2024年5月22日水曜日

英語のテストを廃止してみる?

 日本の英語教育はダメダメ

日本の学校教育が高卒時点で目標としている英語のレベルは、英検2級だそうです。しかしながら、高卒時点でこのレベルを達成しているのは2%だけだそうです。この2%の中には留学経験者も多く含まれると思われるので、日本での学校教育だけで十分な英語能力を得る人は極めて稀であることがわかります。逆に言えば、日本国内の学校教育で英語が十分に習得できないのは普通ということです。ということは、教育法に問題があるということで、改善が必要なことは明白です。

そういうことは、文部科学省もよくわかっていて、英語教育改善のためにいろいろな施策を施してきました。もっとも有名なのは、大学入試センター試験にリスニングテストを導入したことです。大学入試にリスニングがあると、高校でリスニング対策の教育が施されます。実際にそうなりました。英語教育改革は高校だけにとどまらず、小学校・中学校でもALTと呼ばれる外国人補助教員が導入されました。これを第1次改革と呼ぶことにします。

現在の大学生はこうした施策をすべて享受して育った世代です。その結果が「2%」なのです。文科省は相当なショックを受けたわけです。その結果、小学校低学年からの英語教育を必修化しました。また、センター試験が共通テストに解明されるタイミングで、英語リスニングテストの割合を25%から50%に引き上げました。これを第2次改革と呼ぶことにします。


第1次改革(リスニング試験導入)は失敗だったのか?

現在の大学生たちの英語能力を見る限り、第1次改革は目論見を大きく外れています。英語で会話できる学生は皆無だし、英語の読み書きはひどいものです。実際のところ、リスニングはちょっとだけ改善したかもしれません。でも実用レベルには程遠いのが現状です。

でも、ちょっとは改善の兆しが見られたことから、文科省はもっと極端にリスニングのウェイトを増やしました。センター試験にリスニングを導入する際のすったもんだは大変だったけど、なんとか導入されて、問題なく運用されました。

で、問題はその効果。高校ではリスニング対策として英語を母語とする先生が大勢雇われて、それなりのトレーニングは実施されるようになりました。ちょっとはリスニングの能力は向上したんだと思います。でも、十分ではなかったと思います。大学で見ている限り、英語がちゃんと聞き取れる子はいませんからね。

失敗とは言い切れませんが、目標としたレベルまでは達していないというところでしょうか。なので、文科省は2つの対策をします。ひとつはセンター試験を共通テストに改名するタイミングで英語のリスニングの重みを変更しました。リスニングの重みを筆記試験と同じにしたのです。もう一つは小学校における英語教育の必修化です。

リスニングの重みが増したことで高校におけるリスニング対策がより活性化することをもくろんだわけですが、これは早々に失敗しつつあります。人員の問題もあるし、教材の問題もあります。また、英語の筆記試験の難易度もついでに上がった影響で、教育効果の上がりにくいリスニングを諦める雰囲気が出ています。過ぎたるは及ばざるがごとし。


小学校に英語を導入

文科省もリスニング教育の推進だけではダメだとわかっているので、次の一手として小学校での英語を必修にしました。この根拠は子供の時から英語を勉強したら大人になったら楽できるはず、みたいなことです。帰国子女の英語力が高いことに目をつけたわけです。全員を「留学」させるのはムリなので、「子供」をキーワードに対策をひりだしたわけです。

こうしたこの背景には文科省の役人の英語コンプレックスがあるのだと思います。国家公務員はエリートの頂点ですが、にもかかわらず英語ができるひとは多くありません。勉強の能力の高い役人が一生懸命勉強してきたのに英語はモノにできなかったという思いがあるのだと思います。自分が英語ができないのは、子供の時に勉強できなかったことと留学機会がなかったことだと、責任転嫁しているわけです。サイテーです。

子供は「遊び」の中で言語能力を発達させます。子供時代を英語環境下で過ごすと、英語を使わないと「遊び」に加われません。子供は必死で英語を学ぶわけです。最終的なモチベーションは「遊び」なので、子供自身は「勉強」とは思っていないことが大事だと思います。留学で英語能力が高くなるのは「イマーション教育環境」がキーワードです。英語しか使えない環境だと生存のために英語を学ばなければなりません。留学しても緩い環境だと語学能力は高くならないことが良く知られています。

英語に限らず語学を学ぶのに大事なのは高いモチベーションだと短絡してしまうと、解決策がなくなってしまいます。留学で語学が身につくのは英語を身に着けないと生活に困るからです。本人たちはかなり必死な状態で、結構苦しいと思います。

リスニング教育は無駄だったわけではない

さて一方で、英語教育の一連の改革で目覚ましい効果が上がったケースがあります。それは、歌手の皆さんです。1980年代のアイドルの英語はひどいものでした。榊原郁恵さんのヒット曲である「夏のお嬢さん」には「アイスクリーム、ユースクリーム、好きさ」という歌詞があります。僕は小さな子供だったので、アイスクリームを食べる歌なのかな?と思っていました。後になって榊原郁恵さんも意味が分からず歌っていたと告白しています。この歌詞は、「I scream, you scream ...」という英語で、私が叫んで、あなたも叫ぶ、という意味です。しかしながら、screamというのは恐怖交じりの叫びなんで、そもそもちょっと違う感じですが、問題は、歌っている人が意味が分からず歌っていて、しかも完全に日本語の発音なので、英語に聞こえなくてすっちゃかめっちゃかだということです。こういうことは全く珍しくなくて、当時から英語の歌詞は多くありましたが、まともな発音は皆無でした。

これは日本人の英語の発音がひどいというエピソードではありますが、最近の歌手の英語の発音は見事なものになっています。改善され始めたのは英語のリスニング試験が導入された頃から。時期的にリスニングの強化政策が歌手の英語の発音を改善したと考えるのが自然です。大学生のリスニング能力には効果が十分でなかったリスニング教育が、歌手の英語の「発音」に効果を上げたわけです。どういうことでしょうか?

歌手の人たちには申し訳ないですが、彼らは勉強で身を立てようとは思っていません。センター試験なんかほとんど興味なかったはずです。にもかかわらず、高校ではリスニング教育が強化されました。かれらはリスニング試験で高得点を挙げる必要はないので、リスニングでは「英語ができるようになったらいいなぁ」と思って、かなり消極的に取り組んでいたと思います。英語を音楽として聴く、あるいは、音として英語を楽しむ、という態度です。その時、英語の意味とかどうでもよいのです。英語の歌があったとして、カッコよく歌えたら良いな、と思って、真似をするわけです。そのなかで英語の「音」を素直に聞いて、まねっこしたりするのです、文字や単語に対応させることもなく、意味を考えることもなく、ただ音だけを聞いて、そのうち覚えるわけです。これは多くの人が幼児期の言語学習で行っていることです。

英語と日本語は根本的に異なります。文法はもちろん、一部の外来語を除くと単語レベルで一致する言葉はありません。これほど異なる言語はほとんどありません。というか、日本語がかなり特殊です。そういうわけで、日本人が英語などの外国語を学ぶのはとても大変なのです。特に、「音」が問題です。

日本語と英語では「音」のレベルで全く異なります。日本語は「音」の種類が極端に少ない言語であるため、英語の「音」を日本語の「音」に対応させることは不可能です。なので、日本人が英語を学習する際には、英語で用いられる「音」のセットを学ぶ必要があります。

日本語は「音」の種類が少ないのですが、それでも無理やり対応付けてしまいます。これは本能のようなものですからある程度は仕方がありません。そういう無理やりなことをすると言語学習に支障が出ます。これが、日本の英語教育が失敗した根本的な原因です。僕がこれに気づいたのは22歳の時で、愕然としました。僕が一生懸命勉強した英語とはいったい何だったんだろう、と途方にくれました。最初から最後まで間違ってました。

その後、僕は英語の「音」の基礎学習におよそ2年かかりました。その間は意味とかほとんど気にせず、英語を聴いて「音」だけ気にしてました。そして確信しました。英語は実技科目であると。

学習(訓練)において試験が設定されていると、その試験のために学習(訓練)することになります。リスニングの試験というのは、リスニングそのものを試験しているのではなく、リスニングを参考にして正解を選ぶゲームになっているのです。なので、学習(訓練)の目標が、「テストで正解を選ぶためのリスニング能力」になってしまいます。これはテストの得点が評価を左右する限り、避けられません。

例えば、体育の授業でサッカーがあったとして、ドリブルのテストをしますよ、となって練習するときには、ドリブルっぽいものを練習するはずです。でもそれはサッカーのゲームで行うドリブルとはちょっと違うものです。もちろん、ドリブルですからスピードとかボールコントロールとかは大事です。しかし、ゲームの中ではそういうものよりもっと大事なものがあって、ドリブルのテストのための練習では効果があんまりなかったりします。英語のリスニングでも同じようなことが起こっていると思うのです。

解決の糸口

幼少期の英語学習が効果的というのは事実です。でも、それは「幼少期」が理由ではないと思うのです。言葉を学ぶという割と普遍的なモチベーションに加えて、目的が純粋に学ぶことであることが重要だと思うのです。テストで高得点を目指すといった不純な動機だと多分失敗するのです。

小学校での英語の必修化が始まってしまいましたが、必修化というのはつまり、教育効果をちゃんと測定するということがセットです。つまり、成績をつけるということです。すなわち、テストがあるのです。日本の教育現場では実技科目を除いて筆記試験が標準ですから、たぶん小学校の英語にも筆記試験があると思うのです。でも、思い切ってそういうのをやめると良いと僕は思います。

僕は出張授業なんかでいろんな高校や中学校・小学校に行って、先生方とお話する機会があります。その時、英語はテストをやめて実技科目にしてしまうべきだと言っています。機械翻訳の精度向上によって外国語を学ぶ必要性は緩和されつつあります。それでも外国語を学ぶのには一定の重要性があると思いますが、でも必要性は明らかに低下しています。将来的には必要ではない(不必要とまでは言わない)であると結論されるかもしれません。となるとますます英語のテストを行う意義は薄れます。であればいっそのこと英語を実技科目に位置付ければよいんじゃないかと思うのです。

特に高校に入るまでは実技科目扱いでよいと僕は思います。歌を歌ったり、映画を見たり、しりとりのような言葉遊びをしたり、ボードゲームもよいかもしれません。そういう半分遊びの中でこそ、語学の学習は効果的だと思うのです。


Reading, Composition, Grammar

英語の科目は、Reading, Composition, Grammarと分かれているのは皆さん覚えがあると思います。日本語は、「国語」「古典」に分かれていますが、英語科目より大雑把です。これらの違いは、「英語だから」だと僕は思っていました。しかし、外国籍の家内の話を聞くと、彼女の国では母語の科目も、Reading, Composition, Grammarに分かれていたそうです。調べてみると、ヨーロッパの多くの国で、母語の学習もReading, Composition, Grammarに分かれているようです。つまり、僕たちの母語の学習だけがちょっと違うということです。そしてもうひとつわかったのは、ヨーロッパでは外国語の学習ではReading, Composition, Grammarに分かれていないらしい、ということです。あえて言うならComprehensive(包括的、総合)という言葉が使われるみたいです。

なんでこんなことになっているのでしょう?日本では日本語の学習は江戸時代に寺子屋教育として確立されました。寺子屋教育では基本的に古典(論語など)をそらんじる、という教育方法がとられました。文学になじむことと、常識・道徳教育を同時に実施するという、効率的な教育法です。明治以降も基本的な教育法は継承されました。そのため、文学作品を通読することが国語教育とされたのです。戦後、英語教育を導入する際に、米国式の英語教育を取り入れた結果、英語を母語とする人たち向けの教育法が移植されたのだと思います。その結果、英語はReading, Composition, Grammarの科目にわかれました。

日本の国語教育はReading偏重です。Grammarは小学校でしか学びません。Compositionも基本的に小学校まで。中学校では読書感想文くらいかもしれません。作文を先生が添削することはありません。高校ではさらに極端になります。古典ではややGrammar的なこともやるようですが、1000年以上の歴史をもつ我が国の文学作品は年代も様々なので、言葉や文法の変遷まで手が回りません。どうしても不完全なものになります。そのような中途半端なものを多数の高校生が学ぶ意義を僕は見出せません。漢文とか、現代中国人は読めないらしいですよ。

海外で古典と言えばラテン語です。家内もラテン語を少し学んだと言ってます。ヨーロッパでは教会内の公用語がラテン語で、保管されるような文書はラテン語で書かれていました。学術書とかはほとんどラテン語です。ラテン語はローマ時代にはすでに一般には使われていなかったので、ラテン語は書き言葉として専用化し、語彙や文法の変遷がなくなりました。その結果、2000年近く前の文書も現代とほぼ同じ語彙と文法を持つのです。

一方、日本の古典文学に使われる言葉は、いちおう書き言葉として専用ではありますが、基本的には口語をベースにしており、口語の変遷の影響を強く受けます。平家物語など、標準的な古典文学ではありますが、琵琶法師が一般向けに上演する演目であり、口伝でした。そこから、古典文学の言葉は一般に使われる口語とそん色なかったことが推測されます。そのため、日本の古典文学においては時代ごとに語彙や文法の変遷が少なからず見られます。こういった言葉を十把一絡げに古典として学ぶのはちょっと無理があるのです。

ということで、現在の日本では、読解偏重の現代文と、中途半端な古典を学ぶことになってしまっています。文法や作文は置いてけぼりなのです。そういうReading偏重の母語の影響を受け、英語でもReading偏重になっています。わざわざ科目を分けているにも関わらず、Reading, Composition, Grammarの割合は、6:2:2あるいは7:1:2くらいでしょうか。Compositionは採点に手間がかかるため、マスエデュケーションでは費用対効果が悪いのです。

AIの支援を受ける

最近の計算機技術は目を見張るものがあります。とくに機械翻訳は十分に実用的なレベルにあります。そのため、日常的な活動において、外国語を習得する必要性は薄れつつあります。ある程度の不自由さを許容すれば、機械翻訳でコミュニケーションをとることができます。それでも僕たちは外国語を学習するべきだと、僕は思います。外国語の学習はその国の文化を理解することにつながるからです。

計算機技術の進歩は外国語の学習を変革すると思います。特にSpeakingに関しては革命が起こるかもしれません。英語の音声入力を使うと、Speakingのテストが行えます。正しい発音を学べるのです。英語の読み上げはListeningの訓練に使えます。日本語・英語の相互翻訳を使えば、CompositionやReadingの訓練になります。そしてAIは、会話の相手になってくれます。

外国語の学習は伝統的なReading, Composition, Grammarのフレームワークを離れ、AIの支援を受けた、実践的で個人的なレッスンへと変化してゆくと思います。そのとき、僕たちは今までのような英語のテストを必要とするでしょうか?多分、高度でない会話は機械翻訳で十分です。専門的な文書の読解はAIでは不可能です。AIは精密さが足りませんからね。専門的な文書の読解は高校生では無理で、大学で専門的知識と英語読解のトレーニングを積む必要があります。ま、英語だけではだめで、日本語の読解力も必要になるので、日本語の勉強もやり直しですけどね。


教科書をなくしてみる

語学学習における教科書の役割はなんでしょう?文法や語彙を順に学習してゆく場合には教科書はとても便利です。しかし、教科書に頼ると、語彙や用法の学習が致命的に遅れます。言葉というのは単語を並べるだけでもそこそこ通じるものですし、単語を拾えればどういう分野の話なのか推測できます。テレビタレントの出川哲朗さんのやり方は悪くないのです。

英語での日常会話をこなすのに必要な語彙数はおおむね5000語と言われています。大学の講義を聴講するには8000語、大学卒業で12000語という調査もあります。一方、日本の高校生が授業で学ぶ語彙数は1000語程度。語彙の学習に用いる単語帳の語彙数は2000語前後。なので、大学入試時点で、最大で3000語というのが日本の基準です。これでは日常会話がおぼつかないのはしょうがないのです。

語彙が貧弱になるのは英語の試験の問題でもあります。英語の定期試験は教科書をベースに出題されるの普通です。なので、生徒は教科書を繰り返し読みます。僕もほとんど丸暗記するくらい読んだ記憶があります。この勉強法では語彙は全く増えません。語学の学習では教科書は副教材にとどめるのが良いと思うのです。とにかく、たくさん読んでたくさん聴いて、を繰り返すことが最終的に語学上達のカギだと思います。

その中で、同じ単語でもいろんな意味でつかわれることを学べるでしょう。それが用法です。僕の持論は、100個ほどのよく使われる動詞には平均して20個の意味(用法)があり、それらをすべて学べば、たいていの文章は理解できる、というものです。動詞さえきちんと意味が分かれば、構文が見えてきて大体の意味が分かるのです。会話では助動詞の感覚をつかむのがとても大事です。助動詞は文法的にはラッキー問題ですが、言葉に感情を載せたり、細かな状態を伝えたりするとても大事な表現です。これを学ぶにはたくさんの経験を積むことが一番です。

そういう意味で、文法を学ぶための教科書以外に経験を積むためのメインの教材が必要になります。僕が学生に勧める英語教材は、ニュース記事です。ネットを漁ればいくらでも見つかりますし、実用的な現代英語の典型例です。時事ネタだけでなく、解説記事であったり、文化記事であったり、芸能ネタでもかまいません。CNNの表現は真面目で簡潔で、BBCは慣用表現が多用されます。動画もついていることがあり、リスニングも訓練できます。毎日、1つ2つ英語のニュース記事を読むということを続けるだけで、ずいぶん鍛えられると思います。