2017年7月21日金曜日

普通信仰

「普通」と「個性的」の差

以前、天才というのを統計の観点から、考察しました(http://automatic-meal.blogspot.jp/2017/01/blog-post_29.html)。そのとき、「質」の問題を意図的に排除しました。出現確率を論じる限り、天才の質の議論は不要なんですが、それでも、「天才」というものの「質」的な特徴には、特別の興味があるのものです。

天才に対して、秀才という言葉がありますが、これら2つの言葉の存在が示唆するように、人間の能力には量的な側面と質的な側面があると思うのです。簡単に言えば、量的に優れるのが秀才で、質的に優れるのが天才、というわけです。しかしながら、人間の能力の質を論じるのは、抽象的で結論が出ない可能性があります。というのも、世の中に計量のベクトルというのは無数に存在し、どのベクトルに価値を見出すか、ということが質の差に直結するからです。質というのは比べるのが非常に困難ですが、比べられなければ、論が進まないので、質に関する議論というのは進まないのです。
そこで、視点を変えて、「個性的」という軸を論の中心に据えてみましょう。これは、希少性に通じますが少し違います。希少性というのは統計学的な視点です。統計学的な視点はすでに論じた通りです。「個性的」というのは、その内容も吟味する、というニュアンスがあります。そして、個性的というのは単独で存在するものではなく、人格の総体として評価されます。その前提として、複数の「個性」の存在が了解されているんじゃなかな、と思うのです。「個性的」の反対は「没個性」ですが、もう少しポジティブに言うと「普通」となります。

「普通」信仰

大学時代の友人の一人で、「とにかく何でも普通が良い」という人がいました。結構徹底していて、テストでいい点を取ると目立つのでわざと間違えた、とか。ヒステリックだなあと思いました。が、その背景には、「普通」でないことを許容しない環境があります。その人曰く、目立つといじめられる、ということでした。田舎でなくて、都会でもない、という地域では、勉強の出来不出来にかかわらず、地元の高校に進学するという傾向がありました。昔の京都もそうでしたし、兵庫県は今でもそうだと聞いています。生徒の学力差が大きすぎると、授業に差し障るので、特進クラスとかを設定したりします。しかしながら、クラブ活動では一緒になるので、勉強が出来る子がクラブ活動を休んだりした日には、いろいろ言われたりするわけです。そういう環境で育つと、処世術としてわざと間違えて、点数をレギュレートする、なんて子が出てくるわけです。最近は、普段の学業成績の序列化が絶対視され、定期テストでわざと間違えるなんてことは稀だと思いますが、それはそれで問題があります。

僕の大学時代の友人の例は極端ですが、多かれ少なかれ、「普通」であることに価値を見出す傾向は、今もあります。というか、今の方がずっと強いと思います。すこし前、「KY」というのが流行りました。「空気読め」「空気読めない」の「空気」というのは、「普通の感覚」「普通の人なら共有できる感情」という意味です。そういう「普通」の感覚を共有できないと、馬鹿にされたり、いじめられたりするというのが「KY」の背景です。これは「普通」を極端に尊重する、「普通信仰」とも呼べるような傾向です。
一方で、ゆとり教育は、個性の尊重を謳います。それは「普通信仰」とは真逆の方針のはずでした。ところが、ゆとり教育が浸透すればするほど、普通信仰が強くなっていきました。圧倒的な皮肉です。
「個性尊重」が十分に浸透しているのにもかかわらず、日本の教育では、クラスメートと同質化することを強く求められるのは事実です。「普通」のレベルをすべてこなしたうえで、「個性」を認められる傾向があり、その「普通」のレベルを達するのに、かなりの努力を要します。その結果、「普通」をクリアするのに必死で、クリアしても疲れ果てて、その先(個性)を発揮することができない状況にあります。

個性礼賛は難しい

最近、NHKが極めて挑戦的な番組を放送しています。バリバラと呼ばれている、障碍者を中心としたバラエティー番組です。僕は時折視聴するのですが、残念ながら、最初から最後まで通してみることはできていません。それは、時間がないとか面白くないとかそういうことではなく、視聴しているとたまらなくなるのです。直視を避けてきた現実を突きつけられ、いたたまれなくなるのです。
障害を持つ人たちの生きる力を感じる、とても良い番組だと思っています。もちろん、必死に生きる姿に感動を覚えるわけです。しかしそれ以上に、彼らが人間であることを痛烈に感じるような編成になっています。人間であるという意味は、きれいな面も汚い面もすべてひっくるめた全人格が、赤裸々に語られる、ということです。
重度のダウン症の女性が、ジャニーズのアイドル歌手と結婚するのが夢、と語る様子を見て、複雑な気持ちになりました。ま、普通の女の子が同じことを言ってても、結果は同じなんだけどね。でも、どのような障害を持っていても、女性は女性であり、人生に希望を持ち、必至に生きている限り、障害以外の部分は普通の人と全く変わりないという、当たり前だけど残酷な現実が僕の胸に刺さりました。僕は、テレビを消しました。

僕たちは、普段、障碍者から隔離されていて、彼らの生活を知りません。彼らは、施設や病院にいるかわいそうな人たち、そんな印象を持っています。しかし、バリバラではそういうのを徹底的に否定します。健常者からすると見るに堪えない姿を彼らはすべてさらけ出し、その上で、自分たちの人生を豊かにするべく努力しています。そこでは障害は、個性として、むしろ尊重されます。両足のない男性がブレイクダンスで、健常者には絶対できないアクロバットターンを決めるとき、それは障害をむしろ特別な能力としているのです。リオパラリンピックの閉会式で同じ趣旨のダンスがありました。

それは美談の部分です。両足のない男性のブレイクダンスは、あまりに健常者のものとはかけ離れていて、それは最高にアーティスティックです。大絶賛です。しかし、グロテスクに見えます。あまりに個性的過ぎてグロテスクなのです。それは、僕の感性がおかしいからではなく、突出した個性は時にグロテスクだ、という真理の一端だと思います。

障碍者に見られる個性尊重の傾向は、「空気」を共有する若者たちと対極にあります。本物の個性というのは、万人に受け入れられる物ではなく、個性を尊重したとしても、理解しあえない場合があることを知っておかねばなりません。障碍者の話は、別の機会にまとめたいと思います。
身体障碍のような極端な個性でなくても、個性は受け入れられない傾向があります。


スクールカーストの考察

これもちょっと前になりますが、スクールカーストというのがクローズアップされました。生徒間のパワーバランスが極端化し、不自然な上下関係が形成されるという問題です。スクールカーストの出現は、「普通信仰」の成れの果てだと、僕は思っています。

ぶっちゃけ、「普通」というのは、「多数意見」です。統率されていない集団において、多数意見の形成は、共通の価値観や正義感などが重要な役割を果たすべきですが、隔離された小集団ではなかなかそうなりません。特に、「普通信仰」が極端な集団においては、顕著です。普通信仰があると、「普通」=「多数意見」は錦の御旗であり、極めて大きな価値になります。多数意見を制御下に置ければ、集団を支配できるからです。多数意見はすなわち権威そのものなわけです。

多数意見を制御する因子は、オピニオンリーダーと呼ばれます。比較的従順な人の集団では、声の大きなオピニオンリーダーとなります。さらに少数の追従者を獲得すれば、合意形成を強引に行うことが可能です。これは、ガキ大将を頂点とする小さなコミュニティーをイメージするとわかりやすいと思います。スクールカーストは、多数意見の形成を効率よく制御するシステムであり、多数意見=普通を大きな権威とみなす「普通信仰」のあるソサイエティでは、必然的に発達するコミュニティー形態だと考えられます。

多数意見の制御が政治手法になっている

この手法を階層的に行うのが、かつての自民党の派閥政治です。派閥というのは派閥の領袖と呼ばれるオピニオンリーダーと比較的少数の追従者によって構成されます。派閥間でしのぎを削り合うことで、どうしようもなく少数派であるはずの一つの派閥が自民党全体を統治し、それによって国政を牛耳るという仕組みでした。
現在の自民党は、安倍さんをオピニオンリーダーとして、その取り巻きと、中立者、という構造です。安倍さんとその取り巻きは、ガキ大将コミュニティーを形成しているように見えます。その他の自民党議員は、次のオピニオンリーダーの取り巻きを狙って、安倍さんのコミュニティーから距離を置いている感じがします。

ガキ大将コミュニティーを徹底的に行うのが、アメリカのトランプ大統領です。彼の手法は、ガキ大将コミュニティーそのものです。アメリカという大国の大統領のメンタリティーがガキ大将というのは、とても危険な感じがします。でも、共和党の大統領はこれまでも多かれ少なかれガキ大将でした。ただ取り巻きは諸外国の首脳でした。ブッシュJr.さん時代の当時の国務副長官アーミテージさんは「Show the Flag」と言って、諸外国首脳に踏み絵を敢行しました。踏み絵という手法は、典型的なガキ大将のメンタリティーです。

政治の世界では、結構ガキ大将システムが生きているのです。小さな集団が、集団全体を制御するためのシステムとしてそれは合理的なのです。

こうしたことから、スクールカーストという概念はガキ大将のメンタリティーをより陰湿化したものだと理解できます。日常にちりばめられた細かな「踏み絵」によって、カーストを作り上げるので、より狡猾です。こうした環境の中で今の若い人は成長するので、自己防衛の手段として、「空気を読む」ことを重視するのです。それはちょうど、小魚が大群を作ることや、ウミガメの赤ちゃんが一斉に海を目指すこと、サンゴが満月の前後に一斉に産卵すること、そういうのと一緒です。群れの中に潜むことで、個人攻撃をかわすのです。

普通信仰をやめるのではなかったのか?

個性尊重のスローガンは、むしろ「普通信仰」を否定するものだったはずです。Bill Gatesも「将来のあなたの上司がGeekである可能性は高い」ということを語っています。テクノロジーが発達し、低レベルな仕事のコモディティー化が進むと、高レベルで高収入な仕事の多くは専門性が高く、普通の人には手が出ないものになるという予測があるのです。そういう社会情勢をにらんで、より高品質な人材を多く育成する目的で、個性尊重が叫ばれました。「普通」から逸脱した人を保護し育てるということが重要なミッションになったわけです。
ところが、「普通」でない人というのはレアなのです。レアだから「普通」でないのです。マスエデュケーションというのは、教育の効率化のための手段です。効率とは費用対効果を最大化することです。教育における効果とは、どれだけ優秀な人間をどれだけたくさん輩出したか、ということで測られます。前者は質を、後者は量を意味します。効果を定量化する場合、最も単純な方法は質×量という尺度を用いることです。質を縦、量を横とした四角形を考えると、質×量は面積です。四角形の面積を最大化=効率化する場合、もっともよいのは正方形を考えることです。つまり、積のような尺度を用いると、質と量をバランスさせるという戦略が推奨されるということです。それは従来型のマスエデュケーションです。
普通信仰からの脱却を目指し、バランスを「質」に振るというのが「個性尊重」です。だから、教育の効果の尺度を変える必要があったのです。つまり、縦長の長方形を目指すように意識改革すべきだったのです。しかし、それは行われませんでした。その結果、いびつな教育が行われるようになりました。

個性尊重型の教育を実践している分野がある

均質な教育というのは日本の教育制度の最大の特徴です。だから、それをやめるという決断は極めて難しいということは理解できます。しかしながら、それを飛び越えて、個性尊重型のシステムが導入されている分野があります。それは、スポーツです。特に、陸上競技が顕著です。

体育の授業では、走力の測定なんかが日常的に行われます。個々の運動能力を測定し、トレーニングの成果を実感するという意味もありますが、もう一つ極めて重要な目的があります。それは、才能の発掘です。
極めてレアですが、普通の子供たちに交じって、運動能力が特異的に高い子供が存在します。体育の授業でタイムを計った際、そういう子供を発見することがあります。体育の先生は、その子供を呼び出し、さらに能力を測定し、場合によっては特別のカリキュラムを用意したり、特別の学校への転校を勧めることがあります。そのような子供は最終的にオリンピックなどを目指すことになります。
中学校時代のクラスメートの一人が、ハードル走でなかなかのタイムを出したので、放課後先生に呼ばれて、追試を受けていました。成績が良くて追試なんて意味が分からないとぼやいてました。陸上競技では稀にあります。短距離走の桐生選手は洛南高校出身ですが、彼のような選手はどの高校や中学校で発見されてもおかしくありません。水泳もそのようなことが多くあります。

スポーツでは、計量の仕方が極めて分かりやすく、出口(オリンピック)もしっかりわかっています。だから、極端な教育システムを採用しやすいという事情があります。一般的な人材育成において、そのような個性を計量し選抜するのは困難な面があります。

数学では稀にそのような才能が見つかることがあります。それを促進するために、数学オリンピックという仕組みがあります。それに倣って、物理オリンピックや化学オリンピックも作られていますが、あまり効果が上がっていないように思います。というのも、物理や化学というのは数学に比べて使用する能力が多彩だからです。
数学オリンピックの制度は、ソ連時代の数学英才教育にヒントを得ています。ソ連では、数学の才能のある子どもは選抜され、能力があると認められると全寮制の特別学校に「監禁」されました。徹底的な英才教育が施され、かなりの確率で気が狂ったそうです。でも、おかげで、ソ連の数学者や物理学者には、頭の良い人が多くいます。日本も、そういう個性を発掘しようと推薦入試とかやっています。京大の推薦入試の問題が難問すぎたという話題は記憶に新しいところです。そういう試みがうまくいくのかどうかは、じっくりと見極めていかないといけません。

普通をやめさせられない

僕たちの「普通信仰」は極めて根深いものになっています。人間関係、社会システムの隅々まで、僕たちは他人に「普通」であることを陰に陽に期待しています。そして「個性」により価値があるということを声高に叫ぶにもかかわらず、「普通」以外の価値観を持てていません。打開するには「普通」以外の価値観というのは、とても難しいものだということを認識するということが前提になると思います。

日本の教育制度では同化圧力が強いため、何もしなくても「普通」に大きな価値観を持つようになります。「普通」であれば、不利益を被るリスクを避けることができるからです。生活が安定し、特に努力しなくてもそこそこの生活が手に入る社会では、リスクの回避は極めて高い価値を持ちます。
その高い価値を持つ「普通」を手放し、新たな「価値観」を採用するには、その「価値観」がより高い価値を持つと確信できなければなりません。特に、その価値観が個性的であるためには、その価値が「自分にとって特別」重要である必要があります。つまり、個人個人の価値観を確立するような教育が大事ということです。今の日本の学校教育では、価値観教育がすっぽり抜けています。これまで、日本では「普通であること」が唯一で絶対の共通価値観でした。そこに異論をはさむ余地は全くありませんでした。むしろ、それに疑問を抱くことすらタブーであるような雰囲気があります。

でもそれは、学校教育では、という限定付きです。実社会ではそんなことはありません。ある程度の社会常識としての「普通」は要求されますが、むしろ創意工夫が価値を生みます。多くの若者は、就職の際に初めて「個性」を要求され、戸惑い、失敗します。僕はそういう学生たちを多く見ています。大学では「個性」を伸ばすための時間的猶予が与えらえるのですが、多くの学生はそれを無駄にしています。就職セミナーでも、「個性をみつけましょう」的な説明がなされます。でも「個性」とは訓練し、伸ばし、磨き上げるもので、時間と手間がかかります。大学での4年あるいは6年をそれに費やしていれば、すぐにわかります。逆に無駄に過ごしていれば、それもすぐにわかります。

個性を伸ばすには、それを自分の価値観と同一化しておかなければなりません。それが自分にとって価値があるものでなければ、自分の幸せに寄与しないからです。自分の幸せに寄与しない努力というのは、人生を無駄にすることです。好きなこと、大事なこと、そういうことを真剣に考えることによってしか、価値観をはぐくむことはできません。
子供を産み、育て、子孫に命をつなげるということが、生物の根源的な価値観です。人類においても、近代化するまでは、それが唯一絶対の価値観でした。ところが、近代化によって個人の生活が安定し、人口が増えると、資源の効率的利用の観点から子孫を増やすことは、場合によってはデメリットになりました。我々は別の価値観を持たねばならなかったのです。その一つが、普通信仰だと僕は思います。
ベンサムは最大多数の最大幸福を唱えましたが、それを実現する価値観が普通信仰だと思います。個人の幸福の最大化ではなく、集団に価値を見出しています。集団というのはあいまいですが、集団を構成する個人をあえて考えるなら、集団の平均値がモデルになるでしょう。それはすなわち「普通の人」です。逆に、自分が「普通」であれば、幸福の最大化の恩恵を受けられると、僕たちは直観しているのです。

ベンサムの哲学は、衣食住が十分に分配できない時代のものであるという指摘があります。つまり、衣食住が足りて、さらに発展を続ける現代社会には適しないかもしれません。さらなる発展により価値を見出そうというのが、Bill Gatesの話です。進歩の先端では常にそれが重要な価値です。マクロ経済学の立場では、進歩がない停滞した状態では社会は滅びに向かうと考えます。一方、進歩はもう十分だという意見もあります。急激な進歩を目指さず、現状維持をしながら、ゆるやかな進歩を目指そうというのが、持続可能型社会というやつです。進歩のベクトルを「持続可能技術」に振り向ければ、マクロ経済も維持できるという主張です。僕にはよくわかりません。が、強い「普通信仰」を感じているので、社会全体としては、どちらかというと持続可能型社会を目指す雰囲気にあるのだろうと思っています。

それにしても、強すぎる普通信仰は人間を家畜化するので、僕は嫌いです。やはり、個性を尊重し、様々な価値観のぶつかり合いがあった方が健全だと思います。



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