アウトソーシング全盛
昨今は経費削減のためにいろんな業務が外部委託(アウトソーシング)される傾向にある。アウトソーシングすると、どうして経費削減できるのだろう?アウトソーシングには利点と欠点があり、それをよく理解しないといけないし、安定した組織においては、アウトソーシングは不経済であることが多く、導入のメリットがないばかりか、害悪になる。特に、図書館などのサービスはアウトソーシングのやり方を考えないといけない。
身近なアウトソーシング
家庭のレベルの伝統的なアウトソーシングは、家政婦である。ご存知のように、家政婦を雇うには、そこそこの経済力が必要で、並みのパートでは賄えない。なので、ほとんどの家庭では自分たちで家事を行う。つまり、家政婦の場合はアウトソーシングが不経済ということだ。最近多いアウトソーシングの例は、配食サービスだ。食材だけ、あるいは調理済みの食事を宅配するサービスだ。家事の時間が取れない場合は経済的に釣り合うが、一般的にはこれも不経済だ。一般家庭の経済感覚では、アウトソーシングというだけでは、経費削減にはならない。アウトソーシングは別の理由でも敬遠されることがある。タクシーは自動車移動のアウトソーシングである。タクシーは不経済に思うかもしれないが、マイカーの場合、車両価格、ガソリン代、駐車場代、保険代、維持費もろもろを計算に入れると、タクシーの倍くらいになる。それでも我々はマイカーに利点を見出す。いつでも車をつかえる利便性、プライバシー、自分の好みの車、そういうものに価値を見出しているので、タクシーではなく、マイカーを使いたいと思うのだろう。自動車会社のCMに踊らされている面もあるだろう。細かな使い勝手をカスタマイズできないというのは、アウトソーシングの弱点の一つで、それがタクシーの例では見て取れるとおもう。
それでもアウトソーシング
利益を追求する企業がアウトソーシングを進めるのは、その方が利益があるからだ。アウトソーシングの利益とは何だろう。第一に、人件費の圧縮だ。比較的専門性が低く労働集約型の業務は、真っ先にアウトソーシングの対象になる。最近は、事務作業のうち、比較的容易なものはどんどんアウトソーシングになっている。正式な雇用契約のある社員の人件費は比較的高額なので、より経済効率の高い業務につかせたいという経営判断により、アウトソーシングが進んでいるのだと考えられる。
しかしながら、そもそもこれは経営者の判断ミスの埋め合わせだと考えることもできる。つまり、人件費が高騰して、軽作業用の人員が確保できなかったという経営判断のミス、と理解することもできる。あるいは、人員配置のミスと言ってもよい。判断ミスなら、それを修正して正常化すべきなのだが、アウトソーシングが常態化しているのが現在のやり方だ。
アウトソーシングが広がったのは、バブル崩壊後、しばらく経ってからだ。バブル崩壊時に社員採用を大幅に削減し、人件費を圧縮できたものの、人を減らしすぎて業務が滞るようになった。その欠員を補充するために、人材派遣が多くなった。バブルで人件費が高騰し、バブル崩壊で軽作業用の人員を大幅削減してしまい、人材確保できなくなり、派遣に頼るようになった、ということだ。短期的には悪くない判断だが、中長期的には修正すべき対応だ。しかしながら、中長期的な展望を欠いた経営者が現状維持に甘んじた結果、派遣社員の問題がかなり深刻になった。派遣社員の待遇はもちろんだが、派遣を受ける側の企業の経営がおかしくなっている。
アウトソーシングのデメリット
僕が人材派遣会社なら、ターゲット企業にある程度食い込んでから、契約更新時にじわじわと契約条件を吊り上げる。練度の高まった派遣社員を引き上げられると、当該企業は業務に支障をきたすようになる。そうすると契約の主導権は逆転し、人材派遣会社が有利になる。現在は、そのようなフェーズで、アウトソーシング経費が経営にのしかかる。かといって、今更アウトソーシングをやめるわけにもいかない。というのも、アウトソーシングしている作業がどんどん高度化してしまっていて、社員で肩代わりすることができなくなっているからだ。つまり、アウトソーシングが進んだ結果、業務内容が高度化し、逆に専門性が高い業務がアウトソーシングされるという状況になっている。社員はアウトソーシングされた業務にはタッチしないのが原則なので、社員の練度が上がらず、アウトソーシング経費をねん出するために社員を切るという選択を迫られる。これこそ、人材派遣会社が狙っていた展開だ。アウトソーシング経費は、人材派遣会社の言いなりにならざるを得なくなる。
そうすると会社側の行動として、派遣されている人材をハントして社員として取り込む、ということが進む。このフェーズも現在進行中だ。派遣切りが社会問題化していて、その解決策として派遣社員の中途採用優遇が進められており、これは世論の賛同を得ている。
しかしながら、正社員として採用すると、実質的な将来債務が発生してしまい、経営の自由度を制限する。そのため、会社は、派遣社員をフリーランスとして再契約するようになる。ただ、現状の法制度では、フリーランスの雇用条件が非常に悪い。これも社会問題化しており、現在は働き方改革というのが進んでいる。
行ったり来たり
時系列を整理してみよう。経営者たちの求めに応じて、人材派遣の規制緩和をしたのが2000年ごろだ。すると派遣社員の待遇が悪いとして、2005年ごろには派遣期間に規制を設けた。それでも問題はなくならず、法の抜け道をついてアウトソーシングがどんどん進んだ。しばらくいたちごっこが続いたのち、人材派遣会社が極めて強力になり、アウトソーシング経費が高騰しだした。それが2010年頃だ。経営者たちはたまったものではないので、優秀な派遣社員を人目る策として、個人契約を進めた。しかしながら、それは単に給料の切り下げでしかないので、適正化に向けて法整備を検討しだした。それが2015年ころで働き方改革というものだ。ここ20年くらいで、アウトソーシングのメリットとデメリットを行ったり来たりしていることがわかる。短期的には経済的なアウトソーシングを進めるが、5年を目途に中長期的には不経済であることがわかる。法的な規制によって適正化するが、やはり5年程度で不経済であることがわかってきて、再び法整備による解決を図る、ということを続けている。
この流れを見ると、経営者の判断ミスから業務のアウトソーシングが進み、アウトソーシングの欠点が露呈すると、小手先の対策や政治介入を通じて、短期的な対策を図るも、最終的には次の問題が生じるという、なんともコントのような展開であることがわかる。改革すべきは経営者であることが明白なのだが、経営者たちを支持基盤とする自民党政権下では、根本的な解決は無理かもしれない。
問題点の整理
個人レベルのアウトソーシングの例でみたように、アウトソーシングの多くは中長期的には不経済であったり、デメリットが多い。企業のアウトソーシングでも同じことが言える。経営者は短期的なメリットを見て、それを中長期的に採用したいと考えるが、現状のアウトソーシングは、もともと短期的な応急措置としての装置であり、システムとしては脆弱なのだ。中長期的にアウトソーシングに頼るという経営判断を根本的に改めなくてはならない。そもそも、経済活動というのは、得意な分野を結集し、価値を最大化するという行動規範だ。極めて特別なノウハウや投資によって得意分野を先鋭化し、付加価値を高めて利潤を上乗せするというのが企業経営の基本である。経営資源という考え方で整理するとわかりやすい。経営資源には、資産・設備などの資本、ノウハウなどの知財、そして人材がある。また、人材には、特別な才能と訓練教育等で培われた能力との2種類がある。大きな企業になると個人にとどまる特別な才能は、大量のマンパワーに薄められてほとんど無視できる。人材の多くの部分は交換可能である。その互換性に目をつけたのアウトソーシングである。アウトソーシングでは企業は教育訓練の費用と時間を節約でき、その分の経費負担がない。また、仕事の質と量をある程度予測できるので、費用対効果がわかりやすい。しかしながら、アウトソーシングでは、業務内容の改善や練度向上を期待できない。仕事の効率は、最初から80%くらいあって、その後緩やかに上昇し、最終的には110%とかになるかもしれない。一方、社員の場合、最初は30%くらいかもしれないが、すぐに80%に達し、最終的に200%くらいになる。その段階で後進の育成を行い、スループットを落とさず、継続的に業務効率を高いレベルに維持する組織とすることができる。派遣と社員では成長率がかなり違う。というのも、派遣の場合は100%以上はサービスなので、それ以上向上させるインセンティブがない。日本人は比較的お人よしなので、派遣であっても頑張る人が多い。しかし、派遣が一般化した現在、そういう人は少なくなってくるだろう。というのも派遣で働く人は、社員になりたいと思っていない人も多くなっているからだ。
しかしながら、経営者はそのような派遣の事情をよく理解していないので、社員の練度向上を過小評価してアウトソーシングを進めている。その結果、業務が空洞化し、人材が枯渇する。
つまり、アウトソーシングにおける派遣社員は経営資源ではないという点に注意しなければならないということだ。経営資源のうち、人材だけはほぼ確実に成長が見込める。つまり、中長期的には最も重要な経営資源であるということだ。アウトソーシングはそれを(短期的には)捨てるという経営判断をするということなので、本当は慎重に決めないといけないんだけど、そうなってないよね。
アウトソーシングで気をつけないといけないもう一つのことは、業務内容にも中長期的な視点がなくなるということだ。短期的な派遣社員にとって、中長期的な業務というのは自分で責任が持てないことになる。その時の判断として、その中長期的な業務を無視するか、軽視するかとなるのは、致し方ない。業務の定義の中に、その中長期的業務が含まれていたとしても、その業務の質(結果)が判明するのは派遣期間内ではないだろう。そうすると、手を抜いてもバレないし、頑張っても評価されない。中長期的業務というのはアウトソーシングに適さないということがわかる。
アウトソーシングすべきでない業務
中長期的視野に立たないとだめな業務として、教育・人材育成がある。先に述べたとように、人材は中長期的には最も重要な経営資源だ。そして、人材を経営資源たらしめるのは教育である。派遣では教育の観点が欠落しているので、派遣社員を経営資源とみなすことができない、という解釈ができる。教育というのはかなり時間がかかるものだ。短期的な利益を見れば、極めて効率が悪い。「教育は国家百年の計」言われるくらい、その成果が隅々までいきわたるのに長い時間がかかる。ある教育に着目すると、その教育を受けた人(第一世代)は、その教育内容を人生の中で実践し、様々なノウハウを蓄積する。第一世代が先生になると、その教育内容に加えて、ノウハウも教えるようになる。なので、第一世代の教育内容に欠けていたノウハウの部分も、第二世代は教わることができる。その結果、第二世代はノウハウの蓄積という時間のかかる作業から解放され、より効率的に教育内容を活用できるようになる。第一世代が先生になって教育する側になるまでにおよそ20年必要だ。第二世代以降の教育内容はほとんど変わらないので、ある教育改革が完全に定着するには20年はかかるということだ。そして第二世代以降は人生の中でその教育内容を活用するわけだが、その影響は死ぬまで続く。ある教育の導入時点では、その教育を施された老人にどのような影響があるのかなんて、知るすべがない。個人レベルでは実験可能かもしれないが、社会的影響は実験のしようがない。だから、その教育の成果は第二世代が死ぬくらいの時期まで見ないと、正しく判断できない。第二世代が死ぬという時間がちょうど百年くらいだ、というのが、先の言葉だと僕は思っている。
僕たちは戦後生まれだけど、先生の世代は戦中くらいだった。ずいぶん考え方が違うことを実感してきた。戦後教育で大きく変わったのは、戦争に対する考え方だ。戦後教育では戦争反対が強く押し出された。僕たちは戦争は悪いことだと教えられてきたし、日本の平和憲法は自虐的なものではなくて、誇り高いものだと信じている。平和憲法に強い影響を与えた当事者である米国が、湾岸戦争で先制攻撃を正当化して以来、その誇りが揺らいでいる。僕より上の年代は、日米安保・学生運動の時代を生きてきた人たちで、学校で教わった平和憲法の理念と、親から教わった敗戦の屈辱とのはざまで、様々な葛藤があったのだろう。平和憲法の後ろ盾だったはずの米国が、自ら平和憲法の理念を踏みにじる様子を見て、葛藤の反動で平和憲法の否定に傾くのもよく理解できる。僕の世代は、親も平和憲法の下で教育を受けており、米国と平和憲法と結び付けて考えることはない。米国はきっかけでしかなく、平和憲法の理念を僕たちの哲学としてどのように受け止めるか、ということが重要であり、それを行動として示すためにどのような選択肢があるのか、を僕たちの世代は考えると思う。平和憲法は屈辱ではなく誇りであり、米国が果たせなかった夢を我々が果たし、世界をリードする我々の強力な武器であると、信じている。日本の平和憲法は条文が極端ではあるが、運用においてはバランスがとれており、多くの国で手本として研究されているという事実がある。
バイトになぞらえて理解する
アウトソーシングというのは、むしろアルバイトに近い。バイト君に経理をやらしてよいか?という話だ。派遣社員をバイト君に読み替えれば、極端なアウトソーシングがいかに危険かわかるだろう。能力のあるなしではなく、責任のあるなしで見てみると、何がアウトソーシングに適して、何がそうでないかは一目瞭然だ。今、図書館業務のアウトソーシングが盛んで、僕はとても心配している。図書館の業務のうち、図書の貸し借りと、一般蔵書の維持管理は、短期的な業務なのでアウトソーシングが可能だろう。一方で、図書館の重要な機能として、図書の長期的な管理がある。図書の中には、一般貸出が可能な図書と、貸し出しが禁止か、あるいは手続きが厳密な貴重本等があり、後者の維持管理は極めて長期的な視点に立たねばならない。そのような業務は一般の人の眼には触れないが、図書館の重要な業務である。
市井の図書館でも、地域の行政文書や資料、古文書などの維持管理を行っているはずだ。図書館業務のアウトソーシングによって、これらの貴重な文書や資料が存亡の危機にある。というか、実際に廃棄されている。いくつかの例では、市の職員が廃棄していたが、おそらく、図書業務を専門としない職員だったと思われる。つまり、組織内で図書館業務をアウトソーシングしていたということだ。図書館業務に責任を持つ司書というのは国家資格である。図書館業務には、文書の歴史的価値・保存方法に関する専門知識が必要とされているからだ。しかしながら、司書の給与水準は低く、専門家として尊敬されていない。そのため、図書館は真っ先にアウトソーシングの対象になってしまっている。これは緩やかな焚書と言ってよい。
コンサルティングは知性のアウトソーシング
通常はアウトソーシングという印象はないが、各種のコンサルティングは高度な専門業務のアウトソーシングだ。内容にもよるが、コンサルティングの単価はかなり高い。しかしながら、同じクオリティの業務を社員で賄えない場合に、コンサルティングを導入することになる。コンサルティングする側はビジネスなので、割に合わないことはやらない。だから、報酬しだいで業務の質が変化する。この場合は、業務に対する熱意を金で買う、という構造になる。一般に、コンサルティングは高い利益率を誇るが、それはコンサルタントの高い専門性と情報力、そして企画力に基づいている。コンサルタントと同程度の技量を持つ社員がいたとしても、その社員は通常業務に忙殺され、生産性がなかなか上がらないことも多い。そういう雑事から解放され、より先鋭化することで、コンサルティング業が成り立つという側面がある。
善良なコンサルティングの導入は、多くの場合、経費圧縮と業務改善につながる。ただし、超短期的には高額のコンサルティング料に目を剥くことになるだろう。ただ、コンサルタントはプロなので、コンサルティング料くらいの利益はすぐにもたらすだろう。つまり、早々に損益分岐点を越えて、お得になるということだ。長期的には社員でコンサルタント級の人材を賄うことになるのだが、それには10年、20年かかるだろう。その間の教育コストを考えれば、コンサルティングは安いし、正しいアウトソーシングと言える。
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インドとベトナムのオフショア開発者の専任チームを雇う。グローバルジャパンネットワークは、柔軟な採用モデルでオフショアソフトウェア開発サービスを提供しています。
ベトナムでのオフショアソフトウェア開発
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