カウンセリング
僕は一度カウンセラーの人と話したことがあって、その時に、カウンセラーがやたらと優しいので、違和感を感じました。後で調べたところによると、カウンセリングの中で何らかの解決策を見つけるのではなく、カウンセリングそのものが精神的なケアであるということでした。カウンセリングで大事のなのは、言い分を全面的に肯定することで、絶対に否定してはいけないそうです。だから、カウンセラーに必要なのは、相手の話に感情移入せずに肯定的な相槌を続けるスキル、ということになります。そういう正体不明な態度が、カウンセラーに感じた違和感の正体だと思いました。カウンセリングはストレス発散にはなりますが、問題解決にならないような気がします。
一方で、現代の精神科では脳に作用するさまざまな医薬が処方されます。薬で何とかなるんだったら、薬を使えばよい、というのは何ともアメリカ的ですね。でもこれでは問題を解決したことにはなりません。元々、西洋医学は対処療法が主体なので、精神的なトラブルの問題解決は医学の範疇にはない、という立場なのかもしれません。そうすると、精神的なトラブルを抱えた人は、カウンセリングでも医学でも救われないということになります。もっと、問題の根本に関して理解を深めないといけないと思います。
科学者のメンタリティー
正直に言うと、僕は精神的に病んでいた時期があります。ちなみに、前述のカウンセリングの経験は別件です。今は大丈夫だし、今後も大丈夫だと思います。最近ちょっと悩みがあったりしますけどね。その時の経験からすると、精神的に病むのは本人の問題というよりは、環境要因の方が大きいと考えています。その話をしたいと思います。一般に、科学者というのは精神的にタフです。世俗的な欲求を制限し、たゆまず自己研鑚に努め、容赦のない競争にさらされるという人生を自ら選択するのですから、タフでなければ生きてゆけません。そんな科学者でも自殺をします。もちろん、一般人のように家族や経済的理由によって自殺を選択した例もありますが、目立つのは科学的なプライドを傷つけられたことによる自殺です。
FM変調を発明したエドウィン・アームストロングは象徴的です。裁判官がAM変調とFM変調の技術的な相違を理解できなかったために、FM変調は特許が認められませんでした。アームストロングは絶望し、自ら命を絶ったと伝えられています。
ボルツマン定数に名を残すルードヴィッヒ・ボルツマンは、当時の最高権威者の一人であるマックス・プランクにいちゃもんをつけられ、精神を病んでついに自殺します。後年、プランクは自らのいちゃもんが不当であったことに気づき、ボルツマンの名誉回復を宣言しますが、失われた才能は戻ってきません。
ナイロンを発明したウォレス・カロザースは、デュポンの社員であったことから、ナイロンに関する研究成果を発表できず、鬱になって自殺しました。
計算機技術の基礎を築いたアラン・チューリングは、同性愛者の疑い(当時は犯罪だった)をかけられ、社会的なバッシングをうけ、研究成果も評価されなくなり、自殺しました。チューリングにかけられた嫌疑は、事実ではなかったという説があります。
日本で広く知られた事例では、STAP細胞騒動で主導的立場にあった方が自殺されました。大きなプロジェクトの責任者であったことから、科学的威信が揺らぐと、立場上つらくなるということもあったのでしょう。研究室に行っても仕事にならないとか、研究室に行けないとか、そういうことは研究者にとってはショックなことで、その中で意気消沈していったと報道されています。騒動のために研究活動が大きく制限されたことが、科学者としては最も深刻な問題だったかもしません。
それぞれのケースの詳細は異なりますが、自分の仕事が評価されないということに思い悩んでいるというところが共通しています。科学者の精神は比較的タフなのですが、そのタフさを支えているのは自らの科学に関するプライドです。そのプライドは、リスペクトを受けることによって維持されます。そのリスペクトを失うと、プライドが瓦解し、殺人的なストレスに直接さらされるのです。
プライド
この事例から、プライドというのがストレスに対する重要な防御機構であるということがわかります。だから、プライドを破壊するような環境におかれると、ストレスに抗しきれなくなり、精神を病むのだと思います。ストレスとプライドの関係は、科学者以外の場合にも適用されます。プライドを維持するには、リスペクトされることが一番です。平たく言えば、「ほめられること」「認められること」です。それらは、他者の存在が必須です。精神的にまいってしまったら、家族や隣人が本人を精一杯「リスペクト」することがとても重要だということです。引きこもりはダメです。引きこもって周囲と断絶してしまうと、周りはリスペクトしようがありませんからね。さて、最近の新卒採用では、本人本位の採用プロセスが徹底しているという傾向があります。しかしながら、採用プロセスで評価対象となるのは、本人の能力よりも性格だと言われています。というのも、就職してから精神を病んで、戦力外となる人が多いので、精神的にタフな人を選抜したいという思惑があるようです。
自殺した科学者たちの事例にあるように、よっぽど精神的にタフな人々でも、特定の状況に置かれると、自殺に追い込まれるわけです。だから、少しばかりタフだったとしても、ある状況下では精神を病みます。問題は、本人のタフさではなくて、環境だと思うのです。
精神的にまいってしまう人が多い職場では、プライドを傷つけるような事例が多いんじゃないでしょうか?プライドが傷つく人(被害者)がいれば、加害者もいるでしょう。犯人探しというわけではありませんが、加害者対策の方が現実的ではないですか?加害者対策で最も有効なのは、加害者にならない対策だと僕は思っています。
感受性は人によって異なるので、ちょっとしたことで、すべての人が加害者になり得ます。悪意があろうとなかろうと、他人を傷つけるリスクがあります。特に、健全なコミュニケーションでは少なからず対立があるものなので、対立の中でプライドを傷つけるというマイナス要素は必ずあります。それを否定し排除することはできません。そういうマイナス要素を完全に排除したものが、「カウンセリング」です。カウンセリングを受ければわかりますが、違和感を感じるはずです。その理由は、リスクを排除するためにコミュニケーションが健全でなくなっているのです。日常が「カウンセリング」みたいだったら、逆に気が狂うと思います。
コミュニティーを健全に保つ
健全なコミュニケーションがある限りマイナス要素の排除は無理なので、プラス要素であるリスペクトをなるべく多くするしかありません。具体的にはお互いの良い点をしっかり観察し、指摘し合うことです。芝居がかった無理のあるリスペクトは皮肉になりますから、日ごろから細かく、良い点を具体的に指摘し合うというのがほとんど唯一の解決法だと思います。他人のプライドをリスペクトし、むやみにプライドを傷つけないというコンセンサスが、精神的な健全さを保つことに極めて有効だと思います。こういうのは女性の方が得意ですよね。何かにつけて「かわいい!」と連呼し合うのは、「かわいい」という言葉に含まれるニュアンスが、女性に対するリスペクトに対応しているからです。女性の方がストレス耐性があるとされるのは、そういうコミュニケーションの勘所を女性たちが経験的に知っているからでしょう。
いくらリスペクトをもらっていても、一瞬でもプライドが傷つくと、どうしても落ち込みます。それもまた避けることはできません。僕の場合も、精神的に落ち込んだのは、ひどくプライドが傷ついたことが主な原因でした。最後の砦としてのプライドが瓦解すると、他者からいくらリスペクトをもらっても、なかなか立ち直れないものです。リスペクトを受けてもプライドが補強できない、となると、リスペクトを受ける以外の方法でプライドを補強するしかありません。
根拠のないプライドを発達させてしまう場合があります。そのプライドは根拠がないので、他者とのコミュニケーションで容易に崩壊します。そのため自己防衛的に他者とのコミュニケーションを避けるようになるでしょう。つまり、「ひきこもり」です。引きこもりでは、ゲームや漫画などのホビーに逃避する傾向が有名ですが、それはそのようなホビーにプライドの根拠を求めているのです。ただ、本人もそのプライドが幻想であるということを理解しているため、部屋を出ることに恐怖を感じるのだと思います。
処方箋
「ひきこもり」のような解決法は生産的ではありませんので、別の方法を考えましょう。一つの方法はプライドを新たに導入することです。よくあるのは、ちょっとしたアルバイトやボランティア活動などに参加し、「感謝」をもらうことです。そうして導入されるプライドは極めて小さなものですが、普通の人のプライドというのは、大きくないのが普通です。別の方法として、自分の中のプライドを強化するという方法もあります。プライドの根拠を補強し、崩壊しないように高度化するのです。僕は科学者なので、科学者としてのプライドに必死にしがみつくことで、苦境を克服しました。
一般には、そういう方法は難しいとされています。そこで、テクニカルな面を補足したいと思います。傷ついたプライドを修復するコツとして、プライドを切り刻むというのを提案したいと思います。客観的に見て、プライドが傷ついた状況は妥当なのかもしれません。すなわちそれは、自分が悪い、ということです。でも、不当に高いプライドであれば、攻撃を受けても文句を言えません。
でもよく考えてみてください。自分のプライドにも根拠はあるはずです。プライドが高くないことがプライドだっていうのもアリですから、誰だってプライドはあるものです。でも、自分のプライドと他者の認識との間にギャップがあった場合、衝突が生じ、あなたのプライドは傷つくかもしれません。あなたのプライドが悪いわけでも、他者が悪いわけでもないということがあり得ます。あなたのプライドの範囲や程度が適切でなかったという可能性を検討すべきです。
人間だれしも得意不得意があるものです。不得意な部分にプライドを持つことは不当です。自分のプライドの範囲をもっと細かくみると、プライドを持ちすぎな領域もあるはずです。傷つけられた部分というのは、そういう部分なはずです。自分の本当のプライドの範囲を見つめなおせば、傷つけられたのは、弱い部分だけで、本当に強い真のプライドの部分は、無傷なことに気づくでしょう。本当にプライドが持てる領域は、決して誰にも傷つけられないのです。だから、本当のプライドの部分を信じて進めば、必ず立ち直れるものなんだと思います。
中二病
ちょっと話を戻しますが、世の中では「中二病」というものがささやかれます。ファンタジーと現実の区別があいまいな精神状態を指します。小さいころは自分が物語の主人公のようになれると信じているものですが、中学校2年生までには、現実を認識するようになり、自分は実は、one of themだということを理解すると言われています。最近は、子どもにストレスを与えないように大人が配慮しすぎる傾向があって、そのような現実認識のタイミングがどんどん高年齢化していると言われています。それを指して「中二病」と呼ぶようです。この中二病というのは、過剰なプライドを持っている状態と理解することができます。過剰なプライドは他者と衝突し、負けます。プライドが傷つけられ、深刻な精神的ダメージがあるかもしれません。それを笑うことはよくないと思います。人の現実認識は完全に主観に基づいています。客観性というのは、経験に基づき主観に組み込まれるのもので、別の言い方をすれば、現実の条件に則するように修正された主観です。なので、だから、無修正の幼稚な主観に基づく判断を馬鹿にするのは正当でないと思うのです。
中二病では、ファンタジーな部分が主観に残っているため、本人にとってはそのファンタジー部分もれっきとした現実認識なのです。問題は、ファンタジーと客観性の境界があいまいなことです。これは、先ほどの過剰なプライドと同じ構図だとわかります。すなわち、うつ病の社会問題化と中二病の根っこが同じということが推測できます。そう考えると、両者とも「ゆとり教育」と密接なかかわりがありそうだ、とピンときます。
一概にゆとり教育が悪いとは言えませんし、因果関係を見るのは乱暴かもしれません。でも、中二病や不登校の問題はゆとり教育が大きな影響を与えています。ゆとり教育では、個性尊重を錦の御旗として、誰もが主役となる教育を実践しようとします。理念はとても素晴らしいと思います。
しかしながら、個性の定義があいまいなことに問題があると僕は思っています。個性とは「あるがままの自分」と認識されています。それを幼少期に適用すると、「幼稚な考え方を無理に改める必要はない」となります。幼稚な考え方の一つとして、ファンタジーが相当し、無理に改める必要がないので、改めずに成長した結果、中二病になります。さらに、様々な幼稚な考え方を、馬鹿にされたり、幼稚な考え方によって他人を傷つけた結果、不登校が拡大再生産されます。
不登校の構図が大人になってから発生すると、うつ病という状態になります。精神的なダメージに対する処方箋はプライドを保つことに尽きます。大勢の人間が同時に存在する現実社会では、プライドの範囲を適正に設定し、正しくプライドを保つ必要があります。ある場合には、プライドを切り刻み、一部を捨てる必要があります。そのようにして、個性が確立してゆくのです。それはつらいことなので、人は時間をかけてゆっくりとそれを行うのです。
がんばる≒努力
僕の個人的なスローガンに、「がんばるな、努力しろ」というのがあります。現代は極めてグローバルな競争の時代です。極めて多くの人が、様々な場面で競い合っています。昔は身分制があって、競争に参加できるひとは少数でした。でも今の僕たちは、その競争に参加する条件をみんなが満たしています。それは人類の進歩なんだと思います。競争に参加する人数が多いということは、競争が過酷になります。昔は、競争が緩やかだったので、ちょっと頑張れば、それなりの結果がついてきたかもしれません。でも、激しい競争のある現代では、「がんばる」はデフォルトです。みんなが、頑張っているのです。その中で抜きんでるためには、もっと「がんばる」べきでしょうか?
僕は「がんばる」にも限界があると思うのです。「がんばる」に似た言葉に「努力」というのがあります。何が違うと思いますか?「がんばる」と「努力」の違いが明らかになるのは、応援の掛け声です。「がんばれ!」とは言いますが、「努力しろ」とは言いません。
応援の現場では、競技等がすでに進行していて、できることは限られています。その状態で、できることと言えば、「あきらめない」とかほとんどが精神面に限定されます。一方、「努力」は競技等が始まる前に、トレーニングするといった意味合いがあり、精神面よりも行動・行為に重きが置かれます。「努力」とは、目的のために行動すること、なのです。
精神を病んでいる人に、「がんばれ!」というのは、疲弊している人に鞭打つようなことであり、逆効果だと思うのです。行動することで、できることを確認し、それを広げ、自分の世界を構築し、社会とつながってゆく、そういうプロセスが重要だと思います。その中に、「がんばる」要素は全くないと思うのです。
精神的に病む理由として、僕が思うのは、周りが「がんばれ!」って言いすぎなんじゃないかと思うのです。また、本人も、「がんばろう!」って思っているはずです。それが逆に重荷になってしまうというのが、僕の経験です。それよりも、「できることをやろう」とか、「気分転換してみよう」とかして、なんでもよいので、何かをする「努力」が大事だと思うのです。その中で、自分のできることとできないことを見極めて、できないことを「がんばって」やろうとすることの不毛さ、そして自分の限界に気づくのは一つの処方箋だと思うのです。
自分の限界が認識できると、逆に自分の可能性にも気づくかも知れません。今の限界は、未来永劫同じく限界であるとは限りません。明確になったその限界を突破するための「努力」は、次の目標としてぴったりです。
精神的に病む理由
人は工業製品ではないのでそれぞれに個性があります。しかしながら、人としての基本性能は大きく変わりません。だから、特定の状況に置かれると、壊れるのは仕方のないことです。皆が気をつけなければならないのは、そのような状況を作らないこと、そして修理することです。タフであっても無理をすれば壊れます。誰でも壊れうるというコンセンサスが大事だと思います。
壊れた場合は、「がんばれ」は禁物です。「がんばれ」には、現状が「頑張っていない」こと、「がんばる」余地があること、という言外の意味が含まれます。すでに精一杯「がんばっている」人に、「がんばれ」は無理を強いることになり、前述のようにさらに壊れる危険性があります。
現状を打開するには、何か行動を起こし、環境に変化をもたらすというのが良いはずです。その行動が望ましい結果につながらなかったら、別の行動に変えればよいと思います。言うは易く行うは難し、ですが、やれないことはないというのが僕の経験です。