2017年10月17日火曜日

アウトソーシング

アウトソーシング全盛

昨今は経費削減のためにいろんな業務が外部委託(アウトソーシング)される傾向にある。アウトソーシングすると、どうして経費削減できるのだろう?

アウトソーシングには利点と欠点があり、それをよく理解しないといけないし、安定した組織においては、アウトソーシングは不経済であることが多く、導入のメリットがないばかりか、害悪になる。特に、図書館などのサービスはアウトソーシングのやり方を考えないといけない。

身近なアウトソーシング

家庭のレベルの伝統的なアウトソーシングは、家政婦である。ご存知のように、家政婦を雇うには、そこそこの経済力が必要で、並みのパートでは賄えない。なので、ほとんどの家庭では自分たちで家事を行う。つまり、家政婦の場合はアウトソーシングが不経済ということだ。最近多いアウトソーシングの例は、配食サービスだ。食材だけ、あるいは調理済みの食事を宅配するサービスだ。家事の時間が取れない場合は経済的に釣り合うが、一般的にはこれも不経済だ。一般家庭の経済感覚では、アウトソーシングというだけでは、経費削減にはならない。
アウトソーシングは別の理由でも敬遠されることがある。タクシーは自動車移動のアウトソーシングである。タクシーは不経済に思うかもしれないが、マイカーの場合、車両価格、ガソリン代、駐車場代、保険代、維持費もろもろを計算に入れると、タクシーの倍くらいになる。それでも我々はマイカーに利点を見出す。いつでも車をつかえる利便性、プライバシー、自分の好みの車、そういうものに価値を見出しているので、タクシーではなく、マイカーを使いたいと思うのだろう。自動車会社のCMに踊らされている面もあるだろう。細かな使い勝手をカスタマイズできないというのは、アウトソーシングの弱点の一つで、それがタクシーの例では見て取れるとおもう。

それでもアウトソーシング

利益を追求する企業がアウトソーシングを進めるのは、その方が利益があるからだ。アウトソーシングの利益とは何だろう。第一に、人件費の圧縮だ。
比較的専門性が低く労働集約型の業務は、真っ先にアウトソーシングの対象になる。最近は、事務作業のうち、比較的容易なものはどんどんアウトソーシングになっている。正式な雇用契約のある社員の人件費は比較的高額なので、より経済効率の高い業務につかせたいという経営判断により、アウトソーシングが進んでいるのだと考えられる。

しかしながら、そもそもこれは経営者の判断ミスの埋め合わせだと考えることもできる。つまり、人件費が高騰して、軽作業用の人員が確保できなかったという経営判断のミス、と理解することもできる。あるいは、人員配置のミスと言ってもよい。判断ミスなら、それを修正して正常化すべきなのだが、アウトソーシングが常態化しているのが現在のやり方だ。

アウトソーシングが広がったのは、バブル崩壊後、しばらく経ってからだ。バブル崩壊時に社員採用を大幅に削減し、人件費を圧縮できたものの、人を減らしすぎて業務が滞るようになった。その欠員を補充するために、人材派遣が多くなった。バブルで人件費が高騰し、バブル崩壊で軽作業用の人員を大幅削減してしまい、人材確保できなくなり、派遣に頼るようになった、ということだ。短期的には悪くない判断だが、中長期的には修正すべき対応だ。しかしながら、中長期的な展望を欠いた経営者が現状維持に甘んじた結果、派遣社員の問題がかなり深刻になった。派遣社員の待遇はもちろんだが、派遣を受ける側の企業の経営がおかしくなっている。

アウトソーシングのデメリット

僕が人材派遣会社なら、ターゲット企業にある程度食い込んでから、契約更新時にじわじわと契約条件を吊り上げる。練度の高まった派遣社員を引き上げられると、当該企業は業務に支障をきたすようになる。そうすると契約の主導権は逆転し、人材派遣会社が有利になる。現在は、そのようなフェーズで、アウトソーシング経費が経営にのしかかる。
かといって、今更アウトソーシングをやめるわけにもいかない。というのも、アウトソーシングしている作業がどんどん高度化してしまっていて、社員で肩代わりすることができなくなっているからだ。つまり、アウトソーシングが進んだ結果、業務内容が高度化し、逆に専門性が高い業務がアウトソーシングされるという状況になっている。社員はアウトソーシングされた業務にはタッチしないのが原則なので、社員の練度が上がらず、アウトソーシング経費をねん出するために社員を切るという選択を迫られる。これこそ、人材派遣会社が狙っていた展開だ。アウトソーシング経費は、人材派遣会社の言いなりにならざるを得なくなる。

そうすると会社側の行動として、派遣されている人材をハントして社員として取り込む、ということが進む。このフェーズも現在進行中だ。派遣切りが社会問題化していて、その解決策として派遣社員の中途採用優遇が進められており、これは世論の賛同を得ている。
しかしながら、正社員として採用すると、実質的な将来債務が発生してしまい、経営の自由度を制限する。そのため、会社は、派遣社員をフリーランスとして再契約するようになる。ただ、現状の法制度では、フリーランスの雇用条件が非常に悪い。これも社会問題化しており、現在は働き方改革というのが進んでいる。

行ったり来たり

時系列を整理してみよう。経営者たちの求めに応じて、人材派遣の規制緩和をしたのが2000年ごろだ。すると派遣社員の待遇が悪いとして、2005年ごろには派遣期間に規制を設けた。それでも問題はなくならず、法の抜け道をついてアウトソーシングがどんどん進んだ。しばらくいたちごっこが続いたのち、人材派遣会社が極めて強力になり、アウトソーシング経費が高騰しだした。それが2010年頃だ。経営者たちはたまったものではないので、優秀な派遣社員を人目る策として、個人契約を進めた。しかしながら、それは単に給料の切り下げでしかないので、適正化に向けて法整備を検討しだした。それが2015年ころで働き方改革というものだ。
ここ20年くらいで、アウトソーシングのメリットとデメリットを行ったり来たりしていることがわかる。短期的には経済的なアウトソーシングを進めるが、5年を目途に中長期的には不経済であることがわかる。法的な規制によって適正化するが、やはり5年程度で不経済であることがわかってきて、再び法整備による解決を図る、ということを続けている。
この流れを見ると、経営者の判断ミスから業務のアウトソーシングが進み、アウトソーシングの欠点が露呈すると、小手先の対策や政治介入を通じて、短期的な対策を図るも、最終的には次の問題が生じるという、なんともコントのような展開であることがわかる。改革すべきは経営者であることが明白なのだが、経営者たちを支持基盤とする自民党政権下では、根本的な解決は無理かもしれない。

問題点の整理

個人レベルのアウトソーシングの例でみたように、アウトソーシングの多くは中長期的には不経済であったり、デメリットが多い。企業のアウトソーシングでも同じことが言える。経営者は短期的なメリットを見て、それを中長期的に採用したいと考えるが、現状のアウトソーシングは、もともと短期的な応急措置としての装置であり、システムとしては脆弱なのだ。中長期的にアウトソーシングに頼るという経営判断を根本的に改めなくてはならない。
そもそも、経済活動というのは、得意な分野を結集し、価値を最大化するという行動規範だ。極めて特別なノウハウや投資によって得意分野を先鋭化し、付加価値を高めて利潤を上乗せするというのが企業経営の基本である。経営資源という考え方で整理するとわかりやすい。経営資源には、資産・設備などの資本、ノウハウなどの知財、そして人材がある。また、人材には、特別な才能と訓練教育等で培われた能力との2種類がある。大きな企業になると個人にとどまる特別な才能は、大量のマンパワーに薄められてほとんど無視できる。人材の多くの部分は交換可能である。その互換性に目をつけたのアウトソーシングである。アウトソーシングでは企業は教育訓練の費用と時間を節約でき、その分の経費負担がない。また、仕事の質と量をある程度予測できるので、費用対効果がわかりやすい。しかしながら、アウトソーシングでは、業務内容の改善や練度向上を期待できない。仕事の効率は、最初から80%くらいあって、その後緩やかに上昇し、最終的には110%とかになるかもしれない。一方、社員の場合、最初は30%くらいかもしれないが、すぐに80%に達し、最終的に200%くらいになる。その段階で後進の育成を行い、スループットを落とさず、継続的に業務効率を高いレベルに維持する組織とすることができる。派遣と社員では成長率がかなり違う。というのも、派遣の場合は100%以上はサービスなので、それ以上向上させるインセンティブがない。日本人は比較的お人よしなので、派遣であっても頑張る人が多い。しかし、派遣が一般化した現在、そういう人は少なくなってくるだろう。というのも派遣で働く人は、社員になりたいと思っていない人も多くなっているからだ。
しかしながら、経営者はそのような派遣の事情をよく理解していないので、社員の練度向上を過小評価してアウトソーシングを進めている。その結果、業務が空洞化し、人材が枯渇する。
つまり、アウトソーシングにおける派遣社員は経営資源ではないという点に注意しなければならないということだ。経営資源のうち、人材だけはほぼ確実に成長が見込める。つまり、中長期的には最も重要な経営資源であるということだ。アウトソーシングはそれを(短期的には)捨てるという経営判断をするということなので、本当は慎重に決めないといけないんだけど、そうなってないよね。

アウトソーシングで気をつけないといけないもう一つのことは、業務内容にも中長期的な視点がなくなるということだ。短期的な派遣社員にとって、中長期的な業務というのは自分で責任が持てないことになる。その時の判断として、その中長期的な業務を無視するか、軽視するかとなるのは、致し方ない。業務の定義の中に、その中長期的業務が含まれていたとしても、その業務の質(結果)が判明するのは派遣期間内ではないだろう。そうすると、手を抜いてもバレないし、頑張っても評価されない。中長期的業務というのはアウトソーシングに適さないということがわかる。

アウトソーシングすべきでない業務

中長期的視野に立たないとだめな業務として、教育・人材育成がある。先に述べたとように、人材は中長期的には最も重要な経営資源だ。そして、人材を経営資源たらしめるのは教育である。派遣では教育の観点が欠落しているので、派遣社員を経営資源とみなすことができない、という解釈ができる。
教育というのはかなり時間がかかるものだ。短期的な利益を見れば、極めて効率が悪い。「教育は国家百年の計」言われるくらい、その成果が隅々までいきわたるのに長い時間がかかる。ある教育に着目すると、その教育を受けた人(第一世代)は、その教育内容を人生の中で実践し、様々なノウハウを蓄積する。第一世代が先生になると、その教育内容に加えて、ノウハウも教えるようになる。なので、第一世代の教育内容に欠けていたノウハウの部分も、第二世代は教わることができる。その結果、第二世代はノウハウの蓄積という時間のかかる作業から解放され、より効率的に教育内容を活用できるようになる。第一世代が先生になって教育する側になるまでにおよそ20年必要だ。第二世代以降の教育内容はほとんど変わらないので、ある教育改革が完全に定着するには20年はかかるということだ。そして第二世代以降は人生の中でその教育内容を活用するわけだが、その影響は死ぬまで続く。ある教育の導入時点では、その教育を施された老人にどのような影響があるのかなんて、知るすべがない。個人レベルでは実験可能かもしれないが、社会的影響は実験のしようがない。だから、その教育の成果は第二世代が死ぬくらいの時期まで見ないと、正しく判断できない。第二世代が死ぬという時間がちょうど百年くらいだ、というのが、先の言葉だと僕は思っている。

僕たちは戦後生まれだけど、先生の世代は戦中くらいだった。ずいぶん考え方が違うことを実感してきた。戦後教育で大きく変わったのは、戦争に対する考え方だ。戦後教育では戦争反対が強く押し出された。僕たちは戦争は悪いことだと教えられてきたし、日本の平和憲法は自虐的なものではなくて、誇り高いものだと信じている。平和憲法に強い影響を与えた当事者である米国が、湾岸戦争で先制攻撃を正当化して以来、その誇りが揺らいでいる。僕より上の年代は、日米安保・学生運動の時代を生きてきた人たちで、学校で教わった平和憲法の理念と、親から教わった敗戦の屈辱とのはざまで、様々な葛藤があったのだろう。平和憲法の後ろ盾だったはずの米国が、自ら平和憲法の理念を踏みにじる様子を見て、葛藤の反動で平和憲法の否定に傾くのもよく理解できる。僕の世代は、親も平和憲法の下で教育を受けており、米国と平和憲法と結び付けて考えることはない。米国はきっかけでしかなく、平和憲法の理念を僕たちの哲学としてどのように受け止めるか、ということが重要であり、それを行動として示すためにどのような選択肢があるのか、を僕たちの世代は考えると思う。平和憲法は屈辱ではなく誇りであり、米国が果たせなかった夢を我々が果たし、世界をリードする我々の強力な武器であると、信じている。日本の平和憲法は条文が極端ではあるが、運用においてはバランスがとれており、多くの国で手本として研究されているという事実がある。

バイトになぞらえて理解する

アウトソーシングというのは、むしろアルバイトに近い。バイト君に経理をやらしてよいか?という話だ。派遣社員をバイト君に読み替えれば、極端なアウトソーシングがいかに危険かわかるだろう。能力のあるなしではなく、責任のあるなしで見てみると、何がアウトソーシングに適して、何がそうでないかは一目瞭然だ。

今、図書館業務のアウトソーシングが盛んで、僕はとても心配している。図書館の業務のうち、図書の貸し借りと、一般蔵書の維持管理は、短期的な業務なのでアウトソーシングが可能だろう。一方で、図書館の重要な機能として、図書の長期的な管理がある。図書の中には、一般貸出が可能な図書と、貸し出しが禁止か、あるいは手続きが厳密な貴重本等があり、後者の維持管理は極めて長期的な視点に立たねばならない。そのような業務は一般の人の眼には触れないが、図書館の重要な業務である。
市井の図書館でも、地域の行政文書や資料、古文書などの維持管理を行っているはずだ。図書館業務のアウトソーシングによって、これらの貴重な文書や資料が存亡の危機にある。というか、実際に廃棄されている。いくつかの例では、市の職員が廃棄していたが、おそらく、図書業務を専門としない職員だったと思われる。つまり、組織内で図書館業務をアウトソーシングしていたということだ。図書館業務に責任を持つ司書というのは国家資格である。図書館業務には、文書の歴史的価値・保存方法に関する専門知識が必要とされているからだ。しかしながら、司書の給与水準は低く、専門家として尊敬されていない。そのため、図書館は真っ先にアウトソーシングの対象になってしまっている。これは緩やかな焚書と言ってよい。

コンサルティングは知性のアウトソーシング

通常はアウトソーシングという印象はないが、各種のコンサルティングは高度な専門業務のアウトソーシングだ。内容にもよるが、コンサルティングの単価はかなり高い。しかしながら、同じクオリティの業務を社員で賄えない場合に、コンサルティングを導入することになる。コンサルティングする側はビジネスなので、割に合わないことはやらない。だから、報酬しだいで業務の質が変化する。この場合は、業務に対する熱意を金で買う、という構造になる。
一般に、コンサルティングは高い利益率を誇るが、それはコンサルタントの高い専門性と情報力、そして企画力に基づいている。コンサルタントと同程度の技量を持つ社員がいたとしても、その社員は通常業務に忙殺され、生産性がなかなか上がらないことも多い。そういう雑事から解放され、より先鋭化することで、コンサルティング業が成り立つという側面がある。
善良なコンサルティングの導入は、多くの場合、経費圧縮と業務改善につながる。ただし、超短期的には高額のコンサルティング料に目を剥くことになるだろう。ただ、コンサルタントはプロなので、コンサルティング料くらいの利益はすぐにもたらすだろう。つまり、早々に損益分岐点を越えて、お得になるということだ。長期的には社員でコンサルタント級の人材を賄うことになるのだが、それには10年、20年かかるだろう。その間の教育コストを考えれば、コンサルティングは安いし、正しいアウトソーシングと言える。

まとめ

中長期的視野での業務、責任が発生する業務、熱意が必要な業務、こうした業務がアウトソーシングに向かない。あるいは、それらをアウトソーシングするなら通常の倍くらいの報酬が必要だ。日産は社長をアウトソーシングして成功したが、そのために支払った報酬は、一般社員の100倍以上だった。アウトソーシングは経費削減を意味しないことを、経営者たちはよく理解すべきだ。

2017年10月1日日曜日

ビッグバンはどこで起こったか?(ヨタ話)

誰もが知るレベルの宇宙論の話

僕の専門とは全く違いますが、宇宙論に少し触れます。僕は門外漢なので、難しい宇宙論はさっぱりついていけません。でも、専門的でないレベルにおいても、いろいろわからないことがあります。
この記事において、僕はあるモデル宇宙を提案します。でも、僕はそのモデルが正しいと主張したいわけではありません。そういうテキトーなモデルでも、宇宙にかかわるいくつかの疑問をうまく説明できるということを示したいだけです。そこから、先入観にとらわれず可能性を論じる意義、あるいは僕の狂気を示したいのです。

素人でも知っている宇宙論の話には次のようなものがあります。

  1. およそ135億年前にビッグバンという大爆発が起こって、僕たちの住む宇宙が誕生した。
  2. 僕たちの宇宙は膨張していて、無数にある銀河はお互いに遠ざかっている。
  3. 銀河はとても遠いので、僕たちが目にする星々の輝きは、大昔に発せられたものである。

3は光の速度が有限であるということから導き出される結論です。たぶん、これは正しいでしょう。2は星々の光の赤方偏移という現象を調べることで、確認されています。厳密には、2の後半の文章を直接確かめたことになります。
2の後半が確かめられると、2の前半部分も肯定されますが、細かく言うと解釈が2つできます。一つは、空間自体が膨張しているという説明、もう一つは、僕たちが宇宙と呼ぶ領域が拡大しているという説明です。違いが分かりにくいですね。まず後者についてです。ビッグバンなどが理由で僕たち(の地球)は高速で移動していると考えられます。同じことが他の星々にも言えます。最初はビッグバンの爆心地にすべての星がいたとすると、時間とともに星々が散らばっていくので、星々の存在領域は時々刻々拡大することになります。
一方、前者はビッグバンというのは単なる爆発ではなくて、空間が膨張を始めるという現象だと考え、その余波がずっと続いていると考えます。その際、星々は飛散しているのではなくて、空間が膨張しているので、それに応じて互いに遠ざかると考えます。星々の赤方偏移は極めて大きいのですが、それを説明するには星々の飛散では難しくて、一般相対性理論に基づく空間膨張を考慮するとうまくゆく、ということが根拠になっています。
さて、1は広く受け入れられていますが、ビッグバンというのが何なのかはよくわかっていません。それでもビッグバンがあったという根拠になっているのが、宇宙背景放射の存在です。星空は厳密には真っ黒ではなくて、ノイズのような模様があって、それが宇宙背景放射です。その模様はボヤっとしていますが、とても古いもので、ビッグバン直後に発生した光だと考えられています。

1~3にはそれぞれにちゃんとした科学的根拠があって、それなりに説得力がありそうです。しかし、本当にそうでしょうか?あらゆる文献が1~3は正しいということ述べています。そういう資料は偉い先生が書いたものだから、正しいはず、という結論だったら、それは宗教と変わりありません。もっと疑問を持つべきだと僕は思います。
ビッグバンの存在を疑う人はほとんどいませんが、それでも、ビッグバンのアイデアの根源がキリスト教にあると言ったら、ぞっとしませんか?ビッグバンは聖書に書かれているのです。聖書では、神は世界を作るにあたって、最初に「光あれ」と言ったとされています。これはまさにビッグバンです。ビッグバン理論がキリスト教の先入観に影響されている可能性はないでしょうか?
ビッグバン理論は一度破たんしています。その破たんを救ったのがインフレーション理論です。僕は専門家でないので、インフレーション理論はさっぱり理解できませんが、ビッグバン理論を成り立たせるために無理やり構築した理論という印象を僕は持っています。とはいうものの、僕はいくつかの別の理由でビッグバンはあったんじゃないかと思っています。その話はまた別の機会に。

理解できないことは恥ずかしいことじゃない

僕がどうしても理解できないのは、宇宙背景放射があらゆる方向からやってくる、という事実です。ビッグバンがあったとして、それは宇宙のどこかであって、僕らはそこから遠ざかっているはずです。そうすると、宇宙背景放射ビッグバンの方向から来ないといけません。でも、実際にはどっちを向いても宇宙背景放射が見えるのです。そんなことがどうやって可能になるのでしょうか?

宇宙背景放射は、ビッグバンの「爆風」のなかで陽子と電子が衝突した光の名残とされています。星々も爆風の中で誕生したので、爆風自体がインフレーションで拡大すると、爆風の残光はあらゆる方向から届く、ということで問題点を回避します。
でも、その時には、インフレーションが極めて大規模で、135億光年よりはるかに大きく生じないといけないでしょう。それでも、ビッグバンの爆心地方向とそれ以外で密度のムラが生じるかもしれません。そういうものは観測されていないので、インフレーションの規模はけた違いに大きい必要があります。しかし、そんなに都合の良い規模やタイミングでインフレーションが起こるのは不自然な気がします。

そもそもビッグバンの爆心地はどこでしょう?僕たちが観測できる限りでは、宇宙は等方的で、爆心地の方向はさっぱりわかりません。しかも、あらゆる方向の星々が、同じ調子で我々から遠ざかっていることがわかっています。爆心地方向から僕たちを追いかける形になっている星々というのは見つかっていないわけです。だからこそ、空間が膨張しているという説明が有力なわけです。空間が膨張するにはなんらかの仕掛けが必要ですが、その理由を、ダークマターとかダークエネルギーとかに求めているというのが現在の宇宙論のようです。なんだか、できの悪いサスペンスドラマみたいです。

宇宙空間の膨張の様子を説明する際によく用いられるのが、風船のたとえです。僕たちのいる宇宙は風船の表面みたいなもので、風船が膨らむと風船のゴムが等方的に伸びるように、僕たちの宇宙は等方的に膨張している、という説明です。このとき、風船の中心は風船の表面にはありません。つまり、ビッグバンの爆心地は風船の中心のようなもので、それは僕たちの宇宙に対応する風船の表面にはない、ということを暗示します。だから、僕たちは、ビッグバンの爆心地を探すことができないのかもしれません。

この風船モデルにはトリックがあります。それは、風船が膨らんでゆく方向です。風船が膨らむ方向というのは僕たちが認知する世界とは垂直の方向で、僕たちはその方向への移動ができませんし、直接知覚できません。それは時間軸のような気がします。ビッグバンの爆心地は僕たちの宇宙のいたるところから同じように過去で、同じ距離に存在することになります。それは、僕たちが決して到達することのできない過去に存在するわけです。
単純化のために2次元で考えると、僕たちの宇宙は爆心地を中心とした円上に存在し、その円が時々刻々大きくなっているというモデルになります。円周方向が僕たちの認識する空間で、動径方向が時間に相当します。2次元風船モデルと呼ぶことにします。物理の世界では時間と空間は区別なく統合されることが多いので、時間と空間が図の中に同じように示される2次元風船モデルはとっても魅力的です。

風船モデルは意味がない?

風船モデルはとっても単純で魅力的なんですが、いろんな弱点があります。特に重要なのは、僕たちが星々の過去の光を観測するという事実をそのままではうまく説明できないことです。遠く離れた星は、僕たちの星とはビッグバンの爆心地からの方位が異なります。そして、遠く離れた星での発光現象は「過去」の出来事なので、動径方向の距離も異なります。遠く離れた星の過去の光を僕たちが観測するとは、遠くの星の過去の位置から発せられた光が現在の僕たちの位置に届くということです。つまり、遠くの星の過去の位置と現在の僕たちの位置を結ぶ直線が、その星の光の経路になるでしょう。図に書くと次のような感じです。



遠い星からの光を前提なしで直線だと断じることはできませんが、直線でないとなると直線でない理由を考察しなければなりません。重力で光が曲がったように思っても、曲がっているのは空間であって光そのものは直進するというのが一般相対性理論の結論ですし、光は直線だと考えるのが素直です。
さて、ある星である時刻で発せられた光が現在の僕たちに届くとします。その星が別の時刻で発した光は現在の僕たちに届くことはありません。別の時刻の光が僕たちに届くのは、現在とは別の時刻になるでしょう。ところが、風船モデルでは、現在の僕たちとその星のあらゆる時刻とを結ぶ直線を考えることができます。逆に考えると、現在の僕たちは、特定の星のいろんな時刻(時代)の光を観測できてしまうのです。そこから、現在の僕たちに届く光には何らかの条件が必要だとわかります。どんな条件でしょうか?

遠くの星からの光に角度の制限がないと、あらゆる時代の地球に光が届く


遠くの星の話だといろんな要素が入るかもしれないので、僕たちのいる場所で発する光を風船モデルで考えてみましょう。僕たちの知っている光の重要な性質に、光はとっても速いということがあります。そこで、風船モデルにおいて「速さ」を考えます。速さとは単位時間当たりの移動距離です。つまり、ある時刻ののちにどれだけ移動するかを考えます。風船モデルでは、時刻とは動径方向、距離とは円周方向に相当しますので、ある時間刻みで、一定距離進む様子を作図すると次のようになります。



「速い」とは、同じ時間刻みの際の移動量が大きいということです。図に見られるように、速くなると経路の角度が立ってきます。すなわち、風船モデルにおいて「速度」とは、「時間の進む方向との成す角度」のことだとわかります。その角度が小さいと遅く、大きいと速いわけです。では、その角度はどこまで大きくなれるのでしょう?光はとっても速いので、「速度」の限界値だと思って差し支えないでしょう。
作図上で最大の角度は「後ろ向き」の180度ですが、それは「過去」の方向です。そのような光は「未来からの光」として観測されることになりますが、そういうものに出会ったことはありません。つまり、そういう角度は許されません。過去にぎりぎり向かわない最大の角度はすなわち、時間軸に垂直な方向です。つまり、光は世界を表す円の接線方向に進むのだと考えられます。

風船モデルでの赤方偏移

宇宙における赤方偏移というのは、遠い星から発せられた光が、星との距離に応じて波長が長くなって観測される現象のことを言います。風船モデルでは波長を考えるとややこしいので、代わりに周期を考えることにします。光速は一定と考えたとき、波長が長くなると周期が長くなることは同じ意味になります。
下図のように、遠い星から光が発せられる場合を考えます。光の波を考えた場合、光は振動によって一定の周期で山と谷を繰り返します。ある時刻で光の波が山になって、その後谷になって、また山になって、となります。一方、遠く離れた僕たちの世界では、遠くの星からの光を観測します。風船モデルにおいて、光は線で表されるので、下図のように光の山と谷が平行線となります。僕たちはその平行線と次々と出合うことで、遠くの星からの光を波として観測します。
さて、この図において、山と谷の間隔が遠くの星の時間軸と僕たちの時間軸とでは違っていることがわかります。幾何学を考えると、星の時間軸での周期が、僕たちの時間軸では$1/\cos \theta$倍になっていることがすぐにわかります。これが風船モデルにおいて観測される赤方偏移です。

驚くべきことに、風船モデルにおける赤方偏移は一般相対性理論に基づく宇宙論的赤方偏移とほとんど一致します。さらに驚くべきことに、風船モデルにおける赤方偏移の議論は、宇宙の膨張が一定であっても、赤方偏移でみると宇宙の膨張が加速しているように見えるということも説明します。面倒なので詳しい説明はやめますが、風船モデルでは円周に沿った距離と、平坦な時空における直線距離の2種類が考えられ、遠くの星ほど両者の開きが大きくなります。その結果、星の間の距離が見かけ上変化し、そのせいで、加速膨張しているように見えるというからくりです。

常に光速で運動する

風船モデルにおいて、僕たちの認識する世界がなぜ円周上に限られるのかについて議論しないといけません。また、宇宙の膨張速度に関しても議論しないといけません。
ハッブル定数から見積もられる宇宙の年齢がおおむね宇宙のサイズに等しいということは、最近の宇宙論では単なる偶然だとされています。というのも、風船モデルのようなものを考えたとき、宇宙のサイズと宇宙の年齢が等しいということは、ビッグバン以降、僕たちが光速で飛び続けているという結論になるからです。通常議論される宇宙の膨張速度は光速よりずっと遅いと考えらえているので、都合が悪いわけです。なので途中にインフレーションが起こって、たまたま宇宙のサイズと宇宙の年齢が等しいというのです。
一方、光速で運動していると相対性理論にがんじがらめにされて、いろいろ不具合が生じるものだと考えらるわけですが、そんな兆候は一切ありません。だから、僕たちが常に光速で移動していると考えるのは受け入れがたいのです。でも、本当にそうでしょうか?

光速に近い運動の際に無視できなくなるローレンツ変換は、4次元時空では単なる回転操作になります。便宜上、静止している物体は時間方向に光速で運動していると考えると、ローレンツ変換は光速を上限とする世界における運動量保存則のようなものになるのです。これはよく知られた話です。だから、僕たちは常に光速で運動していると考えてもおかしくないのです。
アインシュタインの相対性理論の有名な式$E=m c^2$は静止質量に関するエネルギーですが、もっと一般的で厳密な式で$E^2=m^2 c^4+p^2 c^2$というのがあります。この式では、静止していたとしても、4次元時空では$m c$の運動量を持っていることを意味します。すなわち、僕たちは静止していたとしても4次元時空では光速で運動しているという考え方ができるのです。

光速で運動していると、どのような不具合に直面するでしょうか。光速での移動に成功した人はいないので想像するしかありません。ネットを検索すると、多様な意見を見つけることができます。でも、最初にそういうことを考えたのはアインシュタインでした。完全に光速に達するところはあいまいになっていますが、光速に達しない状況に関しては、次のように、きっぱりと断言しています。
あらゆる慣性系で運動の法則が同じように成立する
すなわち、光速にいくら近づいても、特別なことは起きない、ということです。そのような条件で運動の法則を書き直したのが相対性理論です。だから相対性理論を信じる限り、光速に近づくと特別なことが起こるというのはウソです。
そして、光速に達するということをローレンツ変換で考えると、4次元時空における速度ベクトルが元々の時間軸に対して垂直になるということだとわかります。一気に光速に達する代わりに、徐々に光速に達することもできます。その際、光速かどうかというのは、出発時点での時空に対して光速(垂直)なだけであり、途中の速度からみると、まだまだ光速には達していません。すなわち、出発時の運動の法則=光速未達のとき(途中)の運動の法則=(出発時に対する)光速時の運動の法則、となります。ゆえに、光速に達しても僕たちは何も感じないと結論できます。
だから、僕たちは元々光速で運動していると考えても全く問題がないと思うのです。逆に言うと、光速で運動している影響を僕たちは常に受けていてそれを当たり前だと感じているかもしれません。ローレンツ変換もその一つですが、それよりも身近に強い影響を受けている可能性すらあります。僕たちは時間軸方向の運動に自由がありませんが、それは僕たちが時空において時間軸方向に光速で運動し続けているからということで説明が可能です。光速に近い速度で運動すると、運動方向の空間が縮むという話があります。光速に達すると、その方向の空間が完全につぶれて、その方向の運動が禁止されるわけです。
これを風船モデルで考えると、僕たちはビッグバン爆心地から光速で飛び去っているので、その方向の運動が禁止され、その方向に垂直な運動だけを認識する、ということです。その結果、僕たちの世界は円周上に限定されるという説明が可能になります。
僕たちの世界が円周上に限定されるということは、あらゆるレベルの運動が円周上に限定されます。光は、電荷をもった粒子(通常は電子)の運動が元になって発せられますが、その運動は空間方向に限定されるので、光は空間方向、すなわち時間軸に垂直な方向に発せられると理解できます。

光は、時間軸に垂直に発せられるとしたとき、現在の僕たちが観測する光(星空)は、どのような時間的・空間的位置から発せられたものでしょうか?風船モデルで作図してみましょう。
ビッグバンの爆心地と光源を結ぶ直線がその光源での時間軸になります。その直線に垂直に光が発せられ、現在の僕たちに届きます。すると、ビッグバン爆心地・光源・現在の僕たちを結ぶ直角三角形ができます。このように、ビッグバン爆心地と現在の僕たちを結ぶ直線を長辺とする直角三角形の直角の位置をつなぎ合わすと、下図のような小円が描けます。



つまり、僕たちが観測する星空がこの小円です。現在の宇宙を表す円に対してちょうど直径が半分になります。ここから、僕たちが観測できる宇宙の差し渡しサイズは現在の宇宙のサイズのちょうど半分ということがわかります。また、過去にさかのぼって僕たちの宇宙に光を届けた(可能性のある)範囲は、小円の内側ですが、現在の宇宙を成り立たせるには、大円の内側全てを考慮しなければなりません。その面積比は1:4です。
2次元の風船宇宙の話を3次元時空における風船宇宙に置き換えてみましょう。円は球になります。円周は球の面積になり、円の面積は球の体積になります。1:2⇒1:4、1:4⇒1:8になります。さらに4次元時空の風船モデルでは、1:2⇒1:8、1:4⇒1:16になります。1:(8-1)というの通常物質とダークマターを比、1:(16-1)は観測できるエネルギーとダークエネルギーの比に概ね一致します。
言いたいのは、僕たちは宇宙のすべてを観測することはできないし、宇宙のすべてが僕たちの宇宙に影響を与えるわけではないということです。そういう僕たちとの関係が薄い「宇宙の何か」がダークマターとかダークエネルギーとかかもしれないよ、という指摘です。

量子力学における矛盾を風船モデルで説明する

量子力学はとても成功した理論ですが、いろいろ奇妙なことが起こります。いまでは、そのほとんどが検証され、正しいことがわかっています。だから、量子力学を疑う人はまずいません。でも、僕は量子力学にもいくつか疑問を持っています。
量子力学では光(のようなもの)を介してエネルギー交換が生じます。そして、エネルギー交換前後での因果関係があやふやになります。それは結果の状態が確定しないと原因の状態も確定しないという有名な話のことです。例えば、レーザーから光子が飛び出て、壁に当たって吸収されたという現象を考えたとき、光子の発生は完全に量子力学過程です。壁に当たって光子が吸収されるわけですが、その吸収も最初の段階は量子力学過程です。レーザーと壁の2つの系で光子というエネルギーが量子力学過程で結びついているわけです、僕たちは、レーザーの発光と壁での吸光に因果関係を感じますが、それらが一つの量子力学過程だと思うと、レーザーから光子が出る現象と壁で光子が吸収される現象は、どちらが先かという議論は意味がないことになります。つまり、壁で光子が吸収されるから、レーザーから光子が飛び出したという説明もOKということです。僕たちが普通に感じる因果関係とは逆ですが、量子力学はそのあたりをあいまいにします。
常識的に考えると、関連する二つの事象を時系列に並べて、先に生じる事象の方を「原因」、後に生じる事象を「結果」だと、僕たちは認識します。光はとても速いですが、その速度は有限ですから、関連する二つの事象のうち、どちらかが先で、どちらかが後のはずです。先に生じる方が「原因」で、それが無ければ後に起こる「結果」もありません。そういう関係を、専門用語で因果関係と呼ぶわけです。壁が光を吸収するには、光が存在しなければならないので、レーザーでの発光が先=原因で、壁での吸収は後=結果であると、僕たちは直観します。有限の光速という事実は、距離を隔てた二つの事象間で必然的に時間的順序を要求し、そこから僕たちは因果関係を見出そうとします。でもそれは間違いだというのが量子力学の主張です。量子力学がいまひとつ正体不明に思える理由です。有限の光速と量子力学のあいまいな因果関係が相いれないというのが僕の疑問です。

壁とレーザーだったら距離が近いので、因果関係があいまいになっても何とか許せますが、星の光と僕たちの眼に置き換えると違和感が顕著になります。遠い星での発光と僕たちの網膜での化学反応は、星から発せられる光子を通じて量子力学的に結びつくはずですが、余りに遠い場所での出来事なので因果関係をあいまいにはできません。だって、その光は、何万年も前に遠い星で発生したものなんですから!何光年も離れた星での現象が、僕たちの観測の有無の影響をうけるなんてことはないはずです。でもそれが起こるのだというのが有名な量子テレポーテーションです。問題提起した科学者たちの頭文字をとってEPR(Einstein-Podolsky-Rosen)相関と呼ばれています。皮肉なことに提唱者の一人であるアインシュタインはEPR相関はあり得ないという立場を取りました。現在は、EPR相関の実在が確かめられていますが、理解は進んでいません。ただ、EPR相関を用いた計算機である量子コンピュータの開発が盛んにおこなわれています。
「同時」の概念の基準を光とする相対性理論と因果関係を問わない量子力学は、短距離ではなんとなく受け入れられるかもしれませんが、長距離ではあきらかな違和感を生じます。風船モデルでこのあたりを考えてみましょう。

風船モデルが正しいかどうかなんてわからないのですが、風船モデルにおいて光線の上を「同時」と定義しましょう。光を時間の基準にするとはそういうことです。どんなに離れていても「同時」です。遠く離れた2つの現象は「同時」です。どんなに奇妙でも、遠く離れた星の正体不明の発光現象と僕たちの眼の中の色素のcis-trans転移は、同時に起こっているのです。2つの現象が何光年離れていても一つの同じ光子の介在を考えると、同時なのです。これはEPR相関だと言えます。
一方、僕たちにとっての同時とは、僕たちの時間軸に垂直になります。それは遠い星における同時とは全く違う直線になります。「同時」が二つの事象で異なるのです。それを図にしたものが下の図です。



一目瞭然です。遠い星の「同時」と僕たちの「同時」が異なります。特殊相対性理論を受け入れた瞬間、僕たちは全世界共通の時計を捨て、場所や慣性系ごとの時計を持つようになりました。それはつまり、二つの場所に共通する「同時」の概念を放棄することを意味します。それが相対性理論の奇妙さの原因だと僕は思います。それでも「同時」の概念は必要だし、なくなったりしないはずです。僕は、「同時」の概念を完全に説明する相対性理論の資料にであったことがありません。時計が遅れるとか進むとかの話は多いですけどね。

相対性理論では光を時間の基準に据えます。これは、光を「同時」と定義することを意味します。風船モデルでは光は線で表されますが、その光線の上はすべて「同時」です。奇妙なことに、上図で描いたように、遠い星での「同時」と僕たちの「同時」は同じ直線にはなりません。これは「同時」の概念の拡張です。
光線の上は「同時」ですから、どんなに遠くても「瞬時」に相互作用できます。空間的には隔たっていますが、時間的には隔たっていないのです。時間的に隔たっていなければ、「瞬時」に相互作用できます。だから、遠くの星の発光現象と僕たちの眼の中の色素の化学反応は一つの量子力学的相互作用で結びついてもよいのです。
図で明らかなように、僕たちから見ると、遠い星での発光は過去の出来事であることは明らかです。僕たちの時間軸で考えると、遠い星での発光と僕たちの眼の中での化学変化にあきらかな時系列が認められ、そのため僕たちはその順序を因果律として直観するわけです。
このように、風船モデルは量子力学における因果関係の長距離相関をわりとすんなり説明してくれます。そして残念なことに量子テレポーテーションに抱いている僕たちの希望を打ち砕きます。無限の可能性を秘めたファンタジーとしてのテレポーテーションは、その他の科学と同様に無情な限界をもつ当たり前の現象として、冷酷な物理法則の奴隷となるのです。

光速は無限か有限か

僕たちは光速が有限であることを観測事実を通して知っています。しかし、風船モデルでは一本の線として描かれ、それは時間を超越して存在しています。つまり、光線は伸びてゆく直線ではなく、発光点を通り時空全体を横切る線であるということです。宇宙規模のEPR相関を肯定し、何億光年も離れた二つの場所の現象が「同時」に起こり得るという、文章にすると信じられないような記述になります。あたかも、速度が無限に見えます。

風船モデルにおいて、光は時々刻々移動する輝点かもしれません。その場合、過去に発せられた遠い星の光を現在の我々が観測するということが著しく困難になります。
風船モデルにおいて、光を時々刻々移動する輝点と考えるということは、動径方向の時間軸以外に時間の概念を考えていることになります。その場合、星も我々も、ビッグバンの爆心地から遠ざかる点と考えねばなりません。星の光を観測するとは、点として移動する星から発せらえた光子の点が、同じく点として移動する僕たちにちょうどヒットする、ということです。それはかなり難しいということがわかります。だから、風船モデルに描かれた時間軸(動径方向)が僕たちの主観時間であると考えた方が合理的です。それはつまり、光は線であり、僕たちや星々も線だということです。光は線だけれど、僕たちや星々は点である可能性も残っています。ただしその場合、光線は遠く離れた現象と「交差」はしますが、「つなぐ」ことはしません。つまり、EPR相関は起きなくなります。

では、僕たちが観測する光速とは一体何でしょう。実は、風船モデルにおいても、有限の光速が観測されます。光速を測定する場合、一定距離離れた2つの場所に発光器と計測器を置き、発光時刻と光の観測時刻を精密に測定することで、光の速さを求めます。これを風船モデルで作図すると、次のようになります。



ビッグバンの爆心地を中心とする円弧が「現在」で、その半径を$r$とします。発光点から$r \theta$離れた地点で観測を行います。光は発光点の時間軸に対して垂直に描かれるます。この図でわかるように、発光後$\Delta t$秒後に光を観測することになります。距離$r \theta$を$\Delta t$で除したものが光速です。$r$はビッグバンからの経過時間に比例しますが、ビッグバンからとても長い時間が経過しているので、計測時刻が違っても結果に差はほとんど現れないでしょう。すると、距離が倍になれば、$\Delta t$もほぼ倍になり、光速は一定だという結論が得られてもおかしくありません。
ただし、それは僕たちが計測した光速で、風船モデルでは光は線として描かれて「同時」の基準ですから、この測定法は同時を定義することであって、「光速」を測定しているわけではないのです。
実は、計測された光速が、ローレンツ変換に現れる光速と同じである必然性は、風船モデルでは説明できません。風船モデルで観測される光速は、$r\theta / \Delta t $で、$\Delta t /t= 1-\cos \theta \simeq \theta ^2 / 2$であることを考慮すると、計測される光速は$2 c  /\theta$となります。これは光速の定義からは程遠いですが、一応有限の値にとどまります。
フィゾーの実験では、光が往復する時間を計測しました。その場合、もっと奇妙なことがおこなります。今度は、観測地点に鏡をおいて、発光点で時間を計測することになります。同時の概念が拡張されているので、光にとっては発光と同時に鏡に到達し、即時に反射します。そして反射すると同時に発光点に戻ります。反射に要する時間を0とすると、光は、発光と「同時」に発光点に戻ってくることになるのですが、戻ってきたときの発光点の時間は進んでいます。これはある種の「ウラシマ効果」です。その時の経過時間は、驚くべきことに片道に要する時間と変わらない$\Delta t$です。往復したのに片道の時間しか経過しないのです。それは「同時」の概念が拡張されているからにほかなりません。距離は$2 r \theta$進んだことになるので、算出される光速は$4 c/\theta$になります。余計な2が消えるどころか増えました。
まさにこの部分は風船モデルの弱点で、僕が風船モデルを確信できない理由です。ローレンツ変換に現れる光速は、僕たちの時間の概念の基準であり、風船モデルでは宇宙の膨張速度であるわけですが、それは上記の方法で測定した光速と一致しないのです。一致するには、ビッグバン爆心地からの距離が極めて不自然な値でなくてはなりません。それはあり得ないのです。

おことわり

風船モデルは、平坦な時空を俯瞰するというだけのモデルで、突飛な話ではないと僕は思っています。
でも、風船モデルでは、いくつか奇妙なことが起こります。僕たちは常に光速で移動しているので、過去方向からの様々な力は僕たちに届きません。ビッグバン理論では僕たち自身が作る重力で宇宙が縮小に転じることになるので、それを防ぐ「何か」としてダークエネルギーなんかが議論されています。でも、風船モデルでは過去からの重力などが現在に届かないので、宇宙を収縮する力として働きません。逆に、未来からの力が働くことになるのですが、それは宇宙を膨張させる力になります。ただ、僕たちはとっくに光速に達しているので、それ以上加速しません。
時空をすべて俯瞰する風船モデルでは、すべての事象は不確定性も含めて決定済みだと考えられます。つまり、運命(運命図)の存在が肯定されるのです。ただ、いつ、だれが、どのような原理で、運命図を描いたのか、というのは全くの謎で、僕たちが知覚できない「神の原理」の存在が推測されます。
僕たちの知覚する時間とは異なりますが、時空を俯瞰する世界の原理にも「時間」に似た概念があり、そこでは運命図が「神の原理」に従って成長し、ゆらいでいるかもしれません。
風船モデルによれば、発光と受光の現象は「同時」ですが、それぞれの時刻は異なりますし、同じ円周上ではないので「世界」も異なります。発光点にいる僕たちが受光点の「世界」まで移動し、結果を確認したとして、発光点の僕たちと受光点での僕たちでは、移動に要する「時間」の分だけ時空を俯瞰する世界での「時間」が違っているかもしれません。その間の運命図のゆらぎによって、僕たちの観測結果は不定になる、なんていうのも面白い考え方です。つまり、ある瞬間の現象は過去も未来も含めて完全に決定されているけれど、主観時間の経過とともに過去・現在・未来の描像がゆらぐので、現在の僕たちが未来に到達した場合のことは、不確定になっているという何を言っているのかわからない感じになるっていうことです。ちょっとしたロマンです。

風船モデルでは、僕たちの知覚する時間がすでに書き込まれているので、物質は点ではなく線で描かれます。重力や電磁気力のような場は線を取り巻くチューブのような形状になります。重力や電磁気力、弱い力、強い力という僕たちの世界を構成する基本法則は4次元の時空で完全に成立するようになっていることが知られています。だから、風船モデルのように平坦な時空でも違和感なく成立すると思います。
いくつかの事案では、4次元の時空を僕たちは光速で運動していると考えるのが自然に見えるのですが、そのためには常に加速されている必要があります。ローレンツ変換では、僕たちにかかわるあらゆる3次元空間中の運動が4次元時空中では時間軸方向の加速に寄与する形になります。しかしながら、時間軸方向は光速の制限を受けるので、運動する度に減速させられています。そのようなことが顕著になるのは振動です。光速で移動している物体は移動方向の運動が制限され、その物体(あるいは周辺)の運動は光速移動方向と垂直にしか許されません。それはローレンツ変換を受け、運動が妨げられ、物体は加速を減じられる=慣性を受けます。そのようなことが起こると普通はエネルギーが散逸し、運動がなくなるわけですが、零点振動という現象があり、ある種の振動は決してなくなりません。それは永遠に加速し続ける装置になります。振動運動はローレンツ変換によって抑制されるので、慣性質量をもつようになります。断っておきますが、これはヨタ話です。

ヨタ話ついでにもう一つ。風船モデルでは、タイムマシンが作成可能です。過去への通信だけでなく、過去への移動すら可能です。もちろん、エネルギーの問題は別途解決しなければなりませんけれど。過去への通信は物理的障害が低めです。光は時間軸に垂直に発するので、その光が僕たちにとっての過去や未来の方向に傾いていれば、過去や未来の方向に光を届けることができます。具体的には、鏡面仕上げした高速回転するコマの側面に光を当てるだけです。コマの側面が極端に高速だと、時空図において我々の時間軸とは違う角度に時間軸を持ちます。そこで光が反射すると、その時点での時間軸に垂直な方向に光が進みます。コマの側面が我々に近づく場合には、赤方偏移とは逆の青方偏移が観測され、それは過去に向かう光です。その場合、光を当てる前にコマが光るの現象が観測されるはずです。これはすなわち、過去方向への情報交換が可能ということです。コマの回転速度が速いほど、コマから距離が離れるほど、時間のずれが大きくなるでしょう。
過去に移動するには、とにかく加速して速度を増します。僕たちを乗せたタイムマシンがどんどん加速するという仮想実験をしましょう。加速方法やそのエネルギーに関する問題は大人の事情で無視します。時空における加速の実態は、ローレンツ変換による時間軸の回転です。どんどん加速して出発時点に対して90度回転まで来ると、タイムマシンは光速に達することになります。光速に達しても加速をやめないとさらに回転します。回転が180度になると、もともとの時間軸に対して反対方向となり、これは時間の逆行です。さらに加速して回転角度が360度になると元の時間軸に戻ります。加速にはとても長い時間がかかるでしょうが、僕たちを乗せたタイムマシンの航路は時空図に円を描きます。つまり、長い加速の末に僕たちは出発地点に戻るのです。そこに現在の地球があるかどうかはわからないのですが、運命図の概念が正しければ、そこに現在の地球があるはずです。途中の時間逆行時にすこし加速を緩めるとより過去の地球にたどり着くこともできます。それはまさに僕たちの知っている真のタイムマシンの機能です。が、光速に達するだけでなく、その4倍も加速するわけで、途方もない時間が必要です。人類が到達した最高速度はボイジャー1号の秒速1万7000kmで、これは光速のたった5.6%です。

風船モデルにおいて振動する粒子を描くと、「波」線になります。中心力が必要なので、もう一つ粒子を描くとそれらは互いに絡み合ったらせんになります。それらがローレンツ変換を受けたとき、細部の形状がどのようになるかは僕にはわかりませんが、ちょっと奇妙になる気がします。あ、断っておくと、風船モデルの真偽にかかわらず、4次元時空において振動を考えると必ずこのような議論になります。これは先ほどの永久に加速する装置です。
小さな粒子の運動だと違和感は生じませんが、大きな天体となると、違和感が顕著になります。太陽系内の天体の運動では重力などの伝搬にかかわるタイムラグはほとんど無視できますが、銀河のような大きなスケールでの天体の運動はとても難しくなります。というのも、ある天体Aの重力が別の天体Bに到達するには何万年も必要で、重力が伝搬する間に天体Bは移動してしてしまっているわけです。天体Aと天体Bは重力を介して相互作用しますが、その相互作用は対称ではない(天体Aが天体Bから受ける力と天体Bが天体Aから受ける力は同じではない)のです。「同時」の概念に似ていますよね!
天体が運動すると天体の作る重力場は時々刻々変化しますが、風船モデルでは時間が描きこまれているので、静的な図形になります。それぞれの天体の運動から、それらの経路について計算される重力場が描かれ、それに従って天体の運動が定まるわけです。こういう関係をself-consistent(自己無頓着場)と言います。あるいは、定常解というときもあります。しかも、僕たちが観測する天体は時空の切り取り面だということも考慮しないといけません。
風船モデルでは意図的に天体の作る時空のゆがみの議論を外しています。大きな天体は自身の重力によって時空をゆがませます。風船モデルでは一つの円周を「世界」とし、暗黙の了解として同じ円周上にある物体を通常の意味での現実の構成要素とみなしていましたが、時空はゆがみうるので、「世界」もゆがみます。実際の「世界」はきれいな円弧ではなく凸凹なのです。ブラックホールのような極端な重力場ではまさに落とし穴のように時空がゆがんでしまいます。時間の進行方向はもはやビッグバンの爆心地の逆方向とはなりません。時間軸はおおむねradial方向でしょうが、細かく見るとゆらぎがあります。その時の時空図はとても複雑になるので、うまく計算できるかどうか自信がありません。

さて、最初に言及した宇宙背景放射を風船モデルで考えてみましょう。宇宙背景放射は正確に言うと「宇宙の晴れ上がり」というビッグバンの40万年後の重要イベントの残光です。風船モデルでは、振動する物体は加速されるわけですが、光速に到達するにはそこそこの時間が必要だと思われます。ほとんどの物質が光速に到達し、飛散が本格化したのが「宇宙の晴れ上がり」と考えます。そのとき宇宙は小さな円(球あるいは超球)になっているでしょう。そこから現在の僕たちに向かって光が届くわけです。それを光線Bとします。光線Bは僕たちの時間軸に対して、それはそれはとても浅い角度です。風船モデルにおける方位角θは90度に近く、極めて大きな赤方偏移を示します。光線Bは過去からの光ですが、僕たちは時間軸を知覚できないので、光線Bから時間軸方向の成分を取り除いた部分だけを知覚します。残った光線のベクトルはとても小さいですが、方位はどのようにもなり得ます。つまり、あらゆる方向に光線Bを観測するわけです。光線Bの発光点は極めて遠くの狭い領域ですが、観測される方向はいろんな方向というちょっと矛盾したようなことが起こり得るのです。それは現象を4次元の時空で考えるべきなのに、僕たちの知覚できる宇宙が3次元の空間であるという齟齬による違和感です。

風船モデルは単なるモデルで致命的な弱点もあるし、僕はあんまり信じていませんが、現状の宇宙論のような複雑怪奇なものよりは「筋が良い」と思っています。「オッカムの剃刀」という逸話があって、真実は往々にして単純明快であるという経験則があります。アインシュタインは光速があらゆる観測者にとって同じであるというかなり単純な原理を取り入れて相対性理論にたどり着きました。ビッグバンを時空の中に描いてみたらどうなるか、という素人でもわかる原理を取り入れたのが風船モデルです。平坦な時空とビッグバンだけを前提にしているので、それらが正しければ風船モデルも正しいはずですが、その前提が正しいかどうかはわからないので、風船モデルもヨタ話の域をでません。
例えば、ビッグバンはなかったけれど僕たちが観測する事象はビッグバンのような膨張する宇宙論に合致する部分だけ、という状況も考えられます。その場合にはいかなる観測事実を積み重ねても、ビッグバンの有無は結論できません。そんな奇妙なことがあるわけないと思うかもしれませんが、僕たちの観測できる宇宙について、風船モデルにおける小円のような条件が存在していることは確かです。その条件がビッグバンのように中心から膨張する現象に一致する部分だけ、ということは理論上あり得ます。だから、実験事実がどうあろうと、ビッグバンがないとか、インフレーションがないとかの可能性を排除すべきではないと僕は思うのです。