると思うのです。僕もそうだったけど。でもゲームを作るには果てしないプログラミングスキルが必要で、そのギャップを目の当たりにした子供たちはきっとプログラミングをあきらめるんじゃないかな。プログラミング教育の推進がプログラミング教育を阻害するという意味の分からない状況です。

言葉の問題や理想と現実のギャップの問題があるんだから、狭義のプログラミングを教えるのはよくないんじゃないか?という意見があり、文科省は「広義のプログラミング」を指導する方針にやや方向転換しました。「広義のプログラミング」とは、コンピュータ言語を直接用いなくてもプログラミングの発想が要求される問題に対して取り組む際の考え方のことを指します。例えば、レゴブロック的なものを用いてロボットの動きを制御するとか、そういうやつです。コンピュータ言語の縛りはなくなりましたが、プログラムのメタファーがしっかり残っているところ中途半端です。


プログラミングとは何か?

そもそも僕たちはプログラミングを学ぶ必要があるでしょうか?大抵の大人はプログラミングができません。でも世の中何とかなっています。だから、プログラミングスキルは必須ではない気がします。必要か不要かで言えば不要です。それでもプログラミングを学ぶことは役立ちます。

どんな作業でもよいのですが、その作業がいくつかの工程を含んでおり、その工程の順序などが正しくないと作業が失敗してしまうとき、その作業はプログラムと似た特徴を持ちます。

例えば、インスタントコーヒーを作るとしましょう。まず、湯を沸かします。その間にカップを用意し、そのカップにインスタントコーヒーの粉を入れます。お湯が沸いたらそのカップにお湯を注ぎ、お好みで砂糖やミルクを入れます。砂糖やミルクを入れる場合は、ティースプーンでかき混ぜます。砂糖やミルクを入れずにコーヒーを配膳する場合は、ティースプーンを付けます。

このとき、お湯を注いでからコーヒーを入れるとコーヒーの粉がダマになったりしておいしくありません。また、コーヒーの粉を水に溶かしてからなべにかけると風味が飛んでしまいます。砂糖やミルクを入れてかき混ぜずにお客さんに出すなんてことはまず考えられません。どの手順も正しい順番で忘れずに実施することが肝要です。このような手順の解説は一般に「マニュアル」と呼ばれます。で、その「マニュアル」は正しく「プログラム」になっています。いわゆるプログラムと異なるのは、指令の対象がコンピュータではなく人間であることです。

コーヒーの例でわかるように、複雑な作業ほど、各工程の順序や「条件分岐」が大事なります。これもプログラムの特徴と同じです。

プログラミングとは計算機が実行可能な手順書を作ることです。ということは、「マニュアルを作成する」という作業はプログラミングと類似の作業であるということです。マニュアル作成なら誰にでも機会があるように思いますので、そういう意味ではプログラミングを学ぶ意義はあるかもしれません。


プログラミング適性

プログラミングに適性のある人とない人が両方存在するというのは割とよく知られています。このことをはっきりと言ったのはプログラミング界隈のレジェンドの1人、Donald Knuth博士です。Knuth博士は「およそ50人に一人、プログラミング適性を持つ人がいる。学歴は一切関係がないようだ。」と言及しました。Knuth博士はスタンフォード大学の情報学科?の教授であり、その情報系の学生でも適性を持つのは50人に一人というのです。さらに、文系理系は問わないともいうのです。実際、プログラミングのコモディティー化が進んだ現在では、女性プログラマーは珍しくないし、なんなら主婦プログラマーなんてもたくさんいます。だからKnuth博士

恐ろしいのは、プログラミングを志すエリート集団においてすら、50人に一人というルールが見られるという点です。知性に関するセレクションを受けているのに適性者の割合は増えないのです。さらに恐ろしいことに、プログラミング適性を持つ人の能力は適性の無い人の能力の100倍以上あるということです。なので、Knuth博士は、自分の学科のミッションはプログラミング適性を持つ学生を確実にピックアップすることだ、とすら言ってます。学生を指導して育てるべき大学教授が、教育を放棄するようなことを言うのです。

ま、実際、Knuth博士の言うことは概ね正しいので、なかなか反論できません。僕の経験上も、スペシャルな人は50人に一人か、もっと少ないかもしれません。多分、ほとんどの人はプログラミング適性がほんとに高い人々と出会ったことがないと思います。僕と同じかそれ以上のプログラミング適性を持つ人は、僕以外に2人しか出会ったことがありません。その人たちは普通の人とは全く違います。二人とも社会不適合ですが、一人は周囲の人々に才能を認められ、大事にされています。もう一人は、いま、どうなっているんだろう?

特別なプログラミング適性がなくても、そこそこのプログラム(100行くらいまでのコード)は作れます。でも3人に2人は、そのレベルの適性もありません。僕の経験上、まったく適性のない人は、どれだけ指導しても全く上達しません。その理由は、「性格」に尽きます。


プログラミング適性は性格と強い相関がある

プログラミング適性のある人は、性格に共通の特徴があります。それは「自力本願」を第一に考えるということです。課題や困難があったとき、まずは自力で取り組み、可能なら自分の力で課題や困難を解決する傾向があります。

プログラミングは一種のマニュアル作りです。計算機が解釈可能なマニュアルのことをプログラムと呼びます。マニュアルは一度作ってしまえば、同じことを2度とする必要はありません。だから、他人の力を借りてプログラムを作成したとして、果たしてそのプログラムを書いた人は誰か?ということになります。それは決して自分ではありません。

プログラミングは、自分自身でプログラムを作成した経験がスキルに直結します。たくさんコードを書いてきた人ほど、プログラミングが上手なわけです。他人に頼ってプログラムを書いてもらっても、人の書いたプログラムを拾ってきてコピペしても、自分のプログラミングスキルは向上しません。だから、他人の力を頼みにする「他力本願」な人はプログラミング適性がありません。

一般に他力本願な人はコミュニケーション能力が高い傾向があります。というのも、課題解決を他人にお願いするわけですから、他人とのコミュニケーションが必須です。お願いを通すには、そのコミュニケーション能力が高くないといけません。これまでの人生で他力本願がメインだった人は、そのたびにコミュニケーション能力が磨かれ、その能力に頼るようになります。その結果、自力での問題解決能力が向上せず、自力本願な考え方が消えてしまします。

一方、自力本願がメインの人は、コミュニケーション能力が重要ではないので、コミュニケーション能力は劣っているか、せいぜい人並です。高いプログラミング適性がある人は、極端な自力本願傾向があり、コミュニケーション能力がとても低い場合があります。その結果、プログラミング適性と社会不適合性とに強い相関がみられるようです。

プログラミング適性があってもコミュニケーション能力が高い人々がごく少数います。そういう人は実は女性に多いようです。これは女性のコミュニティーの特徴に基づくと僕は思っています。

女性のコミュニティーでは課題を解決する際にちょっとした特徴があります。それは、自分のできる役割を皆が率先して立候補するという傾向です。女性は失敗を極端に嫌う傾向があります(これは幼少期からの女性教育が影響していると思います。詳細は割愛)。そのため、「簡単な作業を引き受けて、難しいことをさせられるのを避けたい」と考えているようです。その結果、自分ができる簡単な役割を早めに確保するわけです。そうすると、最後に難しい仕事が残ります。その最後に残る仕事を誰が引き受けるか、というのが問題になります。発言の順序はコミュニティーでの序列に強く依存するので、最後に残るのはコミュニティーでの序列が最低な人あるいはコミュニケーション能力が低い人になります。そういう難しい仕事は「他人ができない仕事」として残っているわけで、「自力本願」しか解決手段がありません。ということで、そういう残り物係の人は自力本願傾向が強くなり、プログラミング適性があります。手芸とかを趣味にしている主婦はプログラミング適性が高いことが多いです。

コミュニティーに優秀で頼りになるリーダーがいると、そのリーダーが最後に残る仕事を引き受けるということも多いと思われます。なので、行動派のリーダーは自力本願傾向が強くなります。その結果、プログラミング適性が高くなります。ただ、コミュニティーのリーダーなので、コミュニケーション能力も非常に高いです。おそらくこの場合のみ、コミュニケーション能力とプログラミング適性が両方高くなります。こうした人々は管理職としての能力も高く、プロジェクトマネージャーとして極めて優秀です。

音楽をやる人は、案外プログラミングができます。アルゴリズムは日本語で算譜と書くことがあり、音楽の楽譜に対応します。楽譜には「繰り返し」に関するたくさんの規則があり、これがプログラミングにおける「ループ」の概念に通じます。シンセサイザの打ち込みコードはまさしくプログラムになっていて、DTMをやるひとはそこそこプログラムが書けます。


プログラミングスキルのポジティブフィードバック

プログラミング能力(速度)は、これまで書いてきたコード量の対数に概ね比例するという感触を持っています。誰でも最初は初心者なので、プログラミング適性が高くても最初のプログラミング能力は普通です。自力本願の人は、自力解決を目指すため、サンプルプログラムを書きうつす作業でさえ、「自力で書けるか」「自分に足りないものは何か」などを確認しながら行うので、プログラミング能力の向上に寄与します。

他力本願な人は単にタイプするだけなので、能力向上につながらないのです。最初の一歩から学習効果が違っていて、それがフィードバックされます。

一般に、最初は10行程度のコードが書けるだけだったのが、10行分の経験値を得て、次は11行書けるようになります。合計経験値は21行になり、次は12行書けるようになるかもしれません。

適性の無い人は、最初の10行を作ったとしても、経験値的には2行分かもしれないのです。次のコードはやはり10行どまり。それを5回繰り返してようやく11行です。適性のある人は、5回も繰り返すと、合計経験値は70行くらいになっており、コード量も20行に近くなるわけです。たった5つのプログラム作成経験で、能力差が倍近いというのは、通常の学習では考えられません。

適性のある人は、あっという間にプログラミング能力を拡大させます。ちなみに僕が初めて1000行書いたのは、プログラミングを始めて1カ月位したころ。1000行書くというのは下っ端プログラマとして就職するレベルで、専門学校等ではおよそ3年かかります。当時僕は中学2年だったので、中卒でプログラマになるという進路を真剣に考慮しました。

小学校でプログラミング教育が始まって数年たちますが、おそらく適性のある子は教師の能力をはるかに超えていると思います。そういう子供たちをどのように扱うかをそろそろ真剣に考えないといけないと思うのです。日本では英才教育とか、ギフテッド教育とかなじみがないので、とても心配です。

プログラミングには数学とか理科の素養が必要です。子供はそういうのをちゃんと勉強していないので、プログラミングスキルをあんまりもてはやすべきではないと思います。プログラミングに関する専門知識はとても膨大です。順を追って身に着ける必要があり、時間がかかります。10年くらいはかかるかな~。周辺知識もたくさん必要です。だから、プログラミングを英才教育する必要はないと僕は思うのです。英才教育をするなら、プログラミングの周辺知識を教育したらよいと思います。

とにかく、数学は大事です。将来の最重要分野である人工知能では「行列」が大活躍します。ちょっと前の教育改革で行列は高校で学ばなくなりました。人工知能が注目を浴びつつある状況下でのあまりに軽率な決定に唖然としました。ということで、これからのプログラマは最低でも大学1年生レベルの数学知識が必要なのです。それを理解するための基礎となる数学ももちろん必要です。プログラミング教育とか言う前に数学の教育内容を整理すべきです。


プログラミングができない人のパターン

Knuth博士によるとプログラミング適性に文系理系は関係ありません。ある種のタイプの人はプログラミングに適性がありません。それは「結果のみを求める人」「他人に頼ろうとする人」「暗記で勉強を乗り切ろうとする人」「集中力が続かない人」です。

最後の「集中力」の話は後回しで、その他の項目は基本的に根っこが同じです。課題に対して、とりあえず乗り切ることを最優先し、乗り切ったらそれで終了と考える人は要注意です。短期的な効率は高いように見えますが、同じ課題に出くわしたときには同じ苦労をすることになります。生涯にわたって一回だけの課題であればそれでよいですが、そんなことは稀です。結果のみを求める人は課題に取り組む過程で出くわす学びに価値を見出しません。他人に頼るとそもそも学びの機会はありません。暗記に頼る人は、同じ課題には対応できますが、似た課題には対応できません。学びを軽視しているのです。学びの効果は一生涯続くので、長い目で見れば学びを大事にして、結果が遅れたり余計な苦労をしても、学びを得る価値は十分にあります。

プログラミングでは常に学びがあり、際限がありません。プログラミングの醍醐味の一つに「最適化」があります。最適化とはコードの簡潔さ、実行の速さ、メンテナスの良さなどを求めてプログラムを改善する行為です。最適化せずともプログラムは正常に動作し、目的を達せられます。だから、結果だけを見れば最適化は無駄に見えます。でも、プログラミングでは最適化がもっとも楽しいのです。最適化には学びがあります。今まで気づかなかったことに気づいて、パズルを解く楽しさがあります。それを楽しいと思う感性がとても大事だと僕は思います。

プログラミングは組み合わせを見つけ出すパズルのような側面があります。プログラミングはレゴに例えられることも多いです。プログラミングを構成する既知の要素(例えば基本の文法事項やライブラリなど)をうまく組み合わせて望みの動作を実現することがプログラムです。各要素はレゴのピースのようなもの。レゴピースに様々な形があるようにプログラミング要素にもいろんな種類があり、組み合わせに制限があったりします。そういう制限をうまく利用して、くみ上げるのがプログラミングの醍醐味です。

そういった行為を行うには集中力が必要です。難しいパズルを解くのに膨大な時間がかかるように、プログラムを作るのには時間がかかります。訓練でその時間はどんどん短くなりますが、だれでも最初は初心者。必要な時間をたっぷりかけるためには集中力を持続させねばなりません。その大事な集中力が足りない人はプログラミングに向きません・


プログラミングスキルはこれまで書いたコード量の対数に比例する

僕の経験ではプログラミングスキルはこれまで書いたコード量の対数におおよそ比例します。「書いた」というのに「書き写した」は入りません。

プログラミングを学ぶ際は、まずサンプルコードを書き写して動作を確かめます。プログラムを動かすことを目的だと思っていると、コードに注意がいきません。だから、そこに学びはありません。コードの動作を確かめ、動作とコード内容の対応を読み解くことで学びがあります。この動作とコードの対応をちゃんと確かめるかどうかで、最初の一歩に差が出ます。プログラミング適性の無い人は課程よりも結果に興味があるので、プログラムが動作したらそれで終わりになります。だからスキルが向上しません。

次に練習としてちょっとした書き換え課題があったとします。動作とコードの対応をちゃんと理解していれば、どこをどのように書き換えればよいかは簡単にわかるような設定です。その中で学びが設定されているわけです。でも動作とコードの対応を理解していないと、どうやればよいかわからないので誰か別の人に尋ねることになります。親切な隣人はやり方を教えてくれるでしょう。そして課題をこなせるわけですが、結果にだけ興味がある人にとっては結果が出たらそれでおわりなのですから、そこから学ぶことはしません。

ここまでで書いたコードは10行程度でしょうが、適性の無い人は学びがないので、経験値を得られません。次の課題はもっとひどいことになるでしょう。そして、あきらめるのです。さて、どこに問題があったでしょう?

プログラミングスキルは経験値に正の相関があります。というか、自分で書いたコード量を経験値とするなら、プログラミングスキルは経験値のおよそ対数に比例します。これはRPGにおける経験値と能力値の関係にみられる一般的な関係です。この関係は「学習曲線」に基づきます。

Wikipediaによると、$n$個目の商品の生産コスト$C_n$は$C_n=C_1 n^{-\alpha}$であらわされます。$\alpha$はコスト弾力性と呼ばれる値です。これをプログラミングスキルに当てはめると$n$はこれまで書いたコード量(行数)、$C_n$は1行を書くのに必要な「苦労」になります。プログラミング能力は$C_n$の逆数に概ね対応します。

プログラミングスキル(レベル)は概ね作成可能なコード量の対数になります。10行程度で初心者、100行で中級、1000行で駆け出しの職業プログラマ、というのがおおむね常識的なところです。1万行だとエース級、10万行だと超級です。

10万行以上は行数ではカウントできません。タイピング能力の限界があって、10万行をタイプするのに数カ月必要なるからです。10万行になるとオリジナルなプログラミング言語(大体2~4万行)をプログラムに組み込むことができます。そうするとコードが圧縮されます。このコード圧縮によって、実質100万行相当のプログラムが作成可能になります。100万行相当というのは伝説級です。そして、おそらく1000万行相当クラスというのが存在するかもしれません(未確認)。1000万行だとOSが丸ごと作成できます。そのレベルのプログラマは神話級ですかね。

ということで、プログラミングスキルは$\log{C_n^{-1}}=\alpha \log{n}-\log{C_1}$という式が導けます。つまり、プログラミングスキルはこれまで書いたコード量(行数)の対数に比例するということがわかります。(証明終わり)

プログラミング適性のある人は、どんどん経験値(コード量)を稼ぎ、スキルアップします。最適化に取り組むのは効率の良い経験値稼ぎです。最適化が性に合うと経験値がどんどんアップするので、プログラミング能力の成長が加速度的に向上します。あっという間に差がつくわけです。

1000行程度のプログラミングスキルはプログラミングを専門に学ぶ学生が3~4年かけて身につける技術レベルです。一般の教師がこのレベルに達していることは稀です。しかし、適性のある子どもは2~3カ月でこのレベルに達する場合があります。1000行程度が書けると、まあまあのゲームなんかでも収まるので、子供は嬉々として取り組むでしょう。その先のレベルはいろいろ勉強しないとだめなので、子供にはやや難しいかな。

いずれにせよ、学校の先生が指導できるレベルなんて早々に超えてしまいます。子供は簡単に増長しますから、指導を誤ると危険です。1万行クラスに至るにはプログラミング以外の知識が重要になります。最近なら、ネットワークプロトコルとか並列処理とかAIとか。複数言語を使いこなす訓練も大事です。高卒レベルの数学は必須です。英語のドキュメントを読む能力も必須です。可能なら機械翻訳に頼る必要がないレベルまで習熟した方が良いです。そういう周辺知識の習得は小学生には無理なので、そういう知識を身につけるために勉強を頑張りなさい、と指導するしかありません。


自分で課題解決するメンタリティー

僕は職業プログラマの人たちとも仕事をした経験があります。優秀な人は自分がプログラムを書くという前提に立ち、学習に臨みます。ちょっとした数学が必要だとします。普通の人は理解があやしい部分があったとしても、全体的に理解していれば学習完了と判断します。でも優秀なプログラマはそういう「理解が怪しい部分」があると、その部分をしつこく質問します。なぜなら、その知識を用いてプログラムを作ろうとすると、一か所でもわからない部分があったらプログラムが完成しないからです。理解のレベルのが数段高度にあるのです。

プログラマとして優秀な人ほどこの傾向が強いように感じます。僕は中学生のころにプログラミングを始めたので、高校生のころにはこうしたメンタリティーにどっぷりつかっていました。特に効果があったのは物理です。原理原則を理解して組み合わせて課題を解決するという物理の哲学はプログラミングに通じるものがあります。原理原則の学習には普通の人より時間がかかりますが、理解してしまえばあとは勉強が必要ありません。特に物理では理解の深さが重要で、問題が解けるかどうかではなくて、問題を解くのに必要となる物理法則の選定、適用方法、組み合わせ、結果に対する予想など細かな部分まで理解しておくと応用が利きます。その応用は他の単元あるいは科目でも同じように利くので、指数関数的に得点が伸びます。問題のパターンを覚えるより、はるかに効率的です。

一つ一つの基本的な課題を時間をかけてじっくりと理解し、わからない部分をなくすというメンタリティーあるいは問題に対する態度は、短期的には不利なのですが、長期的には有利ということです。長期的な利益を見据えて学ぶという戦略は現在の学校教育では割を食ってしまうわけで、プログラマ向きのメンタリティーを持つ人々が割と冷遇されている理由なわけです。冷遇されているので、そういう人たちは目立たないので、実態がわからず、わけのわからない教育改革がなされているんだと思うのです。

プログラマは効率を重視します。掛け算の効果を熟知しています。効率20%アップと50%アップの2つがあったら、$20+50$の70%ではなく、$1.2\times 1.5=1.8$の80%アップになることを知っています。最初の経験を生かして2回目に20%アップ、3回目でさらに50%アップと段階的に効率アップするより、最初の課題が遅れても最初に80%アップまで効率化すると、最初の課題は時間がかかっても2回目以降は爆速になることを知っています。そして、効率化はやっつけ仕事より常に有利であることを知っています。だから、最初に時間をかけて学ぶことは無駄にはならないと知っています。そういうメンタリティーを持っているということがプログラミング適性です。そしてそういうメンタリティーはプログラミングの経験を積み重ねていく過程でさらに強化されます。


学生にプログラミングを指導する苦労

僕は研究室の学生にプログラミングを指導することがあります。必ず本人の意思を確認し、適性を見ながら指導内容を決めます。なるべくプログラミング以外の要素を多く設定し、その間にプログラミングスキルの熟成を待ちます。

プログラミング言語の文法に関する学習をなるべく少なくします。高校の時の英語の先生が変わった人で、大阪大学の英文科卒業だけど、英会話はできないと公言してました。でも、文法は自信があるとも言ってました。そして文法は大事だけど文法を知っていても英語は使えないと自身の経験とともに教えてくれました。同様にプログラミング言語も文法を勉強してもプログラムは書けません。プログラミング言語も英語と同様に言語の側面をもつので、使わなければうまくなりません。文法を学ぶというのはその言語を使うこととは違うのです。

ChatGPTは使ってもよいですが、参考にとどめるべきです。ChatGPTの出力するコードは簡単なものなら動作しますが、ちょっと複雑なものになるとすぐに誤動作します。想定している動作をしない場合に、どこがダメなのか特定する能力がないと、すぐに行き詰ります。どこがダメなのか特定するには、コードを読み解いて、動作を追う技術が必要です。読み解いた動作と想定している動作の違いを分析し、想定している動作になるようにコードを書き換えます。これは紛れもなくデバッグ作業です。プログラミングスキルが中級くらいだと、デバッグがプログラミング時間の大半を占めます。ChatGPTは100行のコードを楽々出力してくれますが、その中には複数のバグが必ず混入します。そのバグを取り除く作業は自力で100行書くよりおそらく時間がかかります。他人のコードを読み解くのは初心者にはつらい作業だからです。さて、あなたはChatGPTを使いますか?

結局のところプログラミングスキルの向上にズルはできません。AIを使っても結局は自力の勝負。時間をかけてトレーニングしないと能力の向上はありません。常に学び続ける必要があるのです。そのためには学び続けることを苦にしないメンタリティーが大事です。学びを行動原理に組み込むというのが早道だと僕は思っています。あらゆる行動・結果から学びを得るという貪欲さが大事だと思います。学ぶことは苦痛を伴います。放っておくと人は学ぶことを避けるようになります。学びに価値を認め、喜びを見つけることができる人は何事にも適性があると思います。学びに価値を認め、喜びを見つけるというのは能力ではなくて、むしろ性格の問題です。つまり、プログラミング適性は性格に依存する、ということです。QED。






2025年2月6日木曜日

やっぱり小学校の英語教育の必修化は失敗だったみたい

 ヤバいネット記事を見つけた

https://news.yahoo.co.jp/articles/b9f03a7e060e2987eedb37b6ad12481042b33c7c

深刻な学力格差、英語嫌いの子が増えた根本原因 英語教育学の専門家が戦慄した調査結果の数々

小学校の英語教育の効果を調査した結果報告と分析。要点をまとめると、

  1. 小学校6年生の英語嫌いの割合が、20%から30%に増加した
  2. 高校入試時点での英語の成績は二極化している
  3. 中学校までで習う単語数が倍増して、中学校での落ちこぼれが増加した
  4. 中学校の英語教員の70%は教科書が難しくなったと感じている
  5. 分厚くなった教科書を履修するために、昭和時代のような一斉授業形式に戻った

どれもヤバい内容で、ジョークなら面白いですむけど、子供たちが現在進行形で犠牲になっているというのはあまりにも悲劇だ。小学校、とくに低学年での授業では、勉強をさせるというよりは、その科目を好きになってもらうというのが最も重要だ。勉強を教えようとしても子供が嫌がってまったく教えられないというのは、子育ての中で何度も経験した。そういう意味で、項目1は罪深い。第一目標が失敗に終わっている。

「使える英語」を目指すなら、語彙を増やすことは重要だ。実際、中学校までで習う単語数が1200語から2200語に増加したそうだが、まだまだ足りない。日常会話が可能なレベルでは5000語必要というのが常識だからだ。まだ半分。高校でさらに倍増というのが目論見だろう。でもそれは無理だ。現状、高校卒業時点でおよそ2500語くらい。しかも、辞書の第一義との1対1対応のみ。そりゃ、英語が使えないはず。それを何とかしようと、無理やり語彙量を引き上げるという計画だったのだ思われる。見事に失敗している。

語彙を増やすために教科書が分厚くなって、授業時間が足りないので、マスエデュケーションに逆戻りって、制度変更する前に予想された事態のはず。文科省の役人は頭が悪いようだ。知ってた。


テストの問題が指摘されている

小学校での英語必修化では英語が成績評価の対象になる(必修化とはそういうこと)ため、小学校5年生からは英語のテストが実施されているそうだ。これが英語嫌いに拍車をかけていると指摘されている。僕も英語のテストには反対の立場だ(英語のテストを廃止してみる?の記事)。

さらに記事では、増加した英語嫌いの状態で中学校に上がるので、中学校の英語の先生はパニック状態だという指摘がされている。中学校の先生からすると、小学校で英語を少し学んでくるので楽できそうだと期待していたら、最初から英語嫌いの子供がやってきて、むしろマイナススタートという地獄絵図。さらに内容が増えたので、子供たちに手がかけられず英語嫌いは悪化の一途。崩壊寸前?いやぁ、見事な大失敗。

パソコンやスマホを活用したマルチメディア教材の導入で学習効果を上げようという目論見も、「近年の研究では、スマホやパソコンによる学習は脳が活性化しにくく、記憶定着率が低いことが指摘されている」とあり、万事休す。

最後は、

「望まれる外国語教育改革は、過重なノルマや数値目標で子どもを追い立てることではない。すべての子どもに外国語を学ぶ喜びをもたらし、「ことばの力」と「協同する心」を育てることであろう。」

と締めくくっており、指摘項目1がそもそもの問題だという論調。僕もそう思うよ。


悪いのは誰か?

教育制度改革というのは影響範囲が大きい(1000万人ちかい教育年齢人口全体に波及する)ので、大きな改変は慎重になるべきだ。教育は本来は年次進行すべきで、小学校1年生から高校3年生までを文科省の直接管轄するなら、改革の効果は12年後にしか評価できない。途中修正が極めて難しいというのが教育制度だ。ゆとり教育は導入にも廃止にも数年かかっており、脱ゆとり世代は今ようやく社会に浸透してきたところだ。

教育制度改革は範囲・時間ともに大がかりにならざるを得ないので、小規模試験を実施して、問題点を事前に修正しなければならないはずだ。その小規模試験をしているのは、主に教育大学ということになる。

教育大学では、大学の教員たちが学校教育を改善する方法を日夜研究している。逆に言うと教育改革について何も提案できないようであると仕事してないとみなされてしまう傾向にある。研究の中では様々な試行錯誤が行われ、その時の実験、動物に相当するのが教育大学附属小中学校の子供たちということである。

教育大学付属小中学校は長期間にわたる一貫教育が行われる。しかも国立なので、しばくよりも学費は低くお得ということで相当な人気になっている。しかしながら、あまりに先進的な教育は保護者からの評判が悪いこともあって、稀に問題になっている。教育大学付属小中学校で行われる実験的な教育の試行錯誤は成功が保障されていないので、まあまあの頻度で失敗していると思われる。ところが教員の評価は失敗すると下がって、失敗は隠蔽され、あたかも成功したかのように報告がなされることになる。そういった玉石混交の教育改革案が文科省に奏上されることになる。

文科省の教育関係の役人は教育制度の改革に成功すると評価が高くなるので、常に教育を回復したいと計画することになる。教育大学から上がってくる報告書を見て、良さそうなものピックアップして採用することになるだろう。

そのような教育制度改革案は教育大学ですでにパイロット試験が行われているので、本当言えば問題点の洗い出しとかそういうものが済んでいて、拡大試験をしなくても安全に施行できると思っても仕方がないかもしれない。あるいは拡大試験をしているのかもしれないが、拡大試験には相当な予算を使うことになるので、試験結果が悪い場合に計画を白紙撤回するというのは非常に難しい。その結果、多少の問題があったとしても、目をつぶって思い切った教育制度改革が行われることになるのだろう。

悪いのは教育の研究者、文科省の役人。被害者は子供たちである。


わずかな光明

話を教育全般まで広げてしまうとまとまらない感じなので、英語教育に絞ると、リンクの記事には少しの光明が見いだせる。

  1. 英語教育において重要な指標として、英語が嫌いかどうかが重要
  2. 小学校英語にテストを導入したことが「英語嫌い」のきっかけになっている
  3. タブレットなどの利用は効果を期待できない

語学に限らず、勉強の対象を好きになるということはとても重要だ。特に語学はその傾向が強い。しかも、特定の言語を好きになる理由は、言語そのものへの興味だけではなく、その言語がもたらす利益の側面も大きい。外国語の習得によって、その言語の話者たちとコミュニケーションが取れるようになるというのは、昔からある語学習得の利益であり、特に、特定の人(友人・恋人など)との会話のために言語を学ぶケースも多い。

現在、日本語は空前の人気を誇っており、外国人はこぞって日本語を勉強している。理由はマンガやアニメといった日本の誇るコンテンツを楽しむためである。外国語文学の研究者も同じような理由で当該言語の学習を欠かさない。語学は他の教科と異なり、実用上のメリットがはっきりしているということがポイントだ。

英語を好きになってもらうために、英語話者と友人になるとか、英語コンテンツを視聴するというのが一つの方法になるだろう。インターネットの普及により、遠隔地との会話が簡単になっているので、これを利用しない手はないと思う。海外の学校と会議システムでつないで垂れ流しておくだけでよい気がする。

英語テストが英語嫌いの原因であるというなら、英語テストをやめてしまう、あるいは形式を大幅に変更するとよいだろう。音楽、美術、体育など、多少の好き嫌いはあるけど、「やりたくない」ほど嫌いな人はほとんどいないはずだ。多少出来が悪くてもだれも文句を言わない。英語もこれらの教科と同じような形式にすればよい。すくなくとも、自由に会話できるレベルに到達するまでは。

タブレットなどを使った動画視聴の活用は良いと思うが、それに頼るのは良くないのだろう。AIを使った英会話学習が少しずつ進んでいて、確かにAIは英会話の練習にとても良いように思う。電子機器を用いた学習を何らかの形でモニタリングできる仕組みが必要に思う。

少し話は変わるが、最近、「ディスレクシア」という言語障害が学校現場で認知されており、対応が進んでいる。ディスレクシアとは、知能に問題がないのに、文字が書けなかったり、読めなかったりする言語障害である。文字が書けないというのは、鉛筆等を動かす運動機能と言語機能の連携がうまくいかないというケースが多いらしく、文字は書けないけど、タイピングはできる、という場合が多い。そのため、高校などではタイピング専用端末(基本的にポメラ)を使っていて、大学入試でも使いたいという申請が結構な頻度である。基本的に許可しないのだけど、その理由は不正の可能性を排除できないということである。電子機器の場合、ソフトウェアに手を入れられると不正を見破ることが極めて困難になる。かといって、大学側で端末を用意すると、端末購入費がかかるうえ、受験生がその端末に慣れていないと不利になる。大学としてはそのような端末は入試の時のみに使う可能性があるだけの物品であり、1年以上倉庫にしまっていて、いざ使おうと思ったら故障しているなんて場合も想定される。買い替えるにしても、多分特注のマイナーな端末は受注生産に違いなく、調達に数カ月かかって、入試に間に合わないなんて事故も予想される。潤沢に資金があればよいけど、文科省は大学の予算を削りに削って大学にお金はない。

入試に限らず、電子端末による試験を導入する方が効率的だと思うのだが、カンニング対策が問題になる。端末を試験にだけ使うのはもったいないので、講義などでの活用を当然考える。それなりの機能を持つ電子端末はすべからくネット接続できるようになっている。講義で使うのならネット接続は必須である。でも試験の時はネット接続はまずい。ネット経由のカンニングに対して有効な手段があれば問題なのにね。

ディスレクシア対応を大学が断るのは「教育の機会均等」という日本国憲法の精神に反するので心苦しく思っている。だから、文科省にカンニングできない電子端末を規格化してもらうのが最も良い方法だと常々上奏している。そういうものがあれば、通常の授業や試験でも活用できるはずだ。ま、文科省はそんな能力がないので、全然対応しないだろうけどね。

ともかく、学校における英語教育、とくに低年齢層については、制度改革の効果の指標として「英語好き」「英語嫌い」を筆頭に挙げてもらうのが最も良いと僕は思っている。テストの成績は、勉強時間×集中力に比例する。「好き」であれば、時間も増えるし、集中も増す。そんな簡単なことがわからないなんて、信じられない。