袴田事件はまだ続く
2018年6月11日、は袴田巌氏の死刑判決の再審開始決定を不服とした検察抗告の高裁決定があり、再審請求棄却の判決が出ました。再審は当面開始されないことになりました。とても残念です。https://www.asahi.com/articles/ASL6C64G8L6CUTIL099.html?ref=yahoo
https://www.asahi.com/articles/ASL6C4R5VL6CUTIL027.html?iref=pc_rellink
袴田事件は、袴田巌氏を犯人とする殺人事件で、検察の言い分が二転三転し、次々とあやしい証拠が出てきて、最終的に死刑判決に至りました。ただ、かなり証拠が怪しいので、えん罪事件という意見が多くあります。袴田氏には軽い知的障害があり、検察に詰め寄られるなかで、ポロリとうその自白をしてしまった可能性が高いそうです。
さて、この再審棄却決定を出した大島隆明裁判長はやや異端の判事で、おおむね良心的で頭の良い判決で定評があります。にもかかわらず、今回は高検の言い分を全面的に認める判決でした。ちょっと納得がいかないなあ、というのが大方の見解だと思います。
しかし、この判決には奇妙な点がいくつかあります。
袴田氏は高齢で認知症もあるので、再収監の必要はない、という旨の追記があるのです。これは、裁判長からの、「調停」を勧めるメッセージだと思われます。
日本の裁判制度では、上告した側の主張が上級裁判所で審議されます。検察が上告し、被告が上告しない場合、量刑は重くなることはあっても軽くなることはありません。逆に、検察が上告せず、被告だけが上告する場合、量刑が軽くなる可能性だけが審議されます。
さて、今回の判決では検察の主張が全面的に認められたので、検察は上告できません。なので、袴田氏側が上告しなければ、無実を勝ち取れないものの、袴田氏の死刑執行はなく、収監もされません。つまり、実質的に無実の状態が続くことになります。
逆に、再審開始の判決を出すと、検察は必ず上告し、10年単位での裁判が続くことになるでしょう。袴田氏は高齢なので、再審開始を待たずして寿命がくるかもしれません。あるいは、再審は開始されたとしても、結審まで存命である可能性は低いかもしれません。であれば、このまま平穏な人生を全うするというのが人道的な判断だろう、ということで、名を捨てて実を取る判決を選択した可能性があります。
同じような判決は、これまでも何度かある。
今回の再審請求において、検察は何が何でも過ちを認めないという意思が見え隠れしています。ま、とにかくこの事件の証拠にはひどいものが多いので、再審が始まると検察は相当に苦しくなるのは事実と思われます。袴田氏が高齢で、健康状態もよくないことを考えると、検察としては時間切れに持ち込むのが最も良いはずです。再審請求の棄却を求める裁判も、4年をかけているのはそのせいかもしれません。
現在の検察のシステムでは、裁判での勝率が検事の成績とみなされています。そのため、裁判で勝てるという確信がなければ起訴しないし、起訴したら証拠をねつ造してでも有罪を勝ち取るという雰囲気があります。しかし、そのようなシステムは明らかに公共の利益に結びつきません。それは正しく裁判を受ける権利を著しく害するものです。だから、検事の成績と裁判での勝率は結びつけないようにすべきだ、という意見もあります。
おそらく、大島裁判長はそういう事情に辟易しているものの、現状を変えることはできないので、検察の手足を封じた(全面的に検察の主張を認める)うえで、実質的な放免を提示したと思われます。
無駄な大岡裁きかもしれない
司法では、今だに「大岡裁き」を理想とする雰囲気があります。それに照らし合わせると、今回の判決は、さらに上級の裁判所がある高等裁判所としての判決としてはよく練られたものかもしれません。つまり、ここでやめるなら、やめられるよ、というメッセージです。でも、この一連の裁判は、袴田氏の名誉を争うものであるので、その名誉が挽回されない限り、終わらないでしょう。また、この裁判には、検察は間違いを犯すことがないという神話を打ち砕くという意味もあります。この判決では、検察の間違いはうやむやなままです。裁判の支援者たちは決して認めないでしょう。
そしてそのような事情は大島裁判長もよくわかっているはずです。どのような判決であっても裁判が続くのなら、裁判所としては調停的な判決を出しておく価値があるだろう、と考えたはずです。そしてそれが受け入れられないことも承知しているでしょう。ただ、もしかすると袴田氏側は、上告しない可能性も少しはあります。
間違いを犯すことがない=無謬性は、役人のよりどころでした。お上の決定は絶対なので、それを実施する役人に間違いがあってはならないということなのです。現実はそんなことはないので、今ではゆるくなっていますが、決して譲れない場面が最後に一つ残っています。それが死刑判決です。
死刑判決が下ると最終的に死刑が実施されます。殆どの刑は実施されてもある程度は補填が可能ですが、死刑だけは後戻りが決してできません。なので、死刑判決と死刑執行だけは無謬性が必須なのです。その死刑判決に間違いがあったということになると、司法システムに大きな打撃になります。だからこそ、昔の話にもかかわらず、検察は無謬性にこだわるのです。ただ、えん罪を疑われた死刑囚が獄中死してきたことを考えると、司法システムもこの一連のデッドロック的な状態を打開したいと思っているはずです。
裁判制度の近代化が必要じゃないかな
裁判は真実を明らかにするシステムではありません。事実関係を確認し、利益の調整を行い、当事者たちの合意を得るためのシステムです。
刑法犯を裁く場合に、被告が事実関係を認めない場合があり、その状態を打開するために、判事が第三者的な立場で事実認定を行う、という制度が採用されています。なので、第三者の裁定によって当事者たちは納得せねばならないという、強制的な調停制度とみなすことができます。
であれば、事実関係の認定と量刑の決定は別個に判断できるはずです。そういう制度は米国で採用されています。一方、日本では各種の罪に対して個別に量刑が設定されているため、事実関係の認定(罪の定義)と量刑の決定を同時に判断する必要があります。そのような事情があるため、判決では事実関係の認定より量刑に注目が集まります。
その結果、裁判とは量刑を測る制度と認識され、有罪率が99.9%なんて馬鹿げた状態になっています。つまり、裏を返せば、事実関係の認定機能が裁判から失われているということです。これは、裁判システムが機能不全に陥っていること意味しているかもしれません。
えん罪事件の裁判は、そういう機能不全を正そうという一般市民の正常な反応だと思います。
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