2025年3月24日月曜日

民主主義は難しい

民主主義教育によるインプリンティング

僕たちは民主主義を信奉する国に生まれ、小さい時から学校で民主主義教育を受けてきた。学級会では選挙もどきの多数決を行って、クラスの代表を決めるし、もめごとがあったら多数決で方針を決定するということをずっとやってきた。だから、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義とみなされる。

子供のころはそれでも良いが、大人になっても刷り込まれた価値観によって、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義と考えるようになっている。ベンサム的な幸福論に従えば、多数の幸福を最大化することが社会的に重要なことなのだから、民主主義は幸福を得るための合理的な手段だろう。民主主義を信奉する価値観は僕たちの心のかなり深い部分にまで根ざしていると思う。

でも僕は子供のころから民主主義の欠点を感じてきた。選挙ではよりよい候補者を選ぶのではなく、当選する候補者を選ぶ傾向が強くあることに気づいた。選挙をくじ引きみたいなものと思えば、当たりである当選者を選ぶと気持ち良いものだ。逆に落選に票を投じると自分の行為が無駄になったみたいで悲しさを感じる。

政治家の汚職は定期的に報道される。ま、汚職のようなことがない限り、政治家にはうまみがすくないだろうから、そういうことがあるのはしょうがない気がしている。だからと言ってよくないことはよくないので、そういう政治家や政治団体には投票しないようにしているけどね。政治献金問題をなくすのは実は簡単で、政治献金に少しだけ課税すればよい。政治団体と宗教法人は非課税となっているが、0.1%ぐらい課税すればよい。課税するには金額の申告が必要になるので、闇献金かどうかの区別が簡単になる。そして、政治献金の税率を適用するには献金する側の申告も必要とすればよい。実際、政治献金は寄付の扱いであり、会社や個人が寄付として税金の減免を受けるにはかならず申告しないといけない。だから、献金する側の事務処理は全く変わらない。そして申告漏れに対しては200%くらいの通帳課税をすればよい。


銀河英雄伝説の話

僕は民主主義を絶対視しない感じなんだけど、それでも民主主義は悪くはないんだろうな、と思っている。そういう考え方に影響を与えたのは、恥ずかしながら「銀河英雄伝説(田中芳樹著)」というラノベである。この銀河英雄伝説のテーマの一つに民主主義と独裁がある。

メインの主人公のラインハルトは最終的に作中の世界全体(銀河帝国)を統べる独裁者になる。独裁者ではあるものの割と公平であり、善政を敷く。一方のライバルであるヤン・ウエンリーは民主主義を信奉する自由惑星同盟の軍人である。自由惑星同盟は政治腐敗がひどく、銀河帝国との戦争で多くの国民を戦争に駆り立てる。ヤン・ウエンリーは自国の政治家に愛想を尽かせながらも、善政の独裁者より、汚職まみれの民主主義の方がマシとして、自由惑星同盟に献身する。汚職まみれでひどい政策であっても、民主的なプロセスには自浄作用があり、長い目で見たら民主主義の方が優れている、という信念を随所で語る。

善政の独裁者と汚職まみれの民主主義の二択だったら、当事者の国民としては善政の独裁者の方が利がある。果たしてそれでよいのだろうか?という命題である。それでもヤン・ウエンリーは確信を持って民主主義に殉じる。物語の核の一つになっている。

ヤン・ウエンリーというキャラクターの魅力もあって、民主主義に引導を渡すのは早計かもしれないと思って、これまで生きてきた。でも最近、民主主義の限界を感じている。


独裁者と民主主義は相反しないという事実

独裁体制は、汚職の温床となりやすく、自浄作用が働きにくい。ヨーロッパの中世という時代は1000年以上続くのだが、世界史を勉強すればよくわかるが中世ヨーロッパの歴史というのは学ぶべき項目が異常に少ない。これは中世ヨーロッパのほとんどの国が王政であり、独裁国家であったことと無関係ではないと思われる。さらにキリスト教の政治介入により、支配階級でさえしばしば文盲であったくらいに、知的レベルが低く抑えられていた。その結果、文明は発達せず、民衆は搾取され続けた。

独裁体制と民主主義は相反するものかというとそうでもない。銀河英雄伝説では対立の構図に置かれたが、多くの民主主義国家において、民主的に独裁者を選ぶということがしばしばおこる。最も有名なのはヒトラーである。ヒトラーは最も民主的だとされたワイマール憲法下で民主的に選ばれ、合法的に独裁者となった。ヒトラーの教訓から、独裁者を生み出さないような憲法が世界中で研究され、試されている。我が国の憲法には非常事態条項がなく、数年前に非常事態条項に関する改憲論が取りざたされたが立ち消えになった。ヒトラーはワイマール憲法の非常事態条項を活用して独裁者となっており、日本の憲法に非常事態条項がないのは制定時に日本を統治していたアメリカの希望を反映している。憲法学者はヒトラーの事例をよく知っているので非常事態条項には常に否定的である。

ヒトラーほどでなくても、中国や北朝鮮でも独裁体制が敷かれている。どちらも国名に「民主主義」と入るほどの自称民主主義国家である。ちなみに、国名に民主主義と入っている国は、建前だけが民主主義な国が多いという皮肉な法則があるようだ。

フィリピンは民主主義国家ではあるが、マルコスという独裁者を生んだ。独裁体制下では汚職がまかり通る。マルコスの失脚後かなり経つが、今でも汚職は残っており、フィリピンは汚職大国として有名だ。最近失脚したシリアのアサドは前任者の父親の代からの独裁者だった。割とうまくやっていたが、アメリカが支援する反政府組織により失脚した。武装した反政府組織があるというのはトンデモないことであるが、反政府組織による台頭は民主主義的でないので、民主主義の信奉者としては手放しで喜べる話ではない。

斯く言う我が国も長らく自民党一党独裁体制であり、民主主義的でない部分も多い。独裁体制では官民あるいは政財界の癒着が一般的に強くなる。自民党に関して政治献金不正が話が多いのは明らかに一党独裁体制が影響している。


民主主義には自浄作用があるにはある

善なる独裁者もいつかは死ぬ。その後継者が善政を敷くとは限らない。銀河英雄伝説でもその事実は何度も語られ、後半のテーマとなっている。善でない独裁者は悪夢である。独裁者が残虐な行為をしても誰も止められない。止めようとするものは反逆者として処分されるからだ。そこまでいかなくても、愚図な独裁者は摂政がおかれて、取り巻きが好き放題するようになる。こうしたパターンは世界各地で繰り返されてきた。

そうした最悪の事態を回避あるいは改善するために考え出された仕組みが民主主義と言える。民主主義自体はギリシア時代から存在していたが、ヨーロッパではほとんど採用されていなかった。キリスト教教会の方針で、民衆に教育を与えなかったからである。自分の名前すら読み書きできない一般民衆が選挙なんかできるわけがないという論理である。一般民衆が文盲なのは教会の方針なのに、マッチポンプ的な論理を主張していた。

活版印刷が発明され、一般民衆が聖書を読みだした途端、教会の権威は崩れ、各地で宗教改革という混乱が発生した。これは民主主義復活の重要なきっかけとなった。このように民主主義は独裁体制を覆す機能がある。

教育を受けた民衆からなる社会を安定化する方法論が民主主義と理解することができる。


民主主義のスタートアップは失敗が多い

実は民主主義はいたるところで失敗している。独裁体制を生み出すだけでなく、せっかく導入した民主的な社会システムが崩壊する事例が多いのだ。アフガニスタンではアメリカ主導で構築した民主主義体制が、アメリカ軍の撤退と同時に崩壊し、タリバンの独裁政権が復活した。時系列はこの通りだが、実質はアメリカ軍の駐留中から民主主義体制が事実上崩壊していた。汚職が蔓延し、社会が機能不全に陥っていたのである。

最も新しい国として発足した南スーダンでは、民主的な政治体制が導入されたが、たった5年程度で崩壊し、事実上国連の管理下に置かれている。複数の武装組織が争っていて、選挙が行えていない。

ミャンマーは軍事政権が民主主義勢力に折れて、軍事政権と民主主義の融和体制が敷かれたが、先ごろ軍事政権が民主勢力を退け、軍事独裁体制に戻ってしまった。民主勢力が支持を拡大した結果、軍事政権側が危機感を抱き、軍事クーデターを起こし、内戦状態が続いている。

これらの事例に共通するのは、長らく独裁体制であった国に、外国主導あるいは外圧で民主主義が導入されているということである。独裁体制の弊害の一つに教育の軽視がある。中世ヨーロッパでそうであったように民衆の教育レベルが低い方が統治しやすい。なので、独裁体制下では教育が満足に施されない。典型例はカンボジアを支配していたポルポト派である。ポルポト派は独裁体制を確立した後、インテリ狩りを行った。知的階級の人々を弾圧・処刑したのである。なんと眼鏡をかけているだけでインテリと判断され処刑されたそうだ。その結果、文盲率が大幅に上昇した。教育の足りない人々は団結して物事に対応することが難しくなり、独裁政権を打倒するような勢力が発生しなくなるのだ。

幸いなことにカンボジアでの民主主義の導入は比較的成功している。成功要因は本格的な民主主義の導入まで十分な時間をかけたことだと思う。知識層が完全に駆逐されていたカンボジアで最初に行われたことは学校の先生の養成だった。学校の運営再開までに5年ほどかけ、そこから10年ほどかけて教育を施し、ようやく選挙にこぎつけた。このような気長なプロセスが成功したのは、日本がPKOに参加したことが大きいと思われる。

逆に教育の足りないところに民主主義を外部勢力により導入すると、選挙権を持つ人々が選挙の意味を正しく理解できないので、選挙の不正が横行する。典型的には買収が横行するのだ。南スーダンが崩壊した原因はこれである。

別のパターンとして、宗主国が崩壊してタナボタ的に独立国となったケースがある。韓国やウクライナが典型例である。韓国はいまだに選挙で毎回ゴタゴタしているが、これは民主主義の選挙の側面が強すぎて、法による統治への理解が浅いからだと思われる。

一方、ウクライナはソ連崩壊後に発足した国で当初から民主主義に関する理解は十分であった。しかしながら、法による統治への理解が弱く、何度かの独裁体制とその打倒が繰り返され、手が付けられなくなっている。近年では親ロシアと反ロシアの政権がおおむね交互に政権交代を行っており、政策が安定していなかった。挙句の果てが、反ロシアを掲げたコメディアンを大統領にしてしまい、ロシアとの戦争に突入した。ゼレンスキーが行ったのは、これまでの政権の方針を一方的に破棄する行為であり、実質的に宣戦布告である。歴史的には平和条約や不可侵条約、停戦合意などの破棄によって戦争突入となるのが通例であり、これらの破棄をもって戦争の意志ありと判断するのが常識的な歴史観である。破棄されたのはミンスク合意2というもので、ウクライナ東部の自治を認める代わりに停戦するという合意であった。これを破棄するということは、停戦解除するという意味である。停戦が解除になったので、合意以前の戦闘状態に戻るのは必至。停戦合意を破棄するとは頭が悪すぎる。そもそもは、歴史を学んでいない素人を選挙で選んでしまったウクライナ国民の浅慮であり、それは民主主義への理解の浅さの表れだと思う。


支持率至上主義の危うさ

ウクライナの戦争は浅はかなゼレンスキーをたしなめて傷が浅いうちに戦闘終結させるべきだった。戦争の原因が停戦合意の破棄なので破棄した側に非がある。停戦合意の破棄とは停戦合意前の状態に戻るという意思表示であり、それは戦闘再開の通告である。これが平和条約や不可侵条約の破棄であれば、戦争までに話し合いのチャンスがあった。しかし、停戦合意の破棄から戦闘再開までのタイムラグは理論上存在しない。イスラエルは停戦合意を破棄せずにガザの爆撃を再開していて、これが普通の停戦合意破棄のパターンである。ウクライナが停戦合意を破棄したということは、ウクライナはすぐに戦闘再開するという意思を示したという意味。停戦合意破棄する側は当然戦闘準備万端と推定されるので、わけで、それに即応するのは当たり前。ロシアがウクライナに攻め込んだことに関して、国際法的にロシアの瑕疵は一切ない。

しかし、ここで民主主義の悪い面が出てしまった。攻め込まれたウクライナ、攻め込んだロシアという構図を喧伝することで、悪いロシア対かわいそうなウクライナという図式が浸透してしまった。もともと対ロシアの組織であるNATOはここぞとばかりウクライナに肩入れした。NATOを中心とする西側諸国のリーダーたちはウクライナ支持を表明すると支持率が爆上がりすることに気が付いた。その結果、西側諸国は相次いでウクライナ支持を表明し、戦闘継続の環境が整ってしまった。

勝てない戦争に肩入れするのは極めて危険な行為であることは歴史で何度も証明されている。日本は三国同盟のドイツ・イタリアが戦争に突入し、なし崩し的に対立の構図に巻き込まれ太平洋戦争に突入することになった。三国同盟を早々に破棄していたら戦争を回避できていたかもしれない。ま、そうでないかもしれないが。少なくとも、戦闘に参加しなくても資金を提供するだけで肩入れしたことになる。すくなくとも、提供した資金を回収するには肩入れした国が勝利する必要がある。勝利の道筋が見えていなければ、資金提供すべきではない、というのが戦略上の常識である。

しかし、西側諸国のリーダーたちは勝利条件すらわからない戦争に大量の資金を提供した。その見返りは国内の支持率であった。ウクライナに肩入れした国々のリーダーは10~20%の支持率の増加を得た。これにより1~2年の政権基盤を得た。しかしながら、ウクライナの戦況が芳しくないことが漏れ聞こえてくると、急激に支持率が低下した。最初に耐えられなかったのはイギリスである。イギリスは首相が4人目である。

次に交代したのはイタリア、しばらくして、日本(日本の首相交代はウクライナが原因というわけではない)。そして、アメリカも交代した。最近になってドイツとカナダも交代し、残るはフランスのみである。ただ、フランスもウクライナの敗戦が決まると耐えられないかもしれない。

当のウクライナは選挙を停止しており、これ以上アメリカの支持を得るには選挙するしかない状況に追い込まれている。そもそもウクライナは議会選挙は一度やっていて、政権側の勢力が負けたことから、続く大統領選挙を延期したという経緯がある。大統領選後にゼレンスキーはフランスあたりに亡命するはずだ。

ともかく、武器が尽きなければ負けないだろうということで西側諸国はウクライナに際限なく援助してきたが、その理由は各国の国内支持率のためである。これはもう、正義とかちゃんちゃらおかしい構図であり、もっともやってはいけないことだ。それに歯止めがかからないというのが民主主義の真実ということなのだろう。

民主主義は大事だ(たぶんそう)。民主主義は正義だ(ちょっとあやしい)。正義は負けてはいけない(そうあってほしいけどね)。そういった理念的なことを掲げるのは素晴らしいことだが、その動機が「支持率」というのがとても悲しいし、そのような動機に基づく行動はたぶん正しくない。

「国際政治はヤクザの抗争がもっとも近い」と僕は大学の国際政治学で教わった。その通りだと思う。「勝った側が正義」というのは日本人は太平洋戦争の敗戦で身に染みて理解したはずなのに、攻めた・攻められたを正義の基準としたいようだ。戦争は殺し合いであり、通常の法律が及ばない。不法滞在の外国人を殺したら、当然殺人罪である。銃を持って人前に出てきたら、脅迫罪だし、応戦されて殺されても正当防衛なので文句は言えない。いちいちそういう理屈をこねると面倒なので、、細かな犯罪行為を無視するというのが「戦争」の本質だ。基本的には戦争に至らないように様々な努力をすることが肝心である。戦争やむなしとなっても勝つ算段は用意しておかないといけない。

勝利条件すら明らかでない戦争に支持率目的で参入したG7リーダーたちのほとんどが淘汰されたことは、きっと良いことだと思う。民主主義の自浄作用と言えるだろう。ウクライナの戦争において勝利条件が明らかでないというと反対意見が多いかもしれない。でも、ウクライナの主張はロシアの完全排除であり、それは第三次世界大戦でも起きない限り無理だ。ロシアはいまだに相互確証破壊を何度も実行できるだけの核兵器を所有している。ロシアが消滅しない限り、ロシアが負けることはない。ゼレンスキーはそれを知っていて、NATOを戦争に参加させようとずっと画策している。そういうのがわかっているからトランプに怒鳴られた。

戦争に負けると、確実に支持率は下がる。そのような判断をポピュリズム傾向の強い指導者が選択するのは難しいかもしれない。日本は昭和天皇という支持率の定義外の存在がいたからそれが可能だったが、ウクライナはどうか。そのあたりに民主主義の限界と絶望が現れるかもしれない。