2024年12月5日木曜日

研究指導での悩み

 学生が学会賞をとれない

今回の学会シーズンでも学生は学会賞を逃しました。毎回、今年こそは!と思っているものの、どうしてもダメみたいです。発表内容はバツグンだとおもうのですけど何がダメなのか......。学生がダメな面もあるのですが、僕にも原因があると思っています。その原因が、僕が反省して改善できるのなら良いのですが、どうもそうではないような気がしているのです。


オリジナリティー問題

研究には「オリジナリティー」が要求されます。「オリジナリティー」とは唯一無二の発想や手法で、皆があっと驚くような結果を得ることです。僕は、「ほかの人が悔しがるような研究」と大雑把に考えています。思いつきさえすれば自分もできたのに!と感じてしまう研究は「オリジナリティー」が高いと言えるからです。

昔から僕の研究は、僕の個性が強く反映されたものでした。僕は、計算機、数学に強く、割と基本的な物理しか使わない一方で、それらを縦横無尽に駆使します。極めて多くの分野にわたって専門家として通用する程度の知識と理解を僕は持っています。僕の特別な分野はX線CTで、これはだれにも負けないレベルにありますが、それ以外の多くの分野で「学生向けの教科書を書けるレベル」にあります。

僕が研究に参加するだけで、僕の「カラー」が入り込み、僕が携わったことがすぐにわかるようになります。また、どの部分に僕の貢献があるかも割とすぐわかるのです。これは僕の稀有な才能ともいえるもので、研究者としては極めて有利な性質です。

この性質には不利な面もあります。一つは、オリジナリティーが高すぎて理解者がほとんどいないことです。研究者の世界は相互評価が基本です。評価を上げるには「同業者」の賛同と称賛が必要なのです。オリジナリティーが高すぎると「同業者」がほぼいません。さらに、僕の分野に後から参入しようとすると、瞬間的には僕を凌駕する必要がありますが、分野をまたいだ知識をふんだんに織り交ぜた僕の研究を瞬間的にも凌駕するのはとてもハードルが高いのです。だから、僕が頑張れば頑張るほど「同業者」がいなくなり、僕の評価が上がらないという何とも奇妙な状況が生まれます。ま、でもこれは僕個人の問題にとどまるので、僕があきらめればよい話です。評価されるために研究しているわけでもないしね。


学生の研究には指導教官の「カラー」が反映される

このオリジナリティーの問題が学生にも波及してしまう点が今回の悩みの本質だと思っています。職業柄、学生を指導するわけで、学生の研究テーマは基本的に僕が提供します。学生の研究ですから、学生の能力でなんとか実施できるような設定で研究計画を策定します。ただ、学生の研究がうまく進まないときは僕が手助けすることになるので、当然、僕の手助けがあれば問題なく遂行できるレベルの研究テーマを設定することになります。

このプロセスにはまったく不自然ではないのですが、僕が全面的に関与する場合には問題になります。当然、僕は僕の能力を前提に研究計画を立てます。僕の知識、スキルの範囲で、仮説を立て、仮説を検証する手段を組み立てます。学生の研究というのはそういうもので、みんなそのようにしているものです。その時、どうしても僕の「特殊な」オリジナリティーが入り込みます。というか、僕はそういう研究しかできませんからね。

そうするとどうなるかというと、学生の研究であっても、他の研究者にはまねができないレベルの研究になります。そもそも研究というのはほかの研究者がやっていないことを率先しておこなうことなので別に不自然ではないのですが、「学生の研究」の場合はそういうものばっかりではありません。というか「学生の研究」では研究室の特殊な道具立てとかあるものの、一般的な手法を組み合わせて指導教官の得意分野内の小規模なテーマが設定されます。指導教官の得意分野や他の研究を知っていれば、比較的容易に内容を推測でき、いざとなったなら自分でもできそうだな、とだれでも感じるものです。もちろん、僕も同じように「学生の研究」を設定しているつもりなんですが、どうしても僕の個性が少なからず入ります。

研究における僕の個性はかなり強烈なので、僕の関与がないと完遂できないような研究になってしまいます。他の人から見ると、僕の関与が80%とかに見えてしまうわけです。実際には細心の注意を払って計画しているので、研究テーマは100%僕(大学の研究室の研究とはそういうもの)ですが、研究の実施は80%以上学生です。というか、僕はなるべく関与しないように気を付けているのです。

そういう配慮はなかなか伝わりません。他の研究室の研究発表を見る時、その研究のどのくらいまでが自分でも可能か、という視点で考えるものです。有名な先生の研究はなかなかまねできませんが、そのお弟子さんだと、道具立てがあればなんとかできるかな、学生の研究なら装置や試料の問題以外は自分でもできるかな、なんて思って、現在の自分のレベルを確認するものです。そういう視点でみると、僕の学生たちの研究は、僕の特殊なスキルや知識が反映されているために、学生の研究であっても、マネするのが難しかったりします。そういうときは、指導教官の僕の関与が強い研究だ、と判断されてしまうのです。ま、学生の元々の能力では到底到達できないレベルにあるで、僕の関与はあるわけですが、それが強いか弱いか、という問題なだけなんですが、ふつうにみると僕の関与が強く「見える」ことは僕自身もわかっています。

ソフトウェア関連の研究

僕の特殊スキルの一つにソフトウェアがあります。この領域の僕の能力は特上です。プロ級ではなくて、実際にプロフェッショナルだし、もっと言えばスーパーです。プログラミング能力は簡単に100倍とかの差が付きますが、僕と卒業間近の学生の能力差は100倍以上あります。

とはいうものの、プログラミングは僕の主要スキルの一つのなので、学生の研究テーマでも活用されます。僕は化学系の所属なので、学生はプログラミングを学ばずに研究室に配属されます。ソフトウェア系の研究テーマにつく学生は研究室に入ってからプログラミングを学ぶことになります。

プログラミングは語学と似た側面があり、「経験」が大事です。つまり、学習に時間がかかります。僕が望むレベルのプログラミングスキルを身に着けるにはそこそこ適性があったとしても10年くらいかかるとみています。なので、学生が研究室に在籍する間に「プログラミング免許皆伝」になることはまず不可能です。なので、僕は学生の研究テーマに応じて、学生が学ぶプログラミングスキルを小さく限定し、指導します。難しい文法は使わず、高度な概念も避け、必要なプログラミング要素を必要最小限にしてテーマ設定します。それにより、おおむね1年くらいで「テーマ限定」で必要なスキルが身に付きます。

そのように一点突破主義な指導をすることで、「テーマ限定」で専門的なソフトウェアを書けるようになるのですが、外部から見るとそんな短期間に高度なプログラミングスキルを身に着けるのは不可能なので、僕がプログラミングを肩代わりしているに違いない、とみんな思うわけです。

プログラミングに限らず、熟練や修行が必要なスキルを必要とする研究をメインに据えている先生方は、研究を学生にオフロードするのに苦心されています。ある先生は学生には(主に安全面を鑑みて)やらせられない、とおっしゃってましたね。僕は「免許皆伝」を目指すのではなく、「一点突破」に極振りすることで問題を解消しているわけですが、これにも問題はあります。学生が極めて狭い範囲のスキルしか身に着けられないので、将来役立つスキルとしては価値が下がってしまいます。ただ、問題を整理し、切り分けて、各個撃破するというのは科学の基本戦略であり、それを実践しているのであれば、より広い範囲の学びにつながると僕は思っています。

学生にプログラミングの指導をする

どのように「一点突破」するかの具体例を示しておきます。学生に「画像処理」の研究をさせるとします。画像処理はの基本的な流れ(要素)は次のようになります。

  1. 画像データ(ファイル)を読み込む
  2. 画像処理を施す
  3. 結果(画像データ)をファイルとして書き出す
ここで、画像データを読み書きする部分は「定型」なので、僕が与えてしまいます。ただそれはシステムに組み込まれているライブラリを活用するだけなので、僕が与えるとしても大したものではありません。僕がこういう仕事を始めた時代はそういうライブラリもほとんどなかったので、画像フォーマットを調べて読み書きする関数を自作してました。特殊なファイルフォーマットに対応するには自作スキルが必要になりますが、そういうファイルに対しては「変換ツール」を僕が用意してあげれば済むことです。そのような配慮により、学生は「画像処理」の本体だけに集中できます。

さらに、画像処理の本体は次のような「定型」処理に集約できます。

  1. 出力画像のすべての画素に関するループ
  2. ループ内において、入力画像を使って出力画像中の特定の画素の画素値を計算する
  3. 計算結果を出力画像の所定の画素に書き込む

ここで、画像処理の特徴は項目2にだけ影響します。つまり、1と3は「定型」なのです。画像処理に関する「研究」とは、「入力画像を使って出力画像中の特定の画素の画素値を計算する」という部分に集約されます。

画像というのは2次元あるいは3次元の数値の表です。プログラミングの世界ではそういうものは「配列」という概念に対応します。なので、「数字の表から特定の座標の値を計算する式」が項目2の実態になります。なので、学生には、そのような式を具体的に策定するように指導します。この段階ではプログラミングの要素はほとんどありません。そして、数式をプログラミングするという行為は基本中の基本です。だから難易度は高くありません。画像処理・解析の結果はなかなかに高度だったとしても、それは「数式」が優秀なわけで、プログラミングそのものは平易なレベルにとどまるのです。だから、学生は短期間でソフトウェアを用いた研究がプロレベルに達することができるのです。

つまり、高度な画像処理・解析を行う研究であっても、その中心は「数式」を作ることであり、それはプログラミングとはほとんど関係がないのです。研究のレベルは「数式」の複雑さに依存するので、学生のプログラミングスキルが低くても高度な画像処理・解析を行う研究は可能ということです。

僕が学生にしつこく指導するのは以下の3点です。

  1. 画像とは数値の表である
  2. 画像処理とは、数値の表から必要な「値」を計算する数式である
  3. だから、プログラミングスキルの低さを言い訳にはできない
このように問題を分割し、本質的な問題に限れば、高いレベルの研究が学生にも可能になります。

2階に行くには階段を使う

研究というのは高みを目指す競争みたいなものです。山登りに例えたりしますが、学生の研究テーマで考える時は、「2階に行く」みたいな感じです。到達目標が割と近くに見えていて、到達ルートも見えています。2階に行くには普通は階段を使います。でも研究の現場では「階段」が良く見えないのです。あるいは、階段のステップが1mとか2mとかの高さがあったりします。ちょっと登るのが難しいルートを「開拓」する点に「研究」のオリジナリティーがあるのです。

学生はステップが異様に高い階段を登ろうとしがみついたりジャンプしたりするのです。放っておくとそれを繰り返したのち、あきらめてしまいます。でも現実にそういう階段?があったらどうしますか?足場を作ったり、梯子をかけたりします。研究でも同じようなことをすればよいのです。階段のステップをよく観察して凹凸を発見し、手がかりや足がかりにしてよじ登るという方法はよくやる手法です。研究では、問題を観察・分析して仮説を立て、問題の原因を究明し、一つ一つの問題を潰してゆく、という作業に対応します。梯子を懸けるのは、異分野からの技術導入に対応します。研究室にない装置を借りに行くとか、他大学の先生に相談するとかです。

研究の難易度とは「階段」のステップの高さで決まると言って良いと思います。で、僕の研究は、登れる「ステップ」が人よりもかなり高いのです。通常の人は「登れる階段を見つける」ことで「その研究をやってみよう」と考えます。なので、道具立てがそろっていれば誰でもできる研究、が多くなるわけです。特に学生の研究は「学生が登れる階段」である必要があるのでさらに難易度が低く設定されます。でも僕は、そもそも「登れる階段」の基準が高い上に、「登れる階段」が登れるのは当たり前なんで、そんな研究はほかの人がやればよい、と考えています。なので、学生の研究であっても、「一見登れそうにない階段」を研究テーマに設定します。そうすると、「僕の補助がないと登れるはずないよね」とみんな思っちゃうわけです。

僕の基本戦略は「階段のステップ」を「分割」することです。ステップを分割して追加のステップを作ります。この方法は割と一般的です。ただ、どこにでも追加のステップを作れるわけではなく、むしろ作れる場所が非常に少ないので、適切な場所を見つけられるかが研究のオリジナリティーに直結します。追加ステップが作れるか作れないかで研究の成否が決まると言っても過言ではありません。

僕が研究において設定している階段のステップは通常より高いので、追加ステップ1つでは登ることができません。追加ステップを2つあるいは3つ作って登っていくことになります。で、追加ステップを2個つくる作業は、追加ステップを1個作る作業の2倍ではないという点が難しいところです。追加ステップを作る難易度は、作成するステップ数のおよそ2乗に比例します。というのは、一つのステップ内に追加ステップを作成できる場所は複数存在します。追加ステップを一つ作る場合はどれか一つを選ぶだけですが、2つ以上だと組み合わせを考える必要があります。階段だと適当に選ぶだけで済みますが、研究においては適切な組み合わせを選ばないと意味がないのです。どのような選択をするかが試行錯誤で、これに時間と労力が必要なので、オリジナリティーの高い研究は困難なのです。


プログラマは組み合わせ問題を解くのが得意

プログラマでない人にはなかなかわからないと思いますが、プログラミングとは組み合わせ問題と解くようなものです。プログラムとは目的の動作を計算機が実施できる作業単位に分割し、その順序を記述したものです。計算機が実施できる作業単位というのは種類が多くないので、最初は目的の動作を「いかに分割するか」が大事になります。しかし、目的の動作が複雑になると分割後の要素が膨大な数になり手に負えません。なので、「よくある動作」をひとまとめにして、それを「計算機が実施できる作業単位」にしてしまいます。こういうのを思考の「階層化」と言います。そうすると「計算機が実施できる作業単位」の種類が増えますが、分割後の要素数は大幅に削減できます。

「よくある動作」をひとまとめにして「計算機が実施できる作業単位」にしてしまうという方法はとてもシンプルで効果的に見えるかもしれませんが、そうでもありません。目的の動作をどのように分割するかが「組み合わせ問題」になってしまうからです。単に細かく分割するだけなら単純作業で済みますが、ひとまとめにできる動作を残して分割する必要が出てきます。その結果、分割すべきかすべきでないかの選択が生じ、適切に選択しないとうまくまとめることができません。目的の動作の中に「よくある動作」を見つけて、そこは分割しないようにするわけですが、「よくある動作」は隠れている場合も多いのです。目的の動作についていろいろな手順を考え、その中で効率よく「よくある動作」を当てはめられるかを検討することになります。こういうのは「アルゴリズム的な検討」と言います。これも手順と「よくある動作」の組み合わせ問題になります。プログラマは日常的にこうした「組み合わせ問題」をトレーニングします。

あるレベル以上のプログラマはプログラムを作成するときに常にこういったことを無意識のレベルで考えています。その結果、「問題」に対して「手順」を何パターンも瞬時に検討することができるのです。僕くらいになると、ものの数秒でアルゴリズムで5パターンくらい、コードレベルで20パターンくらいを検討して、最適なものを2、3挙げることができます。

で、僕はこの能力をプログラミング以外に応用すべく研鑽を積んできたわけです。特に、「研究」という分野に。プログラミング問題に比べると、現実の問題は論理ステップ数がけた違いに少なく、アルゴリズム的には検討の余地がないくらいシンプルです。でも、「よくある動作」とか「実施できる作業単位」の種類が膨大です。プログラミングの場合は最終目標への「到達可能性」が保証(あるいは確信)されていることがほとんどです。なので、プログラミングの場合には有限の要素による有限の組み合わせを検討することになります。一方、「研究」では「到達可能性」は保証されません。そのため、目標の設定すら組み合わせ問題の一部になります。その結果、「研究」は、無限の要素によるほとんど無限の組み合わせを検討することになります。論理ステップ数が3桁ほど違いますが、組み合わせ問題としては、「研究」の方が難しいように思います。


研究を楽しいと感じるかどうか

学生の研究テーマの設定に関して、僕は妥協できません。それは僕の研究に対する哲学に基づいており、その哲学を説明してみました。僕はこうした研究の側面を、とても楽しい、と思っています。で、この思いを学生にも説明するわけです。

  1. 研究の最終目標に対して「ステップ」を考えなさい
  2. 各「ステップ」の実施方法・困難さを考えなさい
  3. 困難な「ステップ」に関しては「分割」を考えなさい
  4. どのような「分割」が考えられますか?
  5. 「分割」によって困難さがどのように変化するか評価しなさい
  6. より良い「ステップ」「分割」の組み合わせを常に探しなさい

全てのことをお膳立てしてもらって、それをこなすことで評価されて育ってきた学生にとって、非常に大きなパラダイムシフトの要求であることはわかっています。でも大学院を卒業した「高度人材」が、与えられた課題をこなすだけで生きていけるわけがありません。卒業までに世の中の仕組みと自分の役割を理解すべきです。一生懸命説明するんだけど、学生たちは真剣に取り合ってくれません。僕には、意味が分かりません。

研究におけるこうしたプロセスを「楽しい」と感じない限り、学会賞は取れないのかもしれません。



2024年6月28日金曜日

ユダヤ教とイスラエルとユダヤ教徒と統一教会

 僕はイスラエルとユダヤ教が嫌いです

嫌いなものは嫌い。ポリコレなんてガン無視です。イスラエルという国と、ユダヤ教という宗教が嫌いであって、イスラエル人やユダヤ教徒が嫌いというわけではありません。変な人たちが多いという印象がありますが、別にケンカしたことないですよ。

イスラエルという国の名前は小学生のときから知ってましたが、どんな国かは知りませんでした。中学生くらいの歴史の授業で、ナチスドイツによるユダヤ人の虐殺があって、そういう悲劇が繰り返されないように、ユダヤ人が集まって作った国がイスラエルだと教えられたような気がします。

大学時代は、研究室にユダヤ人がいたりして、流浪の民的なのかなって思ってみていたけど、全然普通でした。

ポスドク時代にアメリカの研究室を訪問したとき、その研究室のボスの婚約者がユダヤ人で、研究室メンバーにはパレスチナ人がいて、みんなで仲良く晩御飯を食べました。その時、イスラエルでパレスチナ人が苦労しているという話題になったけど、ユダヤ人女性は心を痛めていると言ってましたし、パレスチナ人青年も将来は立派になってパレスチナに貢献するんだと希望を込めて語っていました。今どうなっているのか知らないけど。

ポスドクに行く前に僕の周囲では僕をテルアビブに送るという話があったみたいです。もし、その時その話を受けていたら違う人生だったんだろうな。でも当時のテルアビブはテロとか暗殺とかあってかなり治安も悪かったんだよね。

イスラエル国外にいるユダヤ人やパレスチナ人は仲良く生活できているのに、イスラエル国内は真逆の状態です。なんでこんなことになるのかと考えたとき、悪いのはイスラエルという国とユダヤ教なんだと思いいたりました。

イスラエルという国の成り立ちと国是

ナチスドイツのユダヤ人虐殺の反省に立ち国連主導という形で成立したのがイスラエルです。でも、実際はもっと紆余曲折がありました。第二次世界大戦でいろいろ窮地に立たされていた英国が方々に口約束をしまくった結果、その約束の大半を守れなくなりました。そういう約束の中に「ユダヤ人の国を作る」というものも含まれていました。場所はユダヤ教の重要な伝説的な約束の地、カナン、ということでした。伝説によればカナンというのは現在のイスラエルのあたりということになるのかもしれませんが、伝説なので実際の場所というわけではありません。だから、場所がどこでもよいのなら大丈夫だろう、というのが英国の解釈で、でもユダヤ人たちは現在のイスラエルだと思ったわけです。当時その場所にはパレスチナ人たちが住んでいましたから、そんなところにユダヤ人の国を作るのはかなり無理があったわけです。

パレスチナ人の土地にユダヤ人の国を作るというのは難しいので、別案になりそうだったわけですが、ユダヤ人たちは激怒します。ユダヤ教において約束や契約は命を懸けて守るべきものなので、ユダヤ人たちは決して譲りませんでした。世界大戦で経済が疲弊していた国々を札びらでひっぱたいていうことを聞かせたのです。妥協案として国連主導でユダヤ人とパレスチナ人が共存する国としてイスラエルを新しく作る、としたのです。

建国に当たっては国としての理念を策定するのですが、ここでユダヤ人たちは悪名高いシオニズム憲章というのを持ち出します。当時すでに米国は経済をユダヤ人に握られており米国はユダヤ教徒たちの傀儡でしたからその後押しもあって、シオニズム憲章を通す形でイスラエルを建国してしまいました。これが悲劇の始まりでした。

シオニズムというのはユダヤ教とユダヤ教徒の理想を語る思想であり、それを明文化したものを俗にシオニズム憲章なんて呼んだりします。ユダヤ人の土地を取り返すとか、アラブ人を追い出さないといけないとか、そういったことがあります。で、明文化したときにどこからどこまでユダヤ人の土地か、みたいなことも述べてあり、それはほぼ現在のイスラエルとレバノンの一部(ゴラン高原)のすべてになります。そのシオニズム憲章に従って、周辺国と戦争し、パレスチナ人を締め出して、国土を整備しているのがイスラエルという国です。なぜそんな無体なことができるのかというと、シオニズム憲章がイスラエルの憲法に組み込まれているからです。イスラエルが独立した法治国家である限り、パレスチナ問題は絶対に解決しないのです。

イスラエルという国

とはいうものの、こうした排他的な思想を国是とする国も多くあります。身近なところでは韓国と北朝鮮は互いに互いを敵国とする憲法?法体系?を持っています。どちらもいい加減な国なので、その時々の指導者によって態度がころころ変わりますけどね。でも両国ともに戦争状態という建前です。しかしながら、実力行使はしません。国是として敵国認定条項があったとしても、実際に攻撃とかするのはあり得ません。ところが、イスラエルは違います。周囲のアラブ国を敵とみなし、機会を見つけては戦争します。自国内に住むパレスチナ人を弾圧し、アパルトヘイトを敷いています。この21世紀にアパルトヘイトを続けている国はイスラエルだけです。

イスラエルは自国が攻撃された時のみ自衛のために反撃するのだ、という口実を使います。しかし、イスラエルには悪名高いモサドがあります。モサドはアメリカのCIAと並んで有名な諜報組織です。そして世界で最も非合法手段に忌避感を持たない組織でもあります。おそらくモサドは世界で最も暗殺を多く実行している組織です。イスラエルがかかわる戦争のほとんどはモサドの裏工作が発端だと言われています。他国がイスラエルにテロを仕掛けたように見せかけるのです。あるいは、イスラエルの犯行であることがこっそりわかるように(しかも証拠は残さないように)要人暗殺をするのです。すると、報復のためにイスラエルへの攻撃が始まり、イスラエルは正々堂々と反撃するのです。誰が悪いかというとモサドですが、モサドは非常に優秀な諜報組織で尻尾をつかませません。とても厄介な組織なのです。

イスラエル軍にはある特徴があります。イスラエル軍の役割の中にパレスチナの武装組織の鎮圧があります。長い争いのためにパレスチナ人たちは生まれた時からイスラエルへの恨みを持ちます。身内の一人くらいは必ずイスラエルに痛い目にあわされているのです。だから、パレスチナ人は全員イスラエルに反感を持っています。そして、彼らは潜在的な反イスラエル勢力なのです。

パレスチナの武装組織は一般市民と区別がほとんど尽きません。拠点も民家だったりします。イスラエル軍はそういった場所に突入するわけです。そこは武装組織の拠点ではない場合もあります。だから、普通の国の軍隊は、突入時に反撃されたら容赦なく攻撃しますが、反撃がなければとりあえず拘束します。しかし、イスラエル軍ではまず射殺するように訓練されます。今回のガザの件でも、人質をイスラエル軍が射殺する事件が発生していますが、報道されているのはごく一部だと思います。

そういうイスラエル軍に対処するため、パレスチナ人たちは「死んだフリ」をすることがあります。隠れて死体を装うのです。しかし、それは武装組織もわかっていて、死んだフリからの反撃ということも行います。そのため、イスラエル軍は死体を見つけたら、近づく前に3発銃弾を撃ち込むように訓練されます。こんなことをする軍隊はイスラエルだけです。かれらはイスラエル人以外ゴミだと思うように教育されているのです。

もう、こんな国ない方が良いよね!と僕は思うのです。

ユダヤ教とユダヤ教徒

僕がユダヤ教を初めて学んだのは高校生の時です。僕の高校は仏教系の学校で、宗教の時間というのがありました。基本的には仏教のことを学び、座禅とかをするのですが、仏教徒である必要はありませんでした。そういうこともあって、いろんな宗教のことも学びました。もちろん、仏教が一番多かったですけど、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など世界の四大宗教は比較的多く学びました。

キリスト教の成り立ちや歴史を学ぶ際にユダヤ教は避けて通れません。キリスト教の聖典の一つである旧約聖書はユダヤ教の聖典だからです。キリストの生まれる前に活躍したモーゼは当然ながらユダヤ教徒ですからね!モーゼはキリスト教徒ではないのです。絶対に!そして、キリストの両親もキリスト教徒ではありません。のちに改宗しているかもですが。そして、告知天使もキリスト教徒ではありません。神の使いなので!そういうことを言うとキリスト教に怒られそうだけど、しょうがないよね。論理的帰結なんだから。

というわけで、キリスト教を学ぶついでにユダヤ教も学びました。ユダヤ教というのは、比較的規模が小さいので、細かい戒律が存在します。宗教というのは規模が大きく大衆化する過程で戒律が整理され、ヘンテコな戒律は削除されていくのが普通です。ですが、ユダヤ教はそのようなプロセスはありませんでした。なぜなら、ユダヤ教は布教をしないからです。

ユダヤ教では改宗してユダヤ教徒になれるパターンは、ユダヤ教徒の夫を持つ女性のみです。ただし、歴史の中で一度だけこの原則に従わなかったことのあります。ユダヤにルーツを持たないロシア系ユダヤ人の始まりと言われています。そのたった一度の例外以外、ユダヤ教への改宗が認められたことはありません。

ユダヤ教では、朝起きたら顔を洗って歯を磨く、とか生活の細かな行動まで戒律の中に定められています。順番も決まっています。働く時間や休む時間も決められています。これはイスラム教と同じ感じですが、ユダヤ教の方が厳密なんじゃないかな。そして大事なのが契約や約束を決してたがえてはいけないという戒律があることです。

改宗という概念がなく、厳格な戒律が存在することは、ユダヤ教が非常に強固で閉鎖的なコミュニティーを形成する大きな要因になっています。一方で、ユダヤ教は戒律の中に勤勉さを組み込んでいます。そのため彼らはコミュニティーのために懸命に働きます。そのため、ユダヤ人は商売上手です。そして契約をたがえないという信用があるため、商売相手としては理想的です。ただ、あまりに契約重視であるために、問題も起きます。それを取り扱った有名な戯曲がヴェニスの商人ですね。

このかたくなまでの契約・約束重視の姿勢が、「約束の地」への固執につながり、パレスチナ問題となっているのだと思います。

すべての世界宗教に共通するのは安心安全で平和な世界への祈りです。でもユダヤ教にはその発想はありません。そもそもユダヤ教には改宗という概念がないので、世界は、ユダヤ教徒とそれ以外で、成り立っています。ユダヤ教はユダヤ教徒以外のことに全く関心がないという宗教なので、ユダヤ教とそれ以外の対立的な構図で世界をとらえることになります。ユダヤ教にとってユダヤ教以外の世界は、「お金」という資源を供給する鉱山みたいなもので、ユダヤ教徒以外は別の生き物という認識です。ユダヤ教には選民思想(ユダヤ教では救済が約束されているのはユダヤ教徒のみ)があるので、ユダヤ教徒以外は家畜かなんかだと思っているかもしれません。酪農家と乳牛みたいな関係?


ユダヤ教徒と統一教会

ユダヤ教徒は集めた金を政治に投資しています。いわゆる政治献金というやつです。政治献金に対して良いイメージのあるアメリカではユダヤ系の献金がじゃぶじゃぶになってて、ユダヤ教に有利な政策がほとんど無制限に行われています。イスラエルが好き放題している背景には、アメリカの政治がユダヤマネーで牛耳られているという事情があるのは有名です。

金を集め、政治に投資するという構図は、実は統一教会と似ています。ユダヤ教と統一教会の違いは布教があるかどうかと、寄付を教会が一括して運用する点です。政治献金はユダヤ教徒たちが自主的に直接行うのです。それはユダヤ教が古い歴史をもつことによるノウハウなのでしょう。一方、統一教会は新興であり、政治への働きかけを急速に進める必要がありました。そのため、ノウハウを持たない一般の教徒の代わりに、教会が半ば強制的にお金を集めて運用していたのだと思います。以前は統一教会は布教に関しても問題を起こしていましたが、最近は布教に関する問題はほとんど聞きません。コミュニティーが閉じつつあるのでしょう。それは統一教会のユダヤ教化を意味している気がしています。

新興宗教が生き残るにはいくつかのハードルがあります。持続的な資金運用、宗祖・指導者の取り扱い、社会的な認知、教徒の獲得(布教)といった事柄です。布教活動を強めると社会的に排斥されるので、布教活動をやめるという選択肢があります。布教をやめると産めよ増やせよとしないと教徒が減少します。なので、ユダヤ教では避妊しないことと多産が教義として存在します。統一教会も合同結婚式で出産の確率を上げ、多産を推奨しています。多産すぎると経済的に破綻するので、ヘンテコな養子あっせん制度があります。問題になってましたけど。統一教会は布教をあきらめて社会的な認知を固定し、ユダヤ教化しているのです。

おそらく、統一教会は政治献金を継続しながら、ユダヤ教のように社会に浸透するのだと思います。ユダヤ教は歴史が古いので、問題を起こさないノウハウを持っていますが、統一教会はそうではありません。多分、あと100年くらいしたら、入信という制度をやめるんじゃないかな。

ということで、僕は統一教会も嫌いです。


2024年5月22日水曜日

英語のテストを廃止してみる?

 日本の英語教育はダメダメ

日本の学校教育が高卒時点で目標としている英語のレベルは、英検2級だそうです。しかしながら、高卒時点でこのレベルを達成しているのは2%だけだそうです。この2%の中には留学経験者も多く含まれると思われるので、日本での学校教育だけで十分な英語能力を得る人は極めて稀であることがわかります。逆に言えば、日本国内の学校教育で英語が十分に習得できないのは普通ということです。ということは、教育法に問題があるということで、改善が必要なことは明白です。

そういうことは、文部科学省もよくわかっていて、英語教育改善のためにいろいろな施策を施してきました。もっとも有名なのは、大学入試センター試験にリスニングテストを導入したことです。大学入試にリスニングがあると、高校でリスニング対策の教育が施されます。実際にそうなりました。英語教育改革は高校だけにとどまらず、小学校・中学校でもALTと呼ばれる外国人補助教員が導入されました。これを第1次改革と呼ぶことにします。

現在の大学生はこうした施策をすべて享受して育った世代です。その結果が「2%」なのです。文科省は相当なショックを受けたわけです。その結果、小学校低学年からの英語教育を必修化しました。また、センター試験が共通テストに解明されるタイミングで、英語リスニングテストの割合を25%から50%に引き上げました。これを第2次改革と呼ぶことにします。


第1次改革(リスニング試験導入)は失敗だったのか?

現在の大学生たちの英語能力を見る限り、第1次改革は目論見を大きく外れています。英語で会話できる学生は皆無だし、英語の読み書きはひどいものです。実際のところ、リスニングはちょっとだけ改善したかもしれません。でも実用レベルには程遠いのが現状です。

でも、ちょっとは改善の兆しが見られたことから、文科省はもっと極端にリスニングのウェイトを増やしました。センター試験にリスニングを導入する際のすったもんだは大変だったけど、なんとか導入されて、問題なく運用されました。

で、問題はその効果。高校ではリスニング対策として英語を母語とする先生が大勢雇われて、それなりのトレーニングは実施されるようになりました。ちょっとはリスニングの能力は向上したんだと思います。でも、十分ではなかったと思います。大学で見ている限り、英語がちゃんと聞き取れる子はいませんからね。

失敗とは言い切れませんが、目標としたレベルまでは達していないというところでしょうか。なので、文科省は2つの対策をします。ひとつはセンター試験を共通テストに改名するタイミングで英語のリスニングの重みを変更しました。リスニングの重みを筆記試験と同じにしたのです。もう一つは小学校における英語教育の必修化です。

リスニングの重みが増したことで高校におけるリスニング対策がより活性化することをもくろんだわけですが、これは早々に失敗しつつあります。人員の問題もあるし、教材の問題もあります。また、英語の筆記試験の難易度もついでに上がった影響で、教育効果の上がりにくいリスニングを諦める雰囲気が出ています。過ぎたるは及ばざるがごとし。


小学校に英語を導入

文科省もリスニング教育の推進だけではダメだとわかっているので、次の一手として小学校での英語を必修にしました。この根拠は子供の時から英語を勉強したら大人になったら楽できるはず、みたいなことです。帰国子女の英語力が高いことに目をつけたわけです。全員を「留学」させるのはムリなので、「子供」をキーワードに対策をひりだしたわけです。

こうしたこの背景には文科省の役人の英語コンプレックスがあるのだと思います。国家公務員はエリートの頂点ですが、にもかかわらず英語ができるひとは多くありません。勉強の能力の高い役人が一生懸命勉強してきたのに英語はモノにできなかったという思いがあるのだと思います。自分が英語ができないのは、子供の時に勉強できなかったことと留学機会がなかったことだと、責任転嫁しているわけです。サイテーです。

子供は「遊び」の中で言語能力を発達させます。子供時代を英語環境下で過ごすと、英語を使わないと「遊び」に加われません。子供は必死で英語を学ぶわけです。最終的なモチベーションは「遊び」なので、子供自身は「勉強」とは思っていないことが大事だと思います。留学で英語能力が高くなるのは「イマーション教育環境」がキーワードです。英語しか使えない環境だと生存のために英語を学ばなければなりません。留学しても緩い環境だと語学能力は高くならないことが良く知られています。

英語に限らず語学を学ぶのに大事なのは高いモチベーションだと短絡してしまうと、解決策がなくなってしまいます。留学で語学が身につくのは英語を身に着けないと生活に困るからです。本人たちはかなり必死な状態で、結構苦しいと思います。

リスニング教育は無駄だったわけではない

さて一方で、英語教育の一連の改革で目覚ましい効果が上がったケースがあります。それは、歌手の皆さんです。1980年代のアイドルの英語はひどいものでした。榊原郁恵さんのヒット曲である「夏のお嬢さん」には「アイスクリーム、ユースクリーム、好きさ」という歌詞があります。僕は小さな子供だったので、アイスクリームを食べる歌なのかな?と思っていました。後になって榊原郁恵さんも意味が分からず歌っていたと告白しています。この歌詞は、「I scream, you scream ...」という英語で、私が叫んで、あなたも叫ぶ、という意味です。しかしながら、screamというのは恐怖交じりの叫びなんで、そもそもちょっと違う感じですが、問題は、歌っている人が意味が分からず歌っていて、しかも完全に日本語の発音なので、英語に聞こえなくてすっちゃかめっちゃかだということです。こういうことは全く珍しくなくて、当時から英語の歌詞は多くありましたが、まともな発音は皆無でした。

これは日本人の英語の発音がひどいというエピソードではありますが、最近の歌手の英語の発音は見事なものになっています。改善され始めたのは英語のリスニング試験が導入された頃から。時期的にリスニングの強化政策が歌手の英語の発音を改善したと考えるのが自然です。大学生のリスニング能力には効果が十分でなかったリスニング教育が、歌手の英語の「発音」に効果を上げたわけです。どういうことでしょうか?

歌手の人たちには申し訳ないですが、彼らは勉強で身を立てようとは思っていません。センター試験なんかほとんど興味なかったはずです。にもかかわらず、高校ではリスニング教育が強化されました。かれらはリスニング試験で高得点を挙げる必要はないので、リスニングでは「英語ができるようになったらいいなぁ」と思って、かなり消極的に取り組んでいたと思います。英語を音楽として聴く、あるいは、音として英語を楽しむ、という態度です。その時、英語の意味とかどうでもよいのです。英語の歌があったとして、カッコよく歌えたら良いな、と思って、真似をするわけです。そのなかで英語の「音」を素直に聞いて、まねっこしたりするのです、文字や単語に対応させることもなく、意味を考えることもなく、ただ音だけを聞いて、そのうち覚えるわけです。これは多くの人が幼児期の言語学習で行っていることです。

英語と日本語は根本的に異なります。文法はもちろん、一部の外来語を除くと単語レベルで一致する言葉はありません。これほど異なる言語はほとんどありません。というか、日本語がかなり特殊です。そういうわけで、日本人が英語などの外国語を学ぶのはとても大変なのです。特に、「音」が問題です。

日本語と英語では「音」のレベルで全く異なります。日本語は「音」の種類が極端に少ない言語であるため、英語の「音」を日本語の「音」に対応させることは不可能です。なので、日本人が英語を学習する際には、英語で用いられる「音」のセットを学ぶ必要があります。

日本語は「音」の種類が少ないのですが、それでも無理やり対応付けてしまいます。これは本能のようなものですからある程度は仕方がありません。そういう無理やりなことをすると言語学習に支障が出ます。これが、日本の英語教育が失敗した根本的な原因です。僕がこれに気づいたのは22歳の時で、愕然としました。僕が一生懸命勉強した英語とはいったい何だったんだろう、と途方にくれました。最初から最後まで間違ってました。

その後、僕は英語の「音」の基礎学習におよそ2年かかりました。その間は意味とかほとんど気にせず、英語を聴いて「音」だけ気にしてました。そして確信しました。英語は実技科目であると。

学習(訓練)において試験が設定されていると、その試験のために学習(訓練)することになります。リスニングの試験というのは、リスニングそのものを試験しているのではなく、リスニングを参考にして正解を選ぶゲームになっているのです。なので、学習(訓練)の目標が、「テストで正解を選ぶためのリスニング能力」になってしまいます。これはテストの得点が評価を左右する限り、避けられません。

例えば、体育の授業でサッカーがあったとして、ドリブルのテストをしますよ、となって練習するときには、ドリブルっぽいものを練習するはずです。でもそれはサッカーのゲームで行うドリブルとはちょっと違うものです。もちろん、ドリブルですからスピードとかボールコントロールとかは大事です。しかし、ゲームの中ではそういうものよりもっと大事なものがあって、ドリブルのテストのための練習では効果があんまりなかったりします。英語のリスニングでも同じようなことが起こっていると思うのです。

解決の糸口

幼少期の英語学習が効果的というのは事実です。でも、それは「幼少期」が理由ではないと思うのです。言葉を学ぶという割と普遍的なモチベーションに加えて、目的が純粋に学ぶことであることが重要だと思うのです。テストで高得点を目指すといった不純な動機だと多分失敗するのです。

小学校での英語の必修化が始まってしまいましたが、必修化というのはつまり、教育効果をちゃんと測定するということがセットです。つまり、成績をつけるということです。すなわち、テストがあるのです。日本の教育現場では実技科目を除いて筆記試験が標準ですから、たぶん小学校の英語にも筆記試験があると思うのです。でも、思い切ってそういうのをやめると良いと僕は思います。

僕は出張授業なんかでいろんな高校や中学校・小学校に行って、先生方とお話する機会があります。その時、英語はテストをやめて実技科目にしてしまうべきだと言っています。機械翻訳の精度向上によって外国語を学ぶ必要性は緩和されつつあります。それでも外国語を学ぶのには一定の重要性があると思いますが、でも必要性は明らかに低下しています。将来的には必要ではない(不必要とまでは言わない)であると結論されるかもしれません。となるとますます英語のテストを行う意義は薄れます。であればいっそのこと英語を実技科目に位置付ければよいんじゃないかと思うのです。

特に高校に入るまでは実技科目扱いでよいと僕は思います。歌を歌ったり、映画を見たり、しりとりのような言葉遊びをしたり、ボードゲームもよいかもしれません。そういう半分遊びの中でこそ、語学の学習は効果的だと思うのです。


Reading, Composition, Grammar

英語の科目は、Reading, Composition, Grammarと分かれているのは皆さん覚えがあると思います。日本語は、「国語」「古典」に分かれていますが、英語科目より大雑把です。これらの違いは、「英語だから」だと僕は思っていました。しかし、外国籍の家内の話を聞くと、彼女の国では母語の科目も、Reading, Composition, Grammarに分かれていたそうです。調べてみると、ヨーロッパの多くの国で、母語の学習もReading, Composition, Grammarに分かれているようです。つまり、僕たちの母語の学習だけがちょっと違うということです。そしてもうひとつわかったのは、ヨーロッパでは外国語の学習ではReading, Composition, Grammarに分かれていないらしい、ということです。あえて言うならComprehensive(包括的、総合)という言葉が使われるみたいです。

なんでこんなことになっているのでしょう?日本では日本語の学習は江戸時代に寺子屋教育として確立されました。寺子屋教育では基本的に古典(論語など)をそらんじる、という教育方法がとられました。文学になじむことと、常識・道徳教育を同時に実施するという、効率的な教育法です。明治以降も基本的な教育法は継承されました。そのため、文学作品を通読することが国語教育とされたのです。戦後、英語教育を導入する際に、米国式の英語教育を取り入れた結果、英語を母語とする人たち向けの教育法が移植されたのだと思います。その結果、英語はReading, Composition, Grammarの科目にわかれました。

日本の国語教育はReading偏重です。Grammarは小学校でしか学びません。Compositionも基本的に小学校まで。中学校では読書感想文くらいかもしれません。作文を先生が添削することはありません。高校ではさらに極端になります。古典ではややGrammar的なこともやるようですが、1000年以上の歴史をもつ我が国の文学作品は年代も様々なので、言葉や文法の変遷まで手が回りません。どうしても不完全なものになります。そのような中途半端なものを多数の高校生が学ぶ意義を僕は見出せません。漢文とか、現代中国人は読めないらしいですよ。

海外で古典と言えばラテン語です。家内もラテン語を少し学んだと言ってます。ヨーロッパでは教会内の公用語がラテン語で、保管されるような文書はラテン語で書かれていました。学術書とかはほとんどラテン語です。ラテン語はローマ時代にはすでに一般には使われていなかったので、ラテン語は書き言葉として専用化し、語彙や文法の変遷がなくなりました。その結果、2000年近く前の文書も現代とほぼ同じ語彙と文法を持つのです。

一方、日本の古典文学に使われる言葉は、いちおう書き言葉として専用ではありますが、基本的には口語をベースにしており、口語の変遷の影響を強く受けます。平家物語など、標準的な古典文学ではありますが、琵琶法師が一般向けに上演する演目であり、口伝でした。そこから、古典文学の言葉は一般に使われる口語とそん色なかったことが推測されます。そのため、日本の古典文学においては時代ごとに語彙や文法の変遷が少なからず見られます。こういった言葉を十把一絡げに古典として学ぶのはちょっと無理があるのです。

ということで、現在の日本では、読解偏重の現代文と、中途半端な古典を学ぶことになってしまっています。文法や作文は置いてけぼりなのです。そういうReading偏重の母語の影響を受け、英語でもReading偏重になっています。わざわざ科目を分けているにも関わらず、Reading, Composition, Grammarの割合は、6:2:2あるいは7:1:2くらいでしょうか。Compositionは採点に手間がかかるため、マスエデュケーションでは費用対効果が悪いのです。

AIの支援を受ける

最近の計算機技術は目を見張るものがあります。とくに機械翻訳は十分に実用的なレベルにあります。そのため、日常的な活動において、外国語を習得する必要性は薄れつつあります。ある程度の不自由さを許容すれば、機械翻訳でコミュニケーションをとることができます。それでも僕たちは外国語を学習するべきだと、僕は思います。外国語の学習はその国の文化を理解することにつながるからです。

計算機技術の進歩は外国語の学習を変革すると思います。特にSpeakingに関しては革命が起こるかもしれません。英語の音声入力を使うと、Speakingのテストが行えます。正しい発音を学べるのです。英語の読み上げはListeningの訓練に使えます。日本語・英語の相互翻訳を使えば、CompositionやReadingの訓練になります。そしてAIは、会話の相手になってくれます。

外国語の学習は伝統的なReading, Composition, Grammarのフレームワークを離れ、AIの支援を受けた、実践的で個人的なレッスンへと変化してゆくと思います。そのとき、僕たちは今までのような英語のテストを必要とするでしょうか?多分、高度でない会話は機械翻訳で十分です。専門的な文書の読解はAIでは不可能です。AIは精密さが足りませんからね。専門的な文書の読解は高校生では無理で、大学で専門的知識と英語読解のトレーニングを積む必要があります。ま、英語だけではだめで、日本語の読解力も必要になるので、日本語の勉強もやり直しですけどね。


教科書をなくしてみる

語学学習における教科書の役割はなんでしょう?文法や語彙を順に学習してゆく場合には教科書はとても便利です。しかし、教科書に頼ると、語彙や用法の学習が致命的に遅れます。言葉というのは単語を並べるだけでもそこそこ通じるものですし、単語を拾えればどういう分野の話なのか推測できます。テレビタレントの出川哲朗さんのやり方は悪くないのです。

英語での日常会話をこなすのに必要な語彙数はおおむね5000語と言われています。大学の講義を聴講するには8000語、大学卒業で12000語という調査もあります。一方、日本の高校生が授業で学ぶ語彙数は1000語程度。語彙の学習に用いる単語帳の語彙数は2000語前後。なので、大学入試時点で、最大で3000語というのが日本の基準です。これでは日常会話がおぼつかないのはしょうがないのです。

語彙が貧弱になるのは英語の試験の問題でもあります。英語の定期試験は教科書をベースに出題されるの普通です。なので、生徒は教科書を繰り返し読みます。僕もほとんど丸暗記するくらい読んだ記憶があります。この勉強法では語彙は全く増えません。語学の学習では教科書は副教材にとどめるのが良いと思うのです。とにかく、たくさん読んでたくさん聴いて、を繰り返すことが最終的に語学上達のカギだと思います。

その中で、同じ単語でもいろんな意味でつかわれることを学べるでしょう。それが用法です。僕の持論は、100個ほどのよく使われる動詞には平均して20個の意味(用法)があり、それらをすべて学べば、たいていの文章は理解できる、というものです。動詞さえきちんと意味が分かれば、構文が見えてきて大体の意味が分かるのです。会話では助動詞の感覚をつかむのがとても大事です。助動詞は文法的にはラッキー問題ですが、言葉に感情を載せたり、細かな状態を伝えたりするとても大事な表現です。これを学ぶにはたくさんの経験を積むことが一番です。

そういう意味で、文法を学ぶための教科書以外に経験を積むためのメインの教材が必要になります。僕が学生に勧める英語教材は、ニュース記事です。ネットを漁ればいくらでも見つかりますし、実用的な現代英語の典型例です。時事ネタだけでなく、解説記事であったり、文化記事であったり、芸能ネタでもかまいません。CNNの表現は真面目で簡潔で、BBCは慣用表現が多用されます。動画もついていることがあり、リスニングも訓練できます。毎日、1つ2つ英語のニュース記事を読むということを続けるだけで、ずいぶん鍛えられると思います。






2024年3月8日金曜日

天才による天才的な天才の考察

天才に関する評論の論評

天才に関する評論はたくさんあります。唯一無二の成果をもたらしてくれる天才の存在は人類にとっての福音ですから、多くの人の興味を引くのは当たり前で、当然研究対象となり評論も多く存在するわけです。評論ですから、第三者の立場から客観的な分析が述べられるわけです。客観的なのは良いことなのですが、分析に用いるデータのほとんどが伝聞であることは問題です。

「天才」とされる人はとても少ないので、直接のインタビューは貴重ですし、すべての評論者が直接インタビューの機会を持つことは不可能です。あるいは、歴史上の天才を研究対象とした場合、大抵は死んでいるわけで、インタビューはムリです。その結果、分析に用いるデータはせいぜいインタビューの記録、あるいは「天才」の関係者への聞き取りで、それでもあればむしろマシと言えます。

他人の頭の中を直接覗くことはできませんから、天才たちがどのように感じ、考え、生きているのかは本人にしかわかりません。さらに、多くの人にとって、自分の感じ方、考え方、生き方は、「当たり前」であり、他人に説明するようなものではありません。それは天才たちにとっても同じであり、彼らがどのように感じ、考え、生きているかは、凡人たる我々にとっては価値があるかもしれませんが、当人たちにとってはそういったことを他人に説明するのは時間の無駄以外の何物でもありません。

それでも僕は自身の経験から、天才たちの感じ方、考え方、生き方の一端を理解しているつもりです。天才たちが天才的であるのは合理的帰結であり、当然であると思っています。理論上はすべての人が天才的な才能を発揮することが可能だと僕は思っています。しかし、それを実践できる人はごく少数で、それができる人が「天才」と呼ばれるだけの話。でも、それを知ることはいろんな意味でとても大事だと僕は思うのです。


大学入試システムの考察

天才とは程遠いですが、日本には大学入試という優れた人材選抜システムが構築されています。最近はこのシステムを破壊する動きが活発で、半壊状態ですけどね。大学入試では特定のタイプの人材が効率よく選抜されます。直接的には「テストで高得点を獲得できる人」となりますが、その選抜に勝ち残った人たち(ぶっちゃけ、東大、京大に入学する人たち)をみるとある傾向が見られることに気づくでしょう。それは長時間の勉強に耐えることができる、ということです。

経験上、どれだけ才能豊かであっても、10倍の勉強時間を覆すのは極めて困難です。優秀な小学校1年生(勉強歴1年)であっても盆暗な高校2年生(勉強歴10年)に学力で逆転勝利することが難しいと言うと納得がいくと思います。つまり、学力とは平たく言うと、勉強時間のことであり、勉強時間と学力の間をつなぐ係数が「才能」と言えます。ということで、学力を選抜の目安とする大学入試は、どれだけ勉強に時間をかけてきたかを問うているわけです。東大出身者の中で、高校3年間の勉強時間が500時間を下回るような人はいないと断言できます。ちなみに500時間とは、一日にすると30分程度であり、定期試験前にまとめプリントに目を通す程度で達成できます。


いやいや、東大に入るために3浪してダメだった総理大臣もいるでしょ、という反論があるとおもいます。まったくもってその通りですが、先ほどの論の中にでてきた勉強時間と学力の間をつなぐ係数という概念でそれは説明できます。この係数には個人差があります。その係数は勉強の効率と考えるとよいでしょう。効率的な勉強ができるかどうかというのは重要で、そのために塾に通うという選択肢は合理的かもしれません。また、この係数は勉強の継続時間の関数でもあります。別の言い方をすれば、「集中力」です。集中力が高いほど勉強の効率は良いですよね。また勉強を続けているうちに集中力が切れてきて効率が低下します。集中力には強度と持続時間という2つのパラメータがあることがわかります。

東大・京大の連中はすべからく集中力の持続時間が長めです。これは当然です。大学入試のように長い時間をかけて獲得した学力が評価対象となる場合、学力は日数×一日当たりの勉強成果であり、基本的に高校3年間の日数はほとんどの受験者で同じであるので、大学入試で測定されるのは、何日勉強したか×一日当たりの勉強成果になります。忘却曲線が入ってくると話がややこしくなるので、ここでは無視します。日数には上限があるので、実質的には一日当たりの勉強成果を競うことになります。一日の時間は決まっていますから、勉強の効率が重要になります。ただし、勉強時間が長くなると集中力が切れて効率が落ちるので、一日当たりの勉強成果には上限ができていしまいます。効率は集中力であり、強度と持続時間があるわけですが、長時間にわたる効率を重視するなら、集中力の持続時間が優れている方が有利となります。その結果、大学入試で選抜される人は、集中力の持続時間に優れる人が多くなります。

一方、毎日勉強しない人は総勉強時間で損をします。毎日勉強するかどうかという「勤勉さ」も学力に大きく影響します。そのため、大学入試で選抜される人はおしなべて勤勉です。

つまり、大学入試なんかで計測されるのは主に「勤勉さ」と「集中力の持続性」であり、それは「天才」という評価とはちょっと違うということがわかると思います。

さて、「勤勉」で「集中力の持続性」に優れる人というのは、やっぱり優秀です。とくに受験勉強というくだらない行為に「勤勉さ」と「持続力」を発揮できるメンタリティーを持つ人は、どれだけ退屈な仕事でもこなすことができるでしょう。部下としては理想的な人材です。就職に有利なのは当然です。


天才の研究について

大学入試と学力という比較的わかりやすい例で説明したけど、こういった関係はどのような分野でも普遍的にみられることが知られています。有名な例ではピアニストの研究があります。アマチュアのピアニストと一流ピアニストの比較研究から、両者の最大の違いは「才能」ではなくて「練習時間」であることが結論されています。アマチュアは練習時間が週数時間であったのに対し、一流ピアニストは一日8時間程度であり、練習時間の差がピアニストとしての能力差に直結するとされています。こうしたことはピアノだけではありません。あらゆる分野において、およそ1万時間のトレーニングでどの分野でも一流になれると言われています。勉強に関しても、東大合格には3000時間の家庭学習が必要とされており、小中高の学校での勉強と合わせて1万時間はかるく達成する計算になります。

多くの人が一流の分野を持たないことからもわかるように、1万時間のトレーニングというのが大きなハードルになっていることがわかります。1万時間という具体的な目安があるのになぜ達成できる人が少ないのでしょうか?それこそ、「勤勉さ」と「持続力」の問題なわけです。そこそこの勤勉さ」と「持続力」があれば、10年くらいの努力で1万時間を達成できます。5時間×200日×10年=10000時間という計算です。集中力により5時間が10時間になかもしれませんし、勤勉さにより200日が300日になるかもしれません。その場合はもっと早く一流になれるでしょう。でも、5時間の集中は普通の人にとっては限界ですし、継続を重視するなら休みも必要です。職人の世界で「一人前になるには10年の修業」という目安は合理的な見解だと言えます。


天才と呼ばれる人たちは「勤勉さ」や「集中力」が優れているというよりは、ぶっちゃけ、ぶっこわれています。病的な勤勉さとか、極端に強い集中力とか、無限に続く集中力とか、そういうものを持っているわけです。先の例だと、一日15時間、毎日練習するとかです。しかも高い集中力によって効率が倍とかになっています。それを物心ついた瞬間から続けるわけです。二十歳くらいの段階で、実質トレーニング時間が10万時間とかに達していて、それは普通の人が到達不可能な領域にあるわけです。それを以て「天才」と形容し、理解不能な実質訓練時間が達成されている理由を「才能」と呼んで安心するのです。

天才レベルの「勤勉さ」や「集中力」が「勉強」に向かえば、受験勉強なんて楽に突破できます。なので、大学入試を軽く突破する人たちの中に高確率で「天才」が現れます。しかしながら、興味が「勉強」に向かわない人たちもいます。例えば芸術とかスポーツとかに向かうわけです。これは「天才」と呼ばれる人たちが様々な分野で多様に出現する理由となります。


自閉症との関係

自閉症の人の中には特定の分野で天才的な才能・能力を発揮する場合があることが良く知られています。これも「集中力」の文脈で理解できます。自閉症(傾向)の人たちは多くの物事に興味を持たない代わりに特定の事柄に偏執的な興味を示す場合があります。興味の対象が限定されることで集中力が高まり、集中力の減退となって顕在化するストレスを、集中力の対象に向けることで解消しようとします。集中力が切れるようなストレスの解消法が自分の興味をその集中力の対象に向けることというのは、集中力のポジティブフィードバックループを形成します。これは完全にバグであり、通常の人から見ると頭のおかしな行動に見えます。その結果、肉体あるいは精神が壊れるまで集中力が高まってしまい、病気と診断されるわけです。

自閉症傾向の人は自らの興味の対象が限定されているため、興味の対象に対しては「勤勉」になります。その他の選択肢がないわけですから、当然そうなります。自閉症傾向によって形成されたバグのようなポジティブフィードバックは無限のトレーニングサイクルを形成し、気が狂ったようなトレーニング時間を実現するわけです。そういったわけで、特定の分野では優れているがそのほかの日常的な部分も含めてダメダメである、白痴天才(差別的表現になっていて申し訳ない)が出来上がります。


僕の話

ちなみに僕は勤勉さは劣っているけど、集中力の強度と持続力がぶっこわれています。勤勉さがダメなので「天才」ではありませんが、集中力は強度も持続性も天才クラスだと思います。集中力すると周りの音が聞こえないどころか、しばらく言葉が使えなくなります。発話だけでなく聞き取りもできません。持続力もほとんど制限がありません。最初からずっと集中力が全く低下しません。血圧があがったりもしません。空腹や目の疲れ、肩こりなど肉体的な疲労は生じますが、精神的な疲労というもを僕は知りませんでした。子育てをして、子供たちの集中力が切れて能力が低下する様にとても驚きました。

学者をやっている連中をみていると、みなさん同じような傾向があります。僕はこれを「ブレーキが壊れてる」と表現しています。アクセルを踏んで集中力の強度を上げるわけですが、持続力が壊れているので、集中力が低下しません。自然には止まらないわけです。ポジティブフィードバックはかかっていませんから、自閉症とはちょっと違います。病的ではないということと、興味の対象を比較的自由に選択できるという点は、社会性を保つのにとても重要です。それでも、普通の人から見れば異常者です。変人に見えると思います。


野球の天才の場合

そういう僕の経験上、「天才」の形成には社会的な要因も大きいと思っています。幼少期から知能の高い人は友達付き合いに苦労することが知られています。話の内容がかみ合わないことが理由だろう、とみんな勝手に思っているようですが、僕の経験上それは些細なことです。話題なんて無限に存在するわけですから、共通の話題を見つけるのはいかなる場合にも難しくはありません。言葉がほとんど通じない外国人とだってそれなりにコミュニケーションが取れるものです。お互いにその気があれば。

例えば、野球の天才がいたとします。高校野球くらいだとピッチャーで四番という人は結構いるわけです。高レベルなピッチャーで四番な人がいると、甲子園出場までこぎつけることが結構あります。ワンマンチームとか言われますけど。あなたがその天才の幼馴染で、そこそこ野球ができるとします。小学校、中学校で県大会とか全国大会とか優勝とか出場とか一緒に達成しました。いざ高校進学するとして、天才と一緒の高校に行って野球をしたいと思うはずです。一緒に甲子園を目指す、とか言いながら。

で、それを天才さんの側から見てみます。周りを見渡して自分より野球の上手な人がいない。野球が大好きだし、練習も楽しい。もっとうまくなりたいから練習も手を抜かない。試合ではいつも大活躍で、全国大会とかにも行く。高校でも野球を続けて、甲子園を目指すんだ。となるわけです。その時、いつも一緒に野球をしてきた幼馴染が高校でも一緒に野球をするぞと言っている。となります。ここで、天才さんと幼馴染の間に温度差があることに注意しましょう。天才さんは幼馴染がいなくても野球を続けるモチベーションを持っていますが、幼馴染は天才についていくがモチベーションになってます。つまり、依存関係ができるのです。


勉強の天才の場合

天才とそれを取り巻く人々の間には極めて高確率に非対称な依存関係が形成されます。天才は個人の力で多くの問題を解決してしまうので、周囲の人たちはその恩恵を得られます。野球の場合はチーム競技なので、周囲の人たちの存在は天才にとって不可欠であり、非対称性はやや改善されるかもしれません。これが勉強だとそうはいきません。

勉強がすごくできる天才クラスメイトがいるとして、勉強がわからないところを天才クラスメイトに尋ねたりするわけです。いざテストになると、天才クラスメイトに勉強を教わると点数が上がるはずだと思って、一緒に勉強しようと誘います。これを天才クラスメイトの視点から眺めると違ってきます。天才にとって学校の勉強は退屈で、他のクラスメイトからの質問に対しては暇つぶしも兼ねて教えたりします。テストが近づいて他のクラスメイトから「一緒に勉強しよう」と誘われます。テストだからといって特別な勉強する予定はなかったし、一緒に勉強してもメリットはないので、断ります。そういうクラスメイトは大勢いて、ぶっちゃけ辟易しています。

勉強は個人競技なので、周囲の存在は必須ではありません。そして天才一人に対して、周囲は多数。質問とか同じようなものが何度もあって、いちいち対応するのは面倒になります。勉強が話題になりそうなクラスメイトたちとは距離置くようになります。他のクラスメイトからすると、付き合いの悪いコミュ障の天才クラスメイトの出来上がりです。これは実際に僕自身が経験したことです。


僕は割とおおらかなので、コミュ障にはならなかったし、問題も生じなかったのですが、周囲からは「僕がアンタッチャブル」な雰囲気を感じました。少しでも神経質だったり、気が弱かったら、耐えられないかもと思います。

「天才」からすると、周りの人は邪魔でしかありません。3人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、全く実感しません。みんなで知恵を出し合うとか理解不能です。ブレインストーミングはみんなでやっても一人でやっても違いは見出せないし、一人でブレストの方が断然効率が良い、まであります。知的活動に関しては、周りの人はお荷物でしかないので、正直遠ざけたいのです。だからこそ、孤立・孤独は良い選択肢になるわけです。天才が孤独を好むというのは合理的なわけですが、「好む」理由は後ろ向きなのです。力を合わせるべき合理的理由がないので、力を合わせる必要のない孤独を選択するのです。


まとめ

天才の本質は、勤勉さ、集中力(強度・持続性)が全て高いこと。

大学入試は、勤勉さと集中力の持続性を計測している。

天才が孤独を好む傾向あるのは、周囲との関係が極端に非対称で、交流にメリットがないから。孤独が好きだからではない。

自閉症傾向は、バグったポジティブフィードバックによって「天才」傾向を作り出すことがある。