就職活動真っ只中。
今年2018年は、かなりの売り手市場らしいですね。
日本では、新卒一括採用が行き過ぎているのだけど、だれもそれをやめられなくなっています。新卒ってのは大学を出たばかりで、業務に必要なスキルをほとんど持ちません。なのに、将来性という名目で好待遇での採用が横行しています。一方、企業側も、優秀かもしれない人材を他社にとられまいと、好待遇を競う。新卒採用というのは、学生にとっては一生に一度の好機となるので、自分を高く売るために様々な駆け引きが繰り広げられます。そういった状況に便乗すべく、就職産業というマーケットが幅を利かすことになります。リクルートなどの就職産業は、企業と学生のマッチングと称し、様々な就職セミナーを開催し、学生をあおって、自分たちの事業を拡大してきました。
日本では、新卒一括採用が行き過ぎているのだけど、だれもそれをやめられなくなっています。新卒ってのは大学を出たばかりで、業務に必要なスキルをほとんど持ちません。なのに、将来性という名目で好待遇での採用が横行しています。一方、企業側も、優秀かもしれない人材を他社にとられまいと、好待遇を競う。新卒採用というのは、学生にとっては一生に一度の好機となるので、自分を高く売るために様々な駆け引きが繰り広げられます。そういった状況に便乗すべく、就職産業というマーケットが幅を利かすことになります。リクルートなどの就職産業は、企業と学生のマッチングと称し、様々な就職セミナーを開催し、学生をあおって、自分たちの事業を拡大してきました。
就職セミナーの主な内容は、「企業研究」「自己分析」「エントリーシートの書き方」「面接の心得」などです。ちゃんと掘り下げた内容ならまだよいですが、1時間ほどのセミナーでは薄っぺらい内容にならざるを得ません。また、正直に現実を伝えると、学生は絶望するだけになるので、かなり甘い内容にならざるを得ません。そんなセミナーに意味があるのか?といつも思います。
企業研究
学生程度が「企業研究」と称して、正しく状況を読み解けるなら、株で損する人はいません。また、企業も経営を左右するような核心的な情報は開示するわけがありません。
自分が会社の中でどのように貢献できるのか考える、というのが企業研究の目的のひとつとされています。しかし、企業では、何十人、何百人という社員が毎日知恵を絞って、自分たちの会社への貢献方法を考えているわけで、一人の学生がポッと思いつくようなアイデアなんて、何十回も検討されて否定されているはずです。企業は学生にそんなことを期待したりしません。何のために「企業研究」を学生に進めるのか理解不能です。
就職してしまえば、会社のことを知る機会と時間はたっぷり確保できます。だから、企業のことは就職してから学べばよいと思います。経営を目指すならば、企業研究の分析力が重視されるでしょう。その場合に重要なのは、ライバル企業との比較であり、志望先のことだけをマニアのように調べ上げることは要求されません。そういう理解でないということならば、その人は自分の能力が足りないことを露呈していることになります。ということで、あんまり調べすぎると、むしろ逆効果、ということになると思います。
就職してしまえば、会社のことを知る機会と時間はたっぷり確保できます。だから、企業のことは就職してから学べばよいと思います。経営を目指すならば、企業研究の分析力が重視されるでしょう。その場合に重要なのは、ライバル企業との比較であり、志望先のことだけをマニアのように調べ上げることは要求されません。そういう理解でないということならば、その人は自分の能力が足りないことを露呈していることになります。ということで、あんまり調べすぎると、むしろ逆効果、ということになると思います。
面接の心得
僕は「面接」の対応をやったことがあります。ちょっとした入試業務です。その時、ご多聞に漏れず「志望動機」を最初に尋ねました。でも実のところ、志望動機は面接の採点には一切関係しませんでした。志望動機を尋ねるのは、挨拶みたいなものという位置づけで、面接対象を落ち着かせるのが目的でした。
志望動機というのはだれでも用意してくるもので、本当に吟味したければ文章であらかじめ提出させることができます。例えば、エントリーシートにも志望動機欄があるものです。面接というのは極めて高コストな試験法なので、文書で検査できる項目をわざわざ面接で行うのは非合理的です。時間がもったいなので、面接では志望動機を聞きたくないのが面接官の本音でしょう。にもかかわらず尋ねるのは、以降の面接をスムーズに行うためです。
面接では文書では審査できない側面を重視します。というか、ちゃんとした面接はそうでなくてはいけません。受け答え、論理性、課題に対する真摯さなどです。だから、服装も容姿もあからさまな審査対象ではありません。
ただし、合理性という観点からは、服装は審査対象となりえます。例えば、目立つことが主たる目的の服装・容姿はビジネス上の障害になるのでNGだけど、それがビジネス上の演出として理にかなっているなら、服装・容姿が加点となるでしょう。就職産業のセミナー講師は現実には素人なので、他人の人生を左右する最終判断を行う責任をちゃんと理解していません。だから、被面接者の視点からしか「面接」を理解できていません。そういう人を講師にしたセミナーに意味なんてあるわけありません。
志望動機というのはだれでも用意してくるもので、本当に吟味したければ文章であらかじめ提出させることができます。例えば、エントリーシートにも志望動機欄があるものです。面接というのは極めて高コストな試験法なので、文書で検査できる項目をわざわざ面接で行うのは非合理的です。時間がもったいなので、面接では志望動機を聞きたくないのが面接官の本音でしょう。にもかかわらず尋ねるのは、以降の面接をスムーズに行うためです。
面接では文書では審査できない側面を重視します。というか、ちゃんとした面接はそうでなくてはいけません。受け答え、論理性、課題に対する真摯さなどです。だから、服装も容姿もあからさまな審査対象ではありません。
ただし、合理性という観点からは、服装は審査対象となりえます。例えば、目立つことが主たる目的の服装・容姿はビジネス上の障害になるのでNGだけど、それがビジネス上の演出として理にかなっているなら、服装・容姿が加点となるでしょう。就職産業のセミナー講師は現実には素人なので、他人の人生を左右する最終判断を行う責任をちゃんと理解していません。だから、被面接者の視点からしか「面接」を理解できていません。そういう人を講師にしたセミナーに意味なんてあるわけありません。
自己分析
自己分析ってのは、自分の長所と短所を自覚しましょう、ってことだと思いがちです。でもちょっと短絡的ですよね。まず、長所と短所を一対にしているところが浅はかです。言葉としては対になっていますが、現実には全く別物です。長所と短所のもっとも違う点は、短所は厳然として存在しており、長所は自ら形成してゆくものだ、ということです。日本人は単一民族なので、生物としての基礎力に個人差がほとんどありません。これまでのトレーニングや努力によってさまざまな形質を獲得し、個人差が生まれています。そのようにして形成された個人差のことを「長所」と呼びます。生まれつきの有利不利は多少あるでしょうが、誇れるような長所は自らの意思で獲得してきたものです。一方、短所はトレーニングや努力が及ばず、そのままに残された形質です。自らの意思とは関係なく、現在持っている形質です。だから、長所と短所を列挙するとき、短所はすぐに見つかりますが、長所はなかなか見つかりません。
また、長所や短所がどのくらいのレア度かということが現実には重要になります。例えば、「社交的」という形質において、アベレージくらいのレア度でも長所に分類するかもしれません。でも、その程度の形質は実際には無視されます。長所として特筆できるレベルは最低でも10人に1人くらいのレア度が必要です。そして、そのくらいのレア度に達しようとすると、何事においても継続的・意識的トレーニングが必要になります。
そのようなトレーニングを行っている学生はめったにいません。確かに、スポーツをやっていれば、レア度の基準はクリアできます。ただし、そのスポーツが仕事に役立つかが大事ですよね。そこのつながりを説明できないと、就職活動における長所として挙げることができません。
長所とは意識的にトレーニングするものなので、「自分がどのような人間になりたいか」ということを突き詰め、そのための努力を継続した結果、獲得するものということになるでしょう。就職活動の準備として半年前くらいに見つけようとしても無理です。
短所は逆に既存の形質のはずで、それはすぐに見つかります。でも、短所はある場合には長所にもなるということを意識することが大事だと僕は思います。例えば、僕はぐうたらです。それは「勤勉」という良い形質の対極にあります。ただ、ぐうたらでいるためには、勤勉でなくてもよいようにうまく立ち回らなければなりません。なので僕は、あらゆる物事に工夫をします。それは僕のよい形質になっています。
勤勉な人は与えられた課題をきっちりこなそうとします。ぐうたらな僕は、課題を完全に達することは最初からあきらめ、その課題を含むような新たな課題設定を考え出し、それをより少ない努力で達成しようとします。その結果、当初の課題を越えて達成し、より高い評価を得るようにしています。そういうのはむしろ手間暇かかるわけですが、最終的には少ない努力で+αの評価を得られて、お得です。そのような行動原理は本質的に「ぐうたら」に起因すると僕は思っています。僕の評判は決して「秀才」ではないのです。
短所は時に長所にもなります。それをきちんと理解するのは大事なことです。ただ、そういうのは就職活動の一環として行うようなものではないと思います。
エントリーシート
現在の採用プロセスでは、履歴書とは別に様々な自己PRを記載したエントリーシートが要求されます。志望者が多すぎるので、書類選考するのですが、その材料にするものです。なので、エントリーシートは基本的に候補者を間引くために使われると思って間違いありません。では、どのくらいの確率で書類選考をパスするでしょう。まず、スペックによる選考があり、これは学歴等が重視されます。基準に達していなければ、エントリーシートを頑張って書いても無駄になります。合格率が50%なら、気合が入りすぎるのはよくないかもしれません。合格率が10%なら、丁寧さが重視されるでしょう。合格率が5%以下なら、普通に書いても無駄です。何かしら個性が要求されます。
極端に合格率が低い場合を除き、重視されるのは文章力だと思います。僕もそうだったのですが、日本の学校教育では文章力が使い物になりません。研究室では徹底して日本語の文章を書く練習を行うくらいです。書類選考が通らない学生については、エントリーシートの添削を行うことがあります。そうすると面接に進めたりします。ただ、そのように僕らが手を貸したとしても、どこかの時点で文章力の不足が露呈するでしょう。
逆に、ある程度の文章力が備わっていると就職活動を有利に進めることができます。ただ、文章力を鍛えるにはきちんとした指導者と時間と本人の意思が必要です。特に、自分の文章力がダメだということは、なかなか受け入れがたいもので、本人の意思が最も大きな障害です。
コミュニケーション
コミュニケーション力というと、「しゃべる能力」と短絡する傾向にあります。でも、本当のコミュニケーション力はもっと別のところにあります。フリーアナウンサーの宮根誠司氏が朝日放送に入社した際の面接の話がとてもわかりやすいです。もともとアナウンサー志望ではなかったそうですが、気軽な気持ちで応募したそうです。3つくらい面接があったそうですが、それぞれの面接で面接官の役職や年齢が異なると考えて、面接官の年齢層に応じたネタを仕込んで面接に臨んだそうです。それはつまり、コミュニケーションの基本の一つ、相手のことを考える、ということです。そして、幅広い年齢層に合わせたコミュケーション術を身につけておくということも大事です。今の若い人たちは、同年齢の人たちとしかコミュニケーションの経験がないので、世代を超えたコミュニケーションが苦手です。そういうのを普段から鍛えておくべきでしょう。
もう一つ重要なのは、就職面接において何が審査されるのかきちんと理解するということです。僕たちは理系なので、研究内容のプレゼンテーションが要求されます。学生たちは一生懸命研究内容を説明しようとしますが、実は面接で要求されているのは研究内容そのものではありません。面接官はその研究の専門家ではないので、細かな内容までわかりません。だから、ディテールが精密で正確かなんてのは要求されません。それよりも、門外漢を想定した説明になっているか、情報の重要度がきちんと分類され、重要なものほど伝わりやすいように工夫されているか、自分のコントリビューションをアピールできているか、などが評価されます。であれば、ごちゃごちゃ詰め込んだプレゼンは逆効果で、内容を絞って重要なことだけを伝えるように準備すべきです。でも学生は不安なので、そういう思い切ったプレゼンは作れないのです。であれば、内定は遠いよね。
右へならえ
今の学生はゆとり教育真っただ中で育った世代です。ゆとり教育は個性尊重が叫ばれ、実践されたはずです。にもかかわらず、学生たちはハウツーに終始し、第三者(就職産業)に振り回されています。僕の実感ですが、ゆとり教育によって「右へ倣え」が得意な人たちがむしろ増えたように思います。いきなり自由が与えられると、どうしたらよいかわからないので、他人の真似をするようになる、ということだと僕は思います。自由を与える前に、自由を活用する知識とスキルがないといけません。そのためには、本人の意思を無視して、様々な選択肢を体験する必要があります。就職活動を始めるときに、「どの会社でもチャンスがありますよ~」「やりたいことを実現する手段として就職してくださいね~」ときれいごとを言われても、ぶっちゃけ困るというのが学生たちの本音だと思うのです。
就職活動が自由化したせいで、膨大な選択肢が学生たちにはあります。その膨大な選択肢の中で、就職活動を有利に進める情報を求めてあがき、就職産業に踊らされているのは、極めて不幸です。そして、もっと不幸なのは、そういう状況に自分が置かれていることを全く理解できていないことです。
世の中には膨大な数の会社があります。どんな会社に就職しても、やることはほとんど変わりません。給料も10%くらいしか変わりません。任地や待遇は少し違うかもしれません。それに応じて、就職後の生活もちょっとは違うかもしれません。でも、それらはほんの少しの違いかもしれません。
僕らの学生の頃は、指導教官の推薦で面接などなしに就職先が決まりました。選択肢のない「お見合い結婚」みたいな感じです。いや、むしろ会社とのコネを太くするための「政略結婚」かもしれません。でも、気に入らなくて会社を辞めた、という話はほとんど聞きません。今は、「合コン」「デート」を繰り返えす「恋愛結婚」に近いわけですが、会社を辞める話を多く聞きます。僕の学生でも2割~3割は転職しています。昔に比べると、若い間の転職が多くなっていると思います。それは、見合い結婚が減って、離婚が増えているという事情に通じるのかもしれません。
現代社会は極めて急速に変化しています。変化の波に乗り遅れないことは大事です。ただ、変化があまりに急速で、僕たちは過去について顧みなくなっています。でも、どれだけ世の中が変化しても絶対に変化しないものがあります。その一つは、社会の構成要素としての人です。これも将来揺らぐかもしれませんけどね。
世の中は人の集団です。人は自由に創意工夫し、しのぎを削っています。その中で、どれだけ有利に人生を過ごせるかを競っています。より良い就職先を見つける努力は、まさにその一環です。競う相手は他人です。他人と自分の違いを見つけて、有利な展開に持ち込むのが鉄則です。有利不利を決するのは個性です。どのような個性が有利であるかは、事前に知ることができません。でも、個性がなければ、勝てる見込みは生まれません。学生の間は、個性を作り出すこと、個性を磨くことが大事です。それは今も昔も変わりません。「右へ倣え」戦略は絶対的に不利なのです。それが、今も昔も、おそらく人間が社会の構成要素の主役である限り、続くものです。
自分は何がしたいのか?
就職はゴールではありません。就職してから、何十年も働くことになります。しかしながら、学校教育では「働く」ということ自体を勉強する機会がないようにも思います。
「働く」には様々な定義があります。多くの人は「労働力を提供し、対価を得る行為」と言うとすっきりするかもしれません。でも、「労働」とは「働くこと」なので、言葉の循環があって定義になっていません。また、「労働」には、「体を動かす」というニュアンスがありますが、仕事にはそういうもの以外も含まれます。なので、アルバイト等では、「時給」という概念を用います。対価としての給料が時間で発生するということです。この考えに従えば、働くとは「時間を提供することで、対価を得る行為」となります。
しかし、時給が設定されるのは、比較的低級な仕事だけです。高度な仕事に対しては「時給」は適用されません。高度な仕事とは、「できる人が限られている仕事」ですから、プレミアが発生しているので、給与に上積みがなされます。高い給与を得ようとするなら、プレミアを多くする必要があるわけです。そのためには、人材としてのレア度を高める必要があるわけです。
就職してから長い間働くわけですから、会社はあなたの隅から隅まで知ることになるでしょう。採用面接のとき、背伸びして取り繕って何とか内定を勝ち取ったとしても、数年働けば、底が知れます。その時、人材として再び査定され、その後の待遇が決まります。レア度の低い人材の価値は高くなりようがないので、出世は望めません。鶏口牛後の牛後になるでしょう。
そういう人生がよいのですか?
世の中で活躍したいのではなかったのですか?
僕はどちらでもよいと思っています。期待され、活躍する人生は、極めてストレスフルです。それを苦にする人も多いと思います。だから、できるだけ大きな会社に就職して、目立たない人生を目指すというのは、合理的かもしれません。でも、そのような人生を希望することを表明する学生は見たことがありません。
理由は二つあり、身の丈を知らず、能天気な希望を抱いているか、本当は希望しているけど恥ずかしいから公言できないか、だと思います。前者は本人の前途が多難です。後者だと、会社を裏切ることになります。
会社は何度も裏切られてきたのです。だから、採用面接を何度も行い、「良い人材」を見つけようとするのです。大卒あるいは大学院卒で「働く」ということは、活躍することが期待される環境に身を置くことです。その期待に応える能力が自分に備わっているかどうかをしっかり考えなければなりません。その能力は、トレーニングで身につくものです。ただ、どのような能力が有利なのかは事前に知ることができません。もしわかってしまうと、みんながその能力を身につけてしまい、レア度が下がり、その能力では期待に応えることができなくなります。不確定性原理みたいですね。
トレーニングは時間が必要です。大学や大学院での勉学のなかで、自分のレア度を高める努力を継続しなければなりません。残念ながら、多くの学生はそのようには考えません。ということは、逆にそのように考えて実行に移せば、それだけでレア度が上がるわけです。ちなみに、僕は学生時代にそう考えて実行しました。ただ、その時の努力は直接は役に立ってません。でも、陰に陽に影響はあると思います。
こういう議論をする就職セミナーは聞いたことがありません。