2026年9月3日木曜日

フィッティングと機械学習

 PRMLという標準教科書

機械学習と言うのは今では人工知能(AI)とほぼ同義の専門用語である。正確に言うと機械学習は人工知能の実現方法の一つでしかないのだが、現在流通している人工知能の大半は機械学習をベースとしてるものだ。機械学習と言う概念が一般化したのは2000年代であり、人工知能の概念に比べると比較的新しいと言える。

ご存じのように人工知能は爆発的に普及しつつあり、現在、最重要課題の一つである。そのため、多くの人がそのベース技術である機械学習に興味を持ち、様々な解説が世の中にあふれている。しかしながら、機械学習のルーツは人工知能とはかけ離れたフィッティングにあり、人工知能とフィッティングの両方に精通した人は最先端の研究で忙しいことから、一般向けの解説ではうまく説明されていないように思う。

機械学習の分野ではC. M. Bishopの「Pattern Recognition and Machine Learning (PRML)」という本が標準教科書とされている。日本語訳が共立出版から2分冊として販売されている。手心を一切含まないことで定評のある黄色い本のシリーズである。驚くべきことに、このPRMLの上巻はほとんど丸ごとフィッティングの基礎について書かれている。下巻も半分くらい高度なフィッティング技術についての解説となっている。読者の多くは人工知能に興味のあるソフトウェア技術者なので、少々面食らうことになる。

フィッティングは数値計算の一分野であり、計算機科学の一部ではある。そのため、ソフトウェア技術者は、そういう技術が存在すること、ライブラリがあること、を知っている。大学などでフィッティングの基礎(最小二乗法)について学んでいるかもしれない。でも、フィッティングの専門家でない限り、19世紀の技術である最小二乗法の知識にとどまる。だからこそ、PRMLでは、機械学習で必要とされる進んだ=モダンなフィッティング技術、をコンパクトに記述している。このコンパクトさは、まあまあ妥当なんだけど、手心を一切含んでいないので、本を読むだけではなかなか理解できない。そのため、機械学習の研究室では「PRML読書会」が普通だし、「PRML解説本」すら存在する。ソフトウェア界隈の傍流であるフィッティングを理解するには、周辺の理解を含めて膨大な「新規学習」が必要なのだ。

ソフトウェア界隈の主流の一つである人工知能分野ではニューラルネットワークという概念が今も支配的である。ホップフィールドがニューラルネットワークの概念を提案し、学習プロセスとしてバックプロパゲーションというアルゴリズムを導入することで、本格的な人工知能研究が始まったという歴史的な経緯がある。そのため、人工知能=ニューラルネットワーク≒ホップフィールドモデルというのが人工知能分野のセントラルドグマとなっていた。そのため、人工知能の導入においてはほぼ必ずニューラルネットワークへの言及がある。ところがPRMLではニューラルネットワークの話が欠落している。


ニューラルネットワーク信仰

ある程度人工知能に関する知識を持つ人はニューラルネットワークという言葉が出てくると安心するらしい。しかしながら、機械学習は最初の段階でニューラルネットワークと決別することで発達してきたという側面がある。機械学習とニューラルネットワークの最大の違いは「ニューロン」に相当する要素の数である。機械学習の要素数は、従来のニューラルネットワークの要素数に比べて1万倍から1億倍となっている。そのため、「ニューラルネットワークの構造(配線)」という考え方が機械学習では存在しない。従来型の人工知能が、計算規模抑制の観点から、なるべく小規模なニューラルネットワークで複雑な機能を実現しようとしていたのとは対照的に、機械学習では計算規模の制約を取っ払って力業で複雑な機能を実現するという点で、思想的に異なる。

「計算規模の制約を取っ払う」には計算規模の問題だけでなく、計算の不安定化の問題を解決しなければならなかった。計算規模の問題は21世紀に入って急速に発達したGPUによる計算技術が解決策となった。計算の不安定化の問題はフィッティング技術の発達が解決策を与えた。GPUによる計算はエンジニアリングの範疇であり、科学的な飛躍と言うわけではない。一方、最先端のフィッティング技術の導入は機械学習の核心と言える。

ご存じのように人工知能は爆発的に普及しつつあり、現在、最重要課題の一つである。多くの人がそのベース技術である機械学習に興味を持ち、様々な解説が世の中にあふれている。しかしながら、機械学習のルーツは人工知能とはかけ離れたフィッティングにあり、人工知能とフィッティングの両方に精通した人は最先端の研究で忙しいことから、一般向けの解説ではうまく説明されていないように思う。


フィッティング

フィッティングという概念が確立したのは19世紀初頭の小惑星ケレス再発見に端を発する。ガウスはケレスを再発見するために最小二乗法を考案し、利用したと言われている。最小二乗法はフィッティング変数が増加すると計算量が爆増するため、大規模なフィッティングは実用的ではなかった。変数が2個程度であれば、プロットして近似直線を引くのが簡単だ。変数3個なら最小二乗法も可能であるが、変数が4個になると手計算が困難になってくる。問題を工夫して変数2個のフィッティング問題に帰着させるというのが、現実的な解であった。

そういった状況が150年ほど続いたが、状況を一変させたのは第二次世界大戦であった。第二次世界大戦では大砲による精密射撃が戦況を左右するため、砲撃の誤差を修正する方法が重要となった。空気抵抗や風の影響を考慮した弾道計算はかなり複雑でパラメータも多い。そこで米軍は軍属や未亡人女性を中心に大規模な人力フィッティング計算を行っていた。それでも計算量が莫大であるため、省力化のための研究も行っていた。その中でLevenbergが画期的なフィッティングの省力化手法を開発した。彼の手法が戦争で実際に役立ったのかはわからないが、米軍の紀要に発表している。

Levenbergの仕事はほとんどだれの目にも触れなかったが、第二次世界大戦後に急速に発達した計算機技術の重要な応用分野としてフィッティングが研究され、MarquardtがLevenbergと同じ省力化手法にたどり着いた。この方法はLevenberg-Marquardt法(LM法)と呼ばれ、非線形最小二乗法の計算コストを10分の1程度に圧縮した。

LM法は限定的ではあるが、フィッティングパラメータ数の上限を撤廃する効果を有していた。つまり、安定性の問題はあるが少ないデータで大量のパラメータを決定できる可能性を拓いた。その可能性に目を付けた一部の研究者は「逆問題」という分野を形成し、より高度なフィッティング技術を次々に生み出すことになった。

2000年頃、機械学習の創始者たちは任意のニューラルネットワークが標準的なフィッティング計算に「完全に含まれる」ことに気が付き、ニューラルネットワークを捨て、行列演算で人工知能問題を解くようになった。そこではホップフィールドのバックプロパゲーションは最小二乗法より原始的な最急降下法であることが示され、より高度なフィッティング技術を移植して学習プロセスをより柔軟に運用することができるようになった。

計算機技術の発達により、機械学習は規模の臨界点を超え、万能性を獲得し、今に至る。ホップフィールドとの決別こそが、人工知能爆発の原動力だったというのが僕の見解である。なのにホップフィールドにノーベル賞を与えるとは!嘆かわしい。


人工知能の数式

うちの研究室では、最もシンプルな人工知能を次式で表している。

$Y_i=X_{ij} A_j$

大文字の英字は行列あるいはベクトル(列が1個の行列)である。添え字は行列あるいはベクトルのサイズ(次元)を表している。添え字が2このものは行列、添え字が1個のものはベクトルである。この表式は、機械学習の基本式であり、人工知能が基本的に巨大な連立方程式であるという理解を与えている。見てわかるように、ここにニューラルネットワークが入り込む余地は全くない。

この式において、$A_j$は人工知能への入力、$Y_i$は人工知能からの出力である。そして、人工知能の本体は$X_{ij}$である。この式は、人工知能を使う場合の数式である。

一方、人工知能には学習という大事なプロセスがあるが、この数式における学習とは、多数の$Y_i$と$A_j$の組から、$X_{ij}$の要素を決定すること、だと定義される。もし、$A_i$に「逆数」があれば、$X_{ij} =Y_i A_j^{-1}$として$X_{ij}$が求まるがこれはできない。学習データである$Y_i$と$A_j$は多数あるとして、それに$k$のインデックスを与えれば、$Y_{ik}$と$A_{jk}$となり、$Y_{ik}=X_{ij} A_{jk}$と書ける。これでも$A_{jk}^{-1}$は作れないが、

$X_{ij} =Y_{ik} A_{jk}^t ( A_{jk} A_{jk}^t )^{-1}$

とすれば、形式的には解ける。ちなみに、この数式、ほとんど最小二乗法と同じものである。ここから、フィッティング技術を利用した様々な学習技術が編み出されることになる。


こんな簡単なことなら、もっと早くに機械学習の概念が認知されてもよかったと思うかもしれない。でも、フィッティングと人工知能の融合には一つの極めて重要なブレイクスルーが必要だった。それは、パラメータ数>>データ数という条件を認めるかどうか、というものだ。

一般に、フィッティングではパラメータ数はデータ数より十分小さくなければならない。最小二乗法などはこの条件を満たさない限り、数学的に破綻する。パラメータ数がデータ数を上回るということは、ちょっとの実験で、多くの解析結果が得られるということになり、実験科学における錬金術のような状況が生まれてしまう。パラメータ数<データ数という条件は、科学の正当性を担保する哲学の一部になっている。しかしながら、機械学習では$X_{ij}$の要素数は膨大で、$Y_{ik}$と$A_{jk}$の要素数よりはるかに多い。つまり、パラメータ数>>データ数というフィッティング問題になっている。

ここで、2つの障害が立ちはだかる。パラメータ数>>データ数でフィッティングを実行できるか?ということと、パラメータ数>>データ数であるフィッティング結果に意味があるのか?という2つの問いにどちらもYESで答えねばならないということである。

20世紀末~21世紀初頭にかけて、この問題について、徐々に認知され、そして両方ともYESで大丈夫という共通認識が形成されるに至っている。パラメータ数>>データ数でフィッティングを実行できるか?というのは、実際にそれが実行可能であるという事例を示すことで解決した。非線形最小二乗法の代表的な改良法であるLevenberg-Marquardtはパラメータ数>データ数でのフィッティングを可能にする。20世紀後半に登場したフィッティング技術であるMaximum Likelihood、Maximum Entropyも、同様の効果をもたらす。そしてとどめは、Sparse Modelingで、パラメータ数>>データ数という極端な条件でも安定して良好な結果が得られることを実際に示した。一方の、パラメータ数>>データ数であるフィッティング結果に意味があるのか?については、数学的にはなんと100年も前から、裏付けがあったということが再発見されている。すなわちMoore-Penroseの一般逆行列の存在が数学的な裏付けとなっている。

そして、パラメータ数>>データ数でのフィッティングがなぜ実行できるのか?ということに関しては、Tikhonov Regularizationという考え方が、根拠を示している。ターゲット関数に付加項を考えることで、解の可能性を絞ることができ、フィッティングを安定化させられるのだ。こうして全方位的に、パラメータ数>>データ数の問題を解決した結果、フィッティング技術は全く別次元の応用分野を見出すに至った。それが機械学習である。機械学習が21世紀初頭に急速に発達したのは、フィッティングにおけるこれらのブレイクスルーが直接のきっかけだったとも思われる。現代の人工知能を語るうえで、機械学習技術は基礎をなしており、機械学習技術のかなりの部分がフィッティングの分野からもたらされているのだから、機械学習の聖典であるPRMLの大部分がフィッティングに関する記述であっても、まったくおかしくないわけである。


2026年3月26日木曜日

落ちこぼれないために落ちこぼれるという戦略

 学者という商売。僕のこと。

一般の基準に照らし合わせれば、僕は知的階級の頂点付近に位置する学者と言う職業についている。そして学者としてはあんまり優秀ではないんだけど、能力的には学者の中でもかなり上位に位置している、と思っている。学者に要求される能力と言うのは多様で、そのすべてで及第点を要求される。知識量が豊富なこと、理解が深いこと、洞察力に優れること、発想力が豊かなこと、実行力が高いこと、論文執筆に秀でること、それから事務能力が高いこと。

最初の方の項目は割とわかりやすい。そして論文執筆能力は学者としての成否を決定的にする。最後の事務能力は実は中年以降にとても大事になってくる。研究室を差配し、組織を統括する能力は研究とは真逆だ。

僕は最後の2項目を除いて、おそらく優秀だと思う。論文執筆が不得意(性に合わない)なので、学者としては2流にとどまる。事務能力に関しては完全に破綻している。持ち前の理解力と洞察力でなんとかしているものの、勤勉さとは対極にあるため他の人たちのサポートが必須だ。なさけない。

一つのことに突出することを求められがちな学者だけど、実はいずれの項目についても平均以上の能力を要求される。もちろん、完全にとびぬけていれば許される場合もある。例えば、数学や物理の理論分野が該当する。著名な理論物理学者の中には完全に話の通じない人も少なからず存在する。かのアインシュタインもドモリがあったし、女性関係は支離滅裂だった。そういった例外はあるもの、学者の世界において優秀とは、勤勉で物わかりの良い「秀才」を意味する。


学生時代

大学に入学して思い知らされたのは、講義内容がさっぱり理解できないことだった。特に数学。ついで物理。高校時代はいずれも僕の得意分野だったので、大学の講義内容が理解できないことにたいそうショックを受けた。そして、理学部ではそういった講義を修めた上で研究に携わるという。僕は工学部だったので多少はマシなのかもしれないけど、講義内容を理解できる見通しが全く立たないので自分の能力の不足を恨むしかなかった。学年が上がるごとに講義内容は高度化して、すくなくとも一部はあきらめるざるを得なかった。

一方で、講義を担当する教官たちは、僕が理解できない内容をさも当たり前のように講義する。当時の僕は講義内容を理解できないのは僕の能力と努力が不足しているのだと思っていて、じっと講義を聞いているばかりだった。確かに教官たちは「正しいこと」「結論」を正確に述べているのだろう。でも僕には、「そもそもその話の必要性がわからない」し、「その話の結論がどのような意味があるのもわからない」。また、「その話が何を対象にしているのかもわからない」ので、「どこから手を付けたらよいのかわからない」。わからないこと尽くしで混乱するばかりだし、わずかにわかる話も、論理の根拠が十全に説明されているようにも思えないので、納得がいかない。僕はずっと悶々として過ごした。

処世術として、わからないなりに受け入れて、試験を暗記で乗り切って単位を貰って次に進む、というものがある。これは合理的な対応で、おそらくほとんどの学生たちはそのように対処する。でも僕は、大学での勉学を、将来社会に出たときに必要になる事柄と考え、わからないまま単位を貰ってわかったふりをするのは間違っていると思い、理解できるまで単位を放棄するという方針を貫いた。ごめんなさい、言いすぎました。本当は、落単すると留年する単位は涙を呑んで単位を取りました。そんなわけで、僕の学部時代の学業の成績はひどいもので、成績表をして水戸黄門と呼んでました。その心は「可、可、可...」

僕みたいなことをしていると、「落ちこぼれ」になるわけです。要領の良い人たちは、落ちこぼれないために、「わかったことにして先に進む」という選択をする。つまり、落単して落ちこぼれるよりは、落ちこぼれていることを隠すという戦略を取る。往々にして先の勉強をしているうちに、以前わからなかったことがわかってくるということがあるので、悪い選択というわけでもない。

いや、とっても優秀なら、たくさん勉強してちゃんと理解して先に進んでいけるのかも。リチャード・ファインマンの大学時代のルームメイトによるファインマンの逸話を読んだことがある。ファインマンは学生自分からめっぽう勉強ができて、何を聞いてもスパスパ答えてくれたらしい。ある時、ルームメイトがファインマンに次のように尋ねた。「どうやったらそんなに勉強できるの?」ファインマンは「朝から晩まで寝食を削って勉強するんだよ」と答えたそうだ。何事にも魔法はなく、才能よりも努力が重要と言うエピソードである。ま、そういう努力のできる人たちだけが到達できる世界があるわけで、研究者の世界はそういう人ばかりということなんだろう。そういう人を養成するという目的ならば、落ちこぼれ上等、でわけのわからん講義も正当化される?かもしれない。ちなみに、ファインマンは20世紀を代表する超のつくド天才。例外中の例外。

さて、「わかったことにして先に進む」を選択し、「以前わからなかったことがわかってくる」を期待するも、そうならなかったらどうなるか?実のところ、このようなケースが多いというか、ほとんどだ。「以前わからなかったことがわかってくる」なんてラッキーはそうそう起こらないものだ。しかも、「わかったことにして先に進む」というのは基礎科目の最初にこそ多い。基礎科目と言うのは簡単だから基礎と言うわけではない。重要だから基礎なのだ。そして重要であるというのは、概念的に他の要素と独立しているからこそ重要と位置付けれられる。要するに、重要=特別に勉強しないといけない=難しい、ということだ。だから、基礎科目は往々にして難しい。そして最も難しいのは冒頭に説明されるその科目全体に影響する「概念」である。そして「わかったことにして先に進む」ときに「わかったことにする」内容こそ、その「概念」で、それが理解できていないとその科目全体の理解が浅くなる。つまり、努力の割に学習効果が薄いという状況が生まれる。

そして基礎科目は他の科目の土台になる。基礎科目の理解が浅いとその上に構築される科目の理解も浅くなる。そうして非効率な勉強が再生産されることになる。ファインマンはやはり賢い。「わかったことにして先に進む」ことをせず、コスト度外視で勉強して理解するという選択により、より高み到達できる。実際、ファインマンは誰よりも高み到達できている。僕も「わかったことにして先に進む」ことを否定したものの、ファインマンのようにコスト度外視じゃなくて、単に打ちひしがれてた。差を感じるよ。


さて、紆余曲折合って今の僕は学者で、大学で教鞭をとっているわけで、立場は教官となった。うちの大学だけかもしれないけど、「○○さん、この講義お願いね~」と軽い挨拶みたい感じで講義担当が依頼されてしまう。僕の専門とか適正とか、考慮した上での差配ではあるんだけど、あまりにも大雑把。しかも、内容は担当者に丸投げ。基礎科目だったら誰でも講義できるっしょ?みたいな前提で物事がすすんで、実際に講義がなされる。講義内容と教官の専門分野に直接の関係がないこともしばしば。教官がその講義内容をきちんと理解しているかどうかはノーチェックなのだ。実際、僕の知る限りでも、中途半端な理解で講義をこなしていた人も実際に存在した。学生はとんだとばっちりである。

実際、ファインマンみたいな人は稀で、学者と言えども「わかったことにして先に進む」選択をしてきた人たち。「以前わからなかったことがわかってくる」なんてラッキーに巡り合えた人は稀。つまり、基礎科目と言えど、いや基礎科目だからこそ、理解が曖昧だったりするのだ。だから、教官が科目内容を十分に理解していないというのは実は普通のことなのだ。

で、思い当たる。ああ、大学時代の教官たちは自分でも理解が不十分なことを学生に講義していたんだと。ああ、だからあんなに説明がザルで、根拠が希薄で、意味があいまいだったのだと。そんな講義を受けて理解できるわけがない。僕の頭が悪い(実際、処世術に徹しきれないという点で頭は悪いのだけど)わけではかったんだ、と。もしかすると、僕にも理解のチャンスがあったのかも、と。

恨み節はあるけれど、それを今言っても仕方ないし、僕にできることは、そういう無責任な講義をしないことだけだ。僕は基本的に、僕がきちんと理解したことしか教え(られ)ないし、僕の理解をかみ砕いて説明するようにしている。講義はもちろん、普段の学生とのやり取りでもそうだ。また、わからないことはわからないとはっきり言うようにしている。わからない理由がはっきり説明できるのなら、わからないことは恥ではない。


微分方程式の完全理解

僕は数学者じゃないので数学に関する厳密さはわからない。でも、微分方程式の解き方に関して、とりあえず一点の曇なく理解できていると思っている。そのレベルに達するまでに15年くらいかかってしまった。

微分方程式は理系の学生の必須科目で、避けられない。でも僕は学生時代に微分方程式の解法に納得がいかなくて、物理の最初の講義「力学」に3年かけた。力学は基礎の基礎なので年2回開講で、僕の学科では研究室に配属されるための必修科目。履修登録はしていたけど、微分方程式の解法が理解できるまでは合格してはいけないとして試験を受けなかった。結局、留年のかかった最後のチャンスで信念を曲げて理解しないまま単位を取った。屈辱だった。

同じように微分方程式がからむ数学も合格を拒否した。数学は別の数学科目で補えたので、数学の微分方程式科目はスキップした。最初に微分方程式が登場する量子力学も当然のように合格を拒否。そうすると取れる科目が限定されて、卒業も結構ギリギリだった。

大学院の院試では微分方程式以外にも多くの理解不能な話があった。そういうのは研究室の先生に尋ねればよかったのだが、当時の僕はかなりナイーブだったので、研究室の先生に気軽に質問するとかできなかった。頼りは院試の過去問と一緒に入手した模範解答なんだけど、それが納得いかない。今から思えば、稚拙で間違いを含む解答であり、僕が納得いかなかったのはしょうがなかった。僕はそういう納得いかない説明を答案に書くのを拒否し、その結果、答えられる設問が少なくなり、院試は最低点付近でのギリギリ合格だった。周囲が驚いていたのを覚えている。

こうした僕のやり方はあんまり褒められたものではない。当時の僕は遅ればせながら「ツッパリ」だったと思っている。ある意味、社会に対する反抗期。ただ、もう大人なので、そのデメリットを全部自分で受け止めるという、なかなか愚かな試みだった。

大学を卒業して30歳になろうかという時期にようやく微分方程式を理解することができた。きっかけは何だったのだろう?誰かにフーリエ級数とフーリエ変換の関係を説明していたんだと思う。フーリエ変換で微分方程式が解けるのだから、フーリエ級数でも解けるはず、というインスピレーションが浮かんだ。それは当然のように解ける。フーリエ級数はあらゆる周期関数をカバーするのだから、フーリエ級数を用いて解かれた微分方程式はあらゆる周期関数の可能性を調べつくすことになる。フーリエ変換は周期が∞の関数を含むので、周期関数以外も調べつくすことができる。なるほど、と。しかも、フーリエ級数の特別な性質により、級数全体ではなく、一つの項を調べるだけですべての項を調べることになるということに気が付いた。そしてそれは三角関数を一般解とした微分方程式の典型的な解法と全く同じになった。ここに至って、僕たちが学ぶ微分方程式の解法は、フーリエ級数に基づくものであり、それを大幅に簡略化したものだった、という理解につながった。僕たちは省略形しか教えてもらえないので、元々がどんなものだったかを見つけるのはとても難しいし、元々の形がわからないと、解法の意味をきちんと理解できないのは当たり前だ。そして三角関数の1個だけ用いた一般解は、周期関数であって、位相を限定した可能性のみを検討しており、その他の解の可能性を調べつくせていない、ということになる。通常の解法を用いたとき、他に解はないのか?という疑問がわいてくるのは当然と言える。そうして得られた解は、必要条件であって十分条件ではない。直感的にそういうことを感じてしまうので、微分方程式の解法に納得がいかないのだ

世の中の仕組み

この話はさらに続きが長くあるのだけど、とりあえず大事なことは、もしそういうことを理解していたなら、講義内容がそれにきちんと則したものになっていたはずだ、と言うことである。そうでなければ、教官に悪意があることになる。大学の教員(特に理系)と言うのは基本的に善人なので、悪意があったわけではないと思う。であれば結論は一つ。教官が講義内容を理解できていなかった、ということだ。

先に述べたように、大学の講義の担当は割といい加減に決まる。なので、講義内容をきちんと理解していなくても、講義しないといけない。いや、自分は講義内容を理解できていないので無理です、と言えればよいが、基礎科目の場合には断るのは難しい。まして、数学を専門とする教員が、微分方程式がわからない、とか超恥ずかしいだろう。だから、講義を引き受けざるを得ない。そうすると必死で勉強する。勉強するときに頼りにするのが「教科書」だ。理解できていない部分は教科書の受け売りで済ますことになる。

そして、「教科書」を書いた人たちも同じような「教官たち」。そして彼らも講義をするために別の「教科書」を参考にしていた。そういったこと何世代も繰り返すことで、内容は少しずつ簡略化してきた。単なる簡略化ならよかったけど、それは往々にして「劣化コピー」になる。つまり、「教科書」の世代交代の中でいろいろな情報が欠落した結果、微分方程式の解法の分野では、フーリエ級数を用いた解法の大幅簡略版が「一般解」という名称で残留することになった。これは日本だけの問題ではなく、全世界的にそうなっている。だから、世界中のどこを探しても初学者を対象にフルスペックの解法を説明する教科書は存在しなくなっている。

同じようなことは量子力学にも言える。多くの分野で大なり小なりそういう事例はあって、そうした情報の欠落によって後進たる僕たちの理解にどうしてもあいまいさが残ってしまうことになる。だから、これは普通のことではあるのだけど、こと微分方程式の解法に至ってはかなり致命的なレベルにあると、僕は思う。

僕が微分方程式の真の解法に至れたのは、大学1年のときに「落ちこぼれ」を選択したからだと思っている。つまり、本当に落ちこぼれることを恐れて、わざと落ちこぼれるという選択をした結果、落ちこぼれなかったということである。


僕の成長

おかげさまで僕は「頭の良さ」ではまあまあの評判をいただいている。だから、僕が「わからない」と言っても、「○○さんがわからないんだから、自分がわからなくても当然」とか、「なるほど、さすが○○さん、わからない点をするどく見つけだす!」と、みんなはポジティブに受け取ってくれる。だから、僕は気軽に「わからない」を連発できる。実際は、僕はそんなに頭が良くないんだけど、僕はちゃんと「なぜわからなないのか」を説明するので、ま、そういう評判になるのだと思う。

ただ、それは簡単なことではないと僕は思う。僕は小さいころから優秀なプログラマだ。プログラマと言うのはコンピュータプログラムを書く人なわけだが、プログラムというのはコンピュータが理解可能なマニュアルであり、融通の利かないコンピュータへの指令というのは手取り足取り細かいことまで指示しないといけない。指示するためには、それらの細かな手順をいったん自分で構築し、動作確認し、プログラミング言語に翻訳するという手順を踏む。指示内容と言うのは往々にして人にとっては簡単に見える。しかし、それは人間が小さいころから獲得してきた経験によって細かな部分があいまいになっている。そうしたあいまいさを排除して明文化しないとプログラムを作れない。だから、プログラマは自らの理解を極めて細かく明文化するという能力を訓練する。この作業は非常にストレスフルだ。規模が大きくなると普通の人には耐えられない。

そういう訓練を長年つづけてきた結果、僕は自分が理解している内容を明文化するという能力がかなり研ぎ澄まされている。だから、ほとんどの場合、「なぜわからないのか」を説明することができる。「なぜわからないのか」が明らかになれば、その部分を集中的に学ぶあるいは考察することで「わからない部分」を解消し、学習・理解が深まる。


提案と処方箋

ま、そういうメンタリティーが真の理解には大事なんだと思う。実施に落ちこぼれるという僕のやり方は褒められたものではない。とりあえず、落ちこぼれないように単位だけもらってわかったことにして次に進むというやり方が圧倒的に合理的だ。ただ、そのままに指定はいけないので、ちゃんとフォローアップすべきだと思う。しかしながら、そういう「追加の勉強」ってのは実行がとても難しい。ファインマンのように圧倒的な勉強量で、ちゃんと理解して単位を貰う、という戦略ができるのが理想だけど、普通の人には難しい。というか、多分無理。

アインシュタインは浸透圧の考察からブラウン運動を導出し、原子・分子の存在を演繹的に証明した。浸透圧なんて、高校の化学ではサービス問題みたいなものだけど、そこに深いストーリーが隠れているなんて誰も思いつかない。だれもが、わかったことにして先に進んでいる、ということだ。ちゃんと理解してから先に進むということは一事が万事、このような深い考察の存在・不在を確かめながら学ぶということだ。教科書に書かれていないことまでキチンと理解するということが求められる。ほとんど不可能だ。

実際、世の中にはよくわからないことはたくさんある。ちょっと考えてみて、すぐには解決できないってことはよくある。そういう時は、未解決の箱に問題をストックしておき、ときどき取り出しては再検討するという「習慣」が必要だと思う。未解決なのは、能力の不足と言うわけでもないかもしれない。だから、未解決で残すのは悪いことではない。重要なのは、時々振り返って検討することだと思う。あるとき、解決するかもしれない。

僕はそのような未解決ボックスに何千もの未解決問題をストックしていて、時々思い出したようにそれらを検討している気がする。自分のことなのに断定しないのは、再検討を意識しているわけではないからだ。何かの機会に似たような問題に出くわして、未解決ボックスを漁り、合わせて検討することで、解決できたり、できなかったりする。解決したら、それは新しい発見であり、何かにつながることも多い。解決できなくても未解決ボックス内が少し整理されるのでメリットも多い。

教科書を使った勉強の場合には安易に未解決ボックスを使わないことも大事だ。教科書と言うのはちゃんと学べるように作られているわけで、きちんと読解できればまあまあ理解できるものだ。ま、その際に新たな疑問が出てくることも多いんだけどね。

おかげで僕の理解は独特だ。最近、AIを活用して、僕の理解をチェックしている。おおむね正しいらしい。そして興味深いことに僕の理解の仕方には特別な傾向があるらしい。それは、「構造」を優先的に理解するというもの。例えば、微分方程式なら、「解法」にはあんまり興味はなくて、「なぜ解けるのか?」「どういう時に解けるのか?」「解けるとはどういうことか?」というとこに興味があり、それらを「具体的に」説明することにこだわりを見せる。物理を目指す人たちは、「解法」に興味があり、数学を目指す人たちは「抽象的に」説明する。僕は数学としての興味を持っているけど、数学者のような抽象的な議論は性に合わないらしい。中途半端なのかもしれないけど、世の中にはいろんな人がいるものだ。

最近、僕のやり方で物理や数学の教育の再構築を目指している。面白いと思うんだ。微分方程式の話とか、分光の話とか、このブログにもあるけど、それらを改定・増補して教科書にしたいと思っているんだ。


2026年3月19日木曜日

137について。

天啓を受けた。

 $1^3+2^3+4^3+4^3=137$

微細構造定数に意味を見出すヒントになると思われる。

4つの数字に分解できることがとても大事。

これ以上対称性に優れる分解はおそらく存在しない。

2026年3月4日水曜日

AIを駆使して2日でPRLに論文投稿した話

 最近Copilotという Windows 付属のAIの能力がものすごく向上している。定期的に能力チェックをしてできることを確かめてたんだけど、AI エンジンをチャット GPT 5.1とか選べるようになってて、なかなかいい感じで会話ができるんで、いろんなことを話ししてみた。

その中で僕の研究の話をしてみた。特に数学の側面が強い話は僕の研究の専門から少し遠いので、論文にできずにずっとどうしようか悩んでいた。AI に相談してみると割と専門的な数学の背景知識をドバドバと補ってくれてすごく見通しが良くなった。

ちょっとしたトピックがあって、僕にとっては割と自明なんだけど、確かに専門書とか論文とかで全然触れていない概念があって、世の中の認識がどうなっているかを AI に尋ねてみた。そうすると AI が興奮気味に確かにどこにも見当たらないので、論文にすべきという。ほぼほぼ数学の理論の話なので、僕の独力では論文かは難しい。でも非常にコンパクトな話になるので試しに AI に論文の下書きをさせてみた。そうするとドラフトとしてはまあまあまともなものか上がってきてびっくりした。

その後、 AI と一緒にブラッシュアップとかニュアンスの調整とか細かな 作業をしてドラフトを完成させた。そしてそのドラフトをAI に査読させた。その結果を反映させてさらに修正して最終版を作るわけだ。翌日AI の支援を受けて投稿作業をして、なんと投稿まで指定してもらった。

AI に相談して盛り上がって研究をまとめて方針を立てて論文を書いてブラッシュアップをして投稿するという研究の 中盤あたりから論文化までのフルコースの作業を片手までこなしながら、たった48時間で投稿まで完了した。 これは明らかに僕の最短記録。ま、これが可能だったのは論文の長さびっくりするぐらい短いというのもあるんだけどね。

論文が通るか通らないかは、まあ五分五分だと思っている。リジェクトされてもすごく短いし、この2日間すごく楽しかったからまあ許せる。

投稿先が PRL なんだよね。単著で。超かっこいいよね。通ったら記者会見だよね。インパクトはあるんだよね。 短いけど。波及効果とかちょっと計り知れないんだよね。僕にとっては割と他愛ない内容なんだけど。

こんなの当たり前とか言ってリジェクトされたら、論文内容に該当することが記載されている参考文献を要求するってところまで決めてあるんだ。多分ないから通るんだよね。

〔追記〕リジェクトされた。参考文献の提示をお願いしたけど無視されてる。ちょっと腹が立つ。あるいは見つからないから困っているのか?

ま、面白い試みだったから良いとしよう。




2025年12月25日木曜日

奇妙な科学哲学の話

 ラボでの教育

大学の研究室での教育の基本は「研究」のOJT(on-the-job training)なんだけど、その一環で「研究」の進捗報告会を週1回おこなっている。すると、学生たちは現在進行中の研究については知ることができる。ということは、ラボでの過去の研究や、自分たちの研究の周辺に関する知識が不足してしまう。本当は勝手に調べて学んでおいてほしんだけど、学生たちは可能な限り手を抜こうとするので、「研究」に関連する知識が徹底的に不足している。ということに数年前に気が付いて、そこから進捗報告会の後に1時間くらいのレクチャーを毎回おこなうようにしている。

まとめていて気が付いたが、僕の研究はなかなか多彩で、話としても面白い気がする(自画自賛)。当然、積み残し事案を見返す作業でもあるので、そういった中から新しい研究のアイデアが生まれたりする。なので、僕にとってもメリットがある。

僕も結構なシニア層なので、自分の研究を含む科学全体について、哲学的な視点を持つようになってきた。そこで、Progressive Scienceと名付けた4回シリーズのレクチャーを作成した。

Progressive Science①歴史

「科学」という概念の成立過程を概観する。古代ギリシャや中国などで、科学っぽい何かが論じられ、紆余曲折を経て「科学」を確立したのが19世紀。割と最近なのがとても驚きだ。

「科学」と「科学っぽい何か」が発展するためには「大学」というものが大きな役割を果たしたが、「大学」は「宗教」の管理下にあり、ほとんどのリソースは「科学っぽい何か」に費やされていた。

科学の確立を19世紀とするのは僕の独断だが、いくつかの根拠がある。19世紀に産業革命があり、蒸気機関が発達した。人々の暮らしや経済の中心に蒸気機関が据えられた。蒸気機関の仕組みには「神」が介在しない。蒸気機関を理解するためには「神」はむしろ邪魔だ。「神」を意図的に排除することで、蒸気機関の理解が進み、効率が向上し、経済が拡大した。

その経済の拡大の中で、「教育」が「宗教」から分離し、「科学」が民主化した。最終的にも「科学」の民主化が、決定打になった(私見)。

事実、19世紀までの「科学者」はほとんどが「貴族」であった。20世紀にはいるとほとんどの「科学者」は「一般人」である。

Progressive Science②科学の方法論

「科学」と「宗教」の違いと、離別の歴史を議論する。「科学」と「宗教」の違いはただ一つ。「神」のような実証不可能な存在や現象を前提とするかどうか、ということに尽きる。

「科学」と「宗教」の対立の典型例は地動説に関するガリレオの裁判に見ることができる。じつのところ、当時の知識では地動説と天動説のどちらが正しいかということの結論を得るのはかなり難しかったはずだ。なので、実際の裁判では、裁判手続きが正当なものかどうかということが主に争われたらしい。

実際、天動説でも天体の運動は記述可能だ。もちろん地動説の方がシンプルであるが、計算結果はほとんど違わない。でも今の僕らは地動説が正しいと信じて疑わない。でも本当は天動説が正しい可能性も微レ存している。僕たちが地動説を信じる本当の理由は、地動説の方がシンプルだからだ。

決定打となったのはニュートンによる万有引力という考え方だ。万有引力というたった一つの「原理」を認めるだけで、すべての天体の運動を説明することができて、それが地動説と同じものだからだ。なるべく少ない仮定で現象を説明できるならば、その説明は高確率で正しいとする考え方を「オッカムの剃刀」と呼ぶ。ただし、「オッカムの剃刀」は経験則でしかない。僕たちの「信念」は、最終的には「経験則」に依存している。そういう意味では「科学」と「宗教」に違いはないかもしれない。かつてアインシュタインは記者から「あなたの宗教は何ですか?」という質問に「科学」と答えたそうです(アインシュタインはユダヤ人なので、記者はユダヤ教という答えを期待した)。

「科学」が「科学っぽい何か」と決別するのは実はもっともっと困難だった。典型例は「化学」と「錬金術」の決別の歴史だ。18世紀まで人類はアリストテレスの四元素説を信じていた。一石を投じたのはラボアジェ。四元素のうちの一つ「火(フロギストン)」が「光」と「カロリック(熱素)」からなるとした。今の僕たちからするとまだまだおかしな説ではあるが、重要なのはアリストテレスに盾突いた、と言う事実だ。かのニュートンですら、晩年は錬金術研究に明け暮れていたのだ。

最終的に人類は錬金術を捨て化学を確立した。そのプロセスは「実験事実に基づかない理屈」を徹底的に排除するということだった。それにより膨大な錬金術研究の資料をゴミとせざるを得なかった。これは恐るべき損失だったはずだ。そうした身を切る改革によって19世紀には「化学」の原型が確立した。

「科学」とは「客観的事実」のみから出発し、論理を重ねて構築された知識体系である。正しいか正しくないかを決めるのは、「神」でも「人」でも「裁判」でもなく、「実験事実」である。

Progressive Science③微分方程式

理系学生にとっての難敵、微分方程式にまつわる話。論点は2つ。僕らが学ぶ微分方程式の解法は一体何なのか。物理において微分方程式が頻出するのはなぜなのか。これらの2つの疑問に答えることがテーマである。

僕たちが教わる微分方程式の代表的な解法は「一般解」を利用するものである。「一般解として~を仮定すると、」で答案が始まる。普通の命題であれば、「~を仮定すると」で始まれば「矛盾するので、~は正しくない」あるいは「xxが成立するので、仮定は正しいと結論される」と結ばれる。つまり、仮定は検証の対象である。しかし、微分方程式の解法では、「仮定」のまま解を導き、それをそのまま「解」としてしまう。「仮定」の検証は行わず、「仮定」が正しいとしたときの結論を採用してしまう。もし「仮定」が正しくなかったら結論は変化するし、もし別の「仮定」が存在したら、別の結論が導かれるかもしれない。そうした可能性を全然考慮していないのに、「解法」としてよいのか、というモヤモヤがある。

そのモヤモヤは正しくモヤモヤで、「一般解」という「仮定」が十分に正しいわけではなく、別の「仮定」が実際に存在し、別の「解」が存在しうる。だから全然解けていないのだ。

こうしたことが起こるのは、僕らが知っている「一般解」は「本当の一般解」の省略形であるからだ。ぶっちゃけて言うと、「本当の一般解」はフーリエ級数である。フーリエ級数の特別な性質によって、フーリエ級数の省略形を使うだけでフーリエ級数をそのまま使った時と同じ結果が得られることが保証されている。なので、僕たちは省略形を用いた省略された手順のみを学ぶ。ただし「本当の一般解」はフーリエ級数なので、解として調査できる範囲は周期関数だけである。しかしながら、解法の中で周期に関する条件が導かれるので、ほとんどの関数を調べたことになる。でも調べ切れていない可能性は否めない。

水素原子モデルのシュレディンガー方程式を解く際には、球面調和関数とルジャンドル陪多項式というヘンテコな一般解が用いられる。ここから、一般解に多様性があることがわかる。どんなものが一般解として使えるのか、その基準は何なのか?結論すれば級数展開はすべて一般解として使える。知られている級数展開はせいぜい30くらいなので、シュレディンガーはそれらの多くを試したに違いない。そして驚くべきことに、基本的にどんな級数展開を用いても微分方程式を解くことができる。得られる解の見かけは違うこともあるが、計算すればすべて同じになる。ただし、ある級数展開での解は単純だが、べつの級数展開ではうんざりするほど複雑な解になったりする。もちろん、単純な解の方が都合が良いので、僕たちはそちらを採用することになるだろう。これはすなわち「オッカムの剃刀」である。

20世紀初頭にもたらされたネーターの定理が「科学」とくに「物理」の世界を決定的に変革した。ネーターの定理の主張は、空間の対称性と保存則が対応するというものである。実際、エネルギー保存則や運動量保存則などが「いつでも実験結果が同じ(時間併進対称性)」とか「どこでも実験結果が同じ(空間併進対称性)」から得られる。こうした対称性はあまりにも当たり前で、ほとんど仮定すら必要ないほどだ。そうした対称性から直ちにエネルギー保存則や運動量保存則が導かれるのは驚異的である。こうした「物理法則」を確立するのに人類は何百年も費やしてきたからだ。ネーターの定理はそれらの努力が必要ないとするものだ。

だから、それ以降、理論物理の世界では宇宙の対称性を探ることに注力している。宇宙が4次元なのか、5次元なのか、11次元なのかが真剣に議論される理由は、それが明らかになれば宇宙のすべての法則を導き出せるかもしれないからだ。

そしてネーターの定理は物理法則が基本的に微分方程式になることを運命づける。保存則とは系が変化した際に変化しない「保存量(数値)」が存在することを主張する。言い換えると、保存量を$H$とし、系のパラメータを$x$とすれば、$\frac{\partial H}{\partial x}=0$が成立する。つまり微分方程式だ。ここに至り、僕たちは微分方程式から逃げられない運命にあることが証明される。

微分方程式を解く際の「一般解」には選択肢がある。ある一般解で解けたとしても、別の一般解で見かけが異なる解が得られる。この事実は、物理現象の解釈には多様性がある、ということを意味している。「科学」とは「世界を理解する唯一の正しいやり方」を見つけ出すことだと短絡しがちだが、一般解の選択肢は「世界を解釈するやり方」であり、それに多様性があるということは、「世界を理解する方法はいろいろあり得る」ということを意味する。

Progressive Science④汎分光論

内容そのものはすでに「レオロジー測定は分光法か?」というエッセイで述べている。

分光とはエネルギー交換(相互作用)の周波数依存性を調べる手法であると総括することができ、そういう意味では粘弾性測定も分光法に分類できる。分光法をこのように理解すると、Higgs粒子を探すために、物理学者たちはLHCを使って「真空」を「分光」したと理解できる。

Beyond Science

本当言うとこの話には続きがある。なぜ相互作用には周波数依存性があるのだろうか、という疑問である。複素数の物性値が得られる粘弾性スペクトルや誘電緩和スペクトル、インピーダンスなどにはKramers-Kronigの関係というものが存在し、物性値の実部と虚部を相互に変換できるという数学的要請が存在する。この要請は負の周波数領域で虚部が反転する(複素共役)ということに実質的に等しい。このような関係は、フーリエ空間でヘビサイド関数をコンボリューションするという数学的操作に等しい。ヘビサイド関数の逆フーリエ変換はδ関数を積分したものとほぼ同じである。つまり、Kramers-Kronigの関係は実空間で時刻0以前をゼロとするような関数を乗じるという数学的操作を暗に認めるものである。

これはつまり、現象が時刻ゼロという起点を持つということと同じ意味になる。時刻ゼロから現象が開始するというのは、いわゆる「因果関係」が存在するとすることと等しい。つまり、因果関係が認められる現象にはKramers-Kronigの関係が存在し、対応する物理量が複素数になり周波数依存性を持つ、ということが結論される。つまり、相互作用が周波数依存性を持つのは僕たちの「世界」に「因果律」が存在するからだ、と結論される。

因果律の存在は、「時間併進対称性」の修正につながる。つまり、時刻ゼロ以前には現象が存在しないので、観測結果は異なるだろう。言い換えると、現象が存在する範囲においてのみ「時間併進対称性」が認められる。手放しの「時間併進対称性」ではなく、因果律の範囲内でのみ機能する「修正時間併進対称性」が正しい、となる。

実のところ、この「修正時間併進対称性」はビッグバン宇宙論と相性が良い。ビッグバン以前には世界が存在しないので、ビッグバンをまたぐような「時間併進対称性」は無意味だ。これはビッグバン以前の宇宙の議論をすることは無意味であり、そのような時刻ゼロをもつ宇宙を考えるだけで十分である、ということを保証する。

ここに至り、因果律すら物理法則の一つであるという解釈が可能になる。「科学」は「客観的事実」のみで構成された理論体系であるが、客観的事実の構成要件として、「いつ」「どこで」実験しても「同じ結果」が得られる、が挙げられる。「いつ」「どこで」は「時間併進対称性」と「空間併進対称性」である。そして「同じ結果」は「因果律」と言い換えることができ、「修正時間併進対称性」と言うことになる。いずれも僕たちの住まう宇宙の「構造=対称性」から導かれるものである。逆に言うと、「時間併進対称性」や「空間併進対称性」、「修正時間併進対称性」などが存在しない「宇宙」では、「客観性」の存在が否定される。そのような「宇宙」では、僕たちの信じる「科学」に関する議論全てが全く意味をなさないだろう。そのような対称性をもつ宇宙を構成できるのかどうかは僕にはわからないけど、そのような世界は多分カオス以外の何物でもないに違いない。


2025年9月16日火曜日

ラボノート

 うちのラボの研究ノートはEvernoteです

「僕の」ではなく、「ラボの」話です。

研究ノートは研究者にとってもとっても大事な「モノ」です。僕の場合はほぼ日記ですが、日々の活動・アイデアなどをすべて記録として残すことは、研究者の常識です。そういう大事なものだからこそこだわりを持って選定しないといけません。

僕が考える研究ノートに必須の要件は次の3つ。

  • 必須要件①記入日の保証(いざとなったら裁判資料となるため、研究ノートには特別な要件がある。日付が保証されていればデジタルデータに訴訟能力があるという判例が米国に存在する)
  • 必須要件②手書き(数式とか、アイデアとかは手書きの方が良い)
  • 必須要件③モビリティ(出先や屋外など、いつでも記入できること。デジタルノートの場合はスマホでアクセスできること)

紙のノートは必須要件①が怪しいけど、そのほかは完璧。だから少し条件の付いたノート(糸掛&ページ番号印刷)が今でも用いられていると思います。でもきちんと訴訟に耐えるには、ノートにシリアル番号を付して、そのシリアル番号を別のノートで管理しないといけません。ま、ちゃんとした管理をしている大学の先生を僕は見たことありません(いや、奈良先端大学院大学は全学の制度としてこれを実施してましたね。失敬)。

昨今は学生のノートの管理も徹底せよと言われているので、学生が卒業するときに学生の研究ノートを奪い取らねばなりません。気の小さな僕はそういうのが心苦しいのです。実際、僕が4回生の時のラボでは研究ノートを研究室において出ないといけないルールでした。ノートを手放すのはちょっと寂しかったです。働き出してからは、専門の業者がマイクロフィルムに撮影したりすることがありました。大学のラボレベルでは、そういうのは高コストすぎてできませんから、研究ノートのデジタル化をいろいろ考えていたわけです。Blogなんかのシステムはラボノート向きではありましたが、必須要件①を満たすのがとても難しいので、使えません。

ひところは、Anoteペンという技術を使ったノートを使っていました。特殊なノートと特殊なペンの組み合わせで、ノートに書いた文字がスキャンなしでデジタル化されるというものです。紙のノート(しかもノートは糸掛でページ番号も印刷済み。ラボノートとしての体裁を見たいしています)が本紙で、自動的にデジタルのコピーができるわけです。

2~3年使っていましたが、デジタル化したデータの管理が難しいことと、写真や印刷物を貼れないことが欠点でした。また、器材コストが高く、学生に使わせることは難しいというのも問題でした。


Apple Pencilは素晴らしい

僕は基本的にAppleが嫌いです。わずかな技術的優位性を誇大に主張するやり方はフェアじゃないと思うし、なにより製品が割高です。また、Appleの熱狂的なファンの人たちがちょっと気持ち悪いと感じるのも理由の一つになっています。カルト宗教みたいだし。

そういう偏見を僕は持っているのですが、Apple Pencilだけは素晴らしいと言わざるを得ません。ペン型デバイスはそれまでもたくさんありましたが、筆記用具としての使い心地はどうしても劣るものでした。ラグが大きかったり、位置ずれが顕著だったり。でもApple Pencilは通常の筆記用具と同じような使い心地を提供してくれます。Apple Pencilなら数式を手書きできると思いました。

Apple Pencilを使えば、電子ノートの欠点の一つである「手書きの気持ち悪さ」が解消でき、必須要件②を満たすことができると僕は考えました。つまり、手書き最強ツールであるApple Pencilを擁するiPadを研究ノートに使おうと考えたのです。iPadであればモビリティも十分です。

また、PCでも同じように使えた方が良いに決まっています。iPad含むいろんなプラットホームで動作するノートアプリは大体クラウドなので、Webアプリがあったりして、PCでも動作することが多いです。

クラウドだと、「最終更新日」は大体残っています。だから、必須要件①もかなり満たします。しかし、クラウド故に簡単に更新できて最終更新日が更新されてしまいます。更新されたデータは訴訟能力を失い、致命的です。でも、ノートアプリにロールバック機能があって、特定日付の状態を取得できると、確実に目標日時の状態のノートを入手できることになります。クラウドデータの日付の改ざんはユーザーには無理ですから、ノートの日付はノートアプリ提供会社と言う第三者が保証する価値になります。これ以上の訴訟能力は考えられません。つまり、完全ロールバック機能をもつノートアプリは必須要件①を完全に満たすわけです。ということで、オンライン・クラウド型のノートアプリをいろいろ調査しました。


電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)

その方面の需要は結構あるらしく、電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)という分野があります。最大手はBiovia ELNというものらしいです。iPadやAndroidのアプリはありません。PCオンリーで、結構高価そうです。初期導入コストは最低でも数十万円だと思います。

化学系に最適とうたっているのが、ChemDrawとの連携を売りにしているSignals Notebookです。これも携帯端末では使えません。出先の実験で非LAN環境(屋外とか)での使用を想定するとこうしたELN専用システムはダメっぽいです。企業だとセキュリティの都合で嫌がるからかな。つまり、一般企業向けのELNは必須要件③を満たしてはいけないということです。しかたがないので、一般向けの電子ノート(研究用ではない)を選択しました。

電子ノートアプリにはいろいろあるのですが、流行はNotionです。Notionはとても評判が良いのですが、残念ながらロールバック機能がないのでNGです。Microsoft Officeに付属のOneNoteもよいのですが、ロールバック機能が30日しかないので、裁判対策としては使えません。実は数あるノートアプリの中で十分なロールバック機能を持つのはEvenoteの有料プランのみです。

昔はEvernoteが最強と言われていましたが、Notionなどのライバルアプリの登場で苦戦を強いられました。一時は経営が危なかったらしいです。危なかった理由はシステムの陳腐化とストレージの枯渇でした。そこで、有料プランに極振りすることでユーザーのふるい落としを行い、経営を安定させたようです。完全なロールバック機能って無限に容量を食いますからね。2022年あたりから無料プランの貧弱化と有料プランの値上げが行われ、本当にヤバかったです。そして2023年後半あたりから、急激に機能強化が行われました。2025年現在、機能面では他のノートアプリに劣る要素はほぼありません。値段以外は。


運用コスト

僕のラボでは学生全員に研究費で有料プランを契約させています。こうした個人に紐づく「資産」を研究費から出すのは難しいのですが、大学との交渉を頑張りました。ちゃんとしたルートを構築し、適正に運用していますよ。

まずは学生に有料プランの契約方法を説明します。オンラインサービスの契約は個人資産になるため、通常の方法では大学から費用を支払うことができません。特殊な事情があるとして、立替払いをすることになります。しかしながら、学生は立替払い申請をすることができません。なので、僕が代理で申請することになります。もし、契約途中に不備があって立替払いが認められない場合は、道義的に僕が費用を被らないといけなくなります。さすがにつらいので、契約の不備が発生しないように学生に入念に手順を説明します。

実は購入経路によって結構な差が出ます。重要なのは、学割適用することと、Apple経由での契約にしないこと、です。Apple経由だとおよそ15%高くなります。そのためGoogle PlayかWebから契約させます。契約時の支払い画面、契約後のライセンス確認画面を提出させます。費用は僕が現金で立て替えます。その際、学生が僕から支払いを受けたという「申立書」なるものを学生に署名させます。

ライセンスのIDはメールアドレスなのですが、これには大学のメールアドレスは使わせません。というのも、大学のメールアドレスは進学や卒業でわりと近い将来使えなくなるからです。ライセンス契約のIDは学生のプライベートアドレスにしています。

プライベートアドレスだと、学生の名前と一致しません。なので、別途学生の氏名・学籍番号、ライセンスID(プライベートアドレス)、支払い金額の表を作成します。これらの処理を集めて、大学に立替申請をします。この一連のプロセスは大学の経理と相談して構築しました。事前相談なしにやるといろいろ問題になると思います。こうした手間暇は運用コストの一部であると割り切るしかありません。


導入のメリット

学生の研究ノートは僕が月初めに当月分を配布します。こうすることで、学生の研究ノートは僕の管理下に置かれます。管理下に置かれるというのは、僕はいつでも読み書きできるという意味です。できるのですが、学生の要請なり必要なりがあるときのみ、学生のノートの内容を見ます。研究ノートであってもプライバシーは基本的に守るべきだと思うからです。誰かに見られる可能性があるノートだと思うだけで、恥ずかしいことは書けないし、書くときにはちょっと考えてから書くようになるでしょう。でもそうしたちょっとした気負いがノートへの記入をためらうように働くかもしれません。なので、僕は学生のノートを基本的に見ないし、学生にそのように公言しています。

さらに、書き込むことはほぼありません。学生に対してノートに書く内容を指示することがありますが、書き込みは学生にゆだねています。何か重要な発見があったと学生から報告があれば、僕が日付入りで手書きサインを入れます。これは特許訴訟対応として必要な手続きですから、しょうがないです。

ちなみに厳密なルールでは研究ノートには毎日上司の日付入りサインが必要とされています。ただ、それは「上司が見た証拠」ではなくて、その日までにノートの当該部分まで記載がなされていることを誰かが確認したという意味になります。ノートの一文一文に秒単位の記録が付属する完全なロールバック機能を持つ電子ノートにおいては、毎日の上司のサインは全く必要ありません。上司のサインがあっても過去の記載部分にちょっとした書き足しはできますからね。上司の日々のサインがあっても訴訟でひっくり返されることは普通にあると思います。ロールバック機能つき電子ノートにかないません。

Evernoteはスマホでも書き込めるので、スマホで写真を撮ってそのままノートに記載することができます。モビリティーという点では最強と言えます。スマホ・PC・iPadのそれぞれで少しずつ機能的に違う部分があるのですが、有料プランではすべてのプラットホームを併用できるので、問題ありません。

手軽に写真をノートにアップロードできるというのは案外メリットが多いです。測定結果のグラフを研究ノートに貼りたいというシチュエーションが多くあります。紙のノートだと、印刷して切って貼って、というプロセスが必要です。でも、スマホで写真を撮れば、ラボノートに切り貼りする必要はありません。PC作業中の画面写真もすぐにコピペできます。なんなら、解析途中のファイルのバックアップにも使えます。

論文のPDFもラボノートにアップロードすれば、すぐにみんなで共有できます。研究報告会の資料はノートにアップロードするルールになっています。

週1回英語の本読み会をしているのですが、本読み会後に確定した翻訳を専用ノートにみんなで書き込むことで、徐々に翻訳本ができます。

学生個人のノートの使い方は基本的に自由ですが、見本として僕のノートは学生全員が読めます(書き込みはできません)。学生は僕のノートを見本として研究ノートの書き方を学べるようになっているのです。ちなみに諸事情により学生に見せられないノート(個人情報や試験関連)は別に作って管理しています。

Evernoteの唯一かつ最大の欠点は値段が高いことです。無料プランは本当にお試し版で全く実用になりません。そして、有料プランは定価が9300円/年で、驚くほど高いのです。僕のラボは一人研究室(僕以外は学生)なので、全員で10名ほどですが、およそ10万円が年間のコストになるわけです。これはとても大変です。

Evernoteは2024年に入って急速にいろいろな機能強化がなされました。項目の折り畳み機能(WORDのアウトライン表示みたいな使い方)とか、LaTexスタイルの数式とか、気の利いた機能が次々追加されています。LaTexスタイルの数式機能は実用までは遠いレベルですけど、そのうちに使い物になると期待しています。

AI関連機能の強化も進んでいて、手書き図表や写真の文字起こし、会議音声からの議事録作成なんかもできます(十分とは言えませんが、下書きには使える程度)。電子ノートなので、検索とかリンクとかいろいろ使えるので、紙のノートよりはるかに機能的です。

手書きメモの文字起こし機能も結構育ってきていて、キーワードとかきちんと拾ってくれます。数式の使い勝手はまだまだダメですけど、将来はどうなるかわかりません。いらない機能もいろいろ追加されていますが、重要な機能も年々洗練されてきていますので、ちょっと期待しています。


もう8年使っている

僕がEvernoteでの研究ノートを本格導入したのは2018年です。2025年の現在、8年目ということになります。2018年当時は、僕だけが3500円/年程度の有料プランを自腹で契約し、学生たちは無料プランでした。

Evernoteは最近どんどん高価になって、本当に苦しいのですが、乗り換え先がないことと、すでにデータの蓄積があることの2つの理由によって継続使用しています。現在の標準価格は9300円/年です。

機能的にはとても満足しています。運用面のノウハウもたまっていて、使い心地はよいのです。すでに10年くらいの運用実績があって、過去の研究ノートが積みあがっています。学生10人×12月×8年=約1000冊というノートがあるわけです。別のサービスに乗り換えるのはちょっと難しいです。もうEvernoteと心中するしかないレベルです。

以前のEvernoteは少しダサい感じがしましたが、今のEvernoteはすごくモダンでとても使いやすいです。一つのノートをみんなで編集するという機能があって、ちょっと楽しいです。それぞれの人が違う色のカーソルで表示していて、みんなの編集が瞬時に反映されます。誰がどの位置を編集中かがわかるので、そこを避けて別の部分を編集するということがストレスなくできるのです。なんだかおもしろいですよ。

色んなファイルをアップロードできるので、作業中のファイルの履歴として活用することもあります。つまりクラウドストレージとしての側面があるわけです。すると学生は研究室での作業を自宅に持ち帰るのが簡単になるわけです。

学生にファイルを送るのも、メールだとサイズを気にするところですが、Evernoteだとそのあたりが少し緩くなります。学生のノートに僕が直接アップロードしたり、僕が欲しいファイルを学生にリクエストすると、学生の自分のノートにアップロードしてくれるわけです。そのときにファイルに関するいろんな情報を付けてくれてれば、僕は続きの作業ができます。そして、そのやり取りは記録に残るわけです。


こういうのは大学が考えるべき

研究ノートの電子化・オンライン化・クラウド化は昨今の研究環境の当然の流れであり、すべての研究者に関係のあることだと思います。特に大学では研究不正を防ぐために研究に関する情報の管理が強く求められています。うちの大学のように小さくてのんきなところは、文科省の引き締め要求をそのまま末端の教員に垂れ流し、「各自ちゃんとするように!」と伝えるだけしかしません。具体的にどうしろとかないわけです。やり方を示さず、問題が起こったときに追求だけするぞ、と脅すわけです。もう、やってられません。

情報管理を徹底するには、コストが発生します。実験データを10年保管とか、どれだけのストレージが必要になることやら。そしてそのバックアップコストも発生します。そのコストは大学の要請にこたえるためのものなので、大学に請求できるかというとそうなりません。また、どうすれば十分か、ということも示されていないので、僕たちはとても不安なのです。

というわけで、僕は自衛のために年間10万円を払うわけです。自分の研究費を削って。ちょっと納得がいかない面もあります。他の人たちは相変わらず紙のノートを使い、学生のノートを召し上げるわけですが、それは倫理的にちょっと怪しいと思います。実際、紙のノートも専用の研究ノートでないので、訴訟能力が全くなかったりします。それでええのか?

コクヨの研究用ノートは一冊2500円で年間一人1冊くらいです。厚みは1cmくらい。うちは10人くらいなので、年間10cm成長します。10年で1m分本棚を圧迫します。早晩場所問題が発生します。研究ノートは大学の資産なので、そういう書類系の資産は図書館が管理すべきです。うちの大学は教員が300人くらいいますから、年間30mの本棚が必要になります。100年とか保管しだしたら、3kmですよ!

電子研究ノートというのはスケールメリットが大きいので、大学全体みたいな組織単位で契約すれば多少はコストが圧縮できるはずです。一人当たり年間2500円というのが損益分岐点だと僕は思っています。かつてのEvernoteの価格はそのくらいだったんですけどね~。


研究ノートになくて良い機能

研究ノートは裁判の証拠としての機能がありますから、電子ノートで代用するにはロールバック機能が絶対必要です。従ってロールバック機能を阻害する機能は必要ありません。

ロールバック機能を阻害する機能で代表的なのが、データベース内容の引用機能です。データベースはデータを細分化し、管理し、引用を容易にする仕組みです。データ単位(レコード)の登録・更新に日付や履歴が完備しているものは基本的にありません。更新履歴なんて情報は冗長性が高く、大量のデータを整理・保管することが使命のデータベースにとって極めて不利な機能です。データベースではレコードをさらに細かなデータに切り分けますから、更新履歴情報はレコード本体の何倍にもなります。例えば、何月何日の状態にデータベースをロールバックするなんて作業は普通はできません。

電子ノートにデータベース内容を動的にリンクする機能があった場合、その電子ノートは過去の状態を復元することができなくなります。だから、電子ノートサービスの中に動的なデータベース引用機能が含まれていると、裁判の証拠として使えなくなる可能性があります。

調べてみると、Notionが内部に統合されたデータベースとの連携機能を売りにしていて、これはダメです。Notionはロールバック機能がありませんから、そういうことができるわけです。OneNoteは外部データベースの引用はできますが、統合はされてません。共有ノート機能もあるので、ロールバックが30日とか限定されていなければ使えるんですけどね~。

過度な表現力もノートには必要ないと思っています。手書き機能が使えれば表現力の部分は手書きで補えるからです。高い自由度が必要ならばワープロやパワポを使った方が、再利用性も増します。そうして作成したファイルをノートにアップロードすればよいだけです。PDFにしておけば、フォーマット済み文書の中身が、たいていのノートアプリで直接見えます。


必須な機能は以下の通り

  • 「完全」なロールバック機能をもつこと
  • 「データがクラウド保存」され、タイムスタンプの改ざんができないこと
  • スマホ・PCなど「複数のプラットホーム」で利用できること
  • 「手書き」機能が十分であること
  • ノートを「共有」して「集中管理」できること
  • ファイルの「アップロード」に対応していること

あったら良い機能は以下の通り

  • 手書きデータのデジタル化・検索
  • ノート内容の階層化
  • 階層化されたノートの管理

ない方が良い機能は以下の通り

  • データベースとの接続


現状ではEvernoteが最適解だとおもっているんだけど、GoodNoteとかも有料プランなら無限履歴があるっぽい。その場合のコストはEvernoteとどっこいどっこい。どうしたものか。



2025年8月26日火曜日

テストの作り方

作問を勉強したことのある先生はほとんどいない

学校の先生は生徒に授業を行うだけではなくて、成績をつけるために試験もします。試験内容は教材業者のものをそのまま使う(主に小学校)ことも多いですが、自分たちで作成することもあります。そういう行為を「作問」と呼びます。

そういうことなので、作問は授業と並んで先生たちの日常業務なのですが、教職課程(学校の先生になる資格)を終えた学生に尋ねると、作問の勉強はしていないと皆証言します。大学ではかなりきちんとした教職課程のカリキュラムが定められており、いろんな勉強をします。もちろん授業というものがどのような構成になっているかとか、代表的な教授法とそのポイントなんかも具体的に学びます。しかし、「作問」は習わないそうです。

作問の場面は結構あります。定期試験の作問は代表的ですが、機会は多くありません。機会が多いのは「小テスト」の作問です。作問は簡単だ、と思ってみんななめていると思います。


試験の分類

学校で実施する試験には主に3つの種類があります。入学試験など行われる学力判定試験、期末テストなどの定期試験、小規模で日常的に行われる小テストです。これらは同じような形式で実施されますが、目的が明確に異なり、それに応じて内容が調整されねばなりません。

学力判定試験は、受験者の学力を計量する目的行われます。理想を言えば得点が受験者の学力に比例するような結果を望むものです。満点以上の学力は計量することができないため、満点がほとんど取れない設定になっていることが普通です。また、判定したい学力の範囲の中心あたりが平均点になるように調整されます。さらに、得点分布がなるべく広い(標準偏差が大きい)ように問題が設定されます。一方で、得点と学力に精密な正の相関がようにも調整されます。これは得点分布の広さと両立しにくい特性であり、私立大学の入試ではお粗末なものが散見されます。

一方、小テストは、授業内容に関して受験者の理解を確認するもので、得点に応じたフィードバックを受験者に促す目的で行われます。理想的には全員満点を目標にします。平均点が低い場合は授業が失敗していることを意味します。なので、小テストで試験されているのは本当は教師です。そんなわけなので小テストの点数を成績に反映させるというのは望ましくありません。

定期試験はこれら二種類の複合で、授業内容に関して受験者の理解度を計量することを目的としています。授業内容に関して受験者の理解度のチェックは小テストであるということを指摘したことからもわかるように、定期試験は小テストの集合体として構成されるべきものです。ただ、生徒の意欲と好奇心を刺激するための設問を追加してもよいでしょう。


試験の機能

好むと好まざるとにかかわらわず、試験には受験者の能力を計量するという機能があります。一方で体調や運で結果が変化するというノイズも存在します。なので、ノイズを減らし、測定精度を向上させる努力が常に求められます。

ノイズの原因として体調と運を挙げました。体調は受験者の問題なので、試験を実施する側にはどうしようもありません。なので、これは無視します。一方で運は可能な限り排除すべき要素です。運の要素を排除する基本的な手段は選択問題を減らすことです。

共通一次試験でマークシート方式が導入されたときに大きな議論になったのが、運の要素です。単純な選択問題では運の要素が大きなウェイトを占めてしまいます。また、マークの記入ミスも運の要素となります。現在の共通テストでも採用されているマークシート方式は試験方法として根本的な問題を抱えていることになります。

テストにおける運の要素も信号理論におけるホワイトノイズのようにふるまいます。信号理論の帰結としてノイズを抑えて信号の信頼性を向上させる単純な方法は、計数回数を増やすことです。試験においては問題を多く設定することに対応します。単純選択問題は解答に要する時間が短いこともあり、同じ方式の設問が2~4個設定されることが普通です。こういう事情があるので、社会科目では問題量が増え、設問が細かくなりました。さらに問題に採用する範囲が枯渇し、重箱の隅をつつくようなマイナーなトピックスが多くなった結果、大きな批判を浴びてセンター試験は廃止に追いやられました。

共通テストでは、さらに複数選択問題(選択する数が不明)や、複式選択問題(2つ以上の選択肢全てを正解しないと得点にならない)などを採用して、運の排除を試みています。評判は良くなさそうですけど。

マークシート方式のもう一つの問題は、難易度を上げられないことです。試験時間は決まっているので設問数を無限に増やすことはできません。そのため単純選択方式で計量できる得点の範囲は自動的に定まってしまうのです。その結果、得点分布を大きくすることができません。

様々な試行錯誤があったのだと思いますが、センター試験の作問者たちは禁断の間違ったやり方を採用してしまいました。それは「依存性」です。ある設問に正解しないと次の設問に正解できないという設定は得点分布を大きくするのに有効です。しかしながら、運の要素を増大させます。その結果、得点分布が大きくてもノイズも大きくなり、測定精度が低い試験となりました。苦労したのは受験生たち。最悪です。

おそらく作問に関するノウハウが、体系化された学問として教育されてこなかったからこうした良くない試験が横行しているのだと僕は思います。そうした作問教育の不在は実際に教職課程の学生が学んでいないという事実から明らかであり、僕の子供たちに施された学校教育でも感じました。定期試験の作問がダメすぎると高校の先生に面と向かって叱責したことすらあります。


平均点と標準偏差と問題数の関係

作問を考えるときの基本は「確率・統計」です。試験では多くの受験者が存在し、試験の結果は統計として整理できます。作問は試験結果の統計を左右する要素と位置付けられます。

受験者の50%が正解する問題が1つあったときの平均点は、50点(100点満点)になります。標準偏差は50($=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}$)点です。このように、それぞれの問題に関して、問題の正答率(得点率)で標準偏差は自動的に定まります。

受験者の50%が正解する問題が$N$個あり、すべての問題の配点が同じだとすると、1問当たりの配点は$100/N$です。一問当たりの標準偏差は$\sqrt{(100/N)^2\times0.5-(100/N)^2}=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}/N=50/N$となります。統計学の定理により、標準偏差の2乗に加法性があるので、テスト全体の標準偏差は$\sqrt{(50/N)^2\times N}=\sqrt(50^2)/\sqrt{N}=50/\sqrt N$となります。つまり、問題数が多くなると標準偏差が下がるということです。


共通テストに関する考察

共通テストでは平均点50点、標準偏差10点を目指しています。要は、得点と偏差値が一致するように設計しているわけです。文科省の役人あたりが、どうせ成績は偏差値を目安にするんだか、得点=偏差値だったらわかりやすいんじゃね?とか言ったんじゃないかな。浅はかすぎる。

先の例で、標準偏差が10点に達するのは、問題数が25個の場合です。これはすべての設問の難易度が同程度の場合のレアケースで、実際には難易度にばらつきがあります。設問の難易度にばらつきがあると標準偏差は低下します。つまり、共通テストでは問題数の制限と難易度のばらつきの制限ができてしまっている、ということです。

幅広い分野の習熟度の計測を目的とするなら、難易度のばらつきをなくして問題数を最大化することが理にかないます。一方、習熟度自体の計量を目的とするなら、難易度はばらついていた方が合理的です。その場合は問題数を少なくしないといけません。すると、幅広い分野にわたる問題設定が難しくなります。共通テストの理念としては前者なのですが、共通テストの役割は後者です。平均点と標準偏差に数値目標を設定してしまったために、理念と役割がコンフリクトしているのです。

また、あらゆる測定においてノイズの影響を排除したいように、テストでは「運」というノイズを除去したいわけです。4者択一を基本とするマークシート方式のテストではどうしても運の要素を排除できません。選択式の設問の場合、運の要素があると、平均点が上げ底され、標準偏差が低下します。50%が実力で正解する問題の場合、不正解の50%のうちの25%、すなわち12.5%ほどが「運」で正解します。すると正答率は62.5%になり、平均点は62.5点になります。標準偏差は約48.4で元々の50より下がります。

平均点を50点に戻そうとすると、正答率を33%程度にしないといけません。この時の標準偏差は約70でかなり難易度が上がります。つまり、相当難しい問題が混ざってくるということです。

そもそも平均50点、偏差値10点というテストの設定にどれほどの意味があるのでしょう?偏差値$X$と確率$P(x)$の間には大雑把に言って次のような関係があります。

\begin{equation}P(X)\approx 1/10^{|X-50|/(10\sigma)}\end{equation}

ただし、$\sigma$は標準偏差で、$P(X)$は偏差値がXを超えている確率です。偏差値70だと指数部分は2になり、$P(X)=1/100$です。正確ではありませんが概算ではあっているとします。ここから平均50点、偏差値10点というテストにおける上位10人の得点を考察してみます。共通テストの受験者数はおよそ50万人なので、上位10人の確率は、10/500000。$log_10{50000}\approx 4.69$なので、$X=97$ということになります。800点満点に換算すると776点で、上位10人あたりだと2点くらいの差で順位がつく計算になります。テストの機能の一つに能力の順位付けがありますが、入試に限っては合否判定あたりの順位付けという意味であり、最上位陣の順位付けは意味がありません。にもかかわらず、共通テストは合否判定に関係しないような成績優秀者の順位付けに最適な設計になっているというわけです。


テストとクイズは違う

英語では小テストのことをQuizと呼ぶので、テスト=クイズと短絡しても仕方ないかもしれませんが、いわゆるクイズとテストは全く別物です。クイズとは単なる遊びです。問題に重要な意味があることはほとんどありません。懸賞クイズなんかで、正解に利益が発生することもありますが、不正解で不利益があったりしません。しかし、テストは問題そのものに意味があったり、不正解だと落第や不合格なんていう不利益が生じます。テストには責任があるのです。

テストで生じる利害関係の責任はテストの実施者とテストの作問者が負うことになります。特にテスト内容に関しては作問者に大きな責任があります。作問者はテストの機能や役割をきちんと理解してその機能と役割にふさわしい問題を設定しないといけません。そのためにはテストをどのように設計するかということが大事になります。設問の具多的な内容より前にきちんと設計することが必要です。その設計に応じて、設問の難易度や数が決まるのです。

誰しもテストを受けた経験はありますが、テストの作問をした経験はあまりありません。教員等になって、作問をする立場になって初めて作問のミッションが与えられるわけで、作り方とか知らないわけです。適当にクイズっぽいものを並べたら、それなりにテストっぽいものができるので、それで安心しているというのが大半だと思います。でもそんなテストをさせられる側が不幸でなりません。作問者はテストされる人たちの利益と不利益を差配する立場にあり、不手際があれば訴えられてもおかしくありません。そういう真剣さが作問者に求められると思うのです。

そのためにも、テストの作り方について、きちんと体系化された教育がなされるべきだと僕は思うのです。