うちのラボの研究ノートはEvernoteです
「僕の」ではなく、「ラボの」話です。
研究ノートは研究者にとってもとっても大事な「モノ」です。僕の場合はほぼ日記ですが、日々の活動・アイデアなどをすべて記録として残すことは、研究者の常識です。そういう大事なものだからこそこだわりを持って選定しないといけません。
僕が考える研究ノートに必須の要件は次の3つ。
- 必須要件①記入日の保証(いざとなったら裁判資料となるため、研究ノートには特別な要件がある。日付が保証されていればデジタルデータに訴訟能力があるという判例が米国に存在する)
- 必須要件②手書き(数式とか、アイデアとかは手書きの方が良い)
- 必須要件③モビリティ(出先や屋外など、いつでも記入できること。デジタルノートの場合はスマホでアクセスできること)
紙のノートは必須要件①が怪しいけど、そのほかは完璧。だから少し条件の付いたトート(糸掛&ページ番号印刷)が今でも用いられていると思います。でもきちんと訴訟に耐えるには、ノートにシリアル番号を付して、そのシリアル番号を別のノートで管理しないといけません。ま、ちゃんとした管理をしている大学の先生を僕は見たことありません(いや、奈良先端大学院大学は全学の制度としてこれを実施してましたね。失敬)。
昨今は学生のノートの管理も徹底せよと言われているので、学生が卒業するときに学生の研究ノートを奪い取らねばなりません。気の小さな僕はそういうのが心苦しいのです。実際、僕が4回生の時のラボでは研究ノートを研究室において出ないといけないルールでした。ちょっと寂しかったです。働き出してからは、専門の業者がマイクロフィルムに撮影したりすることがありました。大学のラボレベルでは、そういうのは高コストすぎてできませんから、研究ノートのデジタル化をいろいろ考えていたわけです。Blogなんかのシステムはラボノート向きではありましたが、必須要件①を満たすのがとても難しいので、使えません。
ひところは、Anoteペンという技術を使ったノートを使っていました。特殊なノートと特殊なペンの組み合わせで、ノートに書いた文字がスキャンなしでデジタル化されるというものです。紙のノート(しかもノートは糸掛でページ番号も印刷済み。ラボノートとしての体裁を見たいしています)が本紙で、自動的にデジタルのコピーができるわけです。
2~3年使っていましたが、デジタル化したデータの管理が難しいことと、写真や印刷物を貼れないことが欠点でした。また、器材コストが高く、学生に使わせることは難しいというのも問題でした。
Apple Pencilは素晴らしい
僕は基本的にAppleが嫌いです。わずかな技術的優位性を誇大に主張するやり方はフェアじゃないと思うし、なにより製品が割高です。また、Appleの熱狂的なファンの人たちがちょっと気持ち悪いと感じるのも理由の一つになっています。カルト宗教みたいだし。
そういう偏見を僕は持っているのですが、Apple Pencilだけは素晴らしいと言わざるを得ません。ペン型デバイスはそれまでもたくさんありましたが、筆記用具としての使い心地はどうしても劣るものでした。ラグが大きかったり、位置ずれが顕著だったり。でもApple Pencilは通常の筆記用具と同じような使い心地を提供してくれます。Apple Pencilなら数式を手書きできると思いました。
Apple Pencilを使えば、電子ノートの欠点の一つである「手書きの気持ち悪さ」が解消でき、必須要件②を満たすことができると僕は考えました。つまり、手書き最強ツールであるApple Pencilを擁するiPadを研究ノートに使おうと考えたのです。iPadであればモビリティも十分です。
また、PCでも同じように使えた方が良いに決まっています。iPad含むいろんなプラットホームで動作するノートアプリは大体クラウドなので、Webアプリがあったりして、PCでも動作することが多いです。
クラウドだと、「最終更新日」は大体残っています。だから、必須要件①もかなり満たします。しかし、クラウド故に簡単に更新できて最終更新日が更新されてしまいます。更新されたデータは訴訟能力を失い、致命的です。でも、ノートアプリにロールバック機能があって、特定日付の状態を取得できると、確実に目標日時の状態のノートを入手できることになります。クラウドデータの日付の改ざんはユーザーには無理ですから、ノートの日付はノートアプリ提供会社と言う第三者が保証する価値になります。これ以上の訴訟能力は考えられません。つまり、完全ロールバック機能をもつノートアプリは必須要件①を完全に満たすわけです。ということで、オンライン・クラウド型のノートアプリをいろいろ調査しました。
電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)
その方面の需要は結構あるらしく、電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)という分野があります。最大手はBiovia ELNというものらしいです。iPadやAndroidのアプリはありません。PCオンリーで、結構高価そうです。初期導入コストは最低でも数十万円だと思います。
化学系に最適とうたっているのが、ChemDrawとの連携を売りにしているSignals Notebookです。これも携帯端末では使えません。出先の実験で非LAN環境(屋外とか)での使用を想定するとこうしたELN専用システムはダメっぽいです。企業だとセキュリティの都合で嫌がるからかな。つまり、一般企業向けのELNは必須要件③を満たさないということです。しかたがないので、一般向けの電子ノート(研究用ではない)を選択しました。
電子ノートアプリにはいろいろあるのですが、流行はNotionです。Notionはとても評判が良いのですが、残念ながらロールバック機能がないのでNGです。Microsoft Officeに付属のOneNoteもよいのですが、ロールバック機能が30日しかないので、裁判対策としては使えません。実は数あるノートアプリの中で十分なロールバック機能を持つのはEvenoteの有料プランのみです。
昔はEvernote最強と言われていましたが、Notionなどのライバルアプリの登場で苦戦を強いられました。一時は経営が危なかったらしいです。危なかった理由はシステムの陳腐化とストレージの枯渇でした。そこで、有料プランに極振りすることでユーザーのふるい落としを行い、経営を安定させたようです。完全なロールバック機能って無限に容量を食いますからね。2022年あたりから無料プランの貧弱化と有料プランの値上げが行われ、本当にヤバかったです。そして2023年後半あたりから、急激に機能強化が行われました。2025年現在、機能面では他のノートアプリに劣る要素はほぼありません。値段以外は。
運用コスト
僕のラボでは学生全員に研究費で有料プランを契約させています。こうした個人に紐づく「資産」を研究費から出すのは難しいのですが、大学との交渉を頑張りました。ちゃんとしたルートを構築し、適正に運用していますよ。
まずは学生に有料プランの契約方法を説明します。オンラインサービスの契約は個人資産になるため、通常の方法では大学から費用を支払うことができません。特殊な事情があるとして、立替払いをすることになります。しかしながら、学生は立替払い申請をすることができません。なので、僕が代理で申請することになります。もし、契約途中に不備があって立替払いが認められない場合は、道義的に僕が費用を被らないといけなくなります。さすがにつらいので、契約の不備が発生しないように学生に入念に手順を説明します。
実は購入経路によって結構な差が出ます。重要なのは、学割適用することと、Apple経由での契約にしないこと、です。Apple経由だとおよそ15%高くなります。そのためGoogle PlayかWebから契約させます。契約時の支払い画面、契約後のライセンス確認画面を提出させます。費用は僕が現金で立て替えます。その際、学生が僕から支払いを受けたという「申立書」なるものを学生に署名させます。
ライセンスのIDはメールアドレスなのですが、これには大学のメールアドレスは使わせません。というのも、大学のメールアドレスは進学や卒業でわりと近い将来使えなくなるからです。ライセンス契約のIDは学生のプライベートアドレスにしています。
プライベートアドレスだと、学生の名前と一致しません。なので、別途学生の氏名・学籍番号、ライセンスID(プライベートアドレス)、支払い金額の表を作成します。これらの処理を集めて、大学に立替申請をします。この一連のプロセスは大学の経理と相談して構築しました。事前相談なしにやるといろいろ問題になると思います。こうした手間暇は運用コストの一部であると割り切るしかありません。
導入のメリット
学生の研究ノートは僕が月初めに当月分を配布します。こうすることで、学生の研究ノートは僕の管理下に置かれます。管理下に置かれるというのは、僕はいつでも読み書きできるという意味です。できるのですが、学生の要請なり必要なりがあるときのみ、学生のノートの内容を見ます。研究ノートであってもプライバシーは基本的に守るべきだと思うからです。誰かに見られる可能性があるノートだと思うだけで、恥ずかしいことは書けないし、書くときにはちょっと考えてから書くようになるでしょう。でもそうしたちょっとした気負いがノートへの記入をためらうように働くかもしれません。なので、僕は学生のノートを基本的に見ないし、学生にそのように公言しています。
さらに、書き込むことはほぼありません。学生のノートに書く内容を指示することがありますが、書き込みは学生にゆだねています。何か重要な発見があったと学生から報告があれば、僕が日付入りで手書きサインを入れます。これは特許訴訟対応として必要な手続きですから、しょうがないです。
ちなみに厳密なルールでは研究ノートには毎日上司の日付入りサインが必要とされています。ただ、それは「上司が見た証拠」ではなくて、その日までにノートの当該部分まで記載がなされていることを誰かが確認したという意味になります。ノートの一文一文に秒単位の記録が付属する完全なロールバック機能を持つ電子ノートにおいては、毎日の上司のサインは全く必要ありません。上司のサインがあっても過去の記載部分にちょっとした書き足しはできますからね。上司の日々のサインがあっても訴訟でひっくり返されることは普通にあると思います。ロールバック機能つき電子ノートにかないません。
Evernoteはスマホでも書き込めるので、スマホで写真を撮ってそのままノートに記載することができます。モビリティーという点では最強と言えます。スマホ・PC・iPadのそれぞれで少しずつ機能的に違う部分があるのですが、有料プランではすべてのプラットホームを併用できるので、もんだありません。
手軽に写真をノートに記載できるというのは案外メリットが多いです。測定結果のグラフを研究ノートに貼りたいというシチュエーションが多くあります。紙のノートだと、印刷して切って貼って、というプロセスが必要です。でも、スマホで写真を撮れば、ラボノートに切り貼りする必要はありません。PC作業中の画面写真もすぐにコピペできます。なんなら、解析途中のファイルのバックアップにも使えます。
論文のPDFもラボノートにアップロードすれば、すぐにみんなで共有できます。研究報告会の資料はノートにアップロードするルールになっています。
週1回英語の本読み会をしているのですが、本読み会後に確定した翻訳を専用ノートにみんなで書き込むことで、徐々に翻訳本ができます。
学生個人のノートの使い方は基本的に自由ですが、見本として僕のノートは学生全員が読めます(書き込みはできません)。学生は僕のノートを見本として研究ノートの書き方を学べるようになっているのです。ちなみに諸事情により学生に見せられないノート(個人情報や試験関連)は別に作って管理しています。
Evernoteの唯一かつ最大の欠点は値段が高いことです。無料プランは本当にお試し版で全く実用になりません。そして、有料プランは定価が9300円/年で、驚くほど高いのです。僕のラボは一人研究室(僕以外は学生)なので、全員で10名ほどですが、およそ10万円が年間のコストになるわけです。これはとても大変です。
Evernoteは2024年に入って急速にいろいろな機能強化がなされました。項目の折り畳み機能(WORDのアウトライン表示みたいな使い方)とか、LaTexスタイルの数式とか、気の利いた機能が次々追加されています。LaTexスタイルの数式機能は実用までは遠いレベルですけど、そのうちに使い物になると期待しています。
AI関連機能の強化も進んでいて、手書き図表や写真の文字起こし、会議音声からの議事録作成なんかもできます(十分とは言えませんが、下書きには使える程度)。電子ノートなので、検索とかリンクとかいろいろ使えるので、紙のノートよりはるかに機能的です。
手書きメモの文字起こし機能も結構育ってきていて、キーワードとかきちんと拾ってくれます。数式の使い勝手はまだまだダメですけど、将来はどうなるかわかりません。いらない機能もいろいろ追加されていますが、重要な機能も年々洗練されてきていますので、ちょっと期待しています。
もう8年使っている
僕がEvernoteでの研究ノートを本格導入したのは2018年です。2025年の現在、8年目ということになります。2018年当時は、僕だけが3500円/年程度の有料プランを自腹で契約し、学生たちは無料プランでした。
Evernoteは最近どんどん高価になって、本当に苦しいのですが、乗り換え先がないことと、すでにデータの蓄積があることの2つの理由によって継続使用しています。現在の標準価格は9300円/年です。
機能的にはとても満足しています。運用面のノウハウもたまっていて、使い心地はよいのです。すでに10年くらいの運用実績があって、過去の研究ノートが積みあがっています。学生10人×12月×8年=約1000冊というノートがあるわけです。別のサービスに乗り換えるのはちょっと難しいです。もうEvernoteと心中するしかないレベルです。
以前のEvernoteは少しダサい感じがしましたが、今のEvernoteはすごくモダンでとても使いやすいです。一つのノートをみんなで編集するという機能があって、ちょっと楽しいです。それぞれの人が違う色のカーソルで表示していて、みんなの編集が瞬時に反映されます。誰がどの位置を編集中かがわかるので、そこを避けて別の部分を編集するということがストレスなくできるのです。なんだかおもしろいですよ。
色んなファイルをアップロードできるので、作業中のファイルの履歴として活用することもあります。つまりクラウドストレージとしての側面があるわけです。すると学生は研究室での作業を自宅に持ち帰るのが簡単になるわけです。
学生にファイルを送るのも、メールだとサイズを気にするところですが、Evernoteだとそのあたりが少し緩くなります。学生のノートに僕が直接アップロードしたり、僕が欲しいファイルを学生にリクエストすると、学生の自分のノートにアップロードしてくれるわけです。そのときにファイルに関するいろんな情報を付けてくれてれば、僕は続きの作業ができます。そして、そのやり取りは記録に残るわけです。
こういうのは大学が考えるべき
研究ノートの電子化・オンライン化・クラウド化は昨今の研究環境の当然の流れであり、すべての研究者に関係のあることだと思います。特に大学では研究不正を防ぐために研究に関する情報の管理が強く求められています。うちの大学のように小さくてのんきなところは、文科省の引き締め要求をそのまま末端の教員に垂れ流し、「各自ちゃんとするように!」と伝えるだけしかしません。具体的にどうしろとかないわけです。やり方を示さず、問題が起こったときに追求だけするぞ、と脅すわけです。もう、やってられません。
情報管理を徹底するには、コストが発生します。実験データを10年保管とか、どれだけのストレージが必要になることやら。そしてそのバックアップコストも発生します。そのコストは大学の要請にこたえるためのものなので、大学に請求できるかというとそうなりません。また、どうすれば十分か、ということも示されていないので、僕たちはとても不安なのです。
というわけで、僕は自衛のために年間10万円を払うわけです。自分の研究費を削って。ちょっと納得がいかない面もあります。他の人たちは相変わらず紙のノートを使い、学生のノートを召し上げるわけですが、それは倫理的にちょっと怪しいと思います。実際、紙のノートも専用の研究ノートでないので、訴訟能力が全くなかったりします。それでええのか?
コクヨの研究用ノートは一冊2500円で年間一人1冊くらいです。厚みは1cmくらい。うちは10人くらいなので、年間10cm成長します。10年で1m分本棚を圧迫します。早晩場所問題が発生します。研究ノートは大学の資産なので、そういう書類系の資産は図書館が管理すべきです。うちの大学は教員が300人くらいいますから、年間30mの本棚が必要になります。100年とか保管しだしたら、3kmですよ!
電子研究ノートというのはスケールメリットが大きいので、大学全体みたいな組織単位で契約すれば多少はコストが圧縮できるはずです。一人当たり年間2500円というのが損益分岐点だと僕は思っています。かつてのEvernoteの価格はそのくらいだったんですけどね~。
研究ノートになくて良い機能
研究ノートは裁判の証拠としての機能がありますから、電子ノートで代用するにはロールバック機能が絶対必要です。従ってロールバック機能を阻害する機能は必要ありません。
ロールバック機能を阻害する機能で代表的なのが、データベース内容の引用機能です。データベースはデータを細分化し、管理し、引用を容易にする仕組みです。データ単位(レコード)の登録・更新に日付や履歴が完備しているものは基本的にありません。更新履歴なんて情報は冗長性が高く、大量のデータを整理・保管することが使命のデータベースにとって極めて不利な機能です。データベースではレコードをさらに細かなデータに切り分けますから、更新履歴情報はレコード本体の何倍にもなります。例えば、何月何日の状態にデータベースをロールバックするなんて作業は普通はできません。
電子ノートにデータベース内容を動的にリンクする機能があった場合、その電子ノートは過去の状態を復元することができなくなります。だから、電子ノートサービスの中に動的なデータベース引用機能が含まれていると、裁判の証拠として使えなくなる可能性があります。
調べてみると、Notionが内部に統合されたデータベースとの連携機能を売りにしていて、これはダメです。Notionはロールバック機能がありませんから、そういうことができるわけです。OneNoteは外部データベースの引用はできますが、統合はされてません。共有ノート機能もあるので、ロールバックが30日とか限定されていなければ使えるんですけどね~。
過度な表現力もノートには必要ないと思っています。手書き機能が使えれば表現力の部分は手書きで補えるからです。高い自由度が必要ならばワープロやパワポを使った方が、再利用性も増します。そうして作成したファイルをノートにアップロードすればよいだけです。PDFにしておけば、フォーマット済み文書の中身が、たいていのノートアプリで直接見えます。
必須な機能は以下の通り
- 「完全」なロールバック機能をもつこと
- 「データがクラウド保存」され、タイムスタンプの改ざんができないこと
- スマホ・PCなど「複数のプラットホーム」で利用できること
- 「手書き」機能が十分であること
- ノートを「共有」して「集中管理」できること
- ファイルの「アップロード」に対応していること
あったら良い機能は以下の通り
- 手書きデータのデジタル化・検索
- ノート内容の階層化
- 階層化されたノートの管理
ない方が良い機能は以下の通り
- データベースとの接続
現状ではEvernoteが最適解だとおもっているんだけど、GoodNoteとかも有料プランなら無限履歴があるっぽい。その場合のコストはEvernoteとどっこいどっこい。どうしたものか。
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