研究者は様々
僕は学部4年時と修士課程で研究室が違う。その後、4年半JSTのERATOに参加した。ERATOの後行き先が決まらず、1年ほど就職浪人した。そしてSPring-8でポスドクを2年半経験し、京都工芸繊維大学に来た。京都工芸繊維大学に来てから、ボスが3度変わり、今はボスはいない。というわけで、学生の間に2研究室、本学に来るまでに3研究室、本学で4研究室経験したことになる。全部が全部違うわけではないけど、立場とかも変わるしね。割と多くの研究室を経験してきて、多くの研究者と交流し、いろんな研究をしてきた。
その中で学んだことの一つは、研究者にはいろいろなタイプがある、ということだ。特に、ポスドク時にはビームライン担当者的な仕事をしていたこともあり、毎日のようにゲスト研究者と交流していた。なんだかよくわからない使命感に燃える人、明らかに惰性で研究者を続けている人、一発逆転を虎視眈々と狙っている人、研究に向かうモチベーションは様々だ。そして、それぞれのテーマに対するアプローチも様々だった。確立された技術を精密化する人、手当たり次第になんでもやってみる人、奇抜なことを好む人、最後の最後に力技で瞬間のトップを狙う人、トップレベルに食らいつく人、トップの人たちにこびへつらう人。
共感できる人たちが大半だったけど、目をそむけたくなるような人たちもいた。有名な先生の知り合いであることを吹聴し、そういった先生方の主張を借りてマウントを取りに来るという人たちには閉口したものだ。ただ、そういう人たちは文系に多いので、僕の業界でそういう場面に出くわすことは少なかった。でも少なかっただけで、なかったわけではない。
研究を山登りに例える
僕は学生さんたちに、研究を山登りに例えて説明することがある。研究というのは瞬間的にでもトップにならなければならない、というルールがある。山登りで言うなら小さくてもよいけど誰も登ったことのない地点まで到達しないと成果と認められない、ということである。ただ、登り方かルートとは自由にしてよい。ぶっちゃけ、ヘリコプターで頂上に乗り付けても許される。そういうゲームだと思えばよい。
一概に山登りといってもいろんなタイプがある。近所の里山に登るというものから、日帰り登山、数日かけての本格的な登山といったちゃんと準備しないといけない登山もある。そして未踏峰へのチャレンジというプロフェッショナルな登山もある。研究というのは最後に挙げた未踏峰チャレンジが該当する。
世界最高峰のエベレストの登頂に成功したとしても、国内の未踏峰の登頂には失敗することにある。なぜなら要求されるスキルが異なるからだ。今やエベレストは観光名所と化しており、お金さえ積めば登頂が可能な山となっている。ルートは整備され、サポートの人員も確保することができ、装備も万全だ。お年寄りでも登れる山となっている。一方、国内であっても未踏の場所ではルートなんてない。そこではルートを見つけて開拓し、安全に踏破するスキルが必要になる。そういうスキルはエベレストに登っても得られない。
研究において、先生の指導の下、実験技術を磨き何らかの成果を出すというのは、登山で言うところの、登山道を使って山登りしているようなものだ。しかもガイド付き。それができたところで何の自慢にもならない。そういうのを研究というのはおこがましいのだけれど、他に適当な言葉がないので、そういうのも研究と呼ばれている。そういう状況が話をややこしくしている気がする。
トップとトップレベル
研究というのは瞬間でも良いので、トップに立つことが要求される。マラソンで考えると、トップになるためにはまずトップグループにいなければならない。後方からのごぼう抜きというのも可能性はあるが、一流のランナーがそろうマラソンではそんなことはほとんどあり得ない。トップになるにはトップグループに食らいついていなければならない。
研究も似たところがある。多くの研究ではトップレベルにある研究者がそれぞれの特徴を生かした研究を行うことで様々なトップ(研究成果)を自慢しあう。マラソン競技なんかと違うのは、トップの定義が様々なのでいろんなトップが存在する。その結果、トップレベルの研究者たちがトップグループを形成し、当該分野をけん引する。
後発の研究者はトップグループの研究を「研究」し、トップグループに食い込むべく様々な研究を行う。その過程を「トップレベルの研究」という。トップの研究とトップレベルの研究は言葉は似ているが、本質的に異なる。トップの研究はちゃんとした研究成果だけど、トップレベルの研究というのはトップグループに追いつくためのプロセスであり、研究成果になっていない。
トップレベルの研究というのは論外としても、もしトップの研究がたくさんあったら科学はものすごい勢いで進歩しているはずだけど、そんな事実はない。トップの研究も実はたいしたことがない。研究は山登りのようなものだが、登るべき頂上は研究者が自分で適当に設定できる。例えば、棒高跳びの世界記録のように、細かく刻んでもよい。トップの研究を一つ行えば、それを少しだけ進めた研究をするだけもう一つのトップの研究が生み出せる。そのようにしてマッチポンプのような研究をつづけた方が、研究者としての実績を積みやすいという事情がある。極めて不健全だけど、現在の学術研究の評価システムを考えるとそれが最適解だ。ちょっと前は「銅鉄論文」という言葉が流行した。銅を使って行った研究を鉄を使ってやり直すだけで論文が量産される状況のことをからかった言葉だ。
多分、研究者が目指すべきなのは、トップレベルでもトップでもなくて、断トツトップ=弩トップだと僕は思う。
独創的な研究は評価されない
僕もこの業界は長いが、その中で悟った悲しい事実がある。それは「独創的な研究は評価されない」ということだ。僕が最初に就職したERATOという事業はExploratory Research for Advanced Technologyの略で、Exploratory というのは探検的と和訳されることが多い。研究に当てはめれば未踏領域の探索という意味になり、独創的と訳されることもある。つまり、ERATOというのは独創的な研究を推進しよう!という事業だった。大学を出たばかりで初心だった僕は文字通り独創的な研究をしようといろいろ努力した。いろいろやったんだけど、同僚研究者にすら理解されなくてやめちゃった研究がいっぱいあった。
独立して好きに研究しだして、21世紀になったばかりで、社会は新しい世紀にふさわしい独創的な研究を求めているんだ、とばかりに研究の独創性を声高に叫ぶようになった。僕はまだ擦れてなかったので、正直に「独創的な研究」を次々に提案し、実施して見せた。しかし、反響は全然だった。一部に熱狂的に支持してくれる人もいたけど、世間の評価はとても冷たかった。
そこで僕は気づいた。独創的な研究というのは先行研究がないので、同業者がいない。研究の分野というのは相互評価が基本なので、同業者がいないと評価してもらえない。なんということだろう。新しい分野を開拓する真に独創的な研究は、独創性が高くなるほど同業者がいなくなり評価してもらえないのだ。何たる矛盾。ちょっとやる気をなくした。
ライバルは歴史
評価してもらいたいから研究しているわけではない。けど、評価してもらえないと研究費と確保できなくて、研究を進められない。どうしよう。
僕の結論は、評価は気にしない、である。ちゃんとした研究にはちゃんとした評価がつくものだ。評価には研究から10年とか20年とかかかるかもしれない。実際、僕が研究の中で重要な研究だと思うような参考研究は20年前とか50年前とかのマイナーな研究成果だったりする。本当に価値ある研究をコツコツ進めている人たちが細々と存在し、そういう人たちがひっそりと大事な研究を残している。そういう積み重ねで大きな進歩がもたらされたりするものだ。
実際、引退して10年たった先生の仕事なんてだれも見向きもしない。現役時代は有名でブイブイ言わせてても、残された論文はゴミくず同然なんてのはよくある話だ。そうなる理由は簡単なものだ。それは誰でもできる研究だからだ。誰でも思いついて誰でも実施できるのなら、その先生がやらなくてもよかった、となる。個性が光るような何かが研究にはないとだめなんだと僕は強く思うようになった。そういう個性によって推進された研究やそれを行った研究者は歴史を通じて評価される。
研究の個性、研究者の個性
研究における個性には様々側面がある。作業仮説、作戦の立て方、実験手法、解析手法、比較対象の選び方、参考分野の選定などだ。最も単純なのが実験手法だ。実験手法を変更すれば新しい研究になることがある。測定値の精密化といったひねりがない研究も重要だったりする。
一方で参考分野の選定はちょっと難しい。これは異分野の考え方や手法を移植するという手法だ。どの分野を参考にするかという選択肢は無限にあるし、どの分野を参考にするにしてもその分野に関する知識は必須だ。一つの分野を勉強するだけで大変だから、網羅的に検討するなんてできない。異分野との出会いを積極的に積み上げないとできない研究手法だ。
作業仮説で個性を見出すのもかなり難しい。多くの作業仮説は当該分野で広く信じられているものを採用することが多い。そのため、個性はほとんどない。先行研究の結果を参考に作業仮説を立てるという手法が一般的だが、あんまり個性的にはなりにくい。みんなが見落としている隠れた疑問点に着目して仮説を立てられるととても個性的な研究になる。でもそんな奇抜な着眼点なんて普通には転がっていない。
僕は実験手法・解析手法の開拓・開発を梃子にして、研究における困難さを取り除くというやり方を得意にしている。僕は元々ソフトウェアを作ることができて、数学も得意。ポスドクのときはX線関連装置のハードウェア面のトレーニングを積んだので、実験手法・解析手法を自分でいろいろいじることができる。それを利用して今までになかった研究を推進している。
それはそれでよかったのだけど、最近はもっと科学の本質に迫りたいという欲求が強くなっていて、独自の仮説の検証とかをやっている。学生が携わるのはその一部のみなので、全体像は見えてこないだろうけど、折に触れて全体像の話もしている。でも、みんなピンとこないようだ。
同業の人たちに話すと割と良い感触だけど、本当の価値はわからないようだ。分野が少しでも離れるともう途端にダメで、専門分野が細分化している現代の研究者のダメな一面を感じる。僕は結構異分野からの技術・アイデアの導入が得意らしい。そういう技術・アイデアの移転を伴う研究が結構好きだし、異分野の勉強をすることにほとんど抵抗がないのもよいのだろう。
実験手法・解析手法の開拓・開発は要求されるスキルの種類が多く、レベルも高いものが必要になるので、初期参入コストがべらぼうに高くなる。そのためライバルは少ないんだけど、裏を返せば同業者がいない。ということで評価されにくい。残念だ。
目に見えることと目に見えないこと
僕は実験結果がちゃんと出ていない段階で学会発表を申し込むことには反対の立場だ。発表するということはそれを聞く人たちがいるわけで、海のものとも山のモノともわからない段階の実験結果を聞かされる人はかわいそうだと思うのだ。最近の学会ではそういう低レベルの発表も多くみられ、ちょっと辟易している。
そういう困った傾向の背景には、文科省が学生の発表を推奨しているということがある。学生の研究はどうしても研究期間が短いので、学会申し込み時点は結果がはっきりしていないことが多い。無理して申し込んで、実験失敗で困った、という発表も結構出てきてしまうのだ。学会発表というった目に見える成果を追求する社会情勢が問題に思える。
一方、長期的な展望(ビジョン)に立って計画的に研究を進めるということは少なくなったように感じる。研究資金のほとんどが競争的資金になり、3年前後の研究期間での成果を求めるようになっている。その結果、それより長期の研究計画は立てにくくなった。途中で研究資金が尽きて研究計画をストップするという事態が発生しやすいからだ。ビジョンと言えば、「目に見えること」のイメージがあるけど実際には「目に見えないこと」である。「目に見えないこと」を軽んじているというのが実際の傾向なんだと思う。
良い研究においてはビジョンが大事だと僕は思う。そこそこ遠いけど到達可能な目標というものをきちんと設定し、達成するための筋道を立て、段階を踏んで進んでいく。こういうことこそ、研究計画であり研究のビジョンだ。そういうビジョンが感じられない研究がちょっと多くなっていてとても残念だ。