2024年3月8日金曜日

研究のスタイル

研究者は様々

僕は学部4年時と修士課程で研究室が違う。その後、4年半JSTのERATOに参加した。ERATOの後行き先が決まらず、1年ほど就職浪人した。そしてSPring-8でポスドクを2年半経験し、京都工芸繊維大学に来た。京都工芸繊維大学に来てから、ボスが3度変わり、今はボスはいない。というわけで、学生の間に2研究室、本学に来るまでに3研究室、本学で4研究室経験したことになる。全部が全部違うわけではないけど、立場とかも変わるしね。割と多くの研究室を経験してきて、多くの研究者と交流し、いろんな研究をしてきた。

その中で学んだことの一つは、研究者にはいろいろなタイプがある、ということだ。特に、ポスドク時にはビームライン担当者的な仕事をしていたこともあり、毎日のようにゲスト研究者と交流していた。なんだかよくわからない使命感に燃える人、明らかに惰性で研究者を続けている人、一発逆転を虎視眈々と狙っている人、研究に向かうモチベーションは様々だ。そして、それぞれのテーマに対するアプローチも様々だった。確立された技術を精密化する人、手当たり次第になんでもやってみる人、奇抜なことを好む人、最後の最後に力技で瞬間のトップを狙う人、トップレベルに食らいつく人、トップの人たちにこびへつらう人。

共感できる人たちが大半だったけど、目をそむけたくなるような人たちもいた。有名な先生の知り合いであることを吹聴し、そういった先生方の主張を借りてマウントを取りに来るという人たちには閉口したものだ。ただ、そういう人たちは文系に多いので、僕の業界でそういう場面に出くわすことは少なかった。でも少なかっただけで、なかったわけではない。

研究を山登りに例える

僕は学生さんたちに、研究を山登りに例えて説明することがある。研究というのは瞬間的にでもトップにならなければならない、というルールがある。山登りで言うなら小さくてもよいけど誰も登ったことのない地点まで到達しないと成果と認められない、ということである。ただ、登り方かルートとは自由にしてよい。ぶっちゃけ、ヘリコプターで頂上に乗り付けても許される。そういうゲームだと思えばよい。

一概に山登りといってもいろんなタイプがある。近所の里山に登るというものから、日帰り登山、数日かけての本格的な登山といったちゃんと準備しないといけない登山もある。そして未踏峰へのチャレンジというプロフェッショナルな登山もある。研究というのは最後に挙げた未踏峰チャレンジが該当する。

世界最高峰のエベレストの登頂に成功したとしても、国内の未踏峰の登頂には失敗することにある。なぜなら要求されるスキルが異なるからだ。今やエベレストは観光名所と化しており、お金さえ積めば登頂が可能な山となっている。ルートは整備され、サポートの人員も確保することができ、装備も万全だ。お年寄りでも登れる山となっている。一方、国内であっても未踏の場所ではルートなんてない。そこではルートを見つけて開拓し、安全に踏破するスキルが必要になる。そういうスキルはエベレストに登っても得られない。

研究において、先生の指導の下、実験技術を磨き何らかの成果を出すというのは、登山で言うところの、登山道を使って山登りしているようなものだ。しかもガイド付き。それができたところで何の自慢にもならない。そういうのを研究というのはおこがましいのだけれど、他に適当な言葉がないので、そういうのも研究と呼ばれている。そういう状況が話をややこしくしている気がする。

トップとトップレベル

研究というのは瞬間でも良いので、トップに立つことが要求される。マラソンで考えると、トップになるためにはまずトップグループにいなければならない。後方からのごぼう抜きというのも可能性はあるが、一流のランナーがそろうマラソンではそんなことはほとんどあり得ない。トップになるにはトップグループに食らいついていなければならない。

研究も似たところがある。多くの研究ではトップレベルにある研究者がそれぞれの特徴を生かした研究を行うことで様々なトップ(研究成果)を自慢しあう。マラソン競技なんかと違うのは、トップの定義が様々なのでいろんなトップが存在する。その結果、トップレベルの研究者たちがトップグループを形成し、当該分野をけん引する。

後発の研究者はトップグループの研究を「研究」し、トップグループに食い込むべく様々な研究を行う。その過程を「トップレベルの研究」という。トップの研究とトップレベルの研究は言葉は似ているが、本質的に異なる。トップの研究はちゃんとした研究成果だけど、トップレベルの研究というのはトップグループに追いつくためのプロセスであり、研究成果になっていない。

トップレベルの研究というのは論外としても、もしトップの研究がたくさんあったら科学はものすごい勢いで進歩しているはずだけど、そんな事実はない。トップの研究も実はたいしたことがない。研究は山登りのようなものだが、登るべき頂上は研究者が自分で適当に設定できる。例えば、棒高跳びの世界記録のように、細かく刻んでもよい。トップの研究を一つ行えば、それを少しだけ進めた研究をするだけもう一つのトップの研究が生み出せる。そのようにしてマッチポンプのような研究をつづけた方が、研究者としての実績を積みやすいという事情がある。極めて不健全だけど、現在の学術研究の評価システムを考えるとそれが最適解だ。ちょっと前は「銅鉄論文」という言葉が流行した。銅を使って行った研究を鉄を使ってやり直すだけで論文が量産される状況のことをからかった言葉だ。

多分、研究者が目指すべきなのは、トップレベルでもトップでもなくて、断トツトップ=弩トップだと僕は思う。

独創的な研究は評価されない

僕もこの業界は長いが、その中で悟った悲しい事実がある。それは「独創的な研究は評価されない」ということだ。僕が最初に就職したERATOという事業はExploratory Research for Advanced Technologyの略で、Exploratory というのは探検的と和訳されることが多い。研究に当てはめれば未踏領域の探索という意味になり、独創的と訳されることもある。つまり、ERATOというのは独創的な研究を推進しよう!という事業だった。大学を出たばかりで初心だった僕は文字通り独創的な研究をしようといろいろ努力した。いろいろやったんだけど、同僚研究者にすら理解されなくてやめちゃった研究がいっぱいあった。

独立して好きに研究しだして、21世紀になったばかりで、社会は新しい世紀にふさわしい独創的な研究を求めているんだ、とばかりに研究の独創性を声高に叫ぶようになった。僕はまだ擦れてなかったので、正直に「独創的な研究」を次々に提案し、実施して見せた。しかし、反響は全然だった。一部に熱狂的に支持してくれる人もいたけど、世間の評価はとても冷たかった。

そこで僕は気づいた。独創的な研究というのは先行研究がないので、同業者がいない。研究の分野というのは相互評価が基本なので、同業者がいないと評価してもらえない。なんということだろう。新しい分野を開拓する真に独創的な研究は、独創性が高くなるほど同業者がいなくなり評価してもらえないのだ。何たる矛盾。ちょっとやる気をなくした。

ライバルは歴史

評価してもらいたいから研究しているわけではない。けど、評価してもらえないと研究費と確保できなくて、研究を進められない。どうしよう。

僕の結論は、評価は気にしない、である。ちゃんとした研究にはちゃんとした評価がつくものだ。評価には研究から10年とか20年とかかかるかもしれない。実際、僕が研究の中で重要な研究だと思うような参考研究は20年前とか50年前とかのマイナーな研究成果だったりする。本当に価値ある研究をコツコツ進めている人たちが細々と存在し、そういう人たちがひっそりと大事な研究を残している。そういう積み重ねで大きな進歩がもたらされたりするものだ。

実際、引退して10年たった先生の仕事なんてだれも見向きもしない。現役時代は有名でブイブイ言わせてても、残された論文はゴミくず同然なんてのはよくある話だ。そうなる理由は簡単なものだ。それは誰でもできる研究だからだ。誰でも思いついて誰でも実施できるのなら、その先生がやらなくてもよかった、となる。個性が光るような何かが研究にはないとだめなんだと僕は強く思うようになった。そういう個性によって推進された研究やそれを行った研究者は歴史を通じて評価される。


研究の個性、研究者の個性

研究における個性には様々側面がある。作業仮説、作戦の立て方、実験手法、解析手法、比較対象の選び方、参考分野の選定などだ。最も単純なのが実験手法だ。実験手法を変更すれば新しい研究になることがある。測定値の精密化といったひねりがない研究も重要だったりする。

一方で参考分野の選定はちょっと難しい。これは異分野の考え方や手法を移植するという手法だ。どの分野を参考にするかという選択肢は無限にあるし、どの分野を参考にするにしてもその分野に関する知識は必須だ。一つの分野を勉強するだけで大変だから、網羅的に検討するなんてできない。異分野との出会いを積極的に積み上げないとできない研究手法だ。

作業仮説で個性を見出すのもかなり難しい。多くの作業仮説は当該分野で広く信じられているものを採用することが多い。そのため、個性はほとんどない。先行研究の結果を参考に作業仮説を立てるという手法が一般的だが、あんまり個性的にはなりにくい。みんなが見落としている隠れた疑問点に着目して仮説を立てられるととても個性的な研究になる。でもそんな奇抜な着眼点なんて普通には転がっていない。

僕は実験手法・解析手法の開拓・開発を梃子にして、研究における困難さを取り除くというやり方を得意にしている。僕は元々ソフトウェアを作ることができて、数学も得意。ポスドクのときはX線関連装置のハードウェア面のトレーニングを積んだので、実験手法・解析手法を自分でいろいろいじることができる。それを利用して今までになかった研究を推進している。

それはそれでよかったのだけど、最近はもっと科学の本質に迫りたいという欲求が強くなっていて、独自の仮説の検証とかをやっている。学生が携わるのはその一部のみなので、全体像は見えてこないだろうけど、折に触れて全体像の話もしている。でも、みんなピンとこないようだ。

同業の人たちに話すと割と良い感触だけど、本当の価値はわからないようだ。分野が少しでも離れるともう途端にダメで、専門分野が細分化している現代の研究者のダメな一面を感じる。僕は結構異分野からの技術・アイデアの導入が得意らしい。そういう技術・アイデアの移転を伴う研究が結構好きだし、異分野の勉強をすることにほとんど抵抗がないのもよいのだろう。

実験手法・解析手法の開拓・開発は要求されるスキルの種類が多く、レベルも高いものが必要になるので、初期参入コストがべらぼうに高くなる。そのためライバルは少ないんだけど、裏を返せば同業者がいない。ということで評価されにくい。残念だ。


目に見えることと目に見えないこと

僕は実験結果がちゃんと出ていない段階で学会発表を申し込むことには反対の立場だ。発表するということはそれを聞く人たちがいるわけで、海のものとも山のモノともわからない段階の実験結果を聞かされる人はかわいそうだと思うのだ。最近の学会ではそういう低レベルの発表も多くみられ、ちょっと辟易している。

そういう困った傾向の背景には、文科省が学生の発表を推奨しているということがある。学生の研究はどうしても研究期間が短いので、学会申し込み時点は結果がはっきりしていないことが多い。無理して申し込んで、実験失敗で困った、という発表も結構出てきてしまうのだ。学会発表というった目に見える成果を追求する社会情勢が問題に思える。

一方、長期的な展望(ビジョン)に立って計画的に研究を進めるということは少なくなったように感じる。研究資金のほとんどが競争的資金になり、3年前後の研究期間での成果を求めるようになっている。その結果、それより長期の研究計画は立てにくくなった。途中で研究資金が尽きて研究計画をストップするという事態が発生しやすいからだ。ビジョンと言えば、「目に見えること」のイメージがあるけど実際には「目に見えないこと」である。「目に見えないこと」を軽んじているというのが実際の傾向なんだと思う。

良い研究においてはビジョンが大事だと僕は思う。そこそこ遠いけど到達可能な目標というものをきちんと設定し、達成するための筋道を立て、段階を踏んで進んでいく。こういうことこそ、研究計画であり研究のビジョンだ。そういうビジョンが感じられない研究がちょっと多くなっていてとても残念だ。







天才による天才的な天才の考察

天才に関する評論の論評

天才に関する評論はたくさんあります。唯一無二の成果をもたらしてくれる天才の存在は人類にとっての福音ですから、多くの人の興味を引くのは当たり前で、当然研究対象となり評論も多く存在するわけです。評論ですから、第三者の立場から客観的な分析が述べられるわけです。客観的なのは良いことなのですが、分析に用いるデータのほとんどが伝聞であることは問題です。

「天才」とされる人はとても少ないので、直接のインタビューは貴重ですし、すべての評論者が直接インタビューの機会を持つことは不可能です。あるいは、歴史上の天才を研究対象とした場合、大抵は死んでいるわけで、インタビューはムリです。その結果、分析に用いるデータはせいぜいインタビューの記録、あるいは「天才」の関係者への聞き取りで、それでもあればむしろマシと言えます。

他人の頭の中を直接覗くことはできませんから、天才たちがどのように感じ、考え、生きているのかは本人にしかわかりません。さらに、多くの人にとって、自分の感じ方、考え方、生き方は、「当たり前」であり、他人に説明するようなものではありません。それは天才たちにとっても同じであり、彼らがどのように感じ、考え、生きているかは、凡人たる我々にとっては価値があるかもしれませんが、当人たちにとってはそういったことを他人に説明するのは時間の無駄以外の何物でもありません。

それでも僕は自身の経験から、天才たちの感じ方、考え方、生き方の一端を理解しているつもりです。天才たちが天才的であるのは合理的帰結であり、当然であると思っています。理論上はすべての人が天才的な才能を発揮することが可能だと僕は思っています。しかし、それを実践できる人はごく少数で、それができる人が「天才」と呼ばれるだけの話。でも、それを知ることはいろんな意味でとても大事だと僕は思うのです。


大学入試システムの考察

天才とは程遠いですが、日本には大学入試という優れた人材選抜システムが構築されています。最近はこのシステムを破壊する動きが活発で、半壊状態ですけどね。大学入試では特定のタイプの人材が効率よく選抜されます。直接的には「テストで高得点を獲得できる人」となりますが、その選抜に勝ち残った人たち(ぶっちゃけ、東大、京大に入学する人たち)をみるとある傾向が見られることに気づくでしょう。それは長時間の勉強に耐えることができる、ということです。

経験上、どれだけ才能豊かであっても、10倍の勉強時間を覆すのは極めて困難です。優秀な小学校1年生(勉強歴1年)であっても盆暗な高校2年生(勉強歴10年)に学力で逆転勝利することが難しいと言うと納得がいくと思います。つまり、学力とは平たく言うと、勉強時間のことであり、勉強時間と学力の間をつなぐ係数が「才能」と言えます。ということで、学力を選抜の目安とする大学入試は、どれだけ勉強に時間をかけてきたかを問うているわけです。東大出身者の中で、高校3年間の勉強時間が500時間を下回るような人はいないと断言できます。ちなみに500時間とは、一日にすると30分程度であり、定期試験前にまとめプリントに目を通す程度で達成できます。


いやいや、東大に入るために3浪してダメだった総理大臣もいるでしょ、という反論があるとおもいます。まったくもってその通りですが、先ほどの論の中にでてきた勉強時間と学力の間をつなぐ係数という概念でそれは説明できます。この係数には個人差があります。その係数は勉強の効率と考えるとよいでしょう。効率的な勉強ができるかどうかというのは重要で、そのために塾に通うという選択肢は合理的かもしれません。また、この係数は勉強の継続時間の関数でもあります。別の言い方をすれば、「集中力」です。集中力が高いほど勉強の効率は良いですよね。また勉強を続けているうちに集中力が切れてきて効率が低下します。集中力には強度と持続時間という2つのパラメータがあることがわかります。

東大・京大の連中はすべからく集中力の持続時間が長めです。これは当然です。大学入試のように長い時間をかけて獲得した学力が評価対象となる場合、学力は日数×一日当たりの勉強成果であり、基本的に高校3年間の日数はほとんどの受験者で同じであるので、大学入試で測定されるのは、何日勉強したか×一日当たりの勉強成果になります。忘却曲線が入ってくると話がややこしくなるので、ここでは無視します。日数には上限があるので、実質的には一日当たりの勉強成果を競うことになります。一日の時間は決まっていますから、勉強の効率が重要になります。ただし、勉強時間が長くなると集中力が切れて効率が落ちるので、一日当たりの勉強成果には上限ができていしまいます。効率は集中力であり、強度と持続時間があるわけですが、長時間にわたる効率を重視するなら、集中力の持続時間が優れている方が有利となります。その結果、大学入試で選抜される人は、集中力の持続時間に優れる人が多くなります。

一方、毎日勉強しない人は総勉強時間で損をします。毎日勉強するかどうかという「勤勉さ」も学力に大きく影響します。そのため、大学入試で選抜される人はおしなべて勤勉です。

つまり、大学入試なんかで計測されるのは主に「勤勉さ」と「集中力の持続性」であり、それは「天才」という評価とはちょっと違うということがわかると思います。

さて、「勤勉」で「集中力の持続性」に優れる人というのは、やっぱり優秀です。とくに受験勉強というくだらない行為に「勤勉さ」と「持続力」を発揮できるメンタリティーを持つ人は、どれだけ退屈な仕事でもこなすことができるでしょう。部下としては理想的な人材です。就職に有利なのは当然です。


天才の研究について

大学入試と学力という比較的わかりやすい例で説明したけど、こういった関係はどのような分野でも普遍的にみられることが知られています。有名な例ではピアニストの研究があります。アマチュアのピアニストと一流ピアニストの比較研究から、両者の最大の違いは「才能」ではなくて「練習時間」であることが結論されています。アマチュアは練習時間が週数時間であったのに対し、一流ピアニストは一日8時間程度であり、練習時間の差がピアニストとしての能力差に直結するとされています。こうしたことはピアノだけではありません。あらゆる分野において、およそ1万時間のトレーニングでどの分野でも一流になれると言われています。勉強に関しても、東大合格には3000時間の家庭学習が必要とされており、小中高の学校での勉強と合わせて1万時間はかるく達成する計算になります。

多くの人が一流の分野を持たないことからもわかるように、1万時間のトレーニングというのが大きなハードルになっていることがわかります。1万時間という具体的な目安があるのになぜ達成できる人が少ないのでしょうか?それこそ、「勤勉さ」と「持続力」の問題なわけです。そこそこの勤勉さ」と「持続力」があれば、10年くらいの努力で1万時間を達成できます。5時間×200日×10年=10000時間という計算です。集中力により5時間が10時間になかもしれませんし、勤勉さにより200日が300日になるかもしれません。その場合はもっと早く一流になれるでしょう。でも、5時間の集中は普通の人にとっては限界ですし、継続を重視するなら休みも必要です。職人の世界で「一人前になるには10年の修業」という目安は合理的な見解だと言えます。


天才と呼ばれる人たちは「勤勉さ」や「集中力」が優れているというよりは、ぶっちゃけ、ぶっこわれています。病的な勤勉さとか、極端に強い集中力とか、無限に続く集中力とか、そういうものを持っているわけです。先の例だと、一日15時間、毎日練習するとかです。しかも高い集中力によって効率が倍とかになっています。それを物心ついた瞬間から続けるわけです。二十歳くらいの段階で、実質トレーニング時間が10万時間とかに達していて、それは普通の人が到達不可能な領域にあるわけです。それを以て「天才」と形容し、理解不能な実質訓練時間が達成されている理由を「才能」と呼んで安心するのです。

天才レベルの「勤勉さ」や「集中力」が「勉強」に向かえば、受験勉強なんて楽に突破できます。なので、大学入試を軽く突破する人たちの中に高確率で「天才」が現れます。しかしながら、興味が「勉強」に向かわない人たちもいます。例えば芸術とかスポーツとかに向かうわけです。これは「天才」と呼ばれる人たちが様々な分野で多様に出現する理由となります。


自閉症との関係

自閉症の人の中には特定の分野で天才的な才能・能力を発揮する場合があることが良く知られています。これも「集中力」の文脈で理解できます。自閉症(傾向)の人たちは多くの物事に興味を持たない代わりに特定の事柄に偏執的な興味を示す場合があります。興味の対象が限定されることで集中力が高まり、集中力の減退となって顕在化するストレスを、集中力の対象に向けることで解消しようとします。集中力が切れるようなストレスの解消法が自分の興味をその集中力の対象に向けることというのは、集中力のポジティブフィードバックループを形成します。これは完全にバグであり、通常の人から見ると頭のおかしな行動に見えます。その結果、肉体あるいは精神が壊れるまで集中力が高まってしまい、病気と診断されるわけです。

自閉症傾向の人は自らの興味の対象が限定されているため、興味の対象に対しては「勤勉」になります。その他の選択肢がないわけですから、当然そうなります。自閉症傾向によって形成されたバグのようなポジティブフィードバックは無限のトレーニングサイクルを形成し、気が狂ったようなトレーニング時間を実現するわけです。そういったわけで、特定の分野では優れているがそのほかの日常的な部分も含めてダメダメである、白痴天才(差別的表現になっていて申し訳ない)が出来上がります。


僕の話

ちなみに僕は勤勉さは劣っているけど、集中力の強度と持続力がぶっこわれています。勤勉さがダメなので「天才」ではありませんが、集中力は強度も持続性も天才クラスだと思います。集中力すると周りの音が聞こえないどころか、しばらく言葉が使えなくなります。発話だけでなく聞き取りもできません。持続力もほとんど制限がありません。最初からずっと集中力が全く低下しません。血圧があがったりもしません。空腹や目の疲れ、肩こりなど肉体的な疲労は生じますが、精神的な疲労というもを僕は知りませんでした。子育てをして、子供たちの集中力が切れて能力が低下する様にとても驚きました。

学者をやっている連中をみていると、みなさん同じような傾向があります。僕はこれを「ブレーキが壊れてる」と表現しています。アクセルを踏んで集中力の強度を上げるわけですが、持続力が壊れているので、集中力が低下しません。自然には止まらないわけです。ポジティブフィードバックはかかっていませんから、自閉症とはちょっと違います。病的ではないということと、興味の対象を比較的自由に選択できるという点は、社会性を保つのにとても重要です。それでも、普通の人から見れば異常者です。変人に見えると思います。


野球の天才の場合

そういう僕の経験上、「天才」の形成には社会的な要因も大きいと思っています。幼少期から知能の高い人は友達付き合いに苦労することが知られています。話の内容がかみ合わないことが理由だろう、とみんな勝手に思っているようですが、僕の経験上それは些細なことです。話題なんて無限に存在するわけですから、共通の話題を見つけるのはいかなる場合にも難しくはありません。言葉がほとんど通じない外国人とだってそれなりにコミュニケーションが取れるものです。お互いにその気があれば。

例えば、野球の天才がいたとします。高校野球くらいだとピッチャーで四番という人は結構いるわけです。高レベルなピッチャーで四番な人がいると、甲子園出場までこぎつけることが結構あります。ワンマンチームとか言われますけど。あなたがその天才の幼馴染で、そこそこ野球ができるとします。小学校、中学校で県大会とか全国大会とか優勝とか出場とか一緒に達成しました。いざ高校進学するとして、天才と一緒の高校に行って野球をしたいと思うはずです。一緒に甲子園を目指す、とか言いながら。

で、それを天才さんの側から見てみます。周りを見渡して自分より野球の上手な人がいない。野球が大好きだし、練習も楽しい。もっとうまくなりたいから練習も手を抜かない。試合ではいつも大活躍で、全国大会とかにも行く。高校でも野球を続けて、甲子園を目指すんだ。となるわけです。その時、いつも一緒に野球をしてきた幼馴染が高校でも一緒に野球をするぞと言っている。となります。ここで、天才さんと幼馴染の間に温度差があることに注意しましょう。天才さんは幼馴染がいなくても野球を続けるモチベーションを持っていますが、幼馴染は天才についていくがモチベーションになってます。つまり、依存関係ができるのです。


勉強の天才の場合

天才とそれを取り巻く人々の間には極めて高確率に非対称な依存関係が形成されます。天才は個人の力で多くの問題を解決してしまうので、周囲の人たちはその恩恵を得られます。野球の場合はチーム競技なので、周囲の人たちの存在は天才にとって不可欠であり、非対称性はやや改善されるかもしれません。これが勉強だとそうはいきません。

勉強がすごくできる天才クラスメイトがいるとして、勉強がわからないところを天才クラスメイトに尋ねたりするわけです。いざテストになると、天才クラスメイトに勉強を教わると点数が上がるはずだと思って、一緒に勉強しようと誘います。これを天才クラスメイトの視点から眺めると違ってきます。天才にとって学校の勉強は退屈で、他のクラスメイトからの質問に対しては暇つぶしも兼ねて教えたりします。テストが近づいて他のクラスメイトから「一緒に勉強しよう」と誘われます。テストだからといって特別な勉強する予定はなかったし、一緒に勉強してもメリットはないので、断ります。そういうクラスメイトは大勢いて、ぶっちゃけ辟易しています。

勉強は個人競技なので、周囲の存在は必須ではありません。そして天才一人に対して、周囲は多数。質問とか同じようなものが何度もあって、いちいち対応するのは面倒になります。勉強が話題になりそうなクラスメイトたちとは距離置くようになります。他のクラスメイトからすると、付き合いの悪いコミュ障の天才クラスメイトの出来上がりです。これは実際に僕自身が経験したことです。


僕は割とおおらかなので、コミュ障にはならなかったし、問題も生じなかったのですが、周囲からは「僕がアンタッチャブル」な雰囲気を感じました。少しでも神経質だったり、気が弱かったら、耐えられないかもと思います。

「天才」からすると、周りの人は邪魔でしかありません。3人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、全く実感しません。みんなで知恵を出し合うとか理解不能です。ブレインストーミングはみんなでやっても一人でやっても違いは見出せないし、一人でブレストの方が断然効率が良い、まであります。知的活動に関しては、周りの人はお荷物でしかないので、正直遠ざけたいのです。だからこそ、孤立・孤独は良い選択肢になるわけです。天才が孤独を好むというのは合理的なわけですが、「好む」理由は後ろ向きなのです。力を合わせるべき合理的理由がないので、力を合わせる必要のない孤独を選択するのです。


まとめ

天才の本質は、勤勉さ、集中力(強度・持続性)が全て高いこと。

大学入試は、勤勉さと集中力の持続性を計測している。

天才が孤独を好む傾向あるのは、周囲との関係が極端に非対称で、交流にメリットがないから。孤独が好きだからではない。

自閉症傾向は、バグったポジティブフィードバックによって「天才」傾向を作り出すことがある。