いじめの今昔
大昔からいじめは存在した。長い目で見ると、いじめは時代時代で少しずつ変遷しているように思う。例えば、平安時代のいじめ被害者として、菅原道真が挙げられる。道真はとっても人気者だったが、道真の怨念によって疫病や飢饉が起こったという、あきらかな濡れ衣を着せられ、大宰府に左遷される。もちろん都の災厄は道真の怨念が原因ではないので、災厄は道真の左遷後も続く。当然、道真は本格的に恨みを募らせる。ついに、呪いの言葉とともにこの世を去る。都の人々は恐れおののき、挙句の果ては、道真を神格に祭り上げ、天満宮を作った。
菅原道真の一件は、道真に非がないこと、道真が不快に思ったこと、がいじめの典型である。また、いじめた側の本心が妬みであったことも、いじめの典型である。昔のことなので、迷信がまかり通る世の中で、教育も定まっていない。道徳もあってないような社会だったはずだ。いじめに歯止めが効かず、左遷という事態にまでエスカレートしたのも、仕方ないのかもしれない。しかし、道真にとっては、いじめであり、忸怩たる思いがあったに違いない。
歴史に残るいじめ被害の例としてもう一つ、明智光秀が挙げられる。髪の毛が薄かった光秀は、織田信長から、ハゲと揶揄されたという話だ。いろんな場面で馬鹿にされた光秀が、ついに蜂起し、本能寺の変を起こした。いじめが歴史を左右する大事件に発展しうるという、顕著な例とみることができる。ま、本能寺の変はいじめだけが原因ではないと思うけどね。
いじめは日本だけでなく、海外にも存在する。西洋人はあまり認めたがらないが、ハリウッド映画に事例をみることができる。「バックトゥザフューチャー」では、主人公マーティーは、巨漢で金持ち(トランプ大統領がモデルらしい)のビフにいろいろいじめられている様子が描かれている。映画に登場するということは、程度の差はあるだろうが、現実のアメリカ社会にいじめが存在することを意味している。でなければ、劇中のプロットが観客に伝わらないからだ。
時間空間を超えて、いじめは人間の社会に普遍的に存在している。普遍的に存在しているということは、その理由も普遍的のはずだ。そのような文脈でいじめは理解されねばならない。
その立場に立てば、「いじめをなくそう!」といったスローガン、「周りが気を配っていれば、いじめがなくなる」という論調、それに基づく「いじめ対策」、すべて無駄だ、ということがわかる。人間社会には、本質的にいじめが存在し、それは子供に限った話ではない。歴史に見られるいじめは、大人社会のいじめだから、昔の子供社会にいじめがなかった、ということも考えられない。現代社会に見られるように、大人社会より子供同士のいじめの方が絶対的に多いように、昔の子供にもいじめ問題はたくさんあったはずだ。いじめと人間社会を切り離すことができない、つまり、「いじめはなくせるものではない」という立場に立って、どうしたらよいかを考えるべきだ、と僕は思う。
その立場に立てば、「いじめをなくそう!」といったスローガン、「周りが気を配っていれば、いじめがなくなる」という論調、それに基づく「いじめ対策」、すべて無駄だ、ということがわかる。人間社会には、本質的にいじめが存在し、それは子供に限った話ではない。歴史に見られるいじめは、大人社会のいじめだから、昔の子供社会にいじめがなかった、ということも考えられない。現代社会に見られるように、大人社会より子供同士のいじめの方が絶対的に多いように、昔の子供にもいじめ問題はたくさんあったはずだ。いじめと人間社会を切り離すことができない、つまり、「いじめはなくせるものではない」という立場に立って、どうしたらよいかを考えるべきだ、と僕は思う。
いじめの理由
菅原道真の例では、妬みが原因となっていた。これは、いじめる側に積極的な理由があるケースだ。この場合、いじめの動機ははっきりしている。菅原道真は自らの才覚で人気者ランキング上位に躍り出たわけだが、階級意識の強い貴族社会にあって、そのようなランキングの急上昇は極めて強い嫉妬の対象になる。道真を快く思わない人たちが策を弄して道真を陥れるというのは、陰湿な貴族社会にあってはよくあることだ。特に、道徳観念が緩い貴族社会では、そのような手法はむしろ肯定される傾向にあったと思われる。そのような社会では不利益を防止する手段として賄賂が有効だ。しかし、道真の場合は、賄賂が行き届かないほど急激に有名なったため、攻撃対象になったのだと理解できる。道真は、社会・組織の陰湿さの犠牲者だ。
明智光秀の場合には容姿が原因となっていた。バックトゥザフューチャーでは、架空の出来事ではあるが、主人公の体格が小さいことがいじめの理由であった。このように、いじめられる側の容姿がいじめの理由となる例は多い。とはいうものの、容姿の良しあしは主観の問題であるし、本人にはいかんともしがたい。いじめられる側にとっては、なんとも理不尽であり、非はない。一方、いじめられる側の容姿がどうあろうと、いじめる側に不利益が生じるなんてことはない。すなわち、いじめる側の動機ははっきりしないのだ。なんとなく、なんていうのは理由にならない。いじめの発生理由をはっきりしないといじめの対策も考察できないのだから、いじめ撲滅のためには、あきらめずに考察しなければならない。
明智光秀の場合には容姿が原因となっていた。バックトゥザフューチャーでは、架空の出来事ではあるが、主人公の体格が小さいことがいじめの理由であった。このように、いじめられる側の容姿がいじめの理由となる例は多い。とはいうものの、容姿の良しあしは主観の問題であるし、本人にはいかんともしがたい。いじめられる側にとっては、なんとも理不尽であり、非はない。一方、いじめられる側の容姿がどうあろうと、いじめる側に不利益が生じるなんてことはない。すなわち、いじめる側の動機ははっきりしないのだ。なんとなく、なんていうのは理由にならない。いじめの発生理由をはっきりしないといじめの対策も考察できないのだから、いじめ撲滅のためには、あきらめずに考察しなければならない。
バックトゥザフューチャーのケースでは、ガキ大将のマインドセットというのが重要に思う。ガキ大将には、取り巻きが存在し、ガキ大将は取り巻きに自分の力を誇示する必要がある(示威行為)。体格の劣る主人公マーティーは腕力での示威行為には最適のカモに見える。しかしながら、マーティーは暴力には屈しないので、示威行為が失敗する。するとさらに強硬な示威行為に発展し、その溝が深まる。
明智光秀の場合も、信長の示威行為の標的となったと考えることができる。いじめの標的になるのに実は理由はない。立場、体格、人脈などである程度の差があれば、理由は後付けで構わない。典型的な例では、口頭でのからかいからスタートする。反応するようなら、それを少しエスカレートさせる。限界点を超えて相手をキレさせることで、いじめの口実が完成する。対象の非を指摘し、正義(多数派)を味方につけ、執拗に攻撃を加える、というのがいじめの構図だ。これは、よくあるネットでの炎上と同じ構図に気づく。我々は大人になっても依然としていじめから脱却できていない。
ネット炎上といじめの類似点については、さまざまに指摘があり、僕の意見というわけでもない。ネット炎上とまではいかなくても、政治家や芸能人のスキャンダルに対する一般人の反応も、かなり似ている。この場合、双方向でないメディアが介在しているため、ネット炎上のように極端なエスカレートにはなりにくいが、かなりヒステリックな場合もある。誰にでも経験があるそのような場合の心理を考察することで、いじめの本当の理由が見えてくるはずだ。
いじめに対する抑止力
法や道徳が十分に発達していない社会では、いじめは人間関係の一部としてみなされていたはずだ。つまり、いじめはよくないことではあるが、犯罪的ではない、と認識されていた。織田信長が明智光秀をいじめても、信長をとがめる人はいなかったろう。信長のことを下品に思う人はいただろうが、だからと言って、当時の道徳観から逸脱しているわけではない。戦国時代という混乱を考慮すれば、もっと理不尽なことがたくさんあったわけで、個人のプライドなど、大義の前では些末なことだったに違いない。つまり、いじめの問題が顕著になるかどうかは、価値観の問題かもしれない、という点を指摘したい。
いじめは、長期的には利益を生まないので、よくないことだと考えられてきた。そのため、江戸時代になると、身分制度を確立させ、規範を徹底させた。そのために導入された思想が儒教である。儒教では身分の上下を絶対視するので、形式的にはいじめを排除できる。あるいは、いじめ的な行為そのものはむしろ禁止されないものの、さらに上位の者から、行動を規制され、いじめ的な行為は抑止される。儒教思想は形式的すぎて徹底的な実行が難しいのだが、江戸時代には実用面での解釈が進み、国学として発達した。
儒教と国学の決定的な違いは、国学では、儒教的な形式よりも、道徳観が優先する点である。確かに、道徳観によって、いじめは抑止されるだろう。江戸時代には、謀略の類はたくさんあったろうが、あからさまないじめは幕府からは排除されていたように見える。
例外は、大奥で、多くの逸話がある。様々な社会通念の外部に置かれた閉鎖社会では、いじめが自然発生する、という事例だろう。また、女性は自らの利益が絡むと順法意識が薄れる傾向があることが、最近の研究で明らかにされており、そのことも大奥でいじめが自然発生した原因の一つかもしれない。
道徳観はいじめに対する抑止力になりうるが、通常の道徳観と平等の精神は相性がすこぶる悪い。道徳観の基本は相手の利益を尊重するという態度である。それはつまり、自分の利益と相手の利益が衝突する場合に、自分の不利益を甘受するということだ。相手も同じように不利益をこうむる場合は、平等が成立するが、ふつうはそんなことはない。不利益の配分比率が平等になるような解決策が見つからない時は、自分の不利益が多くても、妥協すべし、というのが正しい道徳観になる。それはつまり、相手を平等にみなさないということだ。
ゲーム理論で論じられる有名な題材で「タカとハトのゲーム」がある。ハトは利益が衝突した時に、必ず不利益な選択をし、タカは必ず利益を優先するという選択をする。タカ同士が衝突する時は、けんかになり、半々の確率で大きな不利益を被る。これはつまり、ハトは徹底的に道徳的で、タカは非道徳的だということだ。面白いのは、タカとハトの比率が必ず安定するという点だ。道徳観が十分に発達したとしても、利益の衝突が存在する限り、非道徳的な振る舞いをする人が一定割合残るということだ。非道徳的な、つまり利己的な人には、いじめは抑止されないので、いじめは残る。つまり、道徳観を徹底しても、利己的な人を完全には排除できず、いじめは根絶できない。
いじめは、長期的には利益を生まないので、よくないことだと考えられてきた。そのため、江戸時代になると、身分制度を確立させ、規範を徹底させた。そのために導入された思想が儒教である。儒教では身分の上下を絶対視するので、形式的にはいじめを排除できる。あるいは、いじめ的な行為そのものはむしろ禁止されないものの、さらに上位の者から、行動を規制され、いじめ的な行為は抑止される。儒教思想は形式的すぎて徹底的な実行が難しいのだが、江戸時代には実用面での解釈が進み、国学として発達した。
儒教と国学の決定的な違いは、国学では、儒教的な形式よりも、道徳観が優先する点である。確かに、道徳観によって、いじめは抑止されるだろう。江戸時代には、謀略の類はたくさんあったろうが、あからさまないじめは幕府からは排除されていたように見える。
例外は、大奥で、多くの逸話がある。様々な社会通念の外部に置かれた閉鎖社会では、いじめが自然発生する、という事例だろう。また、女性は自らの利益が絡むと順法意識が薄れる傾向があることが、最近の研究で明らかにされており、そのことも大奥でいじめが自然発生した原因の一つかもしれない。
道徳観はいじめに対する抑止力になりうるが、通常の道徳観と平等の精神は相性がすこぶる悪い。道徳観の基本は相手の利益を尊重するという態度である。それはつまり、自分の利益と相手の利益が衝突する場合に、自分の不利益を甘受するということだ。相手も同じように不利益をこうむる場合は、平等が成立するが、ふつうはそんなことはない。不利益の配分比率が平等になるような解決策が見つからない時は、自分の不利益が多くても、妥協すべし、というのが正しい道徳観になる。それはつまり、相手を平等にみなさないということだ。
ゲーム理論で論じられる有名な題材で「タカとハトのゲーム」がある。ハトは利益が衝突した時に、必ず不利益な選択をし、タカは必ず利益を優先するという選択をする。タカ同士が衝突する時は、けんかになり、半々の確率で大きな不利益を被る。これはつまり、ハトは徹底的に道徳的で、タカは非道徳的だということだ。面白いのは、タカとハトの比率が必ず安定するという点だ。道徳観が十分に発達したとしても、利益の衝突が存在する限り、非道徳的な振る舞いをする人が一定割合残るということだ。非道徳的な、つまり利己的な人には、いじめは抑止されないので、いじめは残る。つまり、道徳観を徹底しても、利己的な人を完全には排除できず、いじめは根絶できない。
いじめを少なくする方策
いじめの根絶が不可能だという結論に基づくと、我々にできることは、いじめを少なくすることと、いじめが発生した時の対処である。いじめを少なくするには、いじめに関するインセンティブを取り除くということに尽きる。
明智光秀の例のように、いじめというのは、いじめる側あるいはいじめられる側に、何かプラスの価値を生む、ということだ。いじめる側の利益は比較的わかりやすい。「カツアゲ」なら金銭的にプラスだし、「示威行為」ならコミュニティでの存在感がプラスになる。であれば、いじめ行為がプラスにならないような仕組みを考えればよい。「カツアゲ」はお金の匿名性によって生まれる非合法の商行為であるので、お金の匿名性をなくせば根絶できる。お金の匿名性に制限を加えると、関連する多くの犯罪が激減するだろうから、実は早くやった方が良い。
示威行為がプラスにならないようにするために、江戸時代には儒学・国学が発達した。徹底した道徳教育により、ガキ大将的な示威行為は恥ずかしいこととみなされ、大人の社会では、表面的には姿を消した。しかし、スキャンダルに対するバッシングや、ネット炎上のように、江戸時代には考えられなかった形式の示威行為が横行している。現代的な道徳観を再整備する必要がある。
いじめられる側にも、損得勘定が存在する。「カツアゲ」される場合、お金を渡す・渡さないという選択肢があり、お金を渡すことで、「カツアゲ」が成立する。そのとき、お金はいじめられる側が自発的に渡しているという「形式」を取る点が重要だ。「カツアゲ」では、直接的な暴力というより、言葉による「脅迫」が主な手段となる。時には暴力が含まれるが、暴力は証拠が残りやすいため、避ける傾向がある。暴力をちらつかせ、脅迫することで、そこから逃れる手段として金銭を要求する。いじめる側は、いじめられる側の財布に触れないことも多い。その場合、形式的にはいじめられる側が自発的に金銭を渡した、という言い訳が成立する。これにより、いじめる側の罪悪感が低減され、行為がエスカレートするという連鎖が生まれやすい。問題は、お金を提供するという選択肢が、そうでない場合よりいじめられる側にとって「得」になっている点だ。そうでないと「自主的」にならない。自主的でない場合は強盗だが、「カツアゲ」は「強盗」とはかなり違っているように見える。
いじめられる側にとって、お金を提供するのにどのような「得」があるのだろう。様々な状況が考えられるが、暴力の回避、いじめ行為の一次的緩和、コミュニティでの地位向上が主なところだろう。暴力は犯罪なので、しかるべき対応をすれば、確実になくすことができる。これに関しては断固たる態度が重要だ。
いじめを甘受するとコミュニティでの地位向上が一定程度あることに注目すべきだ。いじめの矛先がコミュニティの他のメンバーに移る可能性もある。いじめのリーダーはいじめのターゲットを順繰りに変えてゆくことで、絶対的な地位を築く傾向がある。昔よくあった「根性焼き」というやつだ。火のついたタバコを手のひらに当てて消すことで、いじめられっ子からコミュニティメンバーに昇格する。しかしながら、そもそもいじめが存在するようなコミュニティに加わるのにどれほどの価値があるのだろう。
いじめを甘受するとコミュニティでの地位向上が一定程度あることに注目すべきだ。いじめの矛先がコミュニティの他のメンバーに移る可能性もある。いじめのリーダーはいじめのターゲットを順繰りに変えてゆくことで、絶対的な地位を築く傾向がある。昔よくあった「根性焼き」というやつだ。火のついたタバコを手のひらに当てて消すことで、いじめられっ子からコミュニティメンバーに昇格する。しかしながら、そもそもいじめが存在するようなコミュニティに加わるのにどれほどの価値があるのだろう。
実は、ここに、現状のいじめ対策の落とし穴がある。現在の学校教育では、いじめ根絶のために友達を大事にする、ということを徹底して指導する。友達というのはクラスメートのことである。その中にはいじめる側も含まれる。すなわち、友達を大事にしようというスローガンは、いじめる側を尊重しようというという意味が含まれ、いじめを助長する場合があるということだ。
いじめに対処しようとするなら、そのような人間関係におけるゆらぎの存在を認め、いじめの場面を想定して事に当たる必要がある。先生という上位者が介入していじめの調査を行う場合、関係者が極端に「友達」側に寄った対応をするということを念頭に置かねばならない。重要なのは、いじめられる側も「友達モード」で事件を語ることがある、ということだ。これはちょうど、親による児童虐待と同じような構図である。
親による児童虐待において最も問題なのは、虐待されている子供にとって虐待があまりに日常的なので、それを虐待と認識していないことがある点だ。分別の整っていない子供の場合、虐待をダメなことだと認識できない場合も多い。また、子供にとって親は生命線なので、親を攻撃することはできない。そのため、子供からは、親にとって不利な証言が出にくいということもある。
極端ないじめの場合には、同じようなことが起こりうる。いじめられる側はその状態が普通だと思っている可能性があり、本人がそれをいじめと認識していないかもしれない。また、いめられる側の性格の傾向によって人間関係が極端に狭い場合、いじめる側が重要な人間関係となっていて、それを守ろうとする場合がある。よくあるのは、暴力的なのは一時的だから、という説明だ。これはドメスティックバイオレンスでよくあるパターンだ。ちなみに、児童虐待やドメスティックバイオレンスはいじめの類型として整理することができる。これらは暴力的ということで、犯罪として定義可能で、第三者の判断が比較て容易だが、いじめは違う。より多様な形式があり得るので、介入する場合には、さまざまなことに注意しなければならない。もっというと、いじめを前提として調査をすべきだ。それは、つまり、民事ではなくて刑事としての介入を原則とすべきということ意味する。
さて、いじめられる側が追いつめられるのは、いじめのコミュニティーから逃れられないからだという点に注意しよう。つまり、いじめのあるコミュニティーから離脱する選択肢があれば、いじめによる深刻な被害は回避可能であるということだ。
いまの学校教育では、友達重視が行き過ぎていて、友達からいじめっこを除外できない。友達重視ではなく、友達を尊重するという立場の方が良い。つまり、友達は、大切にする対象ではなく、尊重し、尊重される関係であると説く。また、尊重が得られない人は、友達の定義から容赦なく外す。また、さまざまなコミュニティー(友達の種類)を提供することで、いじめが発生した時の一時避難所あるいは、恒久的解決策とする。今の子供たちにとってのコミュニティーは、学校を中心とした交友関係に偏っており、それが子供たちをいじめの環境に縛り続けている。そのような未熟で閉じたコミュニティーにおいて、社会道徳が行き届かないのは当たり前だ。そのようなコミュニティーから離脱し、別のコミュニティーに参加できる環境を用意すべきだ。
今現在は、フリースクールがその役割を担っているが、フリースクールは不登校までエスカレートした段階での解決策であり、問題が深刻化しないと機能しない。いじめが深刻化しない段階で、代替コミュニティーを提供することを考えねばならない。
全く別のアプローチとして、いじめる側のコミュニティーを破壊するということも考えられる。昔からある手段としては、留年、転校、停学などだ。残念ながら、留年・転校は、いじめられる側の選択肢になっており、これはぜひとも是正すべきだ。問題のある子を一時的に転校させるために、特殊な学校を整備するというのは、特に都市では現実的な選択肢になるだろう。地方では、一時的に隔離クラスを作るというのが良い。隔離クラス・学校では専属の担当教員を配置し、徹底的にケアを行う。イメージとして、少年犯罪に対する医療少年院に近い。いじめられる状態を疑似体験し、正常なコミュニティーメンバーとしてのトレーニングを行うとよい。
留年のデメリットは、交友関係が刷新されることと、年次を損することだ。交友関係の刷新は、いじめ対策として有効であり、この場合、デメリットにならない。年次を損するというのは、就業期間を損することで、生涯年棒を考えた場合に不利になるということだ。しかしながら、大学進学時に浪人したり、大学在学時に留年するのは、かなりの割合で存在するので、1年程度の留年の経済的損失は、おおむね許容される。留年は現実的な選択肢だと思う。
では、いじめる側といじめられる側のどちらを留年させるか、という問題になる。いじめる側に対し、いじめがダメだというメッセージを送るためには、いじめる側を留年させるべきだ。しかし、いじめられる側は問題発覚時点で不登校になっている可能性があり、学習面からみても、いじめられる側が留年するというのが現実的な選択肢になってしまう。
いじめる側に対するペナルティーは、前述の隔離教室等で対応するとして、いじめられる側の留年が懲罰的にならないような仕組みを考えるべきだろう。
留年のデメリットは、1年という時間的な遅れが、子供にとって無視できないほど大きいということだ。いじめられて不登校になっている場合、級友が刷新されることはデメリットというわけでもないので、この時間的な遅れが最も重大な障害になる。前述のように、大学卒業時点では1年くらいの遅れはなんともない。なので、大学入学時点で時間的遅れのデメリットが目立たないようにするのが良いだろう。後述するが、留年というシステムを積極活用するといじめ対策以外にもメリットが出てくる。
1年という期間が長すぎるというのが問題なら、それを6か月とか3か月とかにできないだろうか?3か月は難しいかもしれないが、6か月なら現実的かもしれない。6か月での進行には、実はいくつかのメリットがある。
学校システムを6か月進行にするというのは、例えば、4月と10月に入学があり、3月と9月に卒業するということだ。各学年は、1年前期、1年後期という言うように半年ごとに進んでゆく。当然、入試も年2回行うことになる。中学校以降では教科ごとに先生が変更になるので、対応は容易だ。小学校では、むしろ6か月制が好ましい部分もある。というのも、小学校低学年では半年違うと体格に差があり、年齢差にともなう差が成績に現れてしまうからだ。例えば、陸上競技の選手は4月生まれが多いという統計データがある。体格差が出やすく、結果の比較が厳密な陸上競技では、選手の選抜時のちょっとした年齢差が影響する。選抜されるかどうかで、後につづくトレーニングやモチベーションに差が現れるため、数か月の生まれの差が重大な影響につながる。
勉強に関しては、それほど顕著な差はみられないが、体格の差はいじめを生む要因にもなる。未熟児で得生まれというケースでは、小学校半ばまで体格の差が残るケースもあり、そういう場合には、1年くらい遅らせたいという親もいるかもしれない。
勉強に関しても、小学校の低学年で遅れてしまう場合には、1年遅らせたほうが教育的にも好ましいかもしれない。わけのわからない授業を朝から夕方まで聞かされるというのは、拷問以外の何物でもないし、それによって余計に勉強嫌いになる。僕の上の子がそういうケースで、小学校の時に留年させたい旨を申し出たが、法律によって阻まれた。
小中学校で留年がないのは、義務教育だからという理由で説明されるが、実のところ、1年の遅れが子供の教育にとって深刻な影響を与えるということを恐れているからだ。でも遅れが半年だったらどうだろう?あるいは、入学時期を選べるというのはどうだろう?入学時期は体格や精神の発達で決定するようにすると良い気がする。ある親は早めの入学を希望するかもしれない。ただ、早すぎると体格的に不利で、子供にとってはちょっと嫌だろう。
うちの近くの小学校は児童数が少なく、各学年1クラスなので、6か月制への移行は難しいかもしれない。でも複数クラスある場合は、容易に対応できる。
小学校、中学校は対応できるとして、高校はどうだろう?高校の場合、入試が問題になる。具体的には、半期に一度入試をするのかどうか、ということに尽きる。私立高校では、生徒獲得のチャンスが増えるので、むしろ歓迎されるかもしれない。でももっと重要なのは、出口に設定されている大学入試だ。もし、大学入試を半期に一度行うようにすれば、高校はそれに対応するために、6か月制に自然に移行すると予想する。
実のところ、大学はすでにほとんど6か月制になっている。少なくとも、大学院は完全に6か月制であるところも少なくない。あとは、試験をどのくらいの頻度で行うか、という問題に尽きる。
大学にとっての6か月制のメリットは、外国からの学生の受け入れが容易になることが挙げられる。海外の学期は、9月か10月にスタートするからだ。半期のずれが、日本と海外の大学の接続の障害になっている面があるが、6か月制にすれば、解決する。
1年に2回入学機会があるというのは、受験生にとって朗報だ。浪人のデメリットが大幅に低減されるだろう。受験機会が増えるということは、大学入試に伴うリスクが減るということだ。それはすなわち、大学入試に対する過熱気味の対応を是正することにもつながるだろう。センター試験を廃止するという議論が進んでいるが、これも6か月制を後押しするかもしれない。というのも、新しい方式では、複数の時期に複数回、テストが受けられるようになるかもしれないからだ。大学入試の時期を現在の1月~3月に限定する必要がなくなるということだ。
合わせると、10月入学した小学生は、10月に大学に入学できるようになる、ということだ。大学入学の規定で、年齢制限を課す方が良いと僕は思っている。早めに入学した子は、早めに高校を卒業することになる。でも大学入学の年齢制限に引っかかって、半年くらい待たされるかもしれない。その時は、留学したり、ボランティアに参加したりすると良いと思っている。若い時に、いろいろ経験することはよいことなのだが、現状の教育システムでは時間がなくて、実行できていない。それが是正できる。また、高校卒業と大学受験が切り離されることで、高校の予備校化に歯止めがかかるかもしれない。大学入試時に、高校卒業後をどのように過ごしたかが考慮されるシステムにするとより効果的かもしれない。
いじめの話に戻すと、6か月制というのは、留年が容易になるという点でとても良い。入学時期が早かったり遅かったりというのが許され、学校教育の関門として設定される大学受験で、入学・卒業時期の差がリセットされるとすると、ほとんどの子供に半年程度の余裕ができるはずだ。つまり、1回留年しても、級友が刷新される以外のデメリットがほとんどない、ということだ。
高校では逆に、留年が極端に多くなる可能性がある。というのも、留年に関する障害が少なくなると、成績・評価が厳密化するかもしれないからだ。厳密化すると、ちゃんと勉強しないと高校を卒業できなくなる。温情をかける場面もあるかもしれないが、留年の基準に留年回数をあからさまに反映させるのは、教育上よくない。
高校における教育困難校問題に対しては、これが一つの解決策となるだろう。基準をクリアしないで卒業させるから、教育困難校になるわけで、留年環境の緩和はこれを防ぐ方向に働く。
仕事内容で給与を決めるとなると、留年は大きなハンデにはならない。勤続年数に応じた経験をカウントするというをやめようというのが働き方改革の理念であるので、それがなくなると、勤続年数が少なくなる留年というイベントの最大のデメリットが取り除かれることになるからだ。最終学歴での留年がハンデにならなければ、最終学歴に至る過程での留年も人生におけるドロップアウトを意味しなくなるだろう。
ゆっくりでも学び続ければ、誰でも大学を卒業できるはずだ。その情熱があれば、素晴らしい人材であることの証明になる。学びのスピードは人それぞれだ。ゆっくり、じっくり自分に合ったスピードで学ぶことができた方がハッピーかもしれない。そう考えると、小学校や中学校で留年したほうがよい人生が送れる可能性すらある。留年という仕組みを積極的に活用する方向で物事を考えたらどうだろう。
いじめに対する対処
いじめにおける人間関係は、敵味方のようなわかりやすい二元論ではなかなか語れないことが知られている。いじめる側も場面を変えると「友達」であり、いじめの場面での関係はその対極であると思うと良い。任意の時点での人間関係はそれらの間のどこかだ。例えば、学校において先生が近くにいる場面では、「友達」に近く、先生や親から離れると、「いじめ」になっていて、先生や親から実態が見えにくくなる。いじめに対処しようとするなら、そのような人間関係におけるゆらぎの存在を認め、いじめの場面を想定して事に当たる必要がある。先生という上位者が介入していじめの調査を行う場合、関係者が極端に「友達」側に寄った対応をするということを念頭に置かねばならない。重要なのは、いじめられる側も「友達モード」で事件を語ることがある、ということだ。これはちょうど、親による児童虐待と同じような構図である。
親による児童虐待において最も問題なのは、虐待されている子供にとって虐待があまりに日常的なので、それを虐待と認識していないことがある点だ。分別の整っていない子供の場合、虐待をダメなことだと認識できない場合も多い。また、子供にとって親は生命線なので、親を攻撃することはできない。そのため、子供からは、親にとって不利な証言が出にくいということもある。
極端ないじめの場合には、同じようなことが起こりうる。いじめられる側はその状態が普通だと思っている可能性があり、本人がそれをいじめと認識していないかもしれない。また、いめられる側の性格の傾向によって人間関係が極端に狭い場合、いじめる側が重要な人間関係となっていて、それを守ろうとする場合がある。よくあるのは、暴力的なのは一時的だから、という説明だ。これはドメスティックバイオレンスでよくあるパターンだ。ちなみに、児童虐待やドメスティックバイオレンスはいじめの類型として整理することができる。これらは暴力的ということで、犯罪として定義可能で、第三者の判断が比較て容易だが、いじめは違う。より多様な形式があり得るので、介入する場合には、さまざまなことに注意しなければならない。もっというと、いじめを前提として調査をすべきだ。それは、つまり、民事ではなくて刑事としての介入を原則とすべきということ意味する。
さて、いじめられる側が追いつめられるのは、いじめのコミュニティーから逃れられないからだという点に注意しよう。つまり、いじめのあるコミュニティーから離脱する選択肢があれば、いじめによる深刻な被害は回避可能であるということだ。
いまの学校教育では、友達重視が行き過ぎていて、友達からいじめっこを除外できない。友達重視ではなく、友達を尊重するという立場の方が良い。つまり、友達は、大切にする対象ではなく、尊重し、尊重される関係であると説く。また、尊重が得られない人は、友達の定義から容赦なく外す。また、さまざまなコミュニティー(友達の種類)を提供することで、いじめが発生した時の一時避難所あるいは、恒久的解決策とする。今の子供たちにとってのコミュニティーは、学校を中心とした交友関係に偏っており、それが子供たちをいじめの環境に縛り続けている。そのような未熟で閉じたコミュニティーにおいて、社会道徳が行き届かないのは当たり前だ。そのようなコミュニティーから離脱し、別のコミュニティーに参加できる環境を用意すべきだ。
今現在は、フリースクールがその役割を担っているが、フリースクールは不登校までエスカレートした段階での解決策であり、問題が深刻化しないと機能しない。いじめが深刻化しない段階で、代替コミュニティーを提供することを考えねばならない。
全く別のアプローチとして、いじめる側のコミュニティーを破壊するということも考えられる。昔からある手段としては、留年、転校、停学などだ。残念ながら、留年・転校は、いじめられる側の選択肢になっており、これはぜひとも是正すべきだ。問題のある子を一時的に転校させるために、特殊な学校を整備するというのは、特に都市では現実的な選択肢になるだろう。地方では、一時的に隔離クラスを作るというのが良い。隔離クラス・学校では専属の担当教員を配置し、徹底的にケアを行う。イメージとして、少年犯罪に対する医療少年院に近い。いじめられる状態を疑似体験し、正常なコミュニティーメンバーとしてのトレーニングを行うとよい。
留年の活用
留年を積極的に活用することも考えるべきだと僕は思う。恒久的な隔離の方法として、引っ越しと留年があるわけだが、引っ越しは経済的ではないし、地理的に無理な地域も多い。留年はダメージが残るやり方だが、多くの人が望んで留年するならどうだろう?留年のデメリットは、交友関係が刷新されることと、年次を損することだ。交友関係の刷新は、いじめ対策として有効であり、この場合、デメリットにならない。年次を損するというのは、就業期間を損することで、生涯年棒を考えた場合に不利になるということだ。しかしながら、大学進学時に浪人したり、大学在学時に留年するのは、かなりの割合で存在するので、1年程度の留年の経済的損失は、おおむね許容される。留年は現実的な選択肢だと思う。
では、いじめる側といじめられる側のどちらを留年させるか、という問題になる。いじめる側に対し、いじめがダメだというメッセージを送るためには、いじめる側を留年させるべきだ。しかし、いじめられる側は問題発覚時点で不登校になっている可能性があり、学習面からみても、いじめられる側が留年するというのが現実的な選択肢になってしまう。
いじめる側に対するペナルティーは、前述の隔離教室等で対応するとして、いじめられる側の留年が懲罰的にならないような仕組みを考えるべきだろう。
留年のデメリットは、1年という時間的な遅れが、子供にとって無視できないほど大きいということだ。いじめられて不登校になっている場合、級友が刷新されることはデメリットというわけでもないので、この時間的な遅れが最も重大な障害になる。前述のように、大学卒業時点では1年くらいの遅れはなんともない。なので、大学入学時点で時間的遅れのデメリットが目立たないようにするのが良いだろう。後述するが、留年というシステムを積極活用するといじめ対策以外にもメリットが出てくる。
1年という期間が長すぎるというのが問題なら、それを6か月とか3か月とかにできないだろうか?3か月は難しいかもしれないが、6か月なら現実的かもしれない。6か月での進行には、実はいくつかのメリットがある。
学校システムを6か月進行にするというのは、例えば、4月と10月に入学があり、3月と9月に卒業するということだ。各学年は、1年前期、1年後期という言うように半年ごとに進んでゆく。当然、入試も年2回行うことになる。中学校以降では教科ごとに先生が変更になるので、対応は容易だ。小学校では、むしろ6か月制が好ましい部分もある。というのも、小学校低学年では半年違うと体格に差があり、年齢差にともなう差が成績に現れてしまうからだ。例えば、陸上競技の選手は4月生まれが多いという統計データがある。体格差が出やすく、結果の比較が厳密な陸上競技では、選手の選抜時のちょっとした年齢差が影響する。選抜されるかどうかで、後につづくトレーニングやモチベーションに差が現れるため、数か月の生まれの差が重大な影響につながる。
勉強に関しては、それほど顕著な差はみられないが、体格の差はいじめを生む要因にもなる。未熟児で得生まれというケースでは、小学校半ばまで体格の差が残るケースもあり、そういう場合には、1年くらい遅らせたいという親もいるかもしれない。
勉強に関しても、小学校の低学年で遅れてしまう場合には、1年遅らせたほうが教育的にも好ましいかもしれない。わけのわからない授業を朝から夕方まで聞かされるというのは、拷問以外の何物でもないし、それによって余計に勉強嫌いになる。僕の上の子がそういうケースで、小学校の時に留年させたい旨を申し出たが、法律によって阻まれた。
小中学校で留年がないのは、義務教育だからという理由で説明されるが、実のところ、1年の遅れが子供の教育にとって深刻な影響を与えるということを恐れているからだ。でも遅れが半年だったらどうだろう?あるいは、入学時期を選べるというのはどうだろう?入学時期は体格や精神の発達で決定するようにすると良い気がする。ある親は早めの入学を希望するかもしれない。ただ、早すぎると体格的に不利で、子供にとってはちょっと嫌だろう。
うちの近くの小学校は児童数が少なく、各学年1クラスなので、6か月制への移行は難しいかもしれない。でも複数クラスある場合は、容易に対応できる。
小学校、中学校は対応できるとして、高校はどうだろう?高校の場合、入試が問題になる。具体的には、半期に一度入試をするのかどうか、ということに尽きる。私立高校では、生徒獲得のチャンスが増えるので、むしろ歓迎されるかもしれない。でももっと重要なのは、出口に設定されている大学入試だ。もし、大学入試を半期に一度行うようにすれば、高校はそれに対応するために、6か月制に自然に移行すると予想する。
実のところ、大学はすでにほとんど6か月制になっている。少なくとも、大学院は完全に6か月制であるところも少なくない。あとは、試験をどのくらいの頻度で行うか、という問題に尽きる。
大学にとっての6か月制のメリットは、外国からの学生の受け入れが容易になることが挙げられる。海外の学期は、9月か10月にスタートするからだ。半期のずれが、日本と海外の大学の接続の障害になっている面があるが、6か月制にすれば、解決する。
1年に2回入学機会があるというのは、受験生にとって朗報だ。浪人のデメリットが大幅に低減されるだろう。受験機会が増えるということは、大学入試に伴うリスクが減るということだ。それはすなわち、大学入試に対する過熱気味の対応を是正することにもつながるだろう。センター試験を廃止するという議論が進んでいるが、これも6か月制を後押しするかもしれない。というのも、新しい方式では、複数の時期に複数回、テストが受けられるようになるかもしれないからだ。大学入試の時期を現在の1月~3月に限定する必要がなくなるということだ。
合わせると、10月入学した小学生は、10月に大学に入学できるようになる、ということだ。大学入学の規定で、年齢制限を課す方が良いと僕は思っている。早めに入学した子は、早めに高校を卒業することになる。でも大学入学の年齢制限に引っかかって、半年くらい待たされるかもしれない。その時は、留学したり、ボランティアに参加したりすると良いと思っている。若い時に、いろいろ経験することはよいことなのだが、現状の教育システムでは時間がなくて、実行できていない。それが是正できる。また、高校卒業と大学受験が切り離されることで、高校の予備校化に歯止めがかかるかもしれない。大学入試時に、高校卒業後をどのように過ごしたかが考慮されるシステムにするとより効果的かもしれない。
いじめの話に戻すと、6か月制というのは、留年が容易になるという点でとても良い。入学時期が早かったり遅かったりというのが許され、学校教育の関門として設定される大学受験で、入学・卒業時期の差がリセットされるとすると、ほとんどの子供に半年程度の余裕ができるはずだ。つまり、1回留年しても、級友が刷新される以外のデメリットがほとんどない、ということだ。
高校では逆に、留年が極端に多くなる可能性がある。というのも、留年に関する障害が少なくなると、成績・評価が厳密化するかもしれないからだ。厳密化すると、ちゃんと勉強しないと高校を卒業できなくなる。温情をかける場面もあるかもしれないが、留年の基準に留年回数をあからさまに反映させるのは、教育上よくない。
高校における教育困難校問題に対しては、これが一つの解決策となるだろう。基準をクリアしないで卒業させるから、教育困難校になるわけで、留年環境の緩和はこれを防ぐ方向に働く。
留年を許容する社会
実際のところ、大卒時点では、誰も留年を気にしない社会にはなっている。しかしながら、留年しているとその理由を尋ねられることがあるだろう。なぜなら、給与計算がくるってくるからだ。給与の起算は入社年次を基準にするものだが、大学院に長く在籍した人の不利を補填するため、学部卒業時や修士卒業時を基準にすることもある。年功序列の弊害だが、年功序列が崩れ始めた現在に至っても、給与に関する取り決めはなかなか変更しづらいものだ。でも働き方改革が追い風になるかもしれない。仕事内容で給与を決めるとなると、留年は大きなハンデにはならない。勤続年数に応じた経験をカウントするというをやめようというのが働き方改革の理念であるので、それがなくなると、勤続年数が少なくなる留年というイベントの最大のデメリットが取り除かれることになるからだ。最終学歴での留年がハンデにならなければ、最終学歴に至る過程での留年も人生におけるドロップアウトを意味しなくなるだろう。
ゆっくりでも学び続ければ、誰でも大学を卒業できるはずだ。その情熱があれば、素晴らしい人材であることの証明になる。学びのスピードは人それぞれだ。ゆっくり、じっくり自分に合ったスピードで学ぶことができた方がハッピーかもしれない。そう考えると、小学校や中学校で留年したほうがよい人生が送れる可能性すらある。留年という仕組みを積極的に活用する方向で物事を考えたらどうだろう。