試験を受ける人と作る人
僕は職業柄、試験問題を作ることがあります。大きく分けて、講義の試験問題と、入試の試験問題があります。自分が試験を受ける側だったときは、試験問題というのは、できそうでできないギリギリのラインを突いてくるものだと思っていました。もっと言えば、ゲームの一種だと思っていました。でも、問題を作る側の思いってそれとはずいぶん違うものだと、今は感じています。試験を受ける側と作る側で大きなギャップがあって、それが教育に良くない影響を与えているんじゃないかと感じています。試験を受ける側が、試験を作る側の意図を理解すれば、勉強の方向性が良い方向に変わると思うのです。だから、試験問題を作る側の心理を吐露することで、何かしらの利益があると僕は思います。
定期試験の問題作成
定期試験の目的は、学習効果の確認です。講義(授業)で言及した事柄をちゃんと理解しているか、あるいは実践しているかを計測します。講義内容には、いくつかのレベルが存在します。すなわち、必ず理解しているべき内容、実践が期待される内容、できたらいいなという内容という具合です。実践が期待される内容というのは、例えば、英作文や数学の式変形などをイメージしてください。日常的な学習では、これらに加えて、日常的な訓練を欠かしていないか、ということも問題になります。例えば、漢字や英単語の学習です。定期試験では、これらの項目をなるべくまんべんなく問うことになります。概ね60%くらいは「必ず理解しているべき内容」が占めます。問う方法も平易です。この部分の得点率は80%~90%を想定します。そして20%~30%は、「できたらいいなという内容」になります。「できたらいいなという内容」は得点率が50%くらいになるように調整します。すると、定期試験では、平均点が70%~75%になります。「必ず理解しているべき内容」の正答率が低い場合、教える側に問題があると考えるべきで、授業・講義の形式や内容を見直す目安になります。
まとめると、定期試験では、学習目標に沿った問題設問がなされ、学習効果を確認するための内容になっているということです。応用力や対応力を測るために、少し難易度の高い問題も含めますが、それは将来予定される入試に向けて、偏差値を算出するために必要なもの、という扱いです。100点を簡単に取らせないという教育的配慮もあるかもしれません。
センター試験の問題点
入試の場合、得点分布の分散が大きくなるような問題が良いとされています。得点が低すぎると受験生の気持ちが萎えるので、平均点が60点くらいになるように配慮します。また、内容に関する細かな要請はありません。言い換えると、定期試験と違って、ゲームの要素が大きいということです。単に得点分布を広げるのが目的であれば、運が左右するような設問にするのが一番です。例えば、極めて難しい4問択一とかで正答率が25%だとほぼ乱数なので、得点分布=標準偏差が最大化されます。また、一問間違えるとその後の設問が全滅になる将棋倒しタイプとかは、ちょっとしたミスや運で得点に大きく得点が変化し、連鎖する設問の標準偏差が直和の形になります(通常は、標準偏差の2乗が和の形になる)。運やミスは偶然が支配するので、得点分布は極端に広がります。しかし、それでは得点と受験生の能力の対応が失われ、本来の入試の意味が損なわれます。模試や私立大学の入試は運の要素が多いような気がします。
センター試験は科目によって異なりますが、運の要素を排するための工夫がいくつか見られます。特に顕著なのは、物理です。物理は本来は深い考察が重要な科目です。考察が深いということは、序盤でミスると最後まで到達できないということです。それを避けるため、センター試験ではそもそも序盤・終盤をなくし、比較的シンプルな短い設問を、たくさん出題するように最適化しました。その結果、問題量が極めて多くなり、速読即解ゲームになりました。それはつまり、本来の物理とは全く異なる代物なわけです。
社会科は別の進化を遂げました。歴史などの特定の領域について、段階的に細かな内容を問うようになりました。その結果、難易度が高い設問は、重箱の隅をつつくようなものになりました。また、そういう形式では、問題量が増える傾向にあるため、出題範囲を広くとることができません。すなわち、ヤマが当たるか当たらないかというギャンブルゲームになりました。
現代文では、複雑な論理を問う問題が出題されるようになりました。そのためには、かなり難解な文章を題材にする必要があります。高品質な論説文というのは、問題設定を適切に絞り込むことで、複雑な論理を避け、平易で理解しやすく書かれています。こうした高品位な論説文では、現代文が取り扱いたい複雑な論理が排されています。そのため、現代文では、比較的低品質の論説文を題材にする傾向があるようです。高校生たちには「良い文章」を読ませたいと思うのが親心ですが、実際には「良くない文章」を一心不乱に読ませるという、まったく不毛なことを行っています。
他にも多くの問題点を指摘することができますが、そういうことが積み重なって、センター試験を廃止する、みたいな短絡的な解決に傾いていて、とても心配です。
2次試験で問われること
僕が携わるのはセンター試験ではなくて、2次試験の方です。2次試験ではセンター試験では測れない能力の測定を目的にする傾向があります。そして、かなりの自由度が与えられます。自由があるということは、その選択に対して責任を持つということです。自分たちの哲学に基づいて、問題作成に取り組むということが求められるのです。「哲学」なんて難しい言葉を使いましたが、対象が入試ですので、そんなに複雑にはなりません。我々が入試の問題作成をする場合、最初に考えるのは、「何のために入試をするのか」です。結構哲学的でしょ?
もう少し具体的にいうと、「どんな人に合格してほしいか」ということです。これをもっと掘り下げてブレイクダウンすると、「入試で何を測るのか」「それはどうやったら測定できるのか」というのが最終的な問いになります。その答えとして、入試の問題が出来上がります。
どんな人に合格してほしいかというのは、一般論として述べることができます。
「運の良い人」は要りません。
「勤勉さ」はとても重要です。
「正確さ」「集中力」は重視します。
「独創性」は、あった方がよいですね。
勤勉さ・正確さ・集中力・独創性は、大学や学科・分野に応じて重みが変わります。東大は勤勉さを高く評価し、京大は独創性を見逃さないという印象があるかもしれません。
以上に基づいて、具体的に入試の問題作成を考察しましょう。
まず、運の要素を排するには、選択問題を避けるという方法が有効です。また、設問間の依存関係も避けるようにします。
「勤勉さ」とは、どれだけしっかり学習してきたか、と言い換えることができます。例えば、設問で扱う知識範囲を広くとることで、勤勉さを測ることができます。その結果、周辺知識を問う場合が多くなります。また、教科書の通り一遍の知識ではなく、実体験や観察に基づく問いが設定される傾向にあります。例えば、ふつうは色だけ尋ねる場面で、においを考察させるなんてのは、気が利いています。
「正確さ」は計算をさせると簡単に測ることができます。「集中力」は少し複雑な誘導についてこれるかどうかで測ることができます。「独創性」を測るには、数学なんかで別解を複数用意しておくという方法がとられるかもしれません。
さらに、難易度のグラデーションに注意し、受験生の能力と得点が強く相関するように心がけます。受験生の運や記憶が強く反映されるような問題は徹底的に排除されます。
問題作成側がそのように考えるということは、問題を分析すればわかるはずです。であれば、受験生側の戦略として、問題作成者が合格してほしいと望む人物を目指すというのが合理的になるはずだ、というのが、問題作成者の意図するところです。でも、実際のところは、受験生は手っ取り早く得点を上げたいので、小手先の傾向と対策に明け暮れているように思います。
そういう不幸な事態の原因は、我々問題作成者の思いというものを、受験生、高校等の先生、入試関連業界の人々が、ちゃんと理解していないことだと思うのです。問題作成業務というのはトップシークレットで、問題作成者が思いを伝える機会はほとんどありません。しかしながら、そういう状況は受験システムひいては、高校教育に歪みを与えているんじゃないか、と僕は思っています。通常の作問において、作問者は受験生に問いたい明確なテーマを持っています。そのテーマは作問者の良心に基づいており、学校教育に対するメッセージが含まれています。それをきちっと伝えることで、高校等での教育に良い影響があると僕は思っています。

入試をギャンブルにしてはいけない。
問題作成が教育者を鍛える
ある入試の問題作成の会議で、ある先生が「我々は他人の優劣をランキングするという、罪深いことをしようとしている」とおっしゃいました。入試というのは、無い方が良いものなのです。本来は、合格点が取れたら、本学での教育が可能であることが証明されるという、資格試験のようなものであるべきなのです。入学定員というものが設定されているので、相対的に優秀なものを合格として、入学を許すわけです。不合格の人にも、本学で学ぶ能力が十分に認められるのです。だから、皆、一発勝負でギャンブルするのです。それは本来あるべき入試ではないのです。その言葉を聞いてから、僕なりにいろいろ考えました。その中で、試験をゲームのように考えないということを真剣に実践するようになりました。他人の人生をゲームで決めるなんて、不謹慎この上ないですからね。
そんなわけで、問題作成を厳密な基準に従って行うようになりました。通常の講義の場合には、期末試験で問う基準を自然に超えられるように、講義内容を整理するようになりました。それはつまり、教育の質について、真剣に考えるようになったということです。
大学の講義では、講義内容を自分の裁量で決定し、計画し、わりと自由気ままに講義します。そういういい加減な雰囲気は、講義を受ける側にも伝わります。そういうのはダメですよね。
期末試験である知識の理解度を問いたいとします。でも、なぜ僕はその知識を学生に理解してほしいのでしょう?その知識を理解するとは、どのくらいの深さを想定するのでしょう?なぜその深さが必要なのでしょう?そういうことに一通りの決着をつけたのち、その知識を講義するには、どのような方法が最適でしょう?と問います。すべての知識を深く掘り下げるのは無理です。なので、それぞれの知識について、あるいは知識体系について、学生はどこまで理解すべきか、を細かく設定します。とても骨の折れる作業です。でも、そういうことをしないと、筋の通った講義にはなりません。逆に筋の通った講義をするには、ゲームではない試験本来の姿を追求するという作業が、とても大事だと思っています。ビジネスの言葉で言うなら、アウトプットを常にイメージする、ということです。
逆に、試験問題を作る作業に真剣に取り組むと、教える側の意識もちょっと変わってくる、と思うのです。高校の先生は、「大学入試のために」定期試験をする傾向が少なからずあります。すなわち、「これに関連する内容が入試によく登場するので、定期試験でもテストしとかなきゃ」ということが当たり前のようになっていると思うのです。本来は、「学生(生徒)には、これを知っておいてほしい」ということをテストすべきです。そのためには、それをテストする理由を、教師と生徒で共有している必要があります。そういうコンセンサスに達するには、なぜその科目を勉強するのか、ということに対して、入試対策以外の意味を見出している必要があります。それが、本来の教育だと僕は思います。
理科なんかは、動機づけが簡単です。教えたい知識に関連した事象について、説明を試みると、その知識が不足するために失敗します。そこから、勉強が始まります。化学だったら、酸化還元と錯体の化学の導入の際に、鉄はさびると赤茶色になり、銅はさびると緑色になるという紹介をするだけで、色って何だろう?となります。さらに、古代より、様々な顔料(絵具)が発明されてきて、その多くが金属酸化物であるというのは、一連の勉強の締めくくりにふさわしいエピソードです。あるいは、陶磁器の絵付けの話も面白いと思います。そういう動機づけをしっかり行うというのが教育だと思います。
試験問題を作成する時には、大きな自由があります。自由の裏には、責任があります。つまり、ちゃんとした理由を説明できないへんてこな問題を出題してはいけないのです。逆に、出題に値する問題・知識って何だろう?と問うことになります。そのとき、大学入試対策という、安易な理由を排除してほしいのです。大学入試の問題作成者たちは、大学入試を取り巻くいびつな環境を改善したいと思っているのです。だから、大学入試対策が無駄になるような問題を作成しようと頭をひねっています。高校が、大学入試対策をあきらめない限り、いたちごっこが続きます。この連鎖を断ち切るのは、入試改革ではなく、高校の先生方です。

0 件のコメント:
コメントを投稿