2016年9月15日木曜日

日本人は英語ができない

問題提起


今、日本では小学校で英語を教えるようになっている。各小学校に外国人教師が配置され、月に1回程度の英語教育が行われている。効果が上がっているのかどうかは別にして、これをもっと推し進めようという動きが活発化している。小学校での英語の必修化だ。その根拠になっているのは、日本人の英語スキルが低いという事実だ。これを改善するための方策として、子どものころから英語に親しませようという発想だ。
ただ、こういう発想に至る前提条件として、「子どものころから英語に親しめば英語ができるようになる」が真である必要がある。そもそも、それは疑わしい。幼少期の語学学習の大部分は、子ども同士の遊びの中で培われる。なので、遊び時間の日本語を禁止すれば、効果があるだろうが、そんなことを小学生に強要できるはずがない。これは、僕の子育て経験に基づく結論だ。
逆に外国人力士はかなり流暢に日本語を使うが、かれらは特に日本語教育を受けたわけではない。相撲部屋では母国語を禁止され日本語を強要するという習慣がある。それはイマージョン教育(没入型教育)の典型例だ。英語教育においても、イマージョン教育を導入すれば効果があるだろう。それは、イマージョン教育の効果であって、幼少期に限定するような話ではないということが、外国人力士の例からわかる。問題は、イマージョン教育はマスエデュケーションに取り入れにくい点だ。英語のイマージョン教育を考えた場合、英語が話せる集団に少数の英語が話せない生徒を配置する、という状況が望ましい。しかし、マスエデュケーションでは、英語が話せる集団は教師や補助スタッフなどは少数で、多数の英語が話せない生徒の面倒を見ることになる。そのため、原理的に、イマージョン教育の状態を実現できない。マスエデュケーションとイマージョン教育は対極にある指導法なのだ。
英語ができない理由をもっと突き詰め、対策を練らないとダメだと思う。そのためには、英語で苦労した人の苦労話をよく聞くべきだ。また、英語を習得した人にも、コツをよく聞くべきだ。その中から様々なノウハウが見えてくるはずだ。そういうノウハウを蓄積し活用するというのがマスエデュケーションの強みだ。それを放棄して、中途半端なイマージョン教育を導入するのは、完全に思考停止だと思う。

英語ができない理由


実は、日本の英語教育は完全な失敗だと言われている。高卒では英検2級程度の英語能力が目標とされているが、実際にそのレベルに達するのはたったの2%だという調査結果がある。50人に一人しか所定の目標を達成できないというのは、英語教育がほとんど機能していないということを示している。その惨憺たる結果が、「日本人は英語ができない」というコンプレックスにつながっている。
その現状を鑑みて、大学では英語教育に力を入れることにしたらしい。うちの大学では卒業に必要な英語の単位を1.5倍にし、英語の講義は徹底した少人数クラスにした。そのうち半分以上の講義は外国人講師だ。しかしながら、効果は少ないと思われる。そのような対策は、ある程度の英語能力があるという前提でしか機能しないが、その前提である、「ある程度」の英語能力を期待できないという現状が重くのしかかる。
僕は幸か不幸か、英語には苦労したし、今も苦労している。いろいろ試した結果、僕自身が受けてきた英語教育に多くの問題があったと考えている。そして、それらの問題をちゃんと追求すれば、もっと良い英語教育が可能だと思っている。根本的な問題は、問題をきちんと掘り下げず、思考停止している現状にある。いくつかの例で、問題の掘り下げを行おう。

リスニングの問題


とにかく、英語ができないことを痛感するのは、リスニングだ。英語を聴いてもサッパリ理解できないというのは多くの日本人の悩みだ。逆に考えると、多くの日本人がリスニングで躓いているという事実は、日本の英語教育において、リスニングが失敗していることを意味している。つまり、教育が悪いのであって、個人の能力が足りないのではない、という前提に立つべきだ。
実のところ、僕は、リスニングの勉強は一からやり直した。一からというのは、中学校1年生の最初から、という意味だ。ABCの前、Hello!からだ。英語の授業の最初に、これをハローとかヘローとか発音するように教わるが、この段階で間違っている。もうちょっと詳しく説明しよう。
中学1年生の英語の教科書の最初には、2人の人物が挨拶しているマンガが描いてあって、吹き出しに、Hello !の文字がある。これを見ながら、英語の先生が、Helloと読み上げる。その後、「こんにちわの意味ですよ」と告げ、次に練習してみましょうとなる。先生がHelloと発声し、生徒たちがそれを真似するようにハローと発生する。それを数回繰り返した後、生徒同士で練習しましょう、となる。もしかすると、生徒を順番に立たせて、先生と会話形式で、Helloのやり取りをするかもしれない。おそらく、こういうのが標準的な英語の授業だ。
このやり取りの中に、いろいろ問題がある。まず、先生が「読み方」として、Helloを発音して見せる点だ。文字を見せ、読み方を示すというのは、漢字学習のフォーマットだ。生徒にとっては、何をすればよいかを瞬間的に理解できるので、好都合だ。すなわち、Helloの綴りと読み仮名を覚える訓練だと生徒は理解する。「読み方」ではなくて「読み仮名」である点に注意してほしい。
次の間違いは、英語の発音と日本語の発音の違いをきちんと説明しない点だ。Helloは極めてありふれたセンテンスなので、日本語の会話の中でもハローで通じる。すなわち、ハローは和製英語として通用する。この場合、生徒は和製英語としてのハローとHelloを結びつけてしまう。生徒の頭の中では、英語を勉強するというのは、自分の知っている日本語と英語を結びつけることだ、と短絡してしまうかもしれない。確かにそれは英語学習の要素でもあるが、日本語と英語はかなり異なる言語なので、結びつける、という行為は危険だ。
一旦和製英語のハローと結びつくと、発音もハローになる。決してHelloにはならない。最初の説明が不足した状態で、いきなり発音すると、もともと頭の中にあったハローの発音をすることになる。間違った発音の大合唱のなかでは、間違った発音を正しい発音と誤解しやすい。個人レッスン的に先生が1人1人と会話練習をしたとしても、限られた授業時間内で全員の発音をチェックできるかどうかわからない。また、発音をチェックしてやり直しをさせると、生徒のトラウマになりやすく、マスエデュケーションでは慎重に対応しないといけない。とくに、精神的に成熟していない子供の場合には、一度のトラウマが致命的になる。教育の初期段階では学習意欲の向上が優先されるため、1対1の会話練習でダメ出しをするのは良くないだろう。その結果、ダメな発音がスルーされる。生徒はそのやり取りを何十回と聞かされることになり、ダメな発音のリスニング訓練をしている状態になる。
以上をまとめると、英語と日本語の違いをきちんと理解せず、音を覚えきらないうちから、発声練習させて、間違った発音を練習するサイクルを作り上げてしまう、という点がダメということだ。深刻なのは、それが英語学習の最初である点だ。この最初のボタンのかけ違いによって、生徒は英語学習を国語の延長線上で理解してしまう。
語学のマスエデュケーションでは、生徒は先生の発音をまねて練習する。最初は先生の発音を覚え、自分で発音を繰り返すことで音を脳に定着させる。このときの注意点は、先生が正しく発音すること、正しい発音を生徒が覚えること、生徒が正しく発音できること、の3つだ。残念ながら日本人の英語の先生は、英語利用経験が少ない場合が多いので、発音が正しくない。そして、それを聞いた生徒が正しい発音を覚えられるわけもなく、当然正しい発音をするなんてのは夢物語でしかない。
そして、ダメ押しは、小学校の漢字教育で染みついたフリガナ文化だ。英語の単語にカタカナのフリガナを書いた覚えはないだろうか?自らを振り返ると、英語の発音の際に、カタカナを思い浮かべているということはないだろうか?普通は、自分が発した音を聴くことによってリスニング能力が発達するのだが、カタカナベースの間違った発音を聴くことによって、むしろリスニング能力が損なわれるという悪循環に陥る。カタカナではなくて発音記号を使うから大丈夫だというのも間違っている。発音記号にカタカナが振られているのは論外だが、素の発音記号でも問題だ。実際の発音は発音符号とはかなり違うことがよく知られている。Phonicsという学問体系があり、発音はかなり細かく体系化されている。Phonicsによれば、一つの発音符号に対し、3~5通りの「音」が割り当てられている。実際の発音では特定の「音」しか使わないので、発音符号があっても、単語の「音」はわからないのだ。
英語だとわかりにくいので、日本語で説明しよう。日本語は一つのひらがなに一つの音が対応していると思いがちだが、Phonicsの分類によれば、複数の音が割り当てられている場合がある。例えば、「たんぼ」「だんご」「たんか」「きんこ」の「ん」はすべて違う音である。わかりやすいのは「たんぼ」で、これだけは口を閉じる。「たんか」の場合は口を大きく開き、のどの奥の方まで空間ができる。逆に「きんこ」では、口内が狭く、口先も開かない。また、「だんご」では後に続く「ご」の子音と混ざって、鼻を詰まらせ、のどの奥の方で発音することになる。日本語は我々の母語なので、これらの違いを意識しないが、違いが存在していることは理解できるだろう。同じようなことが英語にもある。このような違いは発音記号では表現できない。きちんとした発音は、聞いて覚えるしかないと結論される。
リスニングに関しては、フリガナ・発音記号を禁止するだけでは足りない。生徒単独での発音練習も禁止すべきだ。発音練習では、自分の発音を聴くことになり、その時の発音が正しくないと、リスニング能力が損なわれる。したがって、発音練習の際には、模範発音の再生とセットにして行わなければならない。また、世の中にはいろんな人がいて、いろんな発音が存在するので、模範発音にはある程度のバラエティーを用意しないといけない。完全に「音」を覚えてから、発音練習に移るようにしないと、自己流の間違った音を覚えてしまうことになる。僕自身、この問題に気付いたのは22才の時だった。そこからやり直して、一通りの単語の音を覚えなおせたのは、26才ころだ。そのとき初めて、英語が少し聴けるようになった。

日本語にもLとRの区別は存在する


日本人はLとRの発音が区別できないと言われている。でもそれは間違っている。ヘボン式のローマ字では、ら行の子音にRが使われるので、ら行はRの発音に近いと誤解されがちだが、実はほとんどLの発音だ。もっと言うと、「らりるれ」はL、「らりるれろ」のときの「ろ」はRに聞こえる。違いは、口を開くかすぼめるか、だ。LとRは舌が口蓋上部に付くか付かないかで区別する技術を学校では教わるが、それではLとRを区別して発音することが難しい。米国は移民の国なので、音の区別を際立たせる傾向がある。米国人の発音を注意深く聞くと、Rの発音はことごとく低くこもった音であることに気づくだろう。現在の独語ではRの発音はのどの奥をうならせる、とされ、英語とはかなり違った印象を持つが、独語と米語の違いは、のどをごろごろ鳴らすか鳴らさないか、ぐらいしかないことがわかる。そう思ってリスニングすると、LとRの発音はかなり違っていることがわかるだろう。その音をまねることだけを考えれば、舌の形より口先の形の方が大事だとわかる。逆に、口をすぼめると舌を口蓋上部に付けるのは難しいので、結局、上手にRを発音できる。だから、「らりるれ」はL、「ろ」はRなのだ。もちろん、日本語の「ろ」のすべてがRの発音というわけではない。Phonicsで見られるように、単語ごとに音便がある。雑貨デパートのロフトは、Loftとつづるが、このときのロは日本語的な発音でもLだ。口の形を確かめればわかる。一方、「老人」のろはRだ。僕たちは知らず知らずのうちにLとRを使い分けている。だから、意識しさえすれば、簡単に使い分けられる。聞き分けるのはちょっと難易度が高くなるが、他の音と同様に、単語ごとに正しい音を覚えるという地道な作業を続けるだけのことだ。
今は、英語の教材があふれている。DVDやブルーレイの映画には、邦画であっても英語音声があることがある。洋画なら、英語音声・英語字幕は当たり前のように選択できる。インターネットを使えば、世界中のあらゆる言語の文書が手に入るし、様々な言語の動画も見つかる。Googleの翻訳機能はかなり素晴らしいし、なにより、英語の読み上げ機能のクオリティーは素晴らしい。その気になれば、いつでも「英語漬け」を体験できるだろう。形式だけのイマージョン教育は必要ないはずだ。

読み書きの問題のひとつはペーパーテスト


読み書きに関しては、現状の英語試験の採点方法に問題があると感じる。大学入試対策として単語勉強がよく行われているが、そのような単語勉強は最終的に英語の能力に寄与しない。それでも単語勉強が行われているのは、試験の得点を上げるのに効果的だからだ。普通の大学生に英文和訳をさせると、まず各単語を日本語の単語に置き換えにかかる。このときに単語勉強が役立つことになる。その後、日本語化した単語を並べ替えて、日本語として成立する文章を作成する。その時、基本的な英文法の知識を使うかもしれないが、ちょっと難しい文法があると、正しい文法がわからないので、順列組み合わせの文章になる。そうして出来上がった和訳はかなり素っ頓狂だ。でも、これが試験となると、50%くらいの点数がつく。というのは、部分点を拾うからだ。その部分点は、特定の英単語が正しい日本語になっているかどうか、ということが基準になることが多い。そのため、手っ取り早く点数を稼ぐには、単語勉強が効率的なのだ。
これは本末転倒だ。少々単語の意味を取り違えていても、文章の大意が読み取れていれば正解で、逆に、意味が通らなければ不正解とするべきだ。しかしながら、そのような採点基準だとだれも得点できない、という問題がある。そのため、単語訳に対して部分点を与えるという習慣がついたのだろう。
さらに問題なのは、英単語に対して、日本語訳を1つしか対応させない、ということだ。記憶する単語の種類を手っ取り早く多くするために、英単語と日本語訳を一対一に対応させる傾向がある。しかしながら、英語と日本語は大きく異なるので、そもそも英単語と日本語訳は一対一対応させられるようなものではない。
学生にちょっと難しい英文を和訳させると、「意訳でもいいですか?」とよく訊かれる。英語と日本語はかなり違う言葉なので、対訳や直訳は不可能だ。多かれ少なかれ必ず「意訳」になる。だから、意訳と直訳の区別はナンセンスだ。意訳が問題になるのは、単語に対する部分点が拾えないからで、それは採点者の都合あるいは採点基準の都合による。いわゆる直訳では、英単語がそのまま日本語の単語として文章に現れる。そのため、単語に対する部分点が発生しやすい。だから、和訳するときは得点の出やすい直訳が基本になる。一方意訳はその逆で、単語による得点が難しく、得点効率の観点からはリスクが多い。また、部分点が拾えないので、生徒の学力を正当に評価しにくいということもあり、採点側としても意訳はやっかいだ。そのため、直訳が好まれる傾向がある。要は英語のテストという特定のゲームにおける攻略法として、英語の読み書きが教育されている、ということだ。それは本末転倒甚だしい。

外来語が英語教育を邪魔する


最近のセンター試験の傾向を見ていると、英単語に関する設問は、和製英語にからんだひっかけ問題が多いようだ。この和製英語というのが曲者だ。日本語は極めて柔軟な言語で、カタカナを使うことで外来語を比較的自由に取り込むことが可能になっている。そのため、我々はカタカナ言葉の多くが元々英語だったという感覚を持っている。しかし、実際のカタカナ語の多くは英語由来ではないし、英語由来だとしても、本来の英語の意味とはかなり違う。モラルという言葉は、フランス語由来だし、英語での発音はモラールに近い。パンはポルトガル語で、英語はbreadだ。英語が語源であっても、コップと発音すると、十中八九「警察官」を意味する。ちなみに英語ではcupでカップという発音にちかい。interviewの日本語訳は面談あるいは面接で、日本語のインタビューとはニュアンスが異なる。こうした細かな違いで、英文の理解が大きく違ってくるし、そういう違いが実際のコミュニケーションで重要視される。単語の意味の違いは、カルチャーの違いを反映していて、それはまさに外国語を学ぶ意義の一つだ。英語の入試問題でそのあたりを意識しているのは正しい傾向だと思うが、あからさまな傾向によって問題候補が絞られるため、極端な入試対策につながりやすく、弊害も多い。
非常に困難な選択ではあるが、一旦カタカナ語と英語を完全に分断すべきだと僕は思う。例えば、ランニングという日本語に対応する英語は、joggingだ。人がrunningの状態のときは、かなり全力疾走な印象があるし、runningは何かが継続しているという意味のほうが強い気がする。水を意味する英語は、waterでカタカナ語のウォーターと意味的には一対一に対応する。しかしながら、waterの発音は、決してウォーターではない。ぶっちゃけ、「ワタ」という発音のほうがよく通じるだろう。そういう細かな議論がすべてのカタカナ語に存在し、それを一つ一つ説明するのは不可能に近い。であればいっそのこと、カタカナ語の活用を放棄したほうが良い。

文法偏重なのは、成果を急ぎすぎるから


日本語の英語教育は文法に偏りすぎていると言われている。そもそも語学の勉強というものは、単純な会話能力⇒ボキャブラリーの強化⇒文法の理解⇒習慣・文化の違いによるコミュニケーションの差、というように高度化する。残念なことに、日本人の英語教師は英会話の経験が極めて少ないので、会話能力の発達を促すことができない。ボキャブラリーの強化は英会話の範囲を少しずつ広げながら訓練するもので、会話能力がないとつらい作業になってしまう。また、日常生活に必須な単語はおよそ2000語と言われており、2年くらいかけないと習得できない。だから、中学1、2年の間は、簡単な会話と語彙トレーニングに明け暮れるべきだ。しかしながら、会話トレーニングができないうえ、語彙のトレーニングは会話とセットでないと2年間も続かない。それを補うため、極めて早い段階から文法トレーニングが始まる。
文法トレーニングではある程度の語彙が必要なのだが、それが致命的に不足している。そのため、取り扱うことのできる文章が極めて貧弱にならざるを得ない。そのため、「例文を覚える」ということが文法勉強の基本になる。実際のところ、言語学において文法というのは後付けの理論であり、様々な文章の共通項として文法が定義されている。それゆえ、様々なシチュエーションのコミュニケーションの中でないと、文法をうまく理解することができない。
平たく言うと、比較的長い文脈の中でないと上手く説明できない文法項目が結構ある、ということだ。英語での典型例は、「仮定法過去」という表現だ。仮定法過去は、「~できたらよかったのに!」という軽い後悔の気持ちや、「~だと嬉しいです!」といった条件付き感情を伝える表現だ。単独で使われることはなくて、物語性のある文脈の中で、感情を込める場面で多く使われる。ちゃんと議論するには、「物語」を含めて考察しないといけない。もちろん、日本語でも同じような表現があるのだが、日本語では通常の文法の枠内で他の表現と同じように取り扱われているため、我々が意識することはほとんどない。

助動詞の軽視


英語の助動詞は、文法だけをなぞると極めて軽い扱いになる。助動詞というのは種類が多くないし、「活用」がないし、対応する動詞の活用がなくなるし、文法だけを見ると、英語を単純にするような要素だ。だから、文法のテストで、助動詞が出てきたらラッキー問題扱いになる。文法そのものは簡単なので、英語教育では軽い扱いになる。しかしながら、会話では多用するし、極めて重要な要素だ。助動詞が会話で重要な理由は、助動詞が感情や意見をプラスする文法要素だからだ。助動詞のこうした特性を議論するには、ある程度の物語性が例文にないとダメだ。shallを疑問形で使うと、「~してあげましょうか?」という親切心を加わるのが普通だが、その裏返しで、「こんなこともできないのか?」という侮蔑の意味になるシチュエーションもある。それが転じて、あまりに簡単なことに対してshallを直接使うとあまりよくない場合もある。mayも同じように使われるが、mayの方が他人行儀な印象を受ける。典型例は、接客時に用いるMay I help you?という表現で、Shall I help you?は文法的にはほとんど同じにもかかわらず、「わざわざ私が対応する」というおっくう感が付け加わることがある。親切感を出すには、Can I help you?だし、Let me help you.にするともっとおせっかいな感じになる。そうした細かなニュアンスの違いがコミュニケーションでは大事だし、文化や習慣の理解も必要になってくる。
実際、感情のこもらない会話はなかなか続けることが難しいものだ。大阪人はコミュニケーションが達者だと全国的に知られているが、大阪弁には標準語の3倍くらい種類の助動詞表現(日本語では動詞語尾のバリエーション)があって、大阪人の豊かなコミュニケーションを支えていると言われている。日本の英語教育における助動詞の取り扱いの軽さは、コミュニケーション軽視の表れだ。しかし、コミュニケーションを目的としない言語学習にどれほどの意味があるのだろう。これは明らかに、日本の英語教育が失敗している原因の一つだ。

aとtheの区別は難しいと思いこむ


書くときに問題になるのが、aとtheの使い分けだ。冠詞の使い分けが問題になるレベルに達するのはずいぶん少数だと思うが、一般に信じられているより、冠詞の使い分けは難しくない。結論から言うと、aとtheの違いは、日本語では助詞の「は」と「が」の使い分けとほぼ同じだ。
it is a penとit is the penは、ちょうど「それはペンだ」と「それが例のペンだ」となる。もちろん、文脈にも依存するが、重要なのはtheを使った文の主格の助詞が「が」であることだ。ただ、「それがペンだ」というと違和感がある。文脈上、the penは、世界に1本しかない特定のペンを意味していて、それ以外は排除されている。それを伝えるためにtheに対して「例の」という訳を当てている。文脈上別のモノではダメな場合にtheが使われるということだ。
同じようなニュアンスを伝えるために、日本語では「が」が使われる。「私は行きます」と「私が行きます」を比べるとちょっとわかるかもしれない。「私は行きます」という文には、「私以外も行く」、「あなたは行かないかもしれないけど」といったニュアンスが含まれる。私以外の可能性を排除していない。一方、「私が行きます」では、私以外は行かないという排他的なニュアンスがある。aとtheはちょうどこの感覚なのだ。英語と日本語では文法がかなり違うので、全く別の形式になっているが、aとthe、「は」と「が」の使い分けは、どちらも排他性の有無を伝えるための文法なんだと理解できる。そう考えると、aとtheは簡単に使い分けられる。
LとRの発音の区別と似た構図だと気づくだろう。「日本人は英語がダメ」というコンプレックスが思考停止を引き起こしているのだと僕は思う。もとから英語ができる人はaとtheの違いはわかるけど、使い分けの法則を意識することがなかなかない。しかも、それはほとんど自動的・感覚的に行われるので、うまく説明することができない。ほとんどの日本人は「は」と「が」を使い分けられるにもかからわらず、使い分けの法則を明快に説明できないのと同じだ。でも、先に書いたように、簡単な説明はちゃんとある。自分の思考過程を明文化するという行為は、実は難しくてしんどいのだ。もっと言えば、そういう行為は特別な訓練が必要だ。
実際、英語を使って細かなところまで伝えようとすると、どうしてもaとtheの区別のような排他性の選択を含めたくなることに僕は気づいた。その後の理解は早かった。違いを説明する義務は、英語を母語としない英語教師にあるはずだが、英語の教師は英語を使うことをしないので、細かなところを伝えたい機会がなくて、aとtheの違いになかなか気づけないのだろう。だから、あいまいな説明しかできず、僕たちはaとtheの区別で苦労する。ノーヒントだと10年単位で苦労するのが普通だが、僕のヒントがあれば瞬殺だ。だから、僕は英語教師の怠慢だと思っている。今は、英会話は外国人教員を使って行うのが流行しているが、それも怠慢だと思う。外国人教員はおそらくaとtheの使い分けを明瞭に説明することはできないだろう。
母語の文法に関する説明が、実は難しいという事例を紹介しよう。日本語には数詞というものがあるが、数詞は不規則に音便活用するという特徴があり、極めて面倒な文法となっている。日本語を母語とする我々は数詞の正しい音便活用を教えることはできる。でも音便活用規則を教えることはできない。これは完全に不規則に見えるからだ。しかし、使ったことのない数詞でも、正しい音便活用がわかるのはなぜだろう?実は、極めて複雑な規則があるのだが、僕らは完全に自動的に無意識に感覚的に対応しているので、それを知覚できない。日本語教育においては、数詞の音便に関する基本ルールの説明が欠かせない。でも、そんなルールを我々は勉強したことがないので、教えることはできない。母語を教えるというのは、実は難しいのだ。それが故、日本語教師は国家資格になっている。普通の日本人は予備知識なしでその国家資格試験をパスするのは無理だったりする。
ちなみに数詞で難しいのは、基本の発音が同じ数詞で音便が異なる例すらあることだ。「件」と「軒」はどちらも「けん」と発音するが、「三件」は「さんけん」としか発音しないのに対し、「三軒」は「さんげん」と発音するのが普通だ。また、音便は数詞だけではなく数の方にも影響する。「六件」は「ろっけん」と発音し、「六台」は「ろくだい」と発音する。僕らはほとんど意識しないが、こうした不規則性は外国人にとっては悪夢だ。
同じことが英語を母語とする外国人教師にも言える。だから、外国人教師を導入すれば、英語教育を底上げできると考えるのは浅はかだ。まずは、日本人教師が外国語としての英語をちゃんと習得し、習得のためのポイントを整理し、ノウハウを集積しないといけない。実技を含むので勉強ではなくて習得なのだ。そういう努力を怠った結果、目標レベルの到達度がたったの2%という悪夢の結果につながっている。

結言


英語を少し理解できるようになって分かったことは、英語は人間の使う言語である、ということだ。コミュニケーションの中で必要とされる仕組みがあり、それは文法と呼ばれている。文法の表面的な形態は言語ごとに異なるが、その文法が必要とされる理由・シチュエーションは言語によらない。リスニングが難しいのは、「音」を覚えるのが難しいからだ。正確な音を文字であらわすのは極めて難しい。楽譜はその目的で生み出された言語だが、演奏によってかなり印象が変わってくることが知られている。現代では音を記録する様々な方法があり、その問題は解決しつつあるが、僕たちの脳がついていかない。
ここで論じたのは、英語の言語としての理解だ。日本語の枠組みで英語を理解しようとするのは当然無理だ。でも、日本では、教える側も教わる側も、英語を日本語の延長で理解しようとして、みんな失敗する。LとRの発音は典型例だ。aとtheの区別は人間活動の基本原理に起因している。類似したものは日本語にもあり、日本語を深く理解することで、英語が理解できるようになるという逆説的なことがあり得る。英語を勉強する方法はいくつもあり、マスエデュケーションとの相性が最悪のイマージョン教育は、試すだけ無駄だ。
今後、自動翻訳が本格的に実用化すると予測される。ぶっちゃけ、英語ができなくても何の不自由もない時代がすぐ来るということだ。そういう時代にあって、英語教育を無理強いするのは合理的ではない。大事なのは、翻訳可能な正しい日本語を使うことだ。それでも外国語を学ぶ意義は大きい。直接的なコミュニケーションは多くの問題を解決するからだ。また、文化の違いを理解するのにも、外国語の学習は役立つ。英語の学習は今後様変わりする運命にあるが、なくなりはしないはずだ。

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