2017年7月25日火曜日

深く考える

自分で考えろ!

というのは、説教する時の常とう句です。あるいは、学校の先生の常とう句に、「皆さ~ん、わかりましたね~。じゃ、自分で考えて、やってみてください」というのがあります。「考える」ってのは、とても便利な言葉です。でも、今風に言えば、「むちゃぶり」にとても近いと思いませんか?
「考える」とはどういうことなのかについて、以前、「考える機械」というタイトルで考察しました。僕は生粋のプログラマなので、思考についての自己探求能力を常に訓練しています。だからこそ、「考える」という行為のあいまいさが気になるのです。今回は、「考える」には、いろんなレベルがあるんだよ、ということを考察しました。

深く考える

僕が高校生の時、母が一冊の本を買ってくれました。というか、小学校卒業以降、母が買ってくれた本は後にも先にもその一冊だけだと思います。それは、フィールズ賞を受賞した広中平祐氏の自伝「生きること、学ぶこと」でした。字がとても小さな文庫本で、読みにくかったのを覚えています。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、「数学では、深く考えることが最も大事だ」という一節です。その言葉に感銘を受けたわけではありません。「深く」考えるというのは、どういうことだろう、と疑問を持ったのです。

当時の僕は高校生で、受験勉強もあったので、数学の勉強もしていました。ご存知のように、数学では、問題が出題されて、それに対する答えを記述するというフォーマットがあります。その「数学」では、正解を探し出す行為が「考える」なので、正解が見つかればもう「考える」必要ないはずです。であれば、「深く考える」の「深く」というのは、どういう意味だろう、と僕は思いました。正解にたどり着いても考えることをやめないということかもしれないけれど、無駄な行為なのではないか?百歩譲って、数学の一部の問題には、別解というのがあるので、すべての別解を見つけ出すというのが、「深く」考えるということなのか?なんて思いました。

このエピソードにおけるポイントは、広中平祐氏の「数学」と高校生の僕にとっての「数学」はちょっと違うものだということです。広中氏の「数学」は研究対象であり、未知の部分を多く含んだ「オープンワールド」です。一方、高校生にとっては、「数学」は「試験の問題」であり、正解が用意された「箱庭」です。学校教育では、内容が「箱庭」であることを感じさせないように細心の注意が払われていますから、いかに優秀な高校生であっても、数学の問題において解けないことがあるなんて、微塵も思いません。だから、数学の問題というのは、必ず存在する「正解」を見つけ出すゲーム、と短絡しても不思議ではありません。そのゲームの舞台は箱庭なので、「考え」を掘り下げても、「底」に突き当たるだけです。一方、本物の「数学」では、「底」なんてないので、どんどん「深く」掘り下げて考えることが可能なのです。

さて、それを理解したとしても、「深く」考えるとは、どういうことなのかについての答えは得られません。うんうんうなればよいのか、時間をかければよいのか。でも正解にたどり着いた後、さらに考えるというのは、どういうことなんだろう。たぶん、今の学校教育では、それがすっぽり抜けているんだと、僕は思っています。

パズル好き

唐突ですが、僕はパズルが大好きです。パズルというのは、適切な組み合わせを見つけるゲームの総称です。ルールは、きっちりと定義されていて、多数の正解の候補の中から、唯一の正解を見つけ出す、という一般的なパターンがあります。正解の候補の数が多いほど、パズルの難易度は高くなります。ルールはシンプルな方が好まれます。

学校のテストというのは、ほとんどがパズルだと僕は思います。最もあからさまなのは、計算問題です。計算というルールのもと、正解にたどり着きます。そのプロセスに分岐はほとんどないので、パズルとしての面白さは希薄です。因数分解とかになると、少しパズルの傾向が強くなります。
漢字の書き取りも、ある種のパズルです。教科書に載っている漢字のなかで、問題に当てはまる漢字や熟語を答えるゲームだとみなせます。社会科の問題も同様です。英語はもう少しパズル的です。学習範囲内の英文法(ルール)と単語を組み合わせて、英文を作成したり、英文に対応する日本語を作成したりするゲームです。理科もほとんどその通りです。
数学の一部の問題は、あからさまにパズル的な要素が含まれています。例えば証明問題とか。ただ、利用可能なルールはかなり限られていて、それらの組み合わせも多くありません。パズルとしての難易度はそこそこにとどまります。

頭の良くなるパズルというのがあって、僕は結構好きです。有名な塾の先生が考案したもので、確かに頭が良くなりそうな気がします。でももっと重要なのは、パズルにのめりこむメンタリティと学校教育の親和性なんだと思います。ぶっちゃけ、僕は大学受験までの「勉強」はパズルだと思います。

難問はパズル

以上のように、ほとんどの「勉強」はできの悪いパズルなわけですが、数学や物理の難しい問題は、もう少しマシなパズルです。というのも、知識の組み合わせが要求されるからです。知識の組み合わせは、知識単体よりも正解の候補の数が劇的に増えるので、正解を見つけるのに多くの試行錯誤を必要とします。
僕たちは、その試行錯誤を「考える」と思う傾向があります。つまり、学校教育で必要とされる「考える」とは、ルールブック(教科書)にある知識を対応させるあるいは、それらの組み合わせを検討する、ということです。
しかしながら、パズルなので、正解が存在します。そして、その正解を見つけてしまえば、その問題は用済みです。つまり、正解を見つけるための「考える」を越えて、「深く」考える必要はないのです。

正解を探す以外の「考える」

学校教育には、「こっそり」別の「考える」が設定されています。残念ながら、それはあまり重要視されていません。その分野は、「美術」です。自分の作品を制作する過程での「考える」がそれにあたります。
美術の作品製作過程では、与えらえた題材(テーマ、画材)に対して、自分なりの作品(解答)を制作します。その際、様々な要素を組み合わせ、関連付け、題材を最大限活用する工夫を施します。その過程が、美術における「考える」です。いい加減な組み合わせでも、作品としては成立するので、「考える」が少なくても文句は言われません。逆に、「考える」が多くても何の問題もありません。本当は、作品制作過程の思考過程を徹底的にトレーニングしたほうが良いのですが、時間が圧倒的に不足がちな美術では、作品そのものの製作に主眼が置かれ、「考える」がおざなりになっているというのが現状です。

美術における「考える」は他の教科と何が違うか、ということを整理すると、学校教育に足りない「考える」が見えて来ます。先に述べたように、要素を適切に組み合わせ、効果を最大化する、ということが作品制作過程での「考える」プロセスです。通常科目では限定的に組み合わせを要求しますが、美術ほど自由度は高くありません。自由度の高い組み合わせでは、候補が極端に多くなります。しかも、美術ではいくつの要素を組み合わせても作品として成立します。なので、組み合わせの数は、正確にはわからないほど多くなります。さらに、要素を適切に配置するという過程においても、無数の組み合わせがあります。それらの組み合わせを適切に選び取るには、極めて多くのことを考慮する必要があります。だから、美術における「考える」は、本来は高度で難しいもののはずです。しかしながら、多くのことを考えなくても、適当に「選ぶ」ことも可能です。美術では「考える」「考えない」にかかわらず、それほど結果に影響しないのです。だから、美術では「考える」を重視しません。
というか、芸術に携わる多くの人は、「選ぶ」ことを「洞察」に頼っています。本当は、その洞察の中に多くの「考える」が隠れているのですが、論理的な思考過程として見えにくいので、「センス」というあいまいな概念で片付けてしまっています。でも、そこをもっと掘り下げて、一流の芸術家の「センス」を分析するといろいろ面白いことがあるんだろうと僕は思っています。それはまた別の話。

試行錯誤と研究

美術における試行錯誤は、「考える」という行為に関してバリエーションを与えます。しかしながら、美術においては目的が極めてあいまいで、試行錯誤の効果が結果に反映されにくいということが問題です。すなわち、頑張っても、頑張らなくても、作品のクオリティはちょっとしか変わらない、ということです。であれば、美術が大好きでない限り、頑張る必要はないよね、となります。

残念ながら、明確な目的をもって試行錯誤をするという状況設定は、学校教育ではほとんどありません。なぜなら、試行錯誤は時間と労力と費用が必要になるからです。それらのリソースが限られているマスエデュケーションでは、そのような状況設定をむしろ避ける傾向にあります。しかしながら、何か新しいことを成し遂げようとしたときには、かならず試行錯誤が必要です。「誰か」が何か新しいことをしなければ世の中は進歩しませんから、その「誰か」が出現する必要があります。人材は突然出現なんかしませんから、教育して育てる必要があります。試行錯誤を教育するには、多くのリソースが必要なので、適切な人を選抜して資本投下することになります。その選抜の一つが大学入試です。その先にあるのは、大学における教育・研究です。すなわち、試行錯誤とは「研究」のことであって、大学において、学生が研究に携わるのは、試行錯誤の体験を通じて、新しいことを成し遂げるためのスキルを身に着けるためだと理解できます。
「研究」の過程では、通常の学校教育では避けられていたタイプの「考える」が鍛えられます。だから、学生に足りなくて、研究の現場で必要に感じるタイプの「考える」の中に「深く考える」のヒントがあると思います。広中氏は数学の研究者なので、研究対象である数学において、深く考えることは、彼にとって研究そのものです。研究者にとってそれがもっとも大事なことなのだという結論は、きわめて合理的です。

深い洞察

ここまで来てなお、美術に見られるような組み合わせの試行錯誤と「深く考える」には齟齬があります。なぜなら、組み合わせの試行錯誤というのは、要素が並列に並んでいて、「深く」が持つ「順序」とか「垂直」というニュアンスが希薄だからです。試行錯誤であれば、「広く考える」のほうがしっくりきます。
確かに、研究においては試行錯誤が必要で、組み合わせをいろいろ試すことは、大事なプロセスです。でも、組み合わせだけの研究は、あまり良い研究だとはみなされません。良い研究というのは、もっと深い洞察に基づいた巧妙な視点が必要だというのが、コンセンサスだと思います。おっと、「深い」って使っちゃいましたが、そこがポイントです。深い洞察」とはどういうことでしょう?

「洞察」というのは「勘」に似ていますが、一応、知識・論理と経験に基づいた結論のことです。そのプロセスの規模が大きいので、言葉で説明するのがおっくな場合に、「洞察」という言葉が使われます。あるいは、着眼点が素晴らしくて、ほかの人たちが見逃していたようなことがらにも使われます。
「洞察」として表にでてくるには、「着眼点」から知識・経験による考察を通じて、結論までのある程度の見通しが立つ必要があります。知識・経験による考察というのは、すなわち試行錯誤の結果です。だから、「深い洞察」には洗練された「試行錯誤」が必須です。しかしながら、試行錯誤が開始するきっかけとなる「着眼点」も同じくらい重要だと考えられています。むしろ、「着眼点」の素晴らしさこそ、もっとも重要な要素だとみなされるくらいです。ただ、「着眼点」の素晴らしさは、試行錯誤の末に辿りつた見通しの価値によって担保されるので、着眼点と試行錯誤は車の両輪のような関係にあります。

実のところ、試行錯誤は組み合わせの問題なので、基本的に誰でも実行可能です。もちろん、速い・遅いという能力差はありますが、時間さえかければ、基本的に誰でも同じ結論にたどり着くものです。だから、「深い洞察」の決定的な差は「着眼点」に尽きます。

着眼点の発見

「着眼点」が素晴らしいというときのポイントには、「ほかの人が見逃していた」というニュアンスが含まれるわけですが、なぜほかの人が見逃していたのでしょう。そして、なぜその人だけが気づけたのでしょう。
情報が過剰に流通する現代において、各個人が受け取る情報に差はほとんどありません。つまり、同じものを見て、同じものを聞いているはずです。にもかかわらず、異なる「着眼点」が生まれ、それが「研究」などの価値を左右します。
研究というのは、完全にわかっていることにどれだけ取り組んでも、成立しません。完全にはわかっていないことについて、それが正しいか正しくないかなどを明らかにすることが、研究です。このとき大事なのは、「完全にはわかっていないこと」という問題設定です。その問題設定に対して答えが出せない場合にも、研究は成立しないので、単になるわかっていない、ではだめなのです。「着眼点」には、わかってそうでわかっていないとか、ほとんどわかっているんだけど、そこだけわかっていないとか、そういう微妙な境界が多く含まれます。むしろ、そういう微妙な境界において、多くの抜け道が発見され、ブレイクスルーをもたらすのです。だから、既存の知識の中に、ほころびを見つけるということを、我々研究者は大事にします。

知識のほころび

科学というのは人類が1000年以上かけて蓄積してきた知識の総体のことです。人類の英知という言い方もします。ほとんどの知識は入念に検証され、正しいということになっています。ところが、稀に間違いも混入しています。あるいは、完全に理解できたと思われていたことに穴があることが、後になって発見されたりします。学校教育で取り扱われる知識には、そのようなことはほとんどありませんが、最先端の科学では、検証が追いついておらず、諸説が飛び交っています。だから、教科書や論文が間違っているなんて日常茶飯事です。だから、研究の現場では、既存の知識に対して疑問を持つということが推奨されます。いや、むしろ、自分の考えすら、信用していません。そういう立場・信条のことを「懐疑主義」と言います。

懐疑主義というのは、教科書等に記述されている内容に少しでも疑問を持ち、検証してみようと思い立つことです。「正しい」とされている知識に対して疑問を持っても、たいていは徒労に終わります。すなわち、時間の無駄です。「勉強」の場合には、「勉強」に要する時間が延びるということを意味します。手っ取り早く「勉強」を終わらせたい場合には、それは害悪でしかありません。だから、学校教育では懐疑主義の立場を取りません。また、教科書中では、疑問の余地を残さないような配慮がされています。だからと言って、その疑問はなくなるわけではありません。巧妙に隠されるものなのです。

当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、言うほど簡単ではありません。知識というのは世の中に無数に存在します。そのほとんどは正しいのです。また、それぞれの知識について、疑問の持ち方は一つとは限りません。だから、無数の知識の数倍の疑問の候補が存在し、そのすべてを疑うことは困難です。そして、その疑問が正当なものかどうかというのは、その疑問を具体的に詳細に検討したのちにしか結論が出ません。その検討プロセスは知識を習得するコストの何十倍、何百倍にもなります。当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、単純な勉強よりもはるかに困難で、見返りの期待値も少ないのです。にもかかわらず、そのような疑問を持たないと、素晴らしい「着眼点」は得られません。だから、疑問を持ち、検討するということを続けなければなりません。

労力を最適化するためには2つの方法があります。検討する項目を少なくするか、検討する時間を短くするかです。検討する項目を少なくすると、見落としが増えます。同じような着眼点を持ったほかの人がその見落としを活用する可能性が増えます。検討時間を短くするには、検討を途中で切り上げるという方法があります。しかしながら、途中で切り上げるとそれは見落としとなります。ある程度の見落としを覚悟するなら、そのような戦術も正当化されます。検討時間を短くする別の方法は、検討のスピードを上げることです。素早く徹底的に検討できれば、見落としを少なくすることができます。検討スピードはトレーニングによって改善することができます。また、最後まで検討を完遂する技量も必要です。というのも、検討が進めば進むほど検討が難しくなり時間がかかるようになるものだからです。どの程度検討を進められるか、ということはすなわち、「深く考える」に通じます。

結局のところ、どこに疑問を持つかは、運が左右します。はずれが多いので、あたりを見つけ出す戦略は二つしかありません。数をこなすか、徹底的な検討によって無理やり「着眼点」にたどり着くかです。現実の世界は、厳しい競争下にあるので、生半可な検討だと、他の人たちが検討済みの可能性が大いにあります。競争に勝つには、他の人たちが到達できないような領域まで検討を進めるということが大事になります。それこそ「深く考える」ということです。それでも、「着眼点」として成立するかわかりません。多くの疑問を持ち、徹底的に「深く考える」ことで、あたりに巡り合える確率を上げることができるだけです。

無理数の発見のエピソード

知識のほころびの例は、「無理数の発見」に見ることができます。古代ギリシアにおいて、ピタゴラスはピタゴラス教団という団体を組織し、数学を宗教として探求していました。ピタゴラス教団では、世界は数学に支配されており、数学の完全性に神の存在を感じていたとされています。そのピタゴラス教団では、分数が世界のすべてだと考えていました。どんなに近い2つの数を持ってきても、その隙間に新たな別の分数を見つけることができます。だから、世の中のすべての数は分数で表せると考えていました。ところが、2の平方根など、無理数が発見され、混乱したと伝えらえています。その結果、無理数の議論を封印し、なかったことにしようとしたそうです。すべての数が分数で表せるということが既存の知識だったところに、無理数がやってきて、無理数は分数では表せないということが判明するというのは、まさに知識のほころびだと言えます。文字通り、分数の世界には無理数という穴=ほころびがあったわけです。
科学というのは、既存の知識に対して、新しい知識を追加したり、修正したりして発展してきました。科学に限らず、当たり前だったことをひっくり返すことで世の中は進歩するものです。ガラケーからスマホへの転換もよい例です。ガラケーの末期には、ユーザーがプログラミングしてアプリを追加できる機種が発売されており、原理的にはスマホのようなアプリ追加型サービスがありました。しかしながら、結局はスマホの時代になりました。ガラケーという既存の常識からの脱皮が不十分だったのでしょう。携帯端末に対する「深い洞察」がスマホをもたらしたのだと思います。ガラケー時代も、年々画面が大型化し、高解像度化する傾向にありました。スマホはそれを極端に進め、端末の全面積を画面にしました。また、インターネットとの親和性も高まっていましたが、スマホはPCと同じクオリティーのインターネット接続性を実現しました。ユーザーがアプリを作ることができるということもスマホは徹底しました。スマホはほぼゲーム機と同等ですが、ガラケー時代もゲームはとても重要な要素でした。ガラケーの進歩はスマホと同じ方向性を持っていましたが、スマホはそれをより洗練し先鋭化しました。ガラケーが芋虫として成長している間に、スマホはサナギを経て蝶になった、みたいな感じです。さしずめサナギはiPodでした。
ガラケーからスマホへの進歩をもたらしたのは、ガラケーを常識としない「懐疑主義」だと思います。携帯端末として重視すべき要素を見直して、携帯端末の可能性を追求したのがスマホですが、そのきっかけはガラケーに疑問を持つことだったはずです。ガラケーについて「深く考える」ことなしに、それは成し得なかったと僕は思います。

「懐疑主義」は「疑り深い」ではない

おそらく、多くの人は懐疑主義を誤解していると思います。懐疑主義というのは疑り深くなるということではありません。僕は結構な懐疑主義者ですが、だからと言って、いやな性格のいやな奴ではないと思っています。僕の理解する懐疑主義というのは、正しいか正しくないかわからない、中立的な立場を守るということです。見たり聞いたりして得た知識について、無条件に信じたりしないということです。自分で検証し、納得した上で、自分の検証した範囲で「正しい」と考えます。納得できなければ、「間違っている」ではなくて、「正しくないかもしれない」と考えます。また、検証の範囲を超えた知識の適用も「正しくないかもしれない」と考えます。「正しくないかもしれない」知識に基づいた議論は、「正しくないかもしれない」ので、別の視点からの考察を併用し、可能性の範囲を絞り込みます。それをすべて自分の判断で行うことを徹底します。
僕は、他人の意見が正しいとは思っていませんし、自分自身の考えも正しいとは信じていません。様々な事象が矛盾なく整合すること以て、「正しい可能性がある」と判断します。ここに至っても「可能性」にとどめます。完全に正しいかどうかは、つねに保留する立場を取ります。前提条件や適用範囲が変わると、その知識は正しくないかもしれないからです。
このような「懐疑主義」は極めて面倒なものです。知識はゆっくりとしか増えていきません。でも、それでよいと僕は思っています。人類が存続する限り、僕たちの知識は1万年とか1億年とかの時間をかけて蓄積することが可能です。今、急ぐ必要は全くありません。また、積み重ねた知識の中に、疑問が隠れているかもしれません。そのような疑問を発見することはとても重要です。新しい分野を開拓することより重要かもしれません。というのも、そのような隠れた疑問を発見するには、新しい発想が必要だからです。そしてその疑問が解決されることによって、ブレイクスルーがもたらさる可能性が高いのです。それこそ、研究の醍醐味で、まさに「深く考える」ということだと思います。

広中平祐氏は数学の研究者であり、だからこそ、彼の場合には数学について深く考えることが最も大事なのです。僕にとっては、僕の研究分野において「深く考える」ことが大事であるのは、当然のことです。

2017年7月21日金曜日

普通信仰

「普通」と「個性的」の差

以前、天才というのを統計の観点から、考察しました(http://automatic-meal.blogspot.jp/2017/01/blog-post_29.html)。そのとき、「質」の問題を意図的に排除しました。出現確率を論じる限り、天才の質の議論は不要なんですが、それでも、「天才」というものの「質」的な特徴には、特別の興味があるのものです。

天才に対して、秀才という言葉がありますが、これら2つの言葉の存在が示唆するように、人間の能力には量的な側面と質的な側面があると思うのです。簡単に言えば、量的に優れるのが秀才で、質的に優れるのが天才、というわけです。しかしながら、人間の能力の質を論じるのは、抽象的で結論が出ない可能性があります。というのも、世の中に計量のベクトルというのは無数に存在し、どのベクトルに価値を見出すか、ということが質の差に直結するからです。質というのは比べるのが非常に困難ですが、比べられなければ、論が進まないので、質に関する議論というのは進まないのです。
そこで、視点を変えて、「個性的」という軸を論の中心に据えてみましょう。これは、希少性に通じますが少し違います。希少性というのは統計学的な視点です。統計学的な視点はすでに論じた通りです。「個性的」というのは、その内容も吟味する、というニュアンスがあります。そして、個性的というのは単独で存在するものではなく、人格の総体として評価されます。その前提として、複数の「個性」の存在が了解されているんじゃなかな、と思うのです。「個性的」の反対は「没個性」ですが、もう少しポジティブに言うと「普通」となります。

「普通」信仰

大学時代の友人の一人で、「とにかく何でも普通が良い」という人がいました。結構徹底していて、テストでいい点を取ると目立つのでわざと間違えた、とか。ヒステリックだなあと思いました。が、その背景には、「普通」でないことを許容しない環境があります。その人曰く、目立つといじめられる、ということでした。田舎でなくて、都会でもない、という地域では、勉強の出来不出来にかかわらず、地元の高校に進学するという傾向がありました。昔の京都もそうでしたし、兵庫県は今でもそうだと聞いています。生徒の学力差が大きすぎると、授業に差し障るので、特進クラスとかを設定したりします。しかしながら、クラブ活動では一緒になるので、勉強が出来る子がクラブ活動を休んだりした日には、いろいろ言われたりするわけです。そういう環境で育つと、処世術としてわざと間違えて、点数をレギュレートする、なんて子が出てくるわけです。最近は、普段の学業成績の序列化が絶対視され、定期テストでわざと間違えるなんてことは稀だと思いますが、それはそれで問題があります。

僕の大学時代の友人の例は極端ですが、多かれ少なかれ、「普通」であることに価値を見出す傾向は、今もあります。というか、今の方がずっと強いと思います。すこし前、「KY」というのが流行りました。「空気読め」「空気読めない」の「空気」というのは、「普通の感覚」「普通の人なら共有できる感情」という意味です。そういう「普通」の感覚を共有できないと、馬鹿にされたり、いじめられたりするというのが「KY」の背景です。これは「普通」を極端に尊重する、「普通信仰」とも呼べるような傾向です。
一方で、ゆとり教育は、個性の尊重を謳います。それは「普通信仰」とは真逆の方針のはずでした。ところが、ゆとり教育が浸透すればするほど、普通信仰が強くなっていきました。圧倒的な皮肉です。
「個性尊重」が十分に浸透しているのにもかかわらず、日本の教育では、クラスメートと同質化することを強く求められるのは事実です。「普通」のレベルをすべてこなしたうえで、「個性」を認められる傾向があり、その「普通」のレベルを達するのに、かなりの努力を要します。その結果、「普通」をクリアするのに必死で、クリアしても疲れ果てて、その先(個性)を発揮することができない状況にあります。

個性礼賛は難しい

最近、NHKが極めて挑戦的な番組を放送しています。バリバラと呼ばれている、障碍者を中心としたバラエティー番組です。僕は時折視聴するのですが、残念ながら、最初から最後まで通してみることはできていません。それは、時間がないとか面白くないとかそういうことではなく、視聴しているとたまらなくなるのです。直視を避けてきた現実を突きつけられ、いたたまれなくなるのです。
障害を持つ人たちの生きる力を感じる、とても良い番組だと思っています。もちろん、必死に生きる姿に感動を覚えるわけです。しかしそれ以上に、彼らが人間であることを痛烈に感じるような編成になっています。人間であるという意味は、きれいな面も汚い面もすべてひっくるめた全人格が、赤裸々に語られる、ということです。
重度のダウン症の女性が、ジャニーズのアイドル歌手と結婚するのが夢、と語る様子を見て、複雑な気持ちになりました。ま、普通の女の子が同じことを言ってても、結果は同じなんだけどね。でも、どのような障害を持っていても、女性は女性であり、人生に希望を持ち、必至に生きている限り、障害以外の部分は普通の人と全く変わりないという、当たり前だけど残酷な現実が僕の胸に刺さりました。僕は、テレビを消しました。

僕たちは、普段、障碍者から隔離されていて、彼らの生活を知りません。彼らは、施設や病院にいるかわいそうな人たち、そんな印象を持っています。しかし、バリバラではそういうのを徹底的に否定します。健常者からすると見るに堪えない姿を彼らはすべてさらけ出し、その上で、自分たちの人生を豊かにするべく努力しています。そこでは障害は、個性として、むしろ尊重されます。両足のない男性がブレイクダンスで、健常者には絶対できないアクロバットターンを決めるとき、それは障害をむしろ特別な能力としているのです。リオパラリンピックの閉会式で同じ趣旨のダンスがありました。

それは美談の部分です。両足のない男性のブレイクダンスは、あまりに健常者のものとはかけ離れていて、それは最高にアーティスティックです。大絶賛です。しかし、グロテスクに見えます。あまりに個性的過ぎてグロテスクなのです。それは、僕の感性がおかしいからではなく、突出した個性は時にグロテスクだ、という真理の一端だと思います。

障碍者に見られる個性尊重の傾向は、「空気」を共有する若者たちと対極にあります。本物の個性というのは、万人に受け入れられる物ではなく、個性を尊重したとしても、理解しあえない場合があることを知っておかねばなりません。障碍者の話は、別の機会にまとめたいと思います。
身体障碍のような極端な個性でなくても、個性は受け入れられない傾向があります。


スクールカーストの考察

これもちょっと前になりますが、スクールカーストというのがクローズアップされました。生徒間のパワーバランスが極端化し、不自然な上下関係が形成されるという問題です。スクールカーストの出現は、「普通信仰」の成れの果てだと、僕は思っています。

ぶっちゃけ、「普通」というのは、「多数意見」です。統率されていない集団において、多数意見の形成は、共通の価値観や正義感などが重要な役割を果たすべきですが、隔離された小集団ではなかなかそうなりません。特に、「普通信仰」が極端な集団においては、顕著です。普通信仰があると、「普通」=「多数意見」は錦の御旗であり、極めて大きな価値になります。多数意見を制御下に置ければ、集団を支配できるからです。多数意見はすなわち権威そのものなわけです。

多数意見を制御する因子は、オピニオンリーダーと呼ばれます。比較的従順な人の集団では、声の大きなオピニオンリーダーとなります。さらに少数の追従者を獲得すれば、合意形成を強引に行うことが可能です。これは、ガキ大将を頂点とする小さなコミュニティーをイメージするとわかりやすいと思います。スクールカーストは、多数意見の形成を効率よく制御するシステムであり、多数意見=普通を大きな権威とみなす「普通信仰」のあるソサイエティでは、必然的に発達するコミュニティー形態だと考えられます。

多数意見の制御が政治手法になっている

この手法を階層的に行うのが、かつての自民党の派閥政治です。派閥というのは派閥の領袖と呼ばれるオピニオンリーダーと比較的少数の追従者によって構成されます。派閥間でしのぎを削り合うことで、どうしようもなく少数派であるはずの一つの派閥が自民党全体を統治し、それによって国政を牛耳るという仕組みでした。
現在の自民党は、安倍さんをオピニオンリーダーとして、その取り巻きと、中立者、という構造です。安倍さんとその取り巻きは、ガキ大将コミュニティーを形成しているように見えます。その他の自民党議員は、次のオピニオンリーダーの取り巻きを狙って、安倍さんのコミュニティーから距離を置いている感じがします。

ガキ大将コミュニティーを徹底的に行うのが、アメリカのトランプ大統領です。彼の手法は、ガキ大将コミュニティーそのものです。アメリカという大国の大統領のメンタリティーがガキ大将というのは、とても危険な感じがします。でも、共和党の大統領はこれまでも多かれ少なかれガキ大将でした。ただ取り巻きは諸外国の首脳でした。ブッシュJr.さん時代の当時の国務副長官アーミテージさんは「Show the Flag」と言って、諸外国首脳に踏み絵を敢行しました。踏み絵という手法は、典型的なガキ大将のメンタリティーです。

政治の世界では、結構ガキ大将システムが生きているのです。小さな集団が、集団全体を制御するためのシステムとしてそれは合理的なのです。

こうしたことから、スクールカーストという概念はガキ大将のメンタリティーをより陰湿化したものだと理解できます。日常にちりばめられた細かな「踏み絵」によって、カーストを作り上げるので、より狡猾です。こうした環境の中で今の若い人は成長するので、自己防衛の手段として、「空気を読む」ことを重視するのです。それはちょうど、小魚が大群を作ることや、ウミガメの赤ちゃんが一斉に海を目指すこと、サンゴが満月の前後に一斉に産卵すること、そういうのと一緒です。群れの中に潜むことで、個人攻撃をかわすのです。

普通信仰をやめるのではなかったのか?

個性尊重のスローガンは、むしろ「普通信仰」を否定するものだったはずです。Bill Gatesも「将来のあなたの上司がGeekである可能性は高い」ということを語っています。テクノロジーが発達し、低レベルな仕事のコモディティー化が進むと、高レベルで高収入な仕事の多くは専門性が高く、普通の人には手が出ないものになるという予測があるのです。そういう社会情勢をにらんで、より高品質な人材を多く育成する目的で、個性尊重が叫ばれました。「普通」から逸脱した人を保護し育てるということが重要なミッションになったわけです。
ところが、「普通」でない人というのはレアなのです。レアだから「普通」でないのです。マスエデュケーションというのは、教育の効率化のための手段です。効率とは費用対効果を最大化することです。教育における効果とは、どれだけ優秀な人間をどれだけたくさん輩出したか、ということで測られます。前者は質を、後者は量を意味します。効果を定量化する場合、最も単純な方法は質×量という尺度を用いることです。質を縦、量を横とした四角形を考えると、質×量は面積です。四角形の面積を最大化=効率化する場合、もっともよいのは正方形を考えることです。つまり、積のような尺度を用いると、質と量をバランスさせるという戦略が推奨されるということです。それは従来型のマスエデュケーションです。
普通信仰からの脱却を目指し、バランスを「質」に振るというのが「個性尊重」です。だから、教育の効果の尺度を変える必要があったのです。つまり、縦長の長方形を目指すように意識改革すべきだったのです。しかし、それは行われませんでした。その結果、いびつな教育が行われるようになりました。

個性尊重型の教育を実践している分野がある

均質な教育というのは日本の教育制度の最大の特徴です。だから、それをやめるという決断は極めて難しいということは理解できます。しかしながら、それを飛び越えて、個性尊重型のシステムが導入されている分野があります。それは、スポーツです。特に、陸上競技が顕著です。

体育の授業では、走力の測定なんかが日常的に行われます。個々の運動能力を測定し、トレーニングの成果を実感するという意味もありますが、もう一つ極めて重要な目的があります。それは、才能の発掘です。
極めてレアですが、普通の子供たちに交じって、運動能力が特異的に高い子供が存在します。体育の授業でタイムを計った際、そういう子供を発見することがあります。体育の先生は、その子供を呼び出し、さらに能力を測定し、場合によっては特別のカリキュラムを用意したり、特別の学校への転校を勧めることがあります。そのような子供は最終的にオリンピックなどを目指すことになります。
中学校時代のクラスメートの一人が、ハードル走でなかなかのタイムを出したので、放課後先生に呼ばれて、追試を受けていました。成績が良くて追試なんて意味が分からないとぼやいてました。陸上競技では稀にあります。短距離走の桐生選手は洛南高校出身ですが、彼のような選手はどの高校や中学校で発見されてもおかしくありません。水泳もそのようなことが多くあります。

スポーツでは、計量の仕方が極めて分かりやすく、出口(オリンピック)もしっかりわかっています。だから、極端な教育システムを採用しやすいという事情があります。一般的な人材育成において、そのような個性を計量し選抜するのは困難な面があります。

数学では稀にそのような才能が見つかることがあります。それを促進するために、数学オリンピックという仕組みがあります。それに倣って、物理オリンピックや化学オリンピックも作られていますが、あまり効果が上がっていないように思います。というのも、物理や化学というのは数学に比べて使用する能力が多彩だからです。
数学オリンピックの制度は、ソ連時代の数学英才教育にヒントを得ています。ソ連では、数学の才能のある子どもは選抜され、能力があると認められると全寮制の特別学校に「監禁」されました。徹底的な英才教育が施され、かなりの確率で気が狂ったそうです。でも、おかげで、ソ連の数学者や物理学者には、頭の良い人が多くいます。日本も、そういう個性を発掘しようと推薦入試とかやっています。京大の推薦入試の問題が難問すぎたという話題は記憶に新しいところです。そういう試みがうまくいくのかどうかは、じっくりと見極めていかないといけません。

普通をやめさせられない

僕たちの「普通信仰」は極めて根深いものになっています。人間関係、社会システムの隅々まで、僕たちは他人に「普通」であることを陰に陽に期待しています。そして「個性」により価値があるということを声高に叫ぶにもかかわらず、「普通」以外の価値観を持てていません。打開するには「普通」以外の価値観というのは、とても難しいものだということを認識するということが前提になると思います。

日本の教育制度では同化圧力が強いため、何もしなくても「普通」に大きな価値観を持つようになります。「普通」であれば、不利益を被るリスクを避けることができるからです。生活が安定し、特に努力しなくてもそこそこの生活が手に入る社会では、リスクの回避は極めて高い価値を持ちます。
その高い価値を持つ「普通」を手放し、新たな「価値観」を採用するには、その「価値観」がより高い価値を持つと確信できなければなりません。特に、その価値観が個性的であるためには、その価値が「自分にとって特別」重要である必要があります。つまり、個人個人の価値観を確立するような教育が大事ということです。今の日本の学校教育では、価値観教育がすっぽり抜けています。これまで、日本では「普通であること」が唯一で絶対の共通価値観でした。そこに異論をはさむ余地は全くありませんでした。むしろ、それに疑問を抱くことすらタブーであるような雰囲気があります。

でもそれは、学校教育では、という限定付きです。実社会ではそんなことはありません。ある程度の社会常識としての「普通」は要求されますが、むしろ創意工夫が価値を生みます。多くの若者は、就職の際に初めて「個性」を要求され、戸惑い、失敗します。僕はそういう学生たちを多く見ています。大学では「個性」を伸ばすための時間的猶予が与えらえるのですが、多くの学生はそれを無駄にしています。就職セミナーでも、「個性をみつけましょう」的な説明がなされます。でも「個性」とは訓練し、伸ばし、磨き上げるもので、時間と手間がかかります。大学での4年あるいは6年をそれに費やしていれば、すぐにわかります。逆に無駄に過ごしていれば、それもすぐにわかります。

個性を伸ばすには、それを自分の価値観と同一化しておかなければなりません。それが自分にとって価値があるものでなければ、自分の幸せに寄与しないからです。自分の幸せに寄与しない努力というのは、人生を無駄にすることです。好きなこと、大事なこと、そういうことを真剣に考えることによってしか、価値観をはぐくむことはできません。
子供を産み、育て、子孫に命をつなげるということが、生物の根源的な価値観です。人類においても、近代化するまでは、それが唯一絶対の価値観でした。ところが、近代化によって個人の生活が安定し、人口が増えると、資源の効率的利用の観点から子孫を増やすことは、場合によってはデメリットになりました。我々は別の価値観を持たねばならなかったのです。その一つが、普通信仰だと僕は思います。
ベンサムは最大多数の最大幸福を唱えましたが、それを実現する価値観が普通信仰だと思います。個人の幸福の最大化ではなく、集団に価値を見出しています。集団というのはあいまいですが、集団を構成する個人をあえて考えるなら、集団の平均値がモデルになるでしょう。それはすなわち「普通の人」です。逆に、自分が「普通」であれば、幸福の最大化の恩恵を受けられると、僕たちは直観しているのです。

ベンサムの哲学は、衣食住が十分に分配できない時代のものであるという指摘があります。つまり、衣食住が足りて、さらに発展を続ける現代社会には適しないかもしれません。さらなる発展により価値を見出そうというのが、Bill Gatesの話です。進歩の先端では常にそれが重要な価値です。マクロ経済学の立場では、進歩がない停滞した状態では社会は滅びに向かうと考えます。一方、進歩はもう十分だという意見もあります。急激な進歩を目指さず、現状維持をしながら、ゆるやかな進歩を目指そうというのが、持続可能型社会というやつです。進歩のベクトルを「持続可能技術」に振り向ければ、マクロ経済も維持できるという主張です。僕にはよくわかりません。が、強い「普通信仰」を感じているので、社会全体としては、どちらかというと持続可能型社会を目指す雰囲気にあるのだろうと思っています。

それにしても、強すぎる普通信仰は人間を家畜化するので、僕は嫌いです。やはり、個性を尊重し、様々な価値観のぶつかり合いがあった方が健全だと思います。