2016年11月17日木曜日

エリート考

エリートの定義

今の日本の教育は、均質な人材輩出を目標に構築されており、徹底的にエリートを作らないようになっています。いや、ゆとり教育・個性尊重によって、改善されているという意見もあるでしょう。しかしながら、そういう環境で育った若者の多くが、「空気を読む」ことに終始し、目立たないこと、他人と同調すること、を最大限に求める事実があります。これについては、機会を改めて話をしたいと思います。

実際のところ「エリート教育」が存在しない日本において、一般の人がエリートを理解することは、とても難しいと思います。「エリート」というと、「賢い」「運動ができる」「イケメン」「リーダー」とった良い印象のほかに、「横柄」「鼻につく」「生意気」という負の印象も伴います。フィクションの世界では、しばしば悪役やライバルとして登場し、主人公になることは少ないですね。断言しますが、そういう印象はすべて間違いです。

エリートは、英語のeliteが元になっていて、「選ばれた(人)」という意味です。そこから、何かに秀でた人という印象が出てきます。選ばれるには、何かに秀でていないといけませんので、その何かとして、「頭脳」や「運動能力」、「容姿」なんかが連想されます。また、自分より能力の劣る人に命令されるのは誰だって嫌なので、能力の優れる人がリーダーになる傾向にあります。その結果、前段で指摘したようなポジティブな印象がエリートについて回ります。

しかしながら、個の能力に秀でていたとしても、指揮能力に優れるとは限りません。指揮能力に劣るのにリーダーを任されると、トラブルになります。その結果、メンバーからそっぽを向かれ、前段の負の印象を与えるようになります。

エリートにまつわるポジティブな印象をすべて兼ね備えると、完全無欠ですね。そういう人が勝利しても、決してドラマは生まれません。むしろ、能力に恵まれない人が努力によって、恵まれた人を打ち負かすという物語のほうがドラマチックで好まれるものです。そういう理由で、欠点のないエリートが物語の主人公になることは極めてまれです。むしろ、敵役として、最終的に負ける立場が多くなります。

現代のエリート

現在の日本におけるエリートの典型は、キャリアと呼ばれる上級国家公務員(上級官僚、キャリア)です。第一種国家公務員試験という難しい「らしい」試験をパスしないとなれません。上級官僚になると将来は約束されたも同然です。下級官僚(ノンキャリア)の人が50代後半に到達する役職に、20代で就任し、次々と出世していきます。キャリアとノンキャリアの差は、国家公務員試験の第一種と第二種のどちらをパスしたかだけです。たった一つの試験が、30年の知識と経験に匹敵する差に相当するのでしょうか?ちょっと信じがたいですね。

キャリアとノンキャリアという官僚の仕組みは、極端すぎて良くないと考える人も多く、見直しの風潮があります。しかしながら、キャリアとノンキャリアはどうしてこんなに区別されるのでしょう?それは日本の官僚機構が軍隊の仕組みを踏襲しているからです。

軍隊になぞらえると、キャリアは将校、ノンキャリアは兵卒なのです。軍隊では、兵卒は二等兵からスタートし、最終的に軍曹・准尉ぐらいまで昇任します。まれに、佐官まで昇進しますが、かなり華々しい武勲が必要です。一方、将校は、士官学校を出てすぐに少尉に任官します。この時点で、普通の兵卒のトップです。そこから、佐官、将官に昇進していきます。将校のスタート時点が兵卒のゴールということで、将校と兵卒には決して埋まらない差があるのです。しかしながら、能力の差は、そんなにあるはずないですよね。将校と兵卒の差は、士官学校を卒業したかどうかなわけですから。そういう現実があるにもかかわらず、かなり不公平なシステムを維持するために、服務規定として上官の命令に絶対服従がありました。

日本の官僚機構は、軍隊のこのシステムを忠実に踏襲しています。士官学校卒の代わりに国家公務員試験第一種合格が条件になっています。現在の官僚機構において、上官の命令に絶対服従なんて規定は作れません。なので、日本の官僚機構では、人事権を完全掌握することで、不公平なシステムを維持しています。そういった違いはありますが、官僚機構は完全に軍隊と同じ仕組みです。

エリートと非エリートを分かつもの

軍隊では、エリートと非エリートは士官学校卒の有無でした。士官学校卒の有無は、それほど大きな違いを生むのでしょうか?旧日本軍を例にとると、士官学校は入学が極めて難しく、今でいうところの一流国立大学レベルが要求されました。なので、入学の段階でかなりのセレクションを受けます。その後、スパルタ教育を受け、途中で落伍者がでます。米軍では、30%以上の落伍者がでるようです。

エリートを単に「選ばれた人」とするなら、士官学校入学時点で条件をクリアします。その後のスパルタ教育はさらなる選別とエリートをエリートたらしめる何かを身に着けるためのものです。エリートをエリートたらしめる何かとは、なんでしょう?

士官学校では落伍者が出るほどスパルタ教育をします。基準をちょっとでもクリアできないと放校になります。なので、必死に食らいつきます。クリアすべき基準は、必死になれば何とかなるけど、必死にならないと難しい、というギリギリのラインに設定されます。能力というより頑張りを見るのです。あきらめずに頑張った人だけが選択されるのです。この「あきらめない」という点が重要です。あきらめずに成功の確信をもって努力を続ける、ということがリーダーにとってとても重要な資質だからです。もちろん、成功の確率は個人の能力に依存します。しかしそれが高いか低いかは問題になりません。能力が低くても、ちょっとくらいは成功の確率があるものだし、組織においては仲間の助けが得られます。だから、個人の能力は問題にならないのです。エリート教育においては、「あきらめない」「なげださない」「ギブアップしない」というメンタリティーの育成に主眼が置かれるのです。

逆にリーダーが「あきらめる」「なげだす」「ギブアップする」のような態度を取るとどうでしょう?部下は、「この人について行って大丈夫かな?」という疑念を持つでしょう。そうすると、リーダーと部下という関係が怪しくなります。さらに逆に考えると、「あきらめない」「なげださない」「ギブアップしない」リーダーなら、部下は「あの人があきらめないんだから、我々もついてゆこう」という気になるかもしれません。特に、軍隊や官僚のような階級がはっきりした組織では、上司が年下ということが普通です。年齢も経験も浅く、メンタルも弱いリーダーに従うなんて、納得いかなくて当然です。メンタルぐらいはちゃんとしておかないと、統率が取れません。

なので、士官学校では強烈なストレスをかけて、「あきらめない」「なげださない」「ギブアップしない」というメンタリティーを鍛え、成功体験を通じてそれを信念として植え付けるのです。

意思決定が必要なリーダーと意思決定が不要な部下

士官学校の例から、リーダーとして必要とされるものが、根性チックなメンタリティーであることが分かります。それ以外に、リーダーに必要とされるのが、「意思決定」です。リーダーは、部下を統率する際に独自の判断に基づいて行動方針を自ら決定する場面に必ず出会います。その時、意思決定ができないと、部下はやはり不安に感じます。また、その意思決定が間違っていたら、全員が不利益をこうむります。軍隊の場合は簡単に死にます。だから、意思決定は命がけです。

正しい意思決定をするには、客観的な状況判断と分析、そして知識が必要です。そのため、士官学校では、これらを学びます。知識は普通の講義で学べますが、状況判断と分析はシミュレーション(ディスカッション)を交えて学ぶ必要があります。そのため、人手と時間がかかります。すべての人にリーダーとしての教育を施すことは難しいのです。

一方、部下が自分の判断で無制限に行動すると現場が混乱することがあります。そのため、部下は極力意思決定しない方がよい、という考え方があります。特に命を懸けなければならない場面で、部下が独自の判断で避難してしまうと、組織全体が危険にさらされることがあり得ます。だから、部下には意思決定が邪魔なのです。特に、軍隊や官僚など、上意下達の傾向が強い組織では、そうなっています。つまり、リーダーと部下で、要求される資質が正反対のことがあるのです。
独自の意思決定を行わないことを信条とする部下が、出世したとして、突然意思決定のスキルが身につくでしょうか?あり得るかもしれませんが、軍隊や官僚組織では、そう考えません。だから、士官・キャリアと、兵卒・ノンキャリアには、全く違う人材を充当するのです。

意思決定に関しては、もう一つ重要な点があります。上意下達とはいえ、上意が間違っているかもしれません。上官に対してある種のアドバイスを行うことも、士官の重要な資質です。もちろん、そのアドバイスは論理的で根拠に基づくものでなくてはなりません。もし、兵卒が士官にたてついたら、その兵卒はクビです。士官の場合は、場合によっては推奨されるかもしれないという行為が、兵卒の場合にはぜったに許されないのです。上官に異を唱える場合には、より広い視点からの判断が必要で、このような高度な意思決定能力がリーダーの重要な資質と考えられます。このように、リーダーと部下で、行動規範が異なる場合があるのです。

エリートの本当の定義

こうした事例から、リーダーとなる人は、特別に選抜して、特別な教育を施すべきだ、と考えられています。そういう教育を受けた人をエリートと呼びます。リーダーには特別な教育が必要だという考え方は、世界共通です。東洋では「帝王学」と呼ばれています。帝王学というのは、王様になるための素養ととらえられていますが、それはあまりに俗な理解です。現代においては、「マネジメント」という用語で言及される概念がこれに近いと思います。
以上をまとめると、リーダーには、強い意志と行動力、正しい状況理解、論理に基づく意思決定能力が必要とされると結論できます。この中には、スポーツが得意とか、勉強ができるとか、容姿端麗だとか、そういう資質は直接関与しません。だから、そういうことは必要ないかというと、そうではありません。
「あきらめない」を実現するための強い意志と行動をもうちょっと具体的に考えると、高く設定された目標に対し、継続的な努力を実行するということになります。これはちょうど、スポーツにおいて、勝利や好記録のためにトレーニングを続けるという行動規範に一致します。すなわち、スポーツに秀でた人には、強い意志と行動力を持つ人が多いのです。
正しく状況を理解するには、相応の知識が必要になります。勉学に秀でる人は、知識の習得に貪欲あるいはそれが得意な人が多いのです。勉強の際には、論理的な思考が要求されます。だから、意思決定能力に優れることになります。
容姿が良い人は、良くも悪くも注目を浴びます。ちょっとした失敗でも目立ってしまいます。例えば、鼻がムズムズしてても、人前で鼻をほじったり鼻をかんだりするのは、はばかられます。そのため、日ごろから失敗しないように注意深くなります。その結果、予測能力が鍛えられます。予測を行うためには、状況の理解と論理性が求められます。また、注目される分、行動に制約が生じるので、ある種の忍耐力も鍛えられます。容姿の良い人の人生は、案外大変なものだと思います。
加えて、リーダーには人心掌握のための技術が必要ですが、これは単なる技術です。ちょっとした勉強で身に付きます。実行するのは少々骨が折れますが、リーダーとしての行動力があれば、問題にはならないでしょう。

あるグループにおいて、リーダーは一人ですが、そのような組織は階層化され、それぞれの階層でリーダーが存在することになります。その結果、リーダーは数多く必要です。また、リーダーのいないグループは機能しないので、リーダーが足りない状況は困ります。だから、リーダーには予備人員が必要です。その結果、リーダー候補として、エリートがわりと多く確保されます。エリートというのはある種の専門職という側面があり、軍や官僚では非エリートと完全に分離しています。
でも、単なる職種の違いなので、上下関係を強要するのは良くないかもね、と僕は思います。仕事をする上ではリーダーは重要です。でも職能の違いであるなら、給料に差をつけるのはどうかな、と思います。ところが、給料の配分の「意思決定」を行うのは常にリーダーであるので、リーダーの方が給料が高く設定されます。それってちょっと不公平な気がします。