ヤバいネット記事を見つけた
https://news.yahoo.co.jp/articles/b9f03a7e060e2987eedb37b6ad12481042b33c7c
「深刻な学力格差、英語嫌いの子が増えた根本原因 英語教育学の専門家が戦慄した調査結果の数々」
小学校の英語教育の効果を調査した結果報告と分析。要点をまとめると、
- 小学校6年生の英語嫌いの割合が、20%から30%に増加した
- 高校入試時点での英語の成績は二極化している
- 中学校までで習う単語数が倍増して、中学校での落ちこぼれが増加した
- 中学校の英語教員の70%は教科書が難しくなったと感じている
- 分厚くなった教科書を履修するために、昭和時代のような一斉授業形式に戻った
どれもヤバい内容で、ジョークなら面白いですむけど、子供たちが現在進行形で犠牲になっているというのはあまりにも悲劇だ。小学校、とくに低学年での授業では、勉強をさせるというよりは、その科目を好きになってもらうというのが最も重要だ。勉強を教えようとしても子供が嫌がってまったく教えられないというのは、子育ての中で何度も経験した。そういう意味で、項目1は罪深い。第一目標が失敗に終わっている。
「使える英語」を目指すなら、語彙を増やすことは重要だ。実際、中学校までで習う単語数が1200語から2200語に増加したそうだが、まだまだ足りない。日常会話が可能なレベルでは5000語必要というのが常識だからだ。まだ半分。高校でさらに倍増というのが目論見だろう。でもそれは無理だ。現状、高校卒業時点でおよそ2500語くらい。しかも、辞書の第一義との1対1対応のみ。そりゃ、英語が使えないはず。それを何とかしようと、無理やり語彙量を引き上げるという計画だったのだ思われる。見事に失敗している。
語彙を増やすために教科書が分厚くなって、授業時間が足りないので、マスエデュケーションに逆戻りって、制度変更する前に予想された事態のはず。文科省の役人は頭が悪いようだ。知ってた。
テストの問題が指摘されている
小学校での英語必修化では英語が成績評価の対象になる(必修化とはそういうこと)ため、小学校5年生からは英語のテストが実施されているそうだ。これが英語嫌いに拍車をかけていると指摘されている。僕も英語のテストには反対の立場だ(英語のテストを廃止してみる?の記事)。
さらに記事では、増加した英語嫌いの状態で中学校に上がるので、中学校の英語の先生はパニック状態だという指摘がされている。中学校の先生からすると、小学校で英語を少し学んでくるので楽できそうだと期待していたら、最初から英語嫌いの子供がやってきて、むしろマイナススタートという地獄絵図。さらに内容が増えたので、子供たちに手がかけられず英語嫌いは悪化の一途。崩壊寸前?いやぁ、見事な大失敗。
パソコンやスマホを活用したマルチメディア教材の導入で学習効果を上げようという目論見も、「近年の研究では、スマホやパソコンによる学習は脳が活性化しにくく、記憶定着率が低いことが指摘されている」とあり、万事休す。
最後は、
「望まれる外国語教育改革は、過重なノルマや数値目標で子どもを追い立てることではない。すべての子どもに外国語を学ぶ喜びをもたらし、「ことばの力」と「協同する心」を育てることであろう。」
と締めくくっており、指摘項目1がそもそもの問題だという論調。僕もそう思うよ。
悪いのは誰か?
教育制度改革というのは影響範囲が大きい(1000万人ちかい教育年齢人口全体に波及する)ので、大きな改変は慎重になるべきだ。教育は本来は年次進行すべきで、小学校1年生から高校3年生までを文科省の直接管轄するなら、改革の効果は12年後にしか評価できない。途中修正が極めて難しいというのが教育制度だ。ゆとり教育は導入にも廃止にも数年かかっており、脱ゆとり世代は今ようやく社会に浸透してきたところだ。
教育制度改革は範囲・時間ともに大がかりにならざるを得ないので、小規模試験を実施して、問題点を事前に修正しなければならないはずだ。その小規模試験をしているのは、主に教育大学ということになる。
教育大学では、大学の教員たちが学校教育を改善する方法を日夜研究している。逆に言うと教育改革について何も提案できないようであると仕事してないとみなされてしまう傾向にある。研究の中では様々な試行錯誤が行われ、その時の実験、動物に相当するのが教育大学附属小中学校の子供たちということである。
教育大学付属小中学校は長期間にわたる一貫教育が行われる。しかも国立なので、しばくよりも学費は低くお得ということで相当な人気になっている。しかしながら、あまりに先進的な教育は保護者からの評判が悪いこともあって、稀に問題になっている。教育大学付属小中学校で行われる実験的な教育の試行錯誤は成功が保障されていないので、まあまあの頻度で失敗していると思われる。ところが教員の評価は失敗すると下がって、失敗は隠蔽され、あたかも成功したかのように報告がなされることになる。そういった玉石混交の教育改革案が文科省に奏上されることになる。
文科省の教育関係の役人は教育制度の改革に成功すると評価が高くなるので、常に教育を回復したいと計画することになる。教育大学から上がってくる報告書を見て、良さそうなものピックアップして採用することになるだろう。
そのような教育制度改革案は教育大学ですでにパイロット試験が行われているので、本当言えば問題点の洗い出しとかそういうものが済んでいて、拡大試験をしなくても安全に施行できると思っても仕方がないかもしれない。あるいは拡大試験をしているのかもしれないが、拡大試験には相当な予算を使うことになるので、試験結果が悪い場合に計画を白紙撤回するというのは非常に難しい。その結果、多少の問題があったとしても、目をつぶって思い切った教育制度改革が行われることになるのだろう。
悪いのは教育の研究者、文科省の役人。被害者は子供たちである。
わずかな光明
話を教育全般まで広げてしまうとまとまらない感じなので、英語教育に絞ると、リンクの記事には少しの光明が見いだせる。
- 英語教育において重要な指標として、英語が嫌いかどうかが重要
- 小学校英語にテストを導入したことが「英語嫌い」のきっかけになっている
- タブレットなどの利用は効果を期待できない
語学に限らず、勉強の対象を好きになるということはとても重要だ。特に語学はその傾向が強い。しかも、特定の言語を好きになる理由は、言語そのものへの興味だけではなく、その言語がもたらす利益の側面も大きい。外国語の習得によって、その言語の話者たちとコミュニケーションが取れるようになるというのは、昔からある語学習得の利益であり、特に、特定の人(友人・恋人など)との会話のために言語を学ぶケースも多い。
現在、日本語は空前の人気を誇っており、外国人はこぞって日本語を勉強している。理由はマンガやアニメといった日本の誇るコンテンツを楽しむためである。外国語文学の研究者も同じような理由で当該言語の学習を欠かさない。語学は他の教科と異なり、実用上のメリットがはっきりしているということがポイントだ。
英語を好きになってもらうために、英語話者と友人になるとか、英語コンテンツを視聴するというのが一つの方法になるだろう。インターネットの普及により、遠隔地との会話が簡単になっているので、これを利用しない手はないと思う。海外の学校と会議システムでつないで垂れ流しておくだけでよい気がする。
英語テストが英語嫌いの原因であるというなら、英語テストをやめてしまう、あるいは形式を大幅に変更するとよいだろう。音楽、美術、体育など、多少の好き嫌いはあるけど、「やりたくない」ほど嫌いな人はほとんどいないはずだ。多少出来が悪くてもだれも文句を言わない。英語もこれらの教科と同じような形式にすればよい。すくなくとも、自由に会話できるレベルに到達するまでは。
タブレットなどを使った動画視聴の活用は良いと思うが、それに頼るのは良くないのだろう。AIを使った英会話学習が少しずつ進んでいて、確かにAIは英会話の練習にとても良いように思う。電子機器を用いた学習を何らかの形でモニタリングできる仕組みが必要に思う。
少し話は変わるが、最近、「ディスレクシア」という言語障害が学校現場で認知されており、対応が進んでいる。ディスレクシアとは、知能に問題がないのに、文字が書けなかったり、読めなかったりする言語障害である。文字が書けないというのは、鉛筆等を動かす運動機能と言語機能の連携がうまくいかないというケースが多いらしく、文字は書けないけど、タイピングはできる、という場合が多い。そのため、高校などではタイピング専用端末(基本的にポメラ)を使っていて、大学入試でも使いたいという申請が結構な頻度である。基本的に許可しないのだけど、その理由は不正の可能性を排除できないということである。電子機器の場合、ソフトウェアに手を入れられると不正を見破ることが極めて困難になる。かといって、大学側で端末を用意すると、端末購入費がかかるうえ、受験生がその端末に慣れていないと不利になる。大学としてはそのような端末は入試の時のみに使う可能性があるだけの物品であり、1年以上倉庫にしまっていて、いざ使おうと思ったら故障しているなんて場合も想定される。買い替えるにしても、多分特注のマイナーな端末は受注生産に違いなく、調達に数カ月かかって、入試に間に合わないなんて事故も予想される。潤沢に資金があればよいけど、文科省は大学の予算を削りに削って大学にお金はない。
入試に限らず、電子端末による試験を導入する方が効率的だと思うのだが、カンニング対策が問題になる。端末を試験にだけ使うのはもったいないので、講義などでの活用を当然考える。それなりの機能を持つ電子端末はすべからくネット接続できるようになっている。講義で使うのならネット接続は必須である。でも試験の時はネット接続はまずい。ネット経由のカンニングに対して有効な手段があれば問題なのにね。
ディスレクシア対応を大学が断るのは「教育の機会均等」という日本国憲法の精神に反するので心苦しく思っている。だから、文科省にカンニングできない電子端末を規格化してもらうのが最も良い方法だと常々上奏している。そういうものがあれば、通常の授業や試験でも活用できるはずだ。ま、文科省はそんな能力がないので、全然対応しないだろうけどね。
ともかく、学校における英語教育、とくに低年齢層については、制度改革の効果の指標として「英語好き」「英語嫌い」を筆頭に挙げてもらうのが最も良いと僕は思っている。テストの成績は、勉強時間×集中力に比例する。「好き」であれば、時間も増えるし、集中も増す。そんな簡単なことがわからないなんて、信じられない。
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