2017年10月17日火曜日

アウトソーシング

アウトソーシング全盛

昨今は経費削減のためにいろんな業務が外部委託(アウトソーシング)される傾向にある。アウトソーシングすると、どうして経費削減できるのだろう?

アウトソーシングには利点と欠点があり、それをよく理解しないといけないし、安定した組織においては、アウトソーシングは不経済であることが多く、導入のメリットがないばかりか、害悪になる。特に、図書館などのサービスはアウトソーシングのやり方を考えないといけない。

身近なアウトソーシング

家庭のレベルの伝統的なアウトソーシングは、家政婦である。ご存知のように、家政婦を雇うには、そこそこの経済力が必要で、並みのパートでは賄えない。なので、ほとんどの家庭では自分たちで家事を行う。つまり、家政婦の場合はアウトソーシングが不経済ということだ。最近多いアウトソーシングの例は、配食サービスだ。食材だけ、あるいは調理済みの食事を宅配するサービスだ。家事の時間が取れない場合は経済的に釣り合うが、一般的にはこれも不経済だ。一般家庭の経済感覚では、アウトソーシングというだけでは、経費削減にはならない。
アウトソーシングは別の理由でも敬遠されることがある。タクシーは自動車移動のアウトソーシングである。タクシーは不経済に思うかもしれないが、マイカーの場合、車両価格、ガソリン代、駐車場代、保険代、維持費もろもろを計算に入れると、タクシーの倍くらいになる。それでも我々はマイカーに利点を見出す。いつでも車をつかえる利便性、プライバシー、自分の好みの車、そういうものに価値を見出しているので、タクシーではなく、マイカーを使いたいと思うのだろう。自動車会社のCMに踊らされている面もあるだろう。細かな使い勝手をカスタマイズできないというのは、アウトソーシングの弱点の一つで、それがタクシーの例では見て取れるとおもう。

それでもアウトソーシング

利益を追求する企業がアウトソーシングを進めるのは、その方が利益があるからだ。アウトソーシングの利益とは何だろう。第一に、人件費の圧縮だ。
比較的専門性が低く労働集約型の業務は、真っ先にアウトソーシングの対象になる。最近は、事務作業のうち、比較的容易なものはどんどんアウトソーシングになっている。正式な雇用契約のある社員の人件費は比較的高額なので、より経済効率の高い業務につかせたいという経営判断により、アウトソーシングが進んでいるのだと考えられる。

しかしながら、そもそもこれは経営者の判断ミスの埋め合わせだと考えることもできる。つまり、人件費が高騰して、軽作業用の人員が確保できなかったという経営判断のミス、と理解することもできる。あるいは、人員配置のミスと言ってもよい。判断ミスなら、それを修正して正常化すべきなのだが、アウトソーシングが常態化しているのが現在のやり方だ。

アウトソーシングが広がったのは、バブル崩壊後、しばらく経ってからだ。バブル崩壊時に社員採用を大幅に削減し、人件費を圧縮できたものの、人を減らしすぎて業務が滞るようになった。その欠員を補充するために、人材派遣が多くなった。バブルで人件費が高騰し、バブル崩壊で軽作業用の人員を大幅削減してしまい、人材確保できなくなり、派遣に頼るようになった、ということだ。短期的には悪くない判断だが、中長期的には修正すべき対応だ。しかしながら、中長期的な展望を欠いた経営者が現状維持に甘んじた結果、派遣社員の問題がかなり深刻になった。派遣社員の待遇はもちろんだが、派遣を受ける側の企業の経営がおかしくなっている。

アウトソーシングのデメリット

僕が人材派遣会社なら、ターゲット企業にある程度食い込んでから、契約更新時にじわじわと契約条件を吊り上げる。練度の高まった派遣社員を引き上げられると、当該企業は業務に支障をきたすようになる。そうすると契約の主導権は逆転し、人材派遣会社が有利になる。現在は、そのようなフェーズで、アウトソーシング経費が経営にのしかかる。
かといって、今更アウトソーシングをやめるわけにもいかない。というのも、アウトソーシングしている作業がどんどん高度化してしまっていて、社員で肩代わりすることができなくなっているからだ。つまり、アウトソーシングが進んだ結果、業務内容が高度化し、逆に専門性が高い業務がアウトソーシングされるという状況になっている。社員はアウトソーシングされた業務にはタッチしないのが原則なので、社員の練度が上がらず、アウトソーシング経費をねん出するために社員を切るという選択を迫られる。これこそ、人材派遣会社が狙っていた展開だ。アウトソーシング経費は、人材派遣会社の言いなりにならざるを得なくなる。

そうすると会社側の行動として、派遣されている人材をハントして社員として取り込む、ということが進む。このフェーズも現在進行中だ。派遣切りが社会問題化していて、その解決策として派遣社員の中途採用優遇が進められており、これは世論の賛同を得ている。
しかしながら、正社員として採用すると、実質的な将来債務が発生してしまい、経営の自由度を制限する。そのため、会社は、派遣社員をフリーランスとして再契約するようになる。ただ、現状の法制度では、フリーランスの雇用条件が非常に悪い。これも社会問題化しており、現在は働き方改革というのが進んでいる。

行ったり来たり

時系列を整理してみよう。経営者たちの求めに応じて、人材派遣の規制緩和をしたのが2000年ごろだ。すると派遣社員の待遇が悪いとして、2005年ごろには派遣期間に規制を設けた。それでも問題はなくならず、法の抜け道をついてアウトソーシングがどんどん進んだ。しばらくいたちごっこが続いたのち、人材派遣会社が極めて強力になり、アウトソーシング経費が高騰しだした。それが2010年頃だ。経営者たちはたまったものではないので、優秀な派遣社員を人目る策として、個人契約を進めた。しかしながら、それは単に給料の切り下げでしかないので、適正化に向けて法整備を検討しだした。それが2015年ころで働き方改革というものだ。
ここ20年くらいで、アウトソーシングのメリットとデメリットを行ったり来たりしていることがわかる。短期的には経済的なアウトソーシングを進めるが、5年を目途に中長期的には不経済であることがわかる。法的な規制によって適正化するが、やはり5年程度で不経済であることがわかってきて、再び法整備による解決を図る、ということを続けている。
この流れを見ると、経営者の判断ミスから業務のアウトソーシングが進み、アウトソーシングの欠点が露呈すると、小手先の対策や政治介入を通じて、短期的な対策を図るも、最終的には次の問題が生じるという、なんともコントのような展開であることがわかる。改革すべきは経営者であることが明白なのだが、経営者たちを支持基盤とする自民党政権下では、根本的な解決は無理かもしれない。

問題点の整理

個人レベルのアウトソーシングの例でみたように、アウトソーシングの多くは中長期的には不経済であったり、デメリットが多い。企業のアウトソーシングでも同じことが言える。経営者は短期的なメリットを見て、それを中長期的に採用したいと考えるが、現状のアウトソーシングは、もともと短期的な応急措置としての装置であり、システムとしては脆弱なのだ。中長期的にアウトソーシングに頼るという経営判断を根本的に改めなくてはならない。
そもそも、経済活動というのは、得意な分野を結集し、価値を最大化するという行動規範だ。極めて特別なノウハウや投資によって得意分野を先鋭化し、付加価値を高めて利潤を上乗せするというのが企業経営の基本である。経営資源という考え方で整理するとわかりやすい。経営資源には、資産・設備などの資本、ノウハウなどの知財、そして人材がある。また、人材には、特別な才能と訓練教育等で培われた能力との2種類がある。大きな企業になると個人にとどまる特別な才能は、大量のマンパワーに薄められてほとんど無視できる。人材の多くの部分は交換可能である。その互換性に目をつけたのアウトソーシングである。アウトソーシングでは企業は教育訓練の費用と時間を節約でき、その分の経費負担がない。また、仕事の質と量をある程度予測できるので、費用対効果がわかりやすい。しかしながら、アウトソーシングでは、業務内容の改善や練度向上を期待できない。仕事の効率は、最初から80%くらいあって、その後緩やかに上昇し、最終的には110%とかになるかもしれない。一方、社員の場合、最初は30%くらいかもしれないが、すぐに80%に達し、最終的に200%くらいになる。その段階で後進の育成を行い、スループットを落とさず、継続的に業務効率を高いレベルに維持する組織とすることができる。派遣と社員では成長率がかなり違う。というのも、派遣の場合は100%以上はサービスなので、それ以上向上させるインセンティブがない。日本人は比較的お人よしなので、派遣であっても頑張る人が多い。しかし、派遣が一般化した現在、そういう人は少なくなってくるだろう。というのも派遣で働く人は、社員になりたいと思っていない人も多くなっているからだ。
しかしながら、経営者はそのような派遣の事情をよく理解していないので、社員の練度向上を過小評価してアウトソーシングを進めている。その結果、業務が空洞化し、人材が枯渇する。
つまり、アウトソーシングにおける派遣社員は経営資源ではないという点に注意しなければならないということだ。経営資源のうち、人材だけはほぼ確実に成長が見込める。つまり、中長期的には最も重要な経営資源であるということだ。アウトソーシングはそれを(短期的には)捨てるという経営判断をするということなので、本当は慎重に決めないといけないんだけど、そうなってないよね。

アウトソーシングで気をつけないといけないもう一つのことは、業務内容にも中長期的な視点がなくなるということだ。短期的な派遣社員にとって、中長期的な業務というのは自分で責任が持てないことになる。その時の判断として、その中長期的な業務を無視するか、軽視するかとなるのは、致し方ない。業務の定義の中に、その中長期的業務が含まれていたとしても、その業務の質(結果)が判明するのは派遣期間内ではないだろう。そうすると、手を抜いてもバレないし、頑張っても評価されない。中長期的業務というのはアウトソーシングに適さないということがわかる。

アウトソーシングすべきでない業務

中長期的視野に立たないとだめな業務として、教育・人材育成がある。先に述べたとように、人材は中長期的には最も重要な経営資源だ。そして、人材を経営資源たらしめるのは教育である。派遣では教育の観点が欠落しているので、派遣社員を経営資源とみなすことができない、という解釈ができる。
教育というのはかなり時間がかかるものだ。短期的な利益を見れば、極めて効率が悪い。「教育は国家百年の計」言われるくらい、その成果が隅々までいきわたるのに長い時間がかかる。ある教育に着目すると、その教育を受けた人(第一世代)は、その教育内容を人生の中で実践し、様々なノウハウを蓄積する。第一世代が先生になると、その教育内容に加えて、ノウハウも教えるようになる。なので、第一世代の教育内容に欠けていたノウハウの部分も、第二世代は教わることができる。その結果、第二世代はノウハウの蓄積という時間のかかる作業から解放され、より効率的に教育内容を活用できるようになる。第一世代が先生になって教育する側になるまでにおよそ20年必要だ。第二世代以降の教育内容はほとんど変わらないので、ある教育改革が完全に定着するには20年はかかるということだ。そして第二世代以降は人生の中でその教育内容を活用するわけだが、その影響は死ぬまで続く。ある教育の導入時点では、その教育を施された老人にどのような影響があるのかなんて、知るすべがない。個人レベルでは実験可能かもしれないが、社会的影響は実験のしようがない。だから、その教育の成果は第二世代が死ぬくらいの時期まで見ないと、正しく判断できない。第二世代が死ぬという時間がちょうど百年くらいだ、というのが、先の言葉だと僕は思っている。

僕たちは戦後生まれだけど、先生の世代は戦中くらいだった。ずいぶん考え方が違うことを実感してきた。戦後教育で大きく変わったのは、戦争に対する考え方だ。戦後教育では戦争反対が強く押し出された。僕たちは戦争は悪いことだと教えられてきたし、日本の平和憲法は自虐的なものではなくて、誇り高いものだと信じている。平和憲法に強い影響を与えた当事者である米国が、湾岸戦争で先制攻撃を正当化して以来、その誇りが揺らいでいる。僕より上の年代は、日米安保・学生運動の時代を生きてきた人たちで、学校で教わった平和憲法の理念と、親から教わった敗戦の屈辱とのはざまで、様々な葛藤があったのだろう。平和憲法の後ろ盾だったはずの米国が、自ら平和憲法の理念を踏みにじる様子を見て、葛藤の反動で平和憲法の否定に傾くのもよく理解できる。僕の世代は、親も平和憲法の下で教育を受けており、米国と平和憲法と結び付けて考えることはない。米国はきっかけでしかなく、平和憲法の理念を僕たちの哲学としてどのように受け止めるか、ということが重要であり、それを行動として示すためにどのような選択肢があるのか、を僕たちの世代は考えると思う。平和憲法は屈辱ではなく誇りであり、米国が果たせなかった夢を我々が果たし、世界をリードする我々の強力な武器であると、信じている。日本の平和憲法は条文が極端ではあるが、運用においてはバランスがとれており、多くの国で手本として研究されているという事実がある。

バイトになぞらえて理解する

アウトソーシングというのは、むしろアルバイトに近い。バイト君に経理をやらしてよいか?という話だ。派遣社員をバイト君に読み替えれば、極端なアウトソーシングがいかに危険かわかるだろう。能力のあるなしではなく、責任のあるなしで見てみると、何がアウトソーシングに適して、何がそうでないかは一目瞭然だ。

今、図書館業務のアウトソーシングが盛んで、僕はとても心配している。図書館の業務のうち、図書の貸し借りと、一般蔵書の維持管理は、短期的な業務なのでアウトソーシングが可能だろう。一方で、図書館の重要な機能として、図書の長期的な管理がある。図書の中には、一般貸出が可能な図書と、貸し出しが禁止か、あるいは手続きが厳密な貴重本等があり、後者の維持管理は極めて長期的な視点に立たねばならない。そのような業務は一般の人の眼には触れないが、図書館の重要な業務である。
市井の図書館でも、地域の行政文書や資料、古文書などの維持管理を行っているはずだ。図書館業務のアウトソーシングによって、これらの貴重な文書や資料が存亡の危機にある。というか、実際に廃棄されている。いくつかの例では、市の職員が廃棄していたが、おそらく、図書業務を専門としない職員だったと思われる。つまり、組織内で図書館業務をアウトソーシングしていたということだ。図書館業務に責任を持つ司書というのは国家資格である。図書館業務には、文書の歴史的価値・保存方法に関する専門知識が必要とされているからだ。しかしながら、司書の給与水準は低く、専門家として尊敬されていない。そのため、図書館は真っ先にアウトソーシングの対象になってしまっている。これは緩やかな焚書と言ってよい。

コンサルティングは知性のアウトソーシング

通常はアウトソーシングという印象はないが、各種のコンサルティングは高度な専門業務のアウトソーシングだ。内容にもよるが、コンサルティングの単価はかなり高い。しかしながら、同じクオリティの業務を社員で賄えない場合に、コンサルティングを導入することになる。コンサルティングする側はビジネスなので、割に合わないことはやらない。だから、報酬しだいで業務の質が変化する。この場合は、業務に対する熱意を金で買う、という構造になる。
一般に、コンサルティングは高い利益率を誇るが、それはコンサルタントの高い専門性と情報力、そして企画力に基づいている。コンサルタントと同程度の技量を持つ社員がいたとしても、その社員は通常業務に忙殺され、生産性がなかなか上がらないことも多い。そういう雑事から解放され、より先鋭化することで、コンサルティング業が成り立つという側面がある。
善良なコンサルティングの導入は、多くの場合、経費圧縮と業務改善につながる。ただし、超短期的には高額のコンサルティング料に目を剥くことになるだろう。ただ、コンサルタントはプロなので、コンサルティング料くらいの利益はすぐにもたらすだろう。つまり、早々に損益分岐点を越えて、お得になるということだ。長期的には社員でコンサルタント級の人材を賄うことになるのだが、それには10年、20年かかるだろう。その間の教育コストを考えれば、コンサルティングは安いし、正しいアウトソーシングと言える。

まとめ

中長期的視野での業務、責任が発生する業務、熱意が必要な業務、こうした業務がアウトソーシングに向かない。あるいは、それらをアウトソーシングするなら通常の倍くらいの報酬が必要だ。日産は社長をアウトソーシングして成功したが、そのために支払った報酬は、一般社員の100倍以上だった。アウトソーシングは経費削減を意味しないことを、経営者たちはよく理解すべきだ。

2017年10月1日日曜日

ビッグバンはどこで起こったか?(ヨタ話)

誰もが知るレベルの宇宙論の話

僕の専門とは全く違いますが、宇宙論に少し触れます。僕は門外漢なので、難しい宇宙論はさっぱりついていけません。でも、専門的でないレベルにおいても、いろいろわからないことがあります。
この記事において、僕はあるモデル宇宙を提案します。でも、僕はそのモデルが正しいと主張したいわけではありません。そういうテキトーなモデルでも、宇宙にかかわるいくつかの疑問をうまく説明できるということを示したいだけです。そこから、先入観にとらわれず可能性を論じる意義、あるいは僕の狂気を示したいのです。

素人でも知っている宇宙論の話には次のようなものがあります。

  1. およそ135億年前にビッグバンという大爆発が起こって、僕たちの住む宇宙が誕生した。
  2. 僕たちの宇宙は膨張していて、無数にある銀河はお互いに遠ざかっている。
  3. 銀河はとても遠いので、僕たちが目にする星々の輝きは、大昔に発せられたものである。

3は光の速度が有限であるということから導き出される結論です。たぶん、これは正しいでしょう。2は星々の光の赤方偏移という現象を調べることで、確認されています。厳密には、2の後半の文章を直接確かめたことになります。
2の後半が確かめられると、2の前半部分も肯定されますが、細かく言うと解釈が2つできます。一つは、空間自体が膨張しているという説明、もう一つは、僕たちが宇宙と呼ぶ領域が拡大しているという説明です。違いが分かりにくいですね。まず後者についてです。ビッグバンなどが理由で僕たち(の地球)は高速で移動していると考えられます。同じことが他の星々にも言えます。最初はビッグバンの爆心地にすべての星がいたとすると、時間とともに星々が散らばっていくので、星々の存在領域は時々刻々拡大することになります。
一方、前者はビッグバンというのは単なる爆発ではなくて、空間が膨張を始めるという現象だと考え、その余波がずっと続いていると考えます。その際、星々は飛散しているのではなくて、空間が膨張しているので、それに応じて互いに遠ざかると考えます。星々の赤方偏移は極めて大きいのですが、それを説明するには星々の飛散では難しくて、一般相対性理論に基づく空間膨張を考慮するとうまくゆく、ということが根拠になっています。
さて、1は広く受け入れられていますが、ビッグバンというのが何なのかはよくわかっていません。それでもビッグバンがあったという根拠になっているのが、宇宙背景放射の存在です。星空は厳密には真っ黒ではなくて、ノイズのような模様があって、それが宇宙背景放射です。その模様はボヤっとしていますが、とても古いもので、ビッグバン直後に発生した光だと考えられています。

1~3にはそれぞれにちゃんとした科学的根拠があって、それなりに説得力がありそうです。しかし、本当にそうでしょうか?あらゆる文献が1~3は正しいということ述べています。そういう資料は偉い先生が書いたものだから、正しいはず、という結論だったら、それは宗教と変わりありません。もっと疑問を持つべきだと僕は思います。
ビッグバンの存在を疑う人はほとんどいませんが、それでも、ビッグバンのアイデアの根源がキリスト教にあると言ったら、ぞっとしませんか?ビッグバンは聖書に書かれているのです。聖書では、神は世界を作るにあたって、最初に「光あれ」と言ったとされています。これはまさにビッグバンです。ビッグバン理論がキリスト教の先入観に影響されている可能性はないでしょうか?
ビッグバン理論は一度破たんしています。その破たんを救ったのがインフレーション理論です。僕は専門家でないので、インフレーション理論はさっぱり理解できませんが、ビッグバン理論を成り立たせるために無理やり構築した理論という印象を僕は持っています。とはいうものの、僕はいくつかの別の理由でビッグバンはあったんじゃないかと思っています。その話はまた別の機会に。

理解できないことは恥ずかしいことじゃない

僕がどうしても理解できないのは、宇宙背景放射があらゆる方向からやってくる、という事実です。ビッグバンがあったとして、それは宇宙のどこかであって、僕らはそこから遠ざかっているはずです。そうすると、宇宙背景放射ビッグバンの方向から来ないといけません。でも、実際にはどっちを向いても宇宙背景放射が見えるのです。そんなことがどうやって可能になるのでしょうか?

宇宙背景放射は、ビッグバンの「爆風」のなかで陽子と電子が衝突した光の名残とされています。星々も爆風の中で誕生したので、爆風自体がインフレーションで拡大すると、爆風の残光はあらゆる方向から届く、ということで問題点を回避します。
でも、その時には、インフレーションが極めて大規模で、135億光年よりはるかに大きく生じないといけないでしょう。それでも、ビッグバンの爆心地方向とそれ以外で密度のムラが生じるかもしれません。そういうものは観測されていないので、インフレーションの規模はけた違いに大きい必要があります。しかし、そんなに都合の良い規模やタイミングでインフレーションが起こるのは不自然な気がします。

そもそもビッグバンの爆心地はどこでしょう?僕たちが観測できる限りでは、宇宙は等方的で、爆心地の方向はさっぱりわかりません。しかも、あらゆる方向の星々が、同じ調子で我々から遠ざかっていることがわかっています。爆心地方向から僕たちを追いかける形になっている星々というのは見つかっていないわけです。だからこそ、空間が膨張しているという説明が有力なわけです。空間が膨張するにはなんらかの仕掛けが必要ですが、その理由を、ダークマターとかダークエネルギーとかに求めているというのが現在の宇宙論のようです。なんだか、できの悪いサスペンスドラマみたいです。

宇宙空間の膨張の様子を説明する際によく用いられるのが、風船のたとえです。僕たちのいる宇宙は風船の表面みたいなもので、風船が膨らむと風船のゴムが等方的に伸びるように、僕たちの宇宙は等方的に膨張している、という説明です。このとき、風船の中心は風船の表面にはありません。つまり、ビッグバンの爆心地は風船の中心のようなもので、それは僕たちの宇宙に対応する風船の表面にはない、ということを暗示します。だから、僕たちは、ビッグバンの爆心地を探すことができないのかもしれません。

この風船モデルにはトリックがあります。それは、風船が膨らんでゆく方向です。風船が膨らむ方向というのは僕たちが認知する世界とは垂直の方向で、僕たちはその方向への移動ができませんし、直接知覚できません。それは時間軸のような気がします。ビッグバンの爆心地は僕たちの宇宙のいたるところから同じように過去で、同じ距離に存在することになります。それは、僕たちが決して到達することのできない過去に存在するわけです。
単純化のために2次元で考えると、僕たちの宇宙は爆心地を中心とした円上に存在し、その円が時々刻々大きくなっているというモデルになります。円周方向が僕たちの認識する空間で、動径方向が時間に相当します。2次元風船モデルと呼ぶことにします。物理の世界では時間と空間は区別なく統合されることが多いので、時間と空間が図の中に同じように示される2次元風船モデルはとっても魅力的です。

風船モデルは意味がない?

風船モデルはとっても単純で魅力的なんですが、いろんな弱点があります。特に重要なのは、僕たちが星々の過去の光を観測するという事実をそのままではうまく説明できないことです。遠く離れた星は、僕たちの星とはビッグバンの爆心地からの方位が異なります。そして、遠く離れた星での発光現象は「過去」の出来事なので、動径方向の距離も異なります。遠く離れた星の過去の光を僕たちが観測するとは、遠くの星の過去の位置から発せられた光が現在の僕たちの位置に届くということです。つまり、遠くの星の過去の位置と現在の僕たちの位置を結ぶ直線が、その星の光の経路になるでしょう。図に書くと次のような感じです。



遠い星からの光を前提なしで直線だと断じることはできませんが、直線でないとなると直線でない理由を考察しなければなりません。重力で光が曲がったように思っても、曲がっているのは空間であって光そのものは直進するというのが一般相対性理論の結論ですし、光は直線だと考えるのが素直です。
さて、ある星である時刻で発せられた光が現在の僕たちに届くとします。その星が別の時刻で発した光は現在の僕たちに届くことはありません。別の時刻の光が僕たちに届くのは、現在とは別の時刻になるでしょう。ところが、風船モデルでは、現在の僕たちとその星のあらゆる時刻とを結ぶ直線を考えることができます。逆に考えると、現在の僕たちは、特定の星のいろんな時刻(時代)の光を観測できてしまうのです。そこから、現在の僕たちに届く光には何らかの条件が必要だとわかります。どんな条件でしょうか?

遠くの星からの光に角度の制限がないと、あらゆる時代の地球に光が届く


遠くの星の話だといろんな要素が入るかもしれないので、僕たちのいる場所で発する光を風船モデルで考えてみましょう。僕たちの知っている光の重要な性質に、光はとっても速いということがあります。そこで、風船モデルにおいて「速さ」を考えます。速さとは単位時間当たりの移動距離です。つまり、ある時刻ののちにどれだけ移動するかを考えます。風船モデルでは、時刻とは動径方向、距離とは円周方向に相当しますので、ある時間刻みで、一定距離進む様子を作図すると次のようになります。



「速い」とは、同じ時間刻みの際の移動量が大きいということです。図に見られるように、速くなると経路の角度が立ってきます。すなわち、風船モデルにおいて「速度」とは、「時間の進む方向との成す角度」のことだとわかります。その角度が小さいと遅く、大きいと速いわけです。では、その角度はどこまで大きくなれるのでしょう?光はとっても速いので、「速度」の限界値だと思って差し支えないでしょう。
作図上で最大の角度は「後ろ向き」の180度ですが、それは「過去」の方向です。そのような光は「未来からの光」として観測されることになりますが、そういうものに出会ったことはありません。つまり、そういう角度は許されません。過去にぎりぎり向かわない最大の角度はすなわち、時間軸に垂直な方向です。つまり、光は世界を表す円の接線方向に進むのだと考えられます。

風船モデルでの赤方偏移

宇宙における赤方偏移というのは、遠い星から発せられた光が、星との距離に応じて波長が長くなって観測される現象のことを言います。風船モデルでは波長を考えるとややこしいので、代わりに周期を考えることにします。光速は一定と考えたとき、波長が長くなると周期が長くなることは同じ意味になります。
下図のように、遠い星から光が発せられる場合を考えます。光の波を考えた場合、光は振動によって一定の周期で山と谷を繰り返します。ある時刻で光の波が山になって、その後谷になって、また山になって、となります。一方、遠く離れた僕たちの世界では、遠くの星からの光を観測します。風船モデルにおいて、光は線で表されるので、下図のように光の山と谷が平行線となります。僕たちはその平行線と次々と出合うことで、遠くの星からの光を波として観測します。
さて、この図において、山と谷の間隔が遠くの星の時間軸と僕たちの時間軸とでは違っていることがわかります。幾何学を考えると、星の時間軸での周期が、僕たちの時間軸では$1/\cos \theta$倍になっていることがすぐにわかります。これが風船モデルにおいて観測される赤方偏移です。

驚くべきことに、風船モデルにおける赤方偏移は一般相対性理論に基づく宇宙論的赤方偏移とほとんど一致します。さらに驚くべきことに、風船モデルにおける赤方偏移の議論は、宇宙の膨張が一定であっても、赤方偏移でみると宇宙の膨張が加速しているように見えるということも説明します。面倒なので詳しい説明はやめますが、風船モデルでは円周に沿った距離と、平坦な時空における直線距離の2種類が考えられ、遠くの星ほど両者の開きが大きくなります。その結果、星の間の距離が見かけ上変化し、そのせいで、加速膨張しているように見えるというからくりです。

常に光速で運動する

風船モデルにおいて、僕たちの認識する世界がなぜ円周上に限られるのかについて議論しないといけません。また、宇宙の膨張速度に関しても議論しないといけません。
ハッブル定数から見積もられる宇宙の年齢がおおむね宇宙のサイズに等しいということは、最近の宇宙論では単なる偶然だとされています。というのも、風船モデルのようなものを考えたとき、宇宙のサイズと宇宙の年齢が等しいということは、ビッグバン以降、僕たちが光速で飛び続けているという結論になるからです。通常議論される宇宙の膨張速度は光速よりずっと遅いと考えらえているので、都合が悪いわけです。なので途中にインフレーションが起こって、たまたま宇宙のサイズと宇宙の年齢が等しいというのです。
一方、光速で運動していると相対性理論にがんじがらめにされて、いろいろ不具合が生じるものだと考えらるわけですが、そんな兆候は一切ありません。だから、僕たちが常に光速で移動していると考えるのは受け入れがたいのです。でも、本当にそうでしょうか?

光速に近い運動の際に無視できなくなるローレンツ変換は、4次元時空では単なる回転操作になります。便宜上、静止している物体は時間方向に光速で運動していると考えると、ローレンツ変換は光速を上限とする世界における運動量保存則のようなものになるのです。これはよく知られた話です。だから、僕たちは常に光速で運動していると考えてもおかしくないのです。
アインシュタインの相対性理論の有名な式$E=m c^2$は静止質量に関するエネルギーですが、もっと一般的で厳密な式で$E^2=m^2 c^4+p^2 c^2$というのがあります。この式では、静止していたとしても、4次元時空では$m c$の運動量を持っていることを意味します。すなわち、僕たちは静止していたとしても4次元時空では光速で運動しているという考え方ができるのです。

光速で運動していると、どのような不具合に直面するでしょうか。光速での移動に成功した人はいないので想像するしかありません。ネットを検索すると、多様な意見を見つけることができます。でも、最初にそういうことを考えたのはアインシュタインでした。完全に光速に達するところはあいまいになっていますが、光速に達しない状況に関しては、次のように、きっぱりと断言しています。
あらゆる慣性系で運動の法則が同じように成立する
すなわち、光速にいくら近づいても、特別なことは起きない、ということです。そのような条件で運動の法則を書き直したのが相対性理論です。だから相対性理論を信じる限り、光速に近づくと特別なことが起こるというのはウソです。
そして、光速に達するということをローレンツ変換で考えると、4次元時空における速度ベクトルが元々の時間軸に対して垂直になるということだとわかります。一気に光速に達する代わりに、徐々に光速に達することもできます。その際、光速かどうかというのは、出発時点での時空に対して光速(垂直)なだけであり、途中の速度からみると、まだまだ光速には達していません。すなわち、出発時の運動の法則=光速未達のとき(途中)の運動の法則=(出発時に対する)光速時の運動の法則、となります。ゆえに、光速に達しても僕たちは何も感じないと結論できます。
だから、僕たちは元々光速で運動していると考えても全く問題がないと思うのです。逆に言うと、光速で運動している影響を僕たちは常に受けていてそれを当たり前だと感じているかもしれません。ローレンツ変換もその一つですが、それよりも身近に強い影響を受けている可能性すらあります。僕たちは時間軸方向の運動に自由がありませんが、それは僕たちが時空において時間軸方向に光速で運動し続けているからということで説明が可能です。光速に近い速度で運動すると、運動方向の空間が縮むという話があります。光速に達すると、その方向の空間が完全につぶれて、その方向の運動が禁止されるわけです。
これを風船モデルで考えると、僕たちはビッグバン爆心地から光速で飛び去っているので、その方向の運動が禁止され、その方向に垂直な運動だけを認識する、ということです。その結果、僕たちの世界は円周上に限定されるという説明が可能になります。
僕たちの世界が円周上に限定されるということは、あらゆるレベルの運動が円周上に限定されます。光は、電荷をもった粒子(通常は電子)の運動が元になって発せられますが、その運動は空間方向に限定されるので、光は空間方向、すなわち時間軸に垂直な方向に発せられると理解できます。

光は、時間軸に垂直に発せられるとしたとき、現在の僕たちが観測する光(星空)は、どのような時間的・空間的位置から発せられたものでしょうか?風船モデルで作図してみましょう。
ビッグバンの爆心地と光源を結ぶ直線がその光源での時間軸になります。その直線に垂直に光が発せられ、現在の僕たちに届きます。すると、ビッグバン爆心地・光源・現在の僕たちを結ぶ直角三角形ができます。このように、ビッグバン爆心地と現在の僕たちを結ぶ直線を長辺とする直角三角形の直角の位置をつなぎ合わすと、下図のような小円が描けます。



つまり、僕たちが観測する星空がこの小円です。現在の宇宙を表す円に対してちょうど直径が半分になります。ここから、僕たちが観測できる宇宙の差し渡しサイズは現在の宇宙のサイズのちょうど半分ということがわかります。また、過去にさかのぼって僕たちの宇宙に光を届けた(可能性のある)範囲は、小円の内側ですが、現在の宇宙を成り立たせるには、大円の内側全てを考慮しなければなりません。その面積比は1:4です。
2次元の風船宇宙の話を3次元時空における風船宇宙に置き換えてみましょう。円は球になります。円周は球の面積になり、円の面積は球の体積になります。1:2⇒1:4、1:4⇒1:8になります。さらに4次元時空の風船モデルでは、1:2⇒1:8、1:4⇒1:16になります。1:(8-1)というの通常物質とダークマターを比、1:(16-1)は観測できるエネルギーとダークエネルギーの比に概ね一致します。
言いたいのは、僕たちは宇宙のすべてを観測することはできないし、宇宙のすべてが僕たちの宇宙に影響を与えるわけではないということです。そういう僕たちとの関係が薄い「宇宙の何か」がダークマターとかダークエネルギーとかかもしれないよ、という指摘です。

量子力学における矛盾を風船モデルで説明する

量子力学はとても成功した理論ですが、いろいろ奇妙なことが起こります。いまでは、そのほとんどが検証され、正しいことがわかっています。だから、量子力学を疑う人はまずいません。でも、僕は量子力学にもいくつか疑問を持っています。
量子力学では光(のようなもの)を介してエネルギー交換が生じます。そして、エネルギー交換前後での因果関係があやふやになります。それは結果の状態が確定しないと原因の状態も確定しないという有名な話のことです。例えば、レーザーから光子が飛び出て、壁に当たって吸収されたという現象を考えたとき、光子の発生は完全に量子力学過程です。壁に当たって光子が吸収されるわけですが、その吸収も最初の段階は量子力学過程です。レーザーと壁の2つの系で光子というエネルギーが量子力学過程で結びついているわけです、僕たちは、レーザーの発光と壁での吸光に因果関係を感じますが、それらが一つの量子力学過程だと思うと、レーザーから光子が出る現象と壁で光子が吸収される現象は、どちらが先かという議論は意味がないことになります。つまり、壁で光子が吸収されるから、レーザーから光子が飛び出したという説明もOKということです。僕たちが普通に感じる因果関係とは逆ですが、量子力学はそのあたりをあいまいにします。
常識的に考えると、関連する二つの事象を時系列に並べて、先に生じる事象の方を「原因」、後に生じる事象を「結果」だと、僕たちは認識します。光はとても速いですが、その速度は有限ですから、関連する二つの事象のうち、どちらかが先で、どちらかが後のはずです。先に生じる方が「原因」で、それが無ければ後に起こる「結果」もありません。そういう関係を、専門用語で因果関係と呼ぶわけです。壁が光を吸収するには、光が存在しなければならないので、レーザーでの発光が先=原因で、壁での吸収は後=結果であると、僕たちは直観します。有限の光速という事実は、距離を隔てた二つの事象間で必然的に時間的順序を要求し、そこから僕たちは因果関係を見出そうとします。でもそれは間違いだというのが量子力学の主張です。量子力学がいまひとつ正体不明に思える理由です。有限の光速と量子力学のあいまいな因果関係が相いれないというのが僕の疑問です。

壁とレーザーだったら距離が近いので、因果関係があいまいになっても何とか許せますが、星の光と僕たちの眼に置き換えると違和感が顕著になります。遠い星での発光と僕たちの網膜での化学反応は、星から発せられる光子を通じて量子力学的に結びつくはずですが、余りに遠い場所での出来事なので因果関係をあいまいにはできません。だって、その光は、何万年も前に遠い星で発生したものなんですから!何光年も離れた星での現象が、僕たちの観測の有無の影響をうけるなんてことはないはずです。でもそれが起こるのだというのが有名な量子テレポーテーションです。問題提起した科学者たちの頭文字をとってEPR(Einstein-Podolsky-Rosen)相関と呼ばれています。皮肉なことに提唱者の一人であるアインシュタインはEPR相関はあり得ないという立場を取りました。現在は、EPR相関の実在が確かめられていますが、理解は進んでいません。ただ、EPR相関を用いた計算機である量子コンピュータの開発が盛んにおこなわれています。
「同時」の概念の基準を光とする相対性理論と因果関係を問わない量子力学は、短距離ではなんとなく受け入れられるかもしれませんが、長距離ではあきらかな違和感を生じます。風船モデルでこのあたりを考えてみましょう。

風船モデルが正しいかどうかなんてわからないのですが、風船モデルにおいて光線の上を「同時」と定義しましょう。光を時間の基準にするとはそういうことです。どんなに離れていても「同時」です。遠く離れた2つの現象は「同時」です。どんなに奇妙でも、遠く離れた星の正体不明の発光現象と僕たちの眼の中の色素のcis-trans転移は、同時に起こっているのです。2つの現象が何光年離れていても一つの同じ光子の介在を考えると、同時なのです。これはEPR相関だと言えます。
一方、僕たちにとっての同時とは、僕たちの時間軸に垂直になります。それは遠い星における同時とは全く違う直線になります。「同時」が二つの事象で異なるのです。それを図にしたものが下の図です。



一目瞭然です。遠い星の「同時」と僕たちの「同時」が異なります。特殊相対性理論を受け入れた瞬間、僕たちは全世界共通の時計を捨て、場所や慣性系ごとの時計を持つようになりました。それはつまり、二つの場所に共通する「同時」の概念を放棄することを意味します。それが相対性理論の奇妙さの原因だと僕は思います。それでも「同時」の概念は必要だし、なくなったりしないはずです。僕は、「同時」の概念を完全に説明する相対性理論の資料にであったことがありません。時計が遅れるとか進むとかの話は多いですけどね。

相対性理論では光を時間の基準に据えます。これは、光を「同時」と定義することを意味します。風船モデルでは光は線で表されますが、その光線の上はすべて「同時」です。奇妙なことに、上図で描いたように、遠い星での「同時」と僕たちの「同時」は同じ直線にはなりません。これは「同時」の概念の拡張です。
光線の上は「同時」ですから、どんなに遠くても「瞬時」に相互作用できます。空間的には隔たっていますが、時間的には隔たっていないのです。時間的に隔たっていなければ、「瞬時」に相互作用できます。だから、遠くの星の発光現象と僕たちの眼の中の色素の化学反応は一つの量子力学的相互作用で結びついてもよいのです。
図で明らかなように、僕たちから見ると、遠い星での発光は過去の出来事であることは明らかです。僕たちの時間軸で考えると、遠い星での発光と僕たちの眼の中での化学変化にあきらかな時系列が認められ、そのため僕たちはその順序を因果律として直観するわけです。
このように、風船モデルは量子力学における因果関係の長距離相関をわりとすんなり説明してくれます。そして残念なことに量子テレポーテーションに抱いている僕たちの希望を打ち砕きます。無限の可能性を秘めたファンタジーとしてのテレポーテーションは、その他の科学と同様に無情な限界をもつ当たり前の現象として、冷酷な物理法則の奴隷となるのです。

光速は無限か有限か

僕たちは光速が有限であることを観測事実を通して知っています。しかし、風船モデルでは一本の線として描かれ、それは時間を超越して存在しています。つまり、光線は伸びてゆく直線ではなく、発光点を通り時空全体を横切る線であるということです。宇宙規模のEPR相関を肯定し、何億光年も離れた二つの場所の現象が「同時」に起こり得るという、文章にすると信じられないような記述になります。あたかも、速度が無限に見えます。

風船モデルにおいて、光は時々刻々移動する輝点かもしれません。その場合、過去に発せられた遠い星の光を現在の我々が観測するということが著しく困難になります。
風船モデルにおいて、光を時々刻々移動する輝点と考えるということは、動径方向の時間軸以外に時間の概念を考えていることになります。その場合、星も我々も、ビッグバンの爆心地から遠ざかる点と考えねばなりません。星の光を観測するとは、点として移動する星から発せらえた光子の点が、同じく点として移動する僕たちにちょうどヒットする、ということです。それはかなり難しいということがわかります。だから、風船モデルに描かれた時間軸(動径方向)が僕たちの主観時間であると考えた方が合理的です。それはつまり、光は線であり、僕たちや星々も線だということです。光は線だけれど、僕たちや星々は点である可能性も残っています。ただしその場合、光線は遠く離れた現象と「交差」はしますが、「つなぐ」ことはしません。つまり、EPR相関は起きなくなります。

では、僕たちが観測する光速とは一体何でしょう。実は、風船モデルにおいても、有限の光速が観測されます。光速を測定する場合、一定距離離れた2つの場所に発光器と計測器を置き、発光時刻と光の観測時刻を精密に測定することで、光の速さを求めます。これを風船モデルで作図すると、次のようになります。



ビッグバンの爆心地を中心とする円弧が「現在」で、その半径を$r$とします。発光点から$r \theta$離れた地点で観測を行います。光は発光点の時間軸に対して垂直に描かれるます。この図でわかるように、発光後$\Delta t$秒後に光を観測することになります。距離$r \theta$を$\Delta t$で除したものが光速です。$r$はビッグバンからの経過時間に比例しますが、ビッグバンからとても長い時間が経過しているので、計測時刻が違っても結果に差はほとんど現れないでしょう。すると、距離が倍になれば、$\Delta t$もほぼ倍になり、光速は一定だという結論が得られてもおかしくありません。
ただし、それは僕たちが計測した光速で、風船モデルでは光は線として描かれて「同時」の基準ですから、この測定法は同時を定義することであって、「光速」を測定しているわけではないのです。
実は、計測された光速が、ローレンツ変換に現れる光速と同じである必然性は、風船モデルでは説明できません。風船モデルで観測される光速は、$r\theta / \Delta t $で、$\Delta t /t= 1-\cos \theta \simeq \theta ^2 / 2$であることを考慮すると、計測される光速は$2 c  /\theta$となります。これは光速の定義からは程遠いですが、一応有限の値にとどまります。
フィゾーの実験では、光が往復する時間を計測しました。その場合、もっと奇妙なことがおこなります。今度は、観測地点に鏡をおいて、発光点で時間を計測することになります。同時の概念が拡張されているので、光にとっては発光と同時に鏡に到達し、即時に反射します。そして反射すると同時に発光点に戻ります。反射に要する時間を0とすると、光は、発光と「同時」に発光点に戻ってくることになるのですが、戻ってきたときの発光点の時間は進んでいます。これはある種の「ウラシマ効果」です。その時の経過時間は、驚くべきことに片道に要する時間と変わらない$\Delta t$です。往復したのに片道の時間しか経過しないのです。それは「同時」の概念が拡張されているからにほかなりません。距離は$2 r \theta$進んだことになるので、算出される光速は$4 c/\theta$になります。余計な2が消えるどころか増えました。
まさにこの部分は風船モデルの弱点で、僕が風船モデルを確信できない理由です。ローレンツ変換に現れる光速は、僕たちの時間の概念の基準であり、風船モデルでは宇宙の膨張速度であるわけですが、それは上記の方法で測定した光速と一致しないのです。一致するには、ビッグバン爆心地からの距離が極めて不自然な値でなくてはなりません。それはあり得ないのです。

おことわり

風船モデルは、平坦な時空を俯瞰するというだけのモデルで、突飛な話ではないと僕は思っています。
でも、風船モデルでは、いくつか奇妙なことが起こります。僕たちは常に光速で移動しているので、過去方向からの様々な力は僕たちに届きません。ビッグバン理論では僕たち自身が作る重力で宇宙が縮小に転じることになるので、それを防ぐ「何か」としてダークエネルギーなんかが議論されています。でも、風船モデルでは過去からの重力などが現在に届かないので、宇宙を収縮する力として働きません。逆に、未来からの力が働くことになるのですが、それは宇宙を膨張させる力になります。ただ、僕たちはとっくに光速に達しているので、それ以上加速しません。
時空をすべて俯瞰する風船モデルでは、すべての事象は不確定性も含めて決定済みだと考えられます。つまり、運命(運命図)の存在が肯定されるのです。ただ、いつ、だれが、どのような原理で、運命図を描いたのか、というのは全くの謎で、僕たちが知覚できない「神の原理」の存在が推測されます。
僕たちの知覚する時間とは異なりますが、時空を俯瞰する世界の原理にも「時間」に似た概念があり、そこでは運命図が「神の原理」に従って成長し、ゆらいでいるかもしれません。
風船モデルによれば、発光と受光の現象は「同時」ですが、それぞれの時刻は異なりますし、同じ円周上ではないので「世界」も異なります。発光点にいる僕たちが受光点の「世界」まで移動し、結果を確認したとして、発光点の僕たちと受光点での僕たちでは、移動に要する「時間」の分だけ時空を俯瞰する世界での「時間」が違っているかもしれません。その間の運命図のゆらぎによって、僕たちの観測結果は不定になる、なんていうのも面白い考え方です。つまり、ある瞬間の現象は過去も未来も含めて完全に決定されているけれど、主観時間の経過とともに過去・現在・未来の描像がゆらぐので、現在の僕たちが未来に到達した場合のことは、不確定になっているという何を言っているのかわからない感じになるっていうことです。ちょっとしたロマンです。

風船モデルでは、僕たちの知覚する時間がすでに書き込まれているので、物質は点ではなく線で描かれます。重力や電磁気力のような場は線を取り巻くチューブのような形状になります。重力や電磁気力、弱い力、強い力という僕たちの世界を構成する基本法則は4次元の時空で完全に成立するようになっていることが知られています。だから、風船モデルのように平坦な時空でも違和感なく成立すると思います。
いくつかの事案では、4次元の時空を僕たちは光速で運動していると考えるのが自然に見えるのですが、そのためには常に加速されている必要があります。ローレンツ変換では、僕たちにかかわるあらゆる3次元空間中の運動が4次元時空中では時間軸方向の加速に寄与する形になります。しかしながら、時間軸方向は光速の制限を受けるので、運動する度に減速させられています。そのようなことが顕著になるのは振動です。光速で移動している物体は移動方向の運動が制限され、その物体(あるいは周辺)の運動は光速移動方向と垂直にしか許されません。それはローレンツ変換を受け、運動が妨げられ、物体は加速を減じられる=慣性を受けます。そのようなことが起こると普通はエネルギーが散逸し、運動がなくなるわけですが、零点振動という現象があり、ある種の振動は決してなくなりません。それは永遠に加速し続ける装置になります。振動運動はローレンツ変換によって抑制されるので、慣性質量をもつようになります。断っておきますが、これはヨタ話です。

ヨタ話ついでにもう一つ。風船モデルでは、タイムマシンが作成可能です。過去への通信だけでなく、過去への移動すら可能です。もちろん、エネルギーの問題は別途解決しなければなりませんけれど。過去への通信は物理的障害が低めです。光は時間軸に垂直に発するので、その光が僕たちにとっての過去や未来の方向に傾いていれば、過去や未来の方向に光を届けることができます。具体的には、鏡面仕上げした高速回転するコマの側面に光を当てるだけです。コマの側面が極端に高速だと、時空図において我々の時間軸とは違う角度に時間軸を持ちます。そこで光が反射すると、その時点での時間軸に垂直な方向に光が進みます。コマの側面が我々に近づく場合には、赤方偏移とは逆の青方偏移が観測され、それは過去に向かう光です。その場合、光を当てる前にコマが光るの現象が観測されるはずです。これはすなわち、過去方向への情報交換が可能ということです。コマの回転速度が速いほど、コマから距離が離れるほど、時間のずれが大きくなるでしょう。
過去に移動するには、とにかく加速して速度を増します。僕たちを乗せたタイムマシンがどんどん加速するという仮想実験をしましょう。加速方法やそのエネルギーに関する問題は大人の事情で無視します。時空における加速の実態は、ローレンツ変換による時間軸の回転です。どんどん加速して出発時点に対して90度回転まで来ると、タイムマシンは光速に達することになります。光速に達しても加速をやめないとさらに回転します。回転が180度になると、もともとの時間軸に対して反対方向となり、これは時間の逆行です。さらに加速して回転角度が360度になると元の時間軸に戻ります。加速にはとても長い時間がかかるでしょうが、僕たちを乗せたタイムマシンの航路は時空図に円を描きます。つまり、長い加速の末に僕たちは出発地点に戻るのです。そこに現在の地球があるかどうかはわからないのですが、運命図の概念が正しければ、そこに現在の地球があるはずです。途中の時間逆行時にすこし加速を緩めるとより過去の地球にたどり着くこともできます。それはまさに僕たちの知っている真のタイムマシンの機能です。が、光速に達するだけでなく、その4倍も加速するわけで、途方もない時間が必要です。人類が到達した最高速度はボイジャー1号の秒速1万7000kmで、これは光速のたった5.6%です。

風船モデルにおいて振動する粒子を描くと、「波」線になります。中心力が必要なので、もう一つ粒子を描くとそれらは互いに絡み合ったらせんになります。それらがローレンツ変換を受けたとき、細部の形状がどのようになるかは僕にはわかりませんが、ちょっと奇妙になる気がします。あ、断っておくと、風船モデルの真偽にかかわらず、4次元時空において振動を考えると必ずこのような議論になります。これは先ほどの永久に加速する装置です。
小さな粒子の運動だと違和感は生じませんが、大きな天体となると、違和感が顕著になります。太陽系内の天体の運動では重力などの伝搬にかかわるタイムラグはほとんど無視できますが、銀河のような大きなスケールでの天体の運動はとても難しくなります。というのも、ある天体Aの重力が別の天体Bに到達するには何万年も必要で、重力が伝搬する間に天体Bは移動してしてしまっているわけです。天体Aと天体Bは重力を介して相互作用しますが、その相互作用は対称ではない(天体Aが天体Bから受ける力と天体Bが天体Aから受ける力は同じではない)のです。「同時」の概念に似ていますよね!
天体が運動すると天体の作る重力場は時々刻々変化しますが、風船モデルでは時間が描きこまれているので、静的な図形になります。それぞれの天体の運動から、それらの経路について計算される重力場が描かれ、それに従って天体の運動が定まるわけです。こういう関係をself-consistent(自己無頓着場)と言います。あるいは、定常解というときもあります。しかも、僕たちが観測する天体は時空の切り取り面だということも考慮しないといけません。
風船モデルでは意図的に天体の作る時空のゆがみの議論を外しています。大きな天体は自身の重力によって時空をゆがませます。風船モデルでは一つの円周を「世界」とし、暗黙の了解として同じ円周上にある物体を通常の意味での現実の構成要素とみなしていましたが、時空はゆがみうるので、「世界」もゆがみます。実際の「世界」はきれいな円弧ではなく凸凹なのです。ブラックホールのような極端な重力場ではまさに落とし穴のように時空がゆがんでしまいます。時間の進行方向はもはやビッグバンの爆心地の逆方向とはなりません。時間軸はおおむねradial方向でしょうが、細かく見るとゆらぎがあります。その時の時空図はとても複雑になるので、うまく計算できるかどうか自信がありません。

さて、最初に言及した宇宙背景放射を風船モデルで考えてみましょう。宇宙背景放射は正確に言うと「宇宙の晴れ上がり」というビッグバンの40万年後の重要イベントの残光です。風船モデルでは、振動する物体は加速されるわけですが、光速に到達するにはそこそこの時間が必要だと思われます。ほとんどの物質が光速に到達し、飛散が本格化したのが「宇宙の晴れ上がり」と考えます。そのとき宇宙は小さな円(球あるいは超球)になっているでしょう。そこから現在の僕たちに向かって光が届くわけです。それを光線Bとします。光線Bは僕たちの時間軸に対して、それはそれはとても浅い角度です。風船モデルにおける方位角θは90度に近く、極めて大きな赤方偏移を示します。光線Bは過去からの光ですが、僕たちは時間軸を知覚できないので、光線Bから時間軸方向の成分を取り除いた部分だけを知覚します。残った光線のベクトルはとても小さいですが、方位はどのようにもなり得ます。つまり、あらゆる方向に光線Bを観測するわけです。光線Bの発光点は極めて遠くの狭い領域ですが、観測される方向はいろんな方向というちょっと矛盾したようなことが起こり得るのです。それは現象を4次元の時空で考えるべきなのに、僕たちの知覚できる宇宙が3次元の空間であるという齟齬による違和感です。

風船モデルは単なるモデルで致命的な弱点もあるし、僕はあんまり信じていませんが、現状の宇宙論のような複雑怪奇なものよりは「筋が良い」と思っています。「オッカムの剃刀」という逸話があって、真実は往々にして単純明快であるという経験則があります。アインシュタインは光速があらゆる観測者にとって同じであるというかなり単純な原理を取り入れて相対性理論にたどり着きました。ビッグバンを時空の中に描いてみたらどうなるか、という素人でもわかる原理を取り入れたのが風船モデルです。平坦な時空とビッグバンだけを前提にしているので、それらが正しければ風船モデルも正しいはずですが、その前提が正しいかどうかはわからないので、風船モデルもヨタ話の域をでません。
例えば、ビッグバンはなかったけれど僕たちが観測する事象はビッグバンのような膨張する宇宙論に合致する部分だけ、という状況も考えられます。その場合にはいかなる観測事実を積み重ねても、ビッグバンの有無は結論できません。そんな奇妙なことがあるわけないと思うかもしれませんが、僕たちの観測できる宇宙について、風船モデルにおける小円のような条件が存在していることは確かです。その条件がビッグバンのように中心から膨張する現象に一致する部分だけ、ということは理論上あり得ます。だから、実験事実がどうあろうと、ビッグバンがないとか、インフレーションがないとかの可能性を排除すべきではないと僕は思うのです。

2017年9月20日水曜日

Wish and Spirit

新しいiPhoneが発表された

多くのリーク情報が氾濫したため、目新しさが半減したが、とにかく新しいiPhone(Xと8)が発表された。フラグシップモデルのiPhone XでAppleはついにホームボタンをなくした。それはJobsの長年の指令だった。Jobsの遺志を継いだTim CookはJobsが目指したことを忠実に実行し、達成したことになる。それは正しいことだったのか?

Jobsは何故ホームボタンをなくしたかったのだろう?

Jobsは典型的なミニマリストだ。だから、何事もシンプルな設計を好む。だから、ボタンは一つでも減らしたかった。その象徴がホームボタンだった。
おそらく、ボタンが減るのなら、それがホームボタンでなくてもよかったはずだ。でも、堂々と一番目立つところに大きく鎮座していつも目につくのがホームボタンなので、ホームボタンを好んで攻撃したのだと思う。真面目なCookは、それを真に受けたのだろう。あるいは、Jobsの遺志(Wish)を実現することが、今のApple社員たちの社是なのだろう。それはすでに故人崇拝の域に達している気がする。

iPhoneはボタンが多い

iPhoneはスマートフォンの元祖なので、レガシーを引きずっている。その結果、現行のスマートフォンの中では、もっともボタンが多い機種となっている。僕の使っているAndroidのボタンは3つだ。前の機種から、ボタンは3つしかない。それに比べて、新しく発表されたiPhone 8はボタンがなんと5つもある。iPhone Xではボタンがひとつ減って、4つになったわけだが、それでもまだ1個多い。
ホームボタンが減って大騒ぎしているのは、iPhoneユーザーだけで、Androidユーザーは何年も前にそれを経験している。僕は、今のAppleは迷走状態にあるのだと思う。

Appleの迷走ぶりは、2013年のiPhone 5sで顕著になった。Jobsが亡くなって2年経っており、Jobs抜きで開発した製品を発表しなければならなかった。その時、搭載された機能が、件のホームボタンに指紋認証を付与したTouch IDだった。Jobsの遺志を尊重して開発チームはホームボタンの廃止を検討していたに違いない。にもかかわらず、目玉機能をホームボタンに追加してしまった。それから4年、Touch IDはiPhoneの重要な機能の一つになってしまった。いくつかの重要な機能がTouch IDと強く結びついてしまった。それはつまり、ホームボタンを簡単には廃止できないということだ。iPhone Xに関する驚きの多くは、Touch IDがなくなって不安だ、というものだ。Touch IDをホームボタンに搭載したことで生じた混乱だと言える。
Touch IDをホームボタンに搭載した時点で、このような混乱は予想できた。

どうすればよかったのか

Appleは破壊的なイノベーションによって成長を続けてきた会社だ。既存の自社製品を陳腐化してしまうような新製品を次々と投入してきた。だから、Touch IDを捨て去るという判断も、Appleらしいと言えるかもしれない。
でも、Touch IDは結構筋の良い技術だ。生体認証を様々な場面で気軽に利用できるということは、セキュリティー確保において極めて大きなアドバンテージとなっている。しかも、それをホームボタンに搭載すると、スマートフォンを使い始める操作=認証のための操作となるので、今までの使い方を変えずに、強力な認証機能を追加できる。こっそりハイテク型の非常に筋が良い技術だ。僕は廃止すべきはホームボタンとTouch IDではなかったと思っている。廃止すべきだったのは、消音ボタンと電源(サイド)ボタンだ。それで、Android端末とようやく肩を並べ、Touch IDの分だけ有利になったろう。

迷走

Jobsはこっそりハイテク型の技術をとても大事にした。AppleのOSはとても人気があるが、その理由の一つに独特の質感がある。指に張り付くような滑らかなスクロールはiPhoneの代名詞だが、そのような質感を実現するには極めて複雑で面倒くさい調整(プログラミング)が必要だ。それには時間とコストがかかるが、Jobsはあえてそのような細部にこだわった。目につきにくい部分の細かな技術の積み重ねによって、「気持ちよさ」が伝わるということを熟知していたに違いない。

Jobsが本当にやりたかったのは、iPhoneの特徴とみなされるホームボタンすら例外とせずに改良の対象とすることだったと僕は思う。そういう聖域なき改革でしか、より完成度の高い道具を目指すことはできないからだ。
生前のJobsなら、ホームボタンを廃止するなんて、簡単だったはずだ。でもしなかった。それには理由があったはずだ。おそらく、その一つは、「サイドのボタンは押しにくい」といったシンプルな理由だと僕は思う。電源ボタンあるいは、ホーム画面呼び出しボタンとして頻繁に押すことになるホームボタンが押しにくいなんて、Jobsには考えられなかったはずだ。ホーム画面の呼び出しは別のボタンでもよかったと思う。我慢ならないのは、使い始める動作がスムーズでないことだったろう。だから、あえてホームボタンを廃止できなかった。
頻繁に押すボタンだからこそ、ホームボタンは目立つところに押しやすいように配置されねばならなかった。見た目のデザインを損なったとしても、シンプルに機能を追及するというのは、典型的なミニマリストの哲学だ。
そういう意味で、Touch IDはJobsのアイデアだったかもしれない。僕なら、ホームボタンは廃止でもTouch IDは廃止しないだろう。Touch IDのような認証機能はスマートフォンを握ってから画面を指で触る前に完了することが理想だ。スマートフォンを握るとき、人差し指はスマートフォンの裏面の特定の場所に自然に張り付く。僕ならその位置にTouch ID機能を搭載する。それで、緊急時の電源操作を行う小さなボタンを残して、ほかのボタンを廃止する。Touch IDはボタンとしてのメカを廃止するけど、電源ボタンとしては機能するようにするだろう。

Tim Cook率いるAppleの開発者たちは、JobsのWishを忠実に実現した。でも、それはJobsのSpiritに反すると僕は思う。そういう最終手段に訴えたということは、Jobsの遺産は今回で完全に枯渇したと僕は見ている。その証拠に、新しいiPhoneにはびっくりするような革新が全くなかった。顔認証はすでにありふれている。Face IDの精度は高いかもしれないが、僕たちが求めているのはそういうものではない。僕たちの日常が変わってしまうような、使わずにはいられない気の利いた技術革新だ。

Face IDの最悪な点は、真黒なスマートフォンの画面を一瞬見つめないといけないことだ。僕らがスマートフォンを使い始めるとき、スマートフォンを握るや否や、電源ボタンあるいはホームボタンを指で探って操作するものだ。そういう何気ない動作によって、僕たちは無意識のうちに画面を正面い捉える前からスマートフォンを使い始めている。顔認証では原理的にそういうことは無理だ。Jobsなら即却下するだろう。

2017年9月19日火曜日

物理や数学における作法

記法

高校では、数学や物理の記法は完全に統一されていて、ベクトルだったら、$\overrightarrow{a}$という感じで、文字の上に矢印を書くと教わる。でも、大学の物理の教科書では、$\bm{a}$のように太字&イタリックで書くことが多い。どっちが正しいかというと、統一さえしておけばどっちを使ってもよい、とされている。ほかの表記法を好む人も多い。
最近は、学校教育で$\overrightarrow{a}$を使う国が多いので、$\overrightarrow{a}$が増えてきた。でも、がっつり系の専門書は依然として$\bm{a}$が大半だ。僕は最近多次元を取り扱うことが多いので、$a_i$のように添え字を使うことが多くなっている。

数学では、このような記法の問題はしばしば問題になる。だから、数学の論文では最初に記法の説明がまとめられていることも多い。統一したら良さそうなものだが、次から次へと新しい記法が編み出されるので、統一しようにも話し合いが追いつかないという事情がある。

数学がこんな感じだから、数学をツールとして利用する物理の世界にも多くの混乱がある。しかしながら、物理の世界では、もっと保守的だ。

物理学者が発明した記法の典型例として、Diracのブラケットが挙げられる。$\langle a|$とか、$|b \rangle$、さらにこれらの内積を$\langle a | b \rangle$と書く。$\langle a|$や$|b \rangle$は、波動関数に対応するベクトルなんだけど、$\overrightarrow{a}$ではなくて、しかも2種類ある。2種類は厳密に区別されるので、$\overrightarrow{a}$のような記法より優れているかもしれない。
アインシュタインは、別の記法として、$a^i$や$b_i$を発明した。有名なアインシュタイン規約である。より高い次元の複雑な計算を間違わないように進めるために、編み出された記法だ。
物理におけるこれらの記法は、発明者の名を冠して尊重され、特別な理由がない限り発明者の定義通りに解釈される。その点は数学の世界より混乱は少ない。

流派

数学に比べると幾分マシだけど、物理にも混乱っぽいものが存在する。有名なのは、流体力学におけるオイラー的記述法とラグランジュ的記述法だ。同じ流体力学なんだけど、両者は座標系の取り方が違っている。どちらが優れているというわけでもないし、原理的には両者は同じ結論になるので、両論併記というのが普通になっている。でも、学習する側からすると、面倒くさいことこの上ない。

僕は学生の時、X線散乱・回折の勉強をみっちり行った。4回生の時と修士の時で研究室が違っていて、4回生の時は散乱、修士の時は回折の研究室だった。散乱と回折というのは本質的に同じ現象で、測定対象が結晶だと回折、それ以外だと散乱と呼ぶ。そこで気づいたのが、2つの研究室で用いる式がちょっとずつ違う、ということだった。ポスドクの研究室も散乱だったのだけど、そこでの式もちょっと違っていた。ポスドク時のボスは、オーストリーのKratkyスクール、フランスのLaueスクールという呼び方をしていて、その時、学問にも流派があるんだって、知った。
Kratky流とLaue流というのは、まさしくドイツ・オーストリーの質実剛健さと、フランスの優雅さの違いだ。それはフーリエ変換の定義に如実に表れている。
Kratky:  $F(X)=\int f(x) e^{-2 \pi i xX} dx$ / $f(x)=\int F(X) e^{2 \pi i xX} dX$
Laue:  $F(q)= \int f(x) e^{- i q x} dx$ / $f(x)=\frac{1}{2 \pi} \int F(q) e^{ i q x} dq$
前者は小さい文字で$ 2 \pi$というキーワードが現れているけど、後者にはそれがない。式的には後者の方が洗練されているように見える。しかしながら、ブラッグの反射条件を念頭にすると、実は前者の方が優れている。式としての美しさを優先するか、実用性を優先するかという、ほとんど宗教戦争になっている。
僕は、4回生の時にLaue流、修士の時にKratky流を学んだ。ポスドクの時は、両者の折衷であるロシア流というのだった。面白いね。

実はフーリエ変換の定義には、3つのスタイルがあり、そのうち2つはKratky流とLaue流に対応している最後の1つは、
Unitary: $F(q)=\frac{1}{\sqrt{2 \pi}} \int f(x) e^{- i q x} dx$ / $f(x)=\frac{1}{\sqrt{2 \pi}} \int F(q) e^{ i q x} dq$
というもので、こうすると、逆変換が順変換と全く同じ形になるという利便性がある。フーリエ変換にはこれら3つの流派が混在しており、どの教科書で学ぶかで、式が少しずつ違ってくる。

レオロジー

あんまりメジャーじゃないんだけど、僕の専門分野の一つにレオロジーというのがある。実は、僕は学生時代にはレオロジーが苦手で、さっぱりわからなかった。僕はどうもあきらめの悪い性分らしく、何年もかけて、じっくり勉強し、なんとか人並みには理解できるようになった。
僕は高分子物理の出身なので、レオロジーも高分子の流儀に従い、勉強したわけだけど、どうもいまいち納得がいかない状態だった。得心がいったのは、「線形応答理論」というキーワードを聞いた時!だった。線形応答理論というのは信号処理なんかで活躍する数学の一分野で、高分子物理からは縁遠い。僕はソフトウェアが得意なので、線形応答理論も一通りり知っていた。でも、レオロジーと線形応答理論の接点には気づいてなかった。

レオロジーでは、複素弾性率の周波数応答$G^* (\omega)$が物性の基本となっている。一方、線形応答理論ではインパルス応答関数$h(t)$が系の特徴を決定する。なんだか違う感じだけど、驚くことに両者は全く同じになる。
インパルス応答関数というのは、入力関数$f(t)$に対して、応答が$h(t) \otimes f(t)$になるときの$h(t)$のこと。応答関数をフーリエ変換すると、$H(\omega) \cdot F(\omega)$になる。$f(t)$がデルタ関数の時は、$F(\omega)=1$なので、$H(\omega)$が得られる。もし、$f(t)$が$sine$や$cosine$のときは、$F(\omega)$はデルタ関数(の和)になり、$H(\omega)$の特定の$\omega$の情報が得られる。それはすなわち、レオロジーで言うところの$G^*(\omega)$そのもの!
レオロジーにおけるひずみと応力は微小変形の範囲では、互いに線形応答の関係にあるので、数学的必然として線形応答理論に従うわけだけど、見た目が少し違うので、僕は気づかなかった。レオロジーの標準的な学習は、線形応答理論の標準的な学習の流儀とはちょっと違っているというのがその理由の一つ。先にこういうことがわかっていると、僕はレオロジーの勉強に躓かずにすんだかもしれないなぁ、と思いつつ。でもあっさり通過していたら、深い理解に到達しなかったかもしれないとも思う。


2017年8月28日月曜日

数とは何か

ここ数年、ずっと考えていること

僕は工学部化学系の出身で、数学どころか物理も結構ええかげんな感じでしか勉強したことがない。でも、今の僕の専門は、物理で、しかも応用数学チックなところにある。だから、物理や数学のことをずっと独りで勉強してきた。
いろんなことが少しずつ解けてきて、僕自身は満足なんだけど、後から考えると、僕が試行錯誤して学んできたことの多くは、教えてもらえれば苦労なんかしなくてよかったな、って思う。その最たるものが数学だ。

大学の数学で強烈に覚えているのは、僕たちを全く寄せ付けない、εーδ論法だ。一体全体、なんでこんな回りくどいことをしなければならないんだろう?これが理解できない僕たちは、数学に触れてはいけないんだろう。数学は才能の学問であり、才のない僕らは教育すら受ける必要がない、そういう分野なんだと聞かされてきた。理論物理の世界では、SU(2)とか、わけのわからない群論記号で議論が行われる。だからその分野も僕の踏み入れてはいけない領域なんだと思ってた。
でも違った。ある本を読んで、εーδ論法がなぜ必要なのか、理解できた。群論のことも、理解できた。そのおかげで、いろんな数学が一気に理解できて、SU(2)とかも、おおむねわかった。僕に必要だったのは、ちゃんとした説明だけだった。

苦労して勉強してきたおかげで、僕はその先に進むことができるような気がしている。今興味があるのは、「数」のこと。結局は群論なんだけど、様々な物理の世界を特殊な「数」に割り当てることを目論んでいる。例えば、テンソル。異方性を持つ物性値はことごとくテンソルになるけど、このテンソルはある種の複素数の性質を持っている。量子力学では複素数のベクトルとか行列とかが活躍するんだけど、複素数のベクトルや行列って特殊な「数」としての性質を持っている。そういう広義の「数」の概念で、僕のかかわる物理の世界を書き直してみようと、最近画策している。

数の概念の拡張

小学校以来、僕たちは算数・数学で「数」の概念を拡張し続けてきた。最初に習ったのは「正の整数」あるいは「自然数」だ。0を含むかどうかは微妙だけどね。その次に習ったのは「小数」だったと思う。次に「分数」。中学校になって「負の数」「無理数」。高校になって「複素数」を順に習った。その時の僕は気づかなかったけど、「ベクトル」と「行列」もある意味「数」だった。高校の先生はそんなことを全く教えてくれなかったけどね。
こういう順に並べると気づくと思うけど、僕たちは順番に「数」の概念を拡張してきたことになる。例えば、「小数」は「自然数」を含み、「分数」は「小数」を含む。それぞれのカテゴリーで、計算の様子が少しずつ変化し、それぞれに特徴があるものだ。例えば、「分数」では除算が、分子分母を入れ替えて積を取る、という演算になって、積の一種として扱えるようになる。

ここで、εーδ論法の話が絡んでくる。εーδ論法は、「小数」を含む「数」に対して利用できるツールである、ということだ。「小数」を含む「分数」や「無理数」でも自動的に利用できる。これは、εーδ論法を用いて証明された定理は、利用範囲が広いこと意味する。
εーδ論法で必要とされるのは、対象がコンパクトである、ということだけだ。コンパクトという概念は、二つの「数」の間をどれだけ小さくとっても、まだまだ間の「数」を見つけてこれるような、そういう性質のことだ。「数」と「数」の間にちょっとぐらいの穴があっても構わない。ただ、隙間が見つけられれば良い。その典型例が「小数」だ。「小数」では、一部の「分数」や「無理数」が表現できない。つまり「穴」がある。でも、桁を下げてゆけば、いくらでも隙間を見つけることができる。そういう例は結構多い、と数学者たちは考えている。そういう「世界」で利用できる強力なツールがεーδ論法ということだ。ちなみに、「微分」という概念は「穴」があると都合が悪い。だから、微分ではなくてεーδ論法を使うのだ。
概念だけで説明されると、とても手に負えない「コンパクト」という概念だけど、「有理数」「無理数」で説明したら、そんなに難しいものでもない。

注釈:隙間が無限に見つられるという定義は、厳密には「稠密」で、コンパクトというのはそれが局所的に収束すること、あるいは収束する状態のこと。

特殊な「数」

僕たちの「数」の概念の拡張は基本的に高校数学で終わっている。でも、仕組みが分かったのだから、もっと先に進んでもよい。

僕が特殊な「数」に興味を持ったきっかけは、「複素数の行列表現」だ。虚数単位$i$は$\sqrt{-1}$として定義され、それ以外の定義は教えてもらえない。ところが、ハミルトンの四元数を勉強した時、3種類の虚数単位が紹介され、それぞれの行列形式が提示された。僕はとてもびっくりした。厄介な虚数単位が3つもあるんだから!そして、それぞれの虚数単位に別々の行列が対応するというのだ。わけがわからない。
もっとびっくりなのは、三元数とか五元数とかはなくて、普通の複素数である二元数の次は、四元数でその次は八元数だそうだ。ハミルトニアンに名を残す天才ハミルトンが三元数を探し続けて行き詰まり、ある日突然、橋の上を歩いていた時に四元数を思いついたそうだ。あまりの嬉しさに、橋にその発見を落書きしたと伝えられている。

さて、四元数にはいろんなバリエーションがあるとされている。split-quarternionと呼ばれる「数」では、二乗したらー1になる2つの虚数単位と、二乗したら1になる3つめの虚数単位を用いる。二乗したら1になる虚数単位って意味が分からないぐらいだけど、そういう性質を持つ行列が定義出来て、split-quarternionを具体的な「数」として計算することが可能になっている。そして、split-quarternionで用いられる、二乗したら1になる虚数単位を使った二元数というのも考えることができる。こうしてできる新しい複素数はsplit-complex number と呼ばれる。split-complex numberは、自動的に対称行列に対応する。逆に対称行列はすべてsplit-complex numberであると言える。物理の世界では、異方性をもつ物理量のほとんどは対称行列で表現できる。つまり、そのような物理量はsplit-complex numberということだ。split-complex numberには特有の性質がある。その「数」としての性質は、異方性をもつ物理量の現実の性質と深く結びつくはずだ。僕はそこに興味がある。

量子力学の一つの謎を考察する

量子力学ではDaggerという演算がしばしば用いられる。行列に対し、転置と複素共役を同時行う操作と定義されている。量子力学では、しばしば転置と複素共役がセットで表われ、それぞれを単独で用いることが少ない。なぜなんだろう?

そのヒントになるのが、虚数単位の行列表記だ。通常の虚数単位は$i$だけど、$\begin{pmatrix} 0  & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix}  $のような行列を用いてもよいらしい。$\begin{pmatrix} 0  & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix} ^2= \begin{pmatrix} -1  & 0 \\ 0 & -1 \end{pmatrix}  $ なので、確かに$i$の性質を持っている。このように表記は違うけど、本質的に同じものを「同値」という。虚数単位の行列表現はその典型例だ。
これを用いて、$a+b i$を行列表示すると、$\begin{pmatrix} a & b \\ -b & a\end{pmatrix}$となる。一方、共役は$a- b i$なので、$\begin{pmatrix} a & -b \\ b & a\end{pmatrix}$である。行列の方を見比べると、ちょうど転置になっていることがわかる。これをまとめると、行列表示では転置すると自動的に共役になるということだ。

Daggerは転置して共役なので、2回ひっくり返って元に戻る、ということになる。じゃ、Daggerにする意味ないよね、と短絡してはいけない。複素数1個だったらそうだけど、複素数を要素とする行列(複素行列)では、そうならない。$\begin{pmatrix} a+b i \\ c +d i \end{pmatrix}$だったらどうだろう。これを無理やり行列表示すると$\begin{pmatrix} a & b \\ -b & a \\ c  & d \\-d & c \end{pmatrix}$になるだろう。これを転置すると、$\begin{pmatrix} a & -b & c & -d \\ b & a & d & c\end{pmatrix} =\begin{pmatrix} a-bi & c-di\end{pmatrix}$になる。これはDaggerの操作だ。
つまり、Daggerの本質は転置で、複素数の転置とは、複素数の共役ということだ。通常の複素行列では、要素の複素数自身に転置操作が及ばないので、Daggerによって要素にも転置操作が及ぶようにする、ということだ。

うまくいきそうだけど、この議論ではちょっとした危険をはらんでいる。先の議論では、行列の要素にさらに行列を埋め込んで、中の方の括弧を無視するということを行った。つまり、
$\begin{pmatrix} a+b i \\ c +d i \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} \begin{pmatrix} a & b \\ -b & a \end{pmatrix} \\ \begin{pmatrix} c  & d \\ -d & c \end{pmatrix} \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} a & b \\ -b & a \\ c  & d \\-d & c \end{pmatrix}$

こんなことが許されるのだろうか?
こんなことを許して、どこかに不都合が生じたりしないだろうか?

すこし四元数のことを調べてみる

さて、$\begin{pmatrix} 0  & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix}  $以外に$i$の性質を満たす行列はないだろうか?先の四元数では、$\begin{pmatrix} 0  & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix}  $のほかに、$\begin{pmatrix} i  & 0 \\ 0 & i \end{pmatrix}  $と$\begin{pmatrix} i  & 0\\ 0 & -i \end{pmatrix}  $が用いられる。いずれも$i$として使うことができるが、要素に$i$が含まれているので、あんまりありがたくない。
でもWikipediaをみると、四元数の行列表示として4x4の行列が示してある。例えば、
$\begin{pmatrix} 0 & 1 & 0 & 0 \\ -1 & 0 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 0 & 1 \\ 0 & 0 & -1 & 0 \end{pmatrix}$が挙げられている。これは、$\begin{pmatrix} i & 0 \\ 0 & i \end{pmatrix}$であり、先に示した四元数の虚数単位の一つに一致する。

だから、行列の要素に行列を埋め込む、というのは「OK」らしい。実はそういうのはブロック行列と呼ぶらしい。$\begin{pmatrix} A & B \\ C & D \end{pmatrix}$の各要素が行列であるようなものだ。この場合、行列式は、$ det A  det \left(D - C A^{-1} B \right) $であらわされる。僕らが良く知る行列式の公式$AD-BC$に極めて似ているけれど、行列の場合は計算順序を入れ替えられないので、$C A^{-1} B$はこれ以上簡単にはできないように思える。ただし、$ABCD$が特別な場合はそれが可能だ。特別な場合というのは、例えば、$\begin{pmatrix} a & b \\ -b & a\end{pmatrix}$だ。

この事情は複素数が行列表示できるという話のときに気づくべきことだった。つまり、複素数の積は交換可能なのに、積が交換可能でない行列で表示できるわけがないだろう、ということだ。
実のところは、積が交換可能(可換)な行列のタイプというのがあって、それらは共通の特徴を持つ。可換な行列の一つが、$a+bi$ということだ。一般に、$ a E + b X$という行列であれば、積が可換になる。さらに、$X^2 = \alpha E$を満たすとき、「普通の積」の性質を持つようになる。そういう場合、「複素数」タイプと呼ぶことにしよう。

$ABCD$が複素数タイプの場合は、$ \det A  \det \left(D - C A^{-1} B \right) =\det A \det \left(D-A^{-1}BC\right) = \det (AD - BC)$となり、僕らの知っている普通の複素行列と矛盾しない結果になる。
この事情は逆行列の場合も同じだ。だから、可換なサブ行列からなるブロック行列は、サブ行列を要素とする普通の行列とみなしてよい、となる。ということで、Daggerという操作は複素数まできっちり拡張された正当なる置換操作であるということになる。

知らない間に通り過ぎることの善悪

高校までの数学では、複素数が導入されて、つぎは行列が導入された。上記の議論に基づくと、順当な「数」の概念の拡張だとわかる。でも、僕らはそんなことは一切知らされず、計算技術の側を用いて、計算を進めてゆくうちに、なんとなく理解が進むという側面がある。だから、まずは計算ができること、を学習目標に設定するのは悪くはない。ただ、「それが全て」みたいな指導が横行していて、数学のありがたさが今一つ見えてこない。そのせいで、最近は、高校で行列を教えることをやめてしまった。

さらに、大学で学ぶべき高等数学の邪魔をしているという明らかなデメリットがある。僕たちは、「数」というものを「すでに存在しているもの」「計算の対象」とみなす傾向がある。我々が知る多くの「数」は、「たまたま現実世界の何かとうまく対応する概念」でしかない。うまく対応するのは、ある種の必然ではあるのだが、全ての「数」が何かと対応するとは限らない。多くの「数」が数字の概念からの拡張であるのは、算法を定義しやすくて調べやすいからという都合によるものだ。「数」の概念は、数字よりもずっと広い概念で、その本質は、数学者でない我々には想像の及ばない世界だ。だからと言って、数学者でない人に理解できないわけではない。

僕はプラスチックの研究者で、樹脂にいろんな微粒子や繊維を混ぜた複合材料の研究をしばしば行っている。その時、材料を「数」とみなすこともできる。混ぜるという行為は、材料同士の「演算」だ。物性測定は、ある種の「演算」あるいは、「関数」に割り当てることができる。材料同士の混合や物性測定に対応する「演算」は自明ではないが、その演算ルールが明らかになれば、材料研究が進む。だから、僕たちは、演算ルールを明らかにするという研究を行う。

このような材料研究を数学の言葉で抽象化すると、材料研究の難しい部分がどこにあるのか俯瞰できる。材料$A$と材料$B$があって、それらを混合する演算を$+$としよう。ある物性を測定するということを$f(A)$のように関数で表すことにする。このとき、AとBの混合物の物性は、$f(A+B)$になるだろう。$f(A+B)=f(A)+f(B)$のような演算則が成立するなら、材料研究はとても簡単だ。このような演算則は「線形結合」と呼ばれる。現実の演算則はもっと複雑だが、もし演算則が完全に理解できれば、僕たちは材料設計を自由自在に行うことができるだろう。だから、僕たちは、$f(X)$がどのように書き下されるのか、$f(A+B)$を$f(A)$と$f(B)$の関数として書き下す方法などを研究する。

このような抽象化は単純すぎるが、世界を数学で記述するという概念の例として、わかりやすい。僕は物理をベースにした科学者だけど、「数」について、いろいろ考えている。その時、つくづく感じるのは、「ちゃんと教えてほしかった」ということだ。


2017年8月7日月曜日

子供とプログラミング

プログラミング必修化

小学校でのプログラミング教育が必修化されます。各所で対応に向けた議論が活発化しています。
プログラミングを学ぶことはよいかどうかは、微妙です。特に、子供にプログラミングを教えるのは問題が多いと思います。それは僕自身の経験です。

中2でプログラミング

僕は中2の夏前からプログラミングを始めました。父親が、何を思ったのか、当時マイコンと呼ばれていたPCもどきを買ってきたのです。今とは違って、プログラミングしないと何もできません。だから、僕もプログラミングを始めたということです。
プログラミング言語はBASICでした。BASICでは、PRINTとかFORとかNEXTとか英単語が多数使われます。中2の英語力では、それらは単なる記号でした。僕はそれらが英単語だと思ってませんでした。つまり、プログラミングの前に言語そのものの知識が不足していたのです。
それは、小学生だったらもっと顕著になります。英単語を使うようなプログラミング言語は小学生には向きません。

Scratch

英単語を用いないプログラミング言語ということで整備されているのがScratchという言語です。英単語の代わりに、図案化されたブロックを並べてプログラムを構成します。うまくいくように思いますが、いろいろ問題があります。
日本語化されていますが、微妙に漢字が使われる点が問題です。以下は、Scratchの例です。

問題は、「押」という漢字です。小学生で習う漢字に「押」はありません。そのように、所々に習っていない漢字がちりばめられています。これを修正するのはなかなか大変です。
見てわかりますが、Scratchは、プログラミングにおける制御語を図案に変更しただけのものです。これがどれほど子供向けなのかわかりません。それから、いろいろな動作をメニューから選択するようになっていますが、それはわかりやすいとは言えません。ビジュアルの操作が多くありますが、そのせいで、メニューが複雑になっています。言語環境としてはかなり複雑です。

若い人はプログラミングをしない

プログラミング教育を強化しようという背景には、プログラマが不足しているという現実があります。特に若い人がプログラマを目指さないのです。
従来、プログラマというのは薄給のきつい職業でした。でも今は、それほどではありません。にもかかわらず、人材が不足気味です。というのも、高校卒業時点でプログラミングしたことのある人がほとんどいないからです。だから、プログラミング教育を推進しようとなっています。その根拠は、プログラミングに触れる機会が学校教育にないからだ、というものです。
しかしながら、高校のカリキュラムには、情報という科目があり、平成24年までは、情報Bという科目でアルゴリズムまで踏み込んで教えていました。しかしながら、内容がそこそこ難しく、PCを用いた実習が必須であることから、ほとんどの学校で履修していませんでした。脱ゆとりの改定で、情報は2科目になり、情報B相当科目がなくなりました。その背景には、情報Bを入試で採用する大学がほとんどないことがありました。

そもそもなぜプログラミング教育が敬遠されたのでしょう?それは、学校で教わるプログラムと巷にあふれるソフトウェアの間に、大きなギャップがあるからです。学校でのプログラミングをいくら続けても、世の中で役立つソフトウェアに到達しそうにないのです。実際、一流のソフトウェアを書こうとおもったら、かなり多くの訓練が必要です。それは学校教育では無理なのです。
それこそ若い人がプログラミングを敬遠する理由でもあります。今は、ソフトウェアの開発環境はほとんど無料で手に入りますし、情報もあふれています。僕の若いころに比べると、プログラミングを始めやすい環境です。でも、プログラミングを学ぼうとすると、情報が膨大すぎて、初心者は戸惑います。また、自分でプログラミングしなくても、ほとんどのソフトウェアを探し出すことができます。そんな中で、苦労してプログラミングして、今いちパッとしないソフトウェアを作ったとして、どれほどの価値があろうか、ということです。そういう、コストパフォーマンスの悪いことはやらない、というのは正しい判断だと思います。

それでも、誰かがソフトウェアを作らないといけなくて、人材育成が必要です。プログラミングには明らかに適性があります。適性のない人はいくら努力してもかわいそうなだけです。だから、適性のある人を見つけて、その人にプログラミングしてもらうことになります。そのためには、まずすべての人について適性があるかどうかをテストするというのがソリューションになります。高校では受験が近すぎて、受験に関係のないプログラミングを試してもらえませんでした。だから、受験とは関係のない小学生にやらせよう、という計画なのかもしれません。

プログラミングの良いところ

プログラミングができるとどんな良いことがあるでしょう?

数学は得意かもしれません。多くの数学者は良いプログラマでもあります。通じるものがあることはわかっています。しかしながら、具体的にプログラミングの何と数学の何が共通しているのかは明らかではありません。僕が感じるのは、プログラミングでは極めて複雑な論理を扱うということです。高校数学の難問の10倍くらい複雑というのはざらです。だから、そういう難しい数学の問題が楽勝になります。でも、そういう問題って数が少ないので、得点力にはつながらないんですよね。

細かいところまで理解しておかないとプログラミングできません。なので、優秀なプログラマは物事を精密に深く理解する傾向があります。多くのことを素早く理解するという受験勉強にはやや不利ですが、一度理解できれば、応用力に優れます。

物事を順序だてて、網羅的に調べることができるというのも、プログラマの特徴です。プログラミングが得意な人は、PCのトラブルに強いという傾向があります。これは、様々な選択肢を順序だてて網羅的に検証するという能力と関係があります。おそらく、プログラミング教育で最も期待されている効果だと思います。

プログラミングでは、集中力や忍耐が必要とされます。そういうのは勉学にも有利な性質です。加えて、自分の力で問題解決するという性向も重要です。これも、勉学に有利に働きます。だから、プログラミング適性の高い子供は勉強も得意で、知能が高いとみなされるはずです。プログラミングはそのような子供をピックアップするうまい方法だと思いますが、逆は不明です。すなわち、勉強のできる子はプログラミングもできる可能性が高いけれど、プログラミングを頑張ると、勉強ができたり、知能が高くなったりする効果が期待できるとは限らない、ということです。

プログラミング教育によってプログラマは育つか?

おそらく、多くの専門家は懐疑的だと思います。プログラミング教育によって、プログラミング適性のある子どもを選抜することができるでしょう。ただ、そういう子供がプログラマになるかどうかは別の問題です。プログラミングの適性は、数学の能力と相関します。数学の能力が高いと、化学や物理にも強くなります。必然的に理系科目の得点力が高く、大学受験で有利になります。大学受験で有利ということは、別にプログラマを目指す必要が無いのです。僕の場合はそうでした。

今、プログラマは復権の兆しがあるものの、あまり良い地位とはみなされていません。プログラマの多くは高卒で専門学校に通い、就職します。通常の高卒よりは収入が高くなりますが、時給換算すると効率が良くないと考えられています。というのも、プログラミングが好きというのと、プログラミング適性があるというのは、別物だからです。この分野は特別で、適性があるのとないのとで10倍くらい効率が違うのは当たり前です。だから、適性のない人が寝ずに働いても、適性のある人の足元にも及びません。プログラマに纏わる多くのダークな伝説は、プログラミング好きな適性の劣るプログラマの話です。
プログラミング教育が普及すると、そのような不幸なケースを減らすことができるかもしれません。

プログラミング教育はプログラミングすることではない

小学校で採用が検討されているScratchというプログラミング環境は、ちょっとしたゲームなんかも作れて、楽しいかもしれません。でも、Scratchで作成したソフトウェアは一般社会で通用するようなものにはなりません。Scratchを学んだ先に通常のプログラマになるというキャリアパスは想定されていないと思われます。
ではなぜ、そのような回りくどい方法を取るのでしょうか?一つは、日本語すら勉強中の小学生に、英単語が多数登場する通常のプログラミング言語を教えるのに無理があるので、英単語を使わないScratchなら大丈夫だろう、ということなんだと思います。つまり、苦肉の策としてScratchのようなプログラミング環境が考え出されたわけです。それは極めて後ろ向きの理由です。
別の理由として、プログラム言語ではなくて、プログラミングに付随するプログラミング的な考え方を教育したいということが考えられます。プログラミング的な考え方とは、「できること」を多数組み合わせて、高度な作業を実現する能力です。多くの場合、何かの作業に対して、「やり方」を教わります。作業と「やり方」は1対1に対応することが原則です。ところが複雑な作業では、「やり方」も複雑になるし、複雑な作業は単純な作業より種類がはるかに多くなります。「やり方」を覚える学習法だと、複雑な「やり方」を途方もない数、覚える必要があります。現在の受験システムはそのような「やり方」をいくつ覚えているかをテストする傾向にあります。
すぐにわかることですが、無数にある「作業」に対して一つ一つ「やり方」を覚えるという学習法は非効率です。だから、「やり方」を組み合わせて、複雑な作業に対応するような学習法に移ってゆきます。ただ、それは限界があります。というのも、複雑さが増してゆくと、複雑な作業を例示すること自体が極めて複雑な作業になってくるからです。教材には適しません。プログラミングの学習ではその逆を行います。単純に見える作業を細かい作業に分割し、プログラムという形で再構成します。
よくある作業の例に、インスタントコーヒーを淹れるというものがあります。僕たちはなにげに作業をこなすものですが、手順をきっちり書き下すと次のようになります。

  1. お湯を沸かす
  2. 清潔なカップを用意する
  3. カップに小さじ1杯のインスタントコーヒーの粉を入れる
  4. 必要とあれば粉クリームを適量カップに入れる
  5. カップにお湯をおよそ150cc注ぐ
  6. カップをカップソーサーに置き、ティースプーンと砂糖を添える

いくつかの手順は場合によっては省略できますが、それを省略するかどうかという判断を僕たちは無意識のうちに行っています。プログラミングとは手順を書き下す作業ですから、プログラマにとってはこのような手順を示すのは造作もありません。でも、普通の人にとってはそれほど簡単ではないと思います。例えば、カップを用意してからお湯を沸かすのではなく、最初にお湯を沸かすことで、作業を効率化できます。コーヒーの量を小さじ1杯と具体的に記述することもとても大事です。量を記述する点は、お湯を注ぐ場面でも同様です。これをお客さんに出す場合には、カップの取っ手やスプーンの向きも指定することになるでしょう。
このように、日常生活においても、プログラミングの題材は転がっています。だから、プログラミングを学習するのにプログラミング環境(言語)は必須ではないという考え方があります。それでもあえて、プログラミング環境を使うのは、正解がはっきりするからです。人間相手の手順書では人間が手順書の不備を自動的に補ってしまうので、手順書が不正確であっても問題が顕在化しにくいのです。一方、コンピュータ相手の手順書は不備があると想定した動作・結果になりません。不正解時のフィードバックがはっきりしているのです。その結果、自力で正解を見つけるインセンティブが発生しやすいのです。

プログラミング適性は能力というより性格

僕が見てきた多くの友人・学生の中で、プログラミング適性を持つ人の共通点として、特定の性格・性向を持つということに気づきました。最も重要に思うのは、独立心です。プログラミング適性が認められる人は、何事に対しても自力で取り組もうとする人ばかりです。何か、事に当たるとき、人を集めたり、頼ったりするタイプの人はプログラミングができません。この相関の理由は、プログラミングの作業というのが他人の力を頼れないものだからだと思われます。プログラミングというのは手順を記述する作業です。一度手順を作ってしまえば、二度とその手順のことを考える必要はありません。
多人数での共同作業には2つの種類があります。一つは、作業を「共有」する方法です。すなわち、同じことを多人数で行い、一度にたくさんの成果を得ます。しかしながら、手順がたくさんできてもうれしくありませんので、プログラミングではこの点でのメリットはありません。
もう一つの方法は部分を「分担」する方法です。手順作成を部分に分割するとつなぎ目のところで不整合が起こりやすくなります。なので、分担できる部分は枝葉のように独立している必要があります。本流と支流を整理し、手順作成作業を分割するというのがSEの本来の役割です。それを踏まえても本流の一番難しい部分は基本的に一人が担当します。そういう一番難しい部分をミッションクリティカルと呼びますが、ミッションクリティカルを担当するのは常に一人です。プログラミング適性というのは、そういうことを担当する覚悟ができているかどうか、というのが大事のようです。

覚悟の部分において、プログラミング適性はどちらかというと男性向きの性質のように思えます。しかしながら、女性にもプログラミング適性の高い人が多く存在します。ただし、明白なパターンがあります。それは、女性がしばしば形成する仲良しグループにおいて、絶対的なリーダーか、しりぬぐい役かを担当する人です。
女性は失敗を極端に嫌う傾向があり、何かの共同作業をする際、自分が得意なことを率先して行う傾向があります。多くの場合、円滑に作業が進みますが、難しいパートが残る傾向があります。すなわち、とても難しいパートが残って作業が完成しなくて、途方に暮れる、という場合です。非常に能力の高いリーダーがいる場合、そういう難しいパートをリーダーが無理して担当する場合があります。そのような経験を繰り返すと、自力で何とかするという人格が形成され、プログラミング適性の高い女性が出現すると思われます。そのような人は、リーダーシップにも優れるので、極めて有能なSEあるいはプロジェクトマネージャーになります。
あるいは、性格がよりおとなしい場合、残りものばかりを担当するようになるかもしれません。女性のグループにおいて、残り物の作業は難易度が高いので、いろいろな能力が鍛えられて、優れた能力をもつ人材になります。そのようなしりぬぐいタイプの人も困難な作業に耐えることができるので、プログラミング適性が高くなります。

男性の場合は、内向的な人が多いように思います。内向的で他者の助けを頼みにくい人は、自力で多くの課題をこなす必要があるので、困難に対する耐性が高くなります。ただし、集中力や忍耐も併せ持つ必要があります。内向的であっても、前向きでなければなりません。いわゆる単純なオタクはプログラミング適性が高いとは限りません。プログラミング適性はクリエイティブである必要があるので、既成の何かを集めたりする性向(コレクター気質)とは対極にあります。

プログラミング適性の極端に高い人は、すべての課題を自力解決する性向があるので、他者から頼られることがあります。その場合、一方的に成果を搾取されることになります。搾取を減らすために、友人を減らすような人格が形成される場合があります。通常は、友人の数と課題解決力が直結するわけですが、自分の課題解決能力が友人たちの総和より大きい場合、友人はメリットにはならないという理屈です。極端なプログラミング適性は一般人の100倍以上と言われているので、友人が何人いようと、誤差なのです。
プログラミング適性を持つ人の多くは、他人の言うことを聴かなかったり、対人関係に問題があったりします。そのため、その能力が当人の幸せに結びついている例はまれかもしれません。少なくとも、僕の経験ではそうです。僕は比較的恵まれていますが、そうでない人を多く知っています。経済とか社会の都合で、そのような人を増やそうというのはちょっとどうかな、と思うのです。

誰のためのプログラミング教育か?

プログラミング界のレジェンドDonald Knuthはプログラミング適性のある人は50人に1人と言いました。しかも彼は、受けてきた教育、職業、性別に無関係だと言っています。それはつまり、コンピュータの存在しない時代に生きた人の中にも、プログラミング適性を持つと推定される人物が少なくないということです。Knuthが例として挙げたのは、フーリエ級数で知られるFourierです。Fourierは数学者として知られていますが、もともとは判事です。
Knuthはコンピュータサイエンスの教授ですから、多くの学生と接した経験に基づいた見解です。それはつまり、コンピュータサイエンスを学んだ学生においても、真にプログラミング適性を持つ人は50人に1人だというのです。そして、プログラミング適性を持つ人は、プログラミング適性を持たない人に比べて、最終的に100倍程度のプログラミング能力を持ちます。つまり、プログラミング適性を持たない49人の能力の総和が49に対し、残り一人の能力はその倍に及ぶということです。だから、プログラミングの教育では、一人一人の能力を向上させるのではなく、適性を持つ1人を見つけ出すということが重要だということです。それはもはや教育ではありません。重大なのは、それが、プログラミングを教える教授の見解だということです。
たった2%の人材のために、98%の無駄を許容するのか?というのが本来の議論のはずです。プログラミング適性のある人の能力が100倍に及ぶということは、そうでない人は努力するだけ無駄だということでもあります。

米国で成功を収めている新興企業のCEOの多くがプログラマだという話があります。でもすべてのプログラマが大成功しているかというと、むしろそれは逆です。プログラマでないとCEOとして適切でないかというとそういうこともありません。プログラマというのは、問題解決のための手順の作成に長けた人たちです。つまり、企業活動において特定の問題を解決できることはビジネス上の大きなアドバンテージであり、その方法を考え出すことが成功の秘訣であり、その方法をわかりやすく説明し共有し、大規模展開することが企業活動そのものなのです。それはプログラミング的な考え方が活躍する場面ではありますが、プログラミングそのものではありません。

僕のプログラミング教育法

僕は、これまで何名かの学生にプログラミングを教えてきました。僕が徹底して学生に教えるのは、勉強すべき対象はプログラミング言語ではない、ということです。そのため、僕は原始的なプログラミング言語を選んで使います。そして、最小チューリングマシン定理の話をします。すなわち、基本要素の組み合わせだけで、どんな複雑なシステムも表現できる、ということは、複雑なシステムを学ぶより、基本を徹底したほうが役に立つ、ということです。プログラミング言語における基本要素は、変数・演算・条件分岐・ループ・配列・関数定義・基本入出力(インターフェース)の7つの要素です。文法事項の学習は1時間もあれば終わります。

最初は、ターゲットを絞り込みます。僕は仕事柄複雑な計算を行うので、ループを含む計算がプログラミングの対象になります。ほとんどの計算は、ある種のパターン化されたフレームワークで事足ります。プログラミングの中心は、ループの中に記述する数式になります。だから、プログラミングと言いながら、実態は数式の議論になります。そして、数式を数式のままにしておくのではなく、書き下して数字にすることを考えます。
つまり、プログラムで実現したいことを数式で表し、その数式の具体的な計算法を書き下すということが、プログラミングの中心なのです。それは、確かに、プログラミングではありますが、プログラミング言語は最後の段階に至らないと出てきません。
自分のやりたいことを数式で表現するという部分がもっともプログラミングらしいところです。先のコーヒーの例では、ティースプーンを使ってインスタントコーヒーの粉を計量するという部分が、数式で表現するということに対応すると言うと、わかってもらえるでしょうか。
プログラミングとはプログラムを書くことではないのです。手順を具体的に書き下すことなのです。手順が完成してしまえば、他の人はその手順に従って作業に当たることができます。それはある種のリーダーシップです。しかも、極めて効率的です。ビジネスに対応させれば、優れた経営者となるでしょう。仕掛けが、わかりましたか?

21世紀のビジネス

グローバル化が進むと、言語や考え方が多様化し、会社組織の統率が難しくなります。なるべく単純な言語的手段で具体的な手順を伝えるというプログラミング的なコミュニケーションは、言語のハンデや思想の違いを、楽々と越えます。すなわち、21世紀のビジネスでは、プログラミング的な単純明快さということが、リーダーシップを構成する重要な要素であるということです。それは、忖度とは対極にある考え方です。

問題解決のための手順は自明でないことがほとんどです。効率の良い解決手段を素早く見つけることがビジネスにおける勝負所になります。自明でないというのは、解決手順が複雑ということです。複雑とは、ステップが多いということです。多数のステップをもろともせず、着実に解決に至る手順を見つけ出す能力があれば、ビジネスにおいて勝利の可能性が高くなります。その能力は、プログラマが普段トレーニングしているものです。それはプログラミングを学ぶ理由になるかもしれません。

プログラミングの能力がビジネスで有利であるかもしれないことは認めます。が、それはプログラミング教育を必須化する理由としては十分ではありません。

プログラミングには、適性があり、適性は性格が左右すると考えられます。それはつまり、先天的要素が強いということです。プログラミング教育の必須化は「ふるい」にしかなりません。ふるいによって取り除かれる大多数の立場どうなるのでしょう。あるいは、ふるいによって選抜された子供に対して、適切なケアを考えているのでしょうか?100倍の能力差というのは、他の分野では経験することのない差です。たとえて言うなら、時速3Kmの歩行者と時速300Kmの新幹線くらいの能力差です。大人と子供の差なんてかすんでしまうくらいのものすごい差です。それらを同じ教室にとどめていられるわけがありません。
プログラミングを教えるや否や、適性のある子どもは、あっという間に教師の手に負えなくなるでしょう。当初、文科省は喜ぶでしょうが、圧倒的なタレントの処遇に困るはずです。僕はプログラミングを始めて1か月でゲームを書いていました。そのような子供を適切に教育する方法は今のことろありません。能力を伸ばすには、他の子供たちから隔離して英才教育するしかありません。そのための仕組みはないし、教師もいません。

今のところ、プログラミング教育の導入は、大多数の落ちこぼれと、ごく少数の集団不適合者を産み出すだけの結果になる気がしています。

2017年7月25日火曜日

深く考える

自分で考えろ!

というのは、説教する時の常とう句です。あるいは、学校の先生の常とう句に、「皆さ~ん、わかりましたね~。じゃ、自分で考えて、やってみてください」というのがあります。「考える」ってのは、とても便利な言葉です。でも、今風に言えば、「むちゃぶり」にとても近いと思いませんか?
「考える」とはどういうことなのかについて、以前、「考える機械」というタイトルで考察しました。僕は生粋のプログラマなので、思考についての自己探求能力を常に訓練しています。だからこそ、「考える」という行為のあいまいさが気になるのです。今回は、「考える」には、いろんなレベルがあるんだよ、ということを考察しました。

深く考える

僕が高校生の時、母が一冊の本を買ってくれました。というか、小学校卒業以降、母が買ってくれた本は後にも先にもその一冊だけだと思います。それは、フィールズ賞を受賞した広中平祐氏の自伝「生きること、学ぶこと」でした。字がとても小さな文庫本で、読みにくかったのを覚えています。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、「数学では、深く考えることが最も大事だ」という一節です。その言葉に感銘を受けたわけではありません。「深く」考えるというのは、どういうことだろう、と疑問を持ったのです。

当時の僕は高校生で、受験勉強もあったので、数学の勉強もしていました。ご存知のように、数学では、問題が出題されて、それに対する答えを記述するというフォーマットがあります。その「数学」では、正解を探し出す行為が「考える」なので、正解が見つかればもう「考える」必要ないはずです。であれば、「深く考える」の「深く」というのは、どういう意味だろう、と僕は思いました。正解にたどり着いても考えることをやめないということかもしれないけれど、無駄な行為なのではないか?百歩譲って、数学の一部の問題には、別解というのがあるので、すべての別解を見つけ出すというのが、「深く」考えるということなのか?なんて思いました。

このエピソードにおけるポイントは、広中平祐氏の「数学」と高校生の僕にとっての「数学」はちょっと違うものだということです。広中氏の「数学」は研究対象であり、未知の部分を多く含んだ「オープンワールド」です。一方、高校生にとっては、「数学」は「試験の問題」であり、正解が用意された「箱庭」です。学校教育では、内容が「箱庭」であることを感じさせないように細心の注意が払われていますから、いかに優秀な高校生であっても、数学の問題において解けないことがあるなんて、微塵も思いません。だから、数学の問題というのは、必ず存在する「正解」を見つけ出すゲーム、と短絡しても不思議ではありません。そのゲームの舞台は箱庭なので、「考え」を掘り下げても、「底」に突き当たるだけです。一方、本物の「数学」では、「底」なんてないので、どんどん「深く」掘り下げて考えることが可能なのです。

さて、それを理解したとしても、「深く」考えるとは、どういうことなのかについての答えは得られません。うんうんうなればよいのか、時間をかければよいのか。でも正解にたどり着いた後、さらに考えるというのは、どういうことなんだろう。たぶん、今の学校教育では、それがすっぽり抜けているんだと、僕は思っています。

パズル好き

唐突ですが、僕はパズルが大好きです。パズルというのは、適切な組み合わせを見つけるゲームの総称です。ルールは、きっちりと定義されていて、多数の正解の候補の中から、唯一の正解を見つけ出す、という一般的なパターンがあります。正解の候補の数が多いほど、パズルの難易度は高くなります。ルールはシンプルな方が好まれます。

学校のテストというのは、ほとんどがパズルだと僕は思います。最もあからさまなのは、計算問題です。計算というルールのもと、正解にたどり着きます。そのプロセスに分岐はほとんどないので、パズルとしての面白さは希薄です。因数分解とかになると、少しパズルの傾向が強くなります。
漢字の書き取りも、ある種のパズルです。教科書に載っている漢字のなかで、問題に当てはまる漢字や熟語を答えるゲームだとみなせます。社会科の問題も同様です。英語はもう少しパズル的です。学習範囲内の英文法(ルール)と単語を組み合わせて、英文を作成したり、英文に対応する日本語を作成したりするゲームです。理科もほとんどその通りです。
数学の一部の問題は、あからさまにパズル的な要素が含まれています。例えば証明問題とか。ただ、利用可能なルールはかなり限られていて、それらの組み合わせも多くありません。パズルとしての難易度はそこそこにとどまります。

頭の良くなるパズルというのがあって、僕は結構好きです。有名な塾の先生が考案したもので、確かに頭が良くなりそうな気がします。でももっと重要なのは、パズルにのめりこむメンタリティと学校教育の親和性なんだと思います。ぶっちゃけ、僕は大学受験までの「勉強」はパズルだと思います。

難問はパズル

以上のように、ほとんどの「勉強」はできの悪いパズルなわけですが、数学や物理の難しい問題は、もう少しマシなパズルです。というのも、知識の組み合わせが要求されるからです。知識の組み合わせは、知識単体よりも正解の候補の数が劇的に増えるので、正解を見つけるのに多くの試行錯誤を必要とします。
僕たちは、その試行錯誤を「考える」と思う傾向があります。つまり、学校教育で必要とされる「考える」とは、ルールブック(教科書)にある知識を対応させるあるいは、それらの組み合わせを検討する、ということです。
しかしながら、パズルなので、正解が存在します。そして、その正解を見つけてしまえば、その問題は用済みです。つまり、正解を見つけるための「考える」を越えて、「深く」考える必要はないのです。

正解を探す以外の「考える」

学校教育には、「こっそり」別の「考える」が設定されています。残念ながら、それはあまり重要視されていません。その分野は、「美術」です。自分の作品を制作する過程での「考える」がそれにあたります。
美術の作品製作過程では、与えらえた題材(テーマ、画材)に対して、自分なりの作品(解答)を制作します。その際、様々な要素を組み合わせ、関連付け、題材を最大限活用する工夫を施します。その過程が、美術における「考える」です。いい加減な組み合わせでも、作品としては成立するので、「考える」が少なくても文句は言われません。逆に、「考える」が多くても何の問題もありません。本当は、作品制作過程の思考過程を徹底的にトレーニングしたほうが良いのですが、時間が圧倒的に不足がちな美術では、作品そのものの製作に主眼が置かれ、「考える」がおざなりになっているというのが現状です。

美術における「考える」は他の教科と何が違うか、ということを整理すると、学校教育に足りない「考える」が見えて来ます。先に述べたように、要素を適切に組み合わせ、効果を最大化する、ということが作品制作過程での「考える」プロセスです。通常科目では限定的に組み合わせを要求しますが、美術ほど自由度は高くありません。自由度の高い組み合わせでは、候補が極端に多くなります。しかも、美術ではいくつの要素を組み合わせても作品として成立します。なので、組み合わせの数は、正確にはわからないほど多くなります。さらに、要素を適切に配置するという過程においても、無数の組み合わせがあります。それらの組み合わせを適切に選び取るには、極めて多くのことを考慮する必要があります。だから、美術における「考える」は、本来は高度で難しいもののはずです。しかしながら、多くのことを考えなくても、適当に「選ぶ」ことも可能です。美術では「考える」「考えない」にかかわらず、それほど結果に影響しないのです。だから、美術では「考える」を重視しません。
というか、芸術に携わる多くの人は、「選ぶ」ことを「洞察」に頼っています。本当は、その洞察の中に多くの「考える」が隠れているのですが、論理的な思考過程として見えにくいので、「センス」というあいまいな概念で片付けてしまっています。でも、そこをもっと掘り下げて、一流の芸術家の「センス」を分析するといろいろ面白いことがあるんだろうと僕は思っています。それはまた別の話。

試行錯誤と研究

美術における試行錯誤は、「考える」という行為に関してバリエーションを与えます。しかしながら、美術においては目的が極めてあいまいで、試行錯誤の効果が結果に反映されにくいということが問題です。すなわち、頑張っても、頑張らなくても、作品のクオリティはちょっとしか変わらない、ということです。であれば、美術が大好きでない限り、頑張る必要はないよね、となります。

残念ながら、明確な目的をもって試行錯誤をするという状況設定は、学校教育ではほとんどありません。なぜなら、試行錯誤は時間と労力と費用が必要になるからです。それらのリソースが限られているマスエデュケーションでは、そのような状況設定をむしろ避ける傾向にあります。しかしながら、何か新しいことを成し遂げようとしたときには、かならず試行錯誤が必要です。「誰か」が何か新しいことをしなければ世の中は進歩しませんから、その「誰か」が出現する必要があります。人材は突然出現なんかしませんから、教育して育てる必要があります。試行錯誤を教育するには、多くのリソースが必要なので、適切な人を選抜して資本投下することになります。その選抜の一つが大学入試です。その先にあるのは、大学における教育・研究です。すなわち、試行錯誤とは「研究」のことであって、大学において、学生が研究に携わるのは、試行錯誤の体験を通じて、新しいことを成し遂げるためのスキルを身に着けるためだと理解できます。
「研究」の過程では、通常の学校教育では避けられていたタイプの「考える」が鍛えられます。だから、学生に足りなくて、研究の現場で必要に感じるタイプの「考える」の中に「深く考える」のヒントがあると思います。広中氏は数学の研究者なので、研究対象である数学において、深く考えることは、彼にとって研究そのものです。研究者にとってそれがもっとも大事なことなのだという結論は、きわめて合理的です。

深い洞察

ここまで来てなお、美術に見られるような組み合わせの試行錯誤と「深く考える」には齟齬があります。なぜなら、組み合わせの試行錯誤というのは、要素が並列に並んでいて、「深く」が持つ「順序」とか「垂直」というニュアンスが希薄だからです。試行錯誤であれば、「広く考える」のほうがしっくりきます。
確かに、研究においては試行錯誤が必要で、組み合わせをいろいろ試すことは、大事なプロセスです。でも、組み合わせだけの研究は、あまり良い研究だとはみなされません。良い研究というのは、もっと深い洞察に基づいた巧妙な視点が必要だというのが、コンセンサスだと思います。おっと、「深い」って使っちゃいましたが、そこがポイントです。深い洞察」とはどういうことでしょう?

「洞察」というのは「勘」に似ていますが、一応、知識・論理と経験に基づいた結論のことです。そのプロセスの規模が大きいので、言葉で説明するのがおっくな場合に、「洞察」という言葉が使われます。あるいは、着眼点が素晴らしくて、ほかの人たちが見逃していたようなことがらにも使われます。
「洞察」として表にでてくるには、「着眼点」から知識・経験による考察を通じて、結論までのある程度の見通しが立つ必要があります。知識・経験による考察というのは、すなわち試行錯誤の結果です。だから、「深い洞察」には洗練された「試行錯誤」が必須です。しかしながら、試行錯誤が開始するきっかけとなる「着眼点」も同じくらい重要だと考えられています。むしろ、「着眼点」の素晴らしさこそ、もっとも重要な要素だとみなされるくらいです。ただ、「着眼点」の素晴らしさは、試行錯誤の末に辿りつた見通しの価値によって担保されるので、着眼点と試行錯誤は車の両輪のような関係にあります。

実のところ、試行錯誤は組み合わせの問題なので、基本的に誰でも実行可能です。もちろん、速い・遅いという能力差はありますが、時間さえかければ、基本的に誰でも同じ結論にたどり着くものです。だから、「深い洞察」の決定的な差は「着眼点」に尽きます。

着眼点の発見

「着眼点」が素晴らしいというときのポイントには、「ほかの人が見逃していた」というニュアンスが含まれるわけですが、なぜほかの人が見逃していたのでしょう。そして、なぜその人だけが気づけたのでしょう。
情報が過剰に流通する現代において、各個人が受け取る情報に差はほとんどありません。つまり、同じものを見て、同じものを聞いているはずです。にもかかわらず、異なる「着眼点」が生まれ、それが「研究」などの価値を左右します。
研究というのは、完全にわかっていることにどれだけ取り組んでも、成立しません。完全にはわかっていないことについて、それが正しいか正しくないかなどを明らかにすることが、研究です。このとき大事なのは、「完全にはわかっていないこと」という問題設定です。その問題設定に対して答えが出せない場合にも、研究は成立しないので、単になるわかっていない、ではだめなのです。「着眼点」には、わかってそうでわかっていないとか、ほとんどわかっているんだけど、そこだけわかっていないとか、そういう微妙な境界が多く含まれます。むしろ、そういう微妙な境界において、多くの抜け道が発見され、ブレイクスルーをもたらすのです。だから、既存の知識の中に、ほころびを見つけるということを、我々研究者は大事にします。

知識のほころび

科学というのは人類が1000年以上かけて蓄積してきた知識の総体のことです。人類の英知という言い方もします。ほとんどの知識は入念に検証され、正しいということになっています。ところが、稀に間違いも混入しています。あるいは、完全に理解できたと思われていたことに穴があることが、後になって発見されたりします。学校教育で取り扱われる知識には、そのようなことはほとんどありませんが、最先端の科学では、検証が追いついておらず、諸説が飛び交っています。だから、教科書や論文が間違っているなんて日常茶飯事です。だから、研究の現場では、既存の知識に対して疑問を持つということが推奨されます。いや、むしろ、自分の考えすら、信用していません。そういう立場・信条のことを「懐疑主義」と言います。

懐疑主義というのは、教科書等に記述されている内容に少しでも疑問を持ち、検証してみようと思い立つことです。「正しい」とされている知識に対して疑問を持っても、たいていは徒労に終わります。すなわち、時間の無駄です。「勉強」の場合には、「勉強」に要する時間が延びるということを意味します。手っ取り早く「勉強」を終わらせたい場合には、それは害悪でしかありません。だから、学校教育では懐疑主義の立場を取りません。また、教科書中では、疑問の余地を残さないような配慮がされています。だからと言って、その疑問はなくなるわけではありません。巧妙に隠されるものなのです。

当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、言うほど簡単ではありません。知識というのは世の中に無数に存在します。そのほとんどは正しいのです。また、それぞれの知識について、疑問の持ち方は一つとは限りません。だから、無数の知識の数倍の疑問の候補が存在し、そのすべてを疑うことは困難です。そして、その疑問が正当なものかどうかというのは、その疑問を具体的に詳細に検討したのちにしか結論が出ません。その検討プロセスは知識を習得するコストの何十倍、何百倍にもなります。当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、単純な勉強よりもはるかに困難で、見返りの期待値も少ないのです。にもかかわらず、そのような疑問を持たないと、素晴らしい「着眼点」は得られません。だから、疑問を持ち、検討するということを続けなければなりません。

労力を最適化するためには2つの方法があります。検討する項目を少なくするか、検討する時間を短くするかです。検討する項目を少なくすると、見落としが増えます。同じような着眼点を持ったほかの人がその見落としを活用する可能性が増えます。検討時間を短くするには、検討を途中で切り上げるという方法があります。しかしながら、途中で切り上げるとそれは見落としとなります。ある程度の見落としを覚悟するなら、そのような戦術も正当化されます。検討時間を短くする別の方法は、検討のスピードを上げることです。素早く徹底的に検討できれば、見落としを少なくすることができます。検討スピードはトレーニングによって改善することができます。また、最後まで検討を完遂する技量も必要です。というのも、検討が進めば進むほど検討が難しくなり時間がかかるようになるものだからです。どの程度検討を進められるか、ということはすなわち、「深く考える」に通じます。

結局のところ、どこに疑問を持つかは、運が左右します。はずれが多いので、あたりを見つけ出す戦略は二つしかありません。数をこなすか、徹底的な検討によって無理やり「着眼点」にたどり着くかです。現実の世界は、厳しい競争下にあるので、生半可な検討だと、他の人たちが検討済みの可能性が大いにあります。競争に勝つには、他の人たちが到達できないような領域まで検討を進めるということが大事になります。それこそ「深く考える」ということです。それでも、「着眼点」として成立するかわかりません。多くの疑問を持ち、徹底的に「深く考える」ことで、あたりに巡り合える確率を上げることができるだけです。

無理数の発見のエピソード

知識のほころびの例は、「無理数の発見」に見ることができます。古代ギリシアにおいて、ピタゴラスはピタゴラス教団という団体を組織し、数学を宗教として探求していました。ピタゴラス教団では、世界は数学に支配されており、数学の完全性に神の存在を感じていたとされています。そのピタゴラス教団では、分数が世界のすべてだと考えていました。どんなに近い2つの数を持ってきても、その隙間に新たな別の分数を見つけることができます。だから、世の中のすべての数は分数で表せると考えていました。ところが、2の平方根など、無理数が発見され、混乱したと伝えらえています。その結果、無理数の議論を封印し、なかったことにしようとしたそうです。すべての数が分数で表せるということが既存の知識だったところに、無理数がやってきて、無理数は分数では表せないということが判明するというのは、まさに知識のほころびだと言えます。文字通り、分数の世界には無理数という穴=ほころびがあったわけです。
科学というのは、既存の知識に対して、新しい知識を追加したり、修正したりして発展してきました。科学に限らず、当たり前だったことをひっくり返すことで世の中は進歩するものです。ガラケーからスマホへの転換もよい例です。ガラケーの末期には、ユーザーがプログラミングしてアプリを追加できる機種が発売されており、原理的にはスマホのようなアプリ追加型サービスがありました。しかしながら、結局はスマホの時代になりました。ガラケーという既存の常識からの脱皮が不十分だったのでしょう。携帯端末に対する「深い洞察」がスマホをもたらしたのだと思います。ガラケー時代も、年々画面が大型化し、高解像度化する傾向にありました。スマホはそれを極端に進め、端末の全面積を画面にしました。また、インターネットとの親和性も高まっていましたが、スマホはPCと同じクオリティーのインターネット接続性を実現しました。ユーザーがアプリを作ることができるということもスマホは徹底しました。スマホはほぼゲーム機と同等ですが、ガラケー時代もゲームはとても重要な要素でした。ガラケーの進歩はスマホと同じ方向性を持っていましたが、スマホはそれをより洗練し先鋭化しました。ガラケーが芋虫として成長している間に、スマホはサナギを経て蝶になった、みたいな感じです。さしずめサナギはiPodでした。
ガラケーからスマホへの進歩をもたらしたのは、ガラケーを常識としない「懐疑主義」だと思います。携帯端末として重視すべき要素を見直して、携帯端末の可能性を追求したのがスマホですが、そのきっかけはガラケーに疑問を持つことだったはずです。ガラケーについて「深く考える」ことなしに、それは成し得なかったと僕は思います。

「懐疑主義」は「疑り深い」ではない

おそらく、多くの人は懐疑主義を誤解していると思います。懐疑主義というのは疑り深くなるということではありません。僕は結構な懐疑主義者ですが、だからと言って、いやな性格のいやな奴ではないと思っています。僕の理解する懐疑主義というのは、正しいか正しくないかわからない、中立的な立場を守るということです。見たり聞いたりして得た知識について、無条件に信じたりしないということです。自分で検証し、納得した上で、自分の検証した範囲で「正しい」と考えます。納得できなければ、「間違っている」ではなくて、「正しくないかもしれない」と考えます。また、検証の範囲を超えた知識の適用も「正しくないかもしれない」と考えます。「正しくないかもしれない」知識に基づいた議論は、「正しくないかもしれない」ので、別の視点からの考察を併用し、可能性の範囲を絞り込みます。それをすべて自分の判断で行うことを徹底します。
僕は、他人の意見が正しいとは思っていませんし、自分自身の考えも正しいとは信じていません。様々な事象が矛盾なく整合すること以て、「正しい可能性がある」と判断します。ここに至っても「可能性」にとどめます。完全に正しいかどうかは、つねに保留する立場を取ります。前提条件や適用範囲が変わると、その知識は正しくないかもしれないからです。
このような「懐疑主義」は極めて面倒なものです。知識はゆっくりとしか増えていきません。でも、それでよいと僕は思っています。人類が存続する限り、僕たちの知識は1万年とか1億年とかの時間をかけて蓄積することが可能です。今、急ぐ必要は全くありません。また、積み重ねた知識の中に、疑問が隠れているかもしれません。そのような疑問を発見することはとても重要です。新しい分野を開拓することより重要かもしれません。というのも、そのような隠れた疑問を発見するには、新しい発想が必要だからです。そしてその疑問が解決されることによって、ブレイクスルーがもたらさる可能性が高いのです。それこそ、研究の醍醐味で、まさに「深く考える」ということだと思います。

広中平祐氏は数学の研究者であり、だからこそ、彼の場合には数学について深く考えることが最も大事なのです。僕にとっては、僕の研究分野において「深く考える」ことが大事であるのは、当然のことです。