2018年1月21日日曜日

教育と人格形成

うちの大学の場合

僕の勤める大学の学生たちは、とても勤勉で真面目だ。僕には到底まねできない。これほど真面目だったら、もっと勉強ができて、もっと有名な大学に進学していてもおかしくないと思う。
偏差値で言うと60弱くらい。理系なので、文系と比べる場合は偏差値を+3くらいしないといけない(理系は全体の3割であることを考慮)ので、偏差値63相当になる。そうすると、小学校でクラスで1番ではないけど、その次くらいの成績だった子たち、という感じで、インタビューするとその通りだ。
勤勉で真面目で勉強が良くできるのに、大学受験では少し損している、そんな学生たちが集まっている。僕が疑問に思うのは、なぜそんな子たちが大量に存在するのか、ということだ。うちの大学の特徴として、そのような学生ばっかり、というのがとても気になっている。

ちなみに、ここで用いている偏差値は単なる勉強の尺度ではなくて、確率に対応し、どのくらいのセレクションを受けたか、あるいはどのくらいレアかを表す。偏差値は50から10離れるとレア度がおよそ10倍(出現確率が1/10)になる。大学受験で苦しめられた偏差値で話をすると、レア度が生々しくイメージできるので、話題に現実味が出ると思う。

偏差値が60~65というと、結構成績が良い方だと思う。少し良い高校に通っていたはずだ。そうすると高校内での偏差値は55前後と推測される。偏差値55というと、30%くらいの人数が集中する成績だ。すこしテスト成績がよいだけで、席次がグンっと上がる。得点で言えば、60~70点で、少しの勉強量によって10点くらい簡単に変わってくる。だから、定期テストでつねに頑張っていたと推測できる。つまり、一生懸命頑張って勉強して、成績を現状維持してきたのだろう。その結果、真面目で勤勉な人格が形成された、あるいはそれが淘汰されたのだと考えられる。
歴史的にみると、日本の発展はこうした真面目で勤勉な国民性が有利に働いた結果であるとことが大きいので、学校教育がそのような人材育成に最適化しているのだと思われる。

東大出身者の場合

僕は東大の出じゃないのでそんなに多くの人物を知っているわけではないが、僕が出会った東大出身者に関してある種の共通性を感じている。それは、とても真面目で勤勉だということだ。うちの大学の学生たちの特徴とすごく似ているが、東大出身者は真面目さと勤勉さがうちの学生たちの比ではない。真面目を通り越して、愚直とも言うべき域に達している。
東大というのは大学入試において頂点に君臨する。偏差値で言うと75以上ということになるのだろう。偏差値75というのは小中学校くらいだと学校で1番に相当する。クラスで1番でも学年で1番でもない。何年かに1人くらいのレベルで、一般人の場合、これまで出会った中でもっとも勉強が良くできる人物となるだろう。
そのくらいの成績だと、通常のテストでは正確に学力を測定することができなくなる。定期テストだと、軒並み90点以上。5科目合計で480点前後と推定される。間違いの多くは、書き間違い、読み間違い、計算ミス、勘違いであり、運の要素が強くなる。得点アップは難しいが、逆に10点20点ダウンしても席次には関係ない。偏差値は出てくるけれど、統計量が足りないので信頼性が全くない。
このくらいのレベルになると、ミスが我慢ならなくて徹底的に勉強をするか、頑張っても頑張らなくてもあんまり変わらないので勉強に興味をなくすか、の二択になる。僕の知る東大出身者の多くは前者だ。彼らは95点からさらに努力し、100点を目指す。95点を100点にする努力は70点を80点にする努力(うちの学生たちの勤勉さ)の何十倍にも及ぶ。普通の人から見ると、頭がおかしいくらいの勤勉さだ。そういう努力を続けられる人が東大に入るのだと思う。

東大出身者を無敵に思うかもしれないが、そもそもそんなに勉強して100点を目指すことにどれほどの意義があるだろう。勉強はできるかもしれないが、ちょっと頭のねじが緩んでいる印象がある。それが「愚直」という表現につながる。
ある目標があって、それを達成するには膨大な作業が必要だと判明したとき、努力と根性で作業を続け目標達成するという戦略を選択するのが、東大出身者の傾向で、それは彼らの受験勉強の戦略そのものだ。
彼らは、受験勉強での成功体験によって、努力と根性で何でもなんとかなる、と信じているようだ。勝てないことで有名な東大野球部に元巨人の桑田真澄氏がコーチングしたことがNHKで取り上げられたことがある。東大のピッチャーは1日12時間以上練習し、あらゆる球種を投げていたと紹介された。これこそ、東大生の愚直さである。人智を越えたスポ根を続けることができてしまうのが東大生だ。
同じことが科学研究にも言える。東大出身者の研究は、お金や人をかけたものが多い。あるいは、超人的な努力(能力ではない)に立脚したも多い。逆に、知恵を絞ってひねりを入れた研究は不得意のようだ。研究では最終的な目標がわかりやすいものも多い。そういう研究目標は多くの人が取り組んでいるにもかかわらず、達成できていないという状況にある。目標達成できない理由は様々だが、人・モノ・金だったり、作業量だったりする。そういう状況の時、迷わず人・モノ・金や、超人的作業量を選択する傾向が東大出身者に見られる。
すこし前の例になるが、ヒトゲノム計画が理研の主導で実施された。理研はおおむね東大の外研のような感じになっており、理研の研究室のプロジェクトリーダーの多くは東大教授の兼務だ。ご存知のようにヒトゲノム計画では人海戦術のアプローチがとられた。国際的な研究プロジェクトだったが、日本の進捗は芳しくなかった。そうこうしているうちにセレラジェノミクス社に先を越された。セレラ社は人海戦術と並行して、ゲノム解析の自動化技術を推進し、国際プロジェクトチームの10倍もの効率を達成することにより、人的・資金的不利を覆した。自動化技術という選択肢は誰でも思いつくが、自動化しなくても努力と根性で何とかなるなら、努力と根性で何とかしようと考えるのが、東大的な秀才の思考パターンということだと僕は思っている。

僕は仕事柄いろんな企業の方と話をする機会があるんだけど、真面目で優秀だけど使えないというのが東大出身者の評判になっている。例えば、ある仕事を指示すると完璧にこなすんだけど、それを際限なくやり続けるとか、やり終わったらぼーっとしているとか、いう話を耳にする。あるいは、やり方をきっちり教えないといけないとか。こう書くと、まるでできの悪いロボットのようだ。全ての東大出身者が該当するわけでは決してないが、頭が良いはずなのに、知恵よりも努力と根性を選択する傾向があるように思う。

就活での壁

大学生にとって最大のイベントとなっているのが、就活だ。多くの学生はそのときはじめて自分の人材的価値を突きつけられる。真面目に大学に通っていた学生の評価はかなり厳しいことは広く知られている。かつてはバイトやボランティアの経験を重視したが、昨今はみんながそういうことをアピールするものだから、逆にそういうのがないと減点になるかもしれないという雰囲気がある。
企業がのぞむ人材にはいくつかのカテゴリーがある。現状の業務遂行に必要な人材はある程度必要だ。工員、事務員、末端の営業員、こうした業務は真面目にしっかりこなすことが肝要だ。特別の才能は不必要で、真面目に仕事をこなせればよい。当然、給与は相応のものとなる。一般の人が「働く」というイメージに近いので、多くの大学生はそのような職種に就くことを想定しているはずだ。ただ、業務内容にもよるが、大卒である必要はないものも多い。実のところ、そのような人材は比較的容易に調達できるので、わざわざ新卒採用する企業は多くないか、採用するとしても人数は少な目だ。むしろ、喫緊に人材補充が必要な場合を除くと、別枠で採用しておいて入社後の業務成績が芳しくなかった人を割り当てるという戦略をとる企業が多い。そのため、最初からそのような業務を目指す大学生は内定がもらえなくて最後まで余ってしまう。

ひとつの事業が永遠に利益を生むことは極めて稀で、大企業と言えども常に新しい試みを続けていかなければならない。新しい顧客、新しい商品、新しい技術などが常に求められている。そうした新しいことに対応するために、多くの人材が投入されている。それでも新しい何かは容易には見いだせないので、新しい人材を投入することで現状打開を試みる。だから企業は常に新卒を採用し、新陳代謝を目論みる。その場合、新卒採用された新入社員学生には、その会社に何らかの「化学反応」を起こすことが期待される。なので、企業は就職を希望する学生が「化学反応」を起こすポテンシャルを持つのかどうかを見極めようとする。特殊なバイトの経験は何か新しい要素を組織にもたらすかもしれないため、就職で有利に働く。ボランティアに参加する積極性は、現状を打開し新しい何かをもたらす可能性が高い。企業は常に多様性を求めているのだ。
そう考えると、単なる真面目・勤勉な人材は、新卒採用では不利になる。うちの学生たちは、ソニーやトヨタといった超一流の企業からは見向きもされない。東大出身者は期待値が高い分、就職後の評価が高くない。就職市場のミスマッチというような陳腐な言葉で片付けるのは正しくないと僕は思う。

多様性とは逆の教育システム

僕が今の大学に就職して強く感じたのは、講義の出席率が極めて高い、ということだった。僕は講義に出ないことを身上とする学生だったので、びっくりした。そうこうしているうちに、大学生にもっと勉強させろ、という通達を文部科学省が出した。そのため、休講がなくなり、ほとんどすべての講義で出欠確認するようになった。おかげで講義の出席率はさらに向上した。
さて、それによって大学生は勉強するようになったのか?答えは否だ。出欠確認を行うと出席率は向上するが、講義出席そのものが目的となり、講義内容の聴講や理解が目的から外れてゆくという一般的傾向がある。出席率は向上したが、試験成績はほとんど変化がなかった。そして、学習意欲が低下した。
文科省の通達前でさえ、学生たちは「講義さえ真面目に出て単位を取得すれば、卒業出来てバラ色の人生が待っている」と信じて疑わなかった。通達前は研究室での指導によって、そういう幻想を取り除くことができた。けれど通達後は、あまりに強く刷り込みが行われてしまっていて、研究室での修正が効かず、幻想抱いたまま卒業するようになってしまった。「講義さえ真面目に出て単位を取得すれば、卒業出来てバラ色の人生が待っている」というのは、画一的な人材であることを重視する価値観であり、企業が特別望む人材ではない。待っているのは、就活における不採用の嵐だ。「講義さえ真面目に出て・・・」は東大のような有名大学の学生にとってはある程度真実だ。でもそういう人は就職後の評価に苦しむことになる。真面目で得をするのは役人くらいで、だから文科省はそのような通達を出したのだと思ってしまうくらいだ。

「講義さえ真面目に出て・・・」は、大学生に限った話ではない。僕たちは多かれ少なかれ小学校からそれを叩き込まれている。高校生くらいになるとちょっと反発したものだが、今の高校では指定校推薦という制度があって、先生に反抗したり、授業への取り組み態度が悪いと、大学進学に深刻な悪影響がある仕組みなっている。高校生たちは見かけ上従順になり、文科省は大満足だろう。その成功体験を大学に適用しようとしたわけだ。ちなみに、高校生たちは見かけは従順になったが陰湿化し、スクールカーストやいじめの問題につながっている。大学進学を望まない生徒が大半を占める高校では、先生の統率が効かないため、「教育困難校」という問題につながっている。あるいは、先生に対する暴力が稀にニュースで取り上げられている。
極端に言えば、今の高校生は従順を強制されており、そのようなシステムに順応できた人だけが大学に進学できるということなる。彼らにしていれば、大学で最後の最後に従順じゃだめだよ、と言われても、話が違うじゃないか!となるだろう。以前は、大学では大きな自由が与えられて、従順なだけでは生き残れない環境が形成されていた。しかし、文科省の通達によってカリキュラムが厳密適用され、大学においてもカリキュラムに従順でないと卒業できなくなった。その結果、学生たちは従順以外の生き残り戦略を試す機会を失い、いきなり非従順を求められるビジネスの最前線に送られる。ルールが違うので、当然のように連戦連敗となる。

世間は多様な人材を欲しているのか?

そもそも、世間が多様な人材を真に欲しているかは疑わしい。「普通信仰」の記事でも指摘したが、突出した個性は時に不快感につながる場合がある。いや断定してもよい。突出した科学者や芸術家が変人だという例は枚挙にいとまがない。
組織の和を乱さず、多様性をもたらすというのは、相反する事象を同時に実現しようとするものかもしれない。組織の統一性と多様性を同居させることが不可能だと仮定したとき、世間はどちらを選択するだろう?世間というのが緩く結合した大きな組織だと仮定すると、短期的な利益を重視するなら統一性を選択するはずだ。いじめの問題というのは、ちょっとした非統一性を発端にしていることが多いことからも、それは一般的原理として採用してもよいと思う。つまり、組織として存続するためになんらかの共通の価値観が必要であるとするなら、それは多様性を排除する根拠になりうるということだ。
一方、人類の様々な進歩は多様性によってもたらされてきたという歴史的事実もある。ナポレオンとか信長とか、強烈な個性によって人類全体の運命が左右されてきた。英雄とか偉人と呼ばれる人々のことである。彼らは組織に埋没しなかったからこそ、顕著な業績を残してきたのだ。多くの平凡な役人は社会の維持管理に大きな貢献をしてきたにもかかわらず、歴史の教科書にその名が載らないけれど、それに異を唱える人はいないだろう。
科学や芸術の世界でも同様に傑出した業績は、その他大勢とは異なる一部の個性に依存するところが大きい。ニュートンやアインシュタインは誰でも知っている科学者であるが、同時代を生きた科学者たちとは一線を画すると僕たちは認識している。そして、そのような個性が世界を変革してきたと考えている。ニュートンやアインシュタインは生きているうちに評価された幸運な人々だが、業績の評価は死後ずっとあとになってなされることもある。例えば、ゴッホはかなり晩年になってからしか評価されなかったし、宮沢賢治も貧乏で有名だ。僕が敬愛するヘンリー・キャベンディッシュは裕福な貴族であったが、人嫌いの変人だった。キャベンディッシュの研究業績は死後にマックスウェルによって見出され同時代の科学者と比べて数十年先んじていることが判明した。それまでキャベンディッシュは科学者としては無名だった。天才は理解されない、と言うのは簡単だが、その根底には多様性を受け入れにくい人間社会の本質があると思う。

翻って、企業は自らの維持と発展のために多様性を取り込むべきだと考えているはずだ。個人の人生という尺度では、老いや死という終末が用意されているので、ピークを過ぎて事業縮小することは容認される。しかし、法人という不死の「人格」には、老いや死というものは既定路線ではない。そのため、時間経過に伴い事業縮小することは単純には容認されない。常に、学び、成長し、新陳代謝を続けることが求められる。その方法論として多様性は極めて重要だと位置付けられているはずだ。多様性を取り込むことによって、学びと成長が期待できるからだ。しかし、新陳代謝はどうなのだろう?
企業にとっての新陳代謝とは、若い人材を取り込み、年老いた人材を取り除くことだ。経験豊富な老社員を切り捨て、未熟な社員で置き換えると、短期的には必ず損である。しかし、老社員のパフォーマンスは必ず低下するものであり、そのような新陳代謝なくしては長期的な自己保全が不可能なのは自明だ。だからこそ、定年を設定し、一定数の社員を自動的に排除する仕組みが考え出された。

ここから、新陳代謝に関しては短期的不利益を甘受するという覚悟が見える。であるならば、同様の理由で多様性の取り込みによる短期的な不利益を甘受できるだろうか?これはとても難しい問題だ。多様性の価値についての評価法は実際のところ定まっていないからだ。
さて、通常業務の業績では劣るかもしれない多様性担当社員の給与はどのくらいが適性だろうか。日々の業務に不利益があるのだから、低く抑えるべきだという考え方がある。これは障碍者雇用促進法として制度化されている。一方、高く設定すべきだという考え方がある。カルロスゴーン氏などが典型例だ。多くの場合は、一般社員の50~80%程度の給与というのが常識になっているかもしれない。それは派遣社員制度だ。現在の派遣制度は、適切なスキルを持つ人々を安く雇って人件費を抑えようというものだ。広く浸透しているため、派遣社員が持つスキルが一般社員を凌駕することも少なくない。そういうスキルは組織にとっては多様性と考えてもよい。その場合には一般社員よりも高い給与を設定すべきだが、現実にはそんなことはありえない。現在の企業のありようを見ていると、多様性を尊重し取り込むということに対し、本気が見えないと言わざるを得ない。

「ゆとり」肯定論

多様性を尊重するというのは、今は亡きゆとり教育のスローガンだ。ゆとり教育が終了し、もう7年目だ。今の大学1年生は中学校から脱ゆとり世代となっている。中学校からということは本格的な勉強はすべて脱ゆとりということだ。だから、彼らは勉強が良くできる、かもしれない。僕が関わる学生たちはもうちょっと年齢が上の人たちが多いので、本当のところはまだわからない。でも、一つだけ確実に言える変化がある。それは、「元気がなくなった」ことだ。
ほんの数年前まで「完全ゆとり世代」だったが、そのころは講義中のレスポンスが良かったように思う。自由度のある課題に対して、多くの創意工夫がみられた。しかし、今年の新入生は、工夫よりも確実性を優先するようだ。「遊び」が少ない印象だ。
講義中もおおむね真面目で、自由度を与えたときのレスポンスに手ごたえが少ない気がする。僕はパソコンの習熟に関する講義を受け持っているが、明らかにパソコンに触れる機会が減っているようだ。以前はほぼすべての学生が高校でパソコン実習を経験していた。しかし、今の新入生の中にはパソコンに触れたことが無い人が10%程度存在した。これは10年前のレベルだ。脱ゆとりによって、勉強の比重が増し、勉強以外の体験が大きくそがれている可能性を示唆している。

ゆとり教育の多様性をはぐくむという理念は、十分ではなかっただろうけど一定程度の効果があったと僕は思っている。それを極端に改めてしまったため、ゆとり教育の良い面まで否定した格好になっていると思う。
今、脱ゆとりの揺り戻しが来ている。歴史教育では暗記要素の大幅減量が検討されている。あまりに極端な減量に対して批判が殺到しているが、傾向としては悪くはない。今のセンター試験の内容を見るとわかるが、あまりに暗記要素が多いのだ。それを改めるというのは正しい方向性だと思う。しかしながら、歴史などの社会科の内容に対する教育目的・重要性をきちんと議論してから取り掛かるべきだと思う。

ゆとり教育を受けてきた人たちは、先生に対する質問に物おじしない傾向があるように思う。わからなかったら気軽に先生に質問をするのだ。また、実験でうまくいかなかったら、すぐに助けを呼ぶし、手順がわからなかったらすぐにヘルプを求める。少し我慢が足りない気もするが、ホウ・レン・ソウの原則がすでに徹底されているとみることもできる。僕はホウ・レン・ソウが良いとは思っていないけど、一般社会ではホウ・レン・ソウはないよりあった方がよいとみなされている習慣であり、ゆとり教育ではそれが徹底されるような経験を経てきたということなんだと思っている。社会に役立つ人材育成という意味では、ゆとり教育は悪くなかったかもしれない。

僕は中学校や高校に行って主張授業を年に2回ほどおこなっている。以前は非常にレスポンスが良かったんだけど、最近はだんだんとおとなしくなっている。特に、都会の学校ほどレスポンスが悪い。
田舎の中学や高校というのは、非常に広い地域に1校しかない場合が多く、学校を選択する余地がない。そのため、勉強のできる子からできない子まで多様性に富む。その中で切磋琢磨して、たくましい人材が育っているように思う。ただし、試験成績の絶対値はどうしても不利になるかもしれない。一方、都会の中学・高校では選抜試験が実施され、優秀な生徒を集めている。その場合、どうしても人材が均質化する。選抜するということはそういうことだからだ。その結果、どうしても多様性は少なくなる。一方、勉強に関しては競争が激化する。元々そこそこ勉強ができる子の集団を選抜していると、平均値は必ず上昇する。本当にトップの一部を除き、選抜前と比較すると試験点数や偏差値は低下する。それが刺激になって競争が進む。それはある種の教育手法ではあるが、今の中学・高校教育では普段の勉強成績や態度が進学を大きく左右する。ちょっとでも悪目立ちすると不利になるのだ。そのような中では個性を押し殺して集団に埋没したほうが安定した成績を得られる。中学・高校の先生方は個性尊重を意識しているとは思うが、システムが個性を殺すようにできている。
そのような教育を生き抜かなければならなかったため、学生は極めて従順で没個性という生存戦略を選択していると僕は見ている。

まとめ

うちの大学の学生の真面目さ、東大出身者のクレージーなストイックさなどから、置かれた立場や教育環境によって、形成される人格に少なからず影響があると僕は思っています。特に中学校や高校での教育環境はとても大事だと思います。まさに、「孟母三遷の教え」です。そうして形成された人格は一生引きずることになります。こちらはまさに「三つ子の魂、百まで」です。だからこそ、教育は大事だと思うのです。
ほとんどの場合、真面目さ・勤勉さは美徳です。しかしながら、組織の永続性を考えたとき新陳代謝をもたらす多様性は必須であり、組織の上層では特にそれが大事とされています。それなのに日本の会社は旧態然として従順さを優先するような気がしています。それは多様性を尊重するという建前とは真逆な気がします。学生たちの就職状況からそれを強く感じます。
国策として多様な人材育成を推進するというスローガンが掲げられており、その方策の一つがゆとり教育でした。ゆとり教育は廃止されましたが、一定程度の成果があったと思います。その成果がきちんとした評価を得るまでまだ20年かかるにもかかわらず、朝令暮改で脱ゆとりに舵が切られました。多様性尊重の建前とは裏腹に、あらゆる事象が多様性軽視の方向性を示しているように思えてなりません。

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