ここ数年、ずっと考えていること
僕は工学部化学系の出身で、数学どころか物理も結構ええかげんな感じでしか勉強したことがない。でも、今の僕の専門は、物理で、しかも応用数学チックなところにある。だから、物理や数学のことをずっと独りで勉強してきた。いろんなことが少しずつ解けてきて、僕自身は満足なんだけど、後から考えると、僕が試行錯誤して学んできたことの多くは、教えてもらえれば苦労なんかしなくてよかったな、って思う。その最たるものが数学だ。
大学の数学で強烈に覚えているのは、僕たちを全く寄せ付けない、εーδ論法だ。一体全体、なんでこんな回りくどいことをしなければならないんだろう?これが理解できない僕たちは、数学に触れてはいけないんだろう。数学は才能の学問であり、才のない僕らは教育すら受ける必要がない、そういう分野なんだと聞かされてきた。理論物理の世界では、SU(2)とか、わけのわからない群論記号で議論が行われる。だからその分野も僕の踏み入れてはいけない領域なんだと思ってた。
でも違った。ある本を読んで、εーδ論法がなぜ必要なのか、理解できた。群論のことも、理解できた。そのおかげで、いろんな数学が一気に理解できて、SU(2)とかも、おおむねわかった。僕に必要だったのは、ちゃんとした説明だけだった。
苦労して勉強してきたおかげで、僕はその先に進むことができるような気がしている。今興味があるのは、「数」のこと。結局は群論なんだけど、様々な物理の世界を特殊な「数」に割り当てることを目論んでいる。例えば、テンソル。異方性を持つ物性値はことごとくテンソルになるけど、このテンソルはある種の複素数の性質を持っている。量子力学では複素数のベクトルとか行列とかが活躍するんだけど、複素数のベクトルや行列って特殊な「数」としての性質を持っている。そういう広義の「数」の概念で、僕のかかわる物理の世界を書き直してみようと、最近画策している。
数の概念の拡張
小学校以来、僕たちは算数・数学で「数」の概念を拡張し続けてきた。最初に習ったのは「正の整数」あるいは「自然数」だ。0を含むかどうかは微妙だけどね。その次に習ったのは「小数」だったと思う。次に「分数」。中学校になって「負の数」「無理数」。高校になって「複素数」を順に習った。その時の僕は気づかなかったけど、「ベクトル」と「行列」もある意味「数」だった。高校の先生はそんなことを全く教えてくれなかったけどね。こういう順に並べると気づくと思うけど、僕たちは順番に「数」の概念を拡張してきたことになる。例えば、「小数」は「自然数」を含み、「分数」は「小数」を含む。それぞれのカテゴリーで、計算の様子が少しずつ変化し、それぞれに特徴があるものだ。例えば、「分数」では除算が、分子分母を入れ替えて積を取る、という演算になって、積の一種として扱えるようになる。
ここで、εーδ論法の話が絡んでくる。εーδ論法は、「小数」を含む「数」に対して利用できるツールである、ということだ。「小数」を含む「分数」や「無理数」でも自動的に利用できる。これは、εーδ論法を用いて証明された定理は、利用範囲が広いこと意味する。
εーδ論法で必要とされるのは、対象がコンパクトである、ということだけだ。コンパクトという概念は、二つの「数」の間をどれだけ小さくとっても、まだまだ間の「数」を見つけてこれるような、そういう性質のことだ。「数」と「数」の間にちょっとぐらいの穴があっても構わない。ただ、隙間が見つけられれば良い。その典型例が「小数」だ。「小数」では、一部の「分数」や「無理数」が表現できない。つまり「穴」がある。でも、桁を下げてゆけば、いくらでも隙間を見つけることができる。そういう例は結構多い、と数学者たちは考えている。そういう「世界」で利用できる強力なツールがεーδ論法ということだ。ちなみに、「微分」という概念は「穴」があると都合が悪い。だから、微分ではなくてεーδ論法を使うのだ。
概念だけで説明されると、とても手に負えない「コンパクト」という概念だけど、「有理数」「無理数」で説明したら、そんなに難しいものでもない。
注釈:隙間が無限に見つられるという定義は、厳密には「稠密」で、コンパクトというのはそれが局所的に収束すること、あるいは収束する状態のこと。
特殊な「数」
僕たちの「数」の概念の拡張は基本的に高校数学で終わっている。でも、仕組みが分かったのだから、もっと先に進んでもよい。僕が特殊な「数」に興味を持ったきっかけは、「複素数の行列表現」だ。虚数単位$i$は$\sqrt{-1}$として定義され、それ以外の定義は教えてもらえない。ところが、ハミルトンの四元数を勉強した時、3種類の虚数単位が紹介され、それぞれの行列形式が提示された。僕はとてもびっくりした。厄介な虚数単位が3つもあるんだから!そして、それぞれの虚数単位に別々の行列が対応するというのだ。わけがわからない。
もっとびっくりなのは、三元数とか五元数とかはなくて、普通の複素数である二元数の次は、四元数でその次は八元数だそうだ。ハミルトニアンに名を残す天才ハミルトンが三元数を探し続けて行き詰まり、ある日突然、橋の上を歩いていた時に四元数を思いついたそうだ。あまりの嬉しさに、橋にその発見を落書きしたと伝えられている。
さて、四元数にはいろんなバリエーションがあるとされている。split-quarternionと呼ばれる「数」では、二乗したらー1になる2つの虚数単位と、二乗したら1になる3つめの虚数単位を用いる。二乗したら1になる虚数単位って意味が分からないぐらいだけど、そういう性質を持つ行列が定義出来て、split-quarternionを具体的な「数」として計算することが可能になっている。そして、split-quarternionで用いられる、二乗したら1になる虚数単位を使った二元数というのも考えることができる。こうしてできる新しい複素数はsplit-complex number と呼ばれる。split-complex numberは、自動的に対称行列に対応する。逆に対称行列はすべてsplit-complex numberであると言える。物理の世界では、異方性をもつ物理量のほとんどは対称行列で表現できる。つまり、そのような物理量はsplit-complex numberということだ。split-complex numberには特有の性質がある。その「数」としての性質は、異方性をもつ物理量の現実の性質と深く結びつくはずだ。僕はそこに興味がある。
量子力学の一つの謎を考察する
量子力学ではDaggerという演算がしばしば用いられる。行列に対し、転置と複素共役を同時行う操作と定義されている。量子力学では、しばしば転置と複素共役がセットで表われ、それぞれを単独で用いることが少ない。なぜなんだろう?そのヒントになるのが、虚数単位の行列表記だ。通常の虚数単位は$i$だけど、$\begin{pmatrix} 0 & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix} $のような行列を用いてもよいらしい。$\begin{pmatrix} 0 & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix} ^2= \begin{pmatrix} -1 & 0 \\ 0 & -1 \end{pmatrix} $ なので、確かに$i$の性質を持っている。このように表記は違うけど、本質的に同じものを「同値」という。虚数単位の行列表現はその典型例だ。
これを用いて、$a+b i$を行列表示すると、$\begin{pmatrix} a & b \\ -b & a\end{pmatrix}$となる。一方、共役は$a- b i$なので、$\begin{pmatrix} a & -b \\ b & a\end{pmatrix}$である。行列の方を見比べると、ちょうど転置になっていることがわかる。これをまとめると、行列表示では転置すると自動的に共役になるということだ。
Daggerは転置して共役なので、2回ひっくり返って元に戻る、ということになる。じゃ、Daggerにする意味ないよね、と短絡してはいけない。複素数1個だったらそうだけど、複素数を要素とする行列(複素行列)では、そうならない。$\begin{pmatrix} a+b i \\ c +d i \end{pmatrix}$だったらどうだろう。これを無理やり行列表示すると$\begin{pmatrix} a & b \\ -b & a \\ c & d \\-d & c \end{pmatrix}$になるだろう。これを転置すると、$\begin{pmatrix} a & -b & c & -d \\ b & a & d & c\end{pmatrix} =\begin{pmatrix} a-bi & c-di\end{pmatrix}$になる。これはDaggerの操作だ。
つまり、Daggerの本質は転置で、複素数の転置とは、複素数の共役ということだ。通常の複素行列では、要素の複素数自身に転置操作が及ばないので、Daggerによって要素にも転置操作が及ぶようにする、ということだ。
うまくいきそうだけど、この議論ではちょっとした危険をはらんでいる。先の議論では、行列の要素にさらに行列を埋め込んで、中の方の括弧を無視するということを行った。つまり、
$\begin{pmatrix} a+b i \\ c +d i \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} \begin{pmatrix} a & b \\ -b & a \end{pmatrix} \\ \begin{pmatrix} c & d \\ -d & c \end{pmatrix} \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} a & b \\ -b & a \\ c & d \\-d & c \end{pmatrix}$
こんなことが許されるのだろうか?
こんなことを許して、どこかに不都合が生じたりしないだろうか?
すこし四元数のことを調べてみる
さて、$\begin{pmatrix} 0 & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix} $以外に$i$の性質を満たす行列はないだろうか?先の四元数では、$\begin{pmatrix} 0 & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix} $のほかに、$\begin{pmatrix} i & 0 \\ 0 & i \end{pmatrix} $と$\begin{pmatrix} i & 0\\ 0 & -i \end{pmatrix} $が用いられる。いずれも$i$として使うことができるが、要素に$i$が含まれているので、あんまりありがたくない。でもWikipediaをみると、四元数の行列表示として4x4の行列が示してある。例えば、
$\begin{pmatrix} 0 & 1 & 0 & 0 \\ -1 & 0 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 0 & 1 \\ 0 & 0 & -1 & 0 \end{pmatrix}$が挙げられている。これは、$\begin{pmatrix} i & 0 \\ 0 & i \end{pmatrix}$であり、先に示した四元数の虚数単位の一つに一致する。
だから、行列の要素に行列を埋め込む、というのは「OK」らしい。実はそういうのはブロック行列と呼ぶらしい。$\begin{pmatrix} A & B \\ C & D \end{pmatrix}$の各要素が行列であるようなものだ。この場合、行列式は、$ det A det \left(D - C A^{-1} B \right) $であらわされる。僕らが良く知る行列式の公式$AD-BC$に極めて似ているけれど、行列の場合は計算順序を入れ替えられないので、$C A^{-1} B$はこれ以上簡単にはできないように思える。ただし、$ABCD$が特別な場合はそれが可能だ。特別な場合というのは、例えば、$\begin{pmatrix} a & b \\ -b & a\end{pmatrix}$だ。
この事情は複素数が行列表示できるという話のときに気づくべきことだった。つまり、複素数の積は交換可能なのに、積が交換可能でない行列で表示できるわけがないだろう、ということだ。
実のところは、積が交換可能(可換)な行列のタイプというのがあって、それらは共通の特徴を持つ。可換な行列の一つが、$a+bi$ということだ。一般に、$ a E + b X$という行列であれば、積が可換になる。さらに、$X^2 = \alpha E$を満たすとき、「普通の積」の性質を持つようになる。そういう場合、「複素数」タイプと呼ぶことにしよう。
$ABCD$が複素数タイプの場合は、$ \det A \det \left(D - C A^{-1} B \right) =\det A \det \left(D-A^{-1}BC\right) = \det (AD - BC)$となり、僕らの知っている普通の複素行列と矛盾しない結果になる。
この事情は逆行列の場合も同じだ。だから、可換なサブ行列からなるブロック行列は、サブ行列を要素とする普通の行列とみなしてよい、となる。ということで、Daggerという操作は複素数まできっちり拡張された正当なる置換操作であるということになる。
知らない間に通り過ぎることの善悪
高校までの数学では、複素数が導入されて、つぎは行列が導入された。上記の議論に基づくと、順当な「数」の概念の拡張だとわかる。でも、僕らはそんなことは一切知らされず、計算技術の側を用いて、計算を進めてゆくうちに、なんとなく理解が進むという側面がある。だから、まずは計算ができること、を学習目標に設定するのは悪くはない。ただ、「それが全て」みたいな指導が横行していて、数学のありがたさが今一つ見えてこない。そのせいで、最近は、高校で行列を教えることをやめてしまった。
さらに、大学で学ぶべき高等数学の邪魔をしているという明らかなデメリットがある。僕たちは、「数」というものを「すでに存在しているもの」「計算の対象」とみなす傾向がある。我々が知る多くの「数」は、「たまたま現実世界の何かとうまく対応する概念」でしかない。うまく対応するのは、ある種の必然ではあるのだが、全ての「数」が何かと対応するとは限らない。多くの「数」が数字の概念からの拡張であるのは、算法を定義しやすくて調べやすいからという都合によるものだ。「数」の概念は、数字よりもずっと広い概念で、その本質は、数学者でない我々には想像の及ばない世界だ。だからと言って、数学者でない人に理解できないわけではない。
僕はプラスチックの研究者で、樹脂にいろんな微粒子や繊維を混ぜた複合材料の研究をしばしば行っている。その時、材料を「数」とみなすこともできる。混ぜるという行為は、材料同士の「演算」だ。物性測定は、ある種の「演算」あるいは、「関数」に割り当てることができる。材料同士の混合や物性測定に対応する「演算」は自明ではないが、その演算ルールが明らかになれば、材料研究が進む。だから、僕たちは、演算ルールを明らかにするという研究を行う。
このような材料研究を数学の言葉で抽象化すると、材料研究の難しい部分がどこにあるのか俯瞰できる。材料$A$と材料$B$があって、それらを混合する演算を$+$としよう。ある物性を測定するということを$f(A)$のように関数で表すことにする。このとき、AとBの混合物の物性は、$f(A+B)$になるだろう。$f(A+B)=f(A)+f(B)$のような演算則が成立するなら、材料研究はとても簡単だ。このような演算則は「線形結合」と呼ばれる。現実の演算則はもっと複雑だが、もし演算則が完全に理解できれば、僕たちは材料設計を自由自在に行うことができるだろう。だから、僕たちは、$f(X)$がどのように書き下されるのか、$f(A+B)$を$f(A)$と$f(B)$の関数として書き下す方法などを研究する。
このような抽象化は単純すぎるが、世界を数学で記述するという概念の例として、わかりやすい。僕は物理をベースにした科学者だけど、「数」について、いろいろ考えている。その時、つくづく感じるのは、「ちゃんと教えてほしかった」ということだ。
さらに、大学で学ぶべき高等数学の邪魔をしているという明らかなデメリットがある。僕たちは、「数」というものを「すでに存在しているもの」「計算の対象」とみなす傾向がある。我々が知る多くの「数」は、「たまたま現実世界の何かとうまく対応する概念」でしかない。うまく対応するのは、ある種の必然ではあるのだが、全ての「数」が何かと対応するとは限らない。多くの「数」が数字の概念からの拡張であるのは、算法を定義しやすくて調べやすいからという都合によるものだ。「数」の概念は、数字よりもずっと広い概念で、その本質は、数学者でない我々には想像の及ばない世界だ。だからと言って、数学者でない人に理解できないわけではない。
僕はプラスチックの研究者で、樹脂にいろんな微粒子や繊維を混ぜた複合材料の研究をしばしば行っている。その時、材料を「数」とみなすこともできる。混ぜるという行為は、材料同士の「演算」だ。物性測定は、ある種の「演算」あるいは、「関数」に割り当てることができる。材料同士の混合や物性測定に対応する「演算」は自明ではないが、その演算ルールが明らかになれば、材料研究が進む。だから、僕たちは、演算ルールを明らかにするという研究を行う。
このような材料研究を数学の言葉で抽象化すると、材料研究の難しい部分がどこにあるのか俯瞰できる。材料$A$と材料$B$があって、それらを混合する演算を$+$としよう。ある物性を測定するということを$f(A)$のように関数で表すことにする。このとき、AとBの混合物の物性は、$f(A+B)$になるだろう。$f(A+B)=f(A)+f(B)$のような演算則が成立するなら、材料研究はとても簡単だ。このような演算則は「線形結合」と呼ばれる。現実の演算則はもっと複雑だが、もし演算則が完全に理解できれば、僕たちは材料設計を自由自在に行うことができるだろう。だから、僕たちは、$f(X)$がどのように書き下されるのか、$f(A+B)$を$f(A)$と$f(B)$の関数として書き下す方法などを研究する。
このような抽象化は単純すぎるが、世界を数学で記述するという概念の例として、わかりやすい。僕は物理をベースにした科学者だけど、「数」について、いろいろ考えている。その時、つくづく感じるのは、「ちゃんと教えてほしかった」ということだ。