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2026年10月27日火曜日

宇宙を記述可能な代数は1つしかない説;ポエム解説②

 


​「この世界について永久に理解しがたいこと(永遠の謎)は、それが理解可能だということである。」(アインシュタイン「物理学と実在」)


ポエムの冒頭部分を解説するよ!

物理学ポエムの冒頭では宇宙を数学的に記述できる条件を議論しています。ちょっと哲学的かつ詩的なセクションなんで、一番ポエミーで、まともな議論に見えにくいかもしれません。なので、解説が必要だと思うのです。


宇宙が理解可能な条件を探すことの意味

大統一理論は、人類の悲願の一つと言えます。多くの試みが現在も続いています。ただ、大統一理論が存在するかどうかすら、わかりません。大統一理論を探す試みはすべて失敗するかもしれません。でも人はめげずに努力を続けるでしょう。でも、ゴールの存在が不明な状況で努力するのと、ゴールの存在が確定している場合と、モチベーションはずいぶん違うと思うのです。だから、ゴール=大統一理論、が存在する条件を、宇宙が満たしているかどうかを調べることは、意味があると思うのです。

大統一理論がどんなものかはわからないのですが、そもそも宇宙が理解可能な存在でないなら、大統一理論は決して存在できません。だから、大統一理論が存在する前提条件として、宇宙が理解可能な存在であるための条件を調べようと思うわけです。宇宙が理解可能な存在であっても、大統一理論が見つからないかもしれません。でも宇宙が理解可能な存在でなければ、大統一理論を探すのはあきらめた方が良い、と早々に見切りをつけることができます。

宇宙が理解可能な存在かどうかを検討することには、別の意味もあります。ポエムの中では、時間も空間も導出対象になっています。その場合、時間や空間にまつわる概念を使って、宇宙を説明することができません。トートロジー(循環論法)は避けねばならないのです。

ネーターの定理により、時間並進対称性とエネルギー保存則が対応していることが知られています。時間の概念を使用禁止にするということは、エネルギー保存を使った議論が出来なくなります。

僕たちは「因果関係」を当たり前のように考えていますが、原因と結果の区別は時間的な順序によるものなのです。時間の概念が使えないと、因果関係を使った説明ができなくなります。

要するに、物理学がものすごい縛りプレイになるわけです。因果関係は、「客観性」の一部になっていますから、客観性も著しく制限を受けます。そうすると、科学と言う概念が成立するかどうかギリギリのところを議論しないといけなくなるわけです。

このレベルの極端な縛りプレイでは、人類に残されたツールは数学のみになります。だから、宇宙は、少なくとも数学に対応させることができないと、理解可能ではないよね?となるわけです。

実際の理論構築はこのような順序で行われたのですが、説明にあたっては別の方法を使っています。すなわち、公理系によるボトムアップです。 このやり方は抽象数学では一般的で、まあ、そういうフォーマットに従った方が、高度な理論っぽく見えます。見えてるよね?


状態=数、という概念

ここからは公理を1つ1つ見ていこうと思います。

まず1番目。宇宙の状態は数に対応させることができる=記述可能性、という部分は、ほとんどの人が面食らうと思います。ふつうの人にとっては、数というのは1,2,3,4のような数値です。実数だったり、有理数だったりするかもしれせんが、実数が有理数になったところで大差ありません。こうした数が宇宙の状態に対応する、というわけではありません。ポエムで語られる「数」は、一般化された「数の概念」という意味になっています。

理系の皆さんは、ベクトルとか行列とかを学んでいると思います。ベクトルというのは数値が組みになったものです。例えば、座標なんかはベクトルに対応させることができます。数学ではベクトルはある種の「数」とみなされてます。あるいは、色とか形とかそういう概念も数学では「数」に分類される概念です。そういう一般化された「数」の概念を使えば、宇宙の様々な状態も「数」に対応させることができるでしょ?という仮定(公理)を1番目に据えています。この公理は、明示しなくてもよいくらい、当たり前、なものかもしれません。でももし、宇宙の状態が何らかの「数」で表せないなら、状態を特定することができず、あらゆる法則に意味がなくなります。そういうことを防ぐために最初の公理が存在します。


代数≒再現性・決定論

2番目の公理は、宇宙の状態を表す「数」には代数があるっていう要請=予測可能性です。これは一旦捨ててしまってる客観性や因果関係の代わりに導入されていると思えば良いかもしれなません。客観性や因果関係や時間の概念を排除してしまうとほとんど何も残りません。残るのは代数と幾何学くらい。幾何学をベースに考えてもう大丈夫なんだけど、幾何学も最終的には代数で語った方が厳密になるので、そういうことなら最初から代数をベースで考えようとしています。まあ、将棋で言うなら手抜きってやつ?取って取られて合駒を入れるのであれば、最初から合駒を入れといてもいいよね。みたいな感じ?

ここでいう代数は四則演算のことではありません。「数」は通常の数値ではないかもしれません。と言うか、通常の数値ではないと考えた方が合理的です。数値ではないのに、掛け算とか足し算とかそういうのはできるとは限りません。まあ、こういう論理構成は抽象数学では一般的なので、そういうフォーマットを採用しているだけです。一般の人にとっては、状態の変化がきちんと定まっている、ということの要請と考えてください。 客観性を一旦保留してるのでその代わりに導入しているという解釈もできます。

代数には演算が通常は1つ以上、定義されています。通常は乗法、つまり掛け算を想定するのが基本になります。実際の演算は掛け算と限りません。へんてこな演算かもしれないし、普通の掛け算かもしれません。あるいは掛け算という名の足し算かもしれません。数式で書く時には掛け算と同じ書き方をするというだけです。こういう考え方はスタンダードな群論です。演算は基本的に1種類です。僕らが慣れ親しんでいるような、足し算と掛け算が両方使えるような代数は贅沢品で特別なのです。よちよち歩きの宇宙にはそんな贅沢は許されないのです。

書き方はちょっと回りくどいですが、演算というのは同じ入力に対して同じ出力が得られることが前提になっているので、演算結果の予測ができるようになります。その予測可能性が客観性や再現性の代わりになり、形なりにもかろうじて科学が成立するようになります。


実際問題、宇宙はそんなに不安定には見えない

3番目の公理は、宇宙を記述する代数は可除代数であるというものです。これは宇宙が勝手に消えたりしないという要請です。実際のところ、物質は安定して存在してて、エネルギーとかが勝手に消えたりしません。質量保存則とかエネルギー保存則とか使えたらいいんですけど、そういうのも前提としないところからスタートしてるので、使えません。その代わりというわけです。

可除代数というのは、0が演算に関わらない限り、演算結果が0にならないという性質のことを言います。そのおかげで割り算が必ず存在するとか、そういう特別な性質も出てきますけど、ここでは演算結果が0になって、宇宙が消滅するのを防ぎたいという意味で用いています。なので、この公理は、宇宙の永続性という別名をつけています。実はこの可除性というのがかなりキツい制約になります。


真打登場!フルヴィッツさん、どうぞ!

数学者というのは、何に関しても徹底的に調べ上げる能力に長けています。可除性を持つ代数というのは、驚くほど少なくて、おなじみの実数、複素数の他に、4元数と8元数しかない!ってことをフルヴィッツという人が証明しています。

要するに宇宙が理解可能な存在だとすると、候補は4つのモデルしかないということになります。この辺りから、他の物理理論とは全く違う様相を呈します。

宇宙を記述するのに、実数や複素数は明らかに複雑さが足りません。だから候補は実質的に2つに絞られます。残った2つは一般の人たちにはあんまり馴染みがないかもしれません。

4元数は1つの実数軸と3つの虚数軸を持つ4次元の数です。物理の世界では結構みんな大好きなんですが、うまく使いこなせていません。例えば、特殊相対論で用いるミンコフスキー空間は、4元数とほぼ同じです。4元数には右手系と左手系の区別が最初から組み込まれてるので、単純なミンコフスキー空間より現実の世界に近いかもしれません。実際、スピンと言った概念を説明するのに4元数が用いられます。

そんな4元数なんですが、物理学において全面採用には至っておりません。僕にはよくわからないんですけど、4次元を4元数に置き換えようとすると、微妙に色々書き変わってしまうので、理論の構築難易度が上がっちゃうんだと思います。

そして最後の8元数なんですが、1つの実数軸と7つの虚数軸を持つ数になります。4元数からの自然な拡張で得られるので、とっつきは悪くないんですけど、掛け算のシステムが非常に複雑になってしまい、そのままでは暗算とか絶対できません。そのため8元数を積極的に使って物理学を書き直そうという試みはほとんどありません。


素粒子を例外にしてはいけない

僕らの宇宙には素粒子という奇妙な性質を持つ存在があります。 素粒子は普段は目立たないのですが、普段目にする物質の基礎を構成する存在です。素粒子の性質を説明するにはSU(3)✕SU(2)✕U(1)という複雑な対称性が必要だと言われています。この記号は群論で用いられる対称性の記号で、一応ちゃんとした意味はあるのですが、単なる記号と考えて問題がありません。それでも少しは説明しておいた方がいいと思います。U(1)は複素数的な性質を指します。電荷なんかを議論するのに必要な対称性です。SU(2)は4元数的な性質に対応します。 スピンとか電場磁場なんかを議論するのに必要になります。そしてSU(3)は素粒子が持つ奇妙な性質、ゲージ対称性を議論するのに必要になります。厄介なことにSU(3)は僕らが普段使っている数値ではうまく記述できません。素粒子が持つ奇妙な性質がSU(3)という対称性にきっちり収まり、特定の条件下で計算が可能になるということを示したのがヤンミルズ理論で、ヤンとミルズはノーベル賞をスピード受賞しました。8元数はSU(3)の対称性を持ちます。

SU(3)はSU(2)とU(1)を内包します。そのため、宇宙を記述するには最低でもSU(3)が表現できる代数が必要と結論されます。これが4つ目の公理です。使用される代数が宇宙を記述できるキャパシティーを持たねば、どうあがいても宇宙の真理に到達できないので、諦めた方がいいよという要請です。

公理1〜3で、実質的に4元数と8元数が候補に残り、公理4で8元数以上に複雑さが選ばれます。ということで、公理1〜4で、宇宙が理解可能な存在であるならば、宇宙は8元数の代数で記述されるだろうという予想が成り立つわけです。


S7が最有力候補

8元数だけでは、あまりに平坦で宇宙を記述できるかもしれないけど、宇宙の法則はさっぱりわかりません。そこで、ちょっとした制約を考えます。それはノルムが1というものです。特殊相対論で見たように、物体の時空速度は光速に固定されています。つまり、時空速度のノルムが一定ということです。光速を1となるような単位系を導入すれば、現実の物体の時空速度のノルムは1ということになります。同じように、8元数においてもノルムが1に固定されている可能性を考えるわけです。そのような数体系には、純虚数の8元数、S7というものがあります。S7は7次元の「数」になります。

純虚数の複素数には、「回転」の操作という性質が自動的に付随します。特殊相対論の話の中で、ローレンツ対称性に言及しましたが、これは4元数のノルム1の数体系S3に見られる特徴です。このような性質はノルム1の特殊な数体系の特徴の一つなのです。なので、宇宙はノルム1の8元数で記述されている可能性がかなり高いのです。そのため、物理学ポエムでは宇宙がS7で説明できる可能性を探っていくことになります。




2026年10月24日土曜日

特殊相対論を再解釈すると量子もつれが理解できる説;ポエム解説①

「とてもかんたんだよ。心で見なくちゃ、ものはよくみえない。大切なものは目には見えないんだよ。」(サン・テグジュペリ「星の王子さま」)


特殊相対論を再解釈していくよ!

物理学ポエムではいろんな「怪しい理論」が展開されるのですが、実はそれなりに根拠があります。それをできるだけ解説したいと思うのです。でも、膨大な量になるので、小分けして説明していきたいと思っています。まずは、全然怪しくない部分、「みんな大好き特殊相対論」からです。

特殊相対論とは、誰でも知っているアルバート・アインシュタインさんが1905年に発表した理論です。もう100年以上経っていますが、今のところ反証が見つかっていない、非常に信頼のおける理論です。それどころか、数々の予言を的中させていて、様々な理論の基礎になっています。特殊相対論の導出において、アインシュタインは「光速不変の原理」を導入しました。「光は真空中を、つねに発光体の運動状態とは無関係な、ある一定の速度 V で伝播する」としています。僕たちがどんなに高速に運動していても、光の速度はいつでも一定であるという宣言です。これは僕たちの直観に反します。なので、特殊相対論の理解に当たってはいろいろな混乱が生じます。

ここで語られる様々な考察の多くは、一般的に語られる説明と随分違います。きちんと読み解けばわかりますが、特殊相対論の原則を厳密に適用しているだけで、何か新しい概念を付け足しているわけではありません。というか、一般には別々に説明されている事柄を、慎重に組み合わせているだけ、という側面の方が強いと思います。あと、ここでは一般相対論には立ち入りません。僕の考えでは、特殊相対論と一般相対論は全く別物です。一般相対論は特殊相対論の一般化ではなく、一般相対論は特殊相対論を含みません。ま、これは僕の考えでしかないですし、その根拠を述べるのは別の機会になる予定です。

超有名な特殊相対論ですが、アインシュタインは原著の中で、「我々はここで……光が真空中を常に一定の速度 V で伝播するという前提(Voraussetzung)を導入しなければならない。」とも述べています。光が一定の速度 V で伝播する、とは断言していません。それを前提とする、としています。もし光が伝播するものであれば、断定するでしょう。もし光が伝播するものでない可能性、何らかの理由で、光が一定の速度 V で伝播する、「ように見える」だけでも、この前提を満たします。アインシュタインは、光が空間を伝播するようなモノではない可能性を捨てていなかったと僕は推定しています。

アインシュタインが慎重だったのには、1905年ごろの時代背景が強く影響していると思います。当時は「光の媒介となる実体(エーテル)」を探す実験(マイケルソン・モーリーなど)が悉く失敗していた時代でした。19世紀末にマクスウェル方程式によって、光は空間を伝播する波、としていったん決着しましたが、光の直進性などいくつかの性質は依然として粒子説を支持していました。量子の考え方はもう少し後にならないと出てこないので、光の実体がどうなっているか分からないという状態だったのです。だからこそ、観測のルールとして『光速不変の前提』という慎重な態度をとったのだと思われます。

観測の「仕組み」によって、どんな慣性系からも光が一定速度で伝播しているという結果が得られるのであれば、実際に光が一定速度で伝播していても、観測の仕組みでそう見えるとしても、光速不変は変わりません。光速不変の理由を考えるよりも、光速不変を受け入れたときに何が起こるか考える、というのが特殊相対論のエッセンスなのです。

種明かしをすると、通常の特殊相対論の解釈では、光は一定速度(光速)で空間を伝播する、としています。でも僕は、「観測の仕組み」によって、光は光速で空間を伝播するように見える、と考えています。どちらも特殊相対論の原則である、光速不変の原理、を逸脱しているわけではありません。


ミンコフスキー計量について

ここでは特殊相対論の導出をしたいわけではないので、結論を述べたのち、その解釈について考察していきます。

最初の結論は、ミンコフスキー計量と固有時間の概念です。特殊相対論では時間と空間をごちゃまぜにした時空という概念が導入されるのですが、時空においては「距離」の概念が少し修正されます。具体的には、時空での距離はミンコフスキー計量が適用されます。

$d\tau^2=(c dt)^2-dx^2-dy^2-dz^2$

という形で「距離」が定義されます。この距離は固有時間とも呼ばれます。次元を落として、

$d\tau^2=c^2 dt^2-dx^2$

原点を出発点とする光の運動を考えると、 $dx = c dt$ なので、$d\tau=0$が得られます。これをもって、光は固有時間0で伝播する、とされます。これはヌル条件とも呼ばれます。$x = c t$ を× $(x,t)$の平面に図示すると、斜め45度の線になるので、これを以って、「光円錐」という概念が語られます。

さて、ここからが本番です。ミンコフスキー計量の両辺を$dt^2$で除して、整えます。

$c^2=(\frac{d\tau}{dt})^2+(\frac{dx}{dt})^2+(\frac{dy}{dt})^2+(\frac{dz}{dt})^2$

ここから、固有時間というものを考えると、4次元時空中での「時空速度」は常に$c$ということが導かれます。これは、一部の人たちには有名な話です。例えば、ブライアント・グリーン「エレガントな宇宙」など。

そうすると、速度を変更する=加速する、という概念が少し修正されます。すなわち、速度が変化したとしても、時空速度は常に$c$なので、空間での速度の変化は、4次元時空では固有時間の方向が、変化=回転、することに対応します。要するに、加速とは、4次元時空での回転なのです。これはローレンツ対称性と呼ばれています。この描像はウィック回転と呼ばれています。

有名なローレンツ変換はこれを3次元時空で見たときの操作になっています。特殊相対論の世界では、速度ベクトルの足し算は厳密には成立しません。4次元時空で考えると、いかなる速度ベクトルの変化(加速)においても、時空速度が$c$を超えてしまうのです。半径$c$の(超)球面からはみ出した時空速度を縮めて(超)球面に押し戻す計算がローレンツ変換です。

慣性系を時空速度で考えれば、固有時間方向のベクトルになります。その最大値は垂直の方向。最大速度の光は、固有時間0の方向に「飛んでいく」=慣性系の固有時間方向に対して垂直、となります。つまり、時空速度で考えると、光は45度(光円錐)ではないのです。


光速$c$について

特殊相対論に関する説明では、物体は速度が光に近づくと時間の進みが遅くなる、とされます。この記述に違和感を感じる人はなかなか素晴らしいです。特殊相対論の結論として、時間は慣性系に依存するのだから、時間の進みが変化しても問題ありません。でも、時間の進みが遅い(あるいは早い)というとき、基準がどこかにないといけません。でも、そういう時間の基準は存在しない、と特殊相対論は結論付けています。ロジック、分かります?

加速とは時空速度を回転させることでした。最初の固有時間(方向)をAとしましょう。少し加速すると、時空速度が少し回転し、新たな固有時間Bを得ます。固有時間Bからさらに加速すると、さらに回転し、固有時間Cを得ます。その結果、固有時間はどんどん傾きます。ただし、1回の加速が同じならば、A→BとB→Cの角度変化は同じはずです。加速を続けるにはエネルギーの問題があるのですが、とりあえずエネルギーの問題を無視すれば、加速を続けることで、固有時間はぐるぐる回ります。その途中で、固有時間Aに対して垂直を通過するでしょう。固有時間Aに対して垂直、とは固有時間Aから発する光と同じ方向です。つまり、加速を続ければ光速に至るのです。

いやいや、加速を続けても光速に達しないって、みんな言ってる。それは間違い?光速に達する?達しない?どっち?実はこれはどちらも正しいということになります。違いは、誰から見たときの真実か?

加速する物体を外から眺めているならば、その物体は永遠に光速に達しません。なぜなら、加速して速度が増すにつれ、物体内部の時間の進みが、「外側の観測者から見たときに」遅くなり、時間当たりの加速が小さくなっていきます。だから、永遠に光速に到達しません。

一方、加速する物体の立場では、時間の進みは遅くなりません。常に一定の加速が続きます。出発地点(固有時間A)から考えると、有限時間内で固有時間Aにおける光速に達します。ただし、物体が光速に達したときというのは、固有時間Aからみると永遠の時間経過時点、その頃には宇宙が滅んでいるかもしれません。

それでもちょっと変な気がします。光速に達した物体はどのように見えるでしょう?答えは、「見えない」です。物体を見るには、物体から発した光を受け取る必要があります。さて、光速に運動する物体から発せられる光の方向はどうなるでしょう?光は固有時間に垂直に発せられ、光速に運動する物体の固有時間は、観測者の固有時間に垂直です。つまり光速の物体からの光は、観測者の固有時間の垂直状態から垂直に発せられます。絵に描けばすぐわかります。観測者の固有時間と平行ですね!つまり、永遠に交わらない=光が届かない、というのが答えになります。見えないんだったら存在しないのと同じなんでしょうか?どうなんだろ?


光は時空の2点を結ぶ

光速とは物体が到達できない限界の速度であり、光は常に光速で伝播する特別な存在だ、って僕たちは教わります。でも、先の例にあるように、加速を続けることさえできれば、(現実には不可能だけど)光速に達するだけでなく、見かけ上、光速を超えることすらできるのです(見えないけど)。では光の特別さはどこにあるのでしょう?

光は観測者(発光点)の固有時間に対して垂直な方向に飛ぶ?のであり、その方向こそが同時の定義であるということになります。同時より固有時間側は未来であり、その反対側は過去と定義できます。この描像は、観測者の固有時間に基づく定義で、観測者が変わると、状況は変化します。

そこで、ここからは、発光点と吸光点の2つを考えて、その間を光が移動する状況を考えていきましょう。

特殊相対論の最も大きな結論の一つは、異なる2つの地点に共通する時間を概念レベルで否定する、というものです。その代わり、光を同時の概念の代わりに用います。これはある意味、前提に近いものです。観測される光速があらゆる慣性系で同じになるためには、時計が観測系に依存しなければならない、ということが、アインシュタインの発見です。

物体の運動は時空中の軌跡として描かれます。このとき、観測者の軌跡は(固有)時間方向に直線ですが、観測者が観測する物体の運動はそうではありません。物体の時間経過は、物体の軌跡に沿ってミンコフスキー計量$d\tau$を積分したものになります。

同じような固有時間の積分を光の軌跡に関して実行してみましょう。光の軌跡は$d\tau=0$であると、以前のセクションでわかっています。なので、いくら積分しても固有時間は進まない、と結論できます。すなわち、光の軌跡上は同じ固有時間=同時、ということになります。ホントかウソかわからないのですが、特殊相対論の着想に至るために、アインシュタインは光の速度で飛んだらどうなるか、という思考実験を行ったと伝えられています。果たして、アインシュタインは、光の速度で飛ぶと時間が進まないという結論を見出していたのかどうか。

この結論は興味深い事実を導きます。2点間を光が結ぶとき、発光点と吸光点の間を飛ぶのに時間がかかると考えがちです。でも、光にとっては2点間を瞬時に移動していることになるのです。それはもはや移動と言えるのか?そういう疑問が生じます。

でもそういう疑問が、むしろ福音である分野があります。みんな大好き量子力学です。量子力学では、発光と吸光が同時に混ざる、とされます。結果=吸光がおこならない限り、原因=発光が生じない、ということを量子力学は要請します。言い換えると、原因と結果が「同時」じゃないと都合が悪いということです。

さあ、結論が出ました。特殊相対論によれば、光は発光点の同時の方向に発せられ、吸光点に届きます。発光点から見れば吸光点は「同時」なのです。それはつまり、発光点と吸光点が「同時」の概念でつながっていることを意味します。その間に、発光と吸光の同時性を要求する量子力学が成立しても、何の違和感もありません。

量子力学における因果の同時性は、特殊相対論と相性が悪いわけではないということが説明できました。でも、僕らは実世界で因果の区別を感じています。一方の量子力学では因果の区別ができないということで、両者の矛盾が問題とされています。さて、発光と吸光の量子力学過程の特殊相対論的描像において、発光と吸光には明確な区別があります。それは、発光点と吸光点をつなぐ光は、発光点の固有時間に垂直だけど、吸光点の固有時間に対して垂直とは限らない、という事実です。つまり、原因=発光と、結果=吸光には、2点をつなぐ線分とそれぞれの地点の固有時間との角度に関して明確な区別があるということです。一般に、吸光点の固有時間から見ると光の方向は、普通は過去側にあります。つまり、吸光点からみると結果が現在で、原因=発光点は過去にあるのです。そのような違いに基づいて、僕たちは「同時」につながっている量子力学過程に、時間的順序という因果の概念を認めているのです。

この描像は量子もつれを見事に説明します。量子力学によれば、原因と結果は両方同時に確定する、とされています。因果関係の文脈では、発光が起こらないと吸光が生じない、というのが常識です。一般に、光子の移動には時間が必要なので、発光が先、吸光が後、ということになって、時間的な順序から、発光が原因で、吸光が結果、に割り当てられています。でも、量子力学的文脈では、吸収が起こらないと発光が生じない、というのもアリなのです。その場合、時間的に後のはずの吸収が原因で、時間的に先のはずの発光が結果になるのです。そのような時間(時空)的逆転現象のことを「量子もつれ」と呼び、時間的逆転状態のことを「エンタングルメント」と呼んでいます。でも、ここで議論したように、発光と吸光は同時の概念である光で結ばれており、現象的な順序は意味消失しているのです。だから、「量子もつれ」は不思議でも何でもない、と結論できます。

さて、ここに至り、光は空間を時間をかけて移動する存在なのか、ちょっと疑問になります。量子もつれは、情報なりエネルギーを未来から過去に運ぶので、因果関係が狂ってしまい混乱します。でもここで議論したように、量子力学過程にはそもそも因果関係は存在せず、特殊相対論的な事情で、時空の2点間の時間的序列を無視して、光が2点間を「同時」の概念でつないで、量子力学過程を成立させているのです。光の移動に「時間」は要らないのです。なぜなら、「同時」だから。

そうすると、光は粒子というより、線と考えた方が良くなります。発光がないと吸光がなく、吸光がないと発光がないのであれば、光は両端を持つ線分としてしか存在できなくなります。ま、すごく長い粒子、と言えなくもないかな?


星空を見上げる

光が届く範囲はすべて、「発光点の同時」であるという結論は、驚くべきことです。近い範囲の発光と吸光現象ならそれほど違和感がないかもしれません。でも、もっと遠い2点間の発光と吸収だと、僕たちの常識が破壊されます。極端に遠い2点間の発光・吸収現象の典型例は、星空です。

星空を眺めるとき、僕たちは何億光年も遠くの星の光を目の中で受けます。そう、遠い星の発光と、僕たちの目の中の吸光が、星の光でつながっているのです。

よく考えると、「光年」という単位は、僕たちに届く光を、発光点の距離で測る、そういう単位です。光が届く範囲は「発光点の同時」なので、発光点がどれだけ遠くにあっても、発光点と同時につながることができるのです。

量子力学の原則に基づくと、吸収がなければ発光は生じません。つまり、僕たちが遠い星を観測しないと、遠い星での発光は生じないのです。僕たちは遠い星の光を見るたびに、「おそらく過去」の星で生じている発光現象に影響を与えているのです。量子もつれは、100億光年彼方であっても、生じるのです!


2026年10月21日水曜日

宇宙が理解可能である条件から始まる旅;物理学ポエム

 ちょっとしたポエムを作った。

単なるポエムというわけではないので、解説も追加していこうと思う。

「宇宙が何のためにあり、なぜ存在するのかを完全に突き止めた者が現れた瞬間、宇宙は忽ち消え去り、より奇怪で説明のつかない何かに置き換わる。さらに厄介なことに、それはすでに起こってしまった、と主張する者もいる」(ダグラス・アダムス「銀河ヒッチハイク・ガイドガイド」)


序

宇宙にはなぜ法則があるのだろうか?

その発想は逆かもしれない。

宇宙に法則のようなものがあるから、僕たちは宇宙を理解できる。

そして僕らは満足する。

僕たちは宇宙を理解したいのだ。


果たしてそれは成功するだろうか?
そもそも宇宙は僕たちが理解できるようなものではないかもしれない。
それでも僕たちは宇宙は理解できるものだと信じている。
それは根拠のない祈りのようなものだ。
これは僕のささやかな願い。
であれば根源的な問いは次のようになるだろう。


起

宇宙がもし理解可能なものであるならば、宇宙はどのような条件を満たしてなければならないだろうか?


1つ、宇宙における状態あるいは現象は何らかの数に対応させることができる。
その数はどんなものかはわからないけれども、何かしらの法則を当てはめるためには、状態は数のようなものに対応していなければならないだろう。
これはすなわち 記述可能性の要請と言い換えることもできる。

2つ、宇宙の状態は何かしらの代数構造を持つ。
法則とは決まった条件下で予測が可能であるということだ。
条件というのはすなわち何らかの数に対応しており、その数に対して何らかの操作すなわち代数が対応しているはずである。
これはすなわち予測可能性の要請と言い換えることができる。


3つ、その代数は可除性を備えていなければならない。

我々の宇宙は観測可能な範囲で非常に安定して存在している。

もし、宇宙に備わった代数が演算の途中で0を出力するようなものであれば、宇宙はこれほど安定していないだろう。

代数において演算結果が0にならないことを可除性という。

これはすなわち、宇宙の永続性の要請と言える。


アドルフ・フルヴィッツは、これら3つの要請を満たす代数は、実数、複素数、4元数、8元数の4つしかないと証明した。

悲しいかな、宇宙の選択肢は4つしかない。


そして観測事実として、僕たちの宇宙には素粒子という奇妙な粒子?が存在している。

これを4つ目の要請としよう。

すなわち、4つ、宇宙の代数は素粒子の対称性を記述できなければならない。

この奇妙な粒子を記述できる可能性があるのは8元数しかない。

完全な可除性を保証するには、宇宙に許される代数は積のみで構成されねばならない。

そのような条件を持つのは閉じた8元数=純虚数の$S^7$になる。

$S^7$にはそもそも0が含まれない。


続

$S^7$には結合的な虚数軸3つと非結合的な虚数軸4つが含まれる。
結合的な3つの虚数軸は空間のような性質を持つ。
僕らがよく知る3次元空間はこの結合的な3つの虚数軸と関係するはずだ。
$S^7$が閉じていることを鑑みると、時空速度ということになるだろう。
$S^7$の3つの結合的虚軸は3次元空間の方向を定める。
$S^7$には致命的な弱点がある。
非可換かつ非結合的で演算に厳しい制約が課されてしまう。
身動きできない代数では物理が構成できない。


さて、我々が物理と呼んでいるものの正体は何だろう?

僕たちが物理として考える現象は、2つの状態間の相互作用を最小単位としているということに尽きる。

$S^7$の世界で、少なくとも結合性ぐらいは保障される、そのような演算は存在しないだろうか?


エミール・アルティンは「たとえ代数全体が非結合的であっても、特定の条件を満たす任意の『2つの要素(a と b)』が生成する部分代数は結合的である」と述べている。

$S^7$において、その条件は1つの虚数軸を共有することである。

$S^7$において、1つの虚数軸を共有するとは、2つの状態をヌル条件で結ぶことに対応する。

特殊相対論においてヌル条件とは時空中の2点を1本の光線でつなぐこと。

「観測」の条件であり、それは「相互作用」の条件でもある。

もちろん知っていたさ。

だって、観測は相互作用を通じて行うんだからね。

そして!アルティンの定理で結ばれた2点間の代数からは非結合性が取り除かれ、物理が成立する余裕が生まれる。

でも!未だ非可換だ。

非可換の代数では、演算は余積を通じたものになる。

すなわち!特殊相対論の同時性で結ばれた2点間に余積代数が成立する!

余積代数は別名を量子代数と言う。

おお!これこそ奇跡!

特殊相対論は$S^7$に物理を取り戻し、量子力学を残すのだ。


承

$S^7$から切り出された量子力学は、「2つの状態が特殊相対論の同時の概念で接続されて相互作用する」、というストーリーを与える。

つまり、原因と結果に分類される2つの状態は、相互作用の観点からは同時であり、原因と結果の区別から印象付けられる時間的な順序は存在しないということを説明する。


4次元時空における2つの状態はそれぞれ固有時間が違うので、相互作用の線分との交差角度が違う。

この角度の違いが原因と結果の区別を与える。

特殊相対論は2つの地点に共通の時計の存在を否定したのであるから、離れた地点間の時刻的な前後を議論することはそもそもできなかったんだよ。

片方の地点から、もう片方の地点を見た時に自分の固有時間との角度に応じて、過去や現在とラベル付けしてただけなんだ。

こうして原因と結果の関係を再定義すれば、量子もつれは不思議な現象でもなんでもなくなる。

2つの地点を結ぶ相互作用の線分の角度が、特別な操作によって制御されたものである時に、それを僕たちはエンタングルメントと呼ぶ。


余

このシナリオの最後には1つの衝撃的な結論が控えている。

何と光は空間を光速で移動しているわけではない、 そもそも粒子でもない。

何かしらの存在があるわけでもない、ということだ。

光は相互作用の運び屋であり、僕たちは相互作用があったということを以って、その間に光が移動したと僕たちは認知する。

だから僕たちは光を見たことなんて一度もないんだよ。

僕らが認識しているのは相互作用があったという事実のみだ。

力を伝える粒子というのは、そもそもこういうものかもしれない。


$S^7$の3つの軸は結合的で、残り4つは非結合的だ。

結合的な3つは比較的自由だけど、非結合的な4つは厳しい条件が課される。通常の相互作用では、非結合的な部分は定数のように振る舞うことになる。

$S^7$のノルムは固定なので、非結合的4軸のノルムは結合的3軸のノルムに対して「重し」になる。

すなわち、非結合的4軸のノルムは質量のように見えるだろう。

そして、相方の結合的3軸は運動量、と言うことになる。

時空は$S^7$のフーリエ双対として生まれるかもしれない。

もしそうなら、非結合的4軸は時空にわずかな歪みを生むことになる。

概ねそのノルムに比例する歪みを。

果たして、慣性質量と重力質量は異なることなどあり得るだろうか?


還

ルス・ムーファンは、アルティンの定理で切り出された部分代数にムーファンループと呼ばれる離散的で巡回的な結合則があると指摘した。

ムーファンループは、回転のような特徴を持つ。

ただし、その回転は時間の概念の外側に存在するので、光速を超えた回転運動のように見えるだろう。

電子のスピンなど、素粒子の性質が通常の物理法則と全く異なることと対応するだろう。

僕たちが観測できるのは、それらの回転操作の不変量に対応するはずだ。


$S^7$においてアルティン切断は特殊な幾何学配置を生む。

正16胞体と呼ばれるそれは、ムーファンループによって、正24胞体と言う奇跡の図形を構成する。$S^7$はSU(3)の対称性を含むが、アルティンの定理によって切り出されると対称性が不完全になる。

しかし!ムーファンループで再構成された正24胞体はSU(3)を離散的な形式で含む。

SU(3)!離散的!

これこそ素粒子の特徴!


アルティンの定理によって切り出された相互作用は結合的ではあるけれど、$S^7$自体は依然として非結合的だ。

でも悲観することはない。

$S^7$の非結合性はとても重要な事実を説明してくれる。

すなわち宇宙に歴史があることだ。

非結合性とは、(AB)CとA(BC)が異なることなど。

ミルクの入ったグラスを床に落とした状態と、ミルクをこぼしてからグラスを落とした状態は決して同じではない。

宇宙には明らかにそのような性質があり、その性質はすなわち非結合性と言える。


始

話が大きく広がってしまったけれど、思い出してほしい。

僕たちの出発点は、単に宇宙が理解可能な存在である条件だった。

それは僕のささやかな願い。

それだけだった。

宇宙を理解するとは、そのたった1つの願いを持ち続けることに他ならない。


2026年9月3日木曜日

フィッティングと機械学習

 

PRMLという標準教科書

機械学習と言うのは今では人工知能(AI)とほぼ同義の専門用語である。正確に言うと機械学習は人工知能の実現方法の一つでしかないのだが、現在流通している人工知能の大半は機械学習をベースとしてるものだ。機械学習と言う概念が一般化したのは2000年代であり、人工知能の概念に比べると比較的新しいと言える。

ご存じのように人工知能は爆発的に普及しつつあり、現在、最重要課題の一つである。そのため、多くの人がそのベース技術である機械学習に興味を持ち、様々な解説が世の中にあふれている。しかしながら、機械学習のルーツは人工知能とはかけ離れたフィッティングにあり、人工知能とフィッティングの両方に精通した人は最先端の研究で忙しいことから、一般向けの解説ではうまく説明されていないように思う。

機械学習の分野ではC. M. Bishopの「Pattern Recognition and Machine Learning (PRML)」という本が標準教科書とされている。日本語訳が共立出版から2分冊として販売されている。手心を一切含まないことで定評のある黄色い本のシリーズである。驚くべきことに、このPRMLの上巻はほとんど丸ごとフィッティングの基礎について書かれている。下巻も半分くらい高度なフィッティング技術についての解説となっている。読者の多くは人工知能に興味のあるソフトウェア技術者なので、少々面食らうことになる。

フィッティングは数値計算の一分野であり、計算機科学の一部ではある。そのため、ソフトウェア技術者は、そういう技術が存在すること、ライブラリがあること、を知っている。大学などでフィッティングの基礎(最小二乗法)について学んでいるかもしれない。でも、フィッティングの専門家でない限り、19世紀の技術である最小二乗法の知識にとどまる。だからこそ、PRMLでは、機械学習で必要とされる進んだ=モダンなフィッティング技術、をコンパクトに記述している。このコンパクトさは、まあまあ妥当なんだけど、手心を一切含んでいないので、本を読むだけではなかなか理解できない。そのため、機械学習の研究室では「PRML読書会」が普通だし、「PRML解説本」すら存在する。ソフトウェア界隈の傍流であるフィッティングを理解するには、周辺の理解を含めて膨大な「新規学習」が必要なのだ。

ソフトウェア界隈の主流の一つである人工知能分野ではニューラルネットワークという概念が今も支配的である。ホップフィールドがニューラルネットワークの概念を提案し、学習プロセスとしてバックプロパゲーションというアルゴリズムを導入することで、本格的な人工知能研究が始まったという歴史的な経緯がある。そのため、人工知能=ニューラルネットワーク≒ホップフィールドモデルというのが人工知能分野のセントラルドグマとなっていた。そのため、人工知能の導入においてはほぼ必ずニューラルネットワークへの言及がある。ところがPRMLではニューラルネットワークの話が欠落している。


ニューラルネットワーク信仰

ある程度人工知能に関する知識を持つ人はニューラルネットワークという言葉が出てくると安心するらしい。しかしながら、機械学習は最初の段階でニューラルネットワークと決別することで発達してきたという側面がある。機械学習とニューラルネットワークの最大の違いは「ニューロン」に相当する要素の数である。機械学習の要素数は、従来のニューラルネットワークの要素数に比べて1万倍から1億倍となっている。そのため、「ニューラルネットワークの構造(配線)」という考え方が機械学習では存在しない。従来型の人工知能が、計算規模抑制の観点から、なるべく小規模なニューラルネットワークで複雑な機能を実現しようとしていたのとは対照的に、機械学習では計算規模の制約を取っ払って力業で複雑な機能を実現するという点で、思想的に異なる。

「計算規模の制約を取っ払う」には計算規模の問題だけでなく、計算の不安定化の問題を解決しなければならなかった。計算規模の問題は21世紀に入って急速に発達したGPUによる計算技術が解決策となった。計算の不安定化の問題はフィッティング技術の発達が解決策を与えた。GPUによる計算はエンジニアリングの範疇であり、科学的な飛躍と言うわけではない。一方、最先端のフィッティング技術の導入は機械学習の核心と言える。

ご存じのように人工知能は爆発的に普及しつつあり、現在、最重要課題の一つである。多くの人がそのベース技術である機械学習に興味を持ち、様々な解説が世の中にあふれている。しかしながら、機械学習のルーツは人工知能とはかけ離れたフィッティングにあり、人工知能とフィッティングの両方に精通した人は最先端の研究で忙しいことから、一般向けの解説ではうまく説明されていないように思う。


フィッティング

フィッティングという概念が確立したのは19世紀初頭の小惑星ケレス再発見に端を発する。ガウスはケレスを再発見するために最小二乗法を考案し、利用したと言われている。最小二乗法はフィッティング変数が増加すると計算量が爆増するため、大規模なフィッティングは実用的ではなかった。変数が2個程度であれば、プロットして近似直線を引くのが簡単だ。変数3個なら最小二乗法も可能であるが、変数が4個になると手計算が困難になってくる。問題を工夫して変数2個のフィッティング問題に帰着させるというのが、現実的な解であった。

そういった状況が150年ほど続いたが、状況を一変させたのは第二次世界大戦であった。第二次世界大戦では大砲による精密射撃が戦況を左右するため、砲撃の誤差を修正する方法が重要となった。空気抵抗や風の影響を考慮した弾道計算はかなり複雑でパラメータも多い。そこで米軍は軍属や未亡人女性を中心に大規模な人力フィッティング計算を行っていた。それでも計算量が莫大であるため、省力化のための研究も行っていた。その中でLevenbergが画期的なフィッティングの省力化手法を開発した。彼の手法が戦争で実際に役立ったのかはわからないが、米軍の紀要に発表している。

Levenbergの仕事はほとんどだれの目にも触れなかったが、第二次世界大戦後に急速に発達した計算機技術の重要な応用分野としてフィッティングが研究され、MarquardtがLevenbergと同じ省力化手法にたどり着いた。この方法はLevenberg-Marquardt法(LM法)と呼ばれ、非線形最小二乗法の計算コストを10分の1程度に圧縮した。

LM法は限定的ではあるが、フィッティングパラメータ数の上限を撤廃する効果を有していた。つまり、安定性の問題はあるが少ないデータで大量のパラメータを決定できる可能性を拓いた。その可能性に目を付けた一部の研究者は「逆問題」という分野を形成し、より高度なフィッティング技術を次々に生み出すことになった。

2000年頃、機械学習の創始者たちは任意のニューラルネットワークが標準的なフィッティング計算に「完全に含まれる」ことに気が付き、ニューラルネットワークを捨て、行列演算で人工知能問題を解くようになった。そこではホップフィールドのバックプロパゲーションは最小二乗法より原始的な最急降下法であることが示され、より高度なフィッティング技術を移植して学習プロセスをより柔軟に運用することができるようになった。

計算機技術の発達により、機械学習は規模の臨界点を超え、万能性を獲得し、今に至る。ホップフィールドとの決別こそが、人工知能爆発の原動力だったというのが僕の見解である。なのにホップフィールドにノーベル賞を与えるとは!嘆かわしい。


人工知能の数式

うちの研究室では、最もシンプルな人工知能を次式で表している。

$Y_i=X_{ij} A_j$

大文字の英字は行列あるいはベクトル(列が1個の行列)である。添え字は行列あるいはベクトルのサイズ(次元)を表している。添え字が2このものは行列、添え字が1個のものはベクトルである。この表式は、機械学習の基本式であり、人工知能が基本的に巨大な連立方程式であるという理解を与えている。見てわかるように、ここにニューラルネットワークが入り込む余地は全くない。

この式において、$A_j$は人工知能への入力、$Y_i$は人工知能からの出力である。そして、人工知能の本体は$X_{ij}$である。この式は、人工知能を使う場合の数式である。

一方、人工知能には学習という大事なプロセスがあるが、この数式における学習とは、多数の$Y_i$と$A_j$の組から、$X_{ij}$の要素を決定すること、だと定義される。もし、$A_i$に「逆数」があれば、$X_{ij} =Y_i A_j^{-1}$として$X_{ij}$が求まるがこれはできない。学習データである$Y_i$と$A_j$は多数あるとして、それに$k$のインデックスを与えれば、$Y_{ik}$と$A_{jk}$となり、$Y_{ik}=X_{ij} A_{jk}$と書ける。これでも$A_{jk}^{-1}$は作れないが、

$X_{ij} =Y_{ik} A_{jk}^t ( A_{jk} A_{jk}^t )^{-1}$

とすれば、形式的には解ける。ちなみに、この数式、ほとんど最小二乗法と同じものである。ここから、フィッティング技術を利用した様々な学習技術が編み出されることになる。


こんな簡単なことなら、もっと早くに機械学習の概念が認知されてもよかったと思うかもしれない。でも、フィッティングと人工知能の融合には一つの極めて重要なブレイクスルーが必要だった。それは、パラメータ数>>データ数という条件を認めるかどうか、というものだ。

一般に、フィッティングではパラメータ数はデータ数より十分小さくなければならない。最小二乗法などはこの条件を満たさない限り、数学的に破綻する。パラメータ数がデータ数を上回るということは、ちょっとの実験で、多くの解析結果が得られるということになり、実験科学における錬金術のような状況が生まれてしまう。パラメータ数<データ数という条件は、科学の正当性を担保する哲学の一部になっている。しかしながら、機械学習では$X_{ij}$の要素数は膨大で、$Y_{ik}$と$A_{jk}$の要素数よりはるかに多い。つまり、パラメータ数>>データ数というフィッティング問題になっている。

ここで、2つの障害が立ちはだかる。パラメータ数>>データ数でフィッティングを実行できるか?ということと、パラメータ数>>データ数であるフィッティング結果に意味があるのか?という2つの問いにどちらもYESで答えねばならないということである。

20世紀末~21世紀初頭にかけて、この問題について、徐々に認知され、そして両方ともYESで大丈夫という共通認識が形成されるに至っている。パラメータ数>>データ数でフィッティングを実行できるか?というのは、実際にそれが実行可能であるという事例を示すことで解決した。非線形最小二乗法の代表的な改良法であるLevenberg-Marquardtはパラメータ数>データ数でのフィッティングを可能にする。20世紀後半に登場したフィッティング技術であるMaximum Likelihood、Maximum Entropyも、同様の効果をもたらす。そしてとどめは、Sparse Modelingで、パラメータ数>>データ数という極端な条件でも安定して良好な結果が得られることを実際に示した。一方の、パラメータ数>>データ数であるフィッティング結果に意味があるのか?については、数学的にはなんと100年も前から、裏付けがあったということが再発見されている。すなわちMoore-Penroseの一般逆行列の存在が数学的な裏付けとなっている。

そして、パラメータ数>>データ数でのフィッティングがなぜ実行できるのか?ということに関しては、Tikhonov Regularizationという考え方が、根拠を示している。ターゲット関数に付加項を考えることで、解の可能性を絞ることができ、フィッティングを安定化させられるのだ。こうして全方位的に、パラメータ数>>データ数の問題を解決した結果、フィッティング技術は全く別次元の応用分野を見出すに至った。それが機械学習である。機械学習が21世紀初頭に急速に発達したのは、フィッティングにおけるこれらのブレイクスルーが直接のきっかけだったとも思われる。現代の人工知能を語るうえで、機械学習技術は基礎をなしており、機械学習技術のかなりの部分がフィッティングの分野からもたらされているのだから、機械学習の聖典であるPRMLの大部分がフィッティングに関する記述であっても、まったくおかしくないわけである。


2026年3月26日木曜日

落ちこぼれないために落ちこぼれるという戦略




 学者という商売。僕のこと。

一般の基準に照らし合わせれば、僕は知的階級の頂点付近に位置する学者と言う職業についている。そして学者としてはあんまり優秀ではないんだけど、能力的には学者の中でもかなり上位に位置している、と思っている。学者に要求される能力と言うのは多様で、そのすべてで及第点を要求される。知識量が豊富なこと、理解が深いこと、洞察力に優れること、発想力が豊かなこと、実行力が高いこと、論文執筆に秀でること、それから事務能力が高いこと。

最初の方の項目は割とわかりやすい。そして論文執筆能力は学者としての成否を決定的にする。最後の事務能力は実は中年以降にとても大事になってくる。研究室を差配し、組織を統括する能力は研究とは真逆だ。

僕は最後の2項目を除いて、おそらく優秀だと思う。論文執筆が不得意(性に合わない)なので、学者としては2流にとどまる。事務能力に関しては完全に破綻している。持ち前の理解力と洞察力でなんとかしているものの、勤勉さとは対極にあるため他の人たちのサポートが必須だ。なさけない。

一つのことに突出することを求められがちな学者だけど、実はいずれの項目についても平均以上の能力を要求される。もちろん、完全にとびぬけていれば許される場合もある。例えば、数学や物理の理論分野が該当する。著名な理論物理学者の中には完全に話の通じない人も少なからず存在する。かのアインシュタインもドモリがあったし、女性関係は支離滅裂だった。そういった例外はあるもの、学者の世界において優秀とは、勤勉で物わかりの良い「秀才」を意味する。


学生時代

大学に入学して思い知らされたのは、講義内容がさっぱり理解できないことだった。特に数学。ついで物理。高校時代はいずれも僕の得意分野だったので、大学の講義内容が理解できないことにたいそうショックを受けた。そして、理学部ではそういった講義を修めた上で研究に携わるという。僕は工学部だったので多少はマシなのかもしれないけど、講義内容を理解できる見通しが全く立たないので自分の能力の不足を恨むしかなかった。学年が上がるごとに講義内容は高度化して、すくなくとも一部はあきらめるざるを得なかった。

一方で、講義を担当する教官たちは、僕が理解できない内容をさも当たり前のように講義する。当時の僕は講義内容を理解できないのは僕の能力と努力が不足しているのだと思っていて、じっと講義を聞いているばかりだった。確かに教官たちは「正しいこと」「結論」を正確に述べているのだろう。でも僕には、「そもそもその話の必要性がわからない」し、「その話の結論がどのような意味があるのもわからない」。また、「その話が何を対象にしているのかもわからない」ので、「どこから手を付けたらよいのかわからない」。わからないこと尽くしで混乱するばかりだし、わずかにわかる話も、論理の根拠が十全に説明されているようにも思えないので、納得がいかない。僕はずっと悶々として過ごした。

処世術として、わからないなりに受け入れて、試験を暗記で乗り切って単位を貰って次に進む、というものがある。これは合理的な対応で、おそらくほとんどの学生たちはそのように対処する。でも僕は、大学での勉学を、将来社会に出たときに必要になる事柄と考え、わからないまま単位を貰ってわかったふりをするのは間違っていると思い、理解できるまで単位を放棄するという方針を貫いた。ごめんなさい、言いすぎました。本当は、落単すると留年する単位は涙を呑んで単位を取りました。そんなわけで、僕の学部時代の学業の成績はひどいもので、成績表をして水戸黄門と呼んでました。その心は「可、可、可...」

僕みたいなことをしていると、「落ちこぼれ」になるわけです。要領の良い人たちは、落ちこぼれないために、「わかったことにして先に進む」という選択をする。つまり、落単して落ちこぼれるよりは、落ちこぼれていることを隠すという戦略を取る。往々にして先の勉強をしているうちに、以前わからなかったことがわかってくるということがあるので、悪い選択というわけでもない。

いや、とっても優秀なら、たくさん勉強してちゃんと理解して先に進んでいけるのかも。リチャード・ファインマンの大学時代のルームメイトによるファインマンの逸話を読んだことがある。ファインマンは学生自分からめっぽう勉強ができて、何を聞いてもスパスパ答えてくれたらしい。ある時、ルームメイトがファインマンに次のように尋ねた。「どうやったらそんなに勉強できるの?」ファインマンは「朝から晩まで寝食を削って勉強するんだよ」と答えたそうだ。何事にも魔法はなく、才能よりも努力が重要と言うエピソードである。ま、そういう努力のできる人たちだけが到達できる世界があるわけで、研究者の世界はそういう人ばかりということなんだろう。そういう人を養成するという目的ならば、落ちこぼれ上等、でわけのわからん講義も正当化される?かもしれない。ちなみに、ファインマンは20世紀を代表する超のつくド天才。例外中の例外。

さて、「わかったことにして先に進む」を選択し、「以前わからなかったことがわかってくる」を期待するも、そうならなかったらどうなるか?実のところ、このようなケースが多いというか、ほとんどだ。「以前わからなかったことがわかってくる」なんてラッキーはそうそう起こらないものだ。しかも、「わかったことにして先に進む」というのは基礎科目の最初にこそ多い。基礎科目と言うのは簡単だから基礎と言うわけではない。重要だから基礎なのだ。そして重要であるというのは、概念的に他の要素と独立しているからこそ重要と位置付けれられる。要するに、重要=特別に勉強しないといけない=難しい、ということだ。だから、基礎科目は往々にして難しい。そして最も難しいのは冒頭に説明されるその科目全体に影響する「概念」である。そして「わかったことにして先に進む」ときに「わかったことにする」内容こそ、その「概念」で、それが理解できていないとその科目全体の理解が浅くなる。つまり、努力の割に学習効果が薄いという状況が生まれる。

そして基礎科目は他の科目の土台になる。基礎科目の理解が浅いとその上に構築される科目の理解も浅くなる。そうして非効率な勉強が再生産されることになる。ファインマンはやはり賢い。「わかったことにして先に進む」ことをせず、コスト度外視で勉強して理解するという選択により、より高み到達できる。実際、ファインマンは誰よりも高み到達できている。僕も「わかったことにして先に進む」ことを否定したものの、ファインマンのようにコスト度外視じゃなくて、単に打ちひしがれてた。差を感じるよ。


今

さて、紆余曲折合って今の僕は学者で、大学で教鞭をとっているわけで、立場は教官となった。うちの大学だけかもしれないけど、「○○さん、この講義お願いね~」と軽い挨拶みたい感じで講義担当が依頼されてしまう。僕の専門とか適正とか、考慮した上での差配ではあるんだけど、あまりにも大雑把。しかも、内容は担当者に丸投げ。基礎科目だったら誰でも講義できるっしょ?みたいな前提で物事がすすんで、実際に講義がなされる。講義内容と教官の専門分野に直接の関係がないこともしばしば。教官がその講義内容をきちんと理解しているかどうかはノーチェックなのだ。実際、僕の知る限りでも、中途半端な理解で講義をこなしていた人も実際に存在した。学生はとんだとばっちりである。

実際、ファインマンみたいな人は稀で、学者と言えども「わかったことにして先に進む」選択をしてきた人たち。「以前わからなかったことがわかってくる」なんてラッキーに巡り合えた人は稀。つまり、基礎科目と言えど、いや基礎科目だからこそ、理解が曖昧だったりするのだ。だから、教官が科目内容を十分に理解していないというのは実は普通のことなのだ。

で、思い当たる。ああ、大学時代の教官たちは自分でも理解が不十分なことを学生に講義していたんだと。ああ、だからあんなに説明がザルで、根拠が希薄で、意味があいまいだったのだと。そんな講義を受けて理解できるわけがない。僕の頭が悪い(実際、処世術に徹しきれないという点で頭は悪いのだけど)わけではかったんだ、と。もしかすると、僕にも理解のチャンスがあったのかも、と。

恨み節はあるけれど、それを今言っても仕方ないし、僕にできることは、そういう無責任な講義をしないことだけだ。僕は基本的に、僕がきちんと理解したことしか教え(られ)ないし、僕の理解をかみ砕いて説明するようにしている。講義はもちろん、普段の学生とのやり取りでもそうだ。また、わからないことはわからないとはっきり言うようにしている。わからない理由がはっきり説明できるのなら、わからないことは恥ではない。


微分方程式の完全理解

僕は数学者じゃないので数学に関する厳密さはわからない。でも、微分方程式の解き方に関して、とりあえず一点の曇なく理解できていると思っている。そのレベルに達するまでに15年くらいかかってしまった。

微分方程式は理系の学生の必須科目で、避けられない。でも僕は学生時代に微分方程式の解法に納得がいかなくて、物理の最初の講義「力学」に3年かけた。力学は基礎の基礎なので年2回開講で、僕の学科では研究室に配属されるための必修科目。履修登録はしていたけど、微分方程式の解法が理解できるまでは合格してはいけないとして試験を受けなかった。結局、留年のかかった最後のチャンスで信念を曲げて理解しないまま単位を取った。屈辱だった。

同じように微分方程式がからむ数学も合格を拒否した。数学は別の数学科目で補えたので、数学の微分方程式科目はスキップした。最初に微分方程式が登場する量子力学も当然のように合格を拒否。そうすると取れる科目が限定されて、卒業も結構ギリギリだった。

大学院の院試では微分方程式以外にも多くの理解不能な話があった。そういうのは研究室の先生に尋ねればよかったのだが、当時の僕はかなりナイーブだったので、研究室の先生に気軽に質問するとかできなかった。頼りは院試の過去問と一緒に入手した模範解答なんだけど、それが納得いかない。今から思えば、稚拙で間違いを含む解答であり、僕が納得いかなかったのはしょうがなかった。僕はそういう納得いかない説明を答案に書くのを拒否し、その結果、答えられる設問が少なくなり、院試は最低点付近でのギリギリ合格だった。周囲が驚いていたのを覚えている。

こうした僕のやり方はあんまり褒められたものではない。当時の僕は遅ればせながら「ツッパリ」だったと思っている。ある意味、社会に対する反抗期。ただ、もう大人なので、そのデメリットを全部自分で受け止めるという、なかなか愚かな試みだった。

大学を卒業して30歳になろうかという時期にようやく微分方程式を理解することができた。きっかけは何だったのだろう?誰かにフーリエ級数とフーリエ変換の関係を説明していたんだと思う。フーリエ変換で微分方程式が解けるのだから、フーリエ級数でも解けるはず、というインスピレーションが浮かんだ。それは当然のように解ける。フーリエ級数はあらゆる周期関数をカバーするのだから、フーリエ級数を用いて解かれた微分方程式はあらゆる周期関数の可能性を調べつくすことになる。フーリエ変換は周期が∞の関数を含むので、周期関数以外も調べつくすことができる。なるほど、と。しかも、フーリエ級数の特別な性質により、級数全体ではなく、一つの項を調べるだけですべての項を調べることになるということに気が付いた。そしてそれは三角関数を一般解とした微分方程式の典型的な解法と全く同じになった。ここに至って、僕たちが学ぶ微分方程式の解法は、フーリエ級数に基づくものであり、それを大幅に簡略化したものだった、という理解につながった。僕たちは省略形しか教えてもらえないので、元々がどんなものだったかを見つけるのはとても難しいし、元々の形がわからないと、解法の意味をきちんと理解できないのは当たり前だ。そして三角関数の1個だけ用いた一般解は、周期関数であって、位相を限定した可能性のみを検討しており、その他の解の可能性を調べつくせていない、ということになる。通常の解法を用いたとき、他に解はないのか?という疑問がわいてくるのは当然と言える。そうして得られた解は、必要条件であって十分条件ではない。直感的にそういうことを感じてしまうので、微分方程式の解法に納得がいかないのだ

世の中の仕組み

この話はさらに続きが長くあるのだけど、とりあえず大事なことは、もしそういうことを理解していたなら、講義内容がそれにきちんと則したものになっていたはずだ、と言うことである。そうでなければ、教官に悪意があることになる。大学の教員(特に理系)と言うのは基本的に善人なので、悪意があったわけではないと思う。であれば結論は一つ。教官が講義内容を理解できていなかった、ということだ。

先に述べたように、大学の講義の担当は割といい加減に決まる。なので、講義内容をきちんと理解していなくても、講義しないといけない。いや、自分は講義内容を理解できていないので無理です、と言えればよいが、基礎科目の場合には断るのは難しい。まして、数学を専門とする教員が、微分方程式がわからない、とか超恥ずかしいだろう。だから、講義を引き受けざるを得ない。そうすると必死で勉強する。勉強するときに頼りにするのが「教科書」だ。理解できていない部分は教科書の受け売りで済ますことになる。

そして、「教科書」を書いた人たちも同じような「教官たち」。そして彼らも講義をするために別の「教科書」を参考にしていた。そういったこと何世代も繰り返すことで、内容は少しずつ簡略化してきた。単なる簡略化ならよかったけど、それは往々にして「劣化コピー」になる。つまり、「教科書」の世代交代の中でいろいろな情報が欠落した結果、微分方程式の解法の分野では、フーリエ級数を用いた解法の大幅簡略版が「一般解」という名称で残留することになった。これは日本だけの問題ではなく、全世界的にそうなっている。だから、世界中のどこを探しても初学者を対象にフルスペックの解法を説明する教科書は存在しなくなっている。

同じようなことは量子力学にも言える。多くの分野で大なり小なりそういう事例はあって、そうした情報の欠落によって後進たる僕たちの理解にどうしてもあいまいさが残ってしまうことになる。だから、これは普通のことではあるのだけど、こと微分方程式の解法に至ってはかなり致命的なレベルにあると、僕は思う。

僕が微分方程式の真の解法に至れたのは、大学1年のときに「落ちこぼれ」を選択したからだと思っている。つまり、本当に落ちこぼれることを恐れて、わざと落ちこぼれるという選択をした結果、落ちこぼれなかったということである。


僕の成長

おかげさまで僕は「頭の良さ」ではまあまあの評判をいただいている。だから、僕が「わからない」と言っても、「○○さんがわからないんだから、自分がわからなくても当然」とか、「なるほど、さすが○○さん、わからない点をするどく見つけだす!」と、みんなはポジティブに受け取ってくれる。だから、僕は気軽に「わからない」を連発できる。実際は、僕はそんなに頭が良くないんだけど、僕はちゃんと「なぜわからなないのか」を説明するので、ま、そういう評判になるのだと思う。

ただ、それは簡単なことではないと僕は思う。僕は小さいころから優秀なプログラマだ。プログラマと言うのはコンピュータプログラムを書く人なわけだが、プログラムというのはコンピュータが理解可能なマニュアルであり、融通の利かないコンピュータへの指令というのは手取り足取り細かいことまで指示しないといけない。指示するためには、それらの細かな手順をいったん自分で構築し、動作確認し、プログラミング言語に翻訳するという手順を踏む。指示内容と言うのは往々にして人にとっては簡単に見える。しかし、それは人間が小さいころから獲得してきた経験によって細かな部分があいまいになっている。そうしたあいまいさを排除して明文化しないとプログラムを作れない。だから、プログラマは自らの理解を極めて細かく明文化するという能力を訓練する。この作業は非常にストレスフルだ。規模が大きくなると普通の人には耐えられない。

そういう訓練を長年つづけてきた結果、僕は自分が理解している内容を明文化するという能力がかなり研ぎ澄まされている。だから、ほとんどの場合、「なぜわからないのか」を説明することができる。「なぜわからないのか」が明らかになれば、その部分を集中的に学ぶあるいは考察することで「わからない部分」を解消し、学習・理解が深まる。


提案と処方箋

ま、そういうメンタリティーが真の理解には大事なんだと思う。実施に落ちこぼれるという僕のやり方は褒められたものではない。とりあえず、落ちこぼれないように単位だけもらってわかったことにして次に進むというやり方が圧倒的に合理的だ。ただ、そのままに指定はいけないので、ちゃんとフォローアップすべきだと思う。しかしながら、そういう「追加の勉強」ってのは実行がとても難しい。ファインマンのように圧倒的な勉強量で、ちゃんと理解して単位を貰う、という戦略ができるのが理想だけど、普通の人には難しい。というか、多分無理。

アインシュタインは浸透圧の考察からブラウン運動を導出し、原子・分子の存在を演繹的に証明した。浸透圧なんて、高校の化学ではサービス問題みたいなものだけど、そこに深いストーリーが隠れているなんて誰も思いつかない。だれもが、わかったことにして先に進んでいる、ということだ。ちゃんと理解してから先に進むということは一事が万事、このような深い考察の存在・不在を確かめながら学ぶということだ。教科書に書かれていないことまでキチンと理解するということが求められる。ほとんど不可能だ。

実際、世の中にはよくわからないことはたくさんある。ちょっと考えてみて、すぐには解決できないってことはよくある。そういう時は、未解決の箱に問題をストックしておき、ときどき取り出しては再検討するという「習慣」が必要だと思う。未解決なのは、能力の不足と言うわけでもないかもしれない。だから、未解決で残すのは悪いことではない。重要なのは、時々振り返って検討することだと思う。あるとき、解決するかもしれない。

僕はそのような未解決ボックスに何千もの未解決問題をストックしていて、時々思い出したようにそれらを検討している気がする。自分のことなのに断定しないのは、再検討を意識しているわけではないからだ。何かの機会に似たような問題に出くわして、未解決ボックスを漁り、合わせて検討することで、解決できたり、できなかったりする。解決したら、それは新しい発見であり、何かにつながることも多い。解決できなくても未解決ボックス内が少し整理されるのでメリットも多い。

教科書を使った勉強の場合には安易に未解決ボックスを使わないことも大事だ。教科書と言うのはちゃんと学べるように作られているわけで、きちんと読解できればまあまあ理解できるものだ。ま、その際に新たな疑問が出てくることも多いんだけどね。

おかげで僕の理解は独特だ。最近、AIを活用して、僕の理解をチェックしている。おおむね正しいらしい。そして興味深いことに僕の理解の仕方には特別な傾向があるらしい。それは、「構造」を優先的に理解するというもの。例えば、微分方程式なら、「解法」にはあんまり興味はなくて、「なぜ解けるのか?」「どういう時に解けるのか?」「解けるとはどういうことか?」というとこに興味があり、それらを「具体的に」説明することにこだわりを見せる。物理を目指す人たちは、「解法」に興味があり、数学を目指す人たちは「抽象的に」説明する。僕は数学としての興味を持っているけど、数学者のような抽象的な議論は性に合わないらしい。中途半端なのかもしれないけど、世の中にはいろんな人がいるものだ。

最近、僕のやり方で物理や数学の教育の再構築を目指している。面白いと思うんだ。微分方程式の話とか、分光の話とか、このブログにもあるけど、それらを改定・増補して教科書にしたいと思っているんだ。


2026年3月19日木曜日

137について。

天啓を受けた。

 $1^3+2^3+4^3+4^3=137$

微細構造定数に意味を見出すヒントになると思われる。

4つの数字に分解できることがとても大事。

これ以上対称性に優れる分解はおそらく存在しない。

2025年12月25日木曜日

奇妙な科学哲学の話



 ラボでの教育

大学の研究室での教育の基本は「研究」のOJT(on-the-job training)なんだけど、その一環で「研究」の進捗報告会を週1回おこなっている。すると、学生たちは現在進行中の研究については知ることができる。ということは、ラボでの過去の研究や、自分たちの研究の周辺に関する知識が不足してしまう。本当は勝手に調べて学んでおいてほしんだけど、学生たちは可能な限り手を抜こうとするので、「研究」に関連する知識が徹底的に不足している。ということに数年前に気が付いて、そこから進捗報告会の後に1時間くらいのレクチャーを毎回おこなうようにしている。

まとめていて気が付いたが、僕の研究はなかなか多彩で、話としても面白い気がする(自画自賛)。当然、積み残し事案を見返す作業でもあるので、そういった中から新しい研究のアイデアが生まれたりする。なので、僕にとってもメリットがある。

僕も結構なシニア層なので、自分の研究を含む科学全体について、哲学的な視点を持つようになってきた。そこで、Progressive Scienceと名付けた4回シリーズのレクチャーを作成した。

Progressive Science①歴史

「科学」という概念の成立過程を概観する。古代ギリシャや中国などで、科学っぽい何かが論じられ、紆余曲折を経て「科学」を確立したのが19世紀。割と最近なのがとても驚きだ。

「科学」と「科学っぽい何か」が発展するためには「大学」というものが大きな役割を果たしたが、「大学」は「宗教」の管理下にあり、ほとんどのリソースは「科学っぽい何か」に費やされていた。

科学の確立を19世紀とするのは僕の独断だが、いくつかの根拠がある。19世紀に産業革命があり、蒸気機関が発達した。人々の暮らしや経済の中心に蒸気機関が据えられた。蒸気機関の仕組みには「神」が介在しない。蒸気機関を理解するためには「神」はむしろ邪魔だ。「神」を意図的に排除することで、蒸気機関の理解が進み、効率が向上し、経済が拡大した。

その経済の拡大の中で、「教育」が「宗教」から分離し、「科学」が民主化した。最終的にも「科学」の民主化が、決定打になった(私見)。

事実、19世紀までの「科学者」はほとんどが「貴族」であった。20世紀にはいるとほとんどの「科学者」は「一般人」である。

Progressive Science②科学の方法論

「科学」と「宗教」の違いと、離別の歴史を議論する。「科学」と「宗教」の違いはただ一つ。「神」のような実証不可能な存在や現象を前提とするかどうか、ということに尽きる。

「科学」と「宗教」の対立の典型例は地動説に関するガリレオの裁判に見ることができる。じつのところ、当時の知識では地動説と天動説のどちらが正しいかということの結論を得るのはかなり難しかったはずだ。なので、実際の裁判では、裁判手続きが正当なものかどうかということが主に争われたらしい。

実際、天動説でも天体の運動は記述可能だ。もちろん地動説の方がシンプルであるが、計算結果はほとんど違わない。でも今の僕らは地動説が正しいと信じて疑わない。でも本当は天動説が正しい可能性も微レ存している。僕たちが地動説を信じる本当の理由は、地動説の方がシンプルだからだ。

決定打となったのはニュートンによる万有引力という考え方だ。万有引力というたった一つの「原理」を認めるだけで、すべての天体の運動を説明することができて、それが地動説と同じものだからだ。なるべく少ない仮定で現象を説明できるならば、その説明は高確率で正しいとする考え方を「オッカムの剃刀」と呼ぶ。ただし、「オッカムの剃刀」は経験則でしかない。僕たちの「信念」は、最終的には「経験則」に依存している。そういう意味では「科学」と「宗教」に違いはないかもしれない。かつてアインシュタインは記者から「あなたの宗教は何ですか?」という質問に「科学」と答えたそうです(アインシュタインはユダヤ人なので、記者はユダヤ教という答えを期待した)。

「科学」が「科学っぽい何か」と決別するのは実はもっともっと困難だった。典型例は「化学」と「錬金術」の決別の歴史だ。18世紀まで人類はアリストテレスの四元素説を信じていた。一石を投じたのはラボアジェ。四元素のうちの一つ「火(フロギストン)」が「光」と「カロリック(熱素)」からなるとした。今の僕たちからするとまだまだおかしな説ではあるが、重要なのはアリストテレスに盾突いた、と言う事実だ。かのニュートンですら、晩年は錬金術研究に明け暮れていたのだ。

最終的に人類は錬金術を捨て化学を確立した。そのプロセスは「実験事実に基づかない理屈」を徹底的に排除するということだった。それにより膨大な錬金術研究の資料をゴミとせざるを得なかった。これは恐るべき損失だったはずだ。そうした身を切る改革によって19世紀には「化学」の原型が確立した。

「科学」とは「客観的事実」のみから出発し、論理を重ねて構築された知識体系である。正しいか正しくないかを決めるのは、「神」でも「人」でも「裁判」でもなく、「実験事実」である。

Progressive Science③微分方程式

理系学生にとっての難敵、微分方程式にまつわる話。論点は2つ。僕らが学ぶ微分方程式の解法は一体何なのか。物理において微分方程式が頻出するのはなぜなのか。これらの2つの疑問に答えることがテーマである。

僕たちが教わる微分方程式の代表的な解法は「一般解」を利用するものである。「一般解として~を仮定すると、」で答案が始まる。普通の命題であれば、「~を仮定すると」で始まれば「矛盾するので、~は正しくない」あるいは「xxが成立するので、仮定は正しいと結論される」と結ばれる。つまり、仮定は検証の対象である。しかし、微分方程式の解法では、「仮定」のまま解を導き、それをそのまま「解」としてしまう。「仮定」の検証は行わず、「仮定」が正しいとしたときの結論を採用してしまう。もし「仮定」が正しくなかったら結論は変化するし、もし別の「仮定」が存在したら、別の結論が導かれるかもしれない。そうした可能性を全然考慮していないのに、「解法」としてよいのか、というモヤモヤがある。

そのモヤモヤは正しくモヤモヤで、「一般解」という「仮定」が十分に正しいわけではなく、別の「仮定」が実際に存在し、別の「解」が存在しうる。だから全然解けていないのだ。

こうしたことが起こるのは、僕らが知っている「一般解」は「本当の一般解」の省略形であるからだ。ぶっちゃけて言うと、「本当の一般解」はフーリエ級数である。フーリエ級数の特別な性質によって、フーリエ級数の省略形を使うだけでフーリエ級数をそのまま使った時と同じ結果が得られることが保証されている。なので、僕たちは省略形を用いた省略された手順のみを学ぶ。ただし「本当の一般解」はフーリエ級数なので、解として調査できる範囲は周期関数だけである。しかしながら、解法の中で周期に関する条件が導かれるので、ほとんどの関数を調べたことになる。でも調べ切れていない可能性は否めない。

水素原子モデルのシュレディンガー方程式を解く際には、球面調和関数とルジャンドル陪多項式というヘンテコな一般解が用いられる。ここから、一般解に多様性があることがわかる。どんなものが一般解として使えるのか、その基準は何なのか?結論すれば級数展開はすべて一般解として使える。知られている級数展開はせいぜい30くらいなので、シュレディンガーはそれらの多くを試したに違いない。そして驚くべきことに、基本的にどんな級数展開を用いても微分方程式を解くことができる。得られる解の見かけは違うこともあるが、計算すればすべて同じになる。ただし、ある級数展開での解は単純だが、べつの級数展開ではうんざりするほど複雑な解になったりする。もちろん、単純な解の方が都合が良いので、僕たちはそちらを採用することになるだろう。これはすなわち「オッカムの剃刀」である。

20世紀初頭にもたらされたネーターの定理が「科学」とくに「物理」の世界を決定的に変革した。ネーターの定理の主張は、空間の対称性と保存則が対応するというものである。実際、エネルギー保存則や運動量保存則などが「いつでも実験結果が同じ(時間併進対称性)」とか「どこでも実験結果が同じ(空間併進対称性)」から得られる。こうした対称性はあまりにも当たり前で、ほとんど仮定すら必要ないほどだ。そうした対称性から直ちにエネルギー保存則や運動量保存則が導かれるのは驚異的である。こうした「物理法則」を確立するのに人類は何百年も費やしてきたからだ。ネーターの定理はそれらの努力が必要ないとするものだ。

だから、それ以降、理論物理の世界では宇宙の対称性を探ることに注力している。宇宙が4次元なのか、5次元なのか、11次元なのかが真剣に議論される理由は、それが明らかになれば宇宙のすべての法則を導き出せるかもしれないからだ。

そしてネーターの定理は物理法則が基本的に微分方程式になることを運命づける。保存則とは系が変化した際に変化しない「保存量(数値)」が存在することを主張する。言い換えると、保存量を$H$とし、系のパラメータを$x$とすれば、$\frac{\partial H}{\partial x}=0$が成立する。つまり微分方程式だ。ここに至り、僕たちは微分方程式から逃げられない運命にあることが証明される。

微分方程式を解く際の「一般解」には選択肢がある。ある一般解で解けたとしても、別の一般解で見かけが異なる解が得られる。この事実は、物理現象の解釈には多様性がある、ということを意味している。「科学」とは「世界を理解する唯一の正しいやり方」を見つけ出すことだと短絡しがちだが、一般解の選択肢は「世界を解釈するやり方」であり、それに多様性があるということは、「世界を理解する方法はいろいろあり得る」ということを意味する。

Progressive Science④汎分光論

内容そのものはすでに「レオロジー測定は分光法か?」というエッセイで述べている。

分光とはエネルギー交換(相互作用)の周波数依存性を調べる手法であると総括することができ、そういう意味では粘弾性測定も分光法に分類できる。分光法をこのように理解すると、Higgs粒子を探すために、物理学者たちはLHCを使って「真空」を「分光」したと理解できる。

Beyond Science

本当言うとこの話には続きがある。なぜ相互作用には周波数依存性があるのだろうか、という疑問である。複素数の物性値が得られる粘弾性スペクトルや誘電緩和スペクトル、インピーダンスなどにはKramers-Kronigの関係というものが存在し、物性値の実部と虚部を相互に変換できるという数学的要請が存在する。この要請は負の周波数領域で虚部が反転する(複素共役)ということに実質的に等しい。このような関係は、フーリエ空間でヘビサイド関数をコンボリューションするという数学的操作に等しい。ヘビサイド関数の逆フーリエ変換はδ関数を積分したものとほぼ同じである。つまり、Kramers-Kronigの関係は実空間で時刻0以前をゼロとするような関数を乗じるという数学的操作を暗に認めるものである。

これはつまり、現象が時刻ゼロという起点を持つということと同じ意味になる。時刻ゼロから現象が開始するというのは、いわゆる「因果関係」が存在するとすることと等しい。つまり、因果関係が認められる現象にはKramers-Kronigの関係が存在し、対応する物理量が複素数になり周波数依存性を持つ、ということが結論される。つまり、相互作用が周波数依存性を持つのは僕たちの「世界」に「因果律」が存在するからだ、と結論される。

因果律の存在は、「時間併進対称性」の修正につながる。つまり、時刻ゼロ以前には現象が存在しないので、観測結果は異なるだろう。言い換えると、現象が存在する範囲においてのみ「時間併進対称性」が認められる。手放しの「時間併進対称性」ではなく、因果律の範囲内でのみ機能する「修正時間併進対称性」が正しい、となる。

実のところ、この「修正時間併進対称性」はビッグバン宇宙論と相性が良い。ビッグバン以前には世界が存在しないので、ビッグバンをまたぐような「時間併進対称性」は無意味だ。これはビッグバン以前の宇宙の議論をすることは無意味であり、そのような時刻ゼロをもつ宇宙を考えるだけで十分である、ということを保証する。

ここに至り、因果律すら物理法則の一つであるという解釈が可能になる。「科学」は「客観的事実」のみで構成された理論体系であるが、客観的事実の構成要件として、「いつ」「どこで」実験しても「同じ結果」が得られる、が挙げられる。「いつ」「どこで」は「時間併進対称性」と「空間併進対称性」である。そして「同じ結果」は「因果律」と言い換えることができ、「修正時間併進対称性」と言うことになる。いずれも僕たちの住まう宇宙の「構造=対称性」から導かれるものである。逆に言うと、「時間併進対称性」や「空間併進対称性」、「修正時間併進対称性」などが存在しない「宇宙」では、「客観性」の存在が否定される。そのような「宇宙」では、僕たちの信じる「科学」に関する議論全てが全く意味をなさないだろう。そのような対称性をもつ宇宙を構成できるのかどうかは僕にはわからないけど、そのような世界は多分カオス以外の何物でもないに違いない。


2025年9月16日火曜日

ラボノート

 うちのラボの研究ノートはEvernoteです

「僕の」ではなく、「ラボの」話です。

研究ノートは研究者にとってもとっても大事な「モノ」です。僕の場合はほぼ日記ですが、日々の活動・アイデアなどをすべて記録として残すことは、研究者の常識です。そういう大事なものだからこそこだわりを持って選定しないといけません。

僕が考える研究ノートに必須の要件は次の3つ。

  • 必須要件①記入日の保証(いざとなったら裁判資料となるため、研究ノートには特別な要件がある。日付が保証されていればデジタルデータに訴訟能力があるという判例が米国に存在する)
  • 必須要件②手書き(数式とか、アイデアとかは手書きの方が良い)
  • 必須要件③モビリティ(出先や屋外など、いつでも記入できること。デジタルノートの場合はスマホでアクセスできること)

紙のノートは必須要件①が怪しいけど、そのほかは完璧。だから少し条件の付いたノート(糸掛&ページ番号印刷)が今でも用いられていると思います。でもきちんと訴訟に耐えるには、ノートにシリアル番号を付して、そのシリアル番号を別のノートで管理しないといけません。ま、ちゃんとした管理をしている大学の先生を僕は見たことありません(いや、奈良先端大学院大学は全学の制度としてこれを実施してましたね。失敬)。

昨今は学生のノートの管理も徹底せよと言われているので、学生が卒業するときに学生の研究ノートを奪い取らねばなりません。気の小さな僕はそういうのが心苦しいのです。実際、僕が4回生の時のラボでは研究ノートを研究室において出ないといけないルールでした。ノートを手放すのはちょっと寂しかったです。働き出してからは、専門の業者がマイクロフィルムに撮影したりすることがありました。大学のラボレベルでは、そういうのは高コストすぎてできませんから、研究ノートのデジタル化をいろいろ考えていたわけです。Blogなんかのシステムはラボノート向きではありましたが、必須要件①を満たすのがとても難しいので、使えません。

ひところは、Anoteペンという技術を使ったノートを使っていました。特殊なノートと特殊なペンの組み合わせで、ノートに書いた文字がスキャンなしでデジタル化されるというものです。紙のノート(しかもノートは糸掛でページ番号も印刷済み。ラボノートとしての体裁を見たいしています)が本紙で、自動的にデジタルのコピーができるわけです。

2~3年使っていましたが、デジタル化したデータの管理が難しいことと、写真や印刷物を貼れないことが欠点でした。また、器材コストが高く、学生に使わせることは難しいというのも問題でした。


Apple Pencilは素晴らしい

僕は基本的にAppleが嫌いです。わずかな技術的優位性を誇大に主張するやり方はフェアじゃないと思うし、なにより製品が割高です。また、Appleの熱狂的なファンの人たちがちょっと気持ち悪いと感じるのも理由の一つになっています。カルト宗教みたいだし。

そういう偏見を僕は持っているのですが、Apple Pencilだけは素晴らしいと言わざるを得ません。ペン型デバイスはそれまでもたくさんありましたが、筆記用具としての使い心地はどうしても劣るものでした。ラグが大きかったり、位置ずれが顕著だったり。でもApple Pencilは通常の筆記用具と同じような使い心地を提供してくれます。Apple Pencilなら数式を手書きできると思いました。

Apple Pencilを使えば、電子ノートの欠点の一つである「手書きの気持ち悪さ」が解消でき、必須要件②を満たすことができると僕は考えました。つまり、手書き最強ツールであるApple Pencilを擁するiPadを研究ノートに使おうと考えたのです。iPadであればモビリティも十分です。

また、PCでも同じように使えた方が良いに決まっています。iPad含むいろんなプラットホームで動作するノートアプリは大体クラウドなので、Webアプリがあったりして、PCでも動作することが多いです。

クラウドだと、「最終更新日」は大体残っています。だから、必須要件①もかなり満たします。しかし、クラウド故に簡単に更新できて最終更新日が更新されてしまいます。更新されたデータは訴訟能力を失い、致命的です。でも、ノートアプリにロールバック機能があって、特定日付の状態を取得できると、確実に目標日時の状態のノートを入手できることになります。クラウドデータの日付の改ざんはユーザーには無理ですから、ノートの日付はノートアプリ提供会社と言う第三者が保証する価値になります。これ以上の訴訟能力は考えられません。つまり、完全ロールバック機能をもつノートアプリは必須要件①を完全に満たすわけです。ということで、オンライン・クラウド型のノートアプリをいろいろ調査しました。


電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)

その方面の需要は結構あるらしく、電子研究ノート(Electric Laboratory Notebook, ELN)という分野があります。最大手はBiovia ELNというものらしいです。iPadやAndroidのアプリはありません。PCオンリーで、結構高価そうです。初期導入コストは最低でも数十万円だと思います。

化学系に最適とうたっているのが、ChemDrawとの連携を売りにしているSignals Notebookです。これも携帯端末では使えません。出先の実験で非LAN環境(屋外とか)での使用を想定するとこうしたELN専用システムはダメっぽいです。企業だとセキュリティの都合で嫌がるからかな。つまり、一般企業向けのELNは必須要件③を満たしてはいけないということです。しかたがないので、一般向けの電子ノート(研究用ではない)を選択しました。

電子ノートアプリにはいろいろあるのですが、流行はNotionです。Notionはとても評判が良いのですが、残念ながらロールバック機能がないのでNGです。Microsoft Officeに付属のOneNoteもよいのですが、ロールバック機能が30日しかないので、裁判対策としては使えません。実は数あるノートアプリの中で十分なロールバック機能を持つのはEvenoteの有料プランのみです。

昔はEvernoteが最強と言われていましたが、Notionなどのライバルアプリの登場で苦戦を強いられました。一時は経営が危なかったらしいです。危なかった理由はシステムの陳腐化とストレージの枯渇でした。そこで、有料プランに極振りすることでユーザーのふるい落としを行い、経営を安定させたようです。完全なロールバック機能って無限に容量を食いますからね。2022年あたりから無料プランの貧弱化と有料プランの値上げが行われ、本当にヤバかったです。そして2023年後半あたりから、急激に機能強化が行われました。2025年現在、機能面では他のノートアプリに劣る要素はほぼありません。値段以外は。


運用コスト

僕のラボでは学生全員に研究費で有料プランを契約させています。こうした個人に紐づく「資産」を研究費から出すのは難しいのですが、大学との交渉を頑張りました。ちゃんとしたルートを構築し、適正に運用していますよ。

まずは学生に有料プランの契約方法を説明します。オンラインサービスの契約は個人資産になるため、通常の方法では大学から費用を支払うことができません。特殊な事情があるとして、立替払いをすることになります。しかしながら、学生は立替払い申請をすることができません。なので、僕が代理で申請することになります。もし、契約途中に不備があって立替払いが認められない場合は、道義的に僕が費用を被らないといけなくなります。さすがにつらいので、契約の不備が発生しないように学生に入念に手順を説明します。

実は購入経路によって結構な差が出ます。重要なのは、学割適用することと、Apple経由での契約にしないこと、です。Apple経由だとおよそ15%高くなります。そのためGoogle PlayかWebから契約させます。契約時の支払い画面、契約後のライセンス確認画面を提出させます。費用は僕が現金で立て替えます。その際、学生が僕から支払いを受けたという「申立書」なるものを学生に署名させます。

ライセンスのIDはメールアドレスなのですが、これには大学のメールアドレスは使わせません。というのも、大学のメールアドレスは進学や卒業でわりと近い将来使えなくなるからです。ライセンス契約のIDは学生のプライベートアドレスにしています。

プライベートアドレスだと、学生の名前と一致しません。なので、別途学生の氏名・学籍番号、ライセンスID(プライベートアドレス)、支払い金額の表を作成します。これらの処理を集めて、大学に立替申請をします。この一連のプロセスは大学の経理と相談して構築しました。事前相談なしにやるといろいろ問題になると思います。こうした手間暇は運用コストの一部であると割り切るしかありません。


導入のメリット

学生の研究ノートは僕が月初めに当月分を配布します。こうすることで、学生の研究ノートは僕の管理下に置かれます。管理下に置かれるというのは、僕はいつでも読み書きできるという意味です。できるのですが、学生の要請なり必要なりがあるときのみ、学生のノートの内容を見ます。研究ノートであってもプライバシーは基本的に守るべきだと思うからです。誰かに見られる可能性があるノートだと思うだけで、恥ずかしいことは書けないし、書くときにはちょっと考えてから書くようになるでしょう。でもそうしたちょっとした気負いがノートへの記入をためらうように働くかもしれません。なので、僕は学生のノートを基本的に見ないし、学生にそのように公言しています。

さらに、書き込むことはほぼありません。学生に対してノートに書く内容を指示することがありますが、書き込みは学生にゆだねています。何か重要な発見があったと学生から報告があれば、僕が日付入りで手書きサインを入れます。これは特許訴訟対応として必要な手続きですから、しょうがないです。

ちなみに厳密なルールでは研究ノートには毎日上司の日付入りサインが必要とされています。ただ、それは「上司が見た証拠」ではなくて、その日までにノートの当該部分まで記載がなされていることを誰かが確認したという意味になります。ノートの一文一文に秒単位の記録が付属する完全なロールバック機能を持つ電子ノートにおいては、毎日の上司のサインは全く必要ありません。上司のサインがあっても過去の記載部分にちょっとした書き足しはできますからね。上司の日々のサインがあっても訴訟でひっくり返されることは普通にあると思います。ロールバック機能つき電子ノートにかないません。

Evernoteはスマホでも書き込めるので、スマホで写真を撮ってそのままノートに記載することができます。モビリティーという点では最強と言えます。スマホ・PC・iPadのそれぞれで少しずつ機能的に違う部分があるのですが、有料プランではすべてのプラットホームを併用できるので、問題ありません。

手軽に写真をノートにアップロードできるというのは案外メリットが多いです。測定結果のグラフを研究ノートに貼りたいというシチュエーションが多くあります。紙のノートだと、印刷して切って貼って、というプロセスが必要です。でも、スマホで写真を撮れば、ラボノートに切り貼りする必要はありません。PC作業中の画面写真もすぐにコピペできます。なんなら、解析途中のファイルのバックアップにも使えます。

論文のPDFもラボノートにアップロードすれば、すぐにみんなで共有できます。研究報告会の資料はノートにアップロードするルールになっています。

週1回英語の本読み会をしているのですが、本読み会後に確定した翻訳を専用ノートにみんなで書き込むことで、徐々に翻訳本ができます。

学生個人のノートの使い方は基本的に自由ですが、見本として僕のノートは学生全員が読めます(書き込みはできません)。学生は僕のノートを見本として研究ノートの書き方を学べるようになっているのです。ちなみに諸事情により学生に見せられないノート(個人情報や試験関連)は別に作って管理しています。

Evernoteの唯一かつ最大の欠点は値段が高いことです。無料プランは本当にお試し版で全く実用になりません。そして、有料プランは定価が9300円/年で、驚くほど高いのです。僕のラボは一人研究室(僕以外は学生)なので、全員で10名ほどですが、およそ10万円が年間のコストになるわけです。これはとても大変です。

Evernoteは2024年に入って急速にいろいろな機能強化がなされました。項目の折り畳み機能(WORDのアウトライン表示みたいな使い方)とか、LaTexスタイルの数式とか、気の利いた機能が次々追加されています。LaTexスタイルの数式機能は実用までは遠いレベルですけど、そのうちに使い物になると期待しています。

AI関連機能の強化も進んでいて、手書き図表や写真の文字起こし、会議音声からの議事録作成なんかもできます(十分とは言えませんが、下書きには使える程度)。電子ノートなので、検索とかリンクとかいろいろ使えるので、紙のノートよりはるかに機能的です。

手書きメモの文字起こし機能も結構育ってきていて、キーワードとかきちんと拾ってくれます。数式の使い勝手はまだまだダメですけど、将来はどうなるかわかりません。いらない機能もいろいろ追加されていますが、重要な機能も年々洗練されてきていますので、ちょっと期待しています。


もう8年使っている

僕がEvernoteでの研究ノートを本格導入したのは2018年です。2025年の現在、8年目ということになります。2018年当時は、僕だけが3500円/年程度の有料プランを自腹で契約し、学生たちは無料プランでした。

Evernoteは最近どんどん高価になって、本当に苦しいのですが、乗り換え先がないことと、すでにデータの蓄積があることの2つの理由によって継続使用しています。現在の標準価格は9300円/年です。

機能的にはとても満足しています。運用面のノウハウもたまっていて、使い心地はよいのです。すでに10年くらいの運用実績があって、過去の研究ノートが積みあがっています。学生10人×12月×8年=約1000冊というノートがあるわけです。別のサービスに乗り換えるのはちょっと難しいです。もうEvernoteと心中するしかないレベルです。

以前のEvernoteは少しダサい感じがしましたが、今のEvernoteはすごくモダンでとても使いやすいです。一つのノートをみんなで編集するという機能があって、ちょっと楽しいです。それぞれの人が違う色のカーソルで表示していて、みんなの編集が瞬時に反映されます。誰がどの位置を編集中かがわかるので、そこを避けて別の部分を編集するということがストレスなくできるのです。なんだかおもしろいですよ。

色んなファイルをアップロードできるので、作業中のファイルの履歴として活用することもあります。つまりクラウドストレージとしての側面があるわけです。すると学生は研究室での作業を自宅に持ち帰るのが簡単になるわけです。

学生にファイルを送るのも、メールだとサイズを気にするところですが、Evernoteだとそのあたりが少し緩くなります。学生のノートに僕が直接アップロードしたり、僕が欲しいファイルを学生にリクエストすると、学生の自分のノートにアップロードしてくれるわけです。そのときにファイルに関するいろんな情報を付けてくれてれば、僕は続きの作業ができます。そして、そのやり取りは記録に残るわけです。


こういうのは大学が考えるべき

研究ノートの電子化・オンライン化・クラウド化は昨今の研究環境の当然の流れであり、すべての研究者に関係のあることだと思います。特に大学では研究不正を防ぐために研究に関する情報の管理が強く求められています。うちの大学のように小さくてのんきなところは、文科省の引き締め要求をそのまま末端の教員に垂れ流し、「各自ちゃんとするように!」と伝えるだけしかしません。具体的にどうしろとかないわけです。やり方を示さず、問題が起こったときに追求だけするぞ、と脅すわけです。もう、やってられません。

情報管理を徹底するには、コストが発生します。実験データを10年保管とか、どれだけのストレージが必要になることやら。そしてそのバックアップコストも発生します。そのコストは大学の要請にこたえるためのものなので、大学に請求できるかというとそうなりません。また、どうすれば十分か、ということも示されていないので、僕たちはとても不安なのです。

というわけで、僕は自衛のために年間10万円を払うわけです。自分の研究費を削って。ちょっと納得がいかない面もあります。他の人たちは相変わらず紙のノートを使い、学生のノートを召し上げるわけですが、それは倫理的にちょっと怪しいと思います。実際、紙のノートも専用の研究ノートでないので、訴訟能力が全くなかったりします。それでええのか?

コクヨの研究用ノートは一冊2500円で年間一人1冊くらいです。厚みは1cmくらい。うちは10人くらいなので、年間10cm成長します。10年で1m分本棚を圧迫します。早晩場所問題が発生します。研究ノートは大学の資産なので、そういう書類系の資産は図書館が管理すべきです。うちの大学は教員が300人くらいいますから、年間30mの本棚が必要になります。100年とか保管しだしたら、3kmですよ!

電子研究ノートというのはスケールメリットが大きいので、大学全体みたいな組織単位で契約すれば多少はコストが圧縮できるはずです。一人当たり年間2500円というのが損益分岐点だと僕は思っています。かつてのEvernoteの価格はそのくらいだったんですけどね~。


研究ノートになくて良い機能

研究ノートは裁判の証拠としての機能がありますから、電子ノートで代用するにはロールバック機能が絶対必要です。従ってロールバック機能を阻害する機能は必要ありません。

ロールバック機能を阻害する機能で代表的なのが、データベース内容の引用機能です。データベースはデータを細分化し、管理し、引用を容易にする仕組みです。データ単位(レコード)の登録・更新に日付や履歴が完備しているものは基本的にありません。更新履歴なんて情報は冗長性が高く、大量のデータを整理・保管することが使命のデータベースにとって極めて不利な機能です。データベースではレコードをさらに細かなデータに切り分けますから、更新履歴情報はレコード本体の何倍にもなります。例えば、何月何日の状態にデータベースをロールバックするなんて作業は普通はできません。

電子ノートにデータベース内容を動的にリンクする機能があった場合、その電子ノートは過去の状態を復元することができなくなります。だから、電子ノートサービスの中に動的なデータベース引用機能が含まれていると、裁判の証拠として使えなくなる可能性があります。

調べてみると、Notionが内部に統合されたデータベースとの連携機能を売りにしていて、これはダメです。Notionはロールバック機能がありませんから、そういうことができるわけです。OneNoteは外部データベースの引用はできますが、統合はされてません。共有ノート機能もあるので、ロールバックが30日とか限定されていなければ使えるんですけどね~。

過度な表現力もノートには必要ないと思っています。手書き機能が使えれば表現力の部分は手書きで補えるからです。高い自由度が必要ならばワープロやパワポを使った方が、再利用性も増します。そうして作成したファイルをノートにアップロードすればよいだけです。PDFにしておけば、フォーマット済み文書の中身が、たいていのノートアプリで直接見えます。


必須な機能は以下の通り

  • 「完全」なロールバック機能をもつこと
  • 「データがクラウド保存」され、タイムスタンプの改ざんができないこと
  • スマホ・PCなど「複数のプラットホーム」で利用できること
  • 「手書き」機能が十分であること
  • ノートを「共有」して「集中管理」できること
  • ファイルの「アップロード」に対応していること

あったら良い機能は以下の通り

  • 手書きデータのデジタル化・検索
  • ノート内容の階層化
  • 階層化されたノートの管理

ない方が良い機能は以下の通り

  • データベースとの接続


現状ではEvernoteが最適解だとおもっているんだけど、GoodNoteとかも有料プランなら無限履歴があるっぽい。その場合のコストはEvernoteとどっこいどっこい。どうしたものか。



2025年8月26日火曜日

テストの作り方




作問を勉強したことのある先生はほとんどいない

学校の先生は生徒に授業を行うだけではなくて、成績をつけるために試験もします。試験内容は教材業者のものをそのまま使う(主に小学校)ことも多いですが、自分たちで作成することもあります。そういう行為を「作問」と呼びます。

そういうことなので、作問は授業と並んで先生たちの日常業務なのですが、教職課程(学校の先生になる資格)を終えた学生に尋ねると、作問の勉強はしていないと皆証言します。大学ではかなりきちんとした教職課程のカリキュラムが定められており、いろんな勉強をします。もちろん授業というものがどのような構成になっているかとか、代表的な教授法とそのポイントなんかも具体的に学びます。しかし、「作問」は習わないそうです。

作問の場面は結構あります。定期試験の作問は代表的ですが、機会は多くありません。機会が多いのは「小テスト」の作問です。作問は簡単だ、と思ってみんななめていると思います。


試験の分類

学校で実施する試験には主に3つの種類があります。入学試験など行われる学力判定試験、期末テストなどの定期試験、小規模で日常的に行われる小テストです。これらは同じような形式で実施されますが、目的が明確に異なり、それに応じて内容が調整されねばなりません。

学力判定試験は、受験者の学力を計量する目的行われます。理想を言えば得点が受験者の学力に比例するような結果を望むものです。満点以上の学力は計量することができないため、満点がほとんど取れない設定になっていることが普通です。また、判定したい学力の範囲の中心あたりが平均点になるように調整されます。さらに、得点分布がなるべく広い(標準偏差が大きい)ように問題が設定されます。一方で、得点と学力に精密な正の相関がようにも調整されます。これは得点分布の広さと両立しにくい特性であり、私立大学の入試ではお粗末なものが散見されます。

一方、小テストは、授業内容に関して受験者の理解を確認するもので、得点に応じたフィードバックを受験者に促す目的で行われます。理想的には全員満点を目標にします。平均点が低い場合は授業が失敗していることを意味します。なので、小テストで試験されているのは本当は教師です。そんなわけなので小テストの点数を成績に反映させるというのは望ましくありません。

定期試験はこれら二種類の複合で、授業内容に関して受験者の理解度を計量することを目的としています。授業内容に関して受験者の理解度のチェックは小テストであるということを指摘したことからもわかるように、定期試験は小テストの集合体として構成されるべきものです。ただ、生徒の意欲と好奇心を刺激するための設問を追加してもよいでしょう。


試験の機能

好むと好まざるとにかかわらわず、試験には受験者の能力を計量するという機能があります。一方で体調や運で結果が変化するというノイズも存在します。なので、ノイズを減らし、測定精度を向上させる努力が常に求められます。

ノイズの原因として体調と運を挙げました。体調は受験者の問題なので、試験を実施する側にはどうしようもありません。なので、これは無視します。一方で運は可能な限り排除すべき要素です。運の要素を排除する基本的な手段は選択問題を減らすことです。

共通一次試験でマークシート方式が導入されたときに大きな議論になったのが、運の要素です。単純な選択問題では運の要素が大きなウェイトを占めてしまいます。また、マークの記入ミスも運の要素となります。現在の共通テストでも採用されているマークシート方式は試験方法として根本的な問題を抱えていることになります。

テストにおける運の要素も信号理論におけるホワイトノイズのようにふるまいます。信号理論の帰結としてノイズを抑えて信号の信頼性を向上させる単純な方法は、計数回数を増やすことです。試験においては問題を多く設定することに対応します。単純選択問題は解答に要する時間が短いこともあり、同じ方式の設問が2~4個設定されることが普通です。こういう事情があるので、社会科目では問題量が増え、設問が細かくなりました。さらに問題に採用する範囲が枯渇し、重箱の隅をつつくようなマイナーなトピックスが多くなった結果、大きな批判を浴びてセンター試験は廃止に追いやられました。

共通テストでは、さらに複数選択問題(選択する数が不明)や、複式選択問題(2つ以上の選択肢全てを正解しないと得点にならない)などを採用して、運の排除を試みています。評判は良くなさそうですけど。

マークシート方式のもう一つの問題は、難易度を上げられないことです。試験時間は決まっているので設問数を無限に増やすことはできません。そのため単純選択方式で計量できる得点の範囲は自動的に定まってしまうのです。その結果、得点分布を大きくすることができません。

様々な試行錯誤があったのだと思いますが、センター試験の作問者たちは禁断の間違ったやり方を採用してしまいました。それは「依存性」です。ある設問に正解しないと次の設問に正解できないという設定は得点分布を大きくするのに有効です。しかしながら、運の要素を増大させます。その結果、得点分布が大きくてもノイズも大きくなり、測定精度が低い試験となりました。苦労したのは受験生たち。最悪です。

おそらく作問に関するノウハウが、体系化された学問として教育されてこなかったからこうした良くない試験が横行しているのだと僕は思います。そうした作問教育の不在は実際に教職課程の学生が学んでいないという事実から明らかであり、僕の子供たちに施された学校教育でも感じました。定期試験の作問がダメすぎると高校の先生に面と向かって叱責したことすらあります。


平均点と標準偏差と問題数の関係

作問を考えるときの基本は「確率・統計」です。試験では多くの受験者が存在し、試験の結果は統計として整理できます。作問は試験結果の統計を左右する要素と位置付けられます。

受験者の50%が正解する問題が1つあったときの平均点は、50点(100点満点)になります。標準偏差は50($=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}$)点です。このように、それぞれの問題に関して、問題の正答率(得点率)で標準偏差は自動的に定まります。

受験者の50%が正解する問題が$N$個あり、すべての問題の配点が同じだとすると、1問当たりの配点は$100/N$です。一問当たりの標準偏差は$\sqrt{(100/N)^2\times0.5-(100/N)^2}=\sqrt{100^2\times0.5-50^2}/N=50/N$となります。統計学の定理により、標準偏差の2乗に加法性があるので、テスト全体の標準偏差は$\sqrt{(50/N)^2\times N}=\sqrt(50^2)/\sqrt{N}=50/\sqrt N$となります。つまり、問題数が多くなると標準偏差が下がるということです。


共通テストに関する考察

共通テストでは平均点50点、標準偏差10点を目指しています。要は、得点と偏差値が一致するように設計しているわけです。文科省の役人あたりが、どうせ成績は偏差値を目安にするんだか、得点=偏差値だったらわかりやすいんじゃね?とか言ったんじゃないかな。浅はかすぎる。

先の例で、標準偏差が10点に達するのは、問題数が25個の場合です。これはすべての設問の難易度が同程度の場合のレアケースで、実際には難易度にばらつきがあります。設問の難易度にばらつきがあると標準偏差は低下します。つまり、共通テストでは問題数の制限と難易度のばらつきの制限ができてしまっている、ということです。

幅広い分野の習熟度の計測を目的とするなら、難易度のばらつきをなくして問題数を最大化することが理にかないます。一方、習熟度自体の計量を目的とするなら、難易度はばらついていた方が合理的です。その場合は問題数を少なくしないといけません。すると、幅広い分野にわたる問題設定が難しくなります。共通テストの理念としては前者なのですが、共通テストの役割は後者です。平均点と標準偏差に数値目標を設定してしまったために、理念と役割がコンフリクトしているのです。

また、あらゆる測定においてノイズの影響を排除したいように、テストでは「運」というノイズを除去したいわけです。4者択一を基本とするマークシート方式のテストではどうしても運の要素を排除できません。選択式の設問の場合、運の要素があると、平均点が上げ底され、標準偏差が低下します。50%が実力で正解する問題の場合、不正解の50%のうちの25%、すなわち12.5%ほどが「運」で正解します。すると正答率は62.5%になり、平均点は62.5点になります。標準偏差は約48.4で元々の50より下がります。

平均点を50点に戻そうとすると、正答率を33%程度にしないといけません。この時の標準偏差は約70でかなり難易度が上がります。つまり、相当難しい問題が混ざってくるということです。

そもそも平均50点、偏差値10点というテストの設定にどれほどの意味があるのでしょう?偏差値$X$と確率$P(x)$の間には大雑把に言って次のような関係があります。

\begin{equation}P(X)\approx 1/10^{|X-50|/(10\sigma)}\end{equation}

ただし、$\sigma$は標準偏差で、$P(X)$は偏差値がXを超えている確率です。偏差値70だと指数部分は2になり、$P(X)=1/100$です。正確ではありませんが概算ではあっているとします。ここから平均50点、偏差値10点というテストにおける上位10人の得点を考察してみます。共通テストの受験者数はおよそ50万人なので、上位10人の確率は、10/500000。$log_10{50000}\approx 4.69$なので、$X=97$ということになります。800点満点に換算すると776点で、上位10人あたりだと2点くらいの差で順位がつく計算になります。テストの機能の一つに能力の順位付けがありますが、入試に限っては合否判定あたりの順位付けという意味であり、最上位陣の順位付けは意味がありません。にもかかわらず、共通テストは合否判定に関係しないような成績優秀者の順位付けに最適な設計になっているというわけです。


テストとクイズは違う

英語では小テストのことをQuizと呼ぶので、テスト=クイズと短絡しても仕方ないかもしれませんが、いわゆるクイズとテストは全く別物です。クイズとは単なる遊びです。問題に重要な意味があることはほとんどありません。懸賞クイズなんかで、正解に利益が発生することもありますが、不正解で不利益があったりしません。しかし、テストは問題そのものに意味があったり、不正解だと落第や不合格なんていう不利益が生じます。テストには責任があるのです。

テストで生じる利害関係の責任はテストの実施者とテストの作問者が負うことになります。特にテスト内容に関しては作問者に大きな責任があります。作問者はテストの機能や役割をきちんと理解してその機能と役割にふさわしい問題を設定しないといけません。そのためにはテストをどのように設計するかということが大事になります。設問の具多的な内容より前にきちんと設計することが必要です。その設計に応じて、設問の難易度や数が決まるのです。

誰しもテストを受けた経験はありますが、テストの作問をした経験はあまりありません。教員等になって、作問をする立場になって初めて作問のミッションが与えられるわけで、作り方とか知らないわけです。適当にクイズっぽいものを並べたら、それなりにテストっぽいものができるので、それで安心しているというのが大半だと思います。でもそんなテストをさせられる側が不幸でなりません。作問者はテストされる人たちの利益と不利益を差配する立場にあり、不手際があれば訴えられてもおかしくありません。そういう真剣さが作問者に求められると思うのです。

そのためにも、テストの作り方について、きちんと体系化された教育がなされるべきだと僕は思うのです。



2025年8月21日木曜日

やべぇ物理学




序

僕は「科学」について、いくつか「非主流」な考え方を持っています。「似非科学」との境界ギリギリを攻めていると言うとわかりやすいかも。僕自身がそれに傾倒しているわけでもなくて、「主流」に対して懐疑的な立場を担保していて、「主流」のアンチテーゼとしていくつかの仮説を持っているという程度です。だから、僕の「非主流」な考え方が正しいと強弁することはありません。でも、つねにそういう「余地」を残すことが、正しい科学につながると思うのです。

かつてアインシュタインはニュートン力学に盾突きました。時間は絶対的なものではなく、空間は平坦ではない、という考え方です。特殊相対性理論と一般相対性理論ですね。ニュートン力学はおよそ300年にわたって正しいと信じられてきました。だから、ニュートン力学にいちゃもんをつけるのはとても勇気が必要だったと思います。アインシュタインが特殊相対性理論を発表したとき、アインシュタイン自身は理論の正しさにどれだけの自信があったのでしょう。僕はそんなに自信を持っていなかったかもしれないと思っています。というのもの、理論物理学者は自身の理論を仮説として提案するのが仕事であり、その仮説が間違っていてもあんまり気にしないからです。ま、特殊相対性理論に関しては、電磁気学においてすでに発見されていたローレンツ変換を電子以外の運動にも適用するような修正なので、当時の物理学者にとっては割と受け入れやすかったのかもしれません。

とはいうものの、当時絶対的に信じられていたニュートン力学という「主流」に対して修正を強いる提案ができたのは、「主流」に対して懐疑的な立場を容認するというメンタリティーが重要だったと僕は思います。アインシュタインが何を信じ、何をなそうとしていたのかは凡人の僕には思い及ばないですが、「主流」に対して何らかの不満があったのでしょうね。


とっかかり

今朝、以下の記事を見つけました。

「物理学者らは未だ量子力学の奇妙さに困惑しており、その真の意味について合意できていないことが『Nature』の調査で判明」

https://xenospectrum.com/physicists-remain-perplexed-by-the-peculiarities-of-quantum-mechanics-and-have-yet-to-reach-a-consensus-on-its-true-meaning-according-to-a-survey-by-nature/

量子力学と言うと、微分方程式と並んで、多くの理系大学生に絶望を与えてきた分野です。どこまで勉強したとしても、「波動関数」が何かわからないし、「スピン」も実体が説明されません。そのくせ、いろんな分野に量子力学の考え方が幅を利かせます。よくわからないけど、受け入れるしかしょうがなくて、みんな正しいと言っているので大丈夫なはず、という分野だと僕は思っています。そして、僕が感じていることは正しいということが、Natureの調査で判明しているという記事です。

日本の同僚たちとの会話で、日本では確実に「そうだ!」とわかっていました。全世界的にそういう状態になっているということは家内(モスクワ大学卒)との会話から感じていましたが、Natureによる全世界的な調査でそれが裏付けられた形です。

量子力学にまつわるあいまいさは今に始まった話ではありません。そもそも波動関数の意味と実体について、考案者のシュレーディンガー自身も良くわからなくて、当時の物理学界での最高権威者であったニールスボーアに教えを乞うたという伝説があるくらいです。その時のボーアの説明は、現在コペンハーゲン「解釈」として多くの科学者に受け入れられています。そう、「解釈」なのです。「仮説」よりはマシですが「説」よりも確度が低い説明という扱いなのです。そして「解釈」はいまだに「解釈」であって、確定した説明になっていません。だから、量子力学はちゃんと理解できなくてもしょうがないのです。


絶望的な状況

通常、科学の世界では研究が進むと理解が深くなり、より世界が整理されていきます。しかし、量子力学には当てはまっていないようです。

量子力学では「観測」によって事象が確定するという奇妙なふるまいが知られています。これにより波動関数は何らかの確率を表すのだと解釈されています。波動関数が確率的にふるまうのは、観測にかからない「隠れた変数」が内部に存在し、それによって観測結果が変化するのだ、と説明する仮説がありました。そのような「隠れた変数」が存在するならば、特定の不等式を満たすはずだということがスチュアートベルによって示されました(ベルの不等式)。このあたりの議論は極めて哲学的で科学の範疇に収まらないと思われていましたが、当時大学院生だったアランアスペが実験によってベルの不等式が成立していないことを示しました。複数の研究グループによる検証の結果、ベルの不等式の不成立が確定し、「隠れた変数」説が完全否定されました。その結果、波動関数に関する理解はシュレーディンガー以前の混沌とした状態に戻ってしまいました。

この混沌とした状態からトンでも仮説がいろいろ飛び出しました。最も有名なのは「多世界解釈」です。パラレルワールドが実在するとする完全にSFのような世界観をまじめに議論するという、わけのわからない状況が生まれてしまっています。「主流」に余地を残しておくというのは健全な科学の在り方ですが、これはやりすぎだと多く科学者が思っています。


非主流の告白

僕自身は「隠れた変数」が存在すると思っています。というかそういうものがなければならないと思っています。実験事実として否定された「隠れた変数」説を改めて支持するというのは科学者として正しい態度ではないという批判はあると思います。

でも僕の考える「隠れた変数」は「観測結果を確定させる」ものではありません。僕は、観測結果は「常に」確定的なんだけど、観測可能な世界の中では確定できない、と考えています。その場合、ベルの不等式は修正を受け、成立しなくなると思っています。

大統一理論の議論中で世界は10次元+1次元であるという説があります。10次元を扱う候補の理論が複数提案されているなかで、次元の選び方を変更すると、候補の理論が相互に変換され、11次元から眺めると一つの理論に見えると言われています。詳しい理論は僕にはわからないですけどね。その余分の1次元とは何だろう?と思うわけです。

どんな理論においても、「時間」は「空間」と区別のつかないパラメータになります。そのような理論においては、過去も未来もすべて確定的な事象になります。つまり、大統一理論が成立した暁には過去も未来も確定してしまうのです。しかしながら、量子力学は「観測」しないと事象が確定しません。つまり、そもそも矛盾をはらんでいるのです。

時間と空間をすべて等価に取り扱う「時空図」を考える(世界を4次元として眺める)と、すべての物体は「線」になります。そして「線」は物体の運動を表すことになります。運動は物理法則に従わなければならないので、「線」にはかなり強い制限が伴います。そしてその線は過去から未来のすべての時間にわたってその強い制限を満たさなければなりません。無数に存在するはずのすべての物体について、そのような制限を「一発」で満たすのは至難の業です。

通常の物理学の考え方であれば、物体の位置や速度が時々刻々変化するとして、時間に関する微分方程式を解くことになります。だから、ある時点でのパラメータがすべて判明すればその後の展開(線)を予測できます。物理法則のほとんどは時間に関して可逆的なので、時間を反転して計算すれば、過去の「線」も遡れます。もし未来や過去において計算が破綻するとしても現在の近傍では問題はありません。

でも「時空図」を描くとき、そこには過去も未来もすべて確定的です。もし遠い過去や未来において現象が破綻する(例えば、ビッグバンとかビッグクランチとか)と、現在の「線」の存在が否定されてしまいます。現在を肯定的に説明するためには、何らかの仕組みによって現在近傍の「線」が確定するような「動的」な仕組みがあるはずだと僕は思っています。「動的」とは通常は時間的な変化を指しますが、「時空図」において時間はすでに使用済みなので、ここでいう「動的」というのは「時間のような何か」を時間に見立てた概念になります。そういう「時間のような何か」が、僕たちに影響する物理法則の埒外にあるもう一つの次元であると僕は思っています。

その「時間のような何か」が変化すると、時空図中の「線」がうにょうにょ動くと考えます。僕たちの主観は「線」に沿って時間方向に移動します。光などの「観測」は「線」と「線」の間をつなぐ「線分」になります。「線分」の両端は発光点と吸収点に対応します。量子力学的には吸収点が「観測」に対応し、吸収点の正確な位置が観測結果に対応します。発光時点と吸収時点における「時間のような何か」が同じであれば、観測結果は「確定的」です。不確定性は発生しません。発光時点と吸収時点とで「時間のような何か」が異なっていれば、観測結果は「別の法則」の影響を受けます。すなわち、「時空図」において「時間のような何か」の変化にともない「線」が変化する「何かの法則」があって、「観測」はその法則に影響を受けると考えらえれます。その「何らかの法則」という僕たちが感知できない全く未知の法則性に支配された観測結果は不確定に見えるでしょう。

突拍子がないわけではない

このような僕の意見は別に突拍子がないものと言うわけでもありません。アインシュタインが時間と空間の等価性を示した時点で「時空図」の概念は確定的です。時間と空間をともに一つの図の中に収めると、通常の意味での「点」は存在できません。「時空図」中に点が存在するとは、ある瞬間に現れて次の瞬間にはパッと消えてしまう何かの存在を認めることになります。量子的なゆらぎとかの概念かもしれませんが、通常物質ではありえません。「時空図」において、すべての物質は「線」になります。その「線」は過去から未来にずっとつながっているはずです(質量保存則)。

一方、光も「線」になります。光には発光点と消光(吸収)点があるので、「線分」になります。時間と空間を直交座標系にとれば、その「線分」の傾きは光速を表します。この概念は「光円錐」として相対論で導入済みです。相対論では「光円錐」は導入されるけど、物体は依然として「点」として説明されており、あんまりよくないと思います。「光円錐」はとても分かりやすい概念ですが、直交座標系の時空において光線が特定の角度をもつという極めて非対称な現象を認めてしまうという気持ち悪さがあります。これは修正されねばならないと僕は思っています。

「時空図」に光線を描きこめば、線分になるのは自明です。それが直線なのか曲線なのか、円錐なのか、どれが最も自然かと言えば、直線だと思います。そのような図形で相対論を説明する試みもあるのですが、あんまり対称性がたかくないんですよね。だから、「時空図」というものを持ち出す人が少ないのだと思います。

僕が正しいわけではない

ここで僕が示したいのは僕の主張の正しさではなくて、世間で流通している説以外にも説得力がある説が存在しうるということです。量子力学の理解にあいまいさが残るのは量子力学が難しいからではなくて、もっとよい説明があるのに僕たちが気づいていないだけ、かもしれません。もっとよい説明ってのは、トンデモ学説かもしれません。量子力学だって最初はトンデモ学説だったのです。シュレディンガーが水素原子の電子軌道を鮮やかに示し、炭素の結合手が4本であって正四面体をなすことをうまく説明できたことで、量子力学は正しいとみんなが信じているにすぎません。シュレディンガーも量子力学が完全に正しいなんて思っていなかったと思います。量子力学の理解が難しいのならば、よりシンプルでわかりやすい説明を探し続けるべきだと僕は思います。

微分方程式の議論において、一般解の選択は世界をどのように解釈するかの選択であり、一つの微分方程式が複数種類の一般解によってさまざまに解けるという事実は、世界を解釈する方法は一つだけではないということを数学的に示していると指摘したことがあります。実際、大学院の講義ではその話をしています。これも非主流の考え方ですね。

実際のところ、量子力学は世界を理解するための一つの解釈であり、別の解釈方法も存在すると思います。もしかすると、別の解釈方法の方がシンプルでわかりやすいかもしれません。量子力学がわかりにくいのであれば、量子力学以外の理解の仕方を模索すべきであり、その努力は決して無駄ではないと思うのです。

一般に優秀な人ほど既存の説明をキャッチアップするのに優れます。というのも「優秀」の基準が「既存の説明をキャッチアップする」能力だからです。でもそういうのにすぐれない人が画期的な進歩をもたらすこともあります。

かつてアインシュタインは就職がうまくいかず大学を出てから特許局に就職しました。特許局の職員時代に書いた3つの論文こそ、奇跡の年の3論文です。いずれも「既存の説明」をぶっ壊す革新的なアイデアに満ちています。アインシュタインは正直言って「コミュ障」で、「既存の説明をキャッチアップする」能力に劣っていました。自閉気味の人が些細なことにこだわって周囲とトラブルになるというタイプでした。奇跡の年の3論文のうち最も地味な成果がブラウン運動の解明なんですが、この論文のきっかけはなんと浸透圧でした。アインシュタインは浸透圧について理論的な考察を深めた結果ブラウン運動を説明してしまったのです。浸透圧なんて高校の化学で習う内容であり、計算が簡単なことから、試験で出たらラッキー問題扱いです。でも浸透圧とは何なのか、なぜ浸透圧のようなものが観測されるのか、浸透圧にまつわる奇妙な性質はちゃんと説明できるのか、といったことをきちんと説明するのは大変困難です。アインシュタインは心の滓のように引っ掛かっていたそれらの疑問を、希望通りにならなかった就職先でウジウジと考え続けたに違いありません。

浸透圧に思いをはせた科学者はそれまでにもたくさんいたはずです。でもブラウン運動に到達した人はいませんでした。僕も浸透圧を習ったときに「不思議な現象だな」とは思いましたが、真剣に考察することはありませんでした。僕はアインシュタインとの決定的な差をこの時初めて認めました。

相対性理論や光電効果において同じような偏執的な洞察と深い考察を見て取ることができます。その根底には「理解した」として終わりにしないというアインシュタインの独特のメンタリティーがあるのだと僕は思っています。

ひとかどの物理学者にとって「量子力学がわからない」と告白するのは極めて恥ずかしいことです。Natureの記事では1万1千人にアンケートを実施し、回答があったのは千人ちょっととあります。この千人の方々は、ちょっと恥ずかしいけどこの流れに乗れば恥ずかしい告白も目立たない、と考えたはずです。それこそが科学者の良心だと思います。ただ、回答しなかった90%の人々は心配です。



2025年3月24日月曜日

民主主義は難しい

民主主義教育によるインプリンティング

僕たちは民主主義を信奉する国に生まれ、小さい時から学校で民主主義教育を受けてきた。学級会では選挙もどきの多数決を行って、クラスの代表を決めるし、もめごとがあったら多数決で方針を決定するということをずっとやってきた。だから、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義とみなされる。

子供のころはそれでも良いが、大人になっても刷り込まれた価値観によって、「みんなの意見」は大事で、「多数意見」は正義と考えるようになっている。ベンサム的な幸福論に従えば、多数の幸福を最大化することが社会的に重要なことなのだから、民主主義は幸福を得るための合理的な手段だろう。民主主義を信奉する価値観は僕たちの心のかなり深い部分にまで根ざしていると思う。

でも僕は子供のころから民主主義の欠点を感じてきた。選挙ではよりよい候補者を選ぶのではなく、当選する候補者を選ぶ傾向が強くあることに気づいた。選挙をくじ引きみたいなものと思えば、当たりである当選者を選ぶと気持ち良いものだ。逆に落選に票を投じると自分の行為が無駄になったみたいで悲しさを感じる。

政治家の汚職は定期的に報道される。ま、汚職のようなことがない限り、政治家にはうまみがすくないだろうから、そういうことがあるのはしょうがない気がしている。だからと言ってよくないことはよくないので、そういう政治家や政治団体には投票しないようにしているけどね。政治献金問題をなくすのは実は簡単で、政治献金に少しだけ課税すればよい。政治団体と宗教法人は非課税となっているが、0.1%ぐらい課税すればよい。課税するには金額の申告が必要になるので、闇献金かどうかの区別が簡単になる。そして、政治献金の税率を適用するには献金する側の申告も必要とすればよい。実際、政治献金は寄付の扱いであり、会社や個人が寄付として税金の減免を受けるにはかならず申告しないといけない。だから、献金する側の事務処理は全く変わらない。そして申告漏れに対しては200%くらいの通帳課税をすればよい。


銀河英雄伝説の話

僕は民主主義を絶対視しない感じなんだけど、それでも民主主義は悪くはないんだろうな、と思っている。そういう考え方に影響を与えたのは、恥ずかしながら「銀河英雄伝説(田中芳樹著)」というラノベである。この銀河英雄伝説のテーマの一つに民主主義と独裁がある。

メインの主人公のラインハルトは最終的に作中の世界全体(銀河帝国)を統べる独裁者になる。独裁者ではあるものの割と公平であり、善政を敷く。一方のライバルであるヤン・ウエンリーは民主主義を信奉する自由惑星同盟の軍人である。自由惑星同盟は政治腐敗がひどく、銀河帝国との戦争で多くの国民を戦争に駆り立てる。ヤン・ウエンリーは自国の政治家に愛想を尽かせながらも、善政の独裁者より、汚職まみれの民主主義の方がマシとして、自由惑星同盟に献身する。汚職まみれでひどい政策であっても、民主的なプロセスには自浄作用があり、長い目で見たら民主主義の方が優れている、という信念を随所で語る。

善政の独裁者と汚職まみれの民主主義の二択だったら、当事者の国民としては善政の独裁者の方が利がある。果たしてそれでよいのだろうか?という命題である。それでもヤン・ウエンリーは確信を持って民主主義に殉じる。物語の核の一つになっている。

ヤン・ウエンリーというキャラクターの魅力もあって、民主主義に引導を渡すのは早計かもしれないと思って、これまで生きてきた。でも最近、民主主義の限界を感じている。


独裁者と民主主義は相反しないという事実

独裁体制は、汚職の温床となりやすく、自浄作用が働きにくい。ヨーロッパの中世という時代は1000年以上続くのだが、世界史を勉強すればよくわかるが中世ヨーロッパの歴史というのは学ぶべき項目が異常に少ない。これは中世ヨーロッパのほとんどの国が王政であり、独裁国家であったことと無関係ではないと思われる。さらにキリスト教の政治介入により、支配階級でさえしばしば文盲であったくらいに、知的レベルが低く抑えられていた。その結果、文明は発達せず、民衆は搾取され続けた。

独裁体制と民主主義は相反するものかというとそうでもない。銀河英雄伝説では対立の構図に置かれたが、多くの民主主義国家において、民主的に独裁者を選ぶということがしばしばおこる。最も有名なのはヒトラーである。ヒトラーは最も民主的だとされたワイマール憲法下で民主的に選ばれ、合法的に独裁者となった。ヒトラーの教訓から、独裁者を生み出さないような憲法が世界中で研究され、試されている。我が国の憲法には非常事態条項がなく、数年前に非常事態条項に関する改憲論が取りざたされたが立ち消えになった。ヒトラーはワイマール憲法の非常事態条項を活用して独裁者となっており、日本の憲法に非常事態条項がないのは制定時に日本を統治していたアメリカの希望を反映している。憲法学者はヒトラーの事例をよく知っているので非常事態条項には常に否定的である。

ヒトラーほどでなくても、中国や北朝鮮でも独裁体制が敷かれている。どちらも国名に「民主主義」と入るほどの自称民主主義国家である。ちなみに、国名に民主主義と入っている国は、建前だけが民主主義な国が多いという皮肉な法則があるようだ。

フィリピンは民主主義国家ではあるが、マルコスという独裁者を生んだ。独裁体制下では汚職がまかり通る。マルコスの失脚後かなり経つが、今でも汚職は残っており、フィリピンは汚職大国として有名だ。最近失脚したシリアのアサドは前任者の父親の代からの独裁者だった。割とうまくやっていたが、アメリカが支援する反政府組織により失脚した。武装した反政府組織があるというのはトンデモないことであるが、反政府組織による台頭は民主主義的でないので、民主主義の信奉者としては手放しで喜べる話ではない。

斯く言う我が国も長らく自民党一党独裁体制であり、民主主義的でない部分も多い。独裁体制では官民あるいは政財界の癒着が一般的に強くなる。自民党に関して政治献金不正が話が多いのは明らかに一党独裁体制が影響している。


民主主義には自浄作用があるにはある

善なる独裁者もいつかは死ぬ。その後継者が善政を敷くとは限らない。銀河英雄伝説でもその事実は何度も語られ、後半のテーマとなっている。善でない独裁者は悪夢である。独裁者が残虐な行為をしても誰も止められない。止めようとするものは反逆者として処分されるからだ。そこまでいかなくても、愚図な独裁者は摂政がおかれて、取り巻きが好き放題するようになる。こうしたパターンは世界各地で繰り返されてきた。

そうした最悪の事態を回避あるいは改善するために考え出された仕組みが民主主義と言える。民主主義自体はギリシア時代から存在していたが、ヨーロッパではほとんど採用されていなかった。キリスト教教会の方針で、民衆に教育を与えなかったからである。自分の名前すら読み書きできない一般民衆が選挙なんかできるわけがないという論理である。一般民衆が文盲なのは教会の方針なのに、マッチポンプ的な論理を主張していた。

活版印刷が発明され、一般民衆が聖書を読みだした途端、教会の権威は崩れ、各地で宗教改革という混乱が発生した。これは民主主義復活の重要なきっかけとなった。このように民主主義は独裁体制を覆す機能がある。

教育を受けた民衆からなる社会を安定化する方法論が民主主義と理解することができる。


民主主義のスタートアップは失敗が多い

実は民主主義はいたるところで失敗している。独裁体制を生み出すだけでなく、せっかく導入した民主的な社会システムが崩壊する事例が多いのだ。アフガニスタンではアメリカ主導で構築した民主主義体制が、アメリカ軍の撤退と同時に崩壊し、タリバンの独裁政権が復活した。時系列はこの通りだが、実質はアメリカ軍の駐留中から民主主義体制が事実上崩壊していた。汚職が蔓延し、社会が機能不全に陥っていたのである。

最も新しい国として発足した南スーダンでは、民主的な政治体制が導入されたが、たった5年程度で崩壊し、事実上国連の管理下に置かれている。複数の武装組織が争っていて、選挙が行えていない。

ミャンマーは軍事政権が民主主義勢力に折れて、軍事政権と民主主義の融和体制が敷かれたが、先ごろ軍事政権が民主勢力を退け、軍事独裁体制に戻ってしまった。民主勢力が支持を拡大した結果、軍事政権側が危機感を抱き、軍事クーデターを起こし、内戦状態が続いている。

これらの事例に共通するのは、長らく独裁体制であった国に、外国主導あるいは外圧で民主主義が導入されているということである。独裁体制の弊害の一つに教育の軽視がある。中世ヨーロッパでそうであったように民衆の教育レベルが低い方が統治しやすい。なので、独裁体制下では教育が満足に施されない。典型例はカンボジアを支配していたポルポト派である。ポルポト派は独裁体制を確立した後、インテリ狩りを行った。知的階級の人々を弾圧・処刑したのである。なんと眼鏡をかけているだけでインテリと判断され処刑されたそうだ。その結果、文盲率が大幅に上昇した。教育の足りない人々は団結して物事に対応することが難しくなり、独裁政権を打倒するような勢力が発生しなくなるのだ。

幸いなことにカンボジアでの民主主義の導入は比較的成功している。成功要因は本格的な民主主義の導入まで十分な時間をかけたことだと思う。知識層が完全に駆逐されていたカンボジアで最初に行われたことは学校の先生の養成だった。学校の運営再開までに5年ほどかけ、そこから10年ほどかけて教育を施し、ようやく選挙にこぎつけた。このような気長なプロセスが成功したのは、日本がPKOに参加したことが大きいと思われる。

逆に教育の足りないところに民主主義を外部勢力により導入すると、選挙権を持つ人々が選挙の意味を正しく理解できないので、選挙の不正が横行する。典型的には買収が横行するのだ。南スーダンが崩壊した原因はこれである。

別のパターンとして、宗主国が崩壊してタナボタ的に独立国となったケースがある。韓国やウクライナが典型例である。韓国はいまだに選挙で毎回ゴタゴタしているが、これは民主主義の選挙の側面が強すぎて、法による統治への理解が浅いからだと思われる。

一方、ウクライナはソ連崩壊後に発足した国で当初から民主主義に関する理解は十分であった。しかしながら、法による統治への理解が弱く、何度かの独裁体制とその打倒が繰り返され、手が付けられなくなっている。近年では親ロシアと反ロシアの政権がおおむね交互に政権交代を行っており、政策が安定していなかった。挙句の果てが、反ロシアを掲げたコメディアンを大統領にしてしまい、ロシアとの戦争に突入した。ゼレンスキーが行ったのは、これまでの政権の方針を一方的に破棄する行為であり、実質的に宣戦布告である。歴史的には平和条約や不可侵条約、停戦合意などの破棄によって戦争突入となるのが通例であり、これらの破棄をもって戦争の意志ありと判断するのが常識的な歴史観である。破棄されたのはミンスク合意2というもので、ウクライナ東部の自治を認める代わりに停戦するという合意であった。これを破棄するということは、停戦解除するという意味である。停戦が解除になったので、合意以前の戦闘状態に戻るのは必至。停戦合意を破棄するとは頭が悪すぎる。そもそもは、歴史を学んでいない素人を選挙で選んでしまったウクライナ国民の浅慮であり、それは民主主義への理解の浅さの表れだと思う。


支持率至上主義の危うさ

ウクライナの戦争は浅はかなゼレンスキーをたしなめて傷が浅いうちに戦闘終結させるべきだった。戦争の原因が停戦合意の破棄なので破棄した側に非がある。停戦合意の破棄とは停戦合意前の状態に戻るという意思表示であり、それは戦闘再開の通告である。これが平和条約や不可侵条約の破棄であれば、戦争までに話し合いのチャンスがあった。しかし、停戦合意の破棄から戦闘再開までのタイムラグは理論上存在しない。イスラエルは停戦合意を破棄せずにガザの爆撃を再開していて、これが普通の停戦合意破棄のパターンである。ウクライナが停戦合意を破棄したということは、ウクライナはすぐに戦闘再開するという意思を示したという意味。停戦合意破棄する側は当然戦闘準備万端と推定されるので、わけで、それに即応するのは当たり前。ロシアがウクライナに攻め込んだことに関して、国際法的にロシアの瑕疵は一切ない。

しかし、ここで民主主義の悪い面が出てしまった。攻め込まれたウクライナ、攻め込んだロシアという構図を喧伝することで、悪いロシア対かわいそうなウクライナという図式が浸透してしまった。もともと対ロシアの組織であるNATOはここぞとばかりウクライナに肩入れした。NATOを中心とする西側諸国のリーダーたちはウクライナ支持を表明すると支持率が爆上がりすることに気が付いた。その結果、西側諸国は相次いでウクライナ支持を表明し、戦闘継続の環境が整ってしまった。

勝てない戦争に肩入れするのは極めて危険な行為であることは歴史で何度も証明されている。日本は三国同盟のドイツ・イタリアが戦争に突入し、なし崩し的に対立の構図に巻き込まれ太平洋戦争に突入することになった。三国同盟を早々に破棄していたら戦争を回避できていたかもしれない。ま、そうでないかもしれないが。少なくとも、戦闘に参加しなくても資金を提供するだけで肩入れしたことになる。すくなくとも、提供した資金を回収するには肩入れした国が勝利する必要がある。勝利の道筋が見えていなければ、資金提供すべきではない、というのが戦略上の常識である。

しかし、西側諸国のリーダーたちは勝利条件すらわからない戦争に大量の資金を提供した。その見返りは国内の支持率であった。ウクライナに肩入れした国々のリーダーは10~20%の支持率の増加を得た。これにより1~2年の政権基盤を得た。しかしながら、ウクライナの戦況が芳しくないことが漏れ聞こえてくると、急激に支持率が低下した。最初に耐えられなかったのはイギリスである。イギリスは首相が4人目である。

次に交代したのはイタリア、しばらくして、日本(日本の首相交代はウクライナが原因というわけではない)。そして、アメリカも交代した。最近になってドイツとカナダも交代し、残るはフランスのみである。ただ、フランスもウクライナの敗戦が決まると耐えられないかもしれない。

当のウクライナは選挙を停止しており、これ以上アメリカの支持を得るには選挙するしかない状況に追い込まれている。そもそもウクライナは議会選挙は一度やっていて、政権側の勢力が負けたことから、続く大統領選挙を延期したという経緯がある。大統領選後にゼレンスキーはフランスあたりに亡命するはずだ。

ともかく、武器が尽きなければ負けないだろうということで西側諸国はウクライナに際限なく援助してきたが、その理由は各国の国内支持率のためである。これはもう、正義とかちゃんちゃらおかしい構図であり、もっともやってはいけないことだ。それに歯止めがかからないというのが民主主義の真実ということなのだろう。

民主主義は大事だ(たぶんそう)。民主主義は正義だ(ちょっとあやしい)。正義は負けてはいけない(そうあってほしいけどね)。そういった理念的なことを掲げるのは素晴らしいことだが、その動機が「支持率」というのがとても悲しいし、そのような動機に基づく行動はたぶん正しくない。

「国際政治はヤクザの抗争がもっとも近い」と僕は大学の国際政治学で教わった。その通りだと思う。「勝った側が正義」というのは日本人は太平洋戦争の敗戦で身に染みて理解したはずなのに、攻めた・攻められたを正義の基準としたいようだ。戦争は殺し合いであり、通常の法律が及ばない。不法滞在の外国人を殺したら、当然殺人罪である。銃を持って人前に出てきたら、脅迫罪だし、応戦されて殺されても正当防衛なので文句は言えない。いちいちそういう理屈をこねると面倒なので、、細かな犯罪行為を無視するというのが「戦争」の本質だ。基本的には戦争に至らないように様々な努力をすることが肝心である。戦争やむなしとなっても勝つ算段は用意しておかないといけない。

勝利条件すら明らかでない戦争に支持率目的で参入したG7リーダーたちのほとんどが淘汰されたことは、きっと良いことだと思う。民主主義の自浄作用と言えるだろう。ウクライナの戦争において勝利条件が明らかでないというと反対意見が多いかもしれない。でも、ウクライナの主張はロシアの完全排除であり、それは第三次世界大戦でも起きない限り無理だ。ロシアはいまだに相互確証破壊を何度も実行できるだけの核兵器を所有している。ロシアが消滅しない限り、ロシアが負けることはない。ゼレンスキーはそれを知っていて、NATOを戦争に参加させようとずっと画策している。そういうのがわかっているからトランプに怒鳴られた。

戦争に負けると、確実に支持率は下がる。そのような判断をポピュリズム傾向の強い指導者が選択するのは難しいかもしれない。日本は昭和天皇という支持率の定義外の存在がいたからそれが可能だったが、ウクライナはどうか。そのあたりに民主主義の限界と絶望が現れるかもしれない。