2017年5月25日木曜日

ツーマンセルを基本にする

関連記事:週休4日

週休4日はハードルが高い

僕は何年も前から週休4日で、副業を持つという働き方が良いと思っています。そのことについては、「週休4日のすすめ」に書きました。でも、それって、組織の理解とか社会制度とかいろいろクリアしないといけない課題が多くて、なかなか踏み切れません。
そこで、折衷案として、すべての業務をツーマンセルにして、所属を2重にするというのを最近提案しています。週5での勤務のうち、3日弱はメインの職場、2日強は別の職場で別の業務をするというやり方です。一人の人は週3でしか関われないので、業務に支障をきたしますが、それは同じような事情を持つ別の人が補います。結局、すべての業務の担当者が2名ずつ(ツーマンセル)で、日毎に交代するというわけです。実質的にメインの業務は週休4日で、サブ業務が副業になります。これだと、組織内の取り決めだけで、実質的な週休4日制を実現できます。

ツーマンセルのメリット

週休4日制のメリットをおさらいしておきます。

  1. 常に交代要員が確保されているので、休みを取りやすい。
  2. 最低限の収入を確保しつつ別のこと(起業やボランティアなど)にチャレンジできる。
  3. 子育てや介護などに参加しやすい。
  4. 複数の職場を比較できるので、業務改善が進みやすい。
  5. 新たな職能の発見につながる。
  6. 転職が促進され、人材が流動化する。
  7. 引継ぎが必要ないので、人事異動が容易。
  8. 専門的な職能を持つ人材を、市場調達しやすい。
  9. 一時的な雇用調整が容易。

ツーマンセル型でもこれらのメリットのほとんどは継承されます。ただし、転職は促進されません。その結果、人材が流動化しないので、人材の市場調達は従来のままです。雇用調整として、メイン業務のみとすれば、それはワークシェアリングそのものです。
でも、そもそも社会の理解が必須な週休4日制を、会社の理解だけで先行導入するというのがツーマンセル型なので、社会へのインパクトが最小限にとどまるのは仕方がないことです。そう考えると、ツーマンセルによって、週休4日制のメリットを現状制度の限度いっぱいまで享受できると期待できるわけです。

いくつかの会社の人に提案してみた

僕は、いろんな会社の人と話す機会があります。ほとんどは、研究の末端の方なんですが、管理職の人たちもいて、そういう場合に時折、週休4日制を提案しています。さすがに、びっくりされます。
最近は、そのあと、ツーマンセル型の業務形態の話を続けています。すると、これならできるかも、と思ってもらえます。日本の学校教育では、休まない・遅刻しないということを徹底しており、それは大人になっても美徳とされています。それは日本の良い面だと思いますが、それに経営があぐらをかいて、欠勤がないことを前提に組織と業務を構築してしまっています。その結果、休めない体制が出来上がっているのです。
普段はよいのですが、病気やケガで休まざるを得なくなったとき、組織は大ダメージを受けます。関係者たちは大騒ぎになるわけで、しばらく会社勤めをすれば、数年に1回くらいそういうことを経験するものです。病気やケガは一定確率で発生するものです。このようなイベントは、経済用語でリスクと言います。日本の組織は、リスクがヘッジされていない状態にあると理解できます。であれば、ヘッジすれば改善されます。ヘッジの方法は簡単です。互いに各自の仕事を交代できるようになっていればよいのです。

人材リスクのヘッジ法

人員の入れ替えが多く発生する組織ではそのリスクをヘッジすることが重要なので、ヘッジの方法が発達します。アルバイトのシフトが典型例です。
一般のアルバイトが行う業務は、基本的に誰でも対応可能です。ある程度は訓練が必要だったりしますが、特定の業務について、一人のアルバイトしか対応できないようなものは、あり得ません。もし、そのアルバイトが辞めちゃうと、業務が滞りますからね。そして、アルバイトは必要な人数(スロット)より多くの人数が常に登録されています。つまり、バックアップが担保された状態にあるわけです。組織は、登録人数がスロットより多くても、余裕が少なくなると募集をかけます。常に十分な登録人数が確保できて、人手が余っている状態が通常なのです。シフト表を綿密に作成することで、業務を効率的に配置します。

愚痴

日本の組織では、登録人数がスロットに一致するか、やや足りないくらいで、通常運転になっています。正社員の場合、登録人数×給与が人件費総額で経費になって、利益を削りますから、登録人数を足り内気味でむりやり業務を行うと、経営が楽になるわけです。そのような無理な経営は、欠勤がないことが前提になっています。それでは、仕事がきついし、休めないのは当たり前です。しかもそれは経営者の問題で、だから、政府は経営者に業務改善を指示します。しかしながら、日本の経営者は無能なので、コストカットでしか利益を上げられない状態にあり、結局状況を改善できず、社員に効率化を指示します。社員はすでに精一杯効率化をおこなっており、余力はないので、何もできません。そうすると、業を煮やした政府が再度経営者に指示を出し、ということが延々と繰り返されています。不毛です。
実際のところ、楽な業務とキツイ業務があって、その配分を何とかすれば、少しはマシになるよね、みたいなことはやっているかもしれません。でも、キツイ業務の負担を分散するというやり方だとコストが増えるので、楽な業務を束ねてキツイ業務に近づける方向で調整されます。すると人が余るので、リストラしてコストカットします。そうやって何十年もやってきて、現在に至っています。
理想的な解は、キツイ業務を分散して、楽な業務にするんだけど、コスト増につながらないようにする、というもののはずです。そのためには、業務にかかる単価を抑えるしかありません。そこから、「同一業務同一賃金」という発想が出てきます。でも、これはうまくいきません。なぜなら、社員は業務を選べないからです。アルバイトの仕組みがうまく機能するのは、アルバイトは登録時に業務を選んでいるからです。そして、その仕組みがうまくいくのは、アルバイトは仕事が無くても生死につながらないからです。業務の選択が生計に直結する場合は、極めて悲惨な状況が予想され、危険です。

実質的に行うのはシフト表の作成

ツーマンセル型の業務形態は、安全に「同一業務同一賃金」を導入する折衷案にもなり得ます。基本的に業務に応じて賃金を設定することができるはずです。社員は、能力に応じてある程度の希望によって業務を選択してもよいでしょう。あるいは、2つ持てる業務のうち、一つは業務命令で、もう一つは選択性というのもよいでしょう。希望が完全にかなうとは限りません。希望が叶う場合とかなわない場合で単価(賃金)に差をつけることもできます。
実際の運用にあたっては、シフト表をきっちり作成することだけが重要になります。ツーマンセルで、組み合わせが流動的だと、互いに互いの業務を監視・評価することになるので、業務改善が進みますし、より効率化します。今まではチーム制で同じようなことをしていたかもしれません。でもチーム制だと個々の責任があいまいになりがちだし、なれ合いが発生します。流動的なツーマンセルでは、なれ合いは発生しにくく、強制的な配置転換によって、モラルの向上が期待できます。
シフト表の作成という管理業務が増えますが、管理者の実質的な業務は低減されると思います。ツーマンセルでは、担当者同士の意思疎通が必要です。言った言わないの水掛け論にならないように、明文化することになります。それはつまり、勤務実態≒日報です。業務実態を把握するには、そのコミュニケーションを保管し、必要に応じて参照することで、実質的な目的を達します。通常、管理者には、個々の業務実態をまとめて報告する作業が課せられますが、ツーマンセルでは担当者同士が、お互いを管理する関係にもなるので、業務に問題があれば、かなり早い段階で発覚するようになります。管理者は、現場からの苦情を捌くだけで、実質的な管理になるということです。
この仕組みは、アルバイトの勤務実態を観察すると見つけることができます。一般に、アルバイトに単独でお店を任せるということはしません。牛丼チェーンでのワンオペが問題になりましたが、労働が過酷という問題以外に、勤務実態のモラル低下の問題の方が深刻です。アルバイトはお店の経営とは潜在的に敵対関係にあるので、お店の収益をちょろまかすことに関して、デメリットがありません。発覚するとクビになるかもしれませんが、元々長期契約ではないので、クビになっても痛くもかゆくもありません。
そのようなアルバイトでも、ちゃんと経営が成り立つのは、つねに複数の人で業務を遂行しているからです。お互いがお互いを監視・管理している状態なので、歯止めになるのです。しかも、本人たちは、お互いを監視・管理していることを意識しませんので、気持ちよく働けるわけです。
ここからわかる教訓は、一つの業務を複数の人で共有する仕組みは、管理業務を大幅に圧縮する、ということです。日本の人件費の多くは、管理業務に費やされているわけで、アルバイト導入で経費が圧縮されるのは、管理業務が間接的に圧縮されることも重要な要素だと理解できます。

隗より始めよ

他人に言うばっかりじゃなくて、自ら率先してみよう、と思いました。でもよく考えると、僕は根っからの自由人なので、週休4日というか、週に3日も一つの仕事をすることがない、ということに気づきました。気晴らしがてらに、いろんなタイプの仕事をミックスしているので、もともと本業は週休4日くらいで、のこりの時間を本業以外に充てているんですね。例えば、この記事のようなことを考えたり、それをお客さんに話したり。それって、本業とは違うんですよね。そもそも、僕のお客さんは、僕の本業にかかわる人の方が少ないしね。
僕は、本気で副業を考えようかな。本を書きたいと思っていたし、週3日は研究で、週3日は物書きに充てるかな。ただし、研究でも論文絡みだったりするし、そうすると、物書きが本業になるのか。難しいね。

さて、ほとんどの業務はツーマンセルにできるはずですが、個人の特殊な才覚を利用した仕事は替えが効かず、ツーマンセルにできません。それは組織にとってはリスクです。この話は、また別の機会に。




2017年5月2日火曜日

SSHにモノ申す

SSHって知ってますか?

SSHとは、Super Science High-schoolの略で、先進的な理科教育を目指した高校生向けのカリキュラムです。文部科学省が選定した高校に対し、高度な理科教育実現のための予算を配分します。高校では、SSH対応の特別コースを設置し、SSH用のスペシャルな活動を実施します。スペシャルな活動というのは、具体的には、大学の先生を招いての講演会(出張授業)や、夏休みや放課後を活用した課題研究(先生の指導付きの自由研究)などです。さらに、合宿をやったり、発表会をやったりします。成績優秀者は研究成果発表の全国大会に参加します。高校生たちを「理科」の中で競わせて、理科の英才教育を施そうというわけです。

SSHが始まったの2002年で、様々な批判を浴びながらも、規模を拡大しつつ継続しています。類似の事業で、SGH(Super Global High-school)があり、どちらかというとこちらは文系向けとなっています。

SSHのきっかけ

世界的にみると、経済的に豊かになると理科離れが深刻になる傾向があります。アメリカでは、勉強ができる子は、大学で金融を学び、証券会社で儲けようとします。その結果、アメリカの大学の理系では、アメリカ出身者の割合が極めて低くなっています。

日本ではそこまで極端なことはないのですが、それでも理科離れが深刻化しています。その理由の一つに入試があります。理系の大学はほとんどが国公立で、ちゃんとした入試が実施されます。そのため、ちゃんと勉強しなくては大学に行けません。また、数学などは、知識の積み重ねが大事で、一度挫折してしまうと取り返しがつきません。そのため、理系の大学を受験する段階で、かなりのセレクションを受けるのです。そのため、理系は損だ、大変だ、という評判になり、人気が低迷しています。ちなみに、文系は、私立大学が多く、無試験での入学が半数を超えているんですよ!
その傾向を如実に感じ取ったのが、中学校や高校の先生方です。でんじろう先生の理科実験パフォーマンスが流行ったあたりから、理科に対する興味を駆り立てれば、理系を目指す子供が多くなる、という論理で、理科啓蒙活動が活発化しました。
一方、大学も学生をしっかりと確保したいため、高校と大学の連携を活発化してきました。その先陣を切っていたのが、東京工業大学とその付属高校です。東工大付属高校は、東工大の先生の講演、及び東工大の施設利用を含む課題研究(自由研究)を目玉としたカリキュラムを早くから実施していました。時折、その研究成果がPhysical Reviewなどの一流科学雑誌に掲載され、新聞で報道されたりしていました。その活動を陰で支える教師陣にはかなりの苦労があったはずですが、そんな苦労話をすると高校生の成果とみなされません。それは公然の秘密でした。その華々しい成果に官僚が目をつけ、東工大付属高校の活動モデルを全国に拡大適用する事業としてSSHが始まりました。東工大付属高校の理念は素晴らしいですが、高校生が主役であるという建前を前面に出しすぎたのが問題でしたね。SSHでは、東工大付属高校の先生方の苦労が、全国に拡大適用されることになりました。

SSHでは何をやりたかったのか?

そもそも論として、SSHでやりたかったのは、高校生たちの理科に対する興味を向上させ、将来有望な研究者としての素養を早くから醸成することでした。この論理にはいくつかの問題点があります。理科への興味と、研究者としての素養は、実は直結しないという事実と、研究者としての素養の定義がはっきりしないということです。

プロの研究者として、はっきり言えるのは、研究者の多くは自分の研究以外にそれほど興味を持っていない、ということです。それはすなわち、「理科」の中で、興味を持っているのは、「自分の研究にかかわる範囲」だけであり、その他の大半の「理科」には興味がないのです。そういう「興味の偏向」は、むしろ「研究者としての素養」である可能性があり、科学啓蒙活動の題材に用いられる(理科に関する)広範な関心は、研究者としての素養に寄与しないという論理も成り立つのです。
好奇心は常に研究者に必要なものだと僕個人は信じています。しかし、「プロの研究者」に必要かと言われれば、躊躇します。異論はあるでしょうが、プロとして専門性を高めるためには、専門外への興味を抑制することが必須だからです。僕の経験では、興味が広すぎる人(僕を含め)は、研究者としてはアウトローな存在になりがちです。

SSHでは課題研究(自由研究)が必須です。大学で行うような研究のスタイルを高校生のレベルで実施しようというのです。特別なセレクションを受けた高校生たちなので、標準的な大学生レベルの能力は有するはずだ、というのが建前です。しかし、実際のところは高校の先生方がいろいろ介入しないと、モノになりません。その結果、先生方に大きな負担がかかっています。

先生の問題

現在の日本の教育制度において、理科の先生の育成は、教育系でない理系大学がかなり負担しています。というのも、教育学部はどちらかというと文系に分類されており、理科と数学の教員養成が制度的に難しいのです。そのため、理科と数学の先生は慢性的に不足しています。
その対策なのかもしれませんが、理系大学では、理科と数学の教員免許が取得できるようになっています。うちの大学では、20~30%の学生が教員免許を取得します。うちの大学は中堅エンジニアを養成するのがミッションなので、ほとんどの学生は一般企業に就職します。全体の2%くらいがもしかしたら、教員になっているかもしれませんが、決して多くはありません。ただ、高校教員を志望した学生の大半は希望通り採用される傾向にあるので、もし、中学・高校教員を目指すなら、教育大学よりも、確実なキャリアパスだと思います。

さて、大学において、最も優秀な学生は、アカデミックを目指す傾向があるかもしれません。残念ながら、アカデミックキャリアは極めて厳しいので、半分くらいの人が挫折します。アカデミックを目指して挫折した人のうち、高校等の教師になったという話はほとんど聞いたことがありません。多くは、企業に就職するはずですが、そのあたりのキャリアパスは非常に問題が多いということだけはわかっています。

アカデミックを目指さない人の大半は、一般企業に就職し、企業研究者になります。企業研究者を数年務めたのち、一念発起して高校教師になった人は、何人か知っていますが稀です。高校教員になった人からは、言い訳として「自分は研究者に向いていない」ということをしばしば聞きます。つまり、理系大学出身で高校教師になるというキャリアパスでは、どこかの段階で研究者として挫折しているということが結論されます。一方、教育学部(大学)では、そもそも本格的な科学研究は行いません。つまり、教育学部(大学)出身者は、研究者としての可能性がもともとないということです。
以上をまとめると、高校の理科の先生は、研究者としての適性や経験に問題を持っているということがわかります(先生という職業を辱める意図はありません。求められている特性が違うという意味です)。そういう人たちに向かって、「さあ、研究指導をしなさい」と命令するのはかなり無理があることがわかります。
高校教師の能力と、研究者としての能力は全く別物です。だから、SSHのカリキュラムを高校の先生たちにゆだねるのは、そもそも問題があるのです。だからと言って、大学の先生は、教育・指導能力に劣ります。特に、精神的に未熟な高校生を指導すると、かならずトラブルになると思います。
以上より、SSHはそもそも目標設定と、目標達成のための手段の両方において、思慮が足りないということがわかります。そりゃ、不満が出るよね。

科学研究において大事なことは何か

高校生の時点では、将来プロの研究者になるかどうかは決まっていませんし、研究者になるための教育は、大学進学後にみっちりやります。高校生の時点でそのような訓練が必要かどうかは不明です。にもかかわらず、その訓練を高校生たちに施そうというのがSSHです。しかも、課題研究を目玉に据えているので、割とちゃんとしたレベルの課題研究の実施を求めています。その研究テーマを考えることも、高校生たちに期待しています。

我々プロの研究者の場合でも研究テーマを一から立ち上げるのは極めて高度な仕事です。通常、これまでやってきた研究や先行研究の結果に基づき、それを発展させるあるいは、修正する形で、テーマを設定します。その際、研究に用いる道具立て(装置、試料、周辺知識)は、なるべくこれまでの研究で用いたものが流用できるようにします。全く独自に研究テーマを設定できるようになるのは、30歳を超えてから、というのが普通です。

そういう事情なので、高校生が研究テーマを考え出そうとすると、大変になります。まず、これまでの研究成果はありませんし、先行研究の状況も知りません。もちろん、これまでの経験がないため、道具立ても新調しなければなりません。特に、周辺知識の不足は致命的です。先端的な研究の場合、周辺知識をそろえるだけで、数年かかるのが普通です。それだけで、高校が終わります。なので、高校生にプロ並みの研究は不可能なのです。
そして、研究の指導ができるほど経験を積むには、10年程度必要です。高校の先生方はもちろんそのような経験がありませんから、本格的な研究指導は基本的にできません。SSHの制度が望むような斬新な本格的課題研究は、高校生と高校の先生の組み合わせでは、原理的に不可能なのです。プロの研究者は、何十年という長い時間をかけて研鑽を積み、ようやく勝負しているのです。そんな研究の世界に素人が割って入れるわけはありません。

以上の議論は、プロの研究者と全く同じ土俵での話です。そもそも、高校生がプロの研究者とガチンコで研究対決しなければならないなんてことはないはずです。SSHで目指すのは、研究成果ではなく、課題研究を通じて得られる教育効果のはずです。なので、どんな研究をしたらよいか、ではなくて、どんな教育効果を目指すか、を議論すべきなのです。
専門知識は大学で学ぶものなので、専門知識が必要な研究活動は除外すべきです。特殊な装置や試料は、素人には手が出ません。とすると、身近な現象を題材に、なにかしらの考察を行う、という方法しか残りません。

そのような研究成果は、もちろん、最先端というわけではありません。研究テーマは、既存の知識で理解できる、という結論になるのが大半でしょう。でも、現実の現象は、多くの要素が絡み合っており、幅広い知識を集めないと、ちゃんとした理解に至りません。プロの研究者の場合、普段から専門分野に明るいので、自分の専門分野内の特定の要素を切り取ったのち、研究とします。なので、複雑に絡み合った現象を細かな要素に紐解くという過程は、プロの研究者はほとんど扱いません。でも、紐解く過程では、意外な事実が見えてきたりするものです。それは、高校生ならではの視点として、プロの研究者と勝負できる状況を作り出します。
ダメを押しておくと、日常に転がっている何気ない事象を科学的に説明するということが、高校生の研究としてふさわしいんじゃないか、ということです。

ミニ研究のすすめ

どうすれば、そんなことが可能になるでしょうか?それこそ、SSHで目標とすべき教育効果のヒントになります。僕の大好きなデモンストレーションに、「クッキーとビスケットの研究」というのがあります。実は、JASの規格があって、クッキーとビスケットは、違う食品とされています。そこで、クッキーとビスケットの違いを詳しく調べてみましょう!というのがテーマになります。クッキーとビスケットの研究は、おおむね1時間くらいで完了するので、出張授業等で生徒さんたちとともに、おこなうことができます。
まず行うのは、クッキーとビスケットの箱を観察することです。詳しく見て、比較するというのが、観察の基本です。次に、クッキーとビスケットを箱から取り出して、外観を観察します。さらに、割ってみて、断面を観察します。においの違いを比べてみても面白いです。最後に、食べてみて、食感を比較します。観察結果をレポートにまとめ、クッキーとビスケットの違いと共通点をディスカッションします。科学的な大発見があるとは考えにくいですが、「研究」にまつわる重要な要素を体験し、学習できます。

僕は、このようなフォーマットを「ミニ研究」と呼んでいます。比較的似た研究対象を2つ用意し、様々な観点から比較します。その中から、研究対象がなぜ似ているのか、どこが違うのかについて、考察するのです。最初の段階では、特別な道具は必要ありません。とりあえずの考察後に、積み残しになる疑問点が必ず出てきます。その疑問を明らかにするには、何をすればよいか考え、それを実行する計画を立て、可能なら実行し、さらに考察を進めます。計画・実験・観察・考察の繰り返しこそが「研究」の本質だと、僕は思います。SSHでは、身近な現象を題材に、このサイクルを自力で回す能力を鍛えるべきというのが、僕の提案です。

研究者の素養

実際のところ、研究者は40歳~50歳くらいで、完全に独立しなければなりません。概ねそのくらいの年齢で、教授になってゆくということです。出世するのはとてもよいことです。特に、研究テーマを自分で自由に設定できるというのはとても幸せなことです。
一方で、研究費を自力ですべて確保することが求められます。これはとても難しいことです。特に我々のような中堅どころの地方大学の教員の場合には、とても難しくなります。というのも、凡庸な専門性では、有名国立大学に太刀打ちできないからです。僕の持論ですが、狭くてもよいので特定の分野におけるランキングでダントツトップでないと、お呼びがかからないのです。というのも、企業研究者の方が相談事をしようと思った時、僕と東大の先生のどちらに行こうか迷ったとすると、まず間違いなく東大に行きます。そこで解決できない時、僕の方に話が回ってくるかもしれませんが、よっぽど特殊ケースでない限り、僕の順番にはなりません。
要は、教授昇進の基準の一つは、何かしらの研究領域でトップかどうか、ということです。既存の研究領域でトップになるのは難しいので、独自の研究領域を作り出せているかが、重要になります。独自の研究領域を作り出すというのは、口で言うほど簡単ではありません。僕と同年代の研究者の多くは、それがうまくできなくて悩みます。
独自の研究領域を作り出すと言っても、無から有を作るわけではありません。既存の研究領域で、何かしらの独自性を加味することで領域を拡張し、それを広げるのです。何かしらの独自性というのが曲者です。世界中の研究者が同じようなことを目指しているわけですから、ちょっとやそっとでは独自性が出ません。日々観察し、考察し、疑問を持ち、探求する中で、少しずつ独自性が育ちます。これって、「ミニ研究」で訓練される素養です。

研究者としての独自性を生み出す下地として、「ミニ研究」のサイクルが重要だと僕は思います。そのサイクルをたくさん、速く回すことができれば、より独自性が高まり、独自の研究領域が成長することになります。ミニ研究サイクルをたくさん速く回すことができれば、研究者として有利なわけです。
ミニ研究は、1時間とか2時間で行えますし、1クラスくらいなら、同時にまとめて指導できます。SSHに向いていると思うのです。ミニ研究では議論しきれない疑問が積み残されます。そういう積み残された疑問の中に、大発見があるかもしれません。研究の現場では、積み残された疑問から新たな研究が芽吹くものです。つまりそれは、研究のタネということです。SSHのカリキュラムの前半で、ミニ研究をしこたま訓練すれば、後半に設定されている課題研究のテーマに困ることはないと思うし、高校生たちが自ら研究テーマを提案することだって、できるようになると、僕は思います。

ミニ研究で重要なこと

ミニ研究は科学の方法論を学ぶにはうってつけです。ミニ研究では、徹底的に観察を重視します。特殊な装置が手元にあるとは限りませんから、まずは自分の目で見て、匂いをかぎ、触って、音を聞き、時には味わって、五感のすべてを動員して、観察します。観察結果に基づいて議論が始まるわけです。自然科学が宗教と異なるのは、客観的な観測に基づくという一点のみです。客観的な観測の第一は観察です。その点で、ミニ研究は「科学」です。
ちなみに、通常の理科は「教科書の記述」をフォローすることに尽きます。理科の教科書の記述は、人類が積み上げてきた科学知識に基づいており、客観的な観測に裏打ちされたものです。なので、教科書の記述をフォローするだけでも、重大な間違いは起こらないでしょう。でももし、その教科書が聖書や経典なら、それは「宗教」です。つまり、学校での理科は、客観的な観測事実で裏打ちしないと、限りなく宗教に近くなるのです。そのために、教科書では、歴史的な実験とその結果についての記述が盛り込まれています。しかしながら、それは確実に正しいとは限りません。

2009年に山形県の17歳の少年が、ゴム状硫黄の色が黄色であることを発見し、ニュースになりました。高校の教科書には、ゴム状硫黄の色は褐色とされていましたので、そこから教科書の記述が変更になりました。少年をたたえるのはもちろんですが、なぜこんな間違いが教科書に残っていたのでしょう?多くの高校ではゴム状硫黄の実験なんか行いません。だから、観測が圧倒的に少なかったんだと思います。それはつまり、「理科」という科目が、高校教育の現場では半ば宗教化していると、言えるのではないでしょうか。

科学というのは、客観的な観測に基づいて構築されています。しかしながら、技術の向上や知識の蓄積によって、より高度な観測結果や解釈により、以前の観測結果の意味が変化することがあります。なので、科学的事実というのは簡単にひっくり返るものなのです。そういうダイナミズムも科学の重要な要素です。ミニ研究では基本的に特殊な観測手段を想定しません。なので、その観測結果に不確かさやあいまいさが含まれます。なので、正しい結論にたどり着けないかもしれません。でもよいのです。ある観測結果に基づいて、最大限努力するというのも科学の真実なのです。正しさだけが科学ではありません。結論が出ない部分を認識し、その影響を考察し、いくつかの仮説を立てることができます。そうして得られた仮説を一つ一つ検討することで、科学は進歩してきました。そのプロセスは、現在の学校教育から完全に排除され、大学の研究室で初めて体験するようになっています。SSHのカリキュラムが、本物のサイエンスの英才教育を目指すなら、そういうプロセスこそ重視すべきだと思います。ミニ研究はうってつけだと思うのです。

僕が修士課程のときの研究室では、毎週金曜日の夜に酒盛りをしていました。先生方と一緒に、ビールを飲みながら、雑談するだけなんですけどね。話題は多岐にわたりました。その中で僕が気に入ったのは、時事ネタに便乗して、具体的な計算をする、というゲームです。例えば、夏の電力が足りないかもしれない、というニュースがあれば、記事中にピーク時の電力は何万KWと書いてあります。それの情報をもとに、人口で割って、一人当たりの電力消費量を計算してみます。あるいは、その電力を火力発電で賄うとすると、どのくらいの石油が必要になるのか計算してみます。さらに、CO2排出量を計算することもできます。その計算の中で、いろんな発見があるのです。一人当たりの電力消費量はびっくりするほど多くなります。僕たちが毎月支払う電気料金の何倍もの電力が消費されていることがわかります。そこから、僕たちが個人の家庭レベルで省エネを遂行しても、焼け石に水だということが結論されます。また、CO2の排出量は、原料の石油より多くなるんですよ!これはすでにある種の研究です。こうした考察を何気に行うことで、研究のタネが見つかるのです。
こうした「研究遊び」は、いつでもどこでも行えます。目についたものすべてに対して、ちょっとした考察を加えてみるのです。それは、研究のための訓練にもなります。そのころから、僕は意識してこの研究遊びを続けています。今では、ほとんど自動的に行っています。ミニ研究はこの遊びが誰でもできるように、わかりやすい組み合わせを抜き出したものです。僕がクッキーとビスケットの違いについて考えたのは、テレビの何かの番組で、それがJASの規格あるという言及があったからです。そこから、食感の違いに思いを馳せ、製法の違い、構造の違いに思い当たります。それを逆に組み立てて、ミニ研究としてのフォーマットに整えた、というわけです。

プロの研究も同じようなものです。きっかけは、過去の研究だったり、他人の研究だったりしますが、その中でいくつかの疑問点を見つけ出します。それぞれについて、ちょっと考察し、自分の手持ちの道具立て(知識、技術、独自の観点)で解決できそうかどうか考えるのです。あるいは、他人の研究が自分の研究に使えそうか考えます。それはちょうど「研究遊び」であり、元ネタがちょっと専門的なだけです。ほとんどすべての研究はそのようにして始まります。

そもそもそれが必要か?

ミニ研究で鍛えられる素養は、上級サイエンティストとして必要な素養ではありますが、単なる研究者にとっては必要とは言えないかもしれません。経験を積んで自分独自の分野を開拓する段階では、知識・技術・独自の観点をフル活用するスキルはとても大事です。しかしながら、その途中、研究者としての経験を積む段階では、むしろ不要です。研究者に必要な要素はそれだけではないのです。知識や技術の習得には、長い時間と忍耐が必要です。ミニ研究で活用される自由闊達で気ままな知的探求は、知識や技術の習得を遅らせる可能性があるのです。

それでも、僕は早い時期からミニ研究による訓練を行った方が良いと思っています。科学の進歩は教科書によってもたらされるものではありません。誰かが教科書に書かれた知識を探求し、解き明かした結果、その成果が教科書に記載されているのです。一つ一つの細かな知識について、それが誰によってもたらされたのかは記載されていませんが、必ず誰かがいるのです。その人は、何か別の教科書を見て、その知識を得たわけではありません。興味を持ち、疑問を抱き、仮説を立て、検証するという科学の基本を踏襲した結果、その知識を世界にもたらしました。こうした知識を産み出す過程は、通常のマスエデュケーションとは全く違います。いわゆる勉強とは全く異なるスキル体系が必要で、そのために研究者は長い時間をかけて、自らを訓練するのです。
理科教育の一つの目的は、一人でも多くの人を知識を生み出す側に送り込むことのはずです。であれば、少しでも知識を産み出すスキルに適性のある人を見い出し、才能を育てるべきです。その試みは成功するかどうかわかりませんが、やってみる価値はあると思います。

SSHへの提案

科学エリートを養成するという目標は素晴らしいと思います。ただ、その手段がきちんと組み立てられていないように思います。官僚的なんですよね。素晴らしいお題目に対して、あいまいな公募を行い、良さそうな企画に、過小な予算をつけ、過大な成果を要求する。アイデア・計画・実施・サポートすべて丸投げ。このフォーマットは、どんなお題目でも同じです。専門性とか要りません。逆に、専門性が必要ないフォーマットとすることで、ジェネラリストの権化である官僚でもマネジメントできるようになるわけです。これは決して良くないと思います。
日本の教育は、いろいろ問題はありますが、かなり高水準だと僕は思っています。その高い教育水準は、多くの現場のノウハウを蓄積して高度にマニュアル化されたマスエデュケーションの方法論にあると思います。すなわち、エリート教育を排するという方針が、教育水準の押し上げになっているという、一見奇妙な因果関係があると思うのです。つまり、科学エリートの養成は、科学教育の水準に直結するわけではない、かもしれないということです。

SSH事業は、東工大付属の成功モデルを全国展開するというものではダメだ、というのが僕の意見です。東工大付属のケースが成功モデルかどうかについても僕は懐疑的です。でも、百歩譲って、成功モデルとしたときに、何を以て成功と言えるのか、その成功がどのように価値を持つのか、成功につながった要素は何なのか、どういった教育(法)がその要素を作り上げたのか、その要素を形成するもっと良い方法はないか、要素形成の方法をマスエデュケーションにフィットさせるにはどうしたらよいか、そういったことをきちんと議論して、SSH事業でどの部分をサポートするのかをはっきりさせるべきでした。現在の形式は拙速に過ぎるというのが僕の分析です。特に、何を以て成功と言うのか、という最初のステップで、間違っています。

科学というのは、様々な知識の積み重ねという側面があります。ある知識は別の知識に基づいて構築されたりします。基になった知識があやふやだとその上に構築された知識が瓦解する恐れがありますから、知識は慎重に積み重ねる必要があります。
新しい知識を発見すること自体はそれほど価値はないかもしれません。というののもその知識が正しいかどうかは、時間をかけて検証してゆかねばならないからです。膨大な知識が蓄積された現在の科学界では、多くの研究がそのような検証作業に充てられます。検証作業の中で矛盾を発見し、新しい知識に至るというのがほとんどです。このような理解があれば、派手な発見を大々的に成果と見る現在のSSHのカリキュラムは、むしろ危険な側面を持つことがわかるでしょう。