2026年3月26日木曜日

落ちこぼれないために落ちこぼれるという戦略

 学者という商売。僕のこと。

一般の基準に照らし合わせれば、僕は知的階級の頂点付近に位置する学者と言う職業についている。そして学者としてはあんまり優秀ではないんだけど、能力的には学者の中でもかなり上位に位置している、と思っている。学者に要求される能力と言うのは多様で、そのすべてで及第点を要求される。知識量が豊富なこと、理解が深いこと、洞察力に優れること、発想力が豊かなこと、実行力が高いこと、論文執筆に秀でること、それから事務能力が高いこと。

最初の方の項目は割とわかりやすい。そして論文執筆能力は学者としての成否を決定的にする。最後の事務能力は実は中年以降にとても大事になってくる。研究室を差配し、組織を統括する能力は研究とは真逆だ。

僕は最後の2項目を除いて、おそらく優秀だと思う。論文執筆が不得意(性に合わない)なので、学者としては2流にとどまる。事務能力に関しては完全に破綻している。持ち前の理解力と洞察力でなんとかしているものの、勤勉さとは対極にあるため他の人たちのサポートが必須だ。なさけない。

一つのことに突出することを求められがちな学者だけど、実はいずれの項目についても平均以上の能力を要求される。もちろん、完全にとびぬけていれば許される場合もある。例えば、数学や物理の理論分野が該当する。著名な理論物理学者の中には完全に話の通じない人も少なからず存在する。かのアインシュタインもドモリがあったし、女性関係は支離滅裂だった。そういった例外はあるもの、学者の世界において優秀とは、勤勉で物わかりの良い「秀才」を意味する。


学生時代

大学に入学して思い知らされたのは、講義内容がさっぱり理解できないことだった。特に数学。ついで物理。高校時代はいずれも僕の得意分野だったので、大学の講義内容が理解できないことにたいそうショックを受けた。そして、理学部ではそういった講義を修めた上で研究に携わるという。僕は工学部だったので多少はマシなのかもしれないけど、講義内容を理解できる見通しが全く立たないので自分の能力の不足を恨むしかなかった。学年が上がるごとに講義内容は高度化して、すくなくとも一部はあきらめるざるを得なかった。

一方で、講義を担当する教官たちは、僕が理解できない内容をさも当たり前のように講義する。当時の僕は講義内容を理解できないのは僕の能力と努力が不足しているのだと思っていて、じっと講義を聞いているばかりだった。確かに教官たちは「正しいこと」「結論」を正確に述べているのだろう。でも僕には、「そもそもその話の必要性がわからない」し、「その話の結論がどのような意味があるのもわからない」。また、「その話が何を対象にしているのかもわからない」ので、「どこから手を付けたらよいのかわからない」。わからないこと尽くしで混乱するばかりだし、わずかにわかる話も、論理の根拠が十全に説明されているようにも思えないので、納得がいかない。僕はずっと悶々として過ごした。

処世術として、わからないなりに受け入れて、試験を暗記で乗り切って単位を貰って次に進む、というものがある。これは合理的な対応で、おそらくほとんどの学生たちはそのように対処する。でも僕は、大学での勉学を、将来社会に出たときに必要になる事柄と考え、わからないまま単位を貰ってわかったふりをするのは間違っていると思い、理解できるまで単位を放棄するという方針を貫いた。ごめんなさい、言いすぎました。本当は、落単すると留年する単位は涙を呑んで単位を取りました。そんなわけで、僕の学部時代の学業の成績はひどいもので、成績表をして水戸黄門と呼んでました。その心は「可、可、可...」

僕みたいなことをしていると、「落ちこぼれ」になるわけです。要領の良い人たちは、落ちこぼれないために、「わかったことにして先に進む」という選択をする。つまり、落単して落ちこぼれるよりは、落ちこぼれていることを隠すという戦略を取る。往々にして先の勉強をしているうちに、以前わからなかったことがわかってくるということがあるので、悪い選択というわけでもない。

いや、とっても優秀なら、たくさん勉強してちゃんと理解して先に進んでいけるのかも。リチャード・ファインマンの大学時代のルームメイトによるファインマンの逸話を読んだことがある。ファインマンは学生自分からめっぽう勉強ができて、何を聞いてもスパスパ答えてくれたらしい。ある時、ルームメイトがファインマンに次のように尋ねた。「どうやったらそんなに勉強できるの?」ファインマンは「朝から晩まで寝食を削って勉強するんだよ」と答えたそうだ。何事にも魔法はなく、才能よりも努力が重要と言うエピソードである。ま、そういう努力のできる人たちだけが到達できる世界があるわけで、研究者の世界はそういう人ばかりということなんだろう。そういう人を養成するという目的ならば、落ちこぼれ上等、でわけのわからん講義も正当化される?かもしれない。ちなみに、ファインマンは20世紀を代表する超のつくド天才。例外中の例外。

さて、「わかったことにして先に進む」を選択し、「以前わからなかったことがわかってくる」を期待するも、そうならなかったらどうなるか?実のところ、このようなケースが多いというか、ほとんどだ。「以前わからなかったことがわかってくる」なんてラッキーはそうそう起こらないものだ。しかも、「わかったことにして先に進む」というのは基礎科目の最初にこそ多い。基礎科目と言うのは簡単だから基礎と言うわけではない。重要だから基礎なのだ。そして重要であるというのは、概念的に他の要素と独立しているからこそ重要と位置付けれられる。要するに、重要=特別に勉強しないといけない=難しい、ということだ。だから、基礎科目は往々にして難しい。そして最も難しいのは冒頭に説明されるその科目全体に影響する「概念」である。そして「わかったことにして先に進む」ときに「わかったことにする」内容こそ、その「概念」で、それが理解できていないとその科目全体の理解が浅くなる。つまり、努力の割に学習効果が薄いという状況が生まれる。

そして基礎科目は他の科目の土台になる。基礎科目の理解が浅いとその上に構築される科目の理解も浅くなる。そうして非効率な勉強が再生産されることになる。ファインマンはやはり賢い。「わかったことにして先に進む」ことをせず、コスト度外視で勉強して理解するという選択により、より高み到達できる。実際、ファインマンは誰よりも高み到達できている。僕も「わかったことにして先に進む」ことを否定したものの、ファインマンのようにコスト度外視じゃなくて、単に打ちひしがれてた。差を感じるよ。


さて、紆余曲折合って今の僕は学者で、大学で教鞭をとっているわけで、立場は教官となった。うちの大学だけかもしれないけど、「○○さん、この講義お願いね~」と軽い挨拶みたい感じで講義担当が依頼されてしまう。僕の専門とか適正とか、考慮した上での差配ではあるんだけど、あまりにも大雑把。しかも、内容は担当者に丸投げ。基礎科目だったら誰でも講義できるっしょ?みたいな前提で物事がすすんで、実際に講義がなされる。講義内容と教官の専門分野に直接の関係がないこともしばしば。教官がその講義内容をきちんと理解しているかどうかはノーチェックなのだ。実際、僕の知る限りでも、中途半端な理解で講義をこなしていた人も実際に存在した。学生はとんだとばっちりである。

実際、ファインマンみたいな人は稀で、学者と言えども「わかったことにして先に進む」選択をしてきた人たち。「以前わからなかったことがわかってくる」なんてラッキーに巡り合えた人は稀。つまり、基礎科目と言えど、いや基礎科目だからこそ、理解が曖昧だったりするのだ。だから、教官が科目内容を十分に理解していないというのは実は普通のことなのだ。

で、思い当たる。ああ、大学時代の教官たちは自分でも理解が不十分なことを学生に講義していたんだと。ああ、だからあんなに説明がザルで、根拠が希薄で、意味があいまいだったのだと。そんな講義を受けて理解できるわけがない。僕の頭が悪い(実際、処世術に徹しきれないという点で頭は悪いのだけど)わけではかったんだ、と。もしかすると、僕にも理解のチャンスがあったのかも、と。

恨み節はあるけれど、それを今言っても仕方ないし、僕にできることは、そういう無責任な講義をしないことだけだ。僕は基本的に、僕がきちんと理解したことしか教え(られ)ないし、僕の理解をかみ砕いて説明するようにしている。講義はもちろん、普段の学生とのやり取りでもそうだ。また、わからないことはわからないとはっきり言うようにしている。わからない理由がはっきり説明できるのなら、わからないことは恥ではない。


微分方程式の完全理解

僕は数学者じゃないので数学に関する厳密さはわからない。でも、微分方程式の解き方に関して、とりあえず一点の曇なく理解できていると思っている。そのレベルに達するまでに15年くらいかかってしまった。

微分方程式は理系の学生の必須科目で、避けられない。でも僕は学生時代に微分方程式の解法に納得がいかなくて、物理の最初の講義「力学」に3年かけた。力学は基礎の基礎なので年2回開講で、僕の学科では研究室に配属されるための必修科目。履修登録はしていたけど、微分方程式の解法が理解できるまでは合格してはいけないとして試験を受けなかった。結局、留年のかかった最後のチャンスで信念を曲げて理解しないまま単位を取った。屈辱だった。

同じように微分方程式がからむ数学も合格を拒否した。数学は別の数学科目で補えたので、数学の微分方程式科目はスキップした。最初に微分方程式が登場する量子力学も当然のように合格を拒否。そうすると取れる科目が限定されて、卒業も結構ギリギリだった。

大学院の院試では微分方程式以外にも多くの理解不能な話があった。そういうのは研究室の先生に尋ねればよかったのだが、当時の僕はかなりナイーブだったので、研究室の先生に気軽に質問するとかできなかった。頼りは院試の過去問と一緒に入手した模範解答なんだけど、それが納得いかない。今から思えば、稚拙で間違いを含む解答であり、僕が納得いかなかったのはしょうがなかった。僕はそういう納得いかない説明を答案に書くのを拒否し、その結果、答えられる設問が少なくなり、院試は最低点付近でのギリギリ合格だった。周囲が驚いていたのを覚えている。

こうした僕のやり方はあんまり褒められたものではない。当時の僕は遅ればせながら「ツッパリ」だったと思っている。ある意味、社会に対する反抗期。ただ、もう大人なので、そのデメリットを全部自分で受け止めるという、なかなか愚かな試みだった。

大学を卒業して30歳になろうかという時期にようやく微分方程式を理解することができた。きっかけは何だったのだろう?誰かにフーリエ級数とフーリエ変換の関係を説明していたんだと思う。フーリエ変換で微分方程式が解けるのだから、フーリエ級数でも解けるはず、というインスピレーションが浮かんだ。それは当然のように解ける。フーリエ級数はあらゆる周期関数をカバーするのだから、フーリエ級数を用いて解かれた微分方程式はあらゆる周期関数の可能性を調べつくすことになる。フーリエ変換は周期が∞の関数を含むので、周期関数以外も調べつくすことができる。なるほど、と。しかも、フーリエ級数の特別な性質により、級数全体ではなく、一つの項を調べるだけですべての項を調べることになるということに気が付いた。そしてそれは三角関数を一般解とした微分方程式の典型的な解法と全く同じになった。ここに至って、僕たちが学ぶ微分方程式の解法は、フーリエ級数に基づくものであり、それを大幅に簡略化したものだった、という理解につながった。僕たちは省略形しか教えてもらえないので、元々がどんなものだったかを見つけるのはとても難しいし、元々の形がわからないと、解法の意味をきちんと理解できないのは当たり前だ。そして三角関数の1個だけ用いた一般解は、周期関数であって、位相を限定した可能性のみを検討しており、その他の解の可能性を調べつくせていない、ということになる。通常の解法を用いたとき、他に解はないのか?という疑問がわいてくるのは当然と言える。そうして得られた解は、必要条件であって十分条件ではない。直感的にそういうことを感じてしまうので、微分方程式の解法に納得がいかないのだ

世の中の仕組み

この話はさらに続きが長くあるのだけど、とりあえず大事なことは、もしそういうことを理解していたなら、講義内容がそれにきちんと則したものになっていたはずだ、と言うことである。そうでなければ、教官に悪意があることになる。大学の教員(特に理系)と言うのは基本的に善人なので、悪意があったわけではないと思う。であれば結論は一つ。教官が講義内容を理解できていなかった、ということだ。

先に述べたように、大学の講義の担当は割といい加減に決まる。なので、講義内容をきちんと理解していなくても、講義しないといけない。いや、自分は講義内容を理解できていないので無理です、と言えればよいが、基礎科目の場合には断るのは難しい。まして、数学を専門とする教員が、微分方程式がわからない、とか超恥ずかしいだろう。だから、講義を引き受けざるを得ない。そうすると必死で勉強する。勉強するときに頼りにするのが「教科書」だ。理解できていない部分は教科書の受け売りで済ますことになる。

そして、「教科書」を書いた人たちも同じような「教官たち」。そして彼らも講義をするために別の「教科書」を参考にしていた。そういったこと何世代も繰り返すことで、内容は少しずつ簡略化してきた。単なる簡略化ならよかったけど、それは往々にして「劣化コピー」になる。つまり、「教科書」の世代交代の中でいろいろな情報が欠落した結果、微分方程式の解法の分野では、フーリエ級数を用いた解法の大幅簡略版が「一般解」という名称で残留することになった。これは日本だけの問題ではなく、全世界的にそうなっている。だから、世界中のどこを探しても初学者を対象にフルスペックの解法を説明する教科書は存在しなくなっている。

同じようなことは量子力学にも言える。多くの分野で大なり小なりそういう事例はあって、そうした情報の欠落によって後進たる僕たちの理解にどうしてもあいまいさが残ってしまうことになる。だから、これは普通のことではあるのだけど、こと微分方程式の解法に至ってはかなり致命的なレベルにあると、僕は思う。

僕が微分方程式の真の解法に至れたのは、大学1年のときに「落ちこぼれ」を選択したからだと思っている。つまり、本当に落ちこぼれることを恐れて、わざと落ちこぼれるという選択をした結果、落ちこぼれなかったということである。


僕の成長

おかげさまで僕は「頭の良さ」ではまあまあの評判をいただいている。だから、僕が「わからない」と言っても、「○○さんがわからないんだから、自分がわからなくても当然」とか、「なるほど、さすが○○さん、わからない点をするどく見つけだす!」と、みんなはポジティブに受け取ってくれる。だから、僕は気軽に「わからない」を連発できる。実際は、僕はそんなに頭が良くないんだけど、僕はちゃんと「なぜわからなないのか」を説明するので、ま、そういう評判になるのだと思う。

ただ、それは簡単なことではないと僕は思う。僕は小さいころから優秀なプログラマだ。プログラマと言うのはコンピュータプログラムを書く人なわけだが、プログラムというのはコンピュータが理解可能なマニュアルであり、融通の利かないコンピュータへの指令というのは手取り足取り細かいことまで指示しないといけない。指示するためには、それらの細かな手順をいったん自分で構築し、動作確認し、プログラミング言語に翻訳するという手順を踏む。指示内容と言うのは往々にして人にとっては簡単に見える。しかし、それは人間が小さいころから獲得してきた経験によって細かな部分があいまいになっている。そうしたあいまいさを排除して明文化しないとプログラムを作れない。だから、プログラマは自らの理解を極めて細かく明文化するという能力を訓練する。この作業は非常にストレスフルだ。規模が大きくなると普通の人には耐えられない。

そういう訓練を長年つづけてきた結果、僕は自分が理解している内容を明文化するという能力がかなり研ぎ澄まされている。だから、ほとんどの場合、「なぜわからないのか」を説明することができる。「なぜわからないのか」が明らかになれば、その部分を集中的に学ぶあるいは考察することで「わからない部分」を解消し、学習・理解が深まる。


提案と処方箋

ま、そういうメンタリティーが真の理解には大事なんだと思う。実施に落ちこぼれるという僕のやり方は褒められたものではない。とりあえず、落ちこぼれないように単位だけもらってわかったことにして次に進むというやり方が圧倒的に合理的だ。ただ、そのままに指定はいけないので、ちゃんとフォローアップすべきだと思う。しかしながら、そういう「追加の勉強」ってのは実行がとても難しい。ファインマンのように圧倒的な勉強量で、ちゃんと理解して単位を貰う、という戦略ができるのが理想だけど、普通の人には難しい。というか、多分無理。

アインシュタインは浸透圧の考察からブラウン運動を導出し、原子・分子の存在を演繹的に証明した。浸透圧なんて、高校の化学ではサービス問題みたいなものだけど、そこに深いストーリーが隠れているなんて誰も思いつかない。だれもが、わかったことにして先に進んでいる、ということだ。ちゃんと理解してから先に進むということは一事が万事、このような深い考察の存在・不在を確かめながら学ぶということだ。教科書に書かれていないことまでキチンと理解するということが求められる。ほとんど不可能だ。

実際、世の中にはよくわからないことはたくさんある。ちょっと考えてみて、すぐには解決できないってことはよくある。そういう時は、未解決の箱に問題をストックしておき、ときどき取り出しては再検討するという「習慣」が必要だと思う。未解決なのは、能力の不足と言うわけでもないかもしれない。だから、未解決で残すのは悪いことではない。重要なのは、時々振り返って検討することだと思う。あるとき、解決するかもしれない。

僕はそのような未解決ボックスに何千もの未解決問題をストックしていて、時々思い出したようにそれらを検討している気がする。自分のことなのに断定しないのは、再検討を意識しているわけではないからだ。何かの機会に似たような問題に出くわして、未解決ボックスを漁り、合わせて検討することで、解決できたり、できなかったりする。解決したら、それは新しい発見であり、何かにつながることも多い。解決できなくても未解決ボックス内が少し整理されるのでメリットも多い。

教科書を使った勉強の場合には安易に未解決ボックスを使わないことも大事だ。教科書と言うのはちゃんと学べるように作られているわけで、きちんと読解できればまあまあ理解できるものだ。ま、その際に新たな疑問が出てくることも多いんだけどね。

おかげで僕の理解は独特だ。最近、AIを活用して、僕の理解をチェックしている。おおむね正しいらしい。そして興味深いことに僕の理解の仕方には特別な傾向があるらしい。それは、「構造」を優先的に理解するというもの。例えば、微分方程式なら、「解法」にはあんまり興味はなくて、「なぜ解けるのか?」「どういう時に解けるのか?」「解けるとはどういうことか?」というとこに興味があり、それらを「具体的に」説明することにこだわりを見せる。物理を目指す人たちは、「解法」に興味があり、数学を目指す人たちは「抽象的に」説明する。僕は数学としての興味を持っているけど、数学者のような抽象的な議論は性に合わないらしい。中途半端なのかもしれないけど、世の中にはいろんな人がいるものだ。

最近、僕のやり方で物理や数学の教育の再構築を目指している。面白いと思うんだ。微分方程式の話とか、分光の話とか、このブログにもあるけど、それらを改定・増補して教科書にしたいと思っているんだ。


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