視野の欠落について
僕は糖尿病歴10年以上で、コントロールもよくないので網膜症があります。網膜症というのは網膜細胞に酸素と栄養を供給する血管に出血があり、その先にある網膜細胞が壊死する病気です。壊死するとその場所の視力が失われます。壊死するのが視野の端っこなら問題ないのですが、糖尿病性網膜症の場合、壊死するのは視野の中央部分のもっとも重要な部分なのがとても大きな問題です。普段は気にならないのですが、本を読んだりすると視野が欠けていることがわかります。おそらく、欠けているのは視野の5%程度なのですが、視野の中央にあるために、読書時に使う視野のうち10~15%が使えません。とてもイライラします。視野欠けは普段気になりません。理由は脳が視野欠けを補完しているからです。僕らの目には「盲点」がありますが、普段は盲点を知覚することはできません。盲点を探り当てたとしても、盲点の領域は空間がゆがんで切り取られたようになっていて、直接的な視野情報を得ることはできません。実は重力レンズみたいな状態になっているので、盲点周辺の視野は不自然にゆがんでいます。つまり、僕たちの空間知覚自体がゆがんでいるのです。しかしながら、それがあまりに当たり前になっているので、特別に意識を集中しない限りゆがみを感じることはありません。
僕のように視野が欠けた場合にも同じような視野の補完が行われるのですが、後天的であることと、視野の中央付近であることから、完全な補完が行えません。だから条件がそろうと欠けている視野を知覚します。僕はかけた視野をグレーの一色の領域だと感じています。
ところで、視覚というのは網膜で受けた信号が視神経を通じて脳に伝えられ、脳の中で知覚されます。先天的な視野の欠落である盲点は、空間ごと切り取られたように感じるのですが、後天的な視野の欠落はグレーの領域として知覚されます。この違いはどうして生じるのでしょうか?
網膜から脳への配線
さて、盲点は存在すら知覚が難しいという理由は、盲点周辺のイメージがゆがんでいて、パックマンのワープトンネルよろしく不自然につながっているからかもしれません。視野の端にワープトンネルがあるのなら理解できなくもないですが、盲点は視野の中に存在しているので、その部分の接続は不自然なはずです。写真だと気づくはずですが、視界だとわからないのです。そのようなつなぎ目のない視野の歪みという現象が可能なのは、僕らの視野と脳の接続の段階で何らかの調整がされているからと推測されます。そこで、網膜と脳の接続について考えてみます。僕たちは2次元の画像が網膜から脳に送られていると思っています。それはCCDからPCへ画像情報がケーブルを伝って送られるようなイメージです。CCDとPCをつなぐケーブルでは、画像情報がきちんとした順序で伝送されます。もし配線が少しでも狂ったり、伝送順序に少しでもエラーがあれば、伝送された画像は著しい影響を受けます。これは画像情報の単位である画素には「色情報」だけでなく「位置情報」が含まれるからです。CCDとPC間の接続では、規則正しい伝送プロトコルが画素の位置情報を持っているのです。
翻って、網膜と脳の接続ではどうでしょう。一般に、網膜細胞と脳細胞が微細な視神経と1対1で接続されていると考えられています。つまり、個々の視神経の区別が網膜細胞の位置情報に対応しています。一方、脳の表面付近の電気的刺激によって、視野を誘起できることが知られています。全盲の人に視野を取り戻すという研究の一環でそのような実験が行われているのです。その結果、脳の視覚野の表面に与えた2次元的なパターンを視野として認識できることがわかっていて、そこから、脳の視覚野の表面には網膜で検出した2次元画像が、そのまま再構成されていることが推測されます。つまり、視神経は網膜細胞の位置情報をきちんと脳に伝えているということになります。
しかし、それはどうも不可能に思うのです。視神経が網膜のセンサー細胞に接続されていることは確実でしょう。網膜につながった神経細胞は盲点を通って眼球の外に出ます。その際、盲点の手前では束になり、盲点の裏側の穴を通って、おそらくねじれながら脳に向かいます。その途中、左右の視神経は合流し、様々に交差すると言われています。これは視交叉と呼ばれます。現在、この視交叉はウソかもしれないという話もありますが、視神経が束になって脳に向かうのは確実です。脳では視神経は視覚野と呼ばれる脳の領域に最終的に接続されます。
莫大な数の視神経が束になってねじれながら脳に接続するのです。それが完全に秩序だって行われるためには、神経の束の配置が脳と網膜で完全に保たれていなければなりません。それはつまり、光ファイバーの束のように規則正しい結晶構造のような配置が視神経の束に存在しなければならないことを意味します。昆虫の視神経ではそのような配置がみられるようですが、僕たちの視神経にはそのような規則構造は見当たらないようです。
ではどうやって網膜からの画像情報が僕たちの脳にゆがみなしに伝えられるのでしょうか?どうのような配線ルールがあるのでしょうか?
規則構造はないにしても、視神経がミックスされたら配線がうまくいかないはずだ、と考えると視交叉があってはいけないと考えることができます。しかし、解剖学的な知見から、やはり視交叉があると考えられています。
最終的に脳の視覚野に網膜でのパターンが届いていることから、何らかの形で規則正しい配線がなされていなければならないのですが、それはハードウェア的な接続でなくても良いはずです。ハードウェア的な配線はぐちゃぐちゃでも、ソフトウェア的な作用で脳の視覚野では網膜上の画像が正しく再生されているかもしれません。それが可能になるためには、網膜の信号を正しく再配列する機能が脳に備わっている必要があります。幸い、ニューラルネットワークは論理的な配線を自由に配置可能であることを本質的な機能としていますので、その目的にはもってこいです。
触覚はもっと極端
視覚ではなくて触覚のことを考えてみましょう。僕たちの体表近くには、触覚細胞が散らばっていて、体中のほとんどの位置で触覚を得ることができます。そして、きちんと触覚の場所を認識することができます。脳のある部分には、体全体の触覚がマップされていて、それはおおむね人のジオメトリを再現しているということがわかっています(体性感覚野の体部位局在)。触覚等を担う神経線維は脊柱の定められた場所で他の神経繊維と束ねられて脊索となって脳に接続されます。おおむねのレイアウトは決まっているのかもしれませんが、脳細胞のジオメトリと体表面のジオメトリは大きくかけ離れており、直接的な1対1対応を担保するのは極めて難しい問題です。加えて、脳内の触覚のマップは各器官の重要度に応じて重みづけされており、奇怪なレイアウトになっています。手や足などの分岐があると幾何学的な制約も出てきます。それらの困難をものともせず、脳と触覚の接続が整然と行われています。
これらがハードウェア的な接続によって実現されているならば、生物の発生メカニズムというのは極めて繊細で緻密ということになります。そのような緻密なシステムであると、ちょっとした奇形でも極めて重大なエラーになるはずです。例えば、6本指の奇形なんかが稀に見られるのですが、その場合、6本の指は問題なく機能します。もしハードウェア的な接続が決まっているなら、脳に存在する5本指用の配線と、手足に存在する6本の指との接続の際に、指のどれかが余らざるを得ず、6本の指のうち、どれか1本は致命的な機能不全を示すでしょう。しかし、実際にはそんなことはありません。考えられるのは、脳には6本どころか10本指くらいまでの接続スロットがあるという可能性です。極限まで効率を優先する生物の世界において、そういう無駄は多分ないでしょう。とすると、脳中のマップは神経が接続されてから形成されると考えるべきとなります。もし、その接続がハードウェア的で融通の利かないものだとすると、脳内に整然と体のジオメトリが再構成されているという事実は奇跡と言うしかなくなります。
一方、ハードウェア的な接続とは別にソフトウェア的接続によって融通が利くシステムがあって、脳への接続後に脳内の接続が調整されて、最終的に脳内に体の物理モデルが構築されるという可能性もあります。その際には、脳内のモデルを再構成するアルゴリズムの存在が示唆されます。もし、そのような仕組みがあれば、ハードウェア的な接続がテキトーであっても、全く問題ありません。脳内の物理的レイアウトと体の物理的レイアウトが少々違っても問題ないでしょう。重要度によって脳内マップでの大きさが違うということも自然に達成されるのかもしれません。
さて、脳内モデルを後天的にレイアウトするためのアルゴリズムとはどのようなものでしょう?体上で物理的距離が近い感覚信号は、似たタイミング・似た強さで発生するはずです。接続経路が違っても、「いつも同じタイミングで同じような刺激」という接続は近いところにレイアウトすべきという原理があれば、ソフトウェア的な接続に十分な自由度があれば、ハードウェア的な接続の無秩序さをカバーできるかもしれません。というか、そういう仕組みがないと、脳はうまく機能しないと思うのです。「同じタイミングの同じような刺激を束ねる」という原理は、シナプスの長期増強として知られる脳神経の基本特性の一つと酷似しています。
触覚において面白い現象の一つに、1点の刺激では場所を間違えることは少ないのに対して、2点以上の同時刺激だといろいろ不思議な錯覚を生じる、というものがあります。僕たちの触覚は極めて高い空間分解能を持っていますが、無数にある感覚器のすべてが1対1で脳に接続されているというのはちょっと無理があります。それよりも複数の感覚細胞の統合によって高い空間分解能を達成していると考える方が合理的です。その場合、複数の同時刺激に対してはイベントの位置の特定が難しくなり、錯覚を起こすでしょう。
脳内に「同時刺激を束ねる」という動作原理があるとすると、複数の感覚信号を束ねて空間分解能を高めるという機能の実現が容易になります。
同様に、視覚においても多少の配線誤差は「同時刺激を束ねる」という脳細胞の動作原理によって修正され、網膜上の刺激が正しく脳内にマップされるということが理解できます。
いつ脳の配線が確定するか
さて、脳と体の接続はいつ最適化されるのか、という問題が浮上します。発生段階では刺激が少ないので接続の最適化は十分に進まないでしょう。それがうかがえる内容をナショナルジオグラフィックの記事に見つけました。「新生児の時には、たとえて言えば、インターネットのケーブルはとりあえず配置はされてるんだけど、接続してない状況です。生後、シナプスが急激に増えていって、接続されるところが増えていく。シナプスの数を数えた研究がありまして、新生児の時期から生後6カ月から12カ月にかけて急激に増えて、その後、また減っていくと分かっています」一旦、「同時刺激を束ねる」ために、様々な接続をしてみて「同時刺激を受けない接続をカット」するというアルゴリズムを採用していると推定できます。 逆に、この時期を過ぎると「同時刺激を束ねる」というのはそれほど大規模に起きないだろうということも推測されます。
盲点における神経接続の不均一性は新生児期に形成されたものなので、完全に違和感がありませんが、僕が糖尿病性網膜症で損傷した視野の欠落は、後天的なので、違和感が残ります。とはいうものの、脳梗塞等で脳の一部が死んで機能不全があった場合、リハビリを続ければ少しは改善するということが知られていますので、「同時刺激を束ねる」機能は大人になってもすこしは維持されていると思われます。時間がたつにつれ僕の失われた視野は徐々に消えてゆき空間のゆがみを感じるくらいになるかもしれません。
サイボーグ
さて、ここから将来のサイバネティクスに関するいくつかの推測が可能になります。僕たちの脳と感覚器官の接続は主にソフトウェア的なものであり、ハードウェア的な接続は不確定要素が多くて個人差も大きいと思われます。なので、神経繊維をぶった切って再びつなぐというような乱暴なことをすると神経の混信を生じるでしょう。例えば、親指を動かすつもりで薬指が動いてしまう、みたいな状態が起こります。だから、腕を切ってつなげるようなそういうことは極めて難しいと言わざるを得ません。今、筋電位を使った外骨格型の義肢が発達していますが、これは筋電位という神経の末端での接続なのでうまくゆくのです。脳に近いところで接続しようとすると、ハードルが高くなります。義手・義足では神経との直接接続というのは現実的ではないということがわかります。
脳表面の電気的刺激によって視覚を得る研究が有名で、スティービーワンダーも興味を示したという逸話があります。これは脳の表面での電気刺激というのがポイントです。普通なら、視神経に接続したいところですよね。それは難しいのです。視神経と画素を正しく接続できれば問題ないのですが無数にある画素と視神経を一つ一つ間違いなくつなぐ技術は僕らにはありません。
攻殻機動隊で多く取り扱われている脳だけ生身の全身義体は、おそらく無理でしょう。個性の大きな神経線維を共通化するようなインターフェースが開発できれば、可能性はあります。しかしながら神経線維のレイアウトにおける個性が一定程度共通化できるという前提の存在すら怪しいのが現状です。特に、生命維持に関する神経接続が共通化できない場合、全身義体は不可能と結論されます。
人工知能
現在、人工知能がいよいよ使い物になるという空気があります。でも、僕たちは、自分たちの知能・知性を構成する脳の機能についてあまりにも無知です。もっと真剣に脳の機能を理解しないといけないと思います。脳細胞と感覚器官の接続を精密に行うのは極めて難しいことです。もし、視神経が視覚細胞と脳細胞を規則正しく接続しているとすると、発生時に極めて特徴的な現象がみられるはずです。網膜あるいは脳細胞どちらが先かわかりませんが、かならずどちらかが先に完成しないといけません。例えば、網膜が先に完成するとすると、網膜から視神経が伸びていって、脳に到達し、その先で脳細胞が発生しないといけません。でも、脳の表面に網膜での刺激と同じパターンがみられることから、視神経が伸びていって、脳の表面に到達するまで網膜上の視覚細胞のレイアウトを保持しなければならないでしょう。そのためには、視神経が互いにねじれたりしないように特別な仕掛けが必要なります。脳細胞が先に完成する場合であってもそれは同じでしょう。人間の視神経は盲点で束ねられて眼球から出てゆくので、盲点で一回裏返ります。視神経が一度もねじれたり交差したりしないようにするのは極めて困難な気がします。
また、脳の表面に視野が再現されるということは、視神経が直接脳の表面に到達しないといけないわけですが、それは無理です。視神経は脳の下側から脳に接続されているので、脳の表面に信号が届くには、脳の下側から複数の脳細胞を経由しないといけません。脳内の脳細胞の神経接続は完全にソフトウェア的、つまり、後天的なものです。視神経が網膜上のレイアウトのまま脳に到達しても、そのレイアウトが脳の表面に到達するための別仕組みを考えなければならないのです。その仕組みは、ニューラルネットワークの最適化に関するなんらかのアルゴリズムでなければなりません。そう、結局アルゴリズムが必要なのです。
DNAはある種のプログラムコードではありますが、僕らがよく知っているようなコード体系ではありません。特に、切って、貼って、混ぜるというDNAの進化の手法に対して、ロバストでなければならず、かなりな冗長性を持っているはずです。人間のDNAはおよそ3ギガ個の塩基対で構成されています。1個の塩基対は2ビットなので、バイト数に直すと1GBでおつりがくるのです。それでいて十分な冗長性があるはずなのです。ちょっとしたアルゴリズムなら含めることができますが、ワードとかエクセルとかくらいの複雑なソフトウェアコードを保持することはできないでしょう。なので、脳内で働いているアルゴリズムはかなり単純な原理にしたがうシンプルなものでなければならないでしょう。
機械学習に基づく人工知能は極めて効果的に機能することがだんだんとわかってきました。機械学習はアルゴリズムとしては恐ろしく単純です。おそらく、脳内で重要な働きをするアルゴリズムはいずれも、機械学習と同程度の単純さだと推測されます。例えば、同時刺激に対して接続を強固にする、というのは極めて単純なアルゴリズムなので、その候補の一つということです。
僕はけがをしたり、病気をしたりするたびに、自分の体のいろんなことを気づきます。僕ですら、失敗あるいは例外からしか学ぶことができないということに、ショックを受けています。でも、逆に、そういうことに健常者が気づくのはとても難しいことだとわかります。僕は年齢もそこそこですし、体もいろいろ壊れてきているので、体や脳の機能不全から逆に本来の機能についてのちょっとした気づきがあって、そういうのをピックアップするのは僕の役どころかな、と思っています。