2024年3月8日金曜日

天才による天才的な天才の考察

天才に関する評論の論評

天才に関する評論はたくさんあります。唯一無二の成果をもたらしてくれる天才の存在は人類にとっての福音ですから、多くの人の興味を引くのは当たり前で、当然研究対象となり評論も多く存在するわけです。評論ですから、第三者の立場から客観的な分析が述べられるわけです。客観的なのは良いことなのですが、分析に用いるデータのほとんどが伝聞であることは問題です。

「天才」とされる人はとても少ないので、直接のインタビューは貴重ですし、すべての評論者が直接インタビューの機会を持つことは不可能です。あるいは、歴史上の天才を研究対象とした場合、大抵は死んでいるわけで、インタビューはムリです。その結果、分析に用いるデータはせいぜいインタビューの記録、あるいは「天才」の関係者への聞き取りで、それでもあればむしろマシと言えます。

他人の頭の中を直接覗くことはできませんから、天才たちがどのように感じ、考え、生きているのかは本人にしかわかりません。さらに、多くの人にとって、自分の感じ方、考え方、生き方は、「当たり前」であり、他人に説明するようなものではありません。それは天才たちにとっても同じであり、彼らがどのように感じ、考え、生きているかは、凡人たる我々にとっては価値があるかもしれませんが、当人たちにとってはそういったことを他人に説明するのは時間の無駄以外の何物でもありません。

それでも僕は自身の経験から、天才たちの感じ方、考え方、生き方の一端を理解しているつもりです。天才たちが天才的であるのは合理的帰結であり、当然であると思っています。理論上はすべての人が天才的な才能を発揮することが可能だと僕は思っています。しかし、それを実践できる人はごく少数で、それができる人が「天才」と呼ばれるだけの話。でも、それを知ることはいろんな意味でとても大事だと僕は思うのです。


大学入試システムの考察

天才とは程遠いですが、日本には大学入試という優れた人材選抜システムが構築されています。最近はこのシステムを破壊する動きが活発で、半壊状態ですけどね。大学入試では特定のタイプの人材が効率よく選抜されます。直接的には「テストで高得点を獲得できる人」となりますが、その選抜に勝ち残った人たち(ぶっちゃけ、東大、京大に入学する人たち)をみるとある傾向が見られることに気づくでしょう。それは長時間の勉強に耐えることができる、ということです。

経験上、どれだけ才能豊かであっても、10倍の勉強時間を覆すのは極めて困難です。優秀な小学校1年生(勉強歴1年)であっても盆暗な高校2年生(勉強歴10年)に学力で逆転勝利することが難しいと言うと納得がいくと思います。つまり、学力とは平たく言うと、勉強時間のことであり、勉強時間と学力の間をつなぐ係数が「才能」と言えます。ということで、学力を選抜の目安とする大学入試は、どれだけ勉強に時間をかけてきたかを問うているわけです。東大出身者の中で、高校3年間の勉強時間が500時間を下回るような人はいないと断言できます。ちなみに500時間とは、一日にすると30分程度であり、定期試験前にまとめプリントに目を通す程度で達成できます。


いやいや、東大に入るために3浪してダメだった総理大臣もいるでしょ、という反論があるとおもいます。まったくもってその通りですが、先ほどの論の中にでてきた勉強時間と学力の間をつなぐ係数という概念でそれは説明できます。この係数には個人差があります。その係数は勉強の効率と考えるとよいでしょう。効率的な勉強ができるかどうかというのは重要で、そのために塾に通うという選択肢は合理的かもしれません。また、この係数は勉強の継続時間の関数でもあります。別の言い方をすれば、「集中力」です。集中力が高いほど勉強の効率は良いですよね。また勉強を続けているうちに集中力が切れてきて効率が低下します。集中力には強度と持続時間という2つのパラメータがあることがわかります。

東大・京大の連中はすべからく集中力の持続時間が長めです。これは当然です。大学入試のように長い時間をかけて獲得した学力が評価対象となる場合、学力は日数×一日当たりの勉強成果であり、基本的に高校3年間の日数はほとんどの受験者で同じであるので、大学入試で測定されるのは、何日勉強したか×一日当たりの勉強成果になります。忘却曲線が入ってくると話がややこしくなるので、ここでは無視します。日数には上限があるので、実質的には一日当たりの勉強成果を競うことになります。一日の時間は決まっていますから、勉強の効率が重要になります。ただし、勉強時間が長くなると集中力が切れて効率が落ちるので、一日当たりの勉強成果には上限ができていしまいます。効率は集中力であり、強度と持続時間があるわけですが、長時間にわたる効率を重視するなら、集中力の持続時間が優れている方が有利となります。その結果、大学入試で選抜される人は、集中力の持続時間に優れる人が多くなります。

一方、毎日勉強しない人は総勉強時間で損をします。毎日勉強するかどうかという「勤勉さ」も学力に大きく影響します。そのため、大学入試で選抜される人はおしなべて勤勉です。

つまり、大学入試なんかで計測されるのは主に「勤勉さ」と「集中力の持続性」であり、それは「天才」という評価とはちょっと違うということがわかると思います。

さて、「勤勉」で「集中力の持続性」に優れる人というのは、やっぱり優秀です。とくに受験勉強というくだらない行為に「勤勉さ」と「持続力」を発揮できるメンタリティーを持つ人は、どれだけ退屈な仕事でもこなすことができるでしょう。部下としては理想的な人材です。就職に有利なのは当然です。


天才の研究について

大学入試と学力という比較的わかりやすい例で説明したけど、こういった関係はどのような分野でも普遍的にみられることが知られています。有名な例ではピアニストの研究があります。アマチュアのピアニストと一流ピアニストの比較研究から、両者の最大の違いは「才能」ではなくて「練習時間」であることが結論されています。アマチュアは練習時間が週数時間であったのに対し、一流ピアニストは一日8時間程度であり、練習時間の差がピアニストとしての能力差に直結するとされています。こうしたことはピアノだけではありません。あらゆる分野において、およそ1万時間のトレーニングでどの分野でも一流になれると言われています。勉強に関しても、東大合格には3000時間の家庭学習が必要とされており、小中高の学校での勉強と合わせて1万時間はかるく達成する計算になります。

多くの人が一流の分野を持たないことからもわかるように、1万時間のトレーニングというのが大きなハードルになっていることがわかります。1万時間という具体的な目安があるのになぜ達成できる人が少ないのでしょうか?それこそ、「勤勉さ」と「持続力」の問題なわけです。そこそこの勤勉さ」と「持続力」があれば、10年くらいの努力で1万時間を達成できます。5時間×200日×10年=10000時間という計算です。集中力により5時間が10時間になかもしれませんし、勤勉さにより200日が300日になるかもしれません。その場合はもっと早く一流になれるでしょう。でも、5時間の集中は普通の人にとっては限界ですし、継続を重視するなら休みも必要です。職人の世界で「一人前になるには10年の修業」という目安は合理的な見解だと言えます。


天才と呼ばれる人たちは「勤勉さ」や「集中力」が優れているというよりは、ぶっちゃけ、ぶっこわれています。病的な勤勉さとか、極端に強い集中力とか、無限に続く集中力とか、そういうものを持っているわけです。先の例だと、一日15時間、毎日練習するとかです。しかも高い集中力によって効率が倍とかになっています。それを物心ついた瞬間から続けるわけです。二十歳くらいの段階で、実質トレーニング時間が10万時間とかに達していて、それは普通の人が到達不可能な領域にあるわけです。それを以て「天才」と形容し、理解不能な実質訓練時間が達成されている理由を「才能」と呼んで安心するのです。

天才レベルの「勤勉さ」や「集中力」が「勉強」に向かえば、受験勉強なんて楽に突破できます。なので、大学入試を軽く突破する人たちの中に高確率で「天才」が現れます。しかしながら、興味が「勉強」に向かわない人たちもいます。例えば芸術とかスポーツとかに向かうわけです。これは「天才」と呼ばれる人たちが様々な分野で多様に出現する理由となります。


自閉症との関係

自閉症の人の中には特定の分野で天才的な才能・能力を発揮する場合があることが良く知られています。これも「集中力」の文脈で理解できます。自閉症(傾向)の人たちは多くの物事に興味を持たない代わりに特定の事柄に偏執的な興味を示す場合があります。興味の対象が限定されることで集中力が高まり、集中力の減退となって顕在化するストレスを、集中力の対象に向けることで解消しようとします。集中力が切れるようなストレスの解消法が自分の興味をその集中力の対象に向けることというのは、集中力のポジティブフィードバックループを形成します。これは完全にバグであり、通常の人から見ると頭のおかしな行動に見えます。その結果、肉体あるいは精神が壊れるまで集中力が高まってしまい、病気と診断されるわけです。

自閉症傾向の人は自らの興味の対象が限定されているため、興味の対象に対しては「勤勉」になります。その他の選択肢がないわけですから、当然そうなります。自閉症傾向によって形成されたバグのようなポジティブフィードバックは無限のトレーニングサイクルを形成し、気が狂ったようなトレーニング時間を実現するわけです。そういったわけで、特定の分野では優れているがそのほかの日常的な部分も含めてダメダメである、白痴天才(差別的表現になっていて申し訳ない)が出来上がります。


僕の話

ちなみに僕は勤勉さは劣っているけど、集中力の強度と持続力がぶっこわれています。勤勉さがダメなので「天才」ではありませんが、集中力は強度も持続性も天才クラスだと思います。集中力すると周りの音が聞こえないどころか、しばらく言葉が使えなくなります。発話だけでなく聞き取りもできません。持続力もほとんど制限がありません。最初からずっと集中力が全く低下しません。血圧があがったりもしません。空腹や目の疲れ、肩こりなど肉体的な疲労は生じますが、精神的な疲労というもを僕は知りませんでした。子育てをして、子供たちの集中力が切れて能力が低下する様にとても驚きました。

学者をやっている連中をみていると、みなさん同じような傾向があります。僕はこれを「ブレーキが壊れてる」と表現しています。アクセルを踏んで集中力の強度を上げるわけですが、持続力が壊れているので、集中力が低下しません。自然には止まらないわけです。ポジティブフィードバックはかかっていませんから、自閉症とはちょっと違います。病的ではないということと、興味の対象を比較的自由に選択できるという点は、社会性を保つのにとても重要です。それでも、普通の人から見れば異常者です。変人に見えると思います。


野球の天才の場合

そういう僕の経験上、「天才」の形成には社会的な要因も大きいと思っています。幼少期から知能の高い人は友達付き合いに苦労することが知られています。話の内容がかみ合わないことが理由だろう、とみんな勝手に思っているようですが、僕の経験上それは些細なことです。話題なんて無限に存在するわけですから、共通の話題を見つけるのはいかなる場合にも難しくはありません。言葉がほとんど通じない外国人とだってそれなりにコミュニケーションが取れるものです。お互いにその気があれば。

例えば、野球の天才がいたとします。高校野球くらいだとピッチャーで四番という人は結構いるわけです。高レベルなピッチャーで四番な人がいると、甲子園出場までこぎつけることが結構あります。ワンマンチームとか言われますけど。あなたがその天才の幼馴染で、そこそこ野球ができるとします。小学校、中学校で県大会とか全国大会とか優勝とか出場とか一緒に達成しました。いざ高校進学するとして、天才と一緒の高校に行って野球をしたいと思うはずです。一緒に甲子園を目指す、とか言いながら。

で、それを天才さんの側から見てみます。周りを見渡して自分より野球の上手な人がいない。野球が大好きだし、練習も楽しい。もっとうまくなりたいから練習も手を抜かない。試合ではいつも大活躍で、全国大会とかにも行く。高校でも野球を続けて、甲子園を目指すんだ。となるわけです。その時、いつも一緒に野球をしてきた幼馴染が高校でも一緒に野球をするぞと言っている。となります。ここで、天才さんと幼馴染の間に温度差があることに注意しましょう。天才さんは幼馴染がいなくても野球を続けるモチベーションを持っていますが、幼馴染は天才についていくがモチベーションになってます。つまり、依存関係ができるのです。


勉強の天才の場合

天才とそれを取り巻く人々の間には極めて高確率に非対称な依存関係が形成されます。天才は個人の力で多くの問題を解決してしまうので、周囲の人たちはその恩恵を得られます。野球の場合はチーム競技なので、周囲の人たちの存在は天才にとって不可欠であり、非対称性はやや改善されるかもしれません。これが勉強だとそうはいきません。

勉強がすごくできる天才クラスメイトがいるとして、勉強がわからないところを天才クラスメイトに尋ねたりするわけです。いざテストになると、天才クラスメイトに勉強を教わると点数が上がるはずだと思って、一緒に勉強しようと誘います。これを天才クラスメイトの視点から眺めると違ってきます。天才にとって学校の勉強は退屈で、他のクラスメイトからの質問に対しては暇つぶしも兼ねて教えたりします。テストが近づいて他のクラスメイトから「一緒に勉強しよう」と誘われます。テストだからといって特別な勉強する予定はなかったし、一緒に勉強してもメリットはないので、断ります。そういうクラスメイトは大勢いて、ぶっちゃけ辟易しています。

勉強は個人競技なので、周囲の存在は必須ではありません。そして天才一人に対して、周囲は多数。質問とか同じようなものが何度もあって、いちいち対応するのは面倒になります。勉強が話題になりそうなクラスメイトたちとは距離置くようになります。他のクラスメイトからすると、付き合いの悪いコミュ障の天才クラスメイトの出来上がりです。これは実際に僕自身が経験したことです。


僕は割とおおらかなので、コミュ障にはならなかったし、問題も生じなかったのですが、周囲からは「僕がアンタッチャブル」な雰囲気を感じました。少しでも神経質だったり、気が弱かったら、耐えられないかもと思います。

「天才」からすると、周りの人は邪魔でしかありません。3人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、全く実感しません。みんなで知恵を出し合うとか理解不能です。ブレインストーミングはみんなでやっても一人でやっても違いは見出せないし、一人でブレストの方が断然効率が良い、まであります。知的活動に関しては、周りの人はお荷物でしかないので、正直遠ざけたいのです。だからこそ、孤立・孤独は良い選択肢になるわけです。天才が孤独を好むというのは合理的なわけですが、「好む」理由は後ろ向きなのです。力を合わせるべき合理的理由がないので、力を合わせる必要のない孤独を選択するのです。


まとめ

天才の本質は、勤勉さ、集中力(強度・持続性)が全て高いこと。

大学入試は、勤勉さと集中力の持続性を計測している。

天才が孤独を好む傾向あるのは、周囲との関係が極端に非対称で、交流にメリットがないから。孤独が好きだからではない。

自閉症傾向は、バグったポジティブフィードバックによって「天才」傾向を作り出すことがある。