自分で考えろ!
というのは、説教する時の常とう句です。あるいは、学校の先生の常とう句に、「皆さ~ん、わかりましたね~。じゃ、自分で考えて、やってみてください」というのがあります。「考える」ってのは、とても便利な言葉です。でも、今風に言えば、「むちゃぶり」にとても近いと思いませんか?
「考える」とはどういうことなのかについて、以前、「考える機械」というタイトルで考察しました。僕は生粋のプログラマなので、思考についての自己探求能力を常に訓練しています。だからこそ、「考える」という行為のあいまいさが気になるのです。今回は、「考える」には、いろんなレベルがあるんだよ、ということを考察しました。
当時の僕は高校生で、受験勉強もあったので、数学の勉強もしていました。ご存知のように、数学では、問題が出題されて、それに対する答えを記述するというフォーマットがあります。その「数学」では、正解を探し出す行為が「考える」なので、正解が見つかればもう「考える」必要ないはずです。であれば、「深く考える」の「深く」というのは、どういう意味だろう、と僕は思いました。正解にたどり着いても考えることをやめないということかもしれないけれど、無駄な行為なのではないか?百歩譲って、数学の一部の問題には、別解というのがあるので、すべての別解を見つけ出すというのが、「深く」考えるということなのか?なんて思いました。
このエピソードにおけるポイントは、広中平祐氏の「数学」と高校生の僕にとっての「数学」はちょっと違うものだということです。広中氏の「数学」は研究対象であり、未知の部分を多く含んだ「オープンワールド」です。一方、高校生にとっては、「数学」は「試験の問題」であり、正解が用意された「箱庭」です。学校教育では、内容が「箱庭」であることを感じさせないように細心の注意が払われていますから、いかに優秀な高校生であっても、数学の問題において解けないことがあるなんて、微塵も思いません。だから、数学の問題というのは、必ず存在する「正解」を見つけ出すゲーム、と短絡しても不思議ではありません。そのゲームの舞台は箱庭なので、「考え」を掘り下げても、「底」に突き当たるだけです。一方、本物の「数学」では、「底」なんてないので、どんどん「深く」掘り下げて考えることが可能なのです。
さて、それを理解したとしても、「深く」考えるとは、どういうことなのかについての答えは得られません。うんうんうなればよいのか、時間をかければよいのか。でも正解にたどり着いた後、さらに考えるというのは、どういうことなんだろう。たぶん、今の学校教育では、それがすっぽり抜けているんだと、僕は思っています。
学校のテストというのは、ほとんどがパズルだと僕は思います。最もあからさまなのは、計算問題です。計算というルールのもと、正解にたどり着きます。そのプロセスに分岐はほとんどないので、パズルとしての面白さは希薄です。因数分解とかになると、少しパズルの傾向が強くなります。
漢字の書き取りも、ある種のパズルです。教科書に載っている漢字のなかで、問題に当てはまる漢字や熟語を答えるゲームだとみなせます。社会科の問題も同様です。英語はもう少しパズル的です。学習範囲内の英文法(ルール)と単語を組み合わせて、英文を作成したり、英文に対応する日本語を作成したりするゲームです。理科もほとんどその通りです。
数学の一部の問題は、あからさまにパズル的な要素が含まれています。例えば証明問題とか。ただ、利用可能なルールはかなり限られていて、それらの組み合わせも多くありません。パズルとしての難易度はそこそこにとどまります。
頭の良くなるパズルというのがあって、僕は結構好きです。有名な塾の先生が考案したもので、確かに頭が良くなりそうな気がします。でももっと重要なのは、パズルにのめりこむメンタリティと学校教育の親和性なんだと思います。ぶっちゃけ、僕は大学受験までの「勉強」はパズルだと思います。
僕たちは、その試行錯誤を「考える」と思う傾向があります。つまり、学校教育で必要とされる「考える」とは、ルールブック(教科書)にある知識を対応させるあるいは、それらの組み合わせを検討する、ということです。
しかしながら、パズルなので、正解が存在します。そして、その正解を見つけてしまえば、その問題は用済みです。つまり、正解を見つけるための「考える」を越えて、「深く」考える必要はないのです。
美術の作品製作過程では、与えらえた題材(テーマ、画材)に対して、自分なりの作品(解答)を制作します。その際、様々な要素を組み合わせ、関連付け、題材を最大限活用する工夫を施します。その過程が、美術における「考える」です。いい加減な組み合わせでも、作品としては成立するので、「考える」が少なくても文句は言われません。逆に、「考える」が多くても何の問題もありません。本当は、作品制作過程の思考過程を徹底的にトレーニングしたほうが良いのですが、時間が圧倒的に不足がちな美術では、作品そのものの製作に主眼が置かれ、「考える」がおざなりになっているというのが現状です。
美術における「考える」は他の教科と何が違うか、ということを整理すると、学校教育に足りない「考える」が見えて来ます。先に述べたように、要素を適切に組み合わせ、効果を最大化する、ということが作品制作過程での「考える」プロセスです。通常科目では限定的に組み合わせを要求しますが、美術ほど自由度は高くありません。自由度の高い組み合わせでは、候補が極端に多くなります。しかも、美術ではいくつの要素を組み合わせても作品として成立します。なので、組み合わせの数は、正確にはわからないほど多くなります。さらに、要素を適切に配置するという過程においても、無数の組み合わせがあります。それらの組み合わせを適切に選び取るには、極めて多くのことを考慮する必要があります。だから、美術における「考える」は、本来は高度で難しいもののはずです。しかしながら、多くのことを考えなくても、適当に「選ぶ」ことも可能です。美術では「考える」「考えない」にかかわらず、それほど結果に影響しないのです。だから、美術では「考える」を重視しません。
というか、芸術に携わる多くの人は、「選ぶ」ことを「洞察」に頼っています。本当は、その洞察の中に多くの「考える」が隠れているのですが、論理的な思考過程として見えにくいので、「センス」というあいまいな概念で片付けてしまっています。でも、そこをもっと掘り下げて、一流の芸術家の「センス」を分析するといろいろ面白いことがあるんだろうと僕は思っています。それはまた別の話。
残念ながら、明確な目的をもって試行錯誤をするという状況設定は、学校教育ではほとんどありません。なぜなら、試行錯誤は時間と労力と費用が必要になるからです。それらのリソースが限られているマスエデュケーションでは、そのような状況設定をむしろ避ける傾向にあります。しかしながら、何か新しいことを成し遂げようとしたときには、かならず試行錯誤が必要です。「誰か」が何か新しいことをしなければ世の中は進歩しませんから、その「誰か」が出現する必要があります。人材は突然出現なんかしませんから、教育して育てる必要があります。試行錯誤を教育するには、多くのリソースが必要なので、適切な人を選抜して資本投下することになります。その選抜の一つが大学入試です。その先にあるのは、大学における教育・研究です。すなわち、試行錯誤とは「研究」のことであって、大学において、学生が研究に携わるのは、試行錯誤の体験を通じて、新しいことを成し遂げるためのスキルを身に着けるためだと理解できます。
「研究」の過程では、通常の学校教育では避けられていたタイプの「考える」が鍛えられます。だから、学生に足りなくて、研究の現場で必要に感じるタイプの「考える」の中に「深く考える」のヒントがあると思います。広中氏は数学の研究者なので、研究対象である数学において、深く考えることは、彼にとって研究そのものです。研究者にとってそれがもっとも大事なことなのだという結論は、きわめて合理的です。
確かに、研究においては試行錯誤が必要で、組み合わせをいろいろ試すことは、大事なプロセスです。でも、組み合わせだけの研究は、あまり良い研究だとはみなされません。良い研究というのは、もっと深い洞察に基づいた巧妙な視点が必要だというのが、コンセンサスだと思います。おっと、「深い」って使っちゃいましたが、そこがポイントです。深い洞察」とはどういうことでしょう?
「洞察」というのは「勘」に似ていますが、一応、知識・論理と経験に基づいた結論のことです。そのプロセスの規模が大きいので、言葉で説明するのがおっくな場合に、「洞察」という言葉が使われます。あるいは、着眼点が素晴らしくて、ほかの人たちが見逃していたようなことがらにも使われます。
「洞察」として表にでてくるには、「着眼点」から知識・経験による考察を通じて、結論までのある程度の見通しが立つ必要があります。知識・経験による考察というのは、すなわち試行錯誤の結果です。だから、「深い洞察」には洗練された「試行錯誤」が必須です。しかしながら、試行錯誤が開始するきっかけとなる「着眼点」も同じくらい重要だと考えられています。むしろ、「着眼点」の素晴らしさこそ、もっとも重要な要素だとみなされるくらいです。ただ、「着眼点」の素晴らしさは、試行錯誤の末に辿りつた見通しの価値によって担保されるので、着眼点と試行錯誤は車の両輪のような関係にあります。
実のところ、試行錯誤は組み合わせの問題なので、基本的に誰でも実行可能です。もちろん、速い・遅いという能力差はありますが、時間さえかければ、基本的に誰でも同じ結論にたどり着くものです。だから、「深い洞察」の決定的な差は「着眼点」に尽きます。
情報が過剰に流通する現代において、各個人が受け取る情報に差はほとんどありません。つまり、同じものを見て、同じものを聞いているはずです。にもかかわらず、異なる「着眼点」が生まれ、それが「研究」などの価値を左右します。
研究というのは、完全にわかっていることにどれだけ取り組んでも、成立しません。完全にはわかっていないことについて、それが正しいか正しくないかなどを明らかにすることが、研究です。このとき大事なのは、「完全にはわかっていないこと」という問題設定です。その問題設定に対して答えが出せない場合にも、研究は成立しないので、単になるわかっていない、ではだめなのです。「着眼点」には、わかってそうでわかっていないとか、ほとんどわかっているんだけど、そこだけわかっていないとか、そういう微妙な境界が多く含まれます。むしろ、そういう微妙な境界において、多くの抜け道が発見され、ブレイクスルーをもたらすのです。だから、既存の知識の中に、ほころびを見つけるということを、我々研究者は大事にします。
懐疑主義というのは、教科書等に記述されている内容に少しでも疑問を持ち、検証してみようと思い立つことです。「正しい」とされている知識に対して疑問を持っても、たいていは徒労に終わります。すなわち、時間の無駄です。「勉強」の場合には、「勉強」に要する時間が延びるということを意味します。手っ取り早く「勉強」を終わらせたい場合には、それは害悪でしかありません。だから、学校教育では懐疑主義の立場を取りません。また、教科書中では、疑問の余地を残さないような配慮がされています。だからと言って、その疑問はなくなるわけではありません。巧妙に隠されるものなのです。
当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、言うほど簡単ではありません。知識というのは世の中に無数に存在します。そのほとんどは正しいのです。また、それぞれの知識について、疑問の持ち方は一つとは限りません。だから、無数の知識の数倍の疑問の候補が存在し、そのすべてを疑うことは困難です。そして、その疑問が正当なものかどうかというのは、その疑問を具体的に詳細に検討したのちにしか結論が出ません。その検討プロセスは知識を習得するコストの何十倍、何百倍にもなります。当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、単純な勉強よりもはるかに困難で、見返りの期待値も少ないのです。にもかかわらず、そのような疑問を持たないと、素晴らしい「着眼点」は得られません。だから、疑問を持ち、検討するということを続けなければなりません。
労力を最適化するためには2つの方法があります。検討する項目を少なくするか、検討する時間を短くするかです。検討する項目を少なくすると、見落としが増えます。同じような着眼点を持ったほかの人がその見落としを活用する可能性が増えます。検討時間を短くするには、検討を途中で切り上げるという方法があります。しかしながら、途中で切り上げるとそれは見落としとなります。ある程度の見落としを覚悟するなら、そのような戦術も正当化されます。検討時間を短くする別の方法は、検討のスピードを上げることです。素早く徹底的に検討できれば、見落としを少なくすることができます。検討スピードはトレーニングによって改善することができます。また、最後まで検討を完遂する技量も必要です。というのも、検討が進めば進むほど検討が難しくなり時間がかかるようになるものだからです。どの程度検討を進められるか、ということはすなわち、「深く考える」に通じます。
結局のところ、どこに疑問を持つかは、運が左右します。はずれが多いので、あたりを見つけ出す戦略は二つしかありません。数をこなすか、徹底的な検討によって無理やり「着眼点」にたどり着くかです。現実の世界は、厳しい競争下にあるので、生半可な検討だと、他の人たちが検討済みの可能性が大いにあります。競争に勝つには、他の人たちが到達できないような領域まで検討を進めるということが大事になります。それこそ「深く考える」ということです。それでも、「着眼点」として成立するかわかりません。多くの疑問を持ち、徹底的に「深く考える」ことで、あたりに巡り合える確率を上げることができるだけです。
科学というのは、既存の知識に対して、新しい知識を追加したり、修正したりして発展してきました。科学に限らず、当たり前だったことをひっくり返すことで世の中は進歩するものです。ガラケーからスマホへの転換もよい例です。ガラケーの末期には、ユーザーがプログラミングしてアプリを追加できる機種が発売されており、原理的にはスマホのようなアプリ追加型サービスがありました。しかしながら、結局はスマホの時代になりました。ガラケーという既存の常識からの脱皮が不十分だったのでしょう。携帯端末に対する「深い洞察」がスマホをもたらしたのだと思います。ガラケー時代も、年々画面が大型化し、高解像度化する傾向にありました。スマホはそれを極端に進め、端末の全面積を画面にしました。また、インターネットとの親和性も高まっていましたが、スマホはPCと同じクオリティーのインターネット接続性を実現しました。ユーザーがアプリを作ることができるということもスマホは徹底しました。スマホはほぼゲーム機と同等ですが、ガラケー時代もゲームはとても重要な要素でした。ガラケーの進歩はスマホと同じ方向性を持っていましたが、スマホはそれをより洗練し先鋭化しました。ガラケーが芋虫として成長している間に、スマホはサナギを経て蝶になった、みたいな感じです。さしずめサナギはiPodでした。
ガラケーからスマホへの進歩をもたらしたのは、ガラケーを常識としない「懐疑主義」だと思います。携帯端末として重視すべき要素を見直して、携帯端末の可能性を追求したのがスマホですが、そのきっかけはガラケーに疑問を持つことだったはずです。ガラケーについて「深く考える」ことなしに、それは成し得なかったと僕は思います。
僕は、他人の意見が正しいとは思っていませんし、自分自身の考えも正しいとは信じていません。様々な事象が矛盾なく整合すること以て、「正しい可能性がある」と判断します。ここに至っても「可能性」にとどめます。完全に正しいかどうかは、つねに保留する立場を取ります。前提条件や適用範囲が変わると、その知識は正しくないかもしれないからです。
このような「懐疑主義」は極めて面倒なものです。知識はゆっくりとしか増えていきません。でも、それでよいと僕は思っています。人類が存続する限り、僕たちの知識は1万年とか1億年とかの時間をかけて蓄積することが可能です。今、急ぐ必要は全くありません。また、積み重ねた知識の中に、疑問が隠れているかもしれません。そのような疑問を発見することはとても重要です。新しい分野を開拓することより重要かもしれません。というのも、そのような隠れた疑問を発見するには、新しい発想が必要だからです。そしてその疑問が解決されることによって、ブレイクスルーがもたらさる可能性が高いのです。それこそ、研究の醍醐味で、まさに「深く考える」ということだと思います。
広中平祐氏は数学の研究者であり、だからこそ、彼の場合には数学について深く考えることが最も大事なのです。僕にとっては、僕の研究分野において「深く考える」ことが大事であるのは、当然のことです。
深く考える
僕が高校生の時、母が一冊の本を買ってくれました。というか、小学校卒業以降、母が買ってくれた本は後にも先にもその一冊だけだと思います。それは、フィールズ賞を受賞した広中平祐氏の自伝「生きること、学ぶこと」でした。字がとても小さな文庫本で、読みにくかったのを覚えています。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、「数学では、深く考えることが最も大事だ」という一節です。その言葉に感銘を受けたわけではありません。「深く」考えるというのは、どういうことだろう、と疑問を持ったのです。当時の僕は高校生で、受験勉強もあったので、数学の勉強もしていました。ご存知のように、数学では、問題が出題されて、それに対する答えを記述するというフォーマットがあります。その「数学」では、正解を探し出す行為が「考える」なので、正解が見つかればもう「考える」必要ないはずです。であれば、「深く考える」の「深く」というのは、どういう意味だろう、と僕は思いました。正解にたどり着いても考えることをやめないということかもしれないけれど、無駄な行為なのではないか?百歩譲って、数学の一部の問題には、別解というのがあるので、すべての別解を見つけ出すというのが、「深く」考えるということなのか?なんて思いました。
このエピソードにおけるポイントは、広中平祐氏の「数学」と高校生の僕にとっての「数学」はちょっと違うものだということです。広中氏の「数学」は研究対象であり、未知の部分を多く含んだ「オープンワールド」です。一方、高校生にとっては、「数学」は「試験の問題」であり、正解が用意された「箱庭」です。学校教育では、内容が「箱庭」であることを感じさせないように細心の注意が払われていますから、いかに優秀な高校生であっても、数学の問題において解けないことがあるなんて、微塵も思いません。だから、数学の問題というのは、必ず存在する「正解」を見つけ出すゲーム、と短絡しても不思議ではありません。そのゲームの舞台は箱庭なので、「考え」を掘り下げても、「底」に突き当たるだけです。一方、本物の「数学」では、「底」なんてないので、どんどん「深く」掘り下げて考えることが可能なのです。
さて、それを理解したとしても、「深く」考えるとは、どういうことなのかについての答えは得られません。うんうんうなればよいのか、時間をかければよいのか。でも正解にたどり着いた後、さらに考えるというのは、どういうことなんだろう。たぶん、今の学校教育では、それがすっぽり抜けているんだと、僕は思っています。
パズル好き
唐突ですが、僕はパズルが大好きです。パズルというのは、適切な組み合わせを見つけるゲームの総称です。ルールは、きっちりと定義されていて、多数の正解の候補の中から、唯一の正解を見つけ出す、という一般的なパターンがあります。正解の候補の数が多いほど、パズルの難易度は高くなります。ルールはシンプルな方が好まれます。学校のテストというのは、ほとんどがパズルだと僕は思います。最もあからさまなのは、計算問題です。計算というルールのもと、正解にたどり着きます。そのプロセスに分岐はほとんどないので、パズルとしての面白さは希薄です。因数分解とかになると、少しパズルの傾向が強くなります。
漢字の書き取りも、ある種のパズルです。教科書に載っている漢字のなかで、問題に当てはまる漢字や熟語を答えるゲームだとみなせます。社会科の問題も同様です。英語はもう少しパズル的です。学習範囲内の英文法(ルール)と単語を組み合わせて、英文を作成したり、英文に対応する日本語を作成したりするゲームです。理科もほとんどその通りです。
数学の一部の問題は、あからさまにパズル的な要素が含まれています。例えば証明問題とか。ただ、利用可能なルールはかなり限られていて、それらの組み合わせも多くありません。パズルとしての難易度はそこそこにとどまります。
頭の良くなるパズルというのがあって、僕は結構好きです。有名な塾の先生が考案したもので、確かに頭が良くなりそうな気がします。でももっと重要なのは、パズルにのめりこむメンタリティと学校教育の親和性なんだと思います。ぶっちゃけ、僕は大学受験までの「勉強」はパズルだと思います。
難問はパズル
以上のように、ほとんどの「勉強」はできの悪いパズルなわけですが、数学や物理の難しい問題は、もう少しマシなパズルです。というのも、知識の組み合わせが要求されるからです。知識の組み合わせは、知識単体よりも正解の候補の数が劇的に増えるので、正解を見つけるのに多くの試行錯誤を必要とします。僕たちは、その試行錯誤を「考える」と思う傾向があります。つまり、学校教育で必要とされる「考える」とは、ルールブック(教科書)にある知識を対応させるあるいは、それらの組み合わせを検討する、ということです。
しかしながら、パズルなので、正解が存在します。そして、その正解を見つけてしまえば、その問題は用済みです。つまり、正解を見つけるための「考える」を越えて、「深く」考える必要はないのです。
正解を探す以外の「考える」
学校教育には、「こっそり」別の「考える」が設定されています。残念ながら、それはあまり重要視されていません。その分野は、「美術」です。自分の作品を制作する過程での「考える」がそれにあたります。美術の作品製作過程では、与えらえた題材(テーマ、画材)に対して、自分なりの作品(解答)を制作します。その際、様々な要素を組み合わせ、関連付け、題材を最大限活用する工夫を施します。その過程が、美術における「考える」です。いい加減な組み合わせでも、作品としては成立するので、「考える」が少なくても文句は言われません。逆に、「考える」が多くても何の問題もありません。本当は、作品制作過程の思考過程を徹底的にトレーニングしたほうが良いのですが、時間が圧倒的に不足がちな美術では、作品そのものの製作に主眼が置かれ、「考える」がおざなりになっているというのが現状です。
美術における「考える」は他の教科と何が違うか、ということを整理すると、学校教育に足りない「考える」が見えて来ます。先に述べたように、要素を適切に組み合わせ、効果を最大化する、ということが作品制作過程での「考える」プロセスです。通常科目では限定的に組み合わせを要求しますが、美術ほど自由度は高くありません。自由度の高い組み合わせでは、候補が極端に多くなります。しかも、美術ではいくつの要素を組み合わせても作品として成立します。なので、組み合わせの数は、正確にはわからないほど多くなります。さらに、要素を適切に配置するという過程においても、無数の組み合わせがあります。それらの組み合わせを適切に選び取るには、極めて多くのことを考慮する必要があります。だから、美術における「考える」は、本来は高度で難しいもののはずです。しかしながら、多くのことを考えなくても、適当に「選ぶ」ことも可能です。美術では「考える」「考えない」にかかわらず、それほど結果に影響しないのです。だから、美術では「考える」を重視しません。
というか、芸術に携わる多くの人は、「選ぶ」ことを「洞察」に頼っています。本当は、その洞察の中に多くの「考える」が隠れているのですが、論理的な思考過程として見えにくいので、「センス」というあいまいな概念で片付けてしまっています。でも、そこをもっと掘り下げて、一流の芸術家の「センス」を分析するといろいろ面白いことがあるんだろうと僕は思っています。それはまた別の話。
試行錯誤と研究
美術における試行錯誤は、「考える」という行為に関してバリエーションを与えます。しかしながら、美術においては目的が極めてあいまいで、試行錯誤の効果が結果に反映されにくいということが問題です。すなわち、頑張っても、頑張らなくても、作品のクオリティはちょっとしか変わらない、ということです。であれば、美術が大好きでない限り、頑張る必要はないよね、となります。残念ながら、明確な目的をもって試行錯誤をするという状況設定は、学校教育ではほとんどありません。なぜなら、試行錯誤は時間と労力と費用が必要になるからです。それらのリソースが限られているマスエデュケーションでは、そのような状況設定をむしろ避ける傾向にあります。しかしながら、何か新しいことを成し遂げようとしたときには、かならず試行錯誤が必要です。「誰か」が何か新しいことをしなければ世の中は進歩しませんから、その「誰か」が出現する必要があります。人材は突然出現なんかしませんから、教育して育てる必要があります。試行錯誤を教育するには、多くのリソースが必要なので、適切な人を選抜して資本投下することになります。その選抜の一つが大学入試です。その先にあるのは、大学における教育・研究です。すなわち、試行錯誤とは「研究」のことであって、大学において、学生が研究に携わるのは、試行錯誤の体験を通じて、新しいことを成し遂げるためのスキルを身に着けるためだと理解できます。
「研究」の過程では、通常の学校教育では避けられていたタイプの「考える」が鍛えられます。だから、学生に足りなくて、研究の現場で必要に感じるタイプの「考える」の中に「深く考える」のヒントがあると思います。広中氏は数学の研究者なので、研究対象である数学において、深く考えることは、彼にとって研究そのものです。研究者にとってそれがもっとも大事なことなのだという結論は、きわめて合理的です。
深い洞察
ここまで来てなお、美術に見られるような組み合わせの試行錯誤と「深く考える」には齟齬があります。なぜなら、組み合わせの試行錯誤というのは、要素が並列に並んでいて、「深く」が持つ「順序」とか「垂直」というニュアンスが希薄だからです。試行錯誤であれば、「広く考える」のほうがしっくりきます。確かに、研究においては試行錯誤が必要で、組み合わせをいろいろ試すことは、大事なプロセスです。でも、組み合わせだけの研究は、あまり良い研究だとはみなされません。良い研究というのは、もっと深い洞察に基づいた巧妙な視点が必要だというのが、コンセンサスだと思います。おっと、「深い」って使っちゃいましたが、そこがポイントです。深い洞察」とはどういうことでしょう?
「洞察」というのは「勘」に似ていますが、一応、知識・論理と経験に基づいた結論のことです。そのプロセスの規模が大きいので、言葉で説明するのがおっくな場合に、「洞察」という言葉が使われます。あるいは、着眼点が素晴らしくて、ほかの人たちが見逃していたようなことがらにも使われます。
「洞察」として表にでてくるには、「着眼点」から知識・経験による考察を通じて、結論までのある程度の見通しが立つ必要があります。知識・経験による考察というのは、すなわち試行錯誤の結果です。だから、「深い洞察」には洗練された「試行錯誤」が必須です。しかしながら、試行錯誤が開始するきっかけとなる「着眼点」も同じくらい重要だと考えられています。むしろ、「着眼点」の素晴らしさこそ、もっとも重要な要素だとみなされるくらいです。ただ、「着眼点」の素晴らしさは、試行錯誤の末に辿りつた見通しの価値によって担保されるので、着眼点と試行錯誤は車の両輪のような関係にあります。
実のところ、試行錯誤は組み合わせの問題なので、基本的に誰でも実行可能です。もちろん、速い・遅いという能力差はありますが、時間さえかければ、基本的に誰でも同じ結論にたどり着くものです。だから、「深い洞察」の決定的な差は「着眼点」に尽きます。
着眼点の発見
「着眼点」が素晴らしいというときのポイントには、「ほかの人が見逃していた」というニュアンスが含まれるわけですが、なぜほかの人が見逃していたのでしょう。そして、なぜその人だけが気づけたのでしょう。情報が過剰に流通する現代において、各個人が受け取る情報に差はほとんどありません。つまり、同じものを見て、同じものを聞いているはずです。にもかかわらず、異なる「着眼点」が生まれ、それが「研究」などの価値を左右します。
研究というのは、完全にわかっていることにどれだけ取り組んでも、成立しません。完全にはわかっていないことについて、それが正しいか正しくないかなどを明らかにすることが、研究です。このとき大事なのは、「完全にはわかっていないこと」という問題設定です。その問題設定に対して答えが出せない場合にも、研究は成立しないので、単になるわかっていない、ではだめなのです。「着眼点」には、わかってそうでわかっていないとか、ほとんどわかっているんだけど、そこだけわかっていないとか、そういう微妙な境界が多く含まれます。むしろ、そういう微妙な境界において、多くの抜け道が発見され、ブレイクスルーをもたらすのです。だから、既存の知識の中に、ほころびを見つけるということを、我々研究者は大事にします。
知識のほころび
科学というのは人類が1000年以上かけて蓄積してきた知識の総体のことです。人類の英知という言い方もします。ほとんどの知識は入念に検証され、正しいということになっています。ところが、稀に間違いも混入しています。あるいは、完全に理解できたと思われていたことに穴があることが、後になって発見されたりします。学校教育で取り扱われる知識には、そのようなことはほとんどありませんが、最先端の科学では、検証が追いついておらず、諸説が飛び交っています。だから、教科書や論文が間違っているなんて日常茶飯事です。だから、研究の現場では、既存の知識に対して疑問を持つということが推奨されます。いや、むしろ、自分の考えすら、信用していません。そういう立場・信条のことを「懐疑主義」と言います。懐疑主義というのは、教科書等に記述されている内容に少しでも疑問を持ち、検証してみようと思い立つことです。「正しい」とされている知識に対して疑問を持っても、たいていは徒労に終わります。すなわち、時間の無駄です。「勉強」の場合には、「勉強」に要する時間が延びるということを意味します。手っ取り早く「勉強」を終わらせたい場合には、それは害悪でしかありません。だから、学校教育では懐疑主義の立場を取りません。また、教科書中では、疑問の余地を残さないような配慮がされています。だからと言って、その疑問はなくなるわけではありません。巧妙に隠されるものなのです。
当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、言うほど簡単ではありません。知識というのは世の中に無数に存在します。そのほとんどは正しいのです。また、それぞれの知識について、疑問の持ち方は一つとは限りません。だから、無数の知識の数倍の疑問の候補が存在し、そのすべてを疑うことは困難です。そして、その疑問が正当なものかどうかというのは、その疑問を具体的に詳細に検討したのちにしか結論が出ません。その検討プロセスは知識を習得するコストの何十倍、何百倍にもなります。当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、単純な勉強よりもはるかに困難で、見返りの期待値も少ないのです。にもかかわらず、そのような疑問を持たないと、素晴らしい「着眼点」は得られません。だから、疑問を持ち、検討するということを続けなければなりません。
労力を最適化するためには2つの方法があります。検討する項目を少なくするか、検討する時間を短くするかです。検討する項目を少なくすると、見落としが増えます。同じような着眼点を持ったほかの人がその見落としを活用する可能性が増えます。検討時間を短くするには、検討を途中で切り上げるという方法があります。しかしながら、途中で切り上げるとそれは見落としとなります。ある程度の見落としを覚悟するなら、そのような戦術も正当化されます。検討時間を短くする別の方法は、検討のスピードを上げることです。素早く徹底的に検討できれば、見落としを少なくすることができます。検討スピードはトレーニングによって改善することができます。また、最後まで検討を完遂する技量も必要です。というのも、検討が進めば進むほど検討が難しくなり時間がかかるようになるものだからです。どの程度検討を進められるか、ということはすなわち、「深く考える」に通じます。
結局のところ、どこに疑問を持つかは、運が左右します。はずれが多いので、あたりを見つけ出す戦略は二つしかありません。数をこなすか、徹底的な検討によって無理やり「着眼点」にたどり着くかです。現実の世界は、厳しい競争下にあるので、生半可な検討だと、他の人たちが検討済みの可能性が大いにあります。競争に勝つには、他の人たちが到達できないような領域まで検討を進めるということが大事になります。それこそ「深く考える」ということです。それでも、「着眼点」として成立するかわかりません。多くの疑問を持ち、徹底的に「深く考える」ことで、あたりに巡り合える確率を上げることができるだけです。
無理数の発見のエピソード
知識のほころびの例は、「無理数の発見」に見ることができます。古代ギリシアにおいて、ピタゴラスはピタゴラス教団という団体を組織し、数学を宗教として探求していました。ピタゴラス教団では、世界は数学に支配されており、数学の完全性に神の存在を感じていたとされています。そのピタゴラス教団では、分数が世界のすべてだと考えていました。どんなに近い2つの数を持ってきても、その隙間に新たな別の分数を見つけることができます。だから、世の中のすべての数は分数で表せると考えていました。ところが、2の平方根など、無理数が発見され、混乱したと伝えらえています。その結果、無理数の議論を封印し、なかったことにしようとしたそうです。すべての数が分数で表せるということが既存の知識だったところに、無理数がやってきて、無理数は分数では表せないということが判明するというのは、まさに知識のほころびだと言えます。文字通り、分数の世界には無理数という穴=ほころびがあったわけです。科学というのは、既存の知識に対して、新しい知識を追加したり、修正したりして発展してきました。科学に限らず、当たり前だったことをひっくり返すことで世の中は進歩するものです。ガラケーからスマホへの転換もよい例です。ガラケーの末期には、ユーザーがプログラミングしてアプリを追加できる機種が発売されており、原理的にはスマホのようなアプリ追加型サービスがありました。しかしながら、結局はスマホの時代になりました。ガラケーという既存の常識からの脱皮が不十分だったのでしょう。携帯端末に対する「深い洞察」がスマホをもたらしたのだと思います。ガラケー時代も、年々画面が大型化し、高解像度化する傾向にありました。スマホはそれを極端に進め、端末の全面積を画面にしました。また、インターネットとの親和性も高まっていましたが、スマホはPCと同じクオリティーのインターネット接続性を実現しました。ユーザーがアプリを作ることができるということもスマホは徹底しました。スマホはほぼゲーム機と同等ですが、ガラケー時代もゲームはとても重要な要素でした。ガラケーの進歩はスマホと同じ方向性を持っていましたが、スマホはそれをより洗練し先鋭化しました。ガラケーが芋虫として成長している間に、スマホはサナギを経て蝶になった、みたいな感じです。さしずめサナギはiPodでした。
ガラケーからスマホへの進歩をもたらしたのは、ガラケーを常識としない「懐疑主義」だと思います。携帯端末として重視すべき要素を見直して、携帯端末の可能性を追求したのがスマホですが、そのきっかけはガラケーに疑問を持つことだったはずです。ガラケーについて「深く考える」ことなしに、それは成し得なかったと僕は思います。
「懐疑主義」は「疑り深い」ではない
おそらく、多くの人は懐疑主義を誤解していると思います。懐疑主義というのは疑り深くなるということではありません。僕は結構な懐疑主義者ですが、だからと言って、いやな性格のいやな奴ではないと思っています。僕の理解する懐疑主義というのは、正しいか正しくないかわからない、中立的な立場を守るということです。見たり聞いたりして得た知識について、無条件に信じたりしないということです。自分で検証し、納得した上で、自分の検証した範囲で「正しい」と考えます。納得できなければ、「間違っている」ではなくて、「正しくないかもしれない」と考えます。また、検証の範囲を超えた知識の適用も「正しくないかもしれない」と考えます。「正しくないかもしれない」知識に基づいた議論は、「正しくないかもしれない」ので、別の視点からの考察を併用し、可能性の範囲を絞り込みます。それをすべて自分の判断で行うことを徹底します。僕は、他人の意見が正しいとは思っていませんし、自分自身の考えも正しいとは信じていません。様々な事象が矛盾なく整合すること以て、「正しい可能性がある」と判断します。ここに至っても「可能性」にとどめます。完全に正しいかどうかは、つねに保留する立場を取ります。前提条件や適用範囲が変わると、その知識は正しくないかもしれないからです。
このような「懐疑主義」は極めて面倒なものです。知識はゆっくりとしか増えていきません。でも、それでよいと僕は思っています。人類が存続する限り、僕たちの知識は1万年とか1億年とかの時間をかけて蓄積することが可能です。今、急ぐ必要は全くありません。また、積み重ねた知識の中に、疑問が隠れているかもしれません。そのような疑問を発見することはとても重要です。新しい分野を開拓することより重要かもしれません。というのも、そのような隠れた疑問を発見するには、新しい発想が必要だからです。そしてその疑問が解決されることによって、ブレイクスルーがもたらさる可能性が高いのです。それこそ、研究の醍醐味で、まさに「深く考える」ということだと思います。
広中平祐氏は数学の研究者であり、だからこそ、彼の場合には数学について深く考えることが最も大事なのです。僕にとっては、僕の研究分野において「深く考える」ことが大事であるのは、当然のことです。