2018年12月5日水曜日

ブラウン運動の勉強をしました

本読み会

僕は縁あっていろんな研究室を渡り歩きました。どの研究室にもそれぞれにさまざまな流儀があります。研究の流儀はもちろんですが、教育に関しても流儀があります。学生のみの勉強会があったり、論文紹介があったり、先生が手厚く指導したり。それぞれに一長一短があり、どれがベストかなんてわかりません。最先端の研究を強力に推進することで評判をとっている研究室では、最新の論文の紹介をやってました。ある研究室では博士課程の学生やポスドクが多くいて、先生の書いたレクチャーノートを学生だけで読んで勉強する会があったりしました。最先端ではあるけど、地味な研究分野では、最新ではない論文の紹介をしていました。より長期的な研究を指向する研究室では、論文ではなくて本(教科書)を輪読していました。みんなで教科書を読むというスタイルが僕の好みです。

教科書や論文にかかわらず、文章の読み書きにはある種の技術が必要です。僕の経験では、学生ではその技術が未熟です。だから、本読みの技術を高めることがとても大事だと思っています。多くの研究室ではそれは英語の論文を読むことで鍛えられると考えられています。でも僕はやっぱり母語でやったほうが手っ取り早いと思います。ただ、母語でやる場合、単に読むだけでは、読む技術のポイントがスルーされるので、適切な指導者がつく必要があります。大学の先生方の中には、学生に手間をかけられない人もいますので、そういう研究室では学生のみの英語本読み会が行われる傾向にあるように思います。
英語に関しては、学生のスキルはさらに貧弱です。これは日本の教育システムの欠陥だと思います。だから、学生だけで英語の本読み会をすると、すっちゃかめっちゃかになる場合があります。ポスドク以上の人ががきちんとついていれば、まだましなのですが、そのような余裕のある研究室は稀です。そのような事情ですので、どのような教育関連イベントを保持しているかで、研究室の性格がおおむねわかるように思います。

本の選定

幸い、新しく自分の研究室を立ち上げるという機会に恵まれたので、これを機に思いの教育システムを構築したいと思っています。その手始めに始めたのが、「本読み」です。目的は「学生に本読みスキルの低さを自覚させ、新たなレベルの読解力を目指す」というものです。その目的であれば、日本語が良いでしょう。長々とやってるわけにもいかないので、短めの薄い平易な本。トピックスは何でもよいとしました。学生が選んだのは、「乳酸菌」のハンドブックと「ブラウン運動」に関する数冊の本でした。

僕は「研究と直接関係しなくてもよい」という条件を設定していたのですが、さすがに「乳酸菌」はびっくりしました。ただ、その本はハンドブック的なもので複数の専門家が専門家のために書いたものの寄せ集めです。読み始めるには、生化学の基礎知識が必要です。しかも、ハンドブックなので散発的なトピックスの寄せ集めで分野全体がわからないでしょう。ページ数もとても多いものでした。そしてなにより、複数の著者が別々に書いているので過不足があるでしょう。そういうものは教科書としてはあまりよくないのです。なので、慎重に却下しました。僕は生物物理の研究室にいたこともあるので、生化学の基礎知識も少しあります。だから、内容に関しては特定の章だけということにすれば条件を満たします。却下の最大の決め手はページ数でした。特定の章を読むにしても、章が多いので各章のカバーする範囲は狭くなります。必要最小限の章を厳選するにしても、ページが多いのです。
ブラウン運動に関しては、3冊ほどの候補がありました。そのうち一冊はなんと経済学の本でした。ブラウン運動は最終的には確率過程の議論にたどり着きます。確率過程は、物理系では信号理論以外ではお目にかかりません。しかし、現代経済学では基礎理論の一つになっているのです。というのも、現代経済学は「経済」という確率現象を取り扱う数学の一分野になっているからです。もう一冊は図書館に蔵書がなく、すぐには内容確認できませんでした。最後の一冊は物理学OnePointシリーズの小さな薄い本でした。最後のものが僕の条件にピッタリあうので、3か月を目標に週1回で本読み会を始めました。

本の読み方

日本語の本を輪読する場合、「何をすべきか」というのがあいまいになります。英語の本なら、翻訳をすれば80%くらい完了ですが、日本語ではその作業が必要ありません。何をすべきかというのが学生にはわからなかったようです。
僕は「要約を作る」ことを指示しました。「要約」というのは、中学校ぐらいの国語で学ぶはずですが、きちんとした指導はなかったように思います。単に、文章を短くすること、くらいの意味に思う人が大半だと思います。でも本当は違うのです。僕は言語能力が低いので、こういうことを感覚的に理解することができません。とっても苦労して、「要約」という概念の理解に至ったのですが、結論としては簡単です。「要約とは段落1個を1文にしてゆくこと」です。もちろん、原則なので厳密でありません。でも、これを意識すると機械的に要約を作成することができます。逆に一文を段落に膨らますという作業が長文を作成するコツになります。すなわち、文章の骨格を箇条書きで編集し、各項目を段落に膨らますと、首尾一貫した長文になります。これは論文作成時のテクニックの一つです。意識する・しないにかかわらず、実践している人は多いはずです。それを逆に行うのが「要約」です。

僕たちの行った本読みでは、担当者が各段落を要約し、その要約で不明な部分に対して参加者たちがツッコミをいれます。答えるのは基本的に担当者です。ただ、理解が浅いことが多々あります。なので、僕がツッコミを入れたり、補足したりします。
ツッコミポイントの設定には一定の決まりがあります。難しい点とかややこしい点というのはわかりやすいツッコミポイントですが、それ以外に、文章があいまいなところが重要なツッコミポイントです。僕たちは、教科書というのは間違いがないという前提で勉強をしがちなので、教科書の記述に疑問を感じないように訓練されています。そのため、あいまいな記述があっても、それを鵜呑みにしてしまう傾向があります。研究者として経験を積むと、玉石混交の論文の世界を肌で感じたり、自分自身が教科書を書いたりする機会が増え、文献と言えども不正確な記述がまかり通っているという現状を思い知ります。そのため、教科書を頭ごなしに信じないようになっているものです。でも、学生たちはそうじゃないので、そのための訓練をするわけです。スタンダードな教科書であっても、論争が存在するトピックスや、完全な証明に至っていない「仮説」が含まれています。そういった部分の記述は往々にして「あいまい」になっているものです。著者の「迷い」や「不理解」がにじみ出てしまうからです。そういう部分を抜け目なく見つけるには相当な訓練が必要ですから、それを例示するのは指導者の務めだと思うのです。

僕たちの本読みは3か月の予定でしたが、結局4か月かかりました。ま、割と順調だと思います。

著者と編集者の問題

比較的あっさりしていて、読みやすい感じの本でした。ただ、いくつかの不満があります。それは肝心の議論において、記述不足や論理的整合性の不備が散見されることです。その一つは「プランクの空洞放射エネルギーの量子化」に関する記述です。原子論が受け入れられるかどうかの時代のアボガドロ数の発見に絡む逸話として取り上げられているのですが、僕にはつながりが理解できません。もっと言えば、おそらく著者は空洞放射というものが何なのか知らないのではないかという疑いがあります。
そもそも空洞放射という現象に科学者が注目したのは、ガラスや陶芸の窯の温度を職人たちが窯の内部の「色」で正確に推定しているという事実があったからです。熟練すると1000℃以上の窯の温度を10℃くらいの誤差で言い当てることができるそうです。ここから色と温度の関係の存在が推定されます。当時の科学者はこれを研究したのです。
そのうち、高温状態だけでなく、低温においても放射が認められ、「黒体輻射」と名付けられました。高温での放射と低温での黒体輻射はちょっと違うスペクトルを持つのですが、プランクの「思いつき」によって統合されるわけです。そこにボルツマンの悲劇がからんでくるのはとても有名な逸話です。
プランクの提案したスペクトルのカーブにおいて、アボガドロ数は強度に関する比例定数として含まれます。プランクたちの議論はスペクトルの形状に関するものであり、強度の絶対値はプランクの議論からは決定できません。だから、空洞放射の議論をアボガドロ数の存在例として挙げるのは不適切だとおもうのです。この本ではかなりのページ数を割いていて、空洞放射の議論がアボガドロ数が認められるための重要イベントだと、著者が考えていることがわかります。

ほかには、「エネルギー等分配則」が挙げられます。この言葉は本のいたるところで出てくるのですが、それがいったい何者で、ブラウン運動の議論とどのようにつながるかが、一切触れられていません。エネルギー等分配則は成立することが自明ではありません。エネルギー等分配則が成り立つにはその背景に頻繁なエネルギー交換現象が存在する必要があります。それはブラウン運動であることが多いのです。つまり、エネルギー交換則を認めてブラウン運動を論じるのではなく、ブラウン運動によってエネルギー交換則が説明される、という文脈でなければなりません。その部分の議論がすっぽり抜けています。

ちょっとあきれるのは、微分方程式の解法が論理的な整合性を欠くことです。比較的一般向けの本なので、微分方程式は極力避けて必要最小限のとどめています。だからこそ、その部分は丁寧に記述するべきだと思うのです。ところが、その記述はどこか別の教科書からのコピペっぽくて、説明の文章と式の展開が整合していないのです。特に、非同次の場合に不整合がみられます。おそらく、著者は非同次の微分方程式を自力で解くことができないのだと思われます。有名な理論物理学者なのにね。
ま、専門家には往々にしてあることです。微分方程式なんかは「みんなできる」ことになっている科目ですが、本当のところは違います。ほとんどの人は「裸の王様」状態なのです。専門的な研究では基本の微分方程式を改変して調べるので、多くの場合非線形です。解けるタイプではないため、解析的に微分方程式を解くことはめったにありません。解ける場合は珍しいので、誰かが論文にします。なので、自力で微分方程式の解析解を出せなくても、研究には一切差し支えありません。その状態で「自分は裸の王様でした」とカミングアウトすることはとてもできません。でも、教科書、とくに初歩的な教科書を書くと、バレるのです。微分方程式を自在に解ける人は、実はほとんどいないので、できなくても本当は恥ずかしいわけではないのですけどね。とにかく、微分方程式に絡む部分ではことごとく「しったかぶり」な記述になっています。わからなければ、わからないと吐露するか、あるいは参考文献を挙げるにとどめるというのが科学者としてのマナーです。知ったかぶりは最低です。

あるいは、ページ数の制限によって説明を省略しているとも考えられます。これは編集者の判断が大きく影響します。編集者の判断によって内容の割愛がある場合には、割愛された内容が存在することを示し、補足するための方法(アドバイス)を記述するべきです。そういうのはどうも見当たらないのです。底の部分は著者の責任です。

でも読んでよかった

いくつか不満はありましたが、総じて興味深い本でした。僕はブラウン運動を真面目に勉強したことがなかったので、いろいろ発見がありました。最も感心したのは、ブラウン運動に関するアインシュタインの議論の出発点が、浸透圧だったことです。実のところ、アインシュタインは世間で言われているほど天才ではないんじゃないかと思っていました。でも、この議論はアインシュタインの天才を感じるものでした。
浸透圧は高校で学ぶような基礎的でよく知られた現象です。浸透圧の法則は気体状態方程式に似ている単純なもので、しばしば計算問題に登場します。それでわかった気になるものです。僕ですら、浸透圧というものがいったい何者なのかというのは特に注意してきませんでした。でも、よく考えると、なぜ束一量(モル数に比例)なのか、なぜ粒子や溶質の種類に依存しないのか、ということはきちんと説明されません。浸透圧には、そういうちょっと正体不明な部分があるのです。
アインシュタインは溶質粒子1個の浸透圧を考えることで、それがどのような影響を及ぼすかを考察しました。その結論として、浸透圧の元になる粒子の熱的運動が、条件が整いさえすれば直接観察可能であることを示しました。それはすなわち、ブラウン運動だったのです。
実のところ、この時、粒子が持つ平均の運動エネルギーが$kT/2$であり、熱エネルギーなのです。粒子は他の粒子(溶媒も含む)と衝突するので、時々刻々のエネルギーは変化します。それでも、溶媒・溶質関係なく、一体として運動する物体の重心位置の運動を考えるとすべての粒子の運動エネルギーの平均値は1自由度当たり$kT/2$になっています。これが成立するためには、エネルギーの交換が頻繁である必要があります。これこそが、エネルギー等分配則の正体であり、僕たちが「温度」と呼ぶ状態量なのです。

もう少し厳密に言うと、溶質粒子1個にも浸透圧が生じるはずなので、その浸透圧が溶質粒子を「押して」、溶質粒子は速度を持ちます。その速度は周りの溶媒との摩擦(粘度)で急速に減衰します。系は疑似的に閉じているので、減衰した速度のエネルギーは溶質粒子の浸透圧に戻ります。こうして、無限に繰り返されるので、粒子の速度に関しては不定です。でも粒子の速度分布(速度の標準偏差=二乗平均)については有限の値を持ちます。速度の二乗平均に質量をかけて2で割ったものが運動エネルギーなので、粒子は有限の運動エネルギーを持つことがわかります。これはブラウン運動です。こうして、ブラウン運動と浸透圧が同じ現象であることが結論されます。その時、エネルギー等分配則も「ついで」に理解されるのです。

この議論を知って、僕は脱帽しました。アインシュタインは天才です。僕もこのような考察をするチャンスは十分あったと思います。でも、僕はできなかった。気づかなかった。そこには圧倒的な差があるのです。
逆に、アインシュタインはなぜこんなことを考えたのでしょう?一つは、浸透圧という正体不明な現象を徹底的に理解しようと努めたことが挙げられます。アインシュタインは当初ブラウン運動のことを知らずに論文を発表しました。だから、アインシュタインがブラウン運動の研究をしようとしていたわけではないことがわかります。アインシュタインは浸透圧を理解したいと思っていたはずなのです。その中で、浸透圧が溶質粒子の運動から生じるものだと気づいたのだと思います。ではその運動を見てみたいと思うのは人情です。理論物理学者としては、その運動が観察できるとしたらどのような条件かを計算すべきで、アインシュタインはそれを実行したわけです。
そもそも、浸透圧に対して僕たちが抱くイメージは連続的なものです。溶質粒子1個の浸透圧なんて想像したことがありません。でもアインシュタインはそれを行いました。当時の時代背景として原子仮説の議論があったことは重要かもしれません。すべての原子、分子は最終的には1個2個と数えることができるものだ、というのは、今でこそ当たり前です。でも当時はそれが確定していませんでした。すべての現象を原子論によって書き直してみようという機運があったと思われます。その一つとして、アインシュタインは浸透圧の問題に原子論を適用してみようと思いついたんじゃないかな。

学生さんとの読み合わせなんてことをしない限り、僕がこんな薄っぺらなブラウン運動の本を読むことはなかったでしょう。ブラウン運動の勉強をせずに一生を終えていた可能性すら大いにあります。そうしたら、アインシュタインの素晴らしい発想力に触れることもなかったでしょう。
僕は自分のことを、勉強や研究に関して抜け目がない、と評価していました。でも、今回大いに反省しました。もっと注意深く世界を見ないといけないと思いました。

2018年6月30日土曜日

アダムスミスを勉強したことありますか?

働き方改革、通っちゃいました。

働き方改革関連法案が成立しましたね。「高プロ」という概念が物議をかもしています。
今回の法律が良いか悪いかは別にして、日本人の働き方は改革すべきだと思います。理由の一つは、給料の問題です。そして、ワークライフバランスも問題だと思います。それから、ワンアウト退場システムをやめるべきだとも思います。
最近の政治は、対処療法に終始していて、その方策には「知恵」が感じられません。人々も物事を深く考えることはせず、対処療法を歓迎している気がします。ビジネスではPDCAを繰り返すことが強く死傷されていますが、これはすなわち対処療法を続けるという思想です。
そもそも、対処療法を続けるのは日本人の得意とするところです。しかし、ガラケーの衰退にみるように、時折、本質的な転換があって、なすすべなく負けるわけです。PDCAは普段の努力としては良いですが、それと並行して根本的な問題解決の努力もすべきだと思います。
今回の働き方改革は、主に経営者からのリクエストにも届くPDCAサイクルなわけです。問題点は2つ。対処療法であることと、労働者視点が希薄であることです。労働者視点での根本的な問題を掘り下げて見たいと思うのです。

給料の問題

常勤労働者の平均給与に関する統計というのがあって、僕は驚愕しました。


この統計はなかなかに衝撃です。ここ30年で給与は上がっていないどころか、下がっているのです。一方で、別の統計もあります。


ここでは10年間で、アルバイトの時給が20%程度上昇していることが示されています。パート・アルバイトでは深刻な人手不足にあることが、その原因という分析ですが、本当にそうでしょうか?

労働区分における労働意識の違い

パート・アルバイトと、通常の雇用での労働者の意識の違いを考えると腑に落ちます。パート・アルバイトでは労働条件が悪いと、労働者はすぐにやめてしまいます。だから、賃金を下げることはできません。一方、正規雇用だと、労働条件が多少悪くても我慢してしまいます。そういう意識の違いが、賃金上昇率の差につながっていると思います。
この状況はアダムスミスの時代とほとんど変わりません。アダムスミスは労働者と経営者の間で1対1の労働交渉をした場合、経営者が必ず勝つと喝破しています。労働交渉中、労働者は賃金が得られないが、経営者は他の労働者を使って事業継続できるからです。なので、団体交渉権というものが労働者に認められています。
個人主義が浸透した結果、労働組合は力を失い、まともな団体交渉がなくなっています。そのため、労使関係は産業革命の時代のレベルに戻っているような気がします。にもかかわらず、アルバイトの時給が上昇するのは、労使間のパワーバランスが変化しているからだと推測できます。すなわち、アルバイト労働者は面倒で長期にわたる労使交渉などせずに、さっさとやめることで、経営者にプレッシャーを与えているのです。
アルバイト労働者にこのようなことが可能なのは、多様な労働条件の仕事がたくさんあって、一つの仕事をやめてもすぐに別の仕事を見つけられる環境にあるからです。あるいは、複数の仕事を掛け持ちしていて、一つやめても致命的な状況には陥らないからです。流動的な雇用市場とフルタイムでない労働条件が、それを可能にしていると思います。

アルバイトの事情をそのまま適用すれば、常勤労働者の給与を適正化するには雇用市場を流動化すればよい、となります。しかしながら、安定した労働環境がメリットである常勤労働者を流動化するというのは、論理的に破綻しています。

苦肉の策として副業の解禁

常勤労働者の労働市場を流動化させる地ならしとしての役割があるかもしれないのが、副業・兼業の解禁です。副業・兼業が一般化して、本業がだめになってもしばらく食いつなげるのであれば、退職をする常勤労働者が増えるかもしれません。働き方改革に副業・兼業が原則解禁が盛り込まれています。
副業・兼業が解禁となると、労働者にとっては本業にしがみつく必要性が減る、というメリットがあります。無理な転勤や過重な労働条件を拒否することが可能になるのです。それは経営者に対するプレッシャーとなり、労働者の立場を強くするかもしれません。
一方で、経営者は労働者が我慢できなるなるギリギリの労働条件を設定するようになるかもしれません。労働者は副業があるので、本業での収入が削減されても働き続けることが可能になるからです。

今回の改革では、副業・兼業の定義が実はあいまいです。副業として想定しているのは在宅での仕事だろうと思います。しかしながら、副業での収入が増えてくれば、本業の時間を削りたいという人たちが出てくるでしょう。また、副業での収入が本業の収入を上回ったとき、保険や年金はどのように取り扱えばよいでしょう?
そもそも、本業と副業を定義することは極めて難しいことです。本業と副業を区別することすらナンセンスだと思います。現在に思いても、複数の肩書を持つ人は多くいます。多くの場合は経営者であり、保険や年金の問題は表面化していません。しかし、一般労働者の多くが複数の肩書を持つようになったときはそうはいきません。例えば、雇用保険というのは会社にとってはなかなか重い負担なのです。年金や健康保険も多くの会社で赤字になっているので、本体企業が補填して運営するのが常態化しています。本音を言うと、企業は社員の年金や健康保険をサポートしたくないはずです。
そういうババを引きたくない企業は、労働者と本業としての契約を結ばなくなるかもしれません。同一業務同一賃金の原則というが働き方改革に盛り込まれましたが、読みようによっては非常勤と常勤の給与水準を同じにするというように受け取れます。非常勤は年金や保険の企業負担が軽いので、手取りを同じにするなら、非常勤の方が低コストです。あるいは、名目賃金を同じにすると非常勤の方が手取りが多くなるでしょう。すると、常勤から非常勤に切り替える人が出てくるかもしれません。経営者はむしろそういう状況を狙っているかもしれません。

おじさんたちが自主退職する理由

僕周りでは、多くのおじさんたちが突然退職するということがありました。その理由は、介護です。40代後半になると、両親が病気になったりして介護が必要になることも多いのです。一般企業に勤めていると任地を選べませんから、働き続けるか、介護をするかの二者択一になります。多くの場合、介護を選択するようです。その結果、僕は多くの人から「退職します」というあいさつを受けるわけです。
退職に至るのは介護のためだ、と理解するのはあまりに浅はかです。働きながら介護をするという選択肢がないことが本当の問題です。その選択肢がない理由は、2つあります。一つは、任地を選べないこと、もう一つは、介護に必要な時間のために勤務時間が制限を受けること、です。任地を選べないのは、単に労働者の商習慣の問題です。労働者は立場が弱いので、業務命令には逆らえないのです。逆らったらクビなわけです。本来はそれに至るまでに様々な交渉があるべきなのですが、そういうプロセスがあり得ないのが問題だと思います。もう一つは週5の常勤だと介護に必要な時間を確保できないことです。週5の勤務でないとダメというのが普通なので、常勤と介護を両立できないのです。
前者の解決策は、労働者と経営者のパワーバランスを改善することが一つの方法になります。働き方改革は経営者視点なので、むしろ経営者が強くなります。もう一つの方法は労働市場を流動化させることですが、常勤労働者は労働市場が流動的でないことにメリットがあるので、通常は難しいでしょう。
後者の解決策は、常勤=週5という固定観念をなくすことです。では週4ならどうでしょう。ユニクロは10時間x4日という勤務形態を取り入れました。でもうまくいっているという話は聞きません。では、週4で介護との両立はできるでしょうか?状況にもよるでしょうが、焼け石に水でしょうね。
週3だとどうでしょう。たぶん、企業としては、それは常勤とは言わないので非常勤として再雇用する、という提案をするでしょう。であれば、いったんやめるのだから、田舎に帰って親の面倒を見る方法を探る、というのが労働者の発想になるでしょう。実際のところ、それで退職するのだと思います。

週休4日の可能性

僕は以前、週休4日制に多くのメリットがあるという話を書きました。週休4日というのはスローガンみたいなもので、重要なのは多様な働き方を可能にするということです。その実現に必要なのは、皆勤勤務を前提としない組織体制と、ダブルポジションを可能にする年金・保険の法整備です。働き方改革は最終的にそれに向けた法整備であってほしかったんですが、そういう議論は一切なかったですね。たぶん、政治家たちの想像力の欠如の現れでしょうね。あるいは、働き方改革にかかわる識者たちの能力不足かな。
日本人は、現実予測能力がどうも低いのかもしれません。現状を客観的に分析し、根本的な問題点を整理し、最適な解決策を模索するというのは、基本的な方法論のはずです。でも、どうも苦手なんでしょうね。ガラケーは見事にやられました。

働き方改革では、働き方の多様性を目指しています。「働き方」の根源は、何曜日の何時から何時までを労働時間としますか、ということです。それを決めるのは雇用契約ですが、それに多様性を持たせるというのが、働き方改革の基本だと思います。今は、常勤・非常勤、正規・非正規、社員・アルバイトなどの別があるわけですが、それらの定義をフレキシブルにしようという考え方は正しいと思います。これらの分類をやめちゃえ、というのは基本的にはよいと思います。ただ、経営者に有利な変更は厳に慎むべきだと思うのです。

では、どのようにして分類をやめるのかを考えてみましょう。
常勤とは週5で、非常勤というのは週3以下、みたいな感覚がします。でも、それは雇用契約で決めるべきもので、法律で決めるべきものではないでしょう。
正規とは契約変更なしに定年まで働くことができる雇用形態で、非正規とは定期的に契約更改が必要な雇用形態とするなら、それは雇用契約の話であり、法律で決めるべきものではないでしょう。
社員とは業務に対し責任を負う労働者であり、アルバイトとはかなりの免責がある労働者です。例えば、勤務態度が悪いとアルバイトは怒られるだけですが、社員は査定が悪くなります。そいうのが業務に対する責任の有無なわけです。とするなら、それは雇用契約にその旨記載すべきであり、その責任の大きさに応じて給与に差があるのは当然でしょう。そして、これも本質的に雇用契約の問題なわけです。
法律の役割は、不当な雇用契約を防止することとなるでしょう。そのためには、雇用契約における妥当・不当の境界が条文になるでしょう。例えば、他社との雇用契約を阻害するような雇用契約の是非(あるいは条件)、労働者の責任の範囲をどのように雇用契約に盛り込むか、給与の算出方法の標準形あるいは妥当な範囲、年金や保険の取り扱い。

法律はインセンティブを与えるように設計すべき

役人たちとやり取りをする際に感じるのは、彼らは法律やルールというのものは当然守るべきもの、と考えているらしいということです。僕などは、「法律やルールは守らなければならない」⇔「守りたくない」⇔「可能なら守らない」と考えたりします。程度の差こそあれ、法律やルールは守ることにメリットがないと守る気になれないもののはずです。だからこそ、罰則まで踏み込んで条文化するわけです。
罰則によって守られるルールというのは、ルールとしては最悪です。ルールを遵守させるためには監視のコストが発生したりします。警察というのはそういう類のコストです。良いルールというのは守ることでメリットがあるものです。うまくルールを設定すると、みんなが気持ちよく守ってくれるものです。そういう工夫が最近の法律には全く見られないのが残念です。
働き方改革では、議論が紛糾しましたが、利益が対立しがちな労働者と経営者の両方を規制する法律なのに、経営者のメリットが目立つということが理由に思えます。労働者のメリットがわかるような説明があれば、もう少し建設的な議論ができただろうと思うと、とても残念です。
統計は残酷です。もう10年たって、さらに給与水準が下がるような結果になっていないことを祈るばかりです。


2018年6月16日土曜日

再審棄却の高裁決定

袴田事件はまだ続く

2018年6月11日、は袴田巌氏の死刑判決の再審開始決定を不服とした検察抗告の高裁決定があり、再審請求棄却の判決が出ました。再審は当面開始されないことになりました。とても残念です。
https://www.asahi.com/articles/ASL6C64G8L6CUTIL099.html?ref=yahoo
https://www.asahi.com/articles/ASL6C4R5VL6CUTIL027.html?iref=pc_rellink

袴田事件は、袴田巌氏を犯人とする殺人事件で、検察の言い分が二転三転し、次々とあやしい証拠が出てきて、最終的に死刑判決に至りました。ただ、かなり証拠が怪しいので、えん罪事件という意見が多くあります。袴田氏には軽い知的障害があり、検察に詰め寄られるなかで、ポロリとうその自白をしてしまった可能性が高いそうです。

さて、この再審棄却決定を出した大島隆明裁判長はやや異端の判事で、おおむね良心的で頭の良い判決で定評があります。にもかかわらず、今回は高検の言い分を全面的に認める判決でした。ちょっと納得がいかないなあ、というのが大方の見解だと思います。

しかし、この判決には奇妙な点がいくつかあります。
袴田氏は高齢で認知症もあるので、再収監の必要はない、という旨の追記があるのです。これは、裁判長からの、「調停」を勧めるメッセージだと思われます。

日本の裁判制度では、上告した側の主張が上級裁判所で審議されます。検察が上告し、被告が上告しない場合、量刑は重くなることはあっても軽くなることはありません。逆に、検察が上告せず、被告だけが上告する場合、量刑が軽くなる可能性だけが審議されます。

さて、今回の判決では検察の主張が全面的に認められたので、検察は上告できません。なので、袴田氏側が上告しなければ、無実を勝ち取れないものの、袴田氏の死刑執行はなく、収監もされません。つまり、実質的に無実の状態が続くことになります。
逆に、再審開始の判決を出すと、検察は必ず上告し、10年単位での裁判が続くことになるでしょう。袴田氏は高齢なので、再審開始を待たずして寿命がくるかもしれません。あるいは、再審は開始されたとしても、結審まで存命である可能性は低いかもしれません。であれば、このまま平穏な人生を全うするというのが人道的な判断だろう、ということで、名を捨てて実を取る判決を選択した可能性があります。

同じような判決は、これまでも何度かある。

今回の再審請求において、検察は何が何でも過ちを認めないという意思が見え隠れしています。ま、とにかくこの事件の証拠にはひどいものが多いので、再審が始まると検察は相当に苦しくなるのは事実と思われます。
袴田氏が高齢で、健康状態もよくないことを考えると、検察としては時間切れに持ち込むのが最も良いはずです。再審請求の棄却を求める裁判も、4年をかけているのはそのせいかもしれません。

現在の検察のシステムでは、裁判での勝率が検事の成績とみなされています。そのため、裁判で勝てるという確信がなければ起訴しないし、起訴したら証拠をねつ造してでも有罪を勝ち取るという雰囲気があります。しかし、そのようなシステムは明らかに公共の利益に結びつきません。それは正しく裁判を受ける権利を著しく害するものです。だから、検事の成績と裁判での勝率は結びつけないようにすべきだ、という意見もあります。

おそらく、大島裁判長はそういう事情に辟易しているものの、現状を変えることはできないので、検察の手足を封じた(全面的に検察の主張を認める)うえで、実質的な放免を提示したと思われます。

無駄な大岡裁きかもしれない

司法では、今だに「大岡裁き」を理想とする雰囲気があります。それに照らし合わせると、今回の判決は、さらに上級の裁判所がある高等裁判所としての判決としてはよく練られたものかもしれません。つまり、ここでやめるなら、やめられるよ、というメッセージです。
でも、この一連の裁判は、袴田氏の名誉を争うものであるので、その名誉が挽回されない限り、終わらないでしょう。また、この裁判には、検察は間違いを犯すことがないという神話を打ち砕くという意味もあります。この判決では、検察の間違いはうやむやなままです。裁判の支援者たちは決して認めないでしょう。
そしてそのような事情は大島裁判長もよくわかっているはずです。どのような判決であっても裁判が続くのなら、裁判所としては調停的な判決を出しておく価値があるだろう、と考えたはずです。そしてそれが受け入れられないことも承知しているでしょう。ただ、もしかすると袴田氏側は、上告しない可能性も少しはあります。

間違いを犯すことがない=無謬性は、役人のよりどころでした。お上の決定は絶対なので、それを実施する役人に間違いがあってはならないということなのです。現実はそんなことはないので、今ではゆるくなっていますが、決して譲れない場面が最後に一つ残っています。それが死刑判決です。

死刑判決が下ると最終的に死刑が実施されます。殆どの刑は実施されてもある程度は補填が可能ですが、死刑だけは後戻りが決してできません。なので、死刑判決と死刑執行だけは無謬性が必須なのです。その死刑判決に間違いがあったということになると、司法システムに大きな打撃になります。だからこそ、昔の話にもかかわらず、検察は無謬性にこだわるのです。ただ、えん罪を疑われた死刑囚が獄中死してきたことを考えると、司法システムもこの一連のデッドロック的な状態を打開したいと思っているはずです。

裁判制度の近代化が必要じゃないかな


裁判は真実を明らかにするシステムではありません。事実関係を確認し、利益の調整を行い、当事者たちの合意を得るためのシステムです。
刑法犯を裁く場合に、被告が事実関係を認めない場合があり、その状態を打開するために、判事が第三者的な立場で事実認定を行う、という制度が採用されています。なので、第三者の裁定によって当事者たちは納得せねばならないという、強制的な調停制度とみなすことができます。
であれば、事実関係の認定と量刑の決定は別個に判断できるはずです。そういう制度は米国で採用されています。一方、日本では各種の罪に対して個別に量刑が設定されているため、事実関係の認定(罪の定義)と量刑の決定を同時に判断する必要があります。そのような事情があるため、判決では事実関係の認定より量刑に注目が集まります。
その結果、裁判とは量刑を測る制度と認識され、有罪率が99.9%なんて馬鹿げた状態になっています。つまり、裏を返せば、事実関係の認定機能が裁判から失われているということです。これは、裁判システムが機能不全に陥っていること意味しているかもしれません。

えん罪事件の裁判は、そういう機能不全を正そうという一般市民の正常な反応だと思います。

2018年5月26日土曜日

やりたいことって言われてもねぇ

就職活動真っ只中。

今年2018年は、かなりの売り手市場らしいですね。

日本では、新卒一括採用が行き過ぎているのだけど、だれもそれをやめられなくなっています。新卒ってのは大学を出たばかりで、業務に必要なスキルをほとんど持ちません。なのに、将来性という名目で好待遇での採用が横行しています。一方、企業側も、優秀かもしれない人材を他社にとられまいと、好待遇を競う。新卒採用というのは、学生にとっては一生に一度の好機となるので、自分を高く売るために様々な駆け引きが繰り広げられます。そういった状況に便乗すべく、就職産業というマーケットが幅を利かすことになります。リクルートなどの就職産業は、企業と学生のマッチングと称し、様々な就職セミナーを開催し、学生をあおって、自分たちの事業を拡大してきました。

就職セミナーの主な内容は、「企業研究」「自己分析」「エントリーシートの書き方」「面接の心得」などです。ちゃんと掘り下げた内容ならまだよいですが、1時間ほどのセミナーでは薄っぺらい内容にならざるを得ません。また、正直に現実を伝えると、学生は絶望するだけになるので、かなり甘い内容にならざるを得ません。そんなセミナーに意味があるのか?といつも思います。

企業研究

学生程度が「企業研究」と称して、正しく状況を読み解けるなら、株で損する人はいません。また、企業も経営を左右するような核心的な情報は開示するわけがありません。
自分が会社の中でどのように貢献できるのか考える、というのが企業研究の目的のひとつとされています。しかし、企業では、何十人、何百人という社員が毎日知恵を絞って、自分たちの会社への貢献方法を考えているわけで、一人の学生がポッと思いつくようなアイデアなんて、何十回も検討されて否定されているはずです。企業は学生にそんなことを期待したりしません。何のために「企業研究」を学生に進めるのか理解不能です。
就職してしまえば、会社のことを知る機会と時間はたっぷり確保できます。だから、企業のことは就職してから学べばよいと思います。経営を目指すならば、企業研究の分析力が重視されるでしょう。その場合に重要なのは、ライバル企業との比較であり、志望先のことだけをマニアのように調べ上げることは要求されません。そういう理解でないということならば、その人は自分の能力が足りないことを露呈していることになります。ということで、あんまり調べすぎると、むしろ逆効果、ということになると思います。

面接の心得

僕は「面接」の対応をやったことがあります。ちょっとした入試業務です。その時、ご多聞に漏れず「志望動機」を最初に尋ねました。でも実のところ、志望動機は面接の採点には一切関係しませんでした。志望動機を尋ねるのは、挨拶みたいなものという位置づけで、面接対象を落ち着かせるのが目的でした。
志望動機というのはだれでも用意してくるもので、本当に吟味したければ文章であらかじめ提出させることができます。例えば、エントリーシートにも志望動機欄があるものです。面接というのは極めて高コストな試験法なので、文書で検査できる項目をわざわざ面接で行うのは非合理的です。時間がもったいなので、面接では志望動機を聞きたくないのが面接官の本音でしょう。にもかかわらず尋ねるのは、以降の面接をスムーズに行うためです。
面接では文書では審査できない側面を重視します。というか、ちゃんとした面接はそうでなくてはいけません。受け答え、論理性、課題に対する真摯さなどです。だから、服装も容姿もあからさまな審査対象ではありません。
ただし、合理性という観点からは、服装は審査対象となりえます。例えば、目立つことが主たる目的の服装・容姿はビジネス上の障害になるのでNGだけど、それがビジネス上の演出として理にかなっているなら、服装・容姿が加点となるでしょう。就職産業のセミナー講師は現実には素人なので、他人の人生を左右する最終判断を行う責任をちゃんと理解していません。だから、被面接者の視点からしか「面接」を理解できていません。そういう人を講師にしたセミナーに意味なんてあるわけありません。

自己分析

自己分析ってのは、自分の長所と短所を自覚しましょう、ってことだと思いがちです。でもちょっと短絡的ですよね。まず、長所と短所を一対にしているところが浅はかです。言葉としては対になっていますが、現実には全く別物です。
長所と短所のもっとも違う点は、短所は厳然として存在しており、長所は自ら形成してゆくものだ、ということです。日本人は単一民族なので、生物としての基礎力に個人差がほとんどありません。これまでのトレーニングや努力によってさまざまな形質を獲得し、個人差が生まれています。そのようにして形成された個人差のことを「長所」と呼びます。生まれつきの有利不利は多少あるでしょうが、誇れるような長所は自らの意思で獲得してきたものです。一方、短所はトレーニングや努力が及ばず、そのままに残された形質です。自らの意思とは関係なく、現在持っている形質です。だから、長所と短所を列挙するとき、短所はすぐに見つかりますが、長所はなかなか見つかりません。
また、長所や短所がどのくらいのレア度かということが現実には重要になります。例えば、「社交的」という形質において、アベレージくらいのレア度でも長所に分類するかもしれません。でも、その程度の形質は実際には無視されます。長所として特筆できるレベルは最低でも10人に1人くらいのレア度が必要です。そして、そのくらいのレア度に達しようとすると、何事においても継続的・意識的トレーニングが必要になります。
そのようなトレーニングを行っている学生はめったにいません。確かに、スポーツをやっていれば、レア度の基準はクリアできます。ただし、そのスポーツが仕事に役立つかが大事ですよね。そこのつながりを説明できないと、就職活動における長所として挙げることができません。
長所とは意識的にトレーニングするものなので、「自分がどのような人間になりたいか」ということを突き詰め、そのための努力を継続した結果、獲得するものということになるでしょう。就職活動の準備として半年前くらいに見つけようとしても無理です。

短所は逆に既存の形質のはずで、それはすぐに見つかります。でも、短所はある場合には長所にもなるということを意識することが大事だと僕は思います。例えば、僕はぐうたらです。それは「勤勉」という良い形質の対極にあります。ただ、ぐうたらでいるためには、勤勉でなくてもよいようにうまく立ち回らなければなりません。なので僕は、あらゆる物事に工夫をします。それは僕のよい形質になっています。
勤勉な人は与えられた課題をきっちりこなそうとします。ぐうたらな僕は、課題を完全に達することは最初からあきらめ、その課題を含むような新たな課題設定を考え出し、それをより少ない努力で達成しようとします。その結果、当初の課題を越えて達成し、より高い評価を得るようにしています。そういうのはむしろ手間暇かかるわけですが、最終的には少ない努力で+αの評価を得られて、お得です。そのような行動原理は本質的に「ぐうたら」に起因すると僕は思っています。僕の評判は決して「秀才」ではないのです。
短所は時に長所にもなります。それをきちんと理解するのは大事なことです。ただ、そういうのは就職活動の一環として行うようなものではないと思います。

エントリーシート

現在の採用プロセスでは、履歴書とは別に様々な自己PRを記載したエントリーシートが要求されます。志望者が多すぎるので、書類選考するのですが、その材料にするものです。なので、エントリーシートは基本的に候補者を間引くために使われると思って間違いありません。
では、どのくらいの確率で書類選考をパスするでしょう。まず、スペックによる選考があり、これは学歴等が重視されます。基準に達していなければ、エントリーシートを頑張って書いても無駄になります。合格率が50%なら、気合が入りすぎるのはよくないかもしれません。合格率が10%なら、丁寧さが重視されるでしょう。合格率が5%以下なら、普通に書いても無駄です。何かしら個性が要求されます。
極端に合格率が低い場合を除き、重視されるのは文章力だと思います。僕もそうだったのですが、日本の学校教育では文章力が使い物になりません。研究室では徹底して日本語の文章を書く練習を行うくらいです。書類選考が通らない学生については、エントリーシートの添削を行うことがあります。そうすると面接に進めたりします。ただ、そのように僕らが手を貸したとしても、どこかの時点で文章力の不足が露呈するでしょう。
逆に、ある程度の文章力が備わっていると就職活動を有利に進めることができます。ただ、文章力を鍛えるにはきちんとした指導者と時間と本人の意思が必要です。特に、自分の文章力がダメだということは、なかなか受け入れがたいもので、本人の意思が最も大きな障害です。

コミュニケーション

コミュニケーション力というと、「しゃべる能力」と短絡する傾向にあります。でも、本当のコミュニケーション力はもっと別のところにあります。
フリーアナウンサーの宮根誠司氏が朝日放送に入社した際の面接の話がとてもわかりやすいです。もともとアナウンサー志望ではなかったそうですが、気軽な気持ちで応募したそうです。3つくらい面接があったそうですが、それぞれの面接で面接官の役職や年齢が異なると考えて、面接官の年齢層に応じたネタを仕込んで面接に臨んだそうです。それはつまり、コミュニケーションの基本の一つ、相手のことを考える、ということです。そして、幅広い年齢層に合わせたコミュケーション術を身につけておくということも大事です。今の若い人たちは、同年齢の人たちとしかコミュニケーションの経験がないので、世代を超えたコミュニケーションが苦手です。そういうのを普段から鍛えておくべきでしょう。
もう一つ重要なのは、就職面接において何が審査されるのかきちんと理解するということです。僕たちは理系なので、研究内容のプレゼンテーションが要求されます。学生たちは一生懸命研究内容を説明しようとしますが、実は面接で要求されているのは研究内容そのものではありません。面接官はその研究の専門家ではないので、細かな内容までわかりません。だから、ディテールが精密で正確かなんてのは要求されません。それよりも、門外漢を想定した説明になっているか、情報の重要度がきちんと分類され、重要なものほど伝わりやすいように工夫されているか、自分のコントリビューションをアピールできているか、などが評価されます。であれば、ごちゃごちゃ詰め込んだプレゼンは逆効果で、内容を絞って重要なことだけを伝えるように準備すべきです。でも学生は不安なので、そういう思い切ったプレゼンは作れないのです。であれば、内定は遠いよね。

右へならえ

今の学生はゆとり教育真っただ中で育った世代です。ゆとり教育は個性尊重が叫ばれ、実践されたはずです。にもかかわらず、学生たちはハウツーに終始し、第三者(就職産業)に振り回されています。僕の実感ですが、ゆとり教育によって「右へ倣え」が得意な人たちがむしろ増えたように思います。いきなり自由が与えられると、どうしたらよいかわからないので、他人の真似をするようになる、ということだと僕は思います。自由を与える前に、自由を活用する知識とスキルがないといけません。そのためには、本人の意思を無視して、様々な選択肢を体験する必要があります。
就職活動を始めるときに、「どの会社でもチャンスがありますよ~」「やりたいことを実現する手段として就職してくださいね~」ときれいごとを言われても、ぶっちゃけ困るというのが学生たちの本音だと思うのです。
就職活動が自由化したせいで、膨大な選択肢が学生たちにはあります。その膨大な選択肢の中で、就職活動を有利に進める情報を求めてあがき、就職産業に踊らされているのは、極めて不幸です。そして、もっと不幸なのは、そういう状況に自分が置かれていることを全く理解できていないことです。
世の中には膨大な数の会社があります。どんな会社に就職しても、やることはほとんど変わりません。給料も10%くらいしか変わりません。任地や待遇は少し違うかもしれません。それに応じて、就職後の生活もちょっとは違うかもしれません。でも、それらはほんの少しの違いかもしれません。
僕らの学生の頃は、指導教官の推薦で面接などなしに就職先が決まりました。選択肢のない「お見合い結婚」みたいな感じです。いや、むしろ会社とのコネを太くするための「政略結婚」かもしれません。でも、気に入らなくて会社を辞めた、という話はほとんど聞きません。今は、「合コン」「デート」を繰り返えす「恋愛結婚」に近いわけですが、会社を辞める話を多く聞きます。僕の学生でも2割~3割は転職しています。昔に比べると、若い間の転職が多くなっていると思います。それは、見合い結婚が減って、離婚が増えているという事情に通じるのかもしれません。

現代社会は極めて急速に変化しています。変化の波に乗り遅れないことは大事です。ただ、変化があまりに急速で、僕たちは過去について顧みなくなっています。でも、どれだけ世の中が変化しても絶対に変化しないものがあります。その一つは、社会の構成要素としての人です。これも将来揺らぐかもしれませんけどね。
世の中は人の集団です。人は自由に創意工夫し、しのぎを削っています。その中で、どれだけ有利に人生を過ごせるかを競っています。より良い就職先を見つける努力は、まさにその一環です。競う相手は他人です。他人と自分の違いを見つけて、有利な展開に持ち込むのが鉄則です。有利不利を決するのは個性です。どのような個性が有利であるかは、事前に知ることができません。でも、個性がなければ、勝てる見込みは生まれません。学生の間は、個性を作り出すこと、個性を磨くことが大事です。それは今も昔も変わりません。「右へ倣え」戦略は絶対的に不利なのです。それが、今も昔も、おそらく人間が社会の構成要素の主役である限り、続くものです。

自分は何がしたいのか?

就職はゴールではありません。就職してから、何十年も働くことになります。しかしながら、学校教育では「働く」ということ自体を勉強する機会がないようにも思います。
「働く」には様々な定義があります。多くの人は「労働力を提供し、対価を得る行為」と言うとすっきりするかもしれません。でも、「労働」とは「働くこと」なので、言葉の循環があって定義になっていません。また、「労働」には、「体を動かす」というニュアンスがありますが、仕事にはそういうもの以外も含まれます。なので、アルバイト等では、「時給」という概念を用います。対価としての給料が時間で発生するということです。この考えに従えば、働くとは「時間を提供することで、対価を得る行為」となります。
しかし、時給が設定されるのは、比較的低級な仕事だけです。高度な仕事に対しては「時給」は適用されません。高度な仕事とは、「できる人が限られている仕事」ですから、プレミアが発生しているので、給与に上積みがなされます。高い給与を得ようとするなら、プレミアを多くする必要があるわけです。そのためには、人材としてのレア度を高める必要があるわけです。
就職してから長い間働くわけですから、会社はあなたの隅から隅まで知ることになるでしょう。採用面接のとき、背伸びして取り繕って何とか内定を勝ち取ったとしても、数年働けば、底が知れます。その時、人材として再び査定され、その後の待遇が決まります。レア度の低い人材の価値は高くなりようがないので、出世は望めません。鶏口牛後の牛後になるでしょう。

そういう人生がよいのですか?
世の中で活躍したいのではなかったのですか?

僕はどちらでもよいと思っています。期待され、活躍する人生は、極めてストレスフルです。それを苦にする人も多いと思います。だから、できるだけ大きな会社に就職して、目立たない人生を目指すというのは、合理的かもしれません。でも、そのような人生を希望することを表明する学生は見たことがありません。
理由は二つあり、身の丈を知らず、能天気な希望を抱いているか、本当は希望しているけど恥ずかしいから公言できないか、だと思います。前者は本人の前途が多難です。後者だと、会社を裏切ることになります。
会社は何度も裏切られてきたのです。だから、採用面接を何度も行い、「良い人材」を見つけようとするのです。大卒あるいは大学院卒で「働く」ということは、活躍することが期待される環境に身を置くことです。その期待に応える能力が自分に備わっているかどうかをしっかり考えなければなりません。その能力は、トレーニングで身につくものです。ただ、どのような能力が有利なのかは事前に知ることができません。もしわかってしまうと、みんながその能力を身につけてしまい、レア度が下がり、その能力では期待に応えることができなくなります。不確定性原理みたいですね。
トレーニングは時間が必要です。大学や大学院での勉学のなかで、自分のレア度を高める努力を継続しなければなりません。残念ながら、多くの学生はそのようには考えません。ということは、逆にそのように考えて実行に移せば、それだけでレア度が上がるわけです。ちなみに、僕は学生時代にそう考えて実行しました。ただ、その時の努力は直接は役に立ってません。でも、陰に陽に影響はあると思います。

こういう議論をする就職セミナーは聞いたことがありません。

2018年5月12日土曜日

西川式微分方程式6章


微分方程式の解法あれこれ


このテキストの本論はすでに終了していますが、微分方程式を解くテクニックはまだまだあります。普通の微分方程式の教科書に倣い、いろんなパターンの解法を解説します。ただし、すべての解法を網羅するつもりはありません。よく目にする解法について、ちゃんと解けているかどうかを中心に議論します。

変数分離法

ほとんどの1次常微分方程式は解くことができます。その際に変数分離というテクニックが活躍します。その際の強力なテクニックが変数分離と呼ばれるものです。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y-p\left(x\right)q\left(y\right)=0
\label{6-1}
\end{equation}
今まではyの代わりに$f\left(x\right)$を使ってましたが、そうするとややこしくなるので今回は$y$で許してください。ちょっとした変形を行うと次のようになります。
\begin{equation}
\frac{1}{q\left(y\right)}dy=p\left(x\right)dx
\label{6-2}
\end{equation}
両辺を積分すれば、解が得られます。このとき、$\frac{d}{dx}y=\frac{dy}{dx}$であり、微分要素を一つの変数のように扱っています。なんとなく自然な感じがします。確かに1階微分の場合は大丈夫なんですが、いつもこんな感じでOKかというとそうでもないので気をつけましょう。
1階の微分方程式の場合には、($\ref{6-2}$)式のように最終的に単純な積分に帰着できる場合があって、変数分離形と呼びます。現時点では抽象的なので変数分離がどのくらい役に立つかはピンとこないと思います。

1階線形微分方程式

次のような微分方程式を考えます。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y+p\left(x\right)y=q\left(x\right)
\label{6-3}
\end{equation}
この微分方程式はかなり一般性を持つということがわかると思います。さて、この微分方程式は非同次なので、とりあえず同時形を考えます。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y+p\left(x\right)y=0
\label{6-4}
\end{equation}
この微分方程式はすぐ解けます。というのも次のように変形し、$y$と$x$を左右に分けるのです。
\begin{equation}
\frac{1}{y}dy=-p\left(x\right)dx
\end{equation}
これは変数分離形の一種です。なので、両辺を積分すると解が得られます。すなわち、
\begin{equation}
\log{y}=-\int p\left(x\right)dx+C
\end{equation}
ただし、積分定数も考慮します。もうちょっとわかりやすい形にしておきましょう。
\begin{equation}
y=Ce^{-\int p\left(x\right)dx}
\label{6-7}
\end{equation}
このようなことができるのは、($\ref{6-4}$)式で$y$に関する項と$x$に関する項とを左右に分けることが可能であったということが重要です。

($\ref{6-3}$)式は非同次でした。なので、特殊解が存在するはずです。特殊解は無理やり見つけてやればよいということを第2章で論じました。その方法は何でもよいはずです。そこで、直観によって($\ref{6-7}$)式を少しいじった次の式を考えます。
\begin{equation}
y=r(x)e^{-\int p\left(x\right)dx}
\end{equation}
この式を($\ref{6-3}$)式に代入してみます。すると、次式が得られます。
\begin{equation}
e^{-\int p\left(x\right)dx}\frac{d}{dx}r\left(x\right)-r\left(x\right)p\left(x\right)e^{-\int p\left(x\right)dx}+p\left(x\right)r\left(x\right)e^{-\int p\left(x\right)dx}\\
=e^{-\int p\left(x\right)dx}\frac{d}{dx}r\left(x\right)=q\left(x\right)
\end{equation}
左辺第2項がうまく消えてくれました。ここから、
\begin{equation}
\frac{d}{dx}r\left(x\right)=q\left(x\right)e^{\int p\left(x\right)dx}
r\left(x\right)=\int{q\left(x\right)e^{\int p\left(x\right)dx}dx}
\label{6-10}
\end{equation}
となります。逆に、($\ref{6-10}$)式を満たす$r\left(x\right)$は($\ref{6-3}$)式の特殊解として使えるということです。この特殊解と同次解である($\ref{6-7}$)式と合わせたものが最終解となります。すなわち、
\begin{equation}
y=e^{-\int p\left(x\right)dx}\left\{C+\int{q\left(x\right)e^{\int p\left(x\right)dx}dx}\right\}
\label{6-11}
\end{equation}
これは一般には「公式」として知られているものです。このように導出は少し面倒ですが、基本に立ち返ればそれほど難しいものではありません。微分方程式を解くための基本が理解できていれば、説明に時間はかからないのですが、基本が理解できていないと、無理やり特殊解を持ってきてそれでOKとする根拠が示せません。だから、公式として説明なしに片付けてしまった方が楽だ、となってしまいます。そんな講義を受けると、解けることは解けるけどなぜ解けるのかはわからないし、解けたという確信も得られません。この公式を覚えろ、と言われた時点で、僕はその講義を放棄しました。

普通ならこれで終わりなんですが、もう少しだけ詰めておきましょう。($\ref{6-7}$)式や($\ref{6-10}$)式ではネイピア数の指数に不定積分があります。不定積分なので積分すると積分定数が付け加わりますが、どのように取り扱えばよいでしょう。簡単な方の($\ref{6-7}$)式からやっておきましょう。
\begin{equation}
\int p\left(x\right)dx=P(x)+D
\end{equation}
とすると、($\ref{6-7}$)式は
\begin{equation}
y=Ce^{-\int p\left(x\right)dx}=Ce^{-P(x)-D}=Ce^{-D}e^{-P(x)}
\end{equation}
となり、$e^{-D}$という定数が乗じられます。これは元々ある係数Cと区別できないので、ネイピア数の指数に現れる不定積分か生じる積分定数は無視して構わないと結論できます。少し複雑にはなりますが、($\ref{6-10}$)式の積分定数は$r\left(x\right)$の中に吸収できるので、これも無視できます。

ベルヌーイの微分方程式

($\ref{6-11}$)式はとても強力なので、導出する手間を惜しんで暗記するくらいでよいということで、通常の講義では「公式」として示されています。前節で示したように導出は難しくないのですが、特殊解と一般解の関係をきちんと説明しないと、導出の際に確信が持てません。説明する側としては、つっこみが怖いので避けたいところです。おそらくそのような後ろ向きの理由によって導出が議論されないんでしょうね。
導出の問題があるものの、前節の「公式」はとても強力です。そのままでも十分強力なのですが、さらに発展形も存在します。その発展形の一つにベルヌーイの微分方程式と呼ばれるものがあります。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y+p\left(x\right)y=q\left(x\right)y^n
\label{6-14}
\end{equation}
nが0の時は($\ref{6-3}$)式と同じです。nが1の時の右辺は左辺第2項とまとめることができ、同次形の($\ref{6-4}$)式と同じになります。それ以外でも解けるというのがベルヌーイの微分方程式の重要な点です。
テクニックとしては、($\ref{6-14}$)式を無理やり($\ref{6-3}$)式の形にしてあげるということです。具体的には、$z=y^{1-n}$という新たな変数を導入します。これを$y$で微分します。
\begin{equation}
\frac{dz}{dy}=y^{-n}
\end{equation}
ここから、$y^ndz=dy$として、($\ref{6-14}$)式に代入します。
\begin{equation}
y^n\frac{dz}{dx}+p\left(x\right)y=q\left(x\right)\frac{dy}{dz}y^n
\frac{dz}{dx}+p\left(x\right)y^{1-n}\\
=q\left(x\right)
\frac{dz}{dx}+p\left(x\right)z=q\left(x\right)
\end{equation}
これは($\ref{6-3}$)式と同じ方法で解くことができます。このような変形は($\ref{6-14}$)式の形式であれば必ず可能です。逆に、このような変形が可能な特別な形が($\ref{6-14}$)式というわけです。この導出に見られるように、nは整数以外でも大丈夫ということがわかります。
ベルヌーイの微分方程式のように、解けるタイプに変形可能な特別な形式の微分方程式はまだまだ存在します。しかしながら、それらの各論は普通の微分方程式の教科書に書いてあって、僕が改めて議論しても似たり寄ったりにしかなりません。であれば、のこりの部分は他の教科書に任せることにします。

演算子法

特性方程式を使うと、機械的に微分方程式を解くことができます。その背景にはフーリエ変換やラプラス変換があり、微分を変数で置き換える根拠になっています。それをさらに発展させることもできます。
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}y+a\frac{d}{dx}y+by=q\left(x\right)
\end{equation}
このような微分方程式があった場合、特性方程式では$\frac{d}{dx}$を$t$とかで置き換えて、同次解を求めました。$\frac{d}{dx}$はある種の演算子$D$だと思って、次のように置き換えてみます。
\begin{equation}
D^2y+aDy+by=\left(D^2+aD+b\right)y=q\left(x\right)
\label{6-18}
\end{equation}
もし、ここから
\begin{equation}
y=\frac{1}{D^2+aD+b}q\left(x\right)
\end{equation}
って出来たらとてもラッキーな気がしませんか?そういうことが可能かどうか、可能ならどういう原理だろうか、というのが今回のお題です。
もっと簡単な場合を検討してみましょう。いろんなものをそぎ落として次の式なら簡単です。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y=q\left(x\right)
\label{6-20}
\end{equation}
これは、簡単に積分出来て、
\begin{equation}
y=\int{q\left(x\right)dx}
\label{6-21}
\end{equation}
です。一方、演算子$D$を使うと($\ref{6-20}$)式は$Dy=q\left(x\right)$なので、
\begin{equation}
y=\frac{1}{D}q\left(x\right)
\label{6-22}
\end{equation}
($\ref{6-21}$)式と($\ref{6-22}$)式は同じはずですから、$\frac{1}{D}$という演算は積分だとわかります。一方、($\ref{6-20}$)式のフーリエ変換は、
\begin{equation}
i\omega Y\left(\omega\right)=Q\left(\omega\right)
\end{equation}
なので、
\begin{equation}
y=\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{i\omega}Q\left(\omega\right)\right]
\end{equation}
ここから、($\ref{6-22}$)式において、$D$は$i\omega$、フーリエ変換・逆フーリエ変換が省略されているということがわかります。
さて、もう少し難しい形である
\begin{equation}
Dy+by=q\left(x\right)\\
y=\frac{1}{D+b}q\left(x\right)
\end{equation}
を考えてみましょう。$\frac{1}{D}$は単純な積分ですが、定数の補正が付いているとどのような演算なのか見えにくくなります。でもフーリエ変換・逆フーリエ変換が介在すると考えると、
\begin{equation}
y=\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{i\omega+b}Q\left(\omega\right)\right]=\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{1}{i\omega+b}Q\left(\omega\right)e^{i\omega x}d\omega}
\end{equation}
ここで、$i\omega+b=iq$とすると、$q=\omega-ib$
\begin{equation}
y=\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{1}{iq}Q\left(q+ib\right)e^{i\left(q+ib\right)x}dq}=\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{iq}Q\left(q+ib\right)e^{-bx}\right]
\end{equation}
ここで、
\begin{equation}
Q\left(q+ib\right)=Q\left(q\right)\otimes\delta\left(q+ib\right)
\end{equation}
であることを考慮すると、
\begin{equation}
\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{iq}Q\left(q+ib\right)e^{-bx}\right]=
\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{iq}Q\left(q\right) \otimes\delta\left(q+ib\right)\right] e^{-bx}
\end{equation}
\begin{equation}
y=\left\{\int{q\left(x\right)e^{bx}dx}\right\}e^{-bx}
\label{6-30}
\end{equation}

さらに、($\ref{6-18}$)式は演算子を用いて、
\begin{equation}
y=\frac{1}{D^2+aD+b}q\left(x\right)=
\left\{\frac{1}{D+c_1}+\frac{1}{D+c_2}\right\}q\left(x\right)
\end{equation}
というように分数の和に変換できるので、($\ref{6-30}$)式と同じように積分が可能です。このように微分演算子Dをあたかも変数のようにして微分方程式を解くテクニックを演算子法あるいは逆演算子法と呼びます。

このままでは($\ref{6-30}$)式に残る積分がなかなか歯ごたえがありますが、$q\left(x\right)$が$e^{\alpha x}$という特別な形の場合にはとても簡単になります。すなわち、
\begin{equation}
\left\{\int{q\left(x\right)e^{bx}dx}\right\}e^{-bx}=\left\{\int{e^{\alpha x}e^{bx}dx}\right\}e^{-bx}\\
=\frac{e^{\left(\alpha+b\right)x}}{\alpha+b}e^{-bx}=\frac{e^{\alpha x}}{\alpha+b}
\end{equation}
ここで、αに関しては複素数もOKだし、指数の和もOKです。つまり、三角関数もOKということです。
もちろん、この方法は特殊解を求めるものですので、同次解は別途計算し、和の形で追加されます。さて、$q\left(x\right)$が$e^{\alpha x}$の場合は、特殊解を$Ce^{\alpha x}$と決め打ちしてもよさそうです。すると、
\begin{equation}
Dy=C\alpha e^{\alpha x}=\alpha y
\end{equation}
になります。ここから、$D=\alpha$と短絡します。これを($\ref{6-18}$)式に代入すると、
\begin{equation}
y=\frac{1}{\alpha^2+a\alpha+b}e^{\alpha x}=Ce^{\alpha x}
\end{equation}
ここから、$C=\frac{1}{\alpha^2+a\alpha+b}$と求まります。さて、($\ref{6-30}$)式はとても汎用性が高いものですが、積分が残っていて、うまい具合に積分できるかは未確定です。一方、$q\left(x\right)$が指数の形だと、とても単純になるので、こちらの方が使い勝手が良いという事情があります。なので、演算子法というと、最後に紹介した方法を指す場合があります。これも、途中の考え方が一切失われて、省略形だけが劣化コピーとして伝承された例だと僕は思います。

数値計算

微分方程式には線形以外に非線形もあります。非線形の場合は解の和が自動的に解になることはないので、すべての解を網羅的に列挙することは極めて困難です。というかほとんど不可能です。その代り、具体的に数値を代入して解くということがしばしば行われます。数値計算なんて呼ばれますが、ある場合にはシミュレーションとも呼ばれます。というのも微分方程式がある現実的な実験系を想定している場合、その方程式を解くということは、想定している実験系の計算機実験にほかならないからです。

さて、微分方程式を数値計算によって解くにはどうしたらよいでしょう。基本的な考え方は難しくありません。$dx$を非常に小さい値だと思って、式の評価を繰り返すというのが基本です。例えば、($\ref{6-20}$)式だと、$dy=q\left(x\right)dx$なので、すごく小さな$dx$に対して、すごく小さな$dy$が得られます。それらの$dx$と$dy$に対して、以下の操作を繰り返します。
\begin{equation}
y\gets y+dy\\
x\gets x+dx
\end{equation}
このような式変形を「差分化」と呼びます。さて問題はどのくらい小さな$dx$を使えばよいか、ということです。その議論はシミュレーションが盛んな流体力学の分野で真剣に議論されており、CFL条件あるいはクーラン条件として知られています。端的に言えば、$\frac{dy}{dx}$は1より小さくなければならない、ということになります。ま、あくまでも目安で、精密な計算のためには刻み幅は小さければ小さいほど良いのです。ただし、小さすぎると計算時間がべらぼうに必要になります。

さて、この方法は数値積分で言うところの区分求積に相当します。というのも、微分方程式を解くとは、積分操作に近いからです。あるいは比喩的に「積分」と呼ぶことすらあります。数値積分では計算誤差を抑えるためにSimpson法なるものが使われます。そのSimpson法の微分方程式版とも言えるのがRunge-Kutta法です。詳しいことは、ググってください。ほとんどプログラミングにかかわることなのでこのテキストでは名前の紹介にとどめます。

偏微分方程式

微分方程式の中には変数が複数ある場合があります。よくあるのは、時間tと座標xを変数にしたもので、次のような拡散方程式は典型例です。
\begin{equation}
\frac{\partial}{\partial t}\phi\left(x,t\right)=D\frac{\partial^2}{\partial x^2}\phi\left(x,t\right)
\label{6-36}
\end{equation}
このとき用いている$\partial$は偏微分記号です。$\phi\left(x,t\right)$は$x$と$t$の関数ですが、$\frac{\partial}{\partial t}\phi\left(x,t\right)$では$t$に関してだけ微分を考えるという意味になります。これに対し、$\phi\left(x,t\right)$の全微分というのもあって、おおむね次のような関係を指します。
\begin{equation}
d\phi\left(x,t\right)=\frac{\partial}{\partial t}\phi\left(x,t\right)dt+\frac{\partial}{\partial x}\phi\left(x,t\right)dx
\end{equation}
偏微分、全微分の違いのために、偏微分記号を用いた微分方程式を偏微分方程式と呼びます。一方、全微分に基づく微分方程式は常微分方程式と呼びます。これまでの議論はすべて常微分方程式を取り扱ってきました。というのも、1変数の関数では偏微分を考える必要がないからです。ここから、偏微分方程式というのは多次元関数を取り扱う際に重要になることがわかります。
さて、($\ref{6-36}$)式を解くための一般解ですが、今まで取り扱ってきたものは1変数の関数がほとんどでしたので、なかなかピンとこないと思います。というか、境界条件によってはそのような一般解がないこともあります。ということでフーリエ変換やラプラス変換を考えてみましょう。ラプラス変換は1次元じゃないと積分区間の問題が生じるので使いにくいという問題があります。するとフーリエ変換が残ります。ただし、フーリエ変換も1次元だったのでこれを2次元以上に拡張します。
\begin{equation}
\mathcal{F}\left[\phi\left(x,t\right)\right]=\iint{\phi\left(x,t\right)e^{-i\left(\omega t+qx\right)}dtdx}
\end{equation}
詳細は省きますが、ネイピア数の指数部が内積の形になります。これを用いると($\ref{6-36}$)式は次のようになります。
\begin{equation}
i\omega\Phi\left(q,\omega\right)=-Dq^2\Phi\left(q,\omega\right)
\end{equation}
ここから、$i\omega=-Dq^2$となります。さらに解き進めるには境界条件等が必要になります。そしてその点が偏微分方程式の特徴でもあります。境界条件がはっきりしていないと途中までしか計算を進めることができないのです。

偏微分方程式を取り扱う際に特に重要なのは変数分離形です。もし$\phi\left(x,t\right)=X\left(x\right)T\left(t\right)$である場合、($\ref{6-36}$)式は次のようになります。
\begin{equation}
X\left(x\right)\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)
=DT\left(t\right)\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)\\
\frac{1}{T\left(t\right)}\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)
=\frac{D}{X\left(x\right)}\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)
 \label{6-40}
\end{equation}
これが偏微分方程式における変数分離形です。$x$と$t$は基本的に独立変数なので自由に変化します。もし$x$を一定値にして$t$を変化させたとき左辺の変化と右辺の変化が常に同じであるのには無理があります。そのようは無理があっても($\ref{6-40}$)式が成立するためには、($\ref{6-40}$)式は一定値である必要があります。すなわち、
\begin{equation}
\frac{1}{T\left(t\right)}\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)=\frac{D}{X\left(x\right)}\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)=\lambda
\end{equation}
$\lambda$は任意の定数です。大きさは境界条件から決まることが多いです。ここから、2つの微分方程式が得られます。。
\begin{equation}
\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)=\lambda T\left(t\right)\\
\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)=\frac{\lambda}{D}X\left(x\right)
\end{equation}
それぞれの式には偏微分記号がありますが、1変数なので常微分方程式として解いて構いません。このテクニックはシュレディンガーが水素原子様電子軌導を解いた際にも用いられました。
さて、この解法において、$\phi\left(x,t\right)=X\left(x\right)T\left(t\right)$と置いたことがポイントでした。このように考えるのは妥当でしょうか?それはわかりません。そのように置けない可能性は否定できません。偏微分方程式の特徴としてすべての可能性を網羅しつくすことはとても難しいのです。そのため、「偏微分方程式を解け」という問題はテストに出にくいのです。だからと言って、重要でないというわけではありません。

コメント

微分方程式の一般的な講義に対するアンチテーゼとしてこのテキストを作りました。天下り式の解法をひたすら暗記するという方法ではなく、きちんとした解法の「原型」を示し、他の解法を「原型」に対応させて理解するという方法を取りました。その試みは成功していると僕は思っています。僕の中ではすべての事柄が矛盾なく説明できていると思っています。一部にわかりにくい部分があるかもしれませんが、とりあえずはこれで完成です。
普通は行わないような細かな議論も丁寧に含めるようにしました。その結果、テキスト内で取り扱う内容が厳選されることになりました。特に、種々の解法では多くのものを割愛しました。ただ、第2章で級数展開による解法を紹介しており、それでかなりの解法をカバーするはずです。「解けるものしか解けない」のだから解けるものだけを議論するという立場はあまりにも乱暴だと思います。今解けないとしても、未来永劫解けないとは限りません。このテキストでの議論は、新たに発見されるかもしれない級数展開をカバーするという点で、他のテキストは一線を画していると思います。
惜しむらくは、例題がほとんどないことです。もし、書籍として出版する機会があれば、その部分を増補したいですね。

僕は決して数学者ではありませんし、特別に微分方程式を勉強したわけでもありません。テキストの随所に書いていますが、僕はむしろ落ちこぼれです。落ちこぼれだからこそ、しつこく考え続けられたのだと思っています。僕は10年以上かけて、ゆっくりと理解に至りましたが、ちゃんとした教科書あるいは指導者がいれば、そんな苦労は必要なかったと悔しく思っています。それがこのテキストを作成した動機です。
僕が微分方程式の解法にある程度の確信を得たのは、フーリエ変換を身につけたときです。フーリエ変換を使うとある種の微分方程式を演繹的に解くことができます。しかしながら、そうでないものもあります。あるいは、通常の解法はフーリエ変換とは違うものも多いですよね。
次の理解の段階に達したのは、「微分方程式の解が張る空間」というフレーズの意味が直観できたときです。線形微分方程式の一般解は直交関数系の線形和になっていて、ベクトルとの類似性から多次元空間とみなせるというのがフレーズの意味です。それが一般的に成立すると先のフレーズは暗に主張します。多くの特殊関数と呼ばれる級数は微分方程式の解として得られており、それらには直交性があります。つまり、数学公式集に載っている級数はことごとく微分方程式の解になり得るということです。いや、本当は、そういう特性があるからこそ、数学者たちはそのような級数を探し続け、その成果を公式集に収めているのだとわかりました。であれば、最初からそのように教えてほしかった、というのが正直なところです。シュレディンガーはそう理解していたから、ルジャンドル陪関数と球面調和関数を選択することができたのです。
そういうからくりに自力で到達しなければならない理由は見当たりません。このテキストにあるように、それほど多くない分量の議論で説明し、理解できるのです。そのような教科書や教授法が見当たらないのは人類の損失だと思います。

微分方程式が理解出来たら、次は量子力学にチャレンジしたくなりますよね。僕は学生のころ、微分方程式が理解できなかったので量子力学もあきらめました。微分方程式が解けるなら、量子力学だって理解できるかもしれません。
もちろん、量子力学もこんな調子で「再構築」しています。ただ、一般的な流儀からあまりにかけ離れているので、細部の詰めが完了していません。という状態が10年にもなっているので、何とかしないといけないなぁ、とは思っています。でも、僕の専門は微分方程式でも量子力学でも何でもないということは知っておいてください。

2018年4月22日日曜日

視覚・触覚の地図

視野の欠落について

僕は糖尿病歴10年以上で、コントロールもよくないので網膜症があります。網膜症というのは網膜細胞に酸素と栄養を供給する血管に出血があり、その先にある網膜細胞が壊死する病気です。壊死するとその場所の視力が失われます。壊死するのが視野の端っこなら問題ないのですが、糖尿病性網膜症の場合、壊死するのは視野の中央部分のもっとも重要な部分なのがとても大きな問題です。普段は気にならないのですが、本を読んだりすると視野が欠けていることがわかります。おそらく、欠けているのは視野の5%程度なのですが、視野の中央にあるために、読書時に使う視野のうち10~15%が使えません。とてもイライラします。

視野欠けは普段気になりません。理由は脳が視野欠けを補完しているからです。僕らの目には「盲点」がありますが、普段は盲点を知覚することはできません。盲点を探り当てたとしても、盲点の領域は空間がゆがんで切り取られたようになっていて、直接的な視野情報を得ることはできません。実は重力レンズみたいな状態になっているので、盲点周辺の視野は不自然にゆがんでいます。つまり、僕たちの空間知覚自体がゆがんでいるのです。しかしながら、それがあまりに当たり前になっているので、特別に意識を集中しない限りゆがみを感じることはありません。
僕のように視野が欠けた場合にも同じような視野の補完が行われるのですが、後天的であることと、視野の中央付近であることから、完全な補完が行えません。だから条件がそろうと欠けている視野を知覚します。僕はかけた視野をグレーの一色の領域だと感じています。

ところで、視覚というのは網膜で受けた信号が視神経を通じて脳に伝えられ、脳の中で知覚されます。先天的な視野の欠落である盲点は、空間ごと切り取られたように感じるのですが、後天的な視野の欠落はグレーの領域として知覚されます。この違いはどうして生じるのでしょうか?

網膜から脳への配線

さて、盲点は存在すら知覚が難しいという理由は、盲点周辺のイメージがゆがんでいて、パックマンのワープトンネルよろしく不自然につながっているからかもしれません。視野の端にワープトンネルがあるのなら理解できなくもないですが、盲点は視野の中に存在しているので、その部分の接続は不自然なはずです。写真だと気づくはずですが、視界だとわからないのです。そのようなつなぎ目のない視野の歪みという現象が可能なのは、僕らの視野と脳の接続の段階で何らかの調整がされているからと推測されます。そこで、網膜と脳の接続について考えてみます。
僕たちは2次元の画像が網膜から脳に送られていると思っています。それはCCDからPCへ画像情報がケーブルを伝って送られるようなイメージです。CCDとPCをつなぐケーブルでは、画像情報がきちんとした順序で伝送されます。もし配線が少しでも狂ったり、伝送順序に少しでもエラーがあれば、伝送された画像は著しい影響を受けます。これは画像情報の単位である画素には「色情報」だけでなく「位置情報」が含まれるからです。CCDとPC間の接続では、規則正しい伝送プロトコルが画素の位置情報を持っているのです。
翻って、網膜と脳の接続ではどうでしょう。一般に、網膜細胞と脳細胞が微細な視神経と1対1で接続されていると考えられています。つまり、個々の視神経の区別が網膜細胞の位置情報に対応しています。一方、脳の表面付近の電気的刺激によって、視野を誘起できることが知られています。全盲の人に視野を取り戻すという研究の一環でそのような実験が行われているのです。その結果、脳の視覚野の表面に与えた2次元的なパターンを視野として認識できることがわかっていて、そこから、脳の視覚野の表面には網膜で検出した2次元画像が、そのまま再構成されていることが推測されます。つまり、視神経は網膜細胞の位置情報をきちんと脳に伝えているということになります。
しかし、それはどうも不可能に思うのです。視神経が網膜のセンサー細胞に接続されていることは確実でしょう。網膜につながった神経細胞は盲点を通って眼球の外に出ます。その際、盲点の手前では束になり、盲点の裏側の穴を通って、おそらくねじれながら脳に向かいます。その途中、左右の視神経は合流し、様々に交差すると言われています。これは視交叉と呼ばれます。現在、この視交叉はウソかもしれないという話もありますが、視神経が束になって脳に向かうのは確実です。脳では視神経は視覚野と呼ばれる脳の領域に最終的に接続されます。
莫大な数の視神経が束になってねじれながら脳に接続するのです。それが完全に秩序だって行われるためには、神経の束の配置が脳と網膜で完全に保たれていなければなりません。それはつまり、光ファイバーの束のように規則正しい結晶構造のような配置が視神経の束に存在しなければならないことを意味します。昆虫の視神経ではそのような配置がみられるようですが、僕たちの視神経にはそのような規則構造は見当たらないようです。
ではどうやって網膜からの画像情報が僕たちの脳にゆがみなしに伝えられるのでしょうか?どうのような配線ルールがあるのでしょうか?
規則構造はないにしても、視神経がミックスされたら配線がうまくいかないはずだ、と考えると視交叉があってはいけないと考えることができます。しかし、解剖学的な知見から、やはり視交叉があると考えられています。
最終的に脳の視覚野に網膜でのパターンが届いていることから、何らかの形で規則正しい配線がなされていなければならないのですが、それはハードウェア的な接続でなくても良いはずです。ハードウェア的な配線はぐちゃぐちゃでも、ソフトウェア的な作用で脳の視覚野では網膜上の画像が正しく再生されているかもしれません。それが可能になるためには、網膜の信号を正しく再配列する機能が脳に備わっている必要があります。幸い、ニューラルネットワークは論理的な配線を自由に配置可能であることを本質的な機能としていますので、その目的にはもってこいです。

触覚はもっと極端

視覚ではなくて触覚のことを考えてみましょう。僕たちの体表近くには、触覚細胞が散らばっていて、体中のほとんどの位置で触覚を得ることができます。そして、きちんと触覚の場所を認識することができます。脳のある部分には、体全体の触覚がマップされていて、それはおおむね人のジオメトリを再現しているということがわかっています(体性感覚野の体部位局在)。
触覚等を担う神経線維は脊柱の定められた場所で他の神経繊維と束ねられて脊索となって脳に接続されます。おおむねのレイアウトは決まっているのかもしれませんが、脳細胞のジオメトリと体表面のジオメトリは大きくかけ離れており、直接的な1対1対応を担保するのは極めて難しい問題です。加えて、脳内の触覚のマップは各器官の重要度に応じて重みづけされており、奇怪なレイアウトになっています。手や足などの分岐があると幾何学的な制約も出てきます。それらの困難をものともせず、脳と触覚の接続が整然と行われています。
これらがハードウェア的な接続によって実現されているならば、生物の発生メカニズムというのは極めて繊細で緻密ということになります。そのような緻密なシステムであると、ちょっとした奇形でも極めて重大なエラーになるはずです。例えば、6本指の奇形なんかが稀に見られるのですが、その場合、6本の指は問題なく機能します。もしハードウェア的な接続が決まっているなら、脳に存在する5本指用の配線と、手足に存在する6本の指との接続の際に、指のどれかが余らざるを得ず、6本の指のうち、どれか1本は致命的な機能不全を示すでしょう。しかし、実際にはそんなことはありません。考えられるのは、脳には6本どころか10本指くらいまでの接続スロットがあるという可能性です。極限まで効率を優先する生物の世界において、そういう無駄は多分ないでしょう。とすると、脳中のマップは神経が接続されてから形成されると考えるべきとなります。もし、その接続がハードウェア的で融通の利かないものだとすると、脳内に整然と体のジオメトリが再構成されているという事実は奇跡と言うしかなくなります。
一方、ハードウェア的な接続とは別にソフトウェア的接続によって融通が利くシステムがあって、脳への接続後に脳内の接続が調整されて、最終的に脳内に体の物理モデルが構築されるという可能性もあります。その際には、脳内のモデルを再構成するアルゴリズムの存在が示唆されます。もし、そのような仕組みがあれば、ハードウェア的な接続がテキトーであっても、全く問題ありません。脳内の物理的レイアウトと体の物理的レイアウトが少々違っても問題ないでしょう。重要度によって脳内マップでの大きさが違うということも自然に達成されるのかもしれません。
さて、脳内モデルを後天的にレイアウトするためのアルゴリズムとはどのようなものでしょう?体上で物理的距離が近い感覚信号は、似たタイミング・似た強さで発生するはずです。接続経路が違っても、「いつも同じタイミングで同じような刺激」という接続は近いところにレイアウトすべきという原理があれば、ソフトウェア的な接続に十分な自由度があれば、ハードウェア的な接続の無秩序さをカバーできるかもしれません。というか、そういう仕組みがないと、脳はうまく機能しないと思うのです。「同じタイミングの同じような刺激を束ねる」という原理は、シナプスの長期増強として知られる脳神経の基本特性の一つと酷似しています。

触覚において面白い現象の一つに、1点の刺激では場所を間違えることは少ないのに対して、2点以上の同時刺激だといろいろ不思議な錯覚を生じる、というものがあります。僕たちの触覚は極めて高い空間分解能を持っていますが、無数にある感覚器のすべてが1対1で脳に接続されているというのはちょっと無理があります。それよりも複数の感覚細胞の統合によって高い空間分解能を達成していると考える方が合理的です。その場合、複数の同時刺激に対してはイベントの位置の特定が難しくなり、錯覚を起こすでしょう。
脳内に「同時刺激を束ねる」という動作原理があるとすると、複数の感覚信号を束ねて空間分解能を高めるという機能の実現が容易になります。
同様に、視覚においても多少の配線誤差は「同時刺激を束ねる」という脳細胞の動作原理によって修正され、網膜上の刺激が正しく脳内にマップされるということが理解できます。

いつ脳の配線が確定するか

さて、脳と体の接続はいつ最適化されるのか、という問題が浮上します。発生段階では刺激が少ないので接続の最適化は十分に進まないでしょう。それがうかがえる内容をナショナルジオグラフィックの記事に見つけました。
「新生児の時には、たとえて言えば、インターネットのケーブルはとりあえず配置はされてるんだけど、接続してない状況です。生後、シナプスが急激に増えていって、接続されるところが増えていく。シナプスの数を数えた研究がありまして、新生児の時期から生後6カ月から12カ月にかけて急激に増えて、その後、また減っていくと分かっています」
一旦、「同時刺激を束ねる」ために、様々な接続をしてみて「同時刺激を受けない接続をカット」するというアルゴリズムを採用していると推定できます。 逆に、この時期を過ぎると「同時刺激を束ねる」というのはそれほど大規模に起きないだろうということも推測されます。

盲点における神経接続の不均一性は新生児期に形成されたものなので、完全に違和感がありませんが、僕が糖尿病性網膜症で損傷した視野の欠落は、後天的なので、違和感が残ります。とはいうものの、脳梗塞等で脳の一部が死んで機能不全があった場合、リハビリを続ければ少しは改善するということが知られていますので、「同時刺激を束ねる」機能は大人になってもすこしは維持されていると思われます。時間がたつにつれ僕の失われた視野は徐々に消えてゆき空間のゆがみを感じるくらいになるかもしれません。

サイボーグ

さて、ここから将来のサイバネティクスに関するいくつかの推測が可能になります。僕たちの脳と感覚器官の接続は主にソフトウェア的なものであり、ハードウェア的な接続は不確定要素が多くて個人差も大きいと思われます。なので、神経繊維をぶった切って再びつなぐというような乱暴なことをすると神経の混信を生じるでしょう。例えば、親指を動かすつもりで薬指が動いてしまう、みたいな状態が起こります。だから、腕を切ってつなげるようなそういうことは極めて難しいと言わざるを得ません。
今、筋電位を使った外骨格型の義肢が発達していますが、これは筋電位という神経の末端での接続なのでうまくゆくのです。脳に近いところで接続しようとすると、ハードルが高くなります。義手・義足では神経との直接接続というのは現実的ではないということがわかります。
脳表面の電気的刺激によって視覚を得る研究が有名で、スティービーワンダーも興味を示したという逸話があります。これは脳の表面での電気刺激というのがポイントです。普通なら、視神経に接続したいところですよね。それは難しいのです。視神経と画素を正しく接続できれば問題ないのですが無数にある画素と視神経を一つ一つ間違いなくつなぐ技術は僕らにはありません。
攻殻機動隊で多く取り扱われている脳だけ生身の全身義体は、おそらく無理でしょう。個性の大きな神経線維を共通化するようなインターフェースが開発できれば、可能性はあります。しかしながら神経線維のレイアウトにおける個性が一定程度共通化できるという前提の存在すら怪しいのが現状です。特に、生命維持に関する神経接続が共通化できない場合、全身義体は不可能と結論されます。

人工知能

現在、人工知能がいよいよ使い物になるという空気があります。でも、僕たちは、自分たちの知能・知性を構成する脳の機能についてあまりにも無知です。もっと真剣に脳の機能を理解しないといけないと思います。
脳細胞と感覚器官の接続を精密に行うのは極めて難しいことです。もし、視神経が視覚細胞と脳細胞を規則正しく接続しているとすると、発生時に極めて特徴的な現象がみられるはずです。網膜あるいは脳細胞どちらが先かわかりませんが、かならずどちらかが先に完成しないといけません。例えば、網膜が先に完成するとすると、網膜から視神経が伸びていって、脳に到達し、その先で脳細胞が発生しないといけません。でも、脳の表面に網膜での刺激と同じパターンがみられることから、視神経が伸びていって、脳の表面に到達するまで網膜上の視覚細胞のレイアウトを保持しなければならないでしょう。そのためには、視神経が互いにねじれたりしないように特別な仕掛けが必要なります。脳細胞が先に完成する場合であってもそれは同じでしょう。人間の視神経は盲点で束ねられて眼球から出てゆくので、盲点で一回裏返ります。視神経が一度もねじれたり交差したりしないようにするのは極めて困難な気がします。
また、脳の表面に視野が再現されるということは、視神経が直接脳の表面に到達しないといけないわけですが、それは無理です。視神経は脳の下側から脳に接続されているので、脳の表面に信号が届くには、脳の下側から複数の脳細胞を経由しないといけません。脳内の脳細胞の神経接続は完全にソフトウェア的、つまり、後天的なものです。視神経が網膜上のレイアウトのまま脳に到達しても、そのレイアウトが脳の表面に到達するための別仕組みを考えなければならないのです。その仕組みは、ニューラルネットワークの最適化に関するなんらかのアルゴリズムでなければなりません。そう、結局アルゴリズムが必要なのです。
DNAはある種のプログラムコードではありますが、僕らがよく知っているようなコード体系ではありません。特に、切って、貼って、混ぜるというDNAの進化の手法に対して、ロバストでなければならず、かなりな冗長性を持っているはずです。人間のDNAはおよそ3ギガ個の塩基対で構成されています。1個の塩基対は2ビットなので、バイト数に直すと1GBでおつりがくるのです。それでいて十分な冗長性があるはずなのです。ちょっとしたアルゴリズムなら含めることができますが、ワードとかエクセルとかくらいの複雑なソフトウェアコードを保持することはできないでしょう。なので、脳内で働いているアルゴリズムはかなり単純な原理にしたがうシンプルなものでなければならないでしょう。
機械学習に基づく人工知能は極めて効果的に機能することがだんだんとわかってきました。機械学習はアルゴリズムとしては恐ろしく単純です。おそらく、脳内で重要な働きをするアルゴリズムはいずれも、機械学習と同程度の単純さだと推測されます。例えば、同時刺激に対して接続を強固にする、というのは極めて単純なアルゴリズムなので、その候補の一つということです。

僕はけがをしたり、病気をしたりするたびに、自分の体のいろんなことを気づきます。僕ですら、失敗あるいは例外からしか学ぶことができないということに、ショックを受けています。でも、逆に、そういうことに健常者が気づくのはとても難しいことだとわかります。僕は年齢もそこそこですし、体もいろいろ壊れてきているので、体や脳の機能不全から逆に本来の機能についてのちょっとした気づきがあって、そういうのをピックアップするのは僕の役どころかな、と思っています。

2018年4月8日日曜日

西川式微分方程式5章


ラプラス変換

微分方程式を解くなら、フーリエ変換よりラプラス変換の方が、応用が利いて便利かもしれません。フーリエ変換を微分方程式の解法に利用するときに重要だったのは、2点ありました。一つは、1対1に対応する逆変換が存在すること、もう一つは、微分が機械的に表現できることでした。その二つの条件を満たすものに、ラプラス変換があります。したがって、ラプラス変換も、微分方程式を解くのに使えます。

ラプラス変換の定義

ラプラス変換はフーリエ変換にとっても似ています。
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[f\left(t\right)\right]=\int_{0}^{\infty}{f\left(t\right)e^{-st}dt}
\label{5-1}
\end{equation}
もし$s$が$i\omega$なら、フーリエ変換とほとんど同じです。$s$や$\omega$は任意に定義できるので、実はこの部分に本質的な違いはありません。フーリエ変換とラプラス変換の最大の違いは積分区間が0から始まることです。これは、物理的にとても重要なことです。通常の物理現象ではきっかけ(作用)があって、イベントが生じる(反作用)という因果律があります。積分区間の下限が0であるというのは、きっかけの前($t\lt 0$)は不問にするという因果律を表現します。そのため、フーリエ変換が基本的に定常状態を扱うのに対し、ラプラス変換は過渡現象もうまく扱えます。その代り、逆変換はかなり複雑になります。
\begin{equation}
f\left(t\right)=\mathcal{L}^{-1}\left[F\left(s\right)\right]= \lim_{p\rightarrow\infty}{\frac{1}{2\pi i}\int_{c-ip}^{c+ip}{F\left(s\right)e^{st}ds}}
\end{equation}
この積分を実行するのはかなり難しいです。$c=0$とすると逆フーリエ変換に一致しますが、特異点の問題があって、$c=0$と決め打ちできません。 ($\ref{5-1}$)式にあるように、ラプラス変換はフーリエ変換の半分の情報しかありません。だから、まともな方法では逆変換が出てこないのです。逆変換の背景には、実関数のフーリエスペクトルの実部と虚部は独立ではない、というKramers-Kronigの関係があります。それはつまり、因果律の存在を意味していることを4章で議論しました。その因果律は積分区間が0から始まるとして、ラプラス変換に取り込まれています。そうした物理的影響は別の部分にも表れています。例えば、ラプラス変換では、$f\left(t\right)$は実関数であるという制約がつきます。この制約は通常の物理現象を取り扱う上では全く問題ありません。いや、むしろ都合が良いとすらいえます。

単純な関数のラプラス変換

ラプラス変換の良いところは、($\ref{5-1}$)式の定積分が比較的簡単だ、ということです。というのは、$\lim_{t\rightarrow\infty}{e^{-st}}=0$、$\lim_{t\rightarrow0}{e^{-st}}=1$なので、($\ref{5-1}$)式が振動しないことが多いのです。実際に計算してみましょう。
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[1\right]=\int_{0}^{\infty}{e^{-st}dt}=\left[-\frac{1}{s}e^{-st}\right]_0^\infty=-\frac{1}{s}0+\frac{1}{s}1=\frac{1}{s}
\label{5-3}
\end{equation}
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[t\right]=\int_{0}^{\infty}{te^{-st}dt}=\left[-\frac{1}{s}{te}^{-st}\right]_0^\infty+\int_{0}^{\infty}{\frac{1}{s}e^{-st}dt}\\
=-\frac{1}{s}\infty\bullet0+\frac{1}{s}0\bullet1+\frac{1}{s}\bullet\frac{1}{s}=\frac{1}{s^2}
\end{equation}
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[t^2\right]=\int_{0}^{\infty}{t^2e^{-st}dt}=\left[\frac{1}{s}-{t^2e}^{-st}\right]_0^\infty+\frac{1}{s}\int_{0}^{\infty}{{2te}^{-st}dt}\\
=-\frac{1}{s}\infty\bullet0+\frac{1}{s}0\bullet1+\frac{2}{s}\bullet\frac{1}{s^2}=\frac{2}{s^3}
\end{equation}
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[t^n\right]=\frac{n}{s}\mathcal{L}\left[t^{n-1}\right]=\frac{n!}{s^{n+1}}
\end{equation}
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[e^{-at}\right]=\int_{0}^{\infty}{e^{-\left(a+s\right)t}dt}=\left[-\frac{1}{s+a}e^{-st}\right]_0^\infty\\
=-\frac{1}{s+a}0+\frac{1}{s+a}1=\frac{1}{s+a}
\end{equation}
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[cos{at}\right]=\int_{0}^{\infty}{\frac{e^{iat}+e^{-iat}}{2}e^{-st}dt}=\frac{1}{2}\int_{0}^{\infty}\left\{e^{-i\left(s-ia\right)t}+e^{-i\left(s-ia\right)t}\right\}dt\\
=\frac{1}{2}\left\{\frac{1}{s-ia}+\frac{1}{s+ia}\right\}=\frac{1}{2}\frac{s+ia+s-ia}{\left(s-ia\right)\left(s+ia\right)}=\frac{s}{s^2+a^2}
\end{equation}
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[sin{at}\right]=\int_{0}^{\infty}{\frac{e^{iat}-e^{-iat}}{2i}e^{-st}dt}
=\frac{1}{2i}\int_{0}^{\infty}\left\{e^{-i\left(s-ia\right)t}-e^{-i\left(s-ia\right)t}\right\}dt\\
=\frac{1}{2i}\left\{\frac{1}{s-ia}-\frac{1}{s+ia}\right\}=\frac{1}{2i}\frac{s+ia-s+ia}{\left(s-ia\right)\left(s+ia\right)}=\frac{a}{s^2+a^2}
\label{5-9}
\end{equation}
前述のように逆変換は簡単ではありません。しかし、1対1対応があるのはわかっているので、 ($\ref{5-3}$)~($\ref{5-9}$)の計算を表にしておいて、逆変換を辞書引きする方法が一般的です。

ラプラス変換の微分方程式への応用

ラプラス変換を微分方程式に応用するには、もう一つの条件、微分が機械的に表現できること、が必要です。そこで、フーリエ変換と同じように考えて、
\begin{equation}
\frac{d}{dt}f\left(t\right)=\lim_{p\rightarrow\infty}{\frac{1}{2\pi i}\int_{c-ip}^{c+ip}{\frac{d}{dt}F\left(s\right)e^{st}}ds}\\
=\lim_{p\rightarrow\infty}{\frac{1}{2\pi i}\int_{c-ip}^{c+ip}{sF\left(s\right)e^{st}}ds}=\mathcal{L}^{-1}\left[sF\left(s\right)\right]
\end{equation}
という定理が得られます。フーリエ変換の時と似ています。

では、懐かしの例題1を解いてみましょう。
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}f\left(x\right)=-a^2f\left(x\right)
\label{5-11}
\end{equation}
でしたので、両辺をラプラス変換します。
\begin{equation}
s^2F\left(s\right)=-a^sF\left(s\right)+C
\end{equation}
積分定数$C$をつけておきます。移項して、
\begin{equation}
F\left(s\right)=\frac{C}{s^2+a^2}
\end{equation}
となるので、($\ref{5-9}$)式によって、
\begin{equation}
f\left(x\right)=C\sin{ax}
\end{equation}
となります。cosineのバージョンの解が表れてきません。実は、この解き方では初期値として$f\left(0\right)=0$が暗黙のうちに指定されています。それは、積分定数を$+C$と置いたことに由来します。

ラプラス変換では、初期値定理と最終値定理というのがあります。
\begin{equation}
\lim_{s\rightarrow\infty}{sF\left(s\right)}=\lim_{t\rightarrow0}{f\left(t\right)}
\label{5-15}
\end{equation}
\begin{equation}
\lim_{s\rightarrow0}{sF\left(s\right)}=\lim_{t\rightarrow\infty}{f\left(t\right)}
\end{equation}
これは、Percevalの公式に相当するものです。今の場合、積分定数$C$を加えたところ、
\begin{equation}
\lim_{s\rightarrow\infty}{\frac{Cs}{s^2+a^2}}=0
\end{equation}
なので、$f\left(0\right)=0$ということです。
逆に、($\ref{5-15}$)式から、
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[f^\prime\left(x\right)\right]=sF\left(s\right)-f\left(0\right)
\label{5-18}
\end{equation}
ということができます。$s\rightarrow 0$で右辺が0になるように調整する、ということです。これが初期値を含んだラプラス変換になります。ここから、
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[f^{\prime\prime}\left(x\right)\right]=s^2F\left(s\right)-sf\left(0\right)-f^\prime\left(0\right)
\label{5-19}
\end{equation}
も導かれます。$\mathcal{L}\left[f^{\prime\prime}\left(x\right)\right]=s\left\{sF\left(s\right)-f\left(0\right)\right\}-f^\prime\left(0\right)$という図式です。ここから、一般に、
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[f^{\left(n\right)}\left(x\right)\right]=s^nF\left(s\right)-s^{n-1}f\left(0\right)-s^{n-2}f^{\left(1\right)}\left(0\right)-\cdots-f^{\left(n-1\right)}\left(0\right)
\end{equation}
となります。最終値定理を使うと
\begin{equation}
\mathcal{L}\left[f^\prime\left(x\right)\right]=sF\left(s\right)-\frac{1}{s}f\left(\infty\right)
\end{equation}
となりますね!
では、($\ref{5-11}$)式で$f\left(0\right)=C_0$, $f^\prime\left(0\right)=C_1$とすれば、
\begin{equation}
s^2F\left(s\right)=-a^2F\left(s\right)-sC_0-C_1
\end{equation}
と置けばよい、ということになります。すると、
\begin{equation}
F\left(s\right)=-\frac{sC_0+C_1}{s^2+a^2}
\end{equation}
となって、
\begin{equation}
f\left(x\right)=C_0 \cos{\pm ax}\pm\frac{C_1}{a}\sin{ax}
\end{equation}
と、解けます。

さて、ラプラス変換を用いた微分方程式の解法の真骨頂は非同次の場合です。つまり、
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f\left(x\right)+af\left(x\right)=e^{-x}
\label{5-24}
\end{equation}
などの場合です。フーリエ変換でも解けますが、非同次項(右辺)の変換ができない場合があって、面倒です。ラプラス変換はより自由度が高いので、($\ref{5-24}$)式を丸ごと変換できます。初期値として$f\left(0\right)=C_0$とすれば、
\begin{equation}
sF\left(x\right)-C_0+aF\left(s\right)=\frac{1}{s+1}
\label{5-25}
\end{equation}
さらに計算を進めて、
\begin{equation}
F\left(s\right)=\frac{1}{s+1}\frac{1}{s+a}+\frac{C_0}{s+a}
\end{equation}
これは、($\ref{5-3}$)~($\ref{5-9}$)の計算に無いのですが、右辺を「逆通分」します。
\begin{equation}
F\left(s\right)=\frac{1}{a-1}\left\{\frac{1}{s+1}+\frac{-1}{s+a}\right\}+\frac{C_0}{s+a}
\end{equation}
\begin{equation}
f\left(x\right)=\frac{1}{a-1}\left(e^{-x}-e^{-ax}\right)-C_0e^{-ax}
\end{equation}
ラプラス変換では、通分を逆に行う(部分分数を作る)操作が重要です。

微分方程式を越えて考える

さて、ラプラス変換やフーリエ変換を用いると微分方程式を演繹的に解くことができるとわかったわけですが、それはなぜか?ということを考えてみましょう。すぐに思い当たるのは、微分が機械的に可能である、ということです。普通、微分では関数の形がわからないと具体的な計算が行えないのですが、ラプラス変換やフーリエ変換では、関数の特徴はパラメータ化されているため、関数の具体的な形がわからなくても微分が可能です。こうした特徴が微分方程式を解く際に極めて強力なツールになるわけです。
これらをさらに抽象化すると、ある変換操作があって、その逆変換操作も保証されている場合、返還後にある操作(演算)が簡単になるなら、変換してから操作を行い逆変換することで、その操作を簡便化することが可能です。
世の中には様々な変換操作があります。一定の条件を満たせば逆変換操作が存在することになります。数多く存在する変換操作の中から、自分の目的に最も都合の良い変換操作を選び出すのはとても難しいことです。でも、それが可能になれば、僕たちには様々な利便性が生まれるはずです。例えば、ニュートン力学は物体の運動を質量・位置・速度によってパラメータ化するものです。そのパラメータ化を「変換」と考えてみると、リンゴや惑星という物体の属性を無視してそれらの運動を論じることが可能になります。ある意味、科学というのはそのような「変換」とその後に適用すべき「演算」を見つけるという側面があるのです。
この考え方は、科学(おもに物理)に関して、僕たちが普段抱いているイメージとは異なる哲学を与える場合があります。物理の法則の多くは微分方程式で表されていることから、微分方程式を解くのにフーリエ変換やラプラス変換を用います。逆に、微分方程式の方をフーリエ変換あるいはラプラス変換することを考えてみましょう。ニュートン力学では時間微分が運動方程式の中に現れるわけですが、フーリエ変換で考えれば、$i\omega$を乗じるという演算になります。つまり、微微分方程式ではなくなるのです。その結果、運動方程式は多項式になり、単純化される側面があります。フーリエ空間で$i\omega$を乗じるという計算が時間微分という演算に相当することから、時間微分という演算をある種の計算法、
すなわち「(単項)演算子」に対応付けることが可能かもしれません。その形式は微分を演算子$D$で表す「演算子法」と呼ばれる解法につながります。
さらにその考え方を推し進めた結果、シュレディンガー方程式が生まれ、量子力学が発展しました。シュレディンガー方程式では波動関数からエネルギーや運動量を取り出す演算子が微分で定義されます。シュレディンガー方程式をフーリエ変換すると単なる多項式となります。さらに波動関数をベクトルに変換すると、シュレディンガー方程式は行列1個にまとめることができます。それは固有値を求めるための方程式と同じ形をしており、最終的に量子力学は行列の固有値・固有ベクトルを求める問題に簡素化されます。
僕の理解では、これが可能であるための条件というのがあるのですが、それを議論している例を見たことがありません。微分方程式に関する基本的な理解が失われているため、世の中が迷走している可能性を危惧します。
運動方程式やシュレディンガー方程式に見られるように、物理法則を表すために微分が都合の良い場合には、微分方程式が基礎方程式になります。しかしながら、より複雑な物理法則に関しては単純な微分は役に立たないかもしれません。例えば、空間が曲がっている場合などです。よりモダンな物理ではより自由度の高い演算を求めた結果、テンソルを導入しました。
微分方程式を解く際に用いる級数展開は、現象を要素に切り分ける「見解」でした。級数展開は関数を別の形で表す「変換」です。一方、物理を記述する基礎方程式の多くは微分方程式ですが、それをより単純化して理解するために「変換」が使えます。いや、むしろ変換後の方程式の方が本質でそれをわかりやすい形にしたものが微分方程式だという風に見ることもできます。変換後の単純化された基礎方程式で話が済むのなら、そちらだけで話をしてしまえということで、量子力学は行列演算に終始するようになりました。その後の物理学はその方向性を先鋭化させています。
こうしてみると、僕たちは物理法則や自然現象を単純化する「変換」を求めているのだ、という考え方もできます。

2018年3月24日土曜日

いじめの論考

いじめの今昔

大昔からいじめは存在した。長い目で見ると、いじめは時代時代で少しずつ変遷しているように思う。例えば、平安時代のいじめ被害者として、菅原道真が挙げられる。道真はとっても人気者だったが、道真の怨念によって疫病や飢饉が起こったという、あきらかな濡れ衣を着せられ、大宰府に左遷される。もちろん都の災厄は道真の怨念が原因ではないので、災厄は道真の左遷後も続く。当然、道真は本格的に恨みを募らせる。ついに、呪いの言葉とともにこの世を去る。都の人々は恐れおののき、挙句の果ては、道真を神格に祭り上げ、天満宮を作った。

菅原道真の一件は、道真に非がないこと、道真が不快に思ったこと、がいじめの典型である。また、いじめた側の本心が妬みであったことも、いじめの典型である。昔のことなので、迷信がまかり通る世の中で、教育も定まっていない。道徳もあってないような社会だったはずだ。いじめに歯止めが効かず、左遷という事態にまでエスカレートしたのも、仕方ないのかもしれない。しかし、道真にとっては、いじめであり、忸怩たる思いがあったに違いない。

歴史に残るいじめ被害の例としてもう一つ、明智光秀が挙げられる。髪の毛が薄かった光秀は、織田信長から、ハゲと揶揄されたという話だ。いろんな場面で馬鹿にされた光秀が、ついに蜂起し、本能寺の変を起こした。いじめが歴史を左右する大事件に発展しうるという、顕著な例とみることができる。ま、本能寺の変はいじめだけが原因ではないと思うけどね。

いじめは日本だけでなく、海外にも存在する。西洋人はあまり認めたがらないが、ハリウッド映画に事例をみることができる。「バックトゥザフューチャー」では、主人公マーティーは、巨漢で金持ち(トランプ大統領がモデルらしい)のビフにいろいろいじめられている様子が描かれている。映画に登場するということは、程度の差はあるだろうが、現実のアメリカ社会にいじめが存在することを意味している。でなければ、劇中のプロットが観客に伝わらないからだ。

時間空間を超えて、いじめは人間の社会に普遍的に存在している。普遍的に存在しているということは、その理由も普遍的のはずだ。そのような文脈でいじめは理解されねばならない。
その立場に立てば、「いじめをなくそう!」といったスローガン、「周りが気を配っていれば、いじめがなくなる」という論調、それに基づく「いじめ対策」、すべて無駄だ、ということがわかる。人間社会には、本質的にいじめが存在し、それは子供に限った話ではない。歴史に見られるいじめは、大人社会のいじめだから、昔の子供社会にいじめがなかった、ということも考えられない。現代社会に見られるように、大人社会より子供同士のいじめの方が絶対的に多いように、昔の子供にもいじめ問題はたくさんあったはずだ。いじめと人間社会を切り離すことができない、つまり、「いじめはなくせるものではない」という立場に立って、どうしたらよいかを考えるべきだ、と僕は思う。

いじめの理由

菅原道真の例では、妬みが原因となっていた。これは、いじめる側に積極的な理由があるケースだ。この場合、いじめの動機ははっきりしている。菅原道真は自らの才覚で人気者ランキング上位に躍り出たわけだが、階級意識の強い貴族社会にあって、そのようなランキングの急上昇は極めて強い嫉妬の対象になる。道真を快く思わない人たちが策を弄して道真を陥れるというのは、陰湿な貴族社会にあってはよくあることだ。特に、道徳観念が緩い貴族社会では、そのような手法はむしろ肯定される傾向にあったと思われる。そのような社会では不利益を防止する手段として賄賂が有効だ。しかし、道真の場合は、賄賂が行き届かないほど急激に有名なったため、攻撃対象になったのだと理解できる。道真は、社会・組織の陰湿さの犠牲者だ。

明智光秀の場合には容姿が原因となっていた。バックトゥザフューチャーでは、架空の出来事ではあるが、主人公の体格が小さいことがいじめの理由であった。このように、いじめられる側の容姿がいじめの理由となる例は多い。とはいうものの、容姿の良しあしは主観の問題であるし、本人にはいかんともしがたい。いじめられる側にとっては、なんとも理不尽であり、非はない。一方、いじめられる側の容姿がどうあろうと、いじめる側に不利益が生じるなんてことはない。すなわち、いじめる側の動機ははっきりしないのだ。なんとなく、なんていうのは理由にならない。いじめの発生理由をはっきりしないといじめの対策も考察できないのだから、いじめ撲滅のためには、あきらめずに考察しなければならない。

バックトゥザフューチャーのケースでは、ガキ大将のマインドセットというのが重要に思う。ガキ大将には、取り巻きが存在し、ガキ大将は取り巻きに自分の力を誇示する必要がある(示威行為)。体格の劣る主人公マーティーは腕力での示威行為には最適のカモに見える。しかしながら、マーティーは暴力には屈しないので、示威行為が失敗する。するとさらに強硬な示威行為に発展し、その溝が深まる。

明智光秀の場合も、信長の示威行為の標的となったと考えることができる。いじめの標的になるのに実は理由はない。立場、体格、人脈などである程度の差があれば、理由は後付けで構わない。典型的な例では、口頭でのからかいからスタートする。反応するようなら、それを少しエスカレートさせる。限界点を超えて相手をキレさせることで、いじめの口実が完成する。対象の非を指摘し、正義(多数派)を味方につけ、執拗に攻撃を加える、というのがいじめの構図だ。これは、よくあるネットでの炎上と同じ構図に気づく。我々は大人になっても依然としていじめから脱却できていない。

ネット炎上といじめの類似点については、さまざまに指摘があり、僕の意見というわけでもない。ネット炎上とまではいかなくても、政治家や芸能人のスキャンダルに対する一般人の反応も、かなり似ている。この場合、双方向でないメディアが介在しているため、ネット炎上のように極端なエスカレートにはなりにくいが、かなりヒステリックな場合もある。誰にでも経験があるそのような場合の心理を考察することで、いじめの本当の理由が見えてくるはずだ。

いじめに対する抑止力

法や道徳が十分に発達していない社会では、いじめは人間関係の一部としてみなされていたはずだ。つまり、いじめはよくないことではあるが、犯罪的ではない、と認識されていた。織田信長が明智光秀をいじめても、信長をとがめる人はいなかったろう。信長のことを下品に思う人はいただろうが、だからと言って、当時の道徳観から逸脱しているわけではない。戦国時代という混乱を考慮すれば、もっと理不尽なことがたくさんあったわけで、個人のプライドなど、大義の前では些末なことだったに違いない。つまり、いじめの問題が顕著になるかどうかは、価値観の問題かもしれない、という点を指摘したい。

いじめは、長期的には利益を生まないので、よくないことだと考えられてきた。そのため、江戸時代になると、身分制度を確立させ、規範を徹底させた。そのために導入された思想が儒教である。儒教では身分の上下を絶対視するので、形式的にはいじめを排除できる。あるいは、いじめ的な行為そのものはむしろ禁止されないものの、さらに上位の者から、行動を規制され、いじめ的な行為は抑止される。儒教思想は形式的すぎて徹底的な実行が難しいのだが、江戸時代には実用面での解釈が進み、国学として発達した。
儒教と国学の決定的な違いは、国学では、儒教的な形式よりも、道徳観が優先する点である。確かに、道徳観によって、いじめは抑止されるだろう。江戸時代には、謀略の類はたくさんあったろうが、あからさまないじめは幕府からは排除されていたように見える。

例外は、大奥で、多くの逸話がある。様々な社会通念の外部に置かれた閉鎖社会では、いじめが自然発生する、という事例だろう。また、女性は自らの利益が絡むと順法意識が薄れる傾向があることが、最近の研究で明らかにされており、そのことも大奥でいじめが自然発生した原因の一つかもしれない。

道徳観はいじめに対する抑止力になりうるが、通常の道徳観と平等の精神は相性がすこぶる悪い。道徳観の基本は相手の利益を尊重するという態度である。それはつまり、自分の利益と相手の利益が衝突する場合に、自分の不利益を甘受するということだ。相手も同じように不利益をこうむる場合は、平等が成立するが、ふつうはそんなことはない。不利益の配分比率が平等になるような解決策が見つからない時は、自分の不利益が多くても、妥協すべし、というのが正しい道徳観になる。それはつまり、相手を平等にみなさないということだ。

ゲーム理論で論じられる有名な題材で「タカとハトのゲーム」がある。ハトは利益が衝突した時に、必ず不利益な選択をし、タカは必ず利益を優先するという選択をする。タカ同士が衝突する時は、けんかになり、半々の確率で大きな不利益を被る。これはつまり、ハトは徹底的に道徳的で、タカは非道徳的だということだ。面白いのは、タカとハトの比率が必ず安定するという点だ。道徳観が十分に発達したとしても、利益の衝突が存在する限り、非道徳的な振る舞いをする人が一定割合残るということだ。非道徳的な、つまり利己的な人には、いじめは抑止されないので、いじめは残る。つまり、道徳観を徹底しても、利己的な人を完全には排除できず、いじめは根絶できない。

いじめを少なくする方策

いじめの根絶が不可能だという結論に基づくと、我々にできることは、いじめを少なくすることと、いじめが発生した時の対処である。いじめを少なくするには、いじめに関するインセンティブを取り除くということに尽きる。
明智光秀の例のように、いじめというのは、いじめる側あるいはいじめられる側に、何かプラスの価値を生む、ということだ。いじめる側の利益は比較的わかりやすい。「カツアゲ」なら金銭的にプラスだし、「示威行為」ならコミュニティでの存在感がプラスになる。であれば、いじめ行為がプラスにならないような仕組みを考えればよい。「カツアゲ」はお金の匿名性によって生まれる非合法の商行為であるので、お金の匿名性をなくせば根絶できる。お金の匿名性に制限を加えると、関連する多くの犯罪が激減するだろうから、実は早くやった方が良い。

示威行為がプラスにならないようにするために、江戸時代には儒学・国学が発達した。徹底した道徳教育により、ガキ大将的な示威行為は恥ずかしいこととみなされ、大人の社会では、表面的には姿を消した。しかし、スキャンダルに対するバッシングや、ネット炎上のように、江戸時代には考えられなかった形式の示威行為が横行している。現代的な道徳観を再整備する必要がある。
いじめられる側にも、損得勘定が存在する。「カツアゲ」される場合、お金を渡す・渡さないという選択肢があり、お金を渡すことで、「カツアゲ」が成立する。そのとき、お金はいじめられる側が自発的に渡しているという「形式」を取る点が重要だ。「カツアゲ」では、直接的な暴力というより、言葉による「脅迫」が主な手段となる。時には暴力が含まれるが、暴力は証拠が残りやすいため、避ける傾向がある。暴力をちらつかせ、脅迫することで、そこから逃れる手段として金銭を要求する。いじめる側は、いじめられる側の財布に触れないことも多い。その場合、形式的にはいじめられる側が自発的に金銭を渡した、という言い訳が成立する。これにより、いじめる側の罪悪感が低減され、行為がエスカレートするという連鎖が生まれやすい。問題は、お金を提供するという選択肢が、そうでない場合よりいじめられる側にとって「得」になっている点だ。そうでないと「自主的」にならない。自主的でない場合は強盗だが、「カツアゲ」は「強盗」とはかなり違っているように見える。
いじめられる側にとって、お金を提供するのにどのような「得」があるのだろう。様々な状況が考えられるが、暴力の回避、いじめ行為の一次的緩和、コミュニティでの地位向上が主なところだろう。暴力は犯罪なので、しかるべき対応をすれば、確実になくすことができる。これに関しては断固たる態度が重要だ。

いじめを甘受するとコミュニティでの地位向上が一定程度あることに注目すべきだ。いじめの矛先がコミュニティの他のメンバーに移る可能性もある。いじめのリーダーはいじめのターゲットを順繰りに変えてゆくことで、絶対的な地位を築く傾向がある。昔よくあった「根性焼き」というやつだ。火のついたタバコを手のひらに当てて消すことで、いじめられっ子からコミュニティメンバーに昇格する。しかしながら、そもそもいじめが存在するようなコミュニティに加わるのにどれほどの価値があるのだろう。
実は、ここに、現状のいじめ対策の落とし穴がある。現在の学校教育では、いじめ根絶のために友達を大事にする、ということを徹底して指導する。友達というのはクラスメートのことである。その中にはいじめる側も含まれる。すなわち、友達を大事にしようというスローガンは、いじめる側を尊重しようというという意味が含まれ、いじめを助長する場合があるということだ。

いじめに対する対処

いじめにおける人間関係は、敵味方のようなわかりやすい二元論ではなかなか語れないことが知られている。いじめる側も場面を変えると「友達」であり、いじめの場面での関係はその対極であると思うと良い。任意の時点での人間関係はそれらの間のどこかだ。例えば、学校において先生が近くにいる場面では、「友達」に近く、先生や親から離れると、「いじめ」になっていて、先生や親から実態が見えにくくなる。

いじめに対処しようとするなら、そのような人間関係におけるゆらぎの存在を認め、いじめの場面を想定して事に当たる必要がある。先生という上位者が介入していじめの調査を行う場合、関係者が極端に「友達」側に寄った対応をするということを念頭に置かねばならない。重要なのは、いじめられる側も「友達モード」で事件を語ることがある、ということだ。これはちょうど、親による児童虐待と同じような構図である。
親による児童虐待において最も問題なのは、虐待されている子供にとって虐待があまりに日常的なので、それを虐待と認識していないことがある点だ。分別の整っていない子供の場合、虐待をダメなことだと認識できない場合も多い。また、子供にとって親は生命線なので、親を攻撃することはできない。そのため、子供からは、親にとって不利な証言が出にくいということもある。
極端ないじめの場合には、同じようなことが起こりうる。いじめられる側はその状態が普通だと思っている可能性があり、本人がそれをいじめと認識していないかもしれない。また、いめられる側の性格の傾向によって人間関係が極端に狭い場合、いじめる側が重要な人間関係となっていて、それを守ろうとする場合がある。よくあるのは、暴力的なのは一時的だから、という説明だ。これはドメスティックバイオレンスでよくあるパターンだ。ちなみに、児童虐待やドメスティックバイオレンスはいじめの類型として整理することができる。これらは暴力的ということで、犯罪として定義可能で、第三者の判断が比較て容易だが、いじめは違う。より多様な形式があり得るので、介入する場合には、さまざまなことに注意しなければならない。もっというと、いじめを前提として調査をすべきだ。それは、つまり、民事ではなくて刑事としての介入を原則とすべきということ意味する。

さて、いじめられる側が追いつめられるのは、いじめのコミュニティーから逃れられないからだという点に注意しよう。つまり、いじめのあるコミュニティーから離脱する選択肢があれば、いじめによる深刻な被害は回避可能であるということだ。

いまの学校教育では、友達重視が行き過ぎていて、友達からいじめっこを除外できない。友達重視ではなく、友達を尊重するという立場の方が良い。つまり、友達は、大切にする対象ではなく、尊重し、尊重される関係であると説く。また、尊重が得られない人は、友達の定義から容赦なく外す。また、さまざまなコミュニティー(友達の種類)を提供することで、いじめが発生した時の一時避難所あるいは、恒久的解決策とする。今の子供たちにとってのコミュニティーは、学校を中心とした交友関係に偏っており、それが子供たちをいじめの環境に縛り続けている。そのような未熟で閉じたコミュニティーにおいて、社会道徳が行き届かないのは当たり前だ。そのようなコミュニティーから離脱し、別のコミュニティーに参加できる環境を用意すべきだ。

今現在は、フリースクールがその役割を担っているが、フリースクールは不登校までエスカレートした段階での解決策であり、問題が深刻化しないと機能しない。いじめが深刻化しない段階で、代替コミュニティーを提供することを考えねばならない。
全く別のアプローチとして、いじめる側のコミュニティーを破壊するということも考えられる。昔からある手段としては、留年、転校、停学などだ。残念ながら、留年・転校は、いじめられる側の選択肢になっており、これはぜひとも是正すべきだ。問題のある子を一時的に転校させるために、特殊な学校を整備するというのは、特に都市では現実的な選択肢になるだろう。地方では、一時的に隔離クラスを作るというのが良い。隔離クラス・学校では専属の担当教員を配置し、徹底的にケアを行う。イメージとして、少年犯罪に対する医療少年院に近い。いじめられる状態を疑似体験し、正常なコミュニティーメンバーとしてのトレーニングを行うとよい。

留年の活用

留年を積極的に活用することも考えるべきだと僕は思う。恒久的な隔離の方法として、引っ越しと留年があるわけだが、引っ越しは経済的ではないし、地理的に無理な地域も多い。留年はダメージが残るやり方だが、多くの人が望んで留年するならどうだろう?
留年のデメリットは、交友関係が刷新されることと、年次を損することだ。交友関係の刷新は、いじめ対策として有効であり、この場合、デメリットにならない。年次を損するというのは、就業期間を損することで、生涯年棒を考えた場合に不利になるということだ。しかしながら、大学進学時に浪人したり、大学在学時に留年するのは、かなりの割合で存在するので、1年程度の留年の経済的損失は、おおむね許容される。留年は現実的な選択肢だと思う。
では、いじめる側といじめられる側のどちらを留年させるか、という問題になる。いじめる側に対し、いじめがダメだというメッセージを送るためには、いじめる側を留年させるべきだ。しかし、いじめられる側は問題発覚時点で不登校になっている可能性があり、学習面からみても、いじめられる側が留年するというのが現実的な選択肢になってしまう。
いじめる側に対するペナルティーは、前述の隔離教室等で対応するとして、いじめられる側の留年が懲罰的にならないような仕組みを考えるべきだろう。
留年のデメリットは、1年という時間的な遅れが、子供にとって無視できないほど大きいということだ。いじめられて不登校になっている場合、級友が刷新されることはデメリットというわけでもないので、この時間的な遅れが最も重大な障害になる。前述のように、大学卒業時点では1年くらいの遅れはなんともない。なので、大学入学時点で時間的遅れのデメリットが目立たないようにするのが良いだろう。後述するが、留年というシステムを積極活用するといじめ対策以外にもメリットが出てくる。
1年という期間が長すぎるというのが問題なら、それを6か月とか3か月とかにできないだろうか?3か月は難しいかもしれないが、6か月なら現実的かもしれない。6か月での進行には、実はいくつかのメリットがある。
学校システムを6か月進行にするというのは、例えば、4月と10月に入学があり、3月と9月に卒業するということだ。各学年は、1年前期、1年後期という言うように半年ごとに進んでゆく。当然、入試も年2回行うことになる。中学校以降では教科ごとに先生が変更になるので、対応は容易だ。小学校では、むしろ6か月制が好ましい部分もある。というのも、小学校低学年では半年違うと体格に差があり、年齢差にともなう差が成績に現れてしまうからだ。例えば、陸上競技の選手は4月生まれが多いという統計データがある。体格差が出やすく、結果の比較が厳密な陸上競技では、選手の選抜時のちょっとした年齢差が影響する。選抜されるかどうかで、後につづくトレーニングやモチベーションに差が現れるため、数か月の生まれの差が重大な影響につながる。
勉強に関しては、それほど顕著な差はみられないが、体格の差はいじめを生む要因にもなる。未熟児で得生まれというケースでは、小学校半ばまで体格の差が残るケースもあり、そういう場合には、1年くらい遅らせたいという親もいるかもしれない。
勉強に関しても、小学校の低学年で遅れてしまう場合には、1年遅らせたほうが教育的にも好ましいかもしれない。わけのわからない授業を朝から夕方まで聞かされるというのは、拷問以外の何物でもないし、それによって余計に勉強嫌いになる。僕の上の子がそういうケースで、小学校の時に留年させたい旨を申し出たが、法律によって阻まれた。
小中学校で留年がないのは、義務教育だからという理由で説明されるが、実のところ、1年の遅れが子供の教育にとって深刻な影響を与えるということを恐れているからだ。でも遅れが半年だったらどうだろう?あるいは、入学時期を選べるというのはどうだろう?入学時期は体格や精神の発達で決定するようにすると良い気がする。ある親は早めの入学を希望するかもしれない。ただ、早すぎると体格的に不利で、子供にとってはちょっと嫌だろう。
うちの近くの小学校は児童数が少なく、各学年1クラスなので、6か月制への移行は難しいかもしれない。でも複数クラスある場合は、容易に対応できる。

小学校、中学校は対応できるとして、高校はどうだろう?高校の場合、入試が問題になる。具体的には、半期に一度入試をするのかどうか、ということに尽きる。私立高校では、生徒獲得のチャンスが増えるので、むしろ歓迎されるかもしれない。でももっと重要なのは、出口に設定されている大学入試だ。もし、大学入試を半期に一度行うようにすれば、高校はそれに対応するために、6か月制に自然に移行すると予想する。
実のところ、大学はすでにほとんど6か月制になっている。少なくとも、大学院は完全に6か月制であるところも少なくない。あとは、試験をどのくらいの頻度で行うか、という問題に尽きる。
大学にとっての6か月制のメリットは、外国からの学生の受け入れが容易になることが挙げられる。海外の学期は、9月か10月にスタートするからだ。半期のずれが、日本と海外の大学の接続の障害になっている面があるが、6か月制にすれば、解決する。
1年に2回入学機会があるというのは、受験生にとって朗報だ。浪人のデメリットが大幅に低減されるだろう。受験機会が増えるということは、大学入試に伴うリスクが減るということだ。それはすなわち、大学入試に対する過熱気味の対応を是正することにもつながるだろう。センター試験を廃止するという議論が進んでいるが、これも6か月制を後押しするかもしれない。というのも、新しい方式では、複数の時期に複数回、テストが受けられるようになるかもしれないからだ。大学入試の時期を現在の1月~3月に限定する必要がなくなるということだ。
合わせると、10月入学した小学生は、10月に大学に入学できるようになる、ということだ。大学入学の規定で、年齢制限を課す方が良いと僕は思っている。早めに入学した子は、早めに高校を卒業することになる。でも大学入学の年齢制限に引っかかって、半年くらい待たされるかもしれない。その時は、留学したり、ボランティアに参加したりすると良いと思っている。若い時に、いろいろ経験することはよいことなのだが、現状の教育システムでは時間がなくて、実行できていない。それが是正できる。また、高校卒業と大学受験が切り離されることで、高校の予備校化に歯止めがかかるかもしれない。大学入試時に、高校卒業後をどのように過ごしたかが考慮されるシステムにするとより効果的かもしれない。

いじめの話に戻すと、6か月制というのは、留年が容易になるという点でとても良い。入学時期が早かったり遅かったりというのが許され、学校教育の関門として設定される大学受験で、入学・卒業時期の差がリセットされるとすると、ほとんどの子供に半年程度の余裕ができるはずだ。つまり、1回留年しても、級友が刷新される以外のデメリットがほとんどない、ということだ。

高校では逆に、留年が極端に多くなる可能性がある。というのも、留年に関する障害が少なくなると、成績・評価が厳密化するかもしれないからだ。厳密化すると、ちゃんと勉強しないと高校を卒業できなくなる。温情をかける場面もあるかもしれないが、留年の基準に留年回数をあからさまに反映させるのは、教育上よくない。
高校における教育困難校問題に対しては、これが一つの解決策となるだろう。基準をクリアしないで卒業させるから、教育困難校になるわけで、留年環境の緩和はこれを防ぐ方向に働く。

留年を許容する社会

実際のところ、大卒時点では、誰も留年を気にしない社会にはなっている。しかしながら、留年しているとその理由を尋ねられることがあるだろう。なぜなら、給与計算がくるってくるからだ。給与の起算は入社年次を基準にするものだが、大学院に長く在籍した人の不利を補填するため、学部卒業時や修士卒業時を基準にすることもある。年功序列の弊害だが、年功序列が崩れ始めた現在に至っても、給与に関する取り決めはなかなか変更しづらいものだ。でも働き方改革が追い風になるかもしれない。
仕事内容で給与を決めるとなると、留年は大きなハンデにはならない。勤続年数に応じた経験をカウントするというをやめようというのが働き方改革の理念であるので、それがなくなると、勤続年数が少なくなる留年というイベントの最大のデメリットが取り除かれることになるからだ。最終学歴での留年がハンデにならなければ、最終学歴に至る過程での留年も人生におけるドロップアウトを意味しなくなるだろう。
ゆっくりでも学び続ければ、誰でも大学を卒業できるはずだ。その情熱があれば、素晴らしい人材であることの証明になる。学びのスピードは人それぞれだ。ゆっくり、じっくり自分に合ったスピードで学ぶことができた方がハッピーかもしれない。そう考えると、小学校や中学校で留年したほうがよい人生が送れる可能性すらある。留年という仕組みを積極的に活用する方向で物事を考えたらどうだろう。

2018年3月10日土曜日

西川式微分方程式4章


レオロジーと線形応答

この章では微分方程式が現れる物理現象を紹介します。一つはレオロジーという力学、もう一つは線形応答という信号処理の分野です。そして最後に両者が同じものだということを指摘します。

物体の運動や量子力学は微分方程式で表わされることが知られています。このように物理の世界では多くの現象が微分方程式を通じて説明されます。僕の専門というほどではないのですが、得意分野にレオロジーというのがあります。レオロジーとは「固体」と「液体」の区別なく材料の力学応答を論じる学問分野です。僕の本当の専門であるプラスチックは固体の性質と液体の性質を併せ持っています。プラスチックに特有のしなやかさや金属とは違うソフトな肌触りは液体の性質を反映したものです。
通常、固体の力学は弾性理論、液体の力学は流体力学で議論されます。しかし、プラスチックは固体と液体のそれぞれの性質を「良い具合」にミックスしているため、弾性理論や流体力学にはそぐいません。そのため、材料を固体と液体のミックスとみなすレオロジーという力学分野が発達しました。
プラスチックほどではありませんが、厳密にいえばすべての物質は多かれ少なかれ固体的な性質と液体的な性質を併せ持っています。だから、レオロジーはより広い範囲に適用できる優れた力学なのです。しかし、レオロジーの世界は微妙に複雑です。例えば、固体の重要な物性値である「弾性率」ですが、レオロジーの世界では複素数になります。さらに運動の速さによって、値が大きく変化します。

フォークトモデル

レオロジーは固体的な性質を表す弾性と液体的な性質を表す粘性をミックスした力学です。弾性というのは決まったひずみに対して決まった応力が発生する性質を言います。模式的にはバネをイメージすると良いでしょう。一方、粘性というのはひずみ速度に対して応力が決まるような力学挙動を指します。そのような性質を模式的に表す場合には、ダッシュポッドという少し聞きなれない力学要素を用います。
ダッシュポッドというのは自動車等のサスペンションではダンパーと呼ばれている部分です。ダッシュポッドはピストンの先端が液漏れするようになっている注射器のような構造をしています。シリンダーの中には液体(多くの場合はとろとろのオイル)が充填されており、ピストンを動かすとピストン先端の穴を液体が通ります。液体がとろとろなので大きな力を与えないとピストンがうまく動きません。ただ移動するのが液体なので、ゆっくりピストンを押せば少ない力でもピストンが動きます。結局、液体のもつ性質を利用する力学要素になっています。
レオロジーでは、弾性と粘性をミックスするために、バネとダッシュポッドを組み合わせるとどうなるか、ということを考えます。バネとダッシュポッドというのは、電気回路における抵抗とコンデンサ(Capacitor)に似ています。というか、対応します。抵抗とコンデンサのつなぎ方をイメージすれば、バネとダッシュポッドのつなぎ方のヒントになります。電気回路での基本的なつなぎ方には、直列と並列がありますが、同じようにバネとダッシュポッドのつなぎ方にも直列と並列が考えられます。前者をマックスウェル(Maxwell)モデル、後者をフォークト(Voigt)モデルと言います。バネとダッシュポッドを並列に並べるフォークトモデルの方が簡単なので、先にフォークトモデルを調べてみます。

フォークトモデルでは、次のようにバネとダッシュポッドを並列につないだ力学モデルを考えます。ひずみはバネとダッシュポッドの両方に均等に適用され、観測される応力はバネとダッシュポッドの両方の和になります。


図4-1 フォークトモデルの模式図

バネが発する力は、ひずみ$\gamma$に比例します。比例係数は$G$とします。一方、ダッシュポッドが発する力は、ひずみ速度に比例し、比例係数は$\eta$とします。このとき、の応力$\sigma$は次のように表されるでしょう。
\begin{equation}
\sigma=G\gamma+\eta\dot{\gamma}
\end{equation}
ただし、$\sigma$と$\gamma$は時間$t$の関数で、$\dot{\gamma}$は$\gamma$の時間微分です。僕たちに馴染みの形式で書くと次のようになります。
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=G\gamma\left(t\right)+\eta\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)
\label{4-2}
\end{equation}
この微分方程式を解くには、両者をフーリエ変換すればよいということを第3章で議論しました。$\mathcal{F}\left[\sigma\left(t\right)\right]=\Sigma\left(\omega\right)$、$\mathcal{F}\left[\gamma\left(t\right)\right]=\Gamma\left(\omega\right)$とすると、($\ref{4-2}$)式のフーリエ変換は、次のようになります。
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=G\Gamma\left(\omega\right)+\eta i\omega\Gamma\left(\omega\right)=\left(G+i\omega\eta\right)\Gamma\left(\omega\right)=G_V^\ast\left(\omega\right)\Gamma\left(\omega\right)
\end{equation}
$G_V^\ast\left(\omega\right)$は複素数で$\omega$の関数なのですが、バネ定数の拡張版だとわかります。また、虚数部部分はダッシュポッドすなわち液体としての性質に関係するということもわかります。
さらに逆フーリエ変換すれば、微分方程式を解くことになるでしょう。あんまり意味はないのですが、念のために実際に逆フーリエ変換までやっておきましょう。
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=\mathcal{F}^{-1}\left[G_V^\ast\left(\omega\right)\right]\otimes\gamma\left(t\right)
\end{equation}
形式的には解けましたが、あんまり意味がよくわかりません。ここで用いたフォークトモデルが現実の材料を反映しているのかどうかも定かではありません。そこで、もう一つのモデルであるマックスウェルモデルでも検討してみましょう。

マックスウェルモデル

マックスウェルモデルはバネとダッシュポッドを直列につないだ力学モデルです。電気回路の例だと直列の方が計算が簡単だという印象がありますが、力学モデルでは直列の方が少し難しくなります。


図4-2 マックスウェルモデルの模式図

マックスウェルモデルでは、力はバネとダッシュポッドに均等に作用します。必然的にバネとダッシュポッドのそれぞれのひずみは違ってきます。バネのひずみを$\gamma_1\left(t\right)$、ダッシュポッドのひずみを$\gamma_2\left(t\right)$とすると、応力$\sigma\left(t\right)$は次のようになります。
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=G\gamma_1\left(t\right),\ \ \ \ \
\sigma\left(t\right)=\eta\frac{d}{dt}\gamma_2\left(t\right)
\label{4-5}
\end{equation}
僕たちが観測するひずみ$\gamma\left(t\right)$はバネとダッシュポッドのひずみの和ですから、次の条件が付与されます。
\begin{equation}
\gamma\left(t\right)=\gamma_1\left(t\right)+\gamma_2\left(t\right)
\label{4-6}
\end{equation}
これらの式をまとめて一つの微分方程式にしたいところですが、なかなかうまくいきません。邪魔者は、$\gamma_1\left(t\right)$と$\gamma_2\left(t\right)$です。とくに、($\ref{4-5}$)式で$\gamma_2\left(t\right)$は微分になっていて厄介です。そこで、発想を転換して、($\ref{4-6}$)式の両辺を微分します。
($\ref{4-5}$)式を変形して、次のようにします。
\begin{equation}
\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)=\frac{d}{dt}\gamma_1\left(t\right)+\frac{d}{dt}\gamma_2\left(t\right)
\end{equation}
こうすると、$\gamma_1\left(t\right)$だけが仲間外れ(微分ではない)になります。でも微分であれば気楽に行えます。すなわち、
\begin{equation}
\frac{d}{dt}\sigma\left(t\right)=G{\frac{d}{dt}\gamma}_1\left(t\right)
\end{equation}
これらを用いて、一つの微分方程式が次のように得られます。
\begin{equation}
\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)=\frac{1}{G}\frac{d}{dt}\sigma\left(t\right)+\frac{1}{\eta}\sigma\left(t\right)
\end{equation}
フォークトモデルの場合とずいぶん違う微分方程式が得られました。でも微分方程式を解く方法は同じです。フーリエ変換すればよいのです。
\begin{equation}
i\omega\Gamma\left(\omega\right)=\frac{i\omega}{G}\Sigma\left(\omega\right)+\frac{1}{\eta}\Sigma\left(\omega\right)
\end{equation}
すこしの計算で次式が得られます。
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=\frac{G\eta i\omega}{i\omega\eta+G}\Gamma\left(\omega\right)
\end{equation}
$\tau=\eta/G$と置いて、有理化すると、次式を得ます。
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=G\frac{\left(\omega\tau\right)^2+i\omega\tau}{1+\left(\omega\tau\right)^2}\Gamma\left(\omega\right)=G_M^\ast\left(\omega\right)\Gamma\left(\omega\right)
\label{4-12}
\end{equation}
フォークトモデルの場合と類似の複素数のバネ定数相当係数$G_M^\ast\left(\omega\right)$が得られました。このような複素数の係数を複素弾性率と呼びます。$G_M^\ast\left(\omega\right)$の中身はフォークトモデルとはかなり異なりますが、それを除けば、全く同じとも言えます。
実際、式の性質を決めるのは、複素弾性率の中身であり、その形式はモデル依存ということです。逆に、マックスウェルモデルやフォークトモデル以外の力学モデルも考えられますし、実際の材料は非常に複雑な複素弾性率を持っています。

レオメーター

さて、フォークトモデルやマックスウェルモデルで得られた複素弾性率はバネ定数のような現実の物性値なのでしょうか。微分方程式を解く過程で得られた単なる数学上のパラメータかもしれません。先に議論したように、材料の力学挙動を特徴づける重要なパラメータであることは示唆されていますが、物性値として測定できなければ利用のしようがありません。そこで、複素弾性率を測定する方法を考えてみましょう。

フォークトモデルとマックスウェルモデルの議論で見たように、どのような力学モデルを使うかにかかわらず、応力とひずみは複素弾性率とフーリエ変換を通じて結びつけることができるというのが出発点になります。
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=G^\ast\left(\omega\right)\Gamma\left(\omega
\right)\label{4-13}
\end{equation}
力学測定の基本は、あるひずみを与えたときの応力を測定するというものです。例えば引張試験をイメージすると良いでしょう。引っ張り量(ひずみ)に対して、必要な力(応力)を計測するという具合です。ひずみに対して応力をプロットすると、傾きが弾性率になります。その原理は($\ref{4-13}$)式にも基本的には当てはまります。ただし、($\ref{4-13}$)式はフーリエ空間で示されているので、単純ではありません。しかしながら、単純な刺激に対して応答を観測するという原理は同じです。
$\Gamma\left(\omega\right)$の最も単純な形式はどのようなものでしょう。例えば、ある特定の$\omega$でだけ値を持ち、その他が0であるようなものを考えると良いかもしれません。そのような性質を持つ関数をすでに学んでいます。$\delta$関数です。そこで、$\Gamma\left(\omega\right)$を次のように考えます。
\begin{equation}
\Gamma\left(\omega\right)=\delta\left(\omega-\omega_0\right)
\end{equation}
すると、$\Sigma\left(\omega\right)$は次のようになるはずです。
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=\ G^\ast\left(\omega_0\right)\delta\left(\omega-\omega_0\right)
\label{4-15}
\end{equation}
これは、$G^\ast\left(\omega\right)$から$G^\ast\left(\omega_0\right)$を抜き出して観測する方法を提供します。残念ながら、$\Gamma\left(\omega\right)$はフーリエ空間で定義されているので、僕たちが取り扱うことができる通常の世界とは少し違っています。そこで、$\Gamma\left(\omega\right)=\delta\left(\omega-\omega_0\right)$を逆フーリエ変換して、僕たちが実験で用意できる$\gamma\left(t\right)$の形にしてみましょう。
\begin{equation}
\gamma\left(t\right)=\int_{-\infty}^{\infty}{\delta\left(\omega-\omega_0\right)e^{i\omega t}d\omega}\\
=e^{i\omega_0t}\int_{-\infty}^{\infty}\delta\left(\omega-\omega_0\right)d\omega\\
=e^{i\omega_0t}=\cos{\omega_0t}+i\sin{\omega_0t}
\label{4-16}
\end{equation}
同様に、$\gamma\left(t\right)$に対して観測されるであろう$\sigma\left(t\right)$も計算しましょう。
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=\int_{-\infty}^{\infty}{G^\ast\left(\omega\right)\delta\left(\omega-\omega_0\right)e^{i\omega t}d\omega}\\
=G^\ast\left(\omega_0\right)e^{i\omega_0t}\int_{-\infty}^{\infty}\delta\left(\omega-\omega_0\right)d\omega\\
=G^\ast\left(\omega_0\right)\cos{\omega_0t}+iG^\ast\left(\omega_0\right)\sin{\omega_0t}
\label{4-17}
\end{equation}
さて、($\ref{4-16}$)式や($\ref{4-17}$)式は見通しが悪い上に複素数です。複素数のひずみなんてわけがわかりません。多くの教科書では実部だけに意味を見出すとして、実部を取り出す関数$\mathcal{Re}\left[\cdots\right]$を適用し、ひずみ、応力ともに$\mathcal{Re}\left[\gamma\left(t\right)\right]$、$\mathcal{Re}\left[\sigma\left(t\right)\right]$が観測されるとして片付けています。僕はそういうのが嫌いなので、もう少しちゃんとやります。
\begin{equation}
\mathcal{Re}\left[a+bi\right]=\frac{1}{2}\left(a+bi+a-bi\right)=\frac{1}{2}\left\{\left(a+bi\right)+\left(a+bi\right)^\ast\right\}
\end{equation}
というように、実部を取り出すには、共役複素数を足して2で割ればよいということがすぐにわかります。なので、多くの教科書でつかうひずみとは次ようなものになるでしょう。
\begin{equation}
\mathcal{Re}\left[\gamma\left(t\right)\right]=\frac{1}{2}\left\{\gamma\left(t\right)+{\gamma\left(t\right)}^\ast\right\}\\
=\frac{1}{2}e^{i\omega_0t}\int_{-\infty}^{\infty}\delta\left(\omega-\omega_0\right)d\omega+\frac{1}{2}e^{-i\omega_0t}\int_{-\infty}^{\infty}\delta\left(\omega-\omega_0\right)d\omega\\
=\frac{1}{2}\left\{\cos{\omega_0t}+i\sin{\omega_0t}\right\}+\frac{1}{2}\left\{\cos{\omega_0t}-i\sin{\omega_0t}\right\}=\cos{\omega_0t}
\end{equation}
確かに、このようなひずみなら現実に取り扱うことができるでしょう。我々に必要なのはそのフーリエ変換なので、次の計算をすればよいと思うかもしれません。
\begin{equation}
\Gamma\left(\omega\right)=\int_{-\infty}^{\infty}{\cos{\omega_0t}e^{-i\omega t}dt}
\end{equation}
でも、この積分は難しいんです。逆に、次のようなことを考えてみましょう。
\begin{equation}
\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{1}{2}\left\{\delta\left(\omega-\omega_0\right)+\delta\left(\omega+\omega_0\right)\right\}e^{i\omega t}}dt=\frac{1}{2}\left\{e^{i\omega_0t}+e^{-i\omega_0t}\right\}=\cos{\omega_0t}
\end{equation}
ということから、
\begin{equation}
\Gamma\left(\omega\right)=\frac{1}{2}\left\{\delta\left(\omega-\omega_0\right)+\delta\left(\omega+\omega_0\right)\right\}
\end{equation}
ということがわかります。
さて、これを($\ref{4-15}$)式に叩き込んで、逆フーリエ変換しましょう。
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{1}{2}\left\{G^\ast\left(\omega\right)\delta\left(\omega-\omega_0\right)+G^\ast\left(\omega\right)\delta\left(\omega+\omega_0\right)\right\}e^{i\omega t}d\omega}
=\frac{1}{2}\left\{G^\ast\left(\omega_0\right)e^{i\omega_0t}+G^\ast\left({-\omega}_0\right)e^{-i\omega_0t}\right\}
\label{4-23}
\end{equation}
さて、$G^\ast\left({-\omega}_0\right)$というのはおかしい気がします。今、$\gamma\left(t\right)$は周期関数で、ωは周期変形の「向き」と「速さ」を意味します。ωの符号が変形の向きだと思うと、負のωは反対方向の変形を意味するでしょう。通常材料においては変形の方向が逆であっても同じ物性が出ないとおかしいですよね。だから、$G^\ast\left({-\omega}_0\right)$の実部は$G^\ast\left(\omega_0\right)$と同じでしょう。しかし、虚部は粘度すなわちひずみの速度からもたらされるので、ひずみの方向が変わると応力の向きも変わるでしょう。だから、$G^\ast\left({-\omega}_0\right)$は$G^\ast\left(\omega_0\right)$の複素共役だと考えられます。このままでは計算がややこしいので、
\begin{equation}
G^\ast \left(\omega\right)=G^\prime \left(\omega\right)+iG^{\prime\prime}\left(\omega\right)
\end{equation}
として、実部と虚部を分けます。
\begin{equation}
G^\ast\left(-\omega\right)=G^\prime \left(\omega\right)-iG^{\prime\prime}\left(\omega\right)
\end{equation}
です。これを($\ref{4-23}$)に叩き込んでみます。
\begin{equation}
\frac{1}{2}\left\{G^\ast\left(\omega_0\right)e^{i\omega_0t}+G^\ast\left({-\omega}_0\right)e^{-i\omega_0t}\right\}\\
=\frac{1}{2}\left(G^\prime\left(\omega_0\right)+\ iG^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\right)\left(\cos{\omega_0t}+i\sin{\omega_0t}\right)+\frac{1}{2}\left(G^\prime\left(\omega_0\right)-\ iG^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\right)\left(\cos{\omega_0t}-i\sin{\omega_0t}\right)\\
=G^\prime\left(\omega_0\right)\cos{\omega_0t}-G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\sin{\omega_0t}
\label{4-26}
\end{equation}
うまく虚部が相殺されました。ここから、実数のひずみの入力に対して、実数の応力応答があるという当たり前の物理現象がきちんと再現されることが確認できます。
さらに、($\ref{4-26}$)式は$G^\ast\left(\omega\right)$を計測する方法を提供します。材料に対して$\gamma\left(t\right)=\gamma_0\cos{\omega_0t}$のひずみを与えると、応力は$\sigma\left(t\right) =G^\prime\left(\omega_0\right)\gamma_0\cos{\omega_0t}-G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right) \gamma_0 \sin{\omega_0t}$という応答をするはずです。その応答を調べてあげれば、$G^\prime\left(\omega_0\right)$と$G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)$を決定することができます。さらに$\omega_0$を変更して同じ実験を繰り返せば、$G^\ast \left(\omega\right)$を実験値として得ることができます。


このような原理で$G^\ast \left(\omega\right)$を測定することを粘弾性測定と呼び、これを実施する測定装置のことをレオメーターと呼びます。かくして、$G^\ast \left(\omega\right)$は理論上のパラメータではなく、実在する物性値ということであることがわかりました。そして、固体と液体の中間的なあらゆる力学を一般化した基本的なパラメータとして$G^\ast \left(\omega\right)$を議論することが可能になりました。

粘弾性スペクトル

バネとダッシュポットの組み合わせに代表されるような弾性と粘性が渾然一体となった力学を粘弾性と呼びます。そして、$G^\ast\left(\omega\right)$あるいは、$G^\prime\left(\omega\right)$と$G^{\prime\prime}\left(\omega\right)$は粘弾性スペクトルと言います。スペクトルというのは分光学の用語で、力学には似つかわしくありませんが、$G^\prime\left(\omega\right)$と$G^{\prime\prime}\left(\omega\right)$はωの関数であり、ωは周波数です。周波数(あるいはそれと等価なパラメータ)を横軸にとるような物性値のことを一般にスペクトルと呼ぶので、$G^\prime\left(\omega\right)$と$G^{\prime\prime}\left(\omega\right)$は立派なスペクトルです。
粘弾性スペクトルの形状は様々なのですが、一般的にはマックスウェルモデルで現れた($\ref{4-12}$)式のような形が多く観測されています。そのため、($\ref{4-12}$)式のような粘弾性スペクトルにはデバイ緩和という特別な名前がついています。そこで、($\ref{4-12}$)式のデバイ緩和の特徴をもう少し詳しく見ていきましょう。
($\ref{4-12}$)式は複素数で見づらいので、実部と虚部に分けて考えます。
\begin{equation}
G^\prime\left(\omega\right)=G\frac{\left(\omega\tau\right)^2}{1+\left(\omega\tau\right)^2}
\label{4-27}
\end{equation}
\begin{equation}
G^{\prime\prime}\left(\omega\right)=G\frac{\omega\tau}{1+\left(\omega\tau\right)^2}
\label{4-28}
\end{equation}
ここで、τは時間の単位を持ち、粘弾性スペクトルの形を決める重要なパラメータであることがわかります。そのためτには緩和時間という特別な名前がついています。まず$G^\prime\left(\omega\right)$に注目します。$\omega\tau$が1よりずっと小さい場合、分母はほとんど1とみなせるでしょう。すると
\begin{equation}
G^\prime\left(\omega\right)\sim G\left(\omega\tau\right)^2\propto\omega^2

\end{equation}
となり、$\omega$が極端に小さくなると、$G^\prime\left(\omega\right)$は$\omega^2$に比例するようになります。逆に$\omega\tau$が1よりずっと大きい場合、分母はほとんど$\omega\tau^2$とみなせます。すなわち、
\begin{equation}
G^\prime\left(\omega\right)\sim G\frac{\left(\omega\tau\right)^2}{\left(\omega\tau\right)^2}\sim const.
\end{equation}
つまり、$\omega$が極端に大きい領域では、$G^\prime\left(\omega\right)$は一定値$G$のことを平衡弾性率と呼びます。同様の方法で$G^{\prime\prime}\left(\omega\right)$の特徴を見ると、
\begin{equation}
G^{\prime\prime}\left(\omega\right)\sim \left\{\begin{matrix}\omega\tau&for\ \omega\tau\ll1\\\left(\omega\tau\right)^{-1}&for\ \omega\tau\gg1\\\end{matrix}\right.
\end{equation}
そして、両者とも$\omega\tau\sim 1$で勾配が変化することがわかります。
また、$\omega\tau\gg 1$では$G^\prime\left(\omega\right)>G^{\prime\prime}\left(\omega\right)$となるため、系は固体の特徴が顕著です。一方、$\omega\tau\ll 1$では、$G^\prime\left(\omega\right)$。
一般に、ひずみと応力の積はエネルギーになります。前節では$\gamma\left(t\right)=\gamma_0\cos{\omega_0t}$のひずみに対し、$\sigma\left(t\right)=G^\prime\left(\omega_0\right)\gamma_0\cos{\omega_0t}-G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\gamma_0\sin{\omega_0t}$の応力が得られることを示しましたが、ひずみの1周期に要するエネルギーは次式で計算できます。
\begin{equation}
W=\int_{0}^{1\ period}\sigma\left(\gamma\right)d\gamma=\int_{0}^{2\pi/\omega_0}{\sigma\left(t\right)\frac{d\gamma\left(t\right)}{dt}dt}
\label{4-32}
\end{equation}
さらに、具体的な計算をつづけます。
\begin{equation}
W=\int_{0}^{2\pi/\omega_0}{G^\prime\left(\omega_0\right)\gamma_0^2\omega_0\cos{\omega_0t}\sin{\omega_0t}dt}-\int_{0}^{2\pi/\omega_0}{G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\gamma_0^2\omega_0\sin^2{\omega_0t}dt}\\
=G^\prime\left(\omega_0\right)\omega_0\gamma_0^2\int_{0}^{2\pi/\omega_0}{\frac{\sin{2\omega_0t}}{2}dt}-G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\omega_0\gamma_0^2\int_{0}^{2\pi/\omega_0}{\frac{1-\cos{2\omega_0t}}{2}dt}\\
=G^\prime\left(\omega_0\right)\omega_0\gamma_0^2\left[-\frac{\cos{2\omega_0t}}{4\omega_0}\right]_0^{2\pi/\omega_0}{-G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right){\omega_0\gamma}_0^2\left[\frac{t}{2}-\frac{\sin{2\omega_0t}}{4\omega_0}\right]}_0^{2\pi/\omega_0}\\
=-G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\omega_0\gamma_0^2\frac{2\pi}{2\omega_0}=-\pi G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)\gamma_0^2
\end{equation}
エネルギーは負の値となり、1周期の変形でエネルギーを失うことがわかります。しかも係数には、$G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)$だけで$G^\prime\left(\omega_0\right)$が消えています。こうした性質から、$G^{\prime\prime}\left(\omega_0\right)$のことを損失弾性率と呼びます。一方、$G^\prime\left(\omega_0\right)$は貯蔵弾性率と呼びます。

緩和

粘弾性スペクトルは別名を緩和スペクトルと言います。緩和時間という語は出てきましたが、緩和というイメージは今のところ一切ありません。あるいは、エネルギーの損失という部分でピンと来る人もいるかもしれません。でもそれは少数派だと思います。
僕たちが緩和という現象に対して抱くイメージというのは、何かが徐々に変化する、というものだと思います。例えば、病気の症状が緩和するというのは、病気の症状が徐々に改善することを指します。病気の症状が緩和する要因は、おおむね治療・投薬・放置でしょう。治療によって緩和すると言う場合、治療後に症状の緩和がみられるので、治療と緩和に因果関係が認められるでしょう。しかし、その時系列が治療時なのか治療後なのかという違いに注意しましょう。もし、治療時に症状の改善があった場合には、単に治る、あるいは良くなる、という表現になるはずです。緩和と言う場合には治療後に継続して改善が見られたということを示唆します。
この違いがもっとはっきり分かるのは、継続的な投薬あるいは放置による緩和の場合です。継続的な投薬では、投薬開始後の状態が維持されます。放置では現状維持です。ある時点を基準にして状態を維持している時に、症状などが改善した場合に緩和という言葉を使います。つまり、基準となるイベント後に、状態を維持しているにもかかわらず、何かが変化した場合のことを僕たちは「緩和」と呼ぶ傾向があるということです。
レオロジーにおいて、僕たちは応力とひずみしか取り扱っていません。ですので、どちらかに変化を加え(イベント)、それを維持した時に、もう一つの方が何らかの変化を示すような現象を見れば、「ああ、確かに緩和だ」と納得できるでしょう。すなわち、あるひずみを加えて、そのひずみを保持し、応力の変化を観察する、というパターンが一つ。もう一つは、応力を加えて、その応力を保持し、ひずみの変化を観察する、というパターンです。前者は応力緩和、後者はクリープという名前がついています。ほかにも様々な実験方法が考えられますが、まずは、名前にも「緩和」とある応力緩和について調べてみましょう。

応力緩和の実験では、最初に瞬間的に所定のひずみを与え、応力を時々刻々測定します。すなわち、
\begin{equation}
\gamma\left(t\right)=\left\{\begin{matrix}0 & t\lt 0\\ \gamma_0&t\ge 0\end{matrix}\right.
\label{4-34}
\end{equation}
です。これをマックスウェルモデル式に叩き込んでみます。
\begin{equation}
\frac{1}{G}\frac{d}{dt}\sigma\left(t\right)+\frac{1}{\eta}\sigma\left(t\right)=\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)=0\ \ for\ t\geq 0
\end{equation}
また$\tau=\eta/G$であることを踏まえると、
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=-\tau\frac{d}{dt}\sigma\left(t\right)
\end{equation}
両辺をフーリエ変換すると
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=-\tau i\omega\Sigma\left(\omega\right)
\label{4-37}
\end{equation}
から、$-i\tau\omega=1$。すなわち、$\omega=-1/i\tau$となります。すなわち、
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=\delta\left(\omega+1/i\tau\right)
\end{equation}
になります。これを逆フーリエ変換して、
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=C_1e^{-it/it\tau}+C_2=C_1e^{-t/\tau}+C_2
\end{equation}
境界条件として、$t=0$ではバネだけが伸びた状態だと考え、$\sigma\left(0\right)=G\gamma_0$。そして、$t=\infty$ではバネの伸びがなくなると考えて、$\sigma\left(\infty\right)=0$とすると、
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=G\gamma_0e^{-t/\tau}
\end{equation}
となります。この式は単調に減少する指数関数で、典型的な「緩和」となっています。この緩和は挙動は明らかに$\tau$が支配的な因子ですが、$\tau=\eta/G$だったことを考慮すると、システム中に弾性と粘性が共存するという設定が究極的な緩和の理由となっています。弾性と粘性の共存の様子は、粘弾性スペクトルで特徴づけられることから、粘弾性スペクトルの存在≒力学応答が周波数依存性を持つことを以って、「緩和」と考えるのです。それがゆえに、($\ref{4-27}, \ref{4-28}$)式で特徴づけられる典型的な粘弾性スペクトルの形状がデバイ緩和と呼ばれています。
さて、応力緩和をフォークトモデルで考えてみましょう。とはいうものの、フーリエ変換するとマックスウェルモデルと同じ形になるというのは前節で議論しました。したがって、($\ref{4-37}$)式は基本的に同じです。ただし、$\tau$の意味は少し違うかもしれません。そこで、一応($\ref{4-2}$)式に戻り、両辺を$G$で割ります。
\begin{equation}
\frac{1}{G}\sigma\left(t\right)=\gamma\left(t\right)+\frac{\eta}{G}\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)=\ \gamma\left(t\right)+\tau\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)
\label{4-41}
\end{equation}
ここで、($\ref{4-34}$)式を見ると、$t\gt 0$では$\gamma\left(t\right)$は一定であり、$\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)$は0です。すると$\sigma\left(t\right)$は一定になりそうな雰囲気があります。しかし、よく考えると$t=0$で$\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)$が$\infty$になるので、やはり緩和挙動を示すだろうことがうかがえます。そして、最終的に($\ref{4-37}$)式に従い、マックスウェルモデルと同じような挙動になるでしょう。ただし、時刻0で応力が$\infty$になるというのは受け入れがたいので、一般的にはフォークトモデルで応力緩和を考えることはしません。

もう一つの別のタイプの実験であるクリープを考えてみましょう。クリープでは応力が入力であり、次のようになります。
\begin{equation}
\sigma\left(t\right)=\left\{\begin{matrix}0&t\lt 0\\ \sigma_0&t\ge 0\end{matrix}\right.
\end{equation}
さて、マックスウェルモデルとフォークトモデルのどちらを採用するかですが、応力緩和におけるフォークトモデルの問題を参考にすると、微分値が∞になることを避けた方がよさそうです。マックスウェルモデルには、$\frac{d}{dt}\sigma\left(t\right)$の項があるので、それがないフォークトモデルの方が適しているかもしれません。$t\geq 0$で($\ref{4-41}$)式を考えると
\begin{equation}
\gamma\left(t\right)+\tau\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)=\frac{\sigma_0}{G}
\label{4-43}
\end{equation}
この微分方程式は右辺が0でないので、非同次形です。この場合は、まず特殊解を無理やし探すのでした。多項式が無難で、微分は1階のみなので、$\gamma\left(t\right)=at+b$の一次式で調べます。
\begin{equation}
at+b+\tau a=\frac{\sigma_0}{G}
\end{equation}
これが恒等的に成立するには、$a=0$、$b=\sigma_0/G$となります。残る同次形部分は、
\begin{equation}
\gamma\left(t\right)+\tau\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)=0
\end{equation}
となるので、一般解を$\gamma\left(t\right)={Ce}^{\alpha t}$とおいて
\begin{equation}
{Ce}^{-\alpha t}+\tau C\alpha e^{\alpha t}=0
\end{equation}
ここから、$\tau\alpha=-1$が得られ、$\gamma t=Ce^{-t/\tau}$が得られます。よって、($\ref{4-43}$)式の解は、
\begin{equation}
\gamma\left(t\right)={Ce}^{-t/\tau}+\frac{\sigma_0}{G}
\end{equation}
ただし、$t=0$で$\gamma\left(t\right)=0$であるような場合、$C=-\frac{\sigma_0}{G}$となるので、
\begin{equation}
\gamma\left(t\right)=\frac{\sigma_0}{G}\left(1-e^{-t/\tau}\right)
\end{equation}
これもある種の緩和曲線を描き、その時間スケールは、またしても$\tau$になります。現実の応力緩和やクリープはこれらとはちょっと違います。というのも、現実の緩和挙動はもっと複雑な力学モデルに対応するからです。

線形応答

実際の力学挙動はもっと複雑なのですが、ある範囲においては、ひずみを半分にしたら応力は半分になるはずだと僕たちは直観します。また、緩和挙動についても、イベントの時刻を1時間遅らせれば、緩和挙動も1時間遅れて生じるはずです。でないと因果関係が破たんしてしまいます。そのような対応関係をもつ現象一般は線形応答と呼ばれ、微小変化の極限では数学的に完全に記述できるということがわかっています。それは線形応答理論として知られています。
線形応答理論では、入力と出力を持つ信号処理装置を考えます。信号処理装置の中身はブラックボックスになっており、正確な仕組みはわからないとします。しかし、信号処理装置である以上、入力がなければ出力もないでしょう。ですので、信号処理装置の定義としてそのような性質を前提条件として受け入れても一般性は失わないでしょう。
また、2倍の入力に対して2倍の出力があると考えてもよいでしょう。出力のレスポンスには何ら制約を設けていませんので、値として信号の遅れなども採用することができます。ですので、このような制約はかなり緩いと思います。入力と出力にこのような基本的な因果関係が認められるとき、この正体不明の信号処理装置の特性は、インパルス応答関数で完全に記述されます。
インパルス応答関数というのは、入力としてインパルスすなわちδ関数のような信号を用いた場合の出力のことを言います。すなわち、入力信号がδ関数の時、出力信号$g(t)$はインパルス応答関数$h(t)$と次式で結びつくということです。

\begin{equation}
g\left(t\right)=h\left(t\right)\otimes\delta\left(t\right)
\label{4-49}
\end{equation}
通常の入力信号は連続的ですが、3章で見たように、短冊に切ってδ関数の列だと考えることができます。すなわち、入力信号$f(t)$は次のようになるということです。
\begin{equation}
f\left(t\right)=\sum_{n=0}^{\infty}f_n\delta\left(t-n\Delta t\right)
\end{equation}
時刻0までは入力信号を考えないとして式を構築しています。これを($\ref{4-49}$)式と合わせて考えると、入力信号$f(t)$に対する出力信号は、次式になるでしょう。
\begin{equation}
g\left(t\right)=h\left(t\right)\otimes f\left(x\right)=\sum_{n=0}^{\infty}f_n h\left(t\right)\otimes\delta\left(t-n\mathrm{\Delta t}\right)=\sum_{n=0}^{\infty}f_nh\left(t-n\mathrm{\Delta tn}\right)
\label{4-51}
\end{equation}
つまり、入力信号の瞬間的な刺激に対して出力信号が持続的で決まった応答をすることがわかっているなら、連続的な瞬間の刺激に対しては、刺激のタイミングに応じた応答が重なり合って出力される、というものです。よく考えると、これはかなり自然な現象です。ほとんどの物理現象は微小な変化に対しては、近似として線形の応答をするものです。それはほとんどの数式でテーラー展開が可能であり、微小な変化に対しては低次の項だけでよい近似が得られるという数学を反映しています。ですので、($\ref{4-51}$)式のような刺激・応答関係はほとんどの現象に適用することができます。
さて、$g\left(t\right)=h\left(t\right)\otimes f\left(x\right)$という式はフーリエ変換すると
\begin{equation}
G\left(\omega\right)=H\left(\omega\right)F\left(\omega\right)
\end{equation}
になります。$G\left(\omega\right)$を$\Sigma\left(\omega\right)$、$F\left(\omega\right)$を$\Gamma\left(\omega\right)$と読み替えれば、$H\left(\omega\right)$は$G^\ast\left(\omega\right)$に相当することがわかります。すなわち、我々が議論してきた一風変わった力学であるレオロジーは、線形応答理論でカバーされるものである、ということです。

さて、前節で応力緩和やクリープを議論しました。それは入力が階段状の刺激であるというもので、取り扱いに工夫が必要で、すこし歯切れが悪い説明にならざるを得ませんでした。別の方法として入力信号の微分を考えます。すると、単純なδ関数になることがわかります。応力緩和であるなら、
\begin{equation}
\frac{d}{dt}\gamma\left(t\right)=\gamma_0\delta\left(t\right)
\end{equation}
フーリエ変換すると、
\begin{equation}
i\omega\Gamma\left(\omega\right)=\gamma_0
\end{equation}
従って、
\begin{equation}
\Sigma\left(\omega\right)=G^\ast\left(\omega\right)\Gamma\left(\omega\right)=\frac{\gamma_0}{i\omega}G^\ast\left(\omega\right)
\end{equation}
これは、$\frac{1}{i\omega}G^\ast\left(\omega\right)$の逆フーリエ変換はある種のインパルス応答関数であり、それを僕たちは応力緩和実験の結果$h\left(t\right)$として観測することになります。、もとは$\frac{1}{i\omega}G^\ast\left(\omega\right)$なので、$G^\ast\left(\omega\right)$は$h\left(t\right)$の微分のフーリエ変換だとわかります。つまり、$h\left(t\right)$の測定は本質的に$G^\ast\left(\omega\right)$の測定と同じであるということです。$G^\ast\left(\omega\right)$が複素数なのに対し、$h\left(t\right)$が実数となっていて、情報量が釣り合っていないという疑問がありますが、それは後ほど説明するKramers-Kronigの関係によって解決されます。
同様にクリープも考えることができます。クリープでは、
\begin{equation}
\frac{\sigma_0}{i\omega}=G^\ast\left(\omega\right)\Gamma\left(\omega\right)
\end{equation}
であり、僕たちは、$\sigma_0/i\omega G^\ast\left(\omega\right)$の逆フーリエ変換を観測します。それはコンプライアンス$J\left(t\right)$と呼ばれる量です。コンプライアンスのフーリエ変換は$G^\ast\left(\omega\right)$の微分の逆数であり、クリープにおいても、本質的に$G^\ast\left(\omega\right)$を測定していることがわかります。

Cole-Coleプロット

線形応答理論が適用できるような典型的な物性の一つに誘電緩和があります。線形応答理論ではインパルス応答関数が中心的な役割を果しますが、物性研究においては緩和スペクトルの方が重視されます。粘弾性でいうところの複素弾性率スペクトル$G^\ast\left(\omega\right)$に相当する複素誘電率スペクトル$\epsilon^\ast\left(\omega\right)$というものが実際に測定されます。それはレオロジーとちょうど同じような測定原理によります。レオロジーと同様にデバイ型の緩和がしばしば観測されます。レオロジーのスペクトルはかなりブロードで測定範囲も広くないのですが、誘電緩和スペクトルは起源が比較的シンプルで、測定範囲も広いという特徴があります。そのため、誘電緩和スペクトルの研究はむしろ進んでいます。
誘電緩和スペクトルの解析においてしばしば行われるプロットにCole-Coleプロットというものがあります。誘電緩和スペクトルも実部と虚部があり、次式のように定義しましょう。
\begin{equation}
\epsilon^\ast\left(\omega\right)=\epsilon^\prime\left(\omega\right)-i\epsilon^{\prime\prime}\left(\omega\right)
\end{equation}
このとき$\epsilon^\prime$に対して$\epsilon^{\prime\prime}$をプロットすると、見事な半円を描くことが知られています。これをCole-Coleプロットと呼びます。
なぜ半円を描くのでしょうか?詳細は省きますが、単一のデバイ緩和における誘電緩和スペクトルは次式で表されます。
\begin{equation}
\epsilon^\ast\left(\omega\right)=\left(\epsilon_\infty-\epsilon_s\right)\frac{1+i\tau\omega}{1+\left(\tau\omega\right)^2}+\epsilon_\infty
\end{equation}
これはレオロジーの粘弾性スペクトルとほとんど一緒だとわかります。誘電緩和は透過率を測定するので、レオロジーと符号にかかわる部分が逆です。ちなみに、レオロジーは(エネルギーの)吸収を測定しています。ここから$\tau\omega$を消去するようにしばらく計算すると、次式を得ます。
\begin{equation}
\left\{\epsilon^\prime-\frac{1}{2}\left(\epsilon_\infty-\epsilon_s\right)\right\}^2+\left\{\epsilon^{\prime\prime}\right\}^2
=\left\{\frac{1}{2}\left(\epsilon_\infty-\epsilon_s\right)\right\}^2
\end{equation}
この式の導出はちょっと難しいのですが、この式が成立することを確かめるのは簡単です。この式は原点を通り$\epsilon_\infty-\epsilon_s$を直径とする半円になることがすぐにわかります。実は、粘弾性スペクトルも$G^\prime$に対して$G^{\prime\prime}$をプロットすると半円のような形になります。ただし、多く場合、つぶれた饅頭みたいにひしゃげます。その理由を説明することはこのテキストの本論から外れます。
さて、粘弾性スペクトルと誘電緩和スペクトルの類似性からわかるように、Cole-Coleプロットのような性質は、線形応答理論の帰結です。逆に線形応答理論に従うようなシステムはすべてCole-Coleプロットのような解析法を試す価値があると結論できます。実際、複素抵抗値インピーダンスの測定においても、Cole-Coleプロットが用いられます。


Kramers-Kronigの関係

さて、応力緩和やクリープの測定では、実数のデータが得られましたが、粘弾性スペクトルは複素数でした。両者の本質は同じもののはずですが、実数と複素数という違いがあり、情報量が合致していません。
実は、線形応答理論に現れる複素数のスペクトルは実部と虚部が独立しているのではなく、相互に強く関連しているということが数学的に証明されています。別の言い方をすれば、実部だけを測定すれば、虚部がわかり、その逆も可能ということです。だから、レオメーターによる粘弾性スペクトルの測定はちょっと「やりすぎ」ということになります。とはいうものの、$G^\primeとG^{\prime\prime}$を相互変換するのは実験的にはすごく難しく、レオロジーの場合には実質的に不可能です。だから、やっぱり僕たちは$G^\prime$と$G^{\prime\prime}$のどちらも測定する必要があります。
さて、$G^\prime$と$G^{\prime\prime}$が相互に結び付いているという数学的な帰結はKramers-Kronigの関係と呼ばれています。かなり難しいのですが、忘備録として書いておきたいと思います。必要が無ければ読み飛ばしてください。

インパルス応答関数$h\left(t\right)$はイベントの前に何かが生じるということを禁止します。イベントの時刻を0にとると、
\begin{equation}
h\left(t\right)=0\ for\ t\lt 0
\label{4-60}
\end{equation}
ということです。$G^\ast(\omega)$と$h(t)$が同じだと述べましたが、$h(t)$にはこのような制約があって、それは$G^\ast(\omega)$に本質的な特徴を与えます。それが、Kramers-Kronigの関係式です。では、($\ref{4-60}$)式をフーリエ変換してみましょう。
\begin{equation}
\mathcal{F}\left[h\left(t\right)\right]=\int_{-\infty}^{\infty}{h\left(t\right)e^{-i\omega t}dt}=\int_{0}^{\infty}{h\left(t\right)e^{-i\omega t}dt}
\end{equation}
です。この方向の計算はいろいろ問題があるので、すこし工夫をします。そのために、
次のような関数を考えます。
\begin{equation}
u\left(t\right)=\left\{
\begin{matrix}0&t\lt 0\\1&t\geq 0 \end{matrix}
\right.
\end{equation}
この$u\left(x\right)$はヘビサイド関数と呼ばれています。これを用いると
\begin{equation}
\mathcal{F}\left[h\left(t\right)\right]=\int_{-\infty}^{\infty}{h\left(t\right)u(t)e^{-i\omega t}dt}
\end{equation}
となります。これは、コンボリューションを使って、
\begin{equation}
\mathcal{F}\left[h\left(t\right)\right]=H\left(\omega\right)\otimes\ U\left(\omega\right)
\label{4-64}
\end{equation}
となります。ここで、ヘビサイド関数のフーリエ変換が必要になるのですが、ちょっとむずかしいので、$u\left(t\right)$を次のように考えます。
\begin{equation}
\frac{d}{dt}u\left(t\right)=\delta\left(t\right)
\end{equation}
こうすると比較的簡単にフーリエ変換できます、
\begin{equation}
\mathcal{F}\left[\frac{d}{dt}u\left(t\right)\right]=i\omega U\left(t\right)=1
\end{equation}
ここから、
\begin{equation}
U\left(\omega\right)=\frac{1}{i\omega}
\end{equation}
となります。ただし、$u\left(t\right)$はδ関数を積分したものなので、積分定数があります。つまり、
\begin{equation}
u\left(t\right)=\int\delta\left(t\right)dt+C
\label{4-68}
\end{equation}
です。$U\left(\omega\right)$においては、$C\delta\left(\omega\right)$の付加項となるはずなので、
\begin{equation}
U\left(\omega\right)=\frac{1}{i\omega}+C\delta\left(\omega\right)
\end{equation}
です。そして、いろんな事情があって、$C=1/2$ということが示されています。というのも、$1/i\omega$だけだと、$U\left(\omega\right)$は原点対称になるので、全空間で積分すると0にりますが、$u\left(t\right)$はそうなりません。専門用語でいうと、invariantが違っていてパーシバルの関係が成立しないということで、まずいわけです。そこで、補正項を付与した次第です。

さて、($\ref{4-64}$)式の計算が可能になったわけですが、この式は実はちょっと奇妙です。つまり、
\begin{equation}
H\left(\omega\right)=H\left(\omega\right)\otimes\ U\left(\omega\right)
\label{4-71}
\end{equation}
になっているのです。ここから、$H\left(\omega\right)$は$U\left(\omega\right)$のコンボリューションに対して不変であることが要請されていると考えられます。とりあえず、($\ref{4-71}$)式の右辺を計算してみましょう。
\begin{equation}
H\left(\omega\right)\otimes\ \left(\frac{1}{i\omega}+\frac{1}{2}\delta\left(\omega\right)\right)=\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{H\left(\omega^\prime\right)}{i\left(\omega-\omega^\prime\right)}d\omega^\prime}+\frac{1}{2}H\left(\omega\right)
\end{equation}
これを($\ref{4-71}$)式に代入し、両辺を整理すると、
\begin{equation}
H\left(\omega\right)=2\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{H\left(\omega^\prime\right)}{i\left(\omega-\omega^\prime\right)}d\omega^\prime}
\label{4-74}
\end{equation}
が得られます。
$G^*\left(\omega\right)$の時にも論じましたが、$\omega$は周波数を想定したので、負の値は物理的には定義されません。しかしながら、($\ref{4-74}$)式は負の$\omega$に対して$H\left(\omega\right)$が必要になります。そこで、($\ref{4-74}$式において、$\omega$が正の部分と負の部分に分けてあげます。
\begin{equation}
H\left(\omega\right)=2\int_{0}^{\infty}{\frac{H\left(\omega^\prime\right)}{i\left(\omega-\omega^\prime\right)}d\omega^\prime}+2\int_{-\infty}^{0}{\frac{H\left(\omega^\prime\right)}{i\left(\omega-\omega^\prime\right)}d\omega^\prime}
=2\int_{0}^{\infty}{\frac{H\left(\omega^\prime\right)}{i\left(\omega-\omega^\prime\right)}d\omega^\prime}+2\int_{0}^{\infty}{\frac{H\left({-\omega}^\prime\right)}{i\left(\omega+\omega^\prime\right)}d\omega^\prime}
\label{4-75}
\end{equation}
ここで、
\begin{equation}
H\left(-\omega\right)=\int_{-\infty}^{\infty}{h\left(t\right)e^{i\omega t}dt}
\end{equation}
なので、
\begin{equation}
H\left(-\omega\right)=H^*\left(\omega\right)
\end{equation}
であることがわかります。これを用いると、($\ref{4-75}$)式は、
\begin{equation}
H\left(\omega\right)=2\int_{0}^{\infty}{\left\{\frac{H\left(\omega^\prime\right)}{i\left(\omega-\omega^\prime\right)}+\frac{H^*\left(\omega^\prime\right)}{i\left(\omega+\omega^\prime\right)}\right\}d\omega^\prime}\\
=2\int_{0}^{\infty}{\frac{H\left(\omega^\prime\right)\left(\omega+\omega^\prime\right)+H^\ast\left(\omega^\prime\right)\left(\omega-\omega^\prime\right)}{i\left(\omega^2-\omega^{\prime 2}\right)}d\omega^\prime}
\label{4-78}
\end{equation}
さて、$H\left(\omega\right)$は複素数なので、実部と虚部に分けて
\begin{equation}
H\left(\omega\right)=H_{Re}\left(\omega\right)+iH_{Im}\left(\omega\right)
\end{equation}
としましょう。これを($\ref{4-78}$)に代入します。
\begin{equation}
H\left(\omega\right)=2\int_{0}^{\infty}{\frac{-i2H_{Re}\left(\omega^\prime\right)\omega+2H_{Im}\left(\omega^\prime\right)\omega^\prime}{\left(\omega^2-\omega^{\prime 2}\right)}d\omega^\prime}\\
=4\int_{0}^{\infty}{\frac{H_{Im}\left(\omega^\prime\right)\omega^\prime}{\left(\omega^2-\omega^{\prime2}\right)}d\omega^\prime}-4i\int_{0}^{\infty}{\frac{H_{Re}\left(\omega^\prime\right)\omega}{\left(\omega^2-\omega^{\prime2}\right)}d\omega^\prime}
\end{equation}
ここから、
\begin{equation}
H_{Re}\left(\omega\right)=4\int_{0}^{\infty}{\frac{H_{Im}\left(\omega^\prime\right)\omega^\prime}{\left(\omega^2-\omega^{\prime2}\right)}d\omega^\prime}\\
H_{Im}\left(\omega\right)=-4\int_{0}^{\infty}{\frac{H_{Re}\left(\omega^\prime\right)\omega}{\left(\omega^2-\omega^{\prime2}\right)}d\omega^\prime}
\end{equation}
という関係が得られます。この関係式はすべての周波数領域での情報があれば、実部と虚部の相互変換が可能であるということを意味しています。この関係式の存在は、実部と虚部が独立していないことを表すので、本節冒頭で指摘した情報量の不一致を解決します。