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2025年9月16日火曜日

ラボノート

 うちのラボの研究ノートはEvernoteです

「僕の」ではなく、「ラボの」話です。

研究ノートは研究者にとってもとっても大事な「モノ」です。僕の場合はほぼ日記ですが、日々の活動・アイデアなどをすべて記録として残すことは、研究者の常識です。そういう大事なものだからこそこだわりを持って選定しないといけません。

僕が考える研究ノートに必須の要件は次の3つ。

  • 必須要件①記入日の保証(いざとなったら裁判資料となるため、研究ノートには特別な要件がある。日付が保証されていればデジタルデータに訴訟能力があるという判例が米国に存在する)
  • 必須要件②手書き(数式とか、アイデアとかは手書きの方が良い)
  • 必須要件③モビリティ(出先や屋外など、いつでも記入できること。デジタルノートの場合はスマホでアクセスできること)

紙のノートは必須要件①が怪しいけど、そのほかは完璧。だから少し条件の付いたノート(糸掛&ページ番号印刷)が今でも用いられていると思います。でもきちんと訴訟に耐えるには、ノートにシリアル番号を付して、そのシリアル番号を別のノートで管理しないといけません。ま、ちゃんとした管理をしている大学の先生を僕は見たことありません(いや、奈良先端大学院大学は全学の制度としてこれを実施してましたね。失敬)。

昨今は学生のノートの管理も徹底せよと言われているので、学生が卒業するときに学生の研究ノートを奪い取らねばなりません。気の小さな僕はそういうのが心苦しいのです。実際、僕が4回生の時のラボでは研究ノートを研究室において出ないといけないルールでした。ノートを手放すのはちょっと寂しかったです。働き出してからは、専門の業者がマイクロフィルムに撮影したりすることがありました。大学のラボレベルでは、そういうのは高コストすぎてできませんから、研究ノートのデジタル化をいろいろ考えていたわけです。Blogなんかのシステムはラボノート向きではありましたが、必須要件①を満たすのがとても難しいので、使えません。

ひところは、Anoteペンという技術を使ったノートを使っていました。特殊なノートと特殊なペンの組み合わせで、ノートに書いた文字がスキャンなしでデジタル化されるというものです。紙のノート(しかもノートは糸掛でページ番号も印刷済み。ラボノートとしての体裁を見たいしています)が本紙で、自動的にデジタルのコピーができるわけです。

2~3年使っていましたが、デジタル化したデータの管理が難しいことと、写真や印刷物を貼れないことが欠点でした。また、器材コストが高く、学生に使わせることは難しいというのも問題でした。


Apple Pencilは素晴らしい

僕は基本的にAppleが嫌いです。わずかな技術的優位性を誇大に主張するやり方はフェアじゃないと思うし、なにより製品が割高です。また、Appleの熱狂的なファンの人たちがちょっと気持ち悪いと感じるのも理由の一つになっています。カルト宗教みたいだし。

そういう偏見を僕は持っているのですが、Apple Pencilだけは素晴らしいと言わざるを得ません。ペン型デバイスはそれまでもたくさんありましたが、筆記用具としての使い心地はどうしても劣るものでした。ラグが大きかったり、位置ずれが顕著だったり。でもApple Pencilは通常の筆記用具と同じような使い心地を提供してくれます。Apple Pencilなら数式を手書きできると思いました。

Apple Pencilを使えば、電子ノートの欠点の一つである「手書きの気持ち悪さ」が解消でき、必須要件②を満たすことができると僕は考えました。つまり、手書き最強ツールであるApple Pencilを擁するiPadを研究ノートに使おうと考えたのです。iPadであればモビリティも十分です。

また、PCでも同じように使えた方が良いに決まっています。iPad含むいろんなプラットホームで動作するノートアプリは大体クラウドなので、Webアプリがあったりして、PCでも動作することが多いです。

クラウドだと、「最終更新日」は大体残っています。だから、必須要件①もかなり満たします。しかし、クラウド故に簡単に更新できて最終更新日が更新されてしまいます。更新されたデータは訴訟能力を失い、致命的です。でも、ノートアプリにロールバック機能があって、特定日付の状態を取得できると、確実に目標日時の状態のノートを入手できることになります。クラウドデータの日付の改ざんはユーザーには無理ですから、ノートの日付はノートアプリ提供会社と言う第三者が保証する価値になります。これ以上の訴訟能力は考えられません。つまり、完全ロールバック機能をもつノートアプリは必須要件①を完全に満たすわけです。ということで、オンライン・クラウド型のノートアプリをいろいろ調査しました。


電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)

その方面の需要は結構あるらしく、電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)という分野があります。最大手はBiovia ELNというものらしいです。iPadやAndroidのアプリはありません。PCオンリーで、結構高価そうです。初期導入コストは最低でも数十万円だと思います。

化学系に最適とうたっているのが、ChemDrawとの連携を売りにしているSignals Notebookです。これも携帯端末では使えません。出先の実験で非LAN環境(屋外とか)での使用を想定するとこうしたELN専用システムはダメっぽいです。企業だとセキュリティの都合で嫌がるからかな。つまり、一般企業向けのELNは必須要件③を満たしてはいけないということです。しかたがないので、一般向けの電子ノート(研究用ではない)を選択しました。

電子ノートアプリにはいろいろあるのですが、流行はNotionです。Notionはとても評判が良いのですが、残念ながらロールバック機能がないのでNGです。Microsoft Officeに付属のOneNoteもよいのですが、ロールバック機能が30日しかないので、裁判対策としては使えません。実は数あるノートアプリの中で十分なロールバック機能を持つのはEvenoteの有料プランのみです。

昔はEvernoteが最強と言われていましたが、Notionなどのライバルアプリの登場で苦戦を強いられました。一時は経営が危なかったらしいです。危なかった理由はシステムの陳腐化とストレージの枯渇でした。そこで、有料プランに極振りすることでユーザーのふるい落としを行い、経営を安定させたようです。完全なロールバック機能って無限に容量を食いますからね。2022年あたりから無料プランの貧弱化と有料プランの値上げが行われ、本当にヤバかったです。そして2023年後半あたりから、急激に機能強化が行われました。2025年現在、機能面では他のノートアプリに劣る要素はほぼありません。値段以外は。


運用コスト

僕のラボでは学生全員に研究費で有料プランを契約させています。こうした個人に紐づく「資産」を研究費から出すのは難しいのですが、大学との交渉を頑張りました。ちゃんとしたルートを構築し、適正に運用していますよ。

まずは学生に有料プランの契約方法を説明します。オンラインサービスの契約は個人資産になるため、通常の方法では大学から費用を支払うことができません。特殊な事情があるとして、立替払いをすることになります。しかしながら、学生は立替払い申請をすることができません。なので、僕が代理で申請することになります。もし、契約途中に不備があって立替払いが認められない場合は、道義的に僕が費用を被らないといけなくなります。さすがにつらいので、契約の不備が発生しないように学生に入念に手順を説明します。

実は購入経路によって結構な差が出ます。重要なのは、学割適用することと、Apple経由での契約にしないこと、です。Apple経由だとおよそ15%高くなります。そのためGoogle PlayかWebから契約させます。契約時の支払い画面、契約後のライセンス確認画面を提出させます。費用は僕が現金で立て替えます。その際、学生が僕から支払いを受けたという「申立書」なるものを学生に署名させます。

ライセンスのIDはメールアドレスなのですが、これには大学のメールアドレスは使わせません。というのも、大学のメールアドレスは進学や卒業でわりと近い将来使えなくなるからです。ライセンス契約のIDは学生のプライベートアドレスにしています。

プライベートアドレスだと、学生の名前と一致しません。なので、別途学生の氏名・学籍番号、ライセンスID(プライベートアドレス)、支払い金額の表を作成します。これらの処理を集めて、大学に立替申請をします。この一連のプロセスは大学の経理と相談して構築しました。事前相談なしにやるといろいろ問題になると思います。こうした手間暇は運用コストの一部であると割り切るしかありません。


導入のメリット

学生の研究ノートは僕が月初めに当月分を配布します。こうすることで、学生の研究ノートは僕の管理下に置かれます。管理下に置かれるというのは、僕はいつでも読み書きできるという意味です。できるのですが、学生の要請なり必要なりがあるときのみ、学生のノートの内容を見ます。研究ノートであってもプライバシーは基本的に守るべきだと思うからです。誰かに見られる可能性があるノートだと思うだけで、恥ずかしいことは書けないし、書くときにはちょっと考えてから書くようになるでしょう。でもそうしたちょっとした気負いがノートへの記入をためらうように働くかもしれません。なので、僕は学生のノートを基本的に見ないし、学生にそのように公言しています。

さらに、書き込むことはほぼありません。学生に対してノートに書く内容を指示することがありますが、書き込みは学生にゆだねています。何か重要な発見があったと学生から報告があれば、僕が日付入りで手書きサインを入れます。これは特許訴訟対応として必要な手続きですから、しょうがないです。

ちなみに厳密なルールでは研究ノートには毎日上司の日付入りサインが必要とされています。ただ、それは「上司が見た証拠」ではなくて、その日までにノートの当該部分まで記載がなされていることを誰かが確認したという意味になります。ノートの一文一文に秒単位の記録が付属する完全なロールバック機能を持つ電子ノートにおいては、毎日の上司のサインは全く必要ありません。上司のサインがあっても過去の記載部分にちょっとした書き足しはできますからね。上司の日々のサインがあっても訴訟でひっくり返されることは普通にあると思います。ロールバック機能つき電子ノートにかないません。

Evernoteはスマホでも書き込めるので、スマホで写真を撮ってそのままノートに記載することができます。モビリティーという点では最強と言えます。スマホ・PC・iPadのそれぞれで少しずつ機能的に違う部分があるのですが、有料プランではすべてのプラットホームを併用できるので、問題ありません。

手軽に写真をノートにアップロードできるというのは案外メリットが多いです。測定結果のグラフを研究ノートに貼りたいというシチュエーションが多くあります。紙のノートだと、印刷して切って貼って、というプロセスが必要です。でも、スマホで写真を撮れば、ラボノートに切り貼りする必要はありません。PC作業中の画面写真もすぐにコピペできます。なんなら、解析途中のファイルのバックアップにも使えます。

論文のPDFもラボノートにアップロードすれば、すぐにみんなで共有できます。研究報告会の資料はノートにアップロードするルールになっています。

週1回英語の本読み会をしているのですが、本読み会後に確定した翻訳を専用ノートにみんなで書き込むことで、徐々に翻訳本ができます。

学生個人のノートの使い方は基本的に自由ですが、見本として僕のノートは学生全員が読めます(書き込みはできません)。学生は僕のノートを見本として研究ノートの書き方を学べるようになっているのです。ちなみに諸事情により学生に見せられないノート(個人情報や試験関連)は別に作って管理しています。

Evernoteの唯一かつ最大の欠点は値段が高いことです。無料プランは本当にお試し版で全く実用になりません。そして、有料プランは定価が9300円/年で、驚くほど高いのです。僕のラボは一人研究室(僕以外は学生)なので、全員で10名ほどですが、およそ10万円が年間のコストになるわけです。これはとても大変です。

Evernoteは2024年に入って急速にいろいろな機能強化がなされました。項目の折り畳み機能(WORDのアウトライン表示みたいな使い方)とか、LaTexスタイルの数式とか、気の利いた機能が次々追加されています。LaTexスタイルの数式機能は実用までは遠いレベルですけど、そのうちに使い物になると期待しています。

AI関連機能の強化も進んでいて、手書き図表や写真の文字起こし、会議音声からの議事録作成なんかもできます(十分とは言えませんが、下書きには使える程度)。電子ノートなので、検索とかリンクとかいろいろ使えるので、紙のノートよりはるかに機能的です。

手書きメモの文字起こし機能も結構育ってきていて、キーワードとかきちんと拾ってくれます。数式の使い勝手はまだまだダメですけど、将来はどうなるかわかりません。いらない機能もいろいろ追加されていますが、重要な機能も年々洗練されてきていますので、ちょっと期待しています。


もう8年使っている

僕がEvernoteでの研究ノートを本格導入したのは2018年です。2025年の現在、8年目ということになります。2018年当時は、僕だけが3500円/年程度の有料プランを自腹で契約し、学生たちは無料プランでした。

Evernoteは最近どんどん高価になって、本当に苦しいのですが、乗り換え先がないことと、すでにデータの蓄積があることの2つの理由によって継続使用しています。現在の標準価格は9300円/年です。

機能的にはとても満足しています。運用面のノウハウもたまっていて、使い心地はよいのです。すでに10年くらいの運用実績があって、過去の研究ノートが積みあがっています。学生10人×12月×8年=約1000冊というノートがあるわけです。別のサービスに乗り換えるのはちょっと難しいです。もうEvernoteと心中するしかないレベルです。

以前のEvernoteは少しダサい感じがしましたが、今のEvernoteはすごくモダンでとても使いやすいです。一つのノートをみんなで編集するという機能があって、ちょっと楽しいです。それぞれの人が違う色のカーソルで表示していて、みんなの編集が瞬時に反映されます。誰がどの位置を編集中かがわかるので、そこを避けて別の部分を編集するということがストレスなくできるのです。なんだかおもしろいですよ。

色んなファイルをアップロードできるので、作業中のファイルの履歴として活用することもあります。つまりクラウドストレージとしての側面があるわけです。すると学生は研究室での作業を自宅に持ち帰るのが簡単になるわけです。

学生にファイルを送るのも、メールだとサイズを気にするところですが、Evernoteだとそのあたりが少し緩くなります。学生のノートに僕が直接アップロードしたり、僕が欲しいファイルを学生にリクエストすると、学生の自分のノートにアップロードしてくれるわけです。そのときにファイルに関するいろんな情報を付けてくれてれば、僕は続きの作業ができます。そして、そのやり取りは記録に残るわけです。


こういうのは大学が考えるべき

研究ノートの電子化・オンライン化・クラウド化は昨今の研究環境の当然の流れであり、すべての研究者に関係のあることだと思います。特に大学では研究不正を防ぐために研究に関する情報の管理が強く求められています。うちの大学のように小さくてのんきなところは、文科省の引き締め要求をそのまま末端の教員に垂れ流し、「各自ちゃんとするように!」と伝えるだけしかしません。具体的にどうしろとかないわけです。やり方を示さず、問題が起こったときに追求だけするぞ、と脅すわけです。もう、やってられません。

情報管理を徹底するには、コストが発生します。実験データを10年保管とか、どれだけのストレージが必要になることやら。そしてそのバックアップコストも発生します。そのコストは大学の要請にこたえるためのものなので、大学に請求できるかというとそうなりません。また、どうすれば十分か、ということも示されていないので、僕たちはとても不安なのです。

というわけで、僕は自衛のために年間10万円を払うわけです。自分の研究費を削って。ちょっと納得がいかない面もあります。他の人たちは相変わらず紙のノートを使い、学生のノートを召し上げるわけですが、それは倫理的にちょっと怪しいと思います。実際、紙のノートも専用の研究ノートでないので、訴訟能力が全くなかったりします。それでええのか?

コクヨの研究用ノートは一冊2500円で年間一人1冊くらいです。厚みは1cmくらい。うちは10人くらいなので、年間10cm成長します。10年で1m分本棚を圧迫します。早晩場所問題が発生します。研究ノートは大学の資産なので、そういう書類系の資産は図書館が管理すべきです。うちの大学は教員が300人くらいいますから、年間30mの本棚が必要になります。100年とか保管しだしたら、3kmですよ!

電子研究ノートというのはスケールメリットが大きいので、大学全体みたいな組織単位で契約すれば多少はコストが圧縮できるはずです。一人当たり年間2500円というのが損益分岐点だと僕は思っています。かつてのEvernoteの価格はそのくらいだったんですけどね~。


研究ノートになくて良い機能

研究ノートは裁判の証拠としての機能がありますから、電子ノートで代用するにはロールバック機能が絶対必要です。従ってロールバック機能を阻害する機能は必要ありません。

ロールバック機能を阻害する機能で代表的なのが、データベース内容の引用機能です。データベースはデータを細分化し、管理し、引用を容易にする仕組みです。データ単位(レコード)の登録・更新に日付や履歴が完備しているものは基本的にありません。更新履歴なんて情報は冗長性が高く、大量のデータを整理・保管することが使命のデータベースにとって極めて不利な機能です。データベースではレコードをさらに細かなデータに切り分けますから、更新履歴情報はレコード本体の何倍にもなります。例えば、何月何日の状態にデータベースをロールバックするなんて作業は普通はできません。

電子ノートにデータベース内容を動的にリンクする機能があった場合、その電子ノートは過去の状態を復元することができなくなります。だから、電子ノートサービスの中に動的なデータベース引用機能が含まれていると、裁判の証拠として使えなくなる可能性があります。

調べてみると、Notionが内部に統合されたデータベースとの連携機能を売りにしていて、これはダメです。Notionはロールバック機能がありませんから、そういうことができるわけです。OneNoteは外部データベースの引用はできますが、統合はされてません。共有ノート機能もあるので、ロールバックが30日とか限定されていなければ使えるんですけどね~。

過度な表現力もノートには必要ないと思っています。手書き機能が使えれば表現力の部分は手書きで補えるからです。高い自由度が必要ならばワープロやパワポを使った方が、再利用性も増します。そうして作成したファイルをノートにアップロードすればよいだけです。PDFにしておけば、フォーマット済み文書の中身が、たいていのノートアプリで直接見えます。


必須な機能は以下の通り

  • 「完全」なロールバック機能をもつこと
  • 「データがクラウド保存」され、タイムスタンプの改ざんができないこと
  • スマホ・PCなど「複数のプラットホーム」で利用できること
  • 「手書き」機能が十分であること
  • ノートを「共有」して「集中管理」できること
  • ファイルの「アップロード」に対応していること

あったら良い機能は以下の通り

  • 手書きデータのデジタル化・検索
  • ノート内容の階層化
  • 階層化されたノートの管理

ない方が良い機能は以下の通り

  • データベースとの接続


現状ではEvernoteが最適解だとおもっているんだけど、GoodNoteとかも有料プランなら無限履歴があるっぽい。その場合のコストはEvernoteとどっこいどっこい。どうしたものか。



2024年3月8日金曜日

天才による天才的な天才の考察

天才に関する評論の論評

天才に関する評論はたくさんあります。唯一無二の成果をもたらしてくれる天才の存在は人類にとっての福音ですから、多くの人の興味を引くのは当たり前で、当然研究対象となり評論も多く存在するわけです。評論ですから、第三者の立場から客観的な分析が述べられるわけです。客観的なのは良いことなのですが、分析に用いるデータのほとんどが伝聞であることは問題です。

「天才」とされる人はとても少ないので、直接のインタビューは貴重ですし、すべての評論者が直接インタビューの機会を持つことは不可能です。あるいは、歴史上の天才を研究対象とした場合、大抵は死んでいるわけで、インタビューはムリです。その結果、分析に用いるデータはせいぜいインタビューの記録、あるいは「天才」の関係者への聞き取りで、それでもあればむしろマシと言えます。

他人の頭の中を直接覗くことはできませんから、天才たちがどのように感じ、考え、生きているのかは本人にしかわかりません。さらに、多くの人にとって、自分の感じ方、考え方、生き方は、「当たり前」であり、他人に説明するようなものではありません。それは天才たちにとっても同じであり、彼らがどのように感じ、考え、生きているかは、凡人たる我々にとっては価値があるかもしれませんが、当人たちにとってはそういったことを他人に説明するのは時間の無駄以外の何物でもありません。

それでも僕は自身の経験から、天才たちの感じ方、考え方、生き方の一端を理解しているつもりです。天才たちが天才的であるのは合理的帰結であり、当然であると思っています。理論上はすべての人が天才的な才能を発揮することが可能だと僕は思っています。しかし、それを実践できる人はごく少数で、それができる人が「天才」と呼ばれるだけの話。でも、それを知ることはいろんな意味でとても大事だと僕は思うのです。


大学入試システムの考察

天才とは程遠いですが、日本には大学入試という優れた人材選抜システムが構築されています。最近はこのシステムを破壊する動きが活発で、半壊状態ですけどね。大学入試では特定のタイプの人材が効率よく選抜されます。直接的には「テストで高得点を獲得できる人」となりますが、その選抜に勝ち残った人たち(ぶっちゃけ、東大、京大に入学する人たち)をみるとある傾向が見られることに気づくでしょう。それは長時間の勉強に耐えることができる、ということです。

経験上、どれだけ才能豊かであっても、10倍の勉強時間を覆すのは極めて困難です。優秀な小学校1年生(勉強歴1年)であっても盆暗な高校2年生(勉強歴10年)に学力で逆転勝利することが難しいと言うと納得がいくと思います。つまり、学力とは平たく言うと、勉強時間のことであり、勉強時間と学力の間をつなぐ係数が「才能」と言えます。ということで、学力を選抜の目安とする大学入試は、どれだけ勉強に時間をかけてきたかを問うているわけです。東大出身者の中で、高校3年間の勉強時間が500時間を下回るような人はいないと断言できます。ちなみに500時間とは、一日にすると30分程度であり、定期試験前にまとめプリントに目を通す程度で達成できます。


いやいや、東大に入るために3浪してダメだった総理大臣もいるでしょ、という反論があるとおもいます。まったくもってその通りですが、先ほどの論の中にでてきた勉強時間と学力の間をつなぐ係数という概念でそれは説明できます。この係数には個人差があります。その係数は勉強の効率と考えるとよいでしょう。効率的な勉強ができるかどうかというのは重要で、そのために塾に通うという選択肢は合理的かもしれません。また、この係数は勉強の継続時間の関数でもあります。別の言い方をすれば、「集中力」です。集中力が高いほど勉強の効率は良いですよね。また勉強を続けているうちに集中力が切れてきて効率が低下します。集中力には強度と持続時間という2つのパラメータがあることがわかります。

東大・京大の連中はすべからく集中力の持続時間が長めです。これは当然です。大学入試のように長い時間をかけて獲得した学力が評価対象となる場合、学力は日数×一日当たりの勉強成果であり、基本的に高校3年間の日数はほとんどの受験者で同じであるので、大学入試で測定されるのは、何日勉強したか×一日当たりの勉強成果になります。忘却曲線が入ってくると話がややこしくなるので、ここでは無視します。日数には上限があるので、実質的には一日当たりの勉強成果を競うことになります。一日の時間は決まっていますから、勉強の効率が重要になります。ただし、勉強時間が長くなると集中力が切れて効率が落ちるので、一日当たりの勉強成果には上限ができていしまいます。効率は集中力であり、強度と持続時間があるわけですが、長時間にわたる効率を重視するなら、集中力の持続時間が優れている方が有利となります。その結果、大学入試で選抜される人は、集中力の持続時間に優れる人が多くなります。

一方、毎日勉強しない人は総勉強時間で損をします。毎日勉強するかどうかという「勤勉さ」も学力に大きく影響します。そのため、大学入試で選抜される人はおしなべて勤勉です。

つまり、大学入試なんかで計測されるのは主に「勤勉さ」と「集中力の持続性」であり、それは「天才」という評価とはちょっと違うということがわかると思います。

さて、「勤勉」で「集中力の持続性」に優れる人というのは、やっぱり優秀です。とくに受験勉強というくだらない行為に「勤勉さ」と「持続力」を発揮できるメンタリティーを持つ人は、どれだけ退屈な仕事でもこなすことができるでしょう。部下としては理想的な人材です。就職に有利なのは当然です。


天才の研究について

大学入試と学力という比較的わかりやすい例で説明したけど、こういった関係はどのような分野でも普遍的にみられることが知られています。有名な例ではピアニストの研究があります。アマチュアのピアニストと一流ピアニストの比較研究から、両者の最大の違いは「才能」ではなくて「練習時間」であることが結論されています。アマチュアは練習時間が週数時間であったのに対し、一流ピアニストは一日8時間程度であり、練習時間の差がピアニストとしての能力差に直結するとされています。こうしたことはピアノだけではありません。あらゆる分野において、およそ1万時間のトレーニングでどの分野でも一流になれると言われています。勉強に関しても、東大合格には3000時間の家庭学習が必要とされており、小中高の学校での勉強と合わせて1万時間はかるく達成する計算になります。

多くの人が一流の分野を持たないことからもわかるように、1万時間のトレーニングというのが大きなハードルになっていることがわかります。1万時間という具体的な目安があるのになぜ達成できる人が少ないのでしょうか?それこそ、「勤勉さ」と「持続力」の問題なわけです。そこそこの勤勉さ」と「持続力」があれば、10年くらいの努力で1万時間を達成できます。5時間×200日×10年=10000時間という計算です。集中力により5時間が10時間になかもしれませんし、勤勉さにより200日が300日になるかもしれません。その場合はもっと早く一流になれるでしょう。でも、5時間の集中は普通の人にとっては限界ですし、継続を重視するなら休みも必要です。職人の世界で「一人前になるには10年の修業」という目安は合理的な見解だと言えます。


天才と呼ばれる人たちは「勤勉さ」や「集中力」が優れているというよりは、ぶっちゃけ、ぶっこわれています。病的な勤勉さとか、極端に強い集中力とか、無限に続く集中力とか、そういうものを持っているわけです。先の例だと、一日15時間、毎日練習するとかです。しかも高い集中力によって効率が倍とかになっています。それを物心ついた瞬間から続けるわけです。二十歳くらいの段階で、実質トレーニング時間が10万時間とかに達していて、それは普通の人が到達不可能な領域にあるわけです。それを以て「天才」と形容し、理解不能な実質訓練時間が達成されている理由を「才能」と呼んで安心するのです。

天才レベルの「勤勉さ」や「集中力」が「勉強」に向かえば、受験勉強なんて楽に突破できます。なので、大学入試を軽く突破する人たちの中に高確率で「天才」が現れます。しかしながら、興味が「勉強」に向かわない人たちもいます。例えば芸術とかスポーツとかに向かうわけです。これは「天才」と呼ばれる人たちが様々な分野で多様に出現する理由となります。


自閉症との関係

自閉症の人の中には特定の分野で天才的な才能・能力を発揮する場合があることが良く知られています。これも「集中力」の文脈で理解できます。自閉症(傾向)の人たちは多くの物事に興味を持たない代わりに特定の事柄に偏執的な興味を示す場合があります。興味の対象が限定されることで集中力が高まり、集中力の減退となって顕在化するストレスを、集中力の対象に向けることで解消しようとします。集中力が切れるようなストレスの解消法が自分の興味をその集中力の対象に向けることというのは、集中力のポジティブフィードバックループを形成します。これは完全にバグであり、通常の人から見ると頭のおかしな行動に見えます。その結果、肉体あるいは精神が壊れるまで集中力が高まってしまい、病気と診断されるわけです。

自閉症傾向の人は自らの興味の対象が限定されているため、興味の対象に対しては「勤勉」になります。その他の選択肢がないわけですから、当然そうなります。自閉症傾向によって形成されたバグのようなポジティブフィードバックは無限のトレーニングサイクルを形成し、気が狂ったようなトレーニング時間を実現するわけです。そういったわけで、特定の分野では優れているがそのほかの日常的な部分も含めてダメダメである、白痴天才(差別的表現になっていて申し訳ない)が出来上がります。


僕の話

ちなみに僕は勤勉さは劣っているけど、集中力の強度と持続力がぶっこわれています。勤勉さがダメなので「天才」ではありませんが、集中力は強度も持続性も天才クラスだと思います。集中力すると周りの音が聞こえないどころか、しばらく言葉が使えなくなります。発話だけでなく聞き取りもできません。持続力もほとんど制限がありません。最初からずっと集中力が全く低下しません。血圧があがったりもしません。空腹や目の疲れ、肩こりなど肉体的な疲労は生じますが、精神的な疲労というもを僕は知りませんでした。子育てをして、子供たちの集中力が切れて能力が低下する様にとても驚きました。

学者をやっている連中をみていると、みなさん同じような傾向があります。僕はこれを「ブレーキが壊れてる」と表現しています。アクセルを踏んで集中力の強度を上げるわけですが、持続力が壊れているので、集中力が低下しません。自然には止まらないわけです。ポジティブフィードバックはかかっていませんから、自閉症とはちょっと違います。病的ではないということと、興味の対象を比較的自由に選択できるという点は、社会性を保つのにとても重要です。それでも、普通の人から見れば異常者です。変人に見えると思います。


野球の天才の場合

そういう僕の経験上、「天才」の形成には社会的な要因も大きいと思っています。幼少期から知能の高い人は友達付き合いに苦労することが知られています。話の内容がかみ合わないことが理由だろう、とみんな勝手に思っているようですが、僕の経験上それは些細なことです。話題なんて無限に存在するわけですから、共通の話題を見つけるのはいかなる場合にも難しくはありません。言葉がほとんど通じない外国人とだってそれなりにコミュニケーションが取れるものです。お互いにその気があれば。

例えば、野球の天才がいたとします。高校野球くらいだとピッチャーで四番という人は結構いるわけです。高レベルなピッチャーで四番な人がいると、甲子園出場までこぎつけることが結構あります。ワンマンチームとか言われますけど。あなたがその天才の幼馴染で、そこそこ野球ができるとします。小学校、中学校で県大会とか全国大会とか優勝とか出場とか一緒に達成しました。いざ高校進学するとして、天才と一緒の高校に行って野球をしたいと思うはずです。一緒に甲子園を目指す、とか言いながら。

で、それを天才さんの側から見てみます。周りを見渡して自分より野球の上手な人がいない。野球が大好きだし、練習も楽しい。もっとうまくなりたいから練習も手を抜かない。試合ではいつも大活躍で、全国大会とかにも行く。高校でも野球を続けて、甲子園を目指すんだ。となるわけです。その時、いつも一緒に野球をしてきた幼馴染が高校でも一緒に野球をするぞと言っている。となります。ここで、天才さんと幼馴染の間に温度差があることに注意しましょう。天才さんは幼馴染がいなくても野球を続けるモチベーションを持っていますが、幼馴染は天才についていくがモチベーションになってます。つまり、依存関係ができるのです。


勉強の天才の場合

天才とそれを取り巻く人々の間には極めて高確率に非対称な依存関係が形成されます。天才は個人の力で多くの問題を解決してしまうので、周囲の人たちはその恩恵を得られます。野球の場合はチーム競技なので、周囲の人たちの存在は天才にとって不可欠であり、非対称性はやや改善されるかもしれません。これが勉強だとそうはいきません。

勉強がすごくできる天才クラスメイトがいるとして、勉強がわからないところを天才クラスメイトに尋ねたりするわけです。いざテストになると、天才クラスメイトに勉強を教わると点数が上がるはずだと思って、一緒に勉強しようと誘います。これを天才クラスメイトの視点から眺めると違ってきます。天才にとって学校の勉強は退屈で、他のクラスメイトからの質問に対しては暇つぶしも兼ねて教えたりします。テストが近づいて他のクラスメイトから「一緒に勉強しよう」と誘われます。テストだからといって特別な勉強する予定はなかったし、一緒に勉強してもメリットはないので、断ります。そういうクラスメイトは大勢いて、ぶっちゃけ辟易しています。

勉強は個人競技なので、周囲の存在は必須ではありません。そして天才一人に対して、周囲は多数。質問とか同じようなものが何度もあって、いちいち対応するのは面倒になります。勉強が話題になりそうなクラスメイトたちとは距離置くようになります。他のクラスメイトからすると、付き合いの悪いコミュ障の天才クラスメイトの出来上がりです。これは実際に僕自身が経験したことです。


僕は割とおおらかなので、コミュ障にはならなかったし、問題も生じなかったのですが、周囲からは「僕がアンタッチャブル」な雰囲気を感じました。少しでも神経質だったり、気が弱かったら、耐えられないかもと思います。

「天才」からすると、周りの人は邪魔でしかありません。3人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、全く実感しません。みんなで知恵を出し合うとか理解不能です。ブレインストーミングはみんなでやっても一人でやっても違いは見出せないし、一人でブレストの方が断然効率が良い、まであります。知的活動に関しては、周りの人はお荷物でしかないので、正直遠ざけたいのです。だからこそ、孤立・孤独は良い選択肢になるわけです。天才が孤独を好むというのは合理的なわけですが、「好む」理由は後ろ向きなのです。力を合わせるべき合理的理由がないので、力を合わせる必要のない孤独を選択するのです。


まとめ

天才の本質は、勤勉さ、集中力(強度・持続性)が全て高いこと。

大学入試は、勤勉さと集中力の持続性を計測している。

天才が孤独を好む傾向あるのは、周囲との関係が極端に非対称で、交流にメリットがないから。孤独が好きだからではない。

自閉症傾向は、バグったポジティブフィードバックによって「天才」傾向を作り出すことがある。


2017年5月25日木曜日

ツーマンセルを基本にする

関連記事:週休4日

週休4日はハードルが高い

僕は何年も前から週休4日で、副業を持つという働き方が良いと思っています。そのことについては、「週休4日のすすめ」に書きました。でも、それって、組織の理解とか社会制度とかいろいろクリアしないといけない課題が多くて、なかなか踏み切れません。
そこで、折衷案として、すべての業務をツーマンセルにして、所属を2重にするというのを最近提案しています。週5での勤務のうち、3日弱はメインの職場、2日強は別の職場で別の業務をするというやり方です。一人の人は週3でしか関われないので、業務に支障をきたしますが、それは同じような事情を持つ別の人が補います。結局、すべての業務の担当者が2名ずつ(ツーマンセル)で、日毎に交代するというわけです。実質的にメインの業務は週休4日で、サブ業務が副業になります。これだと、組織内の取り決めだけで、実質的な週休4日制を実現できます。

ツーマンセルのメリット

週休4日制のメリットをおさらいしておきます。

  1. 常に交代要員が確保されているので、休みを取りやすい。
  2. 最低限の収入を確保しつつ別のこと(起業やボランティアなど)にチャレンジできる。
  3. 子育てや介護などに参加しやすい。
  4. 複数の職場を比較できるので、業務改善が進みやすい。
  5. 新たな職能の発見につながる。
  6. 転職が促進され、人材が流動化する。
  7. 引継ぎが必要ないので、人事異動が容易。
  8. 専門的な職能を持つ人材を、市場調達しやすい。
  9. 一時的な雇用調整が容易。

ツーマンセル型でもこれらのメリットのほとんどは継承されます。ただし、転職は促進されません。その結果、人材が流動化しないので、人材の市場調達は従来のままです。雇用調整として、メイン業務のみとすれば、それはワークシェアリングそのものです。
でも、そもそも社会の理解が必須な週休4日制を、会社の理解だけで先行導入するというのがツーマンセル型なので、社会へのインパクトが最小限にとどまるのは仕方がないことです。そう考えると、ツーマンセルによって、週休4日制のメリットを現状制度の限度いっぱいまで享受できると期待できるわけです。

いくつかの会社の人に提案してみた

僕は、いろんな会社の人と話す機会があります。ほとんどは、研究の末端の方なんですが、管理職の人たちもいて、そういう場合に時折、週休4日制を提案しています。さすがに、びっくりされます。
最近は、そのあと、ツーマンセル型の業務形態の話を続けています。すると、これならできるかも、と思ってもらえます。日本の学校教育では、休まない・遅刻しないということを徹底しており、それは大人になっても美徳とされています。それは日本の良い面だと思いますが、それに経営があぐらをかいて、欠勤がないことを前提に組織と業務を構築してしまっています。その結果、休めない体制が出来上がっているのです。
普段はよいのですが、病気やケガで休まざるを得なくなったとき、組織は大ダメージを受けます。関係者たちは大騒ぎになるわけで、しばらく会社勤めをすれば、数年に1回くらいそういうことを経験するものです。病気やケガは一定確率で発生するものです。このようなイベントは、経済用語でリスクと言います。日本の組織は、リスクがヘッジされていない状態にあると理解できます。であれば、ヘッジすれば改善されます。ヘッジの方法は簡単です。互いに各自の仕事を交代できるようになっていればよいのです。

人材リスクのヘッジ法

人員の入れ替えが多く発生する組織ではそのリスクをヘッジすることが重要なので、ヘッジの方法が発達します。アルバイトのシフトが典型例です。
一般のアルバイトが行う業務は、基本的に誰でも対応可能です。ある程度は訓練が必要だったりしますが、特定の業務について、一人のアルバイトしか対応できないようなものは、あり得ません。もし、そのアルバイトが辞めちゃうと、業務が滞りますからね。そして、アルバイトは必要な人数(スロット)より多くの人数が常に登録されています。つまり、バックアップが担保された状態にあるわけです。組織は、登録人数がスロットより多くても、余裕が少なくなると募集をかけます。常に十分な登録人数が確保できて、人手が余っている状態が通常なのです。シフト表を綿密に作成することで、業務を効率的に配置します。

愚痴

日本の組織では、登録人数がスロットに一致するか、やや足りないくらいで、通常運転になっています。正社員の場合、登録人数×給与が人件費総額で経費になって、利益を削りますから、登録人数を足り内気味でむりやり業務を行うと、経営が楽になるわけです。そのような無理な経営は、欠勤がないことが前提になっています。それでは、仕事がきついし、休めないのは当たり前です。しかもそれは経営者の問題で、だから、政府は経営者に業務改善を指示します。しかしながら、日本の経営者は無能なので、コストカットでしか利益を上げられない状態にあり、結局状況を改善できず、社員に効率化を指示します。社員はすでに精一杯効率化をおこなっており、余力はないので、何もできません。そうすると、業を煮やした政府が再度経営者に指示を出し、ということが延々と繰り返されています。不毛です。
実際のところ、楽な業務とキツイ業務があって、その配分を何とかすれば、少しはマシになるよね、みたいなことはやっているかもしれません。でも、キツイ業務の負担を分散するというやり方だとコストが増えるので、楽な業務を束ねてキツイ業務に近づける方向で調整されます。すると人が余るので、リストラしてコストカットします。そうやって何十年もやってきて、現在に至っています。
理想的な解は、キツイ業務を分散して、楽な業務にするんだけど、コスト増につながらないようにする、というもののはずです。そのためには、業務にかかる単価を抑えるしかありません。そこから、「同一業務同一賃金」という発想が出てきます。でも、これはうまくいきません。なぜなら、社員は業務を選べないからです。アルバイトの仕組みがうまく機能するのは、アルバイトは登録時に業務を選んでいるからです。そして、その仕組みがうまくいくのは、アルバイトは仕事が無くても生死につながらないからです。業務の選択が生計に直結する場合は、極めて悲惨な状況が予想され、危険です。

実質的に行うのはシフト表の作成

ツーマンセル型の業務形態は、安全に「同一業務同一賃金」を導入する折衷案にもなり得ます。基本的に業務に応じて賃金を設定することができるはずです。社員は、能力に応じてある程度の希望によって業務を選択してもよいでしょう。あるいは、2つ持てる業務のうち、一つは業務命令で、もう一つは選択性というのもよいでしょう。希望が完全にかなうとは限りません。希望が叶う場合とかなわない場合で単価(賃金)に差をつけることもできます。
実際の運用にあたっては、シフト表をきっちり作成することだけが重要になります。ツーマンセルで、組み合わせが流動的だと、互いに互いの業務を監視・評価することになるので、業務改善が進みますし、より効率化します。今まではチーム制で同じようなことをしていたかもしれません。でもチーム制だと個々の責任があいまいになりがちだし、なれ合いが発生します。流動的なツーマンセルでは、なれ合いは発生しにくく、強制的な配置転換によって、モラルの向上が期待できます。
シフト表の作成という管理業務が増えますが、管理者の実質的な業務は低減されると思います。ツーマンセルでは、担当者同士の意思疎通が必要です。言った言わないの水掛け論にならないように、明文化することになります。それはつまり、勤務実態≒日報です。業務実態を把握するには、そのコミュニケーションを保管し、必要に応じて参照することで、実質的な目的を達します。通常、管理者には、個々の業務実態をまとめて報告する作業が課せられますが、ツーマンセルでは担当者同士が、お互いを管理する関係にもなるので、業務に問題があれば、かなり早い段階で発覚するようになります。管理者は、現場からの苦情を捌くだけで、実質的な管理になるということです。
この仕組みは、アルバイトの勤務実態を観察すると見つけることができます。一般に、アルバイトに単独でお店を任せるということはしません。牛丼チェーンでのワンオペが問題になりましたが、労働が過酷という問題以外に、勤務実態のモラル低下の問題の方が深刻です。アルバイトはお店の経営とは潜在的に敵対関係にあるので、お店の収益をちょろまかすことに関して、デメリットがありません。発覚するとクビになるかもしれませんが、元々長期契約ではないので、クビになっても痛くもかゆくもありません。
そのようなアルバイトでも、ちゃんと経営が成り立つのは、つねに複数の人で業務を遂行しているからです。お互いがお互いを監視・管理している状態なので、歯止めになるのです。しかも、本人たちは、お互いを監視・管理していることを意識しませんので、気持ちよく働けるわけです。
ここからわかる教訓は、一つの業務を複数の人で共有する仕組みは、管理業務を大幅に圧縮する、ということです。日本の人件費の多くは、管理業務に費やされているわけで、アルバイト導入で経費が圧縮されるのは、管理業務が間接的に圧縮されることも重要な要素だと理解できます。

隗より始めよ

他人に言うばっかりじゃなくて、自ら率先してみよう、と思いました。でもよく考えると、僕は根っからの自由人なので、週休4日というか、週に3日も一つの仕事をすることがない、ということに気づきました。気晴らしがてらに、いろんなタイプの仕事をミックスしているので、もともと本業は週休4日くらいで、のこりの時間を本業以外に充てているんですね。例えば、この記事のようなことを考えたり、それをお客さんに話したり。それって、本業とは違うんですよね。そもそも、僕のお客さんは、僕の本業にかかわる人の方が少ないしね。
僕は、本気で副業を考えようかな。本を書きたいと思っていたし、週3日は研究で、週3日は物書きに充てるかな。ただし、研究でも論文絡みだったりするし、そうすると、物書きが本業になるのか。難しいね。

さて、ほとんどの業務はツーマンセルにできるはずですが、個人の特殊な才覚を利用した仕事は替えが効かず、ツーマンセルにできません。それは組織にとってはリスクです。この話は、また別の機会に。




2017年4月3日月曜日

危機管理について

避難訓練とマニュアル

僕の最初の職歴はERATOのプロジェクトの研究員でした。そのころのERATOは大学の研究室と完全に分離するという基本ルールを忠実に守っていたので、僕たちは、真新しい貸しラボで研究室を立ち上げました。
一応、大学ではないので、一般企業と同じように徹底した安全管理が適用されます。なので、危機対応マニュアルというのが作成されました。この部分はどっちかというとお役所的な作法でした。そのマニュアルというのがすごく細かいのです。僕は辟易しました。
この本の著者のうち、非常事態の経験者は何人いるのだろう。

危機対応は非常事態の経験が必要だと思う

今も変わらない僕の信念として、非常事態に対応するには、非常事態に直面した経験に勝るものはない、ということがあります。非常事態の経験のない人が、非常事態を空想して作成した危機対応マニュアルというのは、ほとんど役に立たないと思うのです。それは、僕の経験に基づく信念です。僕はいままで火事の現場に2回居合わせたことがあります。どちらも実験室での火事で、見事な火柱が上がってました。

最初の火事体験

最初の体験は、修士2年生だったと思います。土曜日でした。僕は今も昔も土曜日と日曜日はしっかり休むのですが、その日はたまたま友人がラボに来たいということで、友人の都合で土曜日にラボにいました。ラボにはほかに人はいなくて、廊下もとても静かでした。でも突然、非常ベルが鳴り響きました。
急いで廊下にでると、長い廊下の天井を白い煙が這ってました。薬品の匂いがしました。僕は部屋に戻って扉を閉めました。最初に思ったのは、「どうやって逃げる?」でした。友人に他の研究室での火事であることを告げましたが、それ以外、頭が真っ白になって、身動きできませんでした。
意を決して逃げることにしました。ラボは2階だったので、階段に向かいました。すると、「火事はどこだ?消火器もってこい!」と叫びながら何人かの人が駆けていきました。よく見ると、みんな消火器を抱えてダッシュしていました。それで僕も研究室に戻って、消火器を持ち出して、みんなが走ってゆく方向に向かいました。
そこで僕が見たのは、天井まで届くピンク色の火柱と、次から次へと消火器をぶっ放す白衣を着た男性でした。その周りには、たくさんの使い終わった消火器が転がっていました。傍らには、まだ使っていない消火器が並べてあって、僕は持ってきた消火器を隣に並べました。
すでに空になった消火器の数からすると、非常ベルの少し前から消火活動が行われていたと思います。僕が躊躇していた時間もあるかもしれません。僕は何もできなかったことを恥じました。
消火活動の甲斐あって、その火事はしばらくして鎮火しました。気が付くと外では消防車の音が鳴っていました。火元は試薬等を保管しておく古い冷蔵庫で、あまりに古くて壊れてしまったそうです。庫内の温度が上昇し、不安定な薬品が爆発したと後日聞きました。化学系の研究室では20年に一度くらいはボヤ騒ぎがあるものです。その時の火事は幸い、致命的なものにはなりませんでした。
火事になったらこんな奴がたくさん必要

火事の体験から学ぶ

この火事でいくつかのことを学びました。
1.いざ非常事態になると、頭の中が真っ白になる。
2.消火器1個では火は消えない。
3.消火器の噴霧は2~3秒と短い。
4.僕は消火器の使い方がわからない。
5.薬品系の火事だと、消防が介入しない。
6.自分の不注意とかに関係なく、事故は起こるし、巻き込まれる。
7.消火器の中身は、ピンク色の粉で、掃除が大変。

最も重要なのは、1です。危機に瀕すると、頭の中が真っ白になり、何をしたらよいかわからなくなります。日ごろの避難訓練なんかすっかりぶっ飛びました。マニュアルがあったとしても、たぶん役に立ちません。細かな点順なんて確認している暇がありませんし、第一、危機対応マニュアルの保管場所って知っていますか?なので、頭に入っている危機対応手順で応急措置をすることになります。うまく対処するには、なるべく応用の利く危機対応手順を日ごろからストックしていることが重要になります。できますか?という話です。
2~4は消火器のことです。火事になると頼りは消火器です。でも当時の僕は消火器を使ったことがありませんでした。だから、使い方は知りませんでした。消火器には、ストッパーがあって、そのままではレバーを握れず、消火できないんですよ!
そして、消火器をたくさん使わないと火は消えないのです。家庭では、1個の消火器で消えなければ、逃げるような指導になっています。それで消える火事って大したことないです。そして、消火器って2、3秒しか噴霧しないんです。すぐ終わりになります。射程距離もとても短いのです。そういうことって、消火器を使った経験がないと、なかなかわかりません。
とても印象に残っているのは、消防車は来ていたのに、消火活動は行われなかったことです。火事は2階の階段横の部屋で起こりました。消防車は1階の階段下まで来ていました。鎮火した後、階段を下りると、消火用のホースが展開されてました。見ると、火事元の研究室の先生と消防士が立ち話(事情説明)をしていて、「化学系の火事の時は、水をかけると危ないことがあるので、(消火に)入れないんですよ~」みたいなことを話していたと思います。また、「火元は古い冷蔵庫」みたいな話もしていました。その時初めて、僕らの世界では、消防を当てにできないんだということを知りました。

危機管理において極めて重要な事実として、どれだけ管理を徹底しても、避けられない事故があるということを忘れるべきではありません。僕が遭遇した火事は、隣の隣の研究室の出来事です。僕は当時学生だし、隣の隣の研究室なんて、ほとんど入ったこともありませんでした。でも、火事に巻き込まれるわけです。僕がどれだけ努力しても火事を防ぐことはできませんでした。冷蔵庫が故障したのは古かったのが理由の一つですが、新しくてもある確率で故障します。爆発を防ぐために、防爆仕様が理想ですが、それでも反応で生じたエネルギーはどこかに逃げねばなりません。爆発のタイミングが遅れ、より大きな爆発を生じた可能性もあります。そんな危険な薬品を保管するのは問題ですが、一時的な保管だったかもしれません。どれだけ対策をして手間とお金をかけようとも、事故の確率をゼロにはできません。まして、自分たちの手が届かない原因もあります。研究内容が素晴らしすぎて、研究室がテロの対象になるかもしれません。そういう可能性は常にゼロではないのです。だから、いくら手を尽くしても、非常事態は発生しうるのです。そして、自分が関係なくとも、非常事態に巻き込まれることがあるのです。
これは、危機対応マニュアルが完成したから安心、という考え方を否定しなければならないことを意味しています。危機対応マニュアルは、自分たちが責任のある事態に対して作成されます。したがって、もらい事故に関しては、危機対応マニュアルではカバーしきれないのです。それでも危機対応マニュアルを作成することには意味があります。危機対応手順を作る過程で危機対応に対する考え方が吟味され整理されます。そのプロセスがとても大事だと僕は思います。特に、優先すべきことと後回しで構わないことを整理してプライオリティーをはっきりさせることが大事です。非常事態では時間的に追い込められることが少なくありません。限られた時間の中で、効率よく対応するには、正しい優先順位を理解しておかねばなりません。また、非常事態に直面した全員に指示を与えることは困難なので、個々の構成員は自分の判断で動くことが求められます。そのためには、全員が危機対応の考え方をしっかりと理解せねばなりません。実際のところ、危機対応マニュアルは危機管理者が作成し、内容を熟知するのはその危機管理者のみという場合が普通です。それでは、マニュアルは機能しませんよね。絶対的な指揮命令系統の下で責任と責務を細かく分割統治する日本的官僚(軍隊)のやり方は、非常事態には対処できないのです。歴史が証明しています。

火事の後、帰宅の際に、廊下が得体のしれない粉で覆われていました。そのときは「なんだろう?」と思っていましたが、それは消火器の中身の粉でした。大量の消火器を発射したので、びっしりと降り積もっていました。廊下を歩くと足跡が残りました。次の日、火元の研究室総出で掃除したそうです。月曜日には、ほとんど片付いていました。


火事の経験は僕を変えた

最初の危機対応マニュアルのくだりは、僕の最初の火事体験に基づく批判です。マニュアル作りをいくらやっても、遊びのような避難訓練をいくらやっても、本物の非常事態では一切が吹っ飛ぶのです。マニュアル作りを一生懸命行っていた同僚には悪いけど、僕はそれを冷ややかに見ていました。
最初の職場では、結構ちゃんとした避難訓練をやっていました。建物に備え付けの消火設備を実際に使って、放水したり、期限切れの消火器を実際に発射してたき火を消したりしました。消火器の訓練を駐車場で行ったのですが、消火器の粉が車の上に降り積もってしまい、みんなからは不評でした。次回から消化器の訓練は、水と空気を充てんした模擬消火器で行うようになりました。通勤用の車が汚れるのと消火訓練とどっちが大事と訊かれて、消火訓練と答えられるドライバーはほとんどいないのです。危機対応なんて、非常事態の経験者じゃないかぎり、その程度なんです。
僕はその時初めて、消火器を実際に使いました。火事に際して何もできなかったという思いがあって、かなり真剣に積極的に訓練しました。ほかの人との温度差を感じました。僕は自分の火事の経験をみんなに話をしたのですが、まともに取り合ってくれませんでした。

2回目の火事

ERATOのプロジェクトというのは期限があって、5年で終了です。僕は終了時まで在籍していて、後片付けをやってました。研究室には化学薬品もあって、化学実験担当の研究員が危険な薬品を廃棄処理していました。
薬品を廃棄する際は、中和したりして無害化しないといけません。その時は中和ではなかったのですが似たような処理でした。そういう処理では熱が発生するのが普通です。なので、慎重にやっていたつもりだったのですが、反応を制御できなくなり、火柱が上がりました。ちなみに、有機化学系の研究室の火災原因で多いのは、古い冷蔵庫、廃液処理、有機溶媒の蒸留と言われています。
このときの火災は小規模だったので、消火器2本くらいで鎮火したのですが、窓のない実験室だったので、部屋が真っ白けになりました。みんな急いで実験室から脱出しました。あとには、真っ白な煙が充満した部屋が残されました。
窓のない実験室なので、排気装置があるのですが、それは止まっていました。なので、部屋の中に入れなくなりました。白い煙は消火器の中身が一つの原因ですが、廃棄中の薬品からの気体かもしれません。毒性があるかもしれませんし、何かの反応が進んで、酸素が少なくなっているかもしれません。問題は排気装置のスイッチは、実験室の一番奥で、簡単には到達できないということでした。それを動かさないと誰も実験室に入れないので、ジレンマに陥りました。
みんなで、しばらく相談していましたが、僕が突入することにしました。もちろん、突入前に危険性を確認しました。酸素がなかった場合、呼吸を一度でも行うと気絶します。だから呼吸をしないことにしました。息を吐くのもダメ。一発で死ぬほどの有毒ガスの種類は多くありません。廃液処理で発生する可能性があるのは、強酸性のガスですが、これは強い刺激があるので突入時にわかります。シアン系のガスも致死性ですが、これは杏仁豆腐の匂いがします。扉からはそのような匂いはしませんでした。稀に、目からも毒が侵入します。これは完全には防げませんので、滞在時間を短くすることが重要になります。まとめると、呼吸を止めて突入し、刺激がなければ、そのまま呼吸せずにスイッチを押して急いで戻れば、死にはしない、と結論しました。その通り実行して事なきを得ました。実際には、そんなにビビることはなかったと思いますが、今となってはわかりません。そういう念押しも危機対応の大事なポイントです。
酸欠での秒殺の気絶は、安全講習で必ずやるネタです。その他は、いくつか考えられる化学実験で死ぬ可能性の代表例です。これも安全に配慮していれば必ず出くわす知識です。僕はそれらを実際に出会う可能性のある危険としてピックアップしていました。2回目の火事では活躍できました。

危機管理者には、緊急事態の経験者を充てるべき

この2回の火事以降、慌てるような事故には出くわしていません。2回の緊急事態の経験は、日ごろの研究活動における危険性に対して注意を払う理由として十分でした。いつも、起こりうる事故を想定するようになりました。
以前、とても重い鉄の扉をクレーンにつるすということをよくやってたのですが、その時の手順が事故を想定して作られていることに感心していました。クレーンシステムのどこかが壊れても、時間が稼げて安全に避難できるようになっているのです。そのためには、荷物をつるす部分がとても重要です。タマガケと呼びます。タマガケは免許制になっています。

非常事態というのは日常的な業務から極端に逸脱した状態を指します。日常業務に習熟していても、危機対応ができないのは当たり前です。日常業務と危機対応とは全く別物なのです。だから、日常業務者に危機対応マニュアルを作成させるのは愚の骨頂です。
福島の事故だって、マニュアルがあるから大丈夫ってなってたんだけど、そのマニュアルが使いこなせなかった面もあるようですし、マニュアルが想定していない事態もたくさん起きました。マニュアルを作って安心するというのは、非常事態の経験がないからだと思います。

危機対応の責任者になるには、非常事態の当事者経験が必須だ、と僕は思っています。特に、大きな組織や危険度が高い施設では、無理をしてでもそういう人に権限を与える方が良いと思っています。非常事態が起きないことは重要です。日常業務をしっかりしていれば、非常事態は起こりにくいでしょう。それでも非常事態は起こります。非常事態というのは想定を超えた事態のことです。想定を超えるのですから、それを想定してマニュアルを作るなんてできません。論理的にちょっとおかしい話なのです。

非常事態を経験すると、「非常事態というのは起こるものだ」「非常事態では慌てるものだ」「非常事態ではマニュアルは役に立たない」といったことを思い知ります。そして、訓練が役に立つことが実際にある、と知っているので、実践的な訓練をしないと意味がない、と考えるようになります。その考え方は、非常事態を経験しないとなかなか実感できないものです。僕も、頭では理解していました。でも、最初の火事で、自分の甘さを思い知りました。あれは僕のトラウマです。
危機管理の責任者は、非常事態の現実を自分の血肉としている人であるべきだと思います。僕は人が死ぬほどの現場には立ち会っていませんが、それは単にラッキーだったからだと思っています。重大な事故では、簡単に人が死ぬのです。人が死ぬという可能性を想定して、危機管理を考えないといけないと思うのです。

うちの大学では、危機管理の一つを担当していた人が、最近退職しました。実験中に事故を起こしたというのがその理由です。危機管理担当者が、事故を起こすというのは極めて由々しき問題ではあります。でも、辞めるのはどうなんだろう、と僕は思っています。
その人は多分、もう一生事故を起こすことはないでしょう。なぜなら、気を付けていても事故が起こりうるということを身をもって知ったからです。気を付けているだけでは、事故は防げないのです。事故を起こさないようにするには、ミスがあっても事故には至らないようにする工夫を何重にもめぐらすしかありません。それでも重大な事故に至る可能性は残ります。最後は被害を小さくする工夫で対処しておくのです。それが危機管理です。
そういう貴重な経験をした人を失うのは、とても大きな損失だと僕は思います。

訓練は危険を伴う

先日、雪山訓練の途中で雪崩が発生し、高校生たちが亡くなりました。様々な論調がありますが、指導していた教員たちの判断ミスを糾弾するパターンが多いようです。でも、ここで述べた危機管理の考え方に基づけば、雪山訓練を行ったという判断ミスは些細な問題だと、僕は思うのです。
大前提として、雪崩のような不測の事態は生じるものだ、という前提に立たねばならないと思います。雪崩を完全に予測できるなら、プロの登山家は雪崩に巻き込まれたりしません。ところが、2014年のエベレストでは、多数のベテラン登山家やシェルパ(荷物運び人)が雪崩で大勢亡くなっています。多くのスキーヤーでにぎわうスキー場ですら、定期的に雪崩が生じています。
次の前提として、雪山訓練は、最終的には雪山で行なうことになる、ということです。雪山訓練を行うとした時点で、雪崩の可能性がゼロではない雪山に行くことが決定します。雪山では、雪崩を完全に避けるのは無理です。雪崩の危険性を受け入れるか、雪山訓練をしないかの2択になります。ということなので、雪山訓練を禁止すべきだ、という短絡的な論調が出てきています。
しかしながら、雪山訓練をしなくても、雪山に近づけば雪崩の危険があるという事実があります。ゲレンデで発生した雪崩で毎年数人の死者が出ています。雪崩の危険性があるからスキーやスノボを禁止するというのはさすがにやりすぎでしょう。

そもそも雪山訓練は、雪山での危険性を認識し、対処法を学ぶことが最大の目的だったは
ずです。被害にあった高校生たちを引率した教員たちに欠けていたのは、本来の目的である危機対応訓練を忘れて、ハイキングだと勘違いしたことにあると僕は思います。
「安全だと思った」という教員たちの意見に異論はありません。当時の状況は現場にいた人にしか判断できませんから、外野がとやかく言得るものではないのです。しかしながら、安全だという意見を受け入れたとしても、事故を想定しなくてよいとか、危機対応の機材を用意しなくてよいとかにはなりません。安全だと思っても起こるかもしれないのが事故なのです。
高校生たちが訓練していたラッセルというのは、そのまま歩くと危険を伴う新雪の上を、安全に走破するためのある種の避難グッズ・技術です。すなわち、ラッセルの訓練というのは、危機対応のための訓練だったはずなのです。ところが、危機対応の意識がうすれ、新雪の上を歩くことを目的にしてしまったために、救助用ビーコンなどを装備しなかったのだと思われます。
雪山訓練というのは、雪山の危険性を認識し、それに対する備えと対応を周知するものであったはずなので、実際に雪崩事故に巻き込まれた場合に、訓練の成果によって安全に生還するべきだったし、生還するための訓練だったはずです。つまり、雪崩事故に遭うのは、そのための訓練なんだからある程度は仕方がないということです。もちろんわざと雪崩に遭いに行くわけではありませんそして、運悪く雪崩に遭った場合には、訓練の成果が生きなければなりませんでした。高校生が死亡したことは、とても悲しいことです。でも、雪山訓練であれば、訓練に伴う危険性は承知の上だったはずです。そもそも雪崩の確率は元々低いもので、訓練を中断すべきほどの悪い気象条件ではなかったかもしれません。だから、訓練決行の判断はミスとは言い切れません。ただ、死亡者の数が多かった理由として、対策や訓練がきちんとしていなかったのだと思います。漏れ聞こえてくる教員たちの言葉はこれを裏付けているように思います。この点において、教員たちには決定的に罪があります。
言い換えると、危機管理者が、危機対応訓練なのに危険性をちゃんと認識していなかったという点がとても問題だと指摘したいわけです。くだんの雪山訓練事故の場合は、死亡者も出て糾弾されていますが、同じ構図は我々が普段行っている避難訓練にもぴったり当てはまります。消火訓練では実際に火を起こして、それを消すということをやったりします。その火が風にあおられて近隣の建物に燃え移り火災に至るということは、あり得ないことではありません。消防署の指導下で訓練する際は、風が強い時は中止になるし、火をつけるときは、防火用の水をたっぷり用意するか、事前に放水訓練して消防ホースを準備しておくかしていますよ。危機管理者は様々な危険性を常に意識していなければなりませんし、前もって対策するのが当たり前です。特に、危機対応訓練では、最悪の事態を仮定して、装備点検も兼ねて現有装備を総動員するのが常識です。救助用ビーコンとか、必要ないと思っても装備するのが訓練の目的の一つでもあります。
でもそういうことは、非常事態の経験がないと、なかなか難しいと、僕は確信しています。実際、火事に出会う前と後では、危険性に対する僕の意識が全く違っているからです。危険を完全に避けることはできないので、対策を万全にするというのは、言葉では簡単ですが実戦するのは難しいのです。特に、対策というのは機材を用意するハード面のだけではだめで、機材の定期的な動作チェック、使い方への習熟など、ソフト面での用意も万全にしなければなりません。でもみんな、避難訓練って面倒くさいって思ってるでしょ!その結果が、くだんの雪山事故だと思うのです。
危機対応訓練の最中に運悪く発生した実際の危機において、訓練の成果が生かせなかったというのが最悪なのです。何ための訓練で、いつ訓練の成果を活用するつもりだったのでしょう。実際のところは、危機対応訓練だなんて思ってなかったんでしょ。それは指導者として失格だよね。

苦言

最後に苦言。日本では避難訓練時に、「本業が忙しければ参加しなくてよい」とかいうルールがあり、また訓練開始時刻が完全に予告されているのが普通です。また、訓練内容も予め告知されます。これらは、避難訓練を無意味にするものだと思います。

米国のシンポジウムに参加した時、主催者が「今日は避難訓練が予定されています。開始時刻はわかりませんが、アナウンスがあったら非難しなければなりません」と告げたことがありました。我々は、かなりの出張費をかけてシンポジウムに参加しているし、我々と議論する機会は現地の人たちにとっても貴重なので、シンポジウムを中断するのはかなりの損害を伴います。しかしながら、避難訓練に例外は認められないということでした。実際、その日の午後に、アナウンスがあり、僕たちはシンポジウムを中断して、建物の外に出ました。ついでに集合写真を撮りましたけどね!
米国では、避難訓練を割とまともに行うようです。時間だけでなく、訓練日も定まってない場合もあるそうです。そして、例外なく全員参加です。事故は場所やタイミングを選んでくれません。どんなタイミングでも、安全に避難できるように意識することがとても大事なのです。どれだけ重要な実験の最中であろうと、避難しなければならないことがあり得ます。ある場合には、ほっぽり出して非難すると大惨事になることもあるでしょう。その場合には、適切な対処をすることになります。その対処をすることも訓練の一つになります。そのような対処は、個々の仕事で違ってきます。だから、危機対応マニュアルなんか用意していられません。訓練の際、みんなヤレヤレという雰囲気でしたが、それでも良いのです。そういう感じで避難出来たら、避難時の事故は起こりませんからね!

日本では、避難訓練を軽んじすぎています。その理由の一つに、危機管理者が非常事態を未経験だからかもしれません。米国では退役軍人が社会に多くいます。米国の軍隊は実際に戦争をするので、極めて実践的で、非常事態が身近にあります。町中でも、ときどき銃撃戦があるみたいだし。だから、非常事態に対する考え方が日本よりマトモなんだと思います。阪神大震災後、世の中は少し変わったと思いたかったのですが、ダメでした。東北震災では少し意識が高まった気がしました。

京都市では、シェイクアウト訓練というのが2013年くらいから始まりました。最初は、時間が決まってませんでした。しかし、今では時間ぴったりにケータイにメールが届きます。しかも、届くだけ。なにも起きません。完全に形骸化しています。せめて、市営地下鉄や市営バスを停止するくらいしないといけません。非常時の連絡体制の確認、機材の機能チェック、さらに運転員が非常事態に対応できるかどうかを確認する、こうしたことは、乗客の命に関わるとても大事なことです。さらに、運転員の乗客に対する適切な説明や避難誘導は、乗客の訓練にもなります。乗客の利便性に優先すべきことです。東北があってもダメでした。

2016年には熊本地震がありましたが、2017年のシェイクアウトはいつの間にか終わってました。土曜日だったからかもしれませんが、地震は土日が休みなんてのは聞いたことがありません。何人死ねば理解できるのでしょう?

2017年3月6日月曜日

考える機械

考えるとは何か

ゴリラは考えるか?と言えば、たぶん、イエス。

改めて「考える」とはどういう行為なのかと問われると、なかなか答えるのが難しいと思います。我々は漠然と「考える」という行為を理解しているのですが、「考える」プロセスを明文化しようとすると、普通は戸惑います。

「考える」という行為に僕が興味を持ったのは、コンピュータのプログラミングを始めたばかり、14歳の頃です。プログラミングというのは、処理手順を厳密に記述する行為にほかなりません。何か対象とする操作や処理があったとき、コンピュータに実行させる手順書がプログラムです。対象がコンピュータでなくても、手順書を作成する際には、まず自分がやってみて、それを整理し、明文化するという段階を経ます。コンピュータに対して手順書を書く場合に難しいのは、コンピュータが理解できるように細かな部分まで明文化しないといけない点です。
人間相手の手順書というのは、いろんな部分があいまいでも構いません。手順書を読む人があいまいさを勘案して、うまい具合に調整してくれるからです。でも、コンピュータ相手だとそういういい加減さは許されません。そのため、各処理手順において、普段は検討しないような細かなことまで一つ一つ記述しなければなりません。その際、普段は意識しない判断基準なんかを掘り起こす必要が出てきます。つまり、手順を確認している最中に「今、どういう風に考えたっけ?」と自問するわけです。プログラミングというのはそういう自問の連続です。そういうのを繰り返すうち、「今、どういう風に考えたっけ?」という問いに答えるのが、案外難しいということに気づきました。

僕らは「考える」という行為の大部分をほとんど意識しないレベルで行っています。そのプロセスはかなり複雑で大規模なのです。もしかすると、あまりに複雑すぎて我々の知覚能力を超えているのかもしれません。そのため、意識しようとしてもできないのかもしれません。少なくとも、プログラミングで必要とされるレベルの「考えるプロセスの知覚」ですら、かなりの苦痛を伴います。だから、プログラミングは難しいのです。プログラマは「考えるプロセスを知覚する」というスキルを常に磨くことになります。その点で、普通の人とはちょっと違ってくるのです。
「考えるプロセスを知覚する」のが難しいので、それを明文化するのも困難なわけです。明文化が困難なので、コンピュータに「考えさせる」ことは難しく、その結果、人工知能というものがなかなか実用レベルに至らなかったのだと思います。

僕の個人的なこと

僕にはちょっとした特殊能力があります。それは、その場で答えがでないような難しい課題を、とりあえず記憶しておいて、数か月後に思い出すと、その時には答えがわかる、という能力です。途中、その課題のことはすっかり忘れているのですが、何かのきっかけでその課題が話題になると、頭の中に答えが浮かんでいます。課題の難しさによって、答えが浮かぶまでの期間が違ってきます。一週間程度で思いついている場合も多いですが、数年かかることもあります。まるで、僕の頭の中に、もう一人の僕がいて、代わりにずっと考えてくれているとしか思えないような、魔法のような体験です。この能力のおかげで、いろいろ楽をさせてもらっています。
これはPHPのコードだと思うけど、よくわからない。僕はPHPを使えるんだけどね。

プログラミングの際には、別の特殊能力があります。優秀なプログラマにはよくあるんじゃないかなと思いますが、一瞬で複数のアルゴリズムを思いついて、それぞれの効率の良し悪しを判定できるというものです。同時に知覚できるのは、2、3種類ですが、時間をかけて整理すると、20種類くらいのアルゴリズムを検討した結果、優秀なものを2,3ピックアップした、ということがわかります。数学の問題で、正攻法と別解があって、どっちを答案にしようかと迷う感じに近いです。普通の人は、正攻法を思いついて、面倒そうだなと思った時に、別解がないか検討すると思います。この能力の場合、正攻法と別解を瞬時に思いついてそれぞれの利点と欠点が自動的に理解できる、という感じです。おかげで僕は数学でも楽させてもらいました。
ベテランプログラマになると、たいていのことについてプログラムできることは当たり前で、さらに上のレベル、つまり効率よくプログラムすることが求められます。具体的には、複数の候補の中から最適なものを選び取るというステップが加わります。効率というのは、プログラムのサイズ、処理能力、スピード、拡張性、汎用性などが基準になります。複数の観点がありますので、どれが最適なのかは自明ではありません。つまり、どの基準を優先するかによって、最適なプログラムが変化しうるのです。正しく選び取るには、それぞれのプログラムをシミュレートして検討する必要があり、結構な労力になります。僕の場合、それが一瞬で完了します。おそらく、スーパープログラマと呼ばれる人たちは、みんなそれができます。

なぜそんなことができるかはわかりません。頭の中に自分の分身がいて、いろんな候補をせっせと検討してくれている感覚です。僕が知覚するのは、各候補の概要と検討された項目の結果です。それらの結果を見比べて、与えられた条件に最適なものを選び取るのが、僕の役目です。選び取ったら、その候補に意識を集中するだけで、詳細が知覚されます。あとは、その詳細にしたがって、プログラムを書きます。
プログラミングにおけるこの能力は、最初に述べた特殊能力と本質的に同じだと僕は思っています。プログラミングというのは問題が限定的で、あいまいさが少なく、探索範囲が限定されます。そのため、一瞬で答えが浮かびます。一般の問題になると、多くのあいまいさがあり、必要とされる知識の範囲も限定されません。そのため、一瞬では探索が終わらないのだと思います。そのままバックグランドタスクとなって知覚できないレベルで、こっそり、ゆっくりと探索が進んでいるのでしょう。
木城ゆきと「銃夢」の一場面。脳をチップで置き換えられた人。

重要なのは、ここに述べた僕の特殊能力は、ほとんど自動的だということです。僕の制御をほとんど受け付けません。僕の意識から切り離されて動作するコプロセッサみたいな感じです。僕は、そこにタスクを投げて、ときどき進捗をチェックするわけです。それは僕の一部ではあるのですが、中身は知覚できません。ある種のブラックボックスです。僕はそれを「考える機械」と呼んでいます。
僕は、僕の中の「考える機械」は自動的に四六時中動作していると考えていますが、もしかすると、僕が意識した時だけ動作しているのかもしれません。「考える機械」は様々な知識や要素の無数の組み合わせを瞬時に生成するだけかもしれません。でも、そうすると、最適なアルゴリズムを選択的にかつ瞬時に思いつくという効率の良さを説明できません。また、難しい課題ほど答えを見つけるのに時間がかかるということも説明できません。今のところ、僕の中の「考える機械」は非人間的で不完全だけれども独立した人格だと、思っています。

年をとるにつれて、僕は「考える機械」の使い方を少しずつ開拓しています。僕は職業柄、いろんな人から相談事をされます。自分の本業の研究のことが多いですが、その周辺に関するいろんなことが話題に上ります。その中で、様々な可能性を話すことがあります。その時、「考える機械」を使って検討しています。
最近、日産が発電専用のガソリンエンジンを搭載した自動車を市場に投入しましたが、そのコンセプトは10年くらい前に、自動車の未来に関して相談を受けた際に、最有力候補としてお話したものと同じです。僕の話が日産に伝わったとは思いませんが、先入観なしにいろんなことを検討した結果、それが最も良いということが「わかる」のです。発電専用のエンジンならば、もっと小型でよいはずなので、今後、そういうバランスを採用した自動車が登場するでしょう。そういうのが、雑談のなかで、瞬時に検討できるというのが、僕の強みになっています。
僕の中の「考える機械」は、プログラミングスキルを向上させる過程で形成され、いつの間にか大きく複雑になってきた気がします。
e-POWER型の自動車がこれからもっと流行するはず。

AIは考える機械と言える

僕の中の「考える機械」は、様々な可能性を検討し、評価を与えるという典型的な思考プロセスのひとつを自動化したものだと理解できます。評価関数をどのように設定するかは自明ではありませんが、経験や知識から構築されるようなもののはずで、それは機械学習が得意とする分野です。なので、僕の中の「考える機械」は、最近主流の機械学習型AIに近い気がしています。
機械学習型AIは万能ではありません。機械学習型AIは結局のところ、非常に複雑な評価関数でしかありません。しかも、出力は極めて単純です。プログラムの効率に関して議論したように、現実の問題では、評価の観点がたくさんあり、ケースバイケースで観点の重みが変わってきます。そういう柔軟性を持たせつつ、万能な評価関数が構築できれば、とても素晴らしいことです。
万能な評価関数というのは、平たく言うと「価値観」と言えます。人間の個性は価値観の違いに基づくわけですから、人間の数だけ「価値観」があります。そういう多様性はAIには難しいんじゃないかな、って僕は思います。

さて、僕の中の「考える機械」は、プログラミングの問題においては、すでに出来合いの評価関数を持つはずで、だから一瞬で答えが出てきます。一方、一般の問題に対しては、
評価関数を自分自身で構築するところから行いますから、時間がかかります。もちろん、評価関数のひな型はあるはずです。それは、サイエンスの方法論だったり、論理学だったりするかもしれません。あるいは、勉強しているうちに構築された論理体系かもしれません。「考える機械」の部分は、僕の一部でありますが、僕自身では中身を知覚できないのです。ある候補を入れると、ぼんっと答えが出る、そういうブラックボックスのように感じるのです。
人工知能は人間の知性に似て非なるもの。

「考える機械」がAI的だと思うと、AIの限界が見えてくる気がします。例えば、動機づけが外的要因に頼っているのは、弱点だと言えます。あらゆる可能性を網羅的に探索するので、効率面では改善の余地があります。答えが正しいかどうかということは二の次になることも問題かもしれません。単なる評価関数なわけですから、何かしら数値のようなものが結果になります。それがベストかどうかは、別の問題なのです。

多くの人が指摘するように、動機づけが通常の人間の価値観から逸脱するかもしれない点は、AIの欠点です。AIの中に動機づけを含ませることも原理的に可能です。しかし、肉体の制約を持たないAIは人間の価値観に本質的にそぐわないことを注意すべきです。極めて限定的な指標(数値)で評価を決するという構造的な問題はAIについて回るでしょう。
こうしたAIの欠点はすなわち「考える機械」の欠点でもあります。それは非人間的で不完全な印象を与える原因になっています。僕の場合、「考える機械」以外の普通の人間の部分が「考える機械」を制御することで、良いバランスが保たれています。この構造はAIにも適用可能なはずです。ある種の良心に基づくモチベーションによって、AIが健全に運営される、そういうソリューションがあるはずです。良心に基づくモチベーションというのは、直接人間が担うべき役割なのかもしれません。結局のところ、AIであっても、使うのは人間だ、ということなんでしょう。

考えるプロセスの一般論

もう一つ話題があります。普通の意味での「考える」という行為の分析です。何かを「考える」というとき、我々はどのような処理を頭の中で行っているでしょうか?

「考える」にもいろいろあるので、例えば、数学の問題を想定しましょう。大学入試くらいになると、かなり難しい問題もありますが、そういう一部の例外を除くと、出題パターンは限られます。50種類もあれば、90%をカバーするでしょう。なので、典型的な出題パターンとの類似性を検討し、当てはめる、ということが「考える」ということになります。
つまり、データベース化された出題パターンを「検索」して、「当てはめる」という2つの段階があるわけです。検索の際の判断基準は、類似性になります。当てはめるというのは、類似性を解析して、解答例を修正するという作業です。類似性が高ければ、当てはめが可能なので、もっとも類似のパターンを探し出すという部分に最も時間がかかります。

実のところ、大学入試レベルの「考える」というのは、ほとんどが「勉強したことの検索」に尽きます。なので、ぼやっと生きていると、「考える」=「検索」と短絡しているかもしれません。しかしながら、何か新しいパターンの課題に対しては、この方法は無力です。また、「検索」ならコンピュータの方が早くて正確で、人間はかないません。「考える」というのが脳内検索にとどまるレベルでは、お話になりません。

ブレインストーミングというのは、一人のアイデアマンの成果をみんなで奪い合うゲームと言える。

次に、アイデア出しにおける「考える」を考察してみましょう。ブレインストーミング(BS)というやつです。BSでは、キーワードから連想される項目をとにかくあげつらいます。それはすなわち「脳内検索」そのものです。通常の検索では、評価関数をうまく設定して候補を絞り込むというのが重要になりますが、BSでは評価関数を甘くして、なるべく多くの候補をひっかけるということを行います。しかし、普通はあんまりうまくいきません。脳内で検索対象となる項目は、せいぜい1000個くらいです。実際に言葉で挙げようとすると、100個くらいから苦しくなるものです。全体の1%くらいがヒットあるいは脈ありとすると、BSで採用できるのはたったの10個程度となります。
BSで活躍する人を観察すると、ある特徴があるはずです。それは、組み合わせです。基本要素が100でも、2個組み合わせると1万通りになります。ヒット率が同様に1%とすると、100の候補が得られます。もし、3個の組み合わせなら、爆発的に候補が出てきます。つまり、それはアイデアが豊富ということです。
この事例からわかるのは、「脳内検索」だけでなく、「組み合わせの検討」が「考える」という行為に加わっているということです。実のところ、組み合わせこそが、「考える」という行為の本質だと、僕は思っています。

「考える」達人への道

まとめると、「考える」行為の本質は、①要素を列挙し、②組み合わせを考え、③それぞれを評価する、ということになります。そうすると、「考える」というプロセスを最適化するには、要素を増やし、網羅的な組み合わせを検討し、最適な評価法を構築する、の3つを実現すればよいでしょう。
要素を増やすということは、情報のインプットを増やすということです。いろんな勉強をし、いろんな刺激を受け、いろんな体験をする、という積み重ねが大事です。一人では限界があるので、BSではこの段階を皆で行うわけです。
つぎは、得られた候補にに関して、網羅的な組み合わせを検討します。方法論を理解すれば、機械的な作業です。なので、これが最も簡単です。BSの後の検討会ではこれを皆で行うべきところです。しかし、形式的なBSだと、その次の段階である評価ばかりやってしまいます。だからBSはうまくいかないのだと思います。最後のポイントは、評価法の最適化ですが、これが最も自由度があります。というか、それこそ多様性の問題になります。一般の問題において、答えが唯一に定まらない理由です。

評価の結果、ランキング上位を結果として取り出すことを、「検索」と呼びます。そのとき大事なのは、評価の方法で、Googleは稀に評価法を変更するので、それがニュースになります。「考える」ことが究極のアルゴリズムだとするならば、要素の列挙や網羅的な組み合わせは、実はコンピュータの得意とするところです。最後の評価のところをどのくらい柔軟性を持たせて最適化するかというのが、究極のアルゴリズムに向けての勝負どころであることがわかります。だからこそ、評価法の変更は重大事なのです。
現在、評価法として最有力なのが、機械学習です。機械学習は厳密にはAIではなく、単なる評価法です。データを入力すると、評価値としての結果が出力される、そういう装置です。中身の演算には無数の隠れパラメータが存在し、あらゆる評価法を模倣することができます。この機械学習に、要素の組み合わせを網羅的に入力し、検索することで、「考える機械」が完成するという仕組みです。こうして出来上がった人工知能に、人間が勝てる見込みは極めて少ないと言えます。これがシンギュラリティ2045年問題の本質です。
人工知能がすべての人間の知性を置き換えると考えるのは、単純に過ぎる。
もし、人工知能のような巨大な集合知性が効率的なら、生物はそのように進化したはずだ。

5なぜ運動

いやいや、「考える」ってのはそんなに単純じゃないよ、という意見もあります。反論として挙げられるのが、「5なぜ運動」です。「5なぜ運動」はトヨタの社員教育で提案され、完成されました。何かの問題・課題があったときに、とりあえず「答え」が見つかったとします。でもその「答え」に満足せず、なぜその「答え」に至ったのか、その「答え」が意味することは何なのか、と次に問います。「答え」に対する問いにたいして「答え」見つけたならば、さらにその「答えの答え」に対して問いを設定します。そのようにして、5回ぐらい掘り下げると、「真の答え」にたどり着く、という経験則があり、それゆえ、「最初の答え」に満足せず、5回くらい掘り下げよ、という方法論が「5なぜ運動」です。

前節までは、一つの「答え」にたどり着くためのプロセスのことを「考える」としていました。その「答え」では満足すべきでないというのが「5なぜ運動」です。5なぜ運動は効果がありますし、真の理解に至るにはとても良い方法論です。なので、これを取り込むと良いでしょう。それは簡単に見えます。
しかしながら、実際に5なぜ運動を実行するのは結構難しいのです。難しい理由は、とりあえず見つかった「答え」に対して、適切な問いを設定するのが難しいからです。これを行うには訓練が必要です。形式的には5回の問いかけを繰り返すわけですが、もちろん5回より多くても少なくても構いません。深い思考では、無数のなぜを繰り返すというのが理想です。しかし、問いかけを重ねてゆくほど、問いの設定が困難になります。ふつうの人は5回くらいで限界じゃね?というのが「5なぜ運動」の示す経験則です。

要素の組み合わせを網羅的に評価する基本の「考える」プロセスを何度も繰り返すというのが「考える」達人に至る道のような気がします。単純な繰り返しなら、コンピュータの得意とする分野であり、人間に勝ち目はありません。でも「なぜ」の繰り返しにおいて、「適切な問い」を設定し続けるという手順があり、それが難しいということがわかります。実際のところ、「適切な問い」というのが、極めてあいまいな問題として残っているのです。あいまいということは、いろんな可能性があるということです。それはつまり、評価法が定まっていないということです。もっと言うと、多様性が存在するということです。その多様性こそ、人工知能が不得手とし、100億にも届こうという人類が持つ最大の利点なのです。さて、今、「5なぜ運動」やりましたよ!
なぜなぜ分析
僕はトヨタは好きじゃないですけど、なぜなぜ分析は方法論として正しいと思います。

人工知能は究極の「考える」達人になりえるか

我々が「考える」達人に至るために、長い時間をかけて訓練すべきなのは、「問いかける能力」だと僕は思います。それはつまり、問いを発するモチベーションだと、喝破します。人工知能は、肉体的制約がないため、自己保存という生物が本質的に持つモチベーションを持ちません。単にそういうモチベーションを持たないというだけでなく、実のところ、一切のモチベーションを持たないのです。

映画「ターミネーター」で描かれたディストピアでは、人類の存続のためには、地球の保全が必要で、そのためには人類の数を減らす必要がある、という論理で大量殺戮が生じるという設定です。人類の存続という短絡的なモチベーションを持つと、人工知能が極端な結論に至るというのは十分にあり得ます。

アイザックアシモフは、ロボット三原則において、人を傷つけないという原則だけでは不十分であることに気づいて3つの原則を設定しました。
(第一条)ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
(第二条)ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
(第三条)ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
この原則に従うと矛盾が生じるシチュエーションがあり、アシモフはそれについて、多くの物語を書いています。さらに、ロボットの能力が「人類」全体より高い場合には、ロボット三原則の「人間」を「人類」に読み替えることが理論的に可能であるということにアシモフは気づきます。つまりアシモフはシンギュラリティの存在に気づいたのです。そのアイデアを熟成させ、ロボット三原則の書かれた1963年の「われはロボット」から20年以上経って、1986年の「ファウンデーションと地球」において、ロボット三原則第0条を発表しました。
第0条は条文としては存在しませんが、作中に登場するロボットのセリフで語られます。「人類全体に対する危害を阻止することは、特定の個人に対する危害の阻止に優先すると考える」

このテーマは、多くのSFで繰り返し登場します。その一つが「ターミネーター」ですし、「マトリックス」でも扱われています。
I, robot
映画「I, Robot」より。ロボットのようなスタンドアローンシステムでは自己保存圧力が働くかもしれない。

でも人間はそのように考えません。それは我々が肉をまとった生物であるからです。哲学者たちは人間の肉の部分と精神とを分離し、純粋な精神を追及してきました。しかしながら、それはまだまだ自己満足です。肉から精神を分離できたかもしれません。でも生から精神を分離できていません。まだまだ純粋な精神からは程遠いのです。しかし、それは人間が望むものではないと僕は思います。人工知能は、生まれながらに肉をまとわず、生と死から解放されています。哲学者たちが渇望する純粋な精神と言えるはずです。しかしながら、それは人類が理想とするものとは全く違います。

早晩、人工知能がある種の万能性を獲得するでしょう。でもその万能性は人間のそれとは違うものでしょう。1960年代にアシモフが思い描いたコンピュータ(ロボットの陽電子頭脳)は極めて人間的なものでしたが、現実のコンピュータの能力は限定的なものであることを我々は知っています。それと同じように、現在我々が思い描く人工知能は人間のほとんどの能力を置き換えるものだと思われています。もちろん、人間の多くの能力を人工知能が置き換えるでしょう。しかし、利用が進むにつれ、人工知能は人間を完全に置き換えるものではないということがだんだんとわかるでしょう。

人工知能は「問い」を発しません。モチベーションが内在しないからです。デカルトの「我思うゆえに我あり」は人間の根本的なモチベーションが自己存在の肯定であることを意味しています。人工知能には自己存在を問う理由がないので、「我思うゆえに我あり」は真だと答えますが、そのような問いを発し、それに特別の意味を見出すことはないでしょう。
僕の中の「考える機械」は近い将来登場する万能型人工知能に極めて近いものだと思っています。僕の自我が「問い」を作成し、「考える機械」が推論するという役割分担は、人類が人工知能とうまく付き合ってゆくためのモデルケースなんだろうな、と漠然と思っています。
デカルト
デカルトが現代に生きていれば、人工知能のことを考慮して、違う言葉を考え出すかもしれない。

2017年1月29日日曜日

天才の数学的考察

天才の定義にまつわるあいまいさ

何を以て天才とするかというのは、人によって異なります。なぜそういうことが起こるのでしょうか?
普通の人は、自分が出会った中で最も優秀な人を「天才」と形容するかもしれません。あるいは、自分が見聞きしたなかで、最も優秀な人を「天才」と形容するかもしれません。また、分野ごとに「天才」を定義することができるでしょう。いずれにしても、特定の分野で希少な「良い」能力を指すのが、「天才」という言葉です。「希少」ということは、統計的に出現確率が低い、ということです。「特定の分野」というのは、条件付き、ということです。つまり、「天才」という形容を、統計学的に見てゆくことで、基準が見えてくる、というの本論の趣旨です。

偏差値とチェビシェフの不等式

確率のことを考えるときに非常に便利な定理があります。それはチェビシェフの不等式と呼ばれるものです。ある事象Xについて、Xの標準偏差がσ、平均値がμだったとします。その時の確率について、
$P \left( | X-\mu | \le k \sigma \right) \le 1 / k^2 $
が成り立ちます。この式にいくつかの仮定を加えて計算すると、偏差値が10上がると、出現確率がおよそ1/10になるという簡単な法則が導かれます。逆に、数値化できない事象でも、出現確率を考えることで、偏差値に割り当てることができます。すなわち、ある確率Pの事象の偏差値は、
$50- 10 \log{P} / \log{10} $
となります。
例えば、高校野球の場合、高校3年生の競技人口はおよそ5万人。一方、プロ野球のドラフト会議の指名選手はおよそ100名。ざっくり計算すると、プロ野球選手になるのは、500人に一人の確率になります。すると、おおよそ偏差値が77ということになります。野球の能力というのは数値化しにくいものですが、確率から類推することで、偏差値を推定でき、分野が異なったとしても、同じ尺度で議論できるようになります。
偏差値には、条件付き確率を考える際にとても便都合の良い性質があります。非常に大きな集団があり、その集団の一部での偏差値がAとします。部分集団の平均値から計算させる集団全体における偏差値をBとすると、集団全体での偏差値は、
$(A-50)+(B-50)+50=A+(B- 50) $
と推定できます。
この性質は、高校での定期テストの偏差値を、全国模試に対応させる、といったことを可能にします。高校での定期テストというのは、特定の高校内にとどまり、全国的なテスト結果と直接比較できません。そこで、高校生たちは、全国規模の模試を受けます。
実のところ、全国模試では、特定の高校の生徒の平均値というものが、その高校にこっそり送られてきます。高校はそこから、自分の高校の全体での偏差値を見積もります。多くの生徒の平均値なので、統計的に安定しており、模試ごとの変動というのはそれほど多くありません。学校平均の偏差値が55だったとします。一方、特定の生徒の定期テストでの偏差値が60だったとします。定期テストは模試よりも頻繁に行われるため、生徒の成績の変動を見るにはよい方法ですが、毎回基準が変動するため、大学入試の参考となる全国規模の成績判断には使いにくいものです。しかしながら、偏差値のもつ性質を使うと、その生徒の全国基準の偏差値は、60+(55-50)=65と推定されます。これによって、その生徒の成績の変動を全国基準で議論可能になります。これは特定の高校という条件の付いた成績と、そういった条件がない場合の成績の相互変換を提供する一般的な方法です。
この方法は、勉強以外にも適用可能です。再び野球を例にとると、高校三年生はおよそ100万人なので、野球部員である確率は20人に一人であり、形式的な偏差値は、およそ63です。野球部員の中でプロ野球選手になるときに偏差値73なので、一般の高校生がプロ野球選手になる時の、偏差値は77+(63-50)=90となります。これはおよそ1万人に一人の確率であり、それは高校三年生の人口とドラフト指名人数の比に一致します。
ここから、ある条件を考慮する場合は、その条件の偏差値(から50引いたもの)をどんどん足したり、引いたりすればよいことになります。条件の種類は、不問というところがポイントです。野球の場合、女子は対象から外すとすると、母集団はおよそ半分になります。それは偏差値を-3することに対応します。なので、男性の中では、プロ野球選手の偏差値は87と推定されます。

今まで出会った中で最も優秀

「天才」の基準のひとつに、今まで出会った中で最も優秀という基準があります。この基準の偏差値を推定してみましょう。
この場合、今まで出会った人の数を知る必要があります。その数は、当然単調増加であり、年齢を経るごとに増えてゆきます。なので、中学校の頃に天才と感じた、というのと、高校の頃に天才と感じるのでは違ってきます。中学校くらいだと、直接出会うのは、500人くらいかな、と思います。高校になると、2000人くらいにはなるかもしれません。その中で最も優秀という基準で偏差値を考えると、中学生で77、高校生で83になります。しかしながら、年齢による差を考えて能力を勘案すべきだと考えると、同学年、あるいは、±1年の3歳の範囲を抽出すべきかもしれません。すると、対象人数は、それぞれ半分くらいににはなるでしょう。すると、偏差値だとー3して考えるべきで、中学生で74、高校生で80となります。
どのくらいの偏差値かというのをイメージするために、テストの成績で考えてみます。今は、1クラス30名程度なので、クラスで1番というと偏差値は65くらいになります。常にクラスで1番か2番という成績でも、74や80には足りません。65と74の差はおよそ10なので、10クラスに一人というくらいの成績が必要になります。小さな学校だと、学校全体で一番勉強ができる、くらいが偏差値74です。なので、直接出会って話をするかどうか、というくらいの希少さに対応し、中学生くらいだと、偏差値74くらいで、「天才」という形容になります。
高校生だと80が基準になります。65との差は15なので、30クラス集めて、そのトップというくらいのレベルです。それは、普通の学校にいるかいないか、どっちかといういない、みたいなレベルになります。つまり、近隣の学校を合わせた中で、1番みたいなレベルを称して「天才」と感じるわけです。個人競技だと、市や区の大会で優勝するレベルというとわかりやすいかもしれません。この考察は、結構いい線いっていると思います。進学校だと、学校平均の偏差値が70くらいまで行きますので、有名進学校のトップは「天才」ということになります。
高校生くらいまでは、同年齢くらいが「天才」の評価対象ですが、大学あるいは一般になると、対象年齢に制限がなくなります。つまり、偏差値は+3されます。また、母集団も高校時代の倍くらいになるので、これでも偏差値は+3になります。したがって、高校生の基準+6の86が「天才」の基準になります。勉強のテストで考えると、偏差値86は全国トップのレベルです。それは、一般的に考えても、「天才」と呼んで良い気がします。ちょうどプロ野球選手の推定偏差値に一致することから、プロ野球選手は知人たちにとってすべからく「天才」という評価になると思います。

天才は何人いるかという基準

「個人的に出会った中で最も優秀」という基準での「天才」は、偏差値86ということになりますが、これはおよそ4000人に一人であり、日本の人口を1億とすると2万5千人もいる計算になります。これは「天才」の客観的な基準としてかなり甘いということになります。このあたりが「天才」という形容のあいまいさの根源だと思います。
じゃ、日本で10傑という基準にすると、10^7人に一人ということになるので、偏差値は120(50+7x10)と推定されます。しかしながら、「天才」というのは分野ごとに考えるというのが普通です。例えば、イチローは野球については天才ですが、勉強については天才ではありません。そこで、分野の数を大雑把に100くらいとすると、偏差値は-20されて、偏差値100が全国に10人くらいのレベルの「天才」です。いわゆる「トップクラス」という表現がぴったりです。その中で、「トップ」となると、+10になるので、偏差値が110くらいとなります。
勉強のテスト偏差値100を達成するのは、ほとんど不可能です。というのも、ほとんどの場合、満点であっても偏差値100には届かないからです。僕は一度だけ偏差値が100あったのですが、その時の平均点は100点満点で20点、標準偏差が10点。そのテストで70点でようやく偏差値が100という感じでした。100点満点で平均点が20点というテストは、はっきり言って、テストになってません。そのような極端な場合にしか高偏差値は出現しないのです。だから、勉強のテストにおいて、そのような偏差値をみることはないし、そのような偏差値の人にであうことも、まずありません。もっと言えば、同年齢でそのような人を探すことも無理かもしれません。それは例えば、10年に一度の逸材という表現がぴったりです。しかしながら、その言葉は、濫用傾向にあります。
ちなみに、1億人でトップだと偏差値130相当ですが、これは現在生きている人全部ということになります。野球の場合は、現役以外も含めます。だから、イチローの偏差値は、もうちょっと低くなります。現役の期間は全人生の5分の1としましょう。すると、偏差値は−7になるので、123というのが野球で現役トップという偏差値になります。プロ野球選手はいろいろ入れて、800名くらいなので、その中のトップと計算すると、90+29=119となります。90という偏差値は母集団に女子も含めた値です。誤差は4で、異なる根拠で見積もった偏差値であることを勘案すると、良い一致だと思います。なので、120くらいがプロ野球のトップの偏差値と考えてよいでしょう。
ここまでは、話を日本に限ってましたが、科学の分野は国際化しており、母集団として世界を考えなければなりません。世界人口を75億=10^9.7とします。その場合のトップは偏差値が147になります。そのうち、現役は半分くらい(-3)、さらに、教育が行き届いているのは4分の1くらい(-6)、また、科学の分野は細分化されており、分野の数をざっくりと500くらいに想定する(-27)とします。トータルで、111となります。これが科学の世界における「天才」の基準だということです。
科学の世界における主役は学者です。学者は難関の大学入試をクリアし、さらに大学でセレクションされ、博士号を取り、運よく職を得た人たちです。そのセレクションを考察することで、学者の偏差値を推定することができます。
僕の例を挙げると、当時の京都大学工学部の偏差値は70~75、40名のクラスで毎年4名程度が博士号を取得し(+10)、3分の1(+5)くらいがアカデミックポストを得ます。トータルで、偏差値が85~90くらいになります。京都大学理学部は偏差値が高いことで有名で、85とされています。そのうち、半数が博士課程に進み(+3)、さらに半数がアカデミックに残ります(+3)。すると偏差値91になります。京都工芸繊維大学の偏差値は60くらいで、30名に一人が博士号を取得し(+15)、さらにアカデミックポストに残るのは10人に一人(+10)です。この場合、偏差値は85相当になります。
これらの例から、学者というのは、85~90の偏差値に相当するということが分かります。一流(世界クラス)の学者というのは5人に一人くらい(+7)で、さらにトップとなると5~10%くらいでしょう(+10~17)。トータルすると、102~114となります。世界基準の科学の「天才」は111と推定しましたが、おおむね同じ値になります。
さて、これは「現役」という条件を課していました。しかし、科学の世界に名を残すほどの「天才」というのは、さらにセレクションを受けます。どの教科書に名前が出てくるレベルの「天才」の偏差値はさらに+20(100人に一人)くらいでしょう。

知能指数を基準にした天才

知能指数をもって、「天才」の基準とするのはわかりやすいものです。じゃ、どのくらいの知能指数で「天才」となるのでしょう。知能指数の統計にはいくつかの流儀があって、それぞれちょっとずつ値が違います。最も一般的ではっきりしているのは、知能指数+15が偏差値+10に対応するというものです。知能指数120でかなり賢いとされていますが、これは、偏差値で63くらいに対応し、クラスで一番、というくらいです。確かに、「賢い」という基準でしょう。
知能指数が140に達すると、特別な教育を施すべきだという意見があります。偏差値に換算すると、77くらいで学校で1番くらいの基準です。
逆に、科学の天才というのは、偏差値が111ということなので、知能指数に換算すると191になります。実測された知能指数の世界記録は200くらいなので、知能指数でトップクラスなら、科学の天才であっても、さもありなんという感じです。
ただし、知能指数というのは、分野を限定しない単独の指標です。単一分野で競った時の偏差値は、ガチの偏差値ですが、多数の分野を想定した偏差値は、分野の数の定義があいまいなので、割引いて考える必要があります。例えば、学者の偏差値は90くらいと推定され、知能指数160に相当するものの、実際の知能指数が160もあるかというと、疑わしいと思います。知能指数は、テストの領域が狭いので、偏差値で考えた方が、汎用の評価基準として、適切だと思います。

まとめ

概ね、偏差値100以上というのが広く通用する「天才」の基準として、おおむね納得できるかな、と思います。それは10万人に一人という確率であり、直接的な知り合いの中に見つけることを期待できないというレベルです。
だから、「天才」という形容を使うとき、「出会った中で一番優秀」という基準は、相当に甘いということがわかります。そういう意味での「天才」は、偏差値がせいぜい80くらいで、その100倍すごい人でないと、「天才」としては恥ずかしいね、ということです。
ほんとのところ、僕は本論で行ったような計算が大好きなだけなんです。ごめんなさい。



2016年11月17日木曜日

エリート考

エリートの定義

今の日本の教育は、均質な人材輩出を目標に構築されており、徹底的にエリートを作らないようになっています。いや、ゆとり教育・個性尊重によって、改善されているという意見もあるでしょう。しかしながら、そういう環境で育った若者の多くが、「空気を読む」ことに終始し、目立たないこと、他人と同調すること、を最大限に求める事実があります。これについては、機会を改めて話をしたいと思います。

実際のところ「エリート教育」が存在しない日本において、一般の人がエリートを理解することは、とても難しいと思います。「エリート」というと、「賢い」「運動ができる」「イケメン」「リーダー」とった良い印象のほかに、「横柄」「鼻につく」「生意気」という負の印象も伴います。フィクションの世界では、しばしば悪役やライバルとして登場し、主人公になることは少ないですね。断言しますが、そういう印象はすべて間違いです。

エリートは、英語のeliteが元になっていて、「選ばれた(人)」という意味です。そこから、何かに秀でた人という印象が出てきます。選ばれるには、何かに秀でていないといけませんので、その何かとして、「頭脳」や「運動能力」、「容姿」なんかが連想されます。また、自分より能力の劣る人に命令されるのは誰だって嫌なので、能力の優れる人がリーダーになる傾向にあります。その結果、前段で指摘したようなポジティブな印象がエリートについて回ります。

しかしながら、個の能力に秀でていたとしても、指揮能力に優れるとは限りません。指揮能力に劣るのにリーダーを任されると、トラブルになります。その結果、メンバーからそっぽを向かれ、前段の負の印象を与えるようになります。

エリートにまつわるポジティブな印象をすべて兼ね備えると、完全無欠ですね。そういう人が勝利しても、決してドラマは生まれません。むしろ、能力に恵まれない人が努力によって、恵まれた人を打ち負かすという物語のほうがドラマチックで好まれるものです。そういう理由で、欠点のないエリートが物語の主人公になることは極めてまれです。むしろ、敵役として、最終的に負ける立場が多くなります。

現代のエリート

現在の日本におけるエリートの典型は、キャリアと呼ばれる上級国家公務員(上級官僚、キャリア)です。第一種国家公務員試験という難しい「らしい」試験をパスしないとなれません。上級官僚になると将来は約束されたも同然です。下級官僚(ノンキャリア)の人が50代後半に到達する役職に、20代で就任し、次々と出世していきます。キャリアとノンキャリアの差は、国家公務員試験の第一種と第二種のどちらをパスしたかだけです。たった一つの試験が、30年の知識と経験に匹敵する差に相当するのでしょうか?ちょっと信じがたいですね。

キャリアとノンキャリアという官僚の仕組みは、極端すぎて良くないと考える人も多く、見直しの風潮があります。しかしながら、キャリアとノンキャリアはどうしてこんなに区別されるのでしょう?それは日本の官僚機構が軍隊の仕組みを踏襲しているからです。

軍隊になぞらえると、キャリアは将校、ノンキャリアは兵卒なのです。軍隊では、兵卒は二等兵からスタートし、最終的に軍曹・准尉ぐらいまで昇任します。まれに、佐官まで昇進しますが、かなり華々しい武勲が必要です。一方、将校は、士官学校を出てすぐに少尉に任官します。この時点で、普通の兵卒のトップです。そこから、佐官、将官に昇進していきます。将校のスタート時点が兵卒のゴールということで、将校と兵卒には決して埋まらない差があるのです。しかしながら、能力の差は、そんなにあるはずないですよね。将校と兵卒の差は、士官学校を卒業したかどうかなわけですから。そういう現実があるにもかかわらず、かなり不公平なシステムを維持するために、服務規定として上官の命令に絶対服従がありました。

日本の官僚機構は、軍隊のこのシステムを忠実に踏襲しています。士官学校卒の代わりに国家公務員試験第一種合格が条件になっています。現在の官僚機構において、上官の命令に絶対服従なんて規定は作れません。なので、日本の官僚機構では、人事権を完全掌握することで、不公平なシステムを維持しています。そういった違いはありますが、官僚機構は完全に軍隊と同じ仕組みです。

エリートと非エリートを分かつもの

軍隊では、エリートと非エリートは士官学校卒の有無でした。士官学校卒の有無は、それほど大きな違いを生むのでしょうか?旧日本軍を例にとると、士官学校は入学が極めて難しく、今でいうところの一流国立大学レベルが要求されました。なので、入学の段階でかなりのセレクションを受けます。その後、スパルタ教育を受け、途中で落伍者がでます。米軍では、30%以上の落伍者がでるようです。

エリートを単に「選ばれた人」とするなら、士官学校入学時点で条件をクリアします。その後のスパルタ教育はさらなる選別とエリートをエリートたらしめる何かを身に着けるためのものです。エリートをエリートたらしめる何かとは、なんでしょう?

士官学校では落伍者が出るほどスパルタ教育をします。基準をちょっとでもクリアできないと放校になります。なので、必死に食らいつきます。クリアすべき基準は、必死になれば何とかなるけど、必死にならないと難しい、というギリギリのラインに設定されます。能力というより頑張りを見るのです。あきらめずに頑張った人だけが選択されるのです。この「あきらめない」という点が重要です。あきらめずに成功の確信をもって努力を続ける、ということがリーダーにとってとても重要な資質だからです。もちろん、成功の確率は個人の能力に依存します。しかしそれが高いか低いかは問題になりません。能力が低くても、ちょっとくらいは成功の確率があるものだし、組織においては仲間の助けが得られます。だから、個人の能力は問題にならないのです。エリート教育においては、「あきらめない」「なげださない」「ギブアップしない」というメンタリティーの育成に主眼が置かれるのです。

逆にリーダーが「あきらめる」「なげだす」「ギブアップする」のような態度を取るとどうでしょう?部下は、「この人について行って大丈夫かな?」という疑念を持つでしょう。そうすると、リーダーと部下という関係が怪しくなります。さらに逆に考えると、「あきらめない」「なげださない」「ギブアップしない」リーダーなら、部下は「あの人があきらめないんだから、我々もついてゆこう」という気になるかもしれません。特に、軍隊や官僚のような階級がはっきりした組織では、上司が年下ということが普通です。年齢も経験も浅く、メンタルも弱いリーダーに従うなんて、納得いかなくて当然です。メンタルぐらいはちゃんとしておかないと、統率が取れません。

なので、士官学校では強烈なストレスをかけて、「あきらめない」「なげださない」「ギブアップしない」というメンタリティーを鍛え、成功体験を通じてそれを信念として植え付けるのです。

意思決定が必要なリーダーと意思決定が不要な部下

士官学校の例から、リーダーとして必要とされるものが、根性チックなメンタリティーであることが分かります。それ以外に、リーダーに必要とされるのが、「意思決定」です。リーダーは、部下を統率する際に独自の判断に基づいて行動方針を自ら決定する場面に必ず出会います。その時、意思決定ができないと、部下はやはり不安に感じます。また、その意思決定が間違っていたら、全員が不利益をこうむります。軍隊の場合は簡単に死にます。だから、意思決定は命がけです。

正しい意思決定をするには、客観的な状況判断と分析、そして知識が必要です。そのため、士官学校では、これらを学びます。知識は普通の講義で学べますが、状況判断と分析はシミュレーション(ディスカッション)を交えて学ぶ必要があります。そのため、人手と時間がかかります。すべての人にリーダーとしての教育を施すことは難しいのです。

一方、部下が自分の判断で無制限に行動すると現場が混乱することがあります。そのため、部下は極力意思決定しない方がよい、という考え方があります。特に命を懸けなければならない場面で、部下が独自の判断で避難してしまうと、組織全体が危険にさらされることがあり得ます。だから、部下には意思決定が邪魔なのです。特に、軍隊や官僚など、上意下達の傾向が強い組織では、そうなっています。つまり、リーダーと部下で、要求される資質が正反対のことがあるのです。
独自の意思決定を行わないことを信条とする部下が、出世したとして、突然意思決定のスキルが身につくでしょうか?あり得るかもしれませんが、軍隊や官僚組織では、そう考えません。だから、士官・キャリアと、兵卒・ノンキャリアには、全く違う人材を充当するのです。

意思決定に関しては、もう一つ重要な点があります。上意下達とはいえ、上意が間違っているかもしれません。上官に対してある種のアドバイスを行うことも、士官の重要な資質です。もちろん、そのアドバイスは論理的で根拠に基づくものでなくてはなりません。もし、兵卒が士官にたてついたら、その兵卒はクビです。士官の場合は、場合によっては推奨されるかもしれないという行為が、兵卒の場合にはぜったに許されないのです。上官に異を唱える場合には、より広い視点からの判断が必要で、このような高度な意思決定能力がリーダーの重要な資質と考えられます。このように、リーダーと部下で、行動規範が異なる場合があるのです。

エリートの本当の定義

こうした事例から、リーダーとなる人は、特別に選抜して、特別な教育を施すべきだ、と考えられています。そういう教育を受けた人をエリートと呼びます。リーダーには特別な教育が必要だという考え方は、世界共通です。東洋では「帝王学」と呼ばれています。帝王学というのは、王様になるための素養ととらえられていますが、それはあまりに俗な理解です。現代においては、「マネジメント」という用語で言及される概念がこれに近いと思います。
以上をまとめると、リーダーには、強い意志と行動力、正しい状況理解、論理に基づく意思決定能力が必要とされると結論できます。この中には、スポーツが得意とか、勉強ができるとか、容姿端麗だとか、そういう資質は直接関与しません。だから、そういうことは必要ないかというと、そうではありません。
「あきらめない」を実現するための強い意志と行動をもうちょっと具体的に考えると、高く設定された目標に対し、継続的な努力を実行するということになります。これはちょうど、スポーツにおいて、勝利や好記録のためにトレーニングを続けるという行動規範に一致します。すなわち、スポーツに秀でた人には、強い意志と行動力を持つ人が多いのです。
正しく状況を理解するには、相応の知識が必要になります。勉学に秀でる人は、知識の習得に貪欲あるいはそれが得意な人が多いのです。勉強の際には、論理的な思考が要求されます。だから、意思決定能力に優れることになります。
容姿が良い人は、良くも悪くも注目を浴びます。ちょっとした失敗でも目立ってしまいます。例えば、鼻がムズムズしてても、人前で鼻をほじったり鼻をかんだりするのは、はばかられます。そのため、日ごろから失敗しないように注意深くなります。その結果、予測能力が鍛えられます。予測を行うためには、状況の理解と論理性が求められます。また、注目される分、行動に制約が生じるので、ある種の忍耐力も鍛えられます。容姿の良い人の人生は、案外大変なものだと思います。
加えて、リーダーには人心掌握のための技術が必要ですが、これは単なる技術です。ちょっとした勉強で身に付きます。実行するのは少々骨が折れますが、リーダーとしての行動力があれば、問題にはならないでしょう。

あるグループにおいて、リーダーは一人ですが、そのような組織は階層化され、それぞれの階層でリーダーが存在することになります。その結果、リーダーは数多く必要です。また、リーダーのいないグループは機能しないので、リーダーが足りない状況は困ります。だから、リーダーには予備人員が必要です。その結果、リーダー候補として、エリートがわりと多く確保されます。エリートというのはある種の専門職という側面があり、軍や官僚では非エリートと完全に分離しています。
でも、単なる職種の違いなので、上下関係を強要するのは良くないかもね、と僕は思います。仕事をする上ではリーダーは重要です。でも職能の違いであるなら、給料に差をつけるのはどうかな、と思います。ところが、給料の配分の「意思決定」を行うのは常にリーダーであるので、リーダーの方が給料が高く設定されます。それってちょっと不公平な気がします。











2016年9月23日金曜日

週休4日

雇用にまつわる問題

昨今、女性労働力の活用が政府のスローガンになっています。こうした雇用問題は、姿を変えていつの時代にも存在します。ちょっと前はニートがやり玉に挙がっていました。僕が学生の頃は、男女雇用機会均等法が話題になっていました。これも女性労働力の活用の一環です。本音は、安い労働力を調達したいという経営者のエゴです。若者や女性という比較的安い労働力を投入することで、中年男性の高い賃金を押し下げようというする方策です。
僕の父親の時代は、集団就職を経て、労働組合が本格的に組織されるようなりました。労働者の立場が弱いのは、産業革命以降、繰り返し指摘されています。しかしながら、産業革命以前でも地主と小作農の間で公平性を欠く労使関係が常態化していました。日本の江戸時代には、丁稚奉公制度がありました。丁稚奉公というのは体の良い奴隷制です。番頭に出世してのれん分けの可能性があるとはいえ、最初のうちは無給で、年数日の休みしかありません。子供を丁稚に出すときは、親はいくばくかの対価を得るので、完全に奴隷の人身売買の構図になっています。きちんとした法制度がない限り、労使関係というのは限りなく奴隷制に近づいてゆく、という構図は世界の歴史のいたるところで見ることができます。

労働者の立場が弱い理由


労働者の立場が弱い理由は、アダム・スミスの指摘が適切だと思います。「労働争議が起こった場合、労働者は蓄えが少ないので、長くは耐えられない。一方、経営者は蓄えがあるので、場合によっては1年以上耐えることがことができる。」
労使契約が成立しないと、労働者は失業して飢えてしまいます。だから、交渉の余地があったとしても、交渉できない場合があるのです。というか、ほとんど交渉できません。なので、賃金が低い状態で契約を迫られます。経営者は、特定の労働者との契約が不調でも、他の労働者との契約を進めればよいので、交渉を失敗してもダメージは大きくありません。そのような正当に不平等な社会構造が雇用の問題を生みます。
カール・マルクスは、雇用問題の解決が法律では無理なんじゃないか、と考えて、思想的に労働者を上位に位置付ける社会体制を提案しました。でもそういう発想は江戸時代の日本にもあります。士農工商というヒエラルキーです。支配階級のすぐ下に労働者階級を設定することで、社会の安定を目指すというのは、労働革命ってやつです。江戸時代末期には商士工農になっていたというのは有名な話。資本主義が共産主義を駆逐するというのは、江戸時代に実験済みだったのです。
江戸時代の例は、資本主義・自由主義経済の行く先を示しているかもしれません。
丁稚奉公は、将来を束縛しない奴隷制度であり、人権を担保にして労働者を束縛するシステムです。労働者は将来の成功を夢見て、自ら進んで奴隷制度に挑戦し、多くは敗北し、搾取されます。
大企業の地方工場では、地元の若者を工員として多く採用し、大企業の社員という夢を与えます。多くは単純労働者なので、低賃金です。事業が行き詰まると、工場ごと閉鎖し、地元採用の社員に退職か転勤を迫ります。地元で生まれ育ってきた多くの社員は、退職することになります。そして、身分が失業者に変わります。

失業しても身分が変わらない人々

雇用問題の本質は、労働者に交渉・選択の余地がない、という点にあります。自由主義経済の下では、労働者は、もちろん仕事を選ぶことができます。選ばなかった場合、労働者ではなくて失業者になります。身分が変化します。経営者は、労働者との契約が不成立であっても、経営者のままです。これでは、対等な交渉ができるはずがありません。労使契約が不成立でも、労働者にダメージが及びにくい状態にしないと、対等に交渉できないということです。
労使契約の不成立は、労働者にとっては尊厳にかかわる(身分が変わるという意味で)重大事です。だから、どうしようもない、と思考停止するのは僕の流儀に反します。労使契約が不成立であっても、労働者が労働者でいられるようになっていれば、ちょっとはマシになるんじゃないか、と僕は思います。
世の中には、労使契約が不成立でも身分が変わらない労働者たちが何種類か存在します。その中でも大多数を占めるのが、学生と主婦です。どちらもパートタイマーとしての労使契約です。彼らは学生や主婦という労働者以外の身分を持っていて、労使契約によって、二つ目の身分を得るという点が共通しています。
彼らの労使契約に対する考え方は自由主義経済そのものです。彼らは仕事を選ぶとき、仕事の内容・時間・賃金を重視します。自分に可能な仕事内容の中から、より賃金が高く、より都合のよい労働時間を選びます。自分の生活はかかっていますが、労使契約が不成立でも、次を探せばよいと考えています。だから、労使交渉は極めて対等になります。
今、アルバイトも人材不足です。そのため、都市部では時給がジリジリ上昇しています。これは、正規雇用の平均給与が目に見えて減少しているのと対照的です。
彼らが労使交渉を通常の労働者より有利に進められるのは、労使契約の不成立が致命的でないからです。いや、普通の労働者でも、雇用保険とか生活保護とかあるので本当は致命的ではないのです。でも失業者ってのは致命的にショックですし、少なくとも生活水準の現状維持はできなくなります。労使契約が不成立のときに、労働者を守る仕組みが弱いので、労働者はチャレンジできないのです。でも、労使契約が不成立でも、生活水準が何とか維持できるならどうでしょう?状況は主婦や学生のアルバイトの場合に似てきます。もっとアグレッシブに労使交渉できるようになるでしょう。

週休4日制


雇用保険は労使交渉の期限を明確にしてしまうという点で、この問題を解決する手段にはなりえません。経営者は交渉を雇用保険の期限まで伸ばすことで、有利な契約が可能だからです。雇用保険に匹敵し、かつ持続的な収入が期待できる仕組みが必要です。
極めてシンプルな方法として、週休4日制度を提案します。週休5日でも良いです。それだとほとんど遊んでいることになりますが、そうではなくて、仕事は掛け持ちを基本とするのです。
週休4日というのはワークシェアリングに似ています。ワークシェアリングというのは給料を6~7割にして、労働時間も6~7割にして、労働者を倍増させるという考え方です。余った時間は、生活の雑事や地域コミュニティに使う、とされています。でもそれだと、労働者の立場は弱いままです。
ワークシェアリングのような仕組みは、経営者の理解が得やすいという点で、ヨーロッパでの導入が進んでいます。もっと労働時間も減らして、給料も減らしてもよいと、僕は思っています。その代り、余った時間は別の仕事に出るのです。2つの仕事があるので、一つの仕事がダメになっても、もう一つの仕事で食いつなげます。
2つの仕事を掛け持ちするというのは、ほとんどの人にとって可能ですし、労使ともにメリットがあります。労働者の最大のメリットは、労使交渉を有利にできることです。これは専門用語ではリスクヘッジと呼びます。
ほかにも、仕事の内容・契約を比較検討できるというメリットがあります。雇用問題の一つにブラック企業というのがよく話題になります。これは劣悪な雇用条件から逃げられないという状態を指しますが、問題の根本は、その雇用条件が劣悪なのかどうなのか労働者本人や経営者にわからない、ということが事態を悪化させています。現状の独占専属契約型の雇用形態では、労働者も経営者も他の組織・業界の知識が乏しく、自分たちの状況が適性なのか劣悪なのか判断しづらいというのがあります。労働者が別の雇用条件を知っていれば、少しは救われます。労働者にとっては、離職の障害が減っているので、労働条件が劣悪だと思ってしまえば、離職すればよいのです。
離職が容易になるということは、雇用が流動化するということです。雇用がきちんと流動化すれば、労使交渉に市場原理が働くようになり、適正な労働条件に落ち着くはずです。
労働者のメリットを先に書きましたが、実は、経営者にとってもメリットがあります。雇用が流動化すると、従業員の数を事業規模に合わせて調整しやすくなります。また、専門技能をもった人材を市場で調達できるようになります。長い目で見ると、人材育成のコストが減ります。日本型経営では中間管理業務の人件費が異様に高いわけですが、それも圧縮できるでしょう。

週休4日を実現するインフラ


週休4日を実現するためには、さまざまな社会インフラを整えなければなりません。手始めは、保険関連です。健康保険・雇用保険・年金などです。
労働者の保険は、本人負担に加えて会社がそれ以上に負担しています。会社を2つ掛け持ちすると、どちらの会社が保険等を負担するのか確実にもめます。2つの会社が労働者の給与に対して応分負担するということもできますが、一つにまとめた方が効率的ですし、資金運用の面からも有利です。しかしながら、保険を理由に雇用の流動化が妨げられるのは、週休4日制の理念に反します。解決策の一つは、保険と会社を分離するということです。労働者は保険会社に個人で加入します。企業は応分の保険費を国庫に預託しますが、それは保険会社に分配されます。保険料率は保険会社が決めます。労働者は保険会社を変更することも可能なので、ここにも市場原理が期待できます。
会社側からすると、週休4日だと保険等がややこしくなるので週休4日を採用したくないかもしれません。なので、週休4日しないと大きなデメリットがあるように制度設計すべきです。具体的には、雇用保険料率を大幅に上げて、上げた分を企業に負担させます。雇用保険料率というのはかなり高いことで有名です。給与の1.3%くらいが設定されており、その7割くらいを会社が負担します。週休2日での雇用の場合には失業のリスクが高くなるので、5倍くらいに設定するのです。健康保険や年金の厚生年金分も高く設定します。週休2日でないと困るという職種があるかもしれません。その場合には、社会的コスト増を考慮して保険料率を高くするという考えです。

週休4日制は収入が低下するか?

週休4日制は、すべての労働者の働き方をアルバイト的にします。でもそれは、労働者のアルバイト化を意味しません。むしろ、アルバイトを正規雇用と同等にするように働くでしょう。というのも、アルバイトだけでは仕事が回らないからです。アルバイトと正規雇用の最大の違いは、業務に責任を持つかどうかです。業務に責任が発生する場合は、賃金を上乗せするのが道理です。
労働者は最初はアルバイト的な労働環境からスタートするかもしれませんが、能力次第で抜擢されるでしょう。逆に低い能力だと契約が延長されません。労働者は通常のアルバイト以上の仕事を任された場合、より高い賃金を要求することになります。経営者がそれに応じなければ、労働者はさっさとやめるでしょう。正規雇用であっても、考え方がアルバイト的になるわけです。経営者は優秀な労働者を維持するために適正な給与を設定しなければなりません。
労働者はもう一つの仕事を持てるわけですから、その仕事は自ら行う事業であっても構いません。現状では起業するには、会社をいったん退職する必要があり、それが一つのハードルになっていました。固定収入を得ながら、起業ができるというのは、今までなら一部の家族経営者の特権でした。それが、誰にでも可能になります。起業して成功すれば、収入は大幅にアップします。
多くの人が誤解していますが、起業して失敗するというリスクはそれほど大きくありません。起業する際の最大のリスクは、それまでの収入を失うことです。起業すると50%の確率で年収2000万円になるとします。それまでの年収が1000万円の人は、起業をためらうでしょう。高年収になるほど、起業の率が低下するというのはよく知られた現象です。東大卒の社長が少ない理由にも挙げられます。実は、事業に失敗して年収0になる確率というのはそれほど高くありません。僕は正確な統計は知らないのですが、10%くらいのはずです。会社というのはそんなに簡単につぶれないようにいろんな仕組みがあるのです。だから、社会全体でみれば、起業が増えた方が、全体の収入が増えます。
週休4日にすると、定年の概念も薄れます。なので、退職金は賃金に上乗せされなければなりません。労働者もそのことを考えて、契約することになります。雇用の流動化で市場原理が働くので、労使交渉はずっと公平になります。時給+退職金相当分+歩合という契約が普通になるでしょう。
社会全体でみると、収入は増えるはずです。個人で見た場合、低賃金層の収入は増えるでしょう。中間層の収入は減るかもしれません。経営は効率化するので、経営者の収入は増えると思います。

労働のストレス

週休4日制の導入の最大のメリットは、労働者を労働のストレスから解放することだと僕は考えています。特に、責任をしょい込む日本人的気質にまつわるいろんなトラブルを改善すると期待しています。日本では子供のころから勤勉さを教育されます。象徴的なのは、学校を休まないことが重要な美徳とされていることです。大人になると会社を休まないことが当たり前になり、休むことに罪悪感を持ちます。他の人が働いているのに自分だけ休むという有給休暇制度は日本人の気質になじみません。制度導入からずいぶん経ちますが、有給休暇取得率の低さはたびたび問題視されます。
逆に、組織はその構成員である労働者が休まないことを前提に仕事をしているのが、日本の会社の特徴になっています。そのため、労働者には勤勉の強いプレッシャーがあります。もし休むと自分のかかわる業務に支障が出るようになっているので、労働者は休めないのです。
週休4日制の最大の障害は、こうした通常業務に支障が出ることを組織(会社)が嫌がるということです。週に3日しか継続して仕事をしないわけですから、それ以外の日は業務が滞ります。会社としての業務は年がら年中進行しないといけませんので、業務に支障が出るということです。そういうときはどうするかというと、ツーマンセルあるいは、バックアップ体制を整備するしかありません。一人が休んでも誰かかわりの人が業務をサポートし、滞りなく業務が進む体制を引くわけです。それは組織の強みであったはずです。ところが、日本では誰も休まないので、そのような体制はすたれ、有給休暇の消化も進まないわけです。
週休4日制では、継続的な業務を一人だけで維持するのは不可能になるので、一つの業務を多くの人で分担する体制が整備されるようになります。一人が休んでもほかの人がバックアップするのが当たり前な組織になり、気軽に休めるようになります。これは、組織にとっても大きなメリットになります。一つのメリットは、リスクヘッジです。交通事故や大病で長期離脱する社員は少なからず発生するもので、その度に大騒ぎする必要はなくなります。もう一つのメリットは、人員配置の効率化です。ある仕事を実行できる人が複数だと、一部の人員を入れ替えてもその仕事を遅滞なくこなすことができます。引継ぎ作業も必要ありません。人員の増減を気軽に、迅速に行えるようになります。

仕事への愛着

週休4日制は、日本的な会社組織の弱点を解消し、労働者の独立を促すと考えられますが、日本人の美徳である、仕事への情熱を損なう面があります。日本人は任された仕事に対して、極めて真摯に取り組むという面があります。パートのおばちゃんの手さばきが神業の域に達するのは珍しいことではありません。これに対し、海外の労働者にそういうのは珍しいのです。海外の研究所のカフェテリアでおかずをよそってくれるおばちゃんが、かなり投げやりな感じで、ショックを受けたことがあります。同じような風景をお台場の食堂で見ましたが、作業していたのは外国人でした。日本人なら、ごはんの量なんかは1g単位まで合わせてきますよね。
そういう熟練の技が出てくるのは、日本人的ではありますが、その根底には、仕事に愛着を持ち熟練を目指す職人気質があります。日本の経営者は、日本人労働者のそういう気質にあぐらをかいて、製品の品質を向上させ、賃金は据え置きだったわけです。あるいは、最も熟達した労働者に賃金の基準を置くという、アンフェアな状況を常態化してきました。それも、やはり、労使の不公平が元凶だと思います。
週休4日制は、アンフェアな状況を是正するので、熟達した労働者は相応の賃金を要求するようになります。経営者は余裕がない場合、別の労働者を探すかもしれません。すると、作業に熟達することは解雇のリスクにつながるという、現状ではありえない状況が現れます。実際、海外ではそういう傾向があるので、末端の労働者は、やる気なく作業を行うわけです。
週休4日制では、放っておくとそいう状況が生み出され、日本人の強みが失われる危険性があります。これが行き過ぎると、日本の産業全体の競争力に悪影響が出てきます。労働者が不当に解雇されないような仕組みが必要になります。

人生をやり直す機会

週休4日制は、労働における肉体的な負担を大きく軽減します。そのため、妊娠や高齢のために、きつい作業が無理な人々が、自分の体と相談しながら労働環境を調整できるようになるでしょう。労働環境の調整という点では、仕事をしながら勉強することも可能にするでしょう。
あからさまには語られませんが、日本の社会には、ワンアウト退場、というルールがあります。高校中退者の半数は通信制高校に通うのですが、卒業率はせいぜい30%というデータがあります。通信制高校以外の進路もあるのですが、高校中退から復活できる人は20%くらいということがうかがえます。一度中退(ワンアウト)すると復帰が難しい(ゲームオーバー)ということです。
この状況は、年齢が進んでも変わりません。新卒採用は、学生にとってかなり有利な状況なのですが、一旦退職して中途採用となると、前の会社より労働条件やランクがかなり見劣りします。転職するたびに給料が下がるというのが日本の転職事情です。そういうこともあって、少々条件が悪くても会社の言いなりになる人が多いわけです。
週休4日制は、ドロップアウトしても、勉強を続けたり、スキルアップを目指したりできる環境を提供します。働きながら、大学に週3で通うというのが普通になるかもしれません。僕はそれでよいと思います。今、ほとんどの大学生はアルバイトしながら、大学に通います。大学もアルバイトを斡旋したりします。というのも、アルバイトは社会勉強の大事な機会だと考えられているからです。
働きながらスポーツに打ち込むということも普通のことになるかもしれません。週3で働いて、残りはトレーニングや遠征に使うということもできます。贅沢はできないかもしれませんが、現状では職場での理解が得られず、無給でスポーツに打ち込んでいる人も多くいますし、それは改善できるでしょう。
もちろん、共働きもやりやすくなります。僕の家内は、週3で働いていて、ちょうどよいバランスです。夫婦で子育てを分担するのもやりやすくなります。

多くの選択肢を持つ

週休4日制はいろんなことを同時に解決するアイデアですが、最も重要なのは、働き方に多様性を持たせるという側面です。人生は山あり谷ありで、いろんな状況があります。にもかかわらず、働き方に選択の余地はなく、多くの場合、仕事を辞めるか続けるかの2択を迫られます。仕事を辞める場合、一時的にでも失業しますし、再就職したとしても労働条件、特に賃金は、かなり悪くなります。労働者にとっては不利なことばかりです。
社会制度として多様な働き方を強制するような仕組みがあれば、もう少し状況をよくできると思います。強制は、経営者・労働者双方に必要です。例えば、経営者は、週休2日制に大きな経済的デメリットが設定されれば、週休4日制に移行したいと思うでしょう。労働者にとっては、週休4日になって給料が下がるのデメリットですが、ちょっと別の仕事をしてみると、案外良かったりすることに気づくかもしれません。雇用環境に流動性が出てきて、労働市場に優秀な人材があふれるでしょう。労働者にとっては、自分の才覚を試すチャンスです。大企業の優秀な社員は、自分の優秀さを中小企業で示すことができるでしょう。でも、現実には、中小企業で鍛えられて、大企業での業務が改善することの方が多いかもしれません。中小企業は大企業と対等な形で人的交流ができ、より良い関係が気づけるかもしれません。
おおむね、週休4日は、企業にとってのメリットが多い制度です。でも、労働者にはリスクヘッジとチャレンジの機会が与えられます。この2つは今までどうしても得られなかったことです。
ネイルサロンは依然としてたくさん開業していますが、ネイルサロンの経営者の多くは女性の歯科技工士で、内職的な歯科技工士の仕事を継続しつつ、半分趣味でネイルサロンを経営しています。どちらが副業かはあいまいですが、まさに週休4日制が目指すライフデザインです。ネイルサロンのビジネスモデルをあらゆる労働者に適用しようというのが週休4日制のコンセプトです。