2018年6月30日土曜日

アダムスミスを勉強したことありますか?

働き方改革、通っちゃいました。

働き方改革関連法案が成立しましたね。「高プロ」という概念が物議をかもしています。
今回の法律が良いか悪いかは別にして、日本人の働き方は改革すべきだと思います。理由の一つは、給料の問題です。そして、ワークライフバランスも問題だと思います。それから、ワンアウト退場システムをやめるべきだとも思います。
最近の政治は、対処療法に終始していて、その方策には「知恵」が感じられません。人々も物事を深く考えることはせず、対処療法を歓迎している気がします。ビジネスではPDCAを繰り返すことが強く死傷されていますが、これはすなわち対処療法を続けるという思想です。
そもそも、対処療法を続けるのは日本人の得意とするところです。しかし、ガラケーの衰退にみるように、時折、本質的な転換があって、なすすべなく負けるわけです。PDCAは普段の努力としては良いですが、それと並行して根本的な問題解決の努力もすべきだと思います。
今回の働き方改革は、主に経営者からのリクエストにも届くPDCAサイクルなわけです。問題点は2つ。対処療法であることと、労働者視点が希薄であることです。労働者視点での根本的な問題を掘り下げて見たいと思うのです。

給料の問題

常勤労働者の平均給与に関する統計というのがあって、僕は驚愕しました。


この統計はなかなかに衝撃です。ここ30年で給与は上がっていないどころか、下がっているのです。一方で、別の統計もあります。


ここでは10年間で、アルバイトの時給が20%程度上昇していることが示されています。パート・アルバイトでは深刻な人手不足にあることが、その原因という分析ですが、本当にそうでしょうか?

労働区分における労働意識の違い

パート・アルバイトと、通常の雇用での労働者の意識の違いを考えると腑に落ちます。パート・アルバイトでは労働条件が悪いと、労働者はすぐにやめてしまいます。だから、賃金を下げることはできません。一方、正規雇用だと、労働条件が多少悪くても我慢してしまいます。そういう意識の違いが、賃金上昇率の差につながっていると思います。
この状況はアダムスミスの時代とほとんど変わりません。アダムスミスは労働者と経営者の間で1対1の労働交渉をした場合、経営者が必ず勝つと喝破しています。労働交渉中、労働者は賃金が得られないが、経営者は他の労働者を使って事業継続できるからです。なので、団体交渉権というものが労働者に認められています。
個人主義が浸透した結果、労働組合は力を失い、まともな団体交渉がなくなっています。そのため、労使関係は産業革命の時代のレベルに戻っているような気がします。にもかかわらず、アルバイトの時給が上昇するのは、労使間のパワーバランスが変化しているからだと推測できます。すなわち、アルバイト労働者は面倒で長期にわたる労使交渉などせずに、さっさとやめることで、経営者にプレッシャーを与えているのです。
アルバイト労働者にこのようなことが可能なのは、多様な労働条件の仕事がたくさんあって、一つの仕事をやめてもすぐに別の仕事を見つけられる環境にあるからです。あるいは、複数の仕事を掛け持ちしていて、一つやめても致命的な状況には陥らないからです。流動的な雇用市場とフルタイムでない労働条件が、それを可能にしていると思います。

アルバイトの事情をそのまま適用すれば、常勤労働者の給与を適正化するには雇用市場を流動化すればよい、となります。しかしながら、安定した労働環境がメリットである常勤労働者を流動化するというのは、論理的に破綻しています。

苦肉の策として副業の解禁

常勤労働者の労働市場を流動化させる地ならしとしての役割があるかもしれないのが、副業・兼業の解禁です。副業・兼業が一般化して、本業がだめになってもしばらく食いつなげるのであれば、退職をする常勤労働者が増えるかもしれません。働き方改革に副業・兼業が原則解禁が盛り込まれています。
副業・兼業が解禁となると、労働者にとっては本業にしがみつく必要性が減る、というメリットがあります。無理な転勤や過重な労働条件を拒否することが可能になるのです。それは経営者に対するプレッシャーとなり、労働者の立場を強くするかもしれません。
一方で、経営者は労働者が我慢できなるなるギリギリの労働条件を設定するようになるかもしれません。労働者は副業があるので、本業での収入が削減されても働き続けることが可能になるからです。

今回の改革では、副業・兼業の定義が実はあいまいです。副業として想定しているのは在宅での仕事だろうと思います。しかしながら、副業での収入が増えてくれば、本業の時間を削りたいという人たちが出てくるでしょう。また、副業での収入が本業の収入を上回ったとき、保険や年金はどのように取り扱えばよいでしょう?
そもそも、本業と副業を定義することは極めて難しいことです。本業と副業を区別することすらナンセンスだと思います。現在に思いても、複数の肩書を持つ人は多くいます。多くの場合は経営者であり、保険や年金の問題は表面化していません。しかし、一般労働者の多くが複数の肩書を持つようになったときはそうはいきません。例えば、雇用保険というのは会社にとってはなかなか重い負担なのです。年金や健康保険も多くの会社で赤字になっているので、本体企業が補填して運営するのが常態化しています。本音を言うと、企業は社員の年金や健康保険をサポートしたくないはずです。
そういうババを引きたくない企業は、労働者と本業としての契約を結ばなくなるかもしれません。同一業務同一賃金の原則というが働き方改革に盛り込まれましたが、読みようによっては非常勤と常勤の給与水準を同じにするというように受け取れます。非常勤は年金や保険の企業負担が軽いので、手取りを同じにするなら、非常勤の方が低コストです。あるいは、名目賃金を同じにすると非常勤の方が手取りが多くなるでしょう。すると、常勤から非常勤に切り替える人が出てくるかもしれません。経営者はむしろそういう状況を狙っているかもしれません。

おじさんたちが自主退職する理由

僕周りでは、多くのおじさんたちが突然退職するということがありました。その理由は、介護です。40代後半になると、両親が病気になったりして介護が必要になることも多いのです。一般企業に勤めていると任地を選べませんから、働き続けるか、介護をするかの二者択一になります。多くの場合、介護を選択するようです。その結果、僕は多くの人から「退職します」というあいさつを受けるわけです。
退職に至るのは介護のためだ、と理解するのはあまりに浅はかです。働きながら介護をするという選択肢がないことが本当の問題です。その選択肢がない理由は、2つあります。一つは、任地を選べないこと、もう一つは、介護に必要な時間のために勤務時間が制限を受けること、です。任地を選べないのは、単に労働者の商習慣の問題です。労働者は立場が弱いので、業務命令には逆らえないのです。逆らったらクビなわけです。本来はそれに至るまでに様々な交渉があるべきなのですが、そういうプロセスがあり得ないのが問題だと思います。もう一つは週5の常勤だと介護に必要な時間を確保できないことです。週5の勤務でないとダメというのが普通なので、常勤と介護を両立できないのです。
前者の解決策は、労働者と経営者のパワーバランスを改善することが一つの方法になります。働き方改革は経営者視点なので、むしろ経営者が強くなります。もう一つの方法は労働市場を流動化させることですが、常勤労働者は労働市場が流動的でないことにメリットがあるので、通常は難しいでしょう。
後者の解決策は、常勤=週5という固定観念をなくすことです。では週4ならどうでしょう。ユニクロは10時間x4日という勤務形態を取り入れました。でもうまくいっているという話は聞きません。では、週4で介護との両立はできるでしょうか?状況にもよるでしょうが、焼け石に水でしょうね。
週3だとどうでしょう。たぶん、企業としては、それは常勤とは言わないので非常勤として再雇用する、という提案をするでしょう。であれば、いったんやめるのだから、田舎に帰って親の面倒を見る方法を探る、というのが労働者の発想になるでしょう。実際のところ、それで退職するのだと思います。

週休4日の可能性

僕は以前、週休4日制に多くのメリットがあるという話を書きました。週休4日というのはスローガンみたいなもので、重要なのは多様な働き方を可能にするということです。その実現に必要なのは、皆勤勤務を前提としない組織体制と、ダブルポジションを可能にする年金・保険の法整備です。働き方改革は最終的にそれに向けた法整備であってほしかったんですが、そういう議論は一切なかったですね。たぶん、政治家たちの想像力の欠如の現れでしょうね。あるいは、働き方改革にかかわる識者たちの能力不足かな。
日本人は、現実予測能力がどうも低いのかもしれません。現状を客観的に分析し、根本的な問題点を整理し、最適な解決策を模索するというのは、基本的な方法論のはずです。でも、どうも苦手なんでしょうね。ガラケーは見事にやられました。

働き方改革では、働き方の多様性を目指しています。「働き方」の根源は、何曜日の何時から何時までを労働時間としますか、ということです。それを決めるのは雇用契約ですが、それに多様性を持たせるというのが、働き方改革の基本だと思います。今は、常勤・非常勤、正規・非正規、社員・アルバイトなどの別があるわけですが、それらの定義をフレキシブルにしようという考え方は正しいと思います。これらの分類をやめちゃえ、というのは基本的にはよいと思います。ただ、経営者に有利な変更は厳に慎むべきだと思うのです。

では、どのようにして分類をやめるのかを考えてみましょう。
常勤とは週5で、非常勤というのは週3以下、みたいな感覚がします。でも、それは雇用契約で決めるべきもので、法律で決めるべきものではないでしょう。
正規とは契約変更なしに定年まで働くことができる雇用形態で、非正規とは定期的に契約更改が必要な雇用形態とするなら、それは雇用契約の話であり、法律で決めるべきものではないでしょう。
社員とは業務に対し責任を負う労働者であり、アルバイトとはかなりの免責がある労働者です。例えば、勤務態度が悪いとアルバイトは怒られるだけですが、社員は査定が悪くなります。そいうのが業務に対する責任の有無なわけです。とするなら、それは雇用契約にその旨記載すべきであり、その責任の大きさに応じて給与に差があるのは当然でしょう。そして、これも本質的に雇用契約の問題なわけです。
法律の役割は、不当な雇用契約を防止することとなるでしょう。そのためには、雇用契約における妥当・不当の境界が条文になるでしょう。例えば、他社との雇用契約を阻害するような雇用契約の是非(あるいは条件)、労働者の責任の範囲をどのように雇用契約に盛り込むか、給与の算出方法の標準形あるいは妥当な範囲、年金や保険の取り扱い。

法律はインセンティブを与えるように設計すべき

役人たちとやり取りをする際に感じるのは、彼らは法律やルールというのものは当然守るべきもの、と考えているらしいということです。僕などは、「法律やルールは守らなければならない」⇔「守りたくない」⇔「可能なら守らない」と考えたりします。程度の差こそあれ、法律やルールは守ることにメリットがないと守る気になれないもののはずです。だからこそ、罰則まで踏み込んで条文化するわけです。
罰則によって守られるルールというのは、ルールとしては最悪です。ルールを遵守させるためには監視のコストが発生したりします。警察というのはそういう類のコストです。良いルールというのは守ることでメリットがあるものです。うまくルールを設定すると、みんなが気持ちよく守ってくれるものです。そういう工夫が最近の法律には全く見られないのが残念です。
働き方改革では、議論が紛糾しましたが、利益が対立しがちな労働者と経営者の両方を規制する法律なのに、経営者のメリットが目立つということが理由に思えます。労働者のメリットがわかるような説明があれば、もう少し建設的な議論ができただろうと思うと、とても残念です。
統計は残酷です。もう10年たって、さらに給与水準が下がるような結果になっていないことを祈るばかりです。


2018年6月16日土曜日

再審棄却の高裁決定

袴田事件はまだ続く

2018年6月11日、は袴田巌氏の死刑判決の再審開始決定を不服とした検察抗告の高裁決定があり、再審請求棄却の判決が出ました。再審は当面開始されないことになりました。とても残念です。
https://www.asahi.com/articles/ASL6C64G8L6CUTIL099.html?ref=yahoo
https://www.asahi.com/articles/ASL6C4R5VL6CUTIL027.html?iref=pc_rellink

袴田事件は、袴田巌氏を犯人とする殺人事件で、検察の言い分が二転三転し、次々とあやしい証拠が出てきて、最終的に死刑判決に至りました。ただ、かなり証拠が怪しいので、えん罪事件という意見が多くあります。袴田氏には軽い知的障害があり、検察に詰め寄られるなかで、ポロリとうその自白をしてしまった可能性が高いそうです。

さて、この再審棄却決定を出した大島隆明裁判長はやや異端の判事で、おおむね良心的で頭の良い判決で定評があります。にもかかわらず、今回は高検の言い分を全面的に認める判決でした。ちょっと納得がいかないなあ、というのが大方の見解だと思います。

しかし、この判決には奇妙な点がいくつかあります。
袴田氏は高齢で認知症もあるので、再収監の必要はない、という旨の追記があるのです。これは、裁判長からの、「調停」を勧めるメッセージだと思われます。

日本の裁判制度では、上告した側の主張が上級裁判所で審議されます。検察が上告し、被告が上告しない場合、量刑は重くなることはあっても軽くなることはありません。逆に、検察が上告せず、被告だけが上告する場合、量刑が軽くなる可能性だけが審議されます。

さて、今回の判決では検察の主張が全面的に認められたので、検察は上告できません。なので、袴田氏側が上告しなければ、無実を勝ち取れないものの、袴田氏の死刑執行はなく、収監もされません。つまり、実質的に無実の状態が続くことになります。
逆に、再審開始の判決を出すと、検察は必ず上告し、10年単位での裁判が続くことになるでしょう。袴田氏は高齢なので、再審開始を待たずして寿命がくるかもしれません。あるいは、再審は開始されたとしても、結審まで存命である可能性は低いかもしれません。であれば、このまま平穏な人生を全うするというのが人道的な判断だろう、ということで、名を捨てて実を取る判決を選択した可能性があります。

同じような判決は、これまでも何度かある。

今回の再審請求において、検察は何が何でも過ちを認めないという意思が見え隠れしています。ま、とにかくこの事件の証拠にはひどいものが多いので、再審が始まると検察は相当に苦しくなるのは事実と思われます。
袴田氏が高齢で、健康状態もよくないことを考えると、検察としては時間切れに持ち込むのが最も良いはずです。再審請求の棄却を求める裁判も、4年をかけているのはそのせいかもしれません。

現在の検察のシステムでは、裁判での勝率が検事の成績とみなされています。そのため、裁判で勝てるという確信がなければ起訴しないし、起訴したら証拠をねつ造してでも有罪を勝ち取るという雰囲気があります。しかし、そのようなシステムは明らかに公共の利益に結びつきません。それは正しく裁判を受ける権利を著しく害するものです。だから、検事の成績と裁判での勝率は結びつけないようにすべきだ、という意見もあります。

おそらく、大島裁判長はそういう事情に辟易しているものの、現状を変えることはできないので、検察の手足を封じた(全面的に検察の主張を認める)うえで、実質的な放免を提示したと思われます。

無駄な大岡裁きかもしれない

司法では、今だに「大岡裁き」を理想とする雰囲気があります。それに照らし合わせると、今回の判決は、さらに上級の裁判所がある高等裁判所としての判決としてはよく練られたものかもしれません。つまり、ここでやめるなら、やめられるよ、というメッセージです。
でも、この一連の裁判は、袴田氏の名誉を争うものであるので、その名誉が挽回されない限り、終わらないでしょう。また、この裁判には、検察は間違いを犯すことがないという神話を打ち砕くという意味もあります。この判決では、検察の間違いはうやむやなままです。裁判の支援者たちは決して認めないでしょう。
そしてそのような事情は大島裁判長もよくわかっているはずです。どのような判決であっても裁判が続くのなら、裁判所としては調停的な判決を出しておく価値があるだろう、と考えたはずです。そしてそれが受け入れられないことも承知しているでしょう。ただ、もしかすると袴田氏側は、上告しない可能性も少しはあります。

間違いを犯すことがない=無謬性は、役人のよりどころでした。お上の決定は絶対なので、それを実施する役人に間違いがあってはならないということなのです。現実はそんなことはないので、今ではゆるくなっていますが、決して譲れない場面が最後に一つ残っています。それが死刑判決です。

死刑判決が下ると最終的に死刑が実施されます。殆どの刑は実施されてもある程度は補填が可能ですが、死刑だけは後戻りが決してできません。なので、死刑判決と死刑執行だけは無謬性が必須なのです。その死刑判決に間違いがあったということになると、司法システムに大きな打撃になります。だからこそ、昔の話にもかかわらず、検察は無謬性にこだわるのです。ただ、えん罪を疑われた死刑囚が獄中死してきたことを考えると、司法システムもこの一連のデッドロック的な状態を打開したいと思っているはずです。

裁判制度の近代化が必要じゃないかな


裁判は真実を明らかにするシステムではありません。事実関係を確認し、利益の調整を行い、当事者たちの合意を得るためのシステムです。
刑法犯を裁く場合に、被告が事実関係を認めない場合があり、その状態を打開するために、判事が第三者的な立場で事実認定を行う、という制度が採用されています。なので、第三者の裁定によって当事者たちは納得せねばならないという、強制的な調停制度とみなすことができます。
であれば、事実関係の認定と量刑の決定は別個に判断できるはずです。そういう制度は米国で採用されています。一方、日本では各種の罪に対して個別に量刑が設定されているため、事実関係の認定(罪の定義)と量刑の決定を同時に判断する必要があります。そのような事情があるため、判決では事実関係の認定より量刑に注目が集まります。
その結果、裁判とは量刑を測る制度と認識され、有罪率が99.9%なんて馬鹿げた状態になっています。つまり、裏を返せば、事実関係の認定機能が裁判から失われているということです。これは、裁判システムが機能不全に陥っていること意味しているかもしれません。

えん罪事件の裁判は、そういう機能不全を正そうという一般市民の正常な反応だと思います。