2018年1月21日日曜日

教育と人格形成

うちの大学の場合

僕の勤める大学の学生たちは、とても勤勉で真面目だ。僕には到底まねできない。これほど真面目だったら、もっと勉強ができて、もっと有名な大学に進学していてもおかしくないと思う。
偏差値で言うと60弱くらい。理系なので、文系と比べる場合は偏差値を+3くらいしないといけない(理系は全体の3割であることを考慮)ので、偏差値63相当になる。そうすると、小学校でクラスで1番ではないけど、その次くらいの成績だった子たち、という感じで、インタビューするとその通りだ。
勤勉で真面目で勉強が良くできるのに、大学受験では少し損している、そんな学生たちが集まっている。僕が疑問に思うのは、なぜそんな子たちが大量に存在するのか、ということだ。うちの大学の特徴として、そのような学生ばっかり、というのがとても気になっている。

ちなみに、ここで用いている偏差値は単なる勉強の尺度ではなくて、確率に対応し、どのくらいのセレクションを受けたか、あるいはどのくらいレアかを表す。偏差値は50から10離れるとレア度がおよそ10倍(出現確率が1/10)になる。大学受験で苦しめられた偏差値で話をすると、レア度が生々しくイメージできるので、話題に現実味が出ると思う。

偏差値が60~65というと、結構成績が良い方だと思う。少し良い高校に通っていたはずだ。そうすると高校内での偏差値は55前後と推測される。偏差値55というと、30%くらいの人数が集中する成績だ。すこしテスト成績がよいだけで、席次がグンっと上がる。得点で言えば、60~70点で、少しの勉強量によって10点くらい簡単に変わってくる。だから、定期テストでつねに頑張っていたと推測できる。つまり、一生懸命頑張って勉強して、成績を現状維持してきたのだろう。その結果、真面目で勤勉な人格が形成された、あるいはそれが淘汰されたのだと考えられる。
歴史的にみると、日本の発展はこうした真面目で勤勉な国民性が有利に働いた結果であるとことが大きいので、学校教育がそのような人材育成に最適化しているのだと思われる。

東大出身者の場合

僕は東大の出じゃないのでそんなに多くの人物を知っているわけではないが、僕が出会った東大出身者に関してある種の共通性を感じている。それは、とても真面目で勤勉だということだ。うちの大学の学生たちの特徴とすごく似ているが、東大出身者は真面目さと勤勉さがうちの学生たちの比ではない。真面目を通り越して、愚直とも言うべき域に達している。
東大というのは大学入試において頂点に君臨する。偏差値で言うと75以上ということになるのだろう。偏差値75というのは小中学校くらいだと学校で1番に相当する。クラスで1番でも学年で1番でもない。何年かに1人くらいのレベルで、一般人の場合、これまで出会った中でもっとも勉強が良くできる人物となるだろう。
そのくらいの成績だと、通常のテストでは正確に学力を測定することができなくなる。定期テストだと、軒並み90点以上。5科目合計で480点前後と推定される。間違いの多くは、書き間違い、読み間違い、計算ミス、勘違いであり、運の要素が強くなる。得点アップは難しいが、逆に10点20点ダウンしても席次には関係ない。偏差値は出てくるけれど、統計量が足りないので信頼性が全くない。
このくらいのレベルになると、ミスが我慢ならなくて徹底的に勉強をするか、頑張っても頑張らなくてもあんまり変わらないので勉強に興味をなくすか、の二択になる。僕の知る東大出身者の多くは前者だ。彼らは95点からさらに努力し、100点を目指す。95点を100点にする努力は70点を80点にする努力(うちの学生たちの勤勉さ)の何十倍にも及ぶ。普通の人から見ると、頭がおかしいくらいの勤勉さだ。そういう努力を続けられる人が東大に入るのだと思う。

東大出身者を無敵に思うかもしれないが、そもそもそんなに勉強して100点を目指すことにどれほどの意義があるだろう。勉強はできるかもしれないが、ちょっと頭のねじが緩んでいる印象がある。それが「愚直」という表現につながる。
ある目標があって、それを達成するには膨大な作業が必要だと判明したとき、努力と根性で作業を続け目標達成するという戦略を選択するのが、東大出身者の傾向で、それは彼らの受験勉強の戦略そのものだ。
彼らは、受験勉強での成功体験によって、努力と根性で何でもなんとかなる、と信じているようだ。勝てないことで有名な東大野球部に元巨人の桑田真澄氏がコーチングしたことがNHKで取り上げられたことがある。東大のピッチャーは1日12時間以上練習し、あらゆる球種を投げていたと紹介された。これこそ、東大生の愚直さである。人智を越えたスポ根を続けることができてしまうのが東大生だ。
同じことが科学研究にも言える。東大出身者の研究は、お金や人をかけたものが多い。あるいは、超人的な努力(能力ではない)に立脚したも多い。逆に、知恵を絞ってひねりを入れた研究は不得意のようだ。研究では最終的な目標がわかりやすいものも多い。そういう研究目標は多くの人が取り組んでいるにもかかわらず、達成できていないという状況にある。目標達成できない理由は様々だが、人・モノ・金だったり、作業量だったりする。そういう状況の時、迷わず人・モノ・金や、超人的作業量を選択する傾向が東大出身者に見られる。
すこし前の例になるが、ヒトゲノム計画が理研の主導で実施された。理研はおおむね東大の外研のような感じになっており、理研の研究室のプロジェクトリーダーの多くは東大教授の兼務だ。ご存知のようにヒトゲノム計画では人海戦術のアプローチがとられた。国際的な研究プロジェクトだったが、日本の進捗は芳しくなかった。そうこうしているうちにセレラジェノミクス社に先を越された。セレラ社は人海戦術と並行して、ゲノム解析の自動化技術を推進し、国際プロジェクトチームの10倍もの効率を達成することにより、人的・資金的不利を覆した。自動化技術という選択肢は誰でも思いつくが、自動化しなくても努力と根性で何とかなるなら、努力と根性で何とかしようと考えるのが、東大的な秀才の思考パターンということだと僕は思っている。

僕は仕事柄いろんな企業の方と話をする機会があるんだけど、真面目で優秀だけど使えないというのが東大出身者の評判になっている。例えば、ある仕事を指示すると完璧にこなすんだけど、それを際限なくやり続けるとか、やり終わったらぼーっとしているとか、いう話を耳にする。あるいは、やり方をきっちり教えないといけないとか。こう書くと、まるでできの悪いロボットのようだ。全ての東大出身者が該当するわけでは決してないが、頭が良いはずなのに、知恵よりも努力と根性を選択する傾向があるように思う。

就活での壁

大学生にとって最大のイベントとなっているのが、就活だ。多くの学生はそのときはじめて自分の人材的価値を突きつけられる。真面目に大学に通っていた学生の評価はかなり厳しいことは広く知られている。かつてはバイトやボランティアの経験を重視したが、昨今はみんながそういうことをアピールするものだから、逆にそういうのがないと減点になるかもしれないという雰囲気がある。
企業がのぞむ人材にはいくつかのカテゴリーがある。現状の業務遂行に必要な人材はある程度必要だ。工員、事務員、末端の営業員、こうした業務は真面目にしっかりこなすことが肝要だ。特別の才能は不必要で、真面目に仕事をこなせればよい。当然、給与は相応のものとなる。一般の人が「働く」というイメージに近いので、多くの大学生はそのような職種に就くことを想定しているはずだ。ただ、業務内容にもよるが、大卒である必要はないものも多い。実のところ、そのような人材は比較的容易に調達できるので、わざわざ新卒採用する企業は多くないか、採用するとしても人数は少な目だ。むしろ、喫緊に人材補充が必要な場合を除くと、別枠で採用しておいて入社後の業務成績が芳しくなかった人を割り当てるという戦略をとる企業が多い。そのため、最初からそのような業務を目指す大学生は内定がもらえなくて最後まで余ってしまう。

ひとつの事業が永遠に利益を生むことは極めて稀で、大企業と言えども常に新しい試みを続けていかなければならない。新しい顧客、新しい商品、新しい技術などが常に求められている。そうした新しいことに対応するために、多くの人材が投入されている。それでも新しい何かは容易には見いだせないので、新しい人材を投入することで現状打開を試みる。だから企業は常に新卒を採用し、新陳代謝を目論みる。その場合、新卒採用された新入社員学生には、その会社に何らかの「化学反応」を起こすことが期待される。なので、企業は就職を希望する学生が「化学反応」を起こすポテンシャルを持つのかどうかを見極めようとする。特殊なバイトの経験は何か新しい要素を組織にもたらすかもしれないため、就職で有利に働く。ボランティアに参加する積極性は、現状を打開し新しい何かをもたらす可能性が高い。企業は常に多様性を求めているのだ。
そう考えると、単なる真面目・勤勉な人材は、新卒採用では不利になる。うちの学生たちは、ソニーやトヨタといった超一流の企業からは見向きもされない。東大出身者は期待値が高い分、就職後の評価が高くない。就職市場のミスマッチというような陳腐な言葉で片付けるのは正しくないと僕は思う。

多様性とは逆の教育システム

僕が今の大学に就職して強く感じたのは、講義の出席率が極めて高い、ということだった。僕は講義に出ないことを身上とする学生だったので、びっくりした。そうこうしているうちに、大学生にもっと勉強させろ、という通達を文部科学省が出した。そのため、休講がなくなり、ほとんどすべての講義で出欠確認するようになった。おかげで講義の出席率はさらに向上した。
さて、それによって大学生は勉強するようになったのか?答えは否だ。出欠確認を行うと出席率は向上するが、講義出席そのものが目的となり、講義内容の聴講や理解が目的から外れてゆくという一般的傾向がある。出席率は向上したが、試験成績はほとんど変化がなかった。そして、学習意欲が低下した。
文科省の通達前でさえ、学生たちは「講義さえ真面目に出て単位を取得すれば、卒業出来てバラ色の人生が待っている」と信じて疑わなかった。通達前は研究室での指導によって、そういう幻想を取り除くことができた。けれど通達後は、あまりに強く刷り込みが行われてしまっていて、研究室での修正が効かず、幻想抱いたまま卒業するようになってしまった。「講義さえ真面目に出て単位を取得すれば、卒業出来てバラ色の人生が待っている」というのは、画一的な人材であることを重視する価値観であり、企業が特別望む人材ではない。待っているのは、就活における不採用の嵐だ。「講義さえ真面目に出て・・・」は東大のような有名大学の学生にとってはある程度真実だ。でもそういう人は就職後の評価に苦しむことになる。真面目で得をするのは役人くらいで、だから文科省はそのような通達を出したのだと思ってしまうくらいだ。

「講義さえ真面目に出て・・・」は、大学生に限った話ではない。僕たちは多かれ少なかれ小学校からそれを叩き込まれている。高校生くらいになるとちょっと反発したものだが、今の高校では指定校推薦という制度があって、先生に反抗したり、授業への取り組み態度が悪いと、大学進学に深刻な悪影響がある仕組みなっている。高校生たちは見かけ上従順になり、文科省は大満足だろう。その成功体験を大学に適用しようとしたわけだ。ちなみに、高校生たちは見かけは従順になったが陰湿化し、スクールカーストやいじめの問題につながっている。大学進学を望まない生徒が大半を占める高校では、先生の統率が効かないため、「教育困難校」という問題につながっている。あるいは、先生に対する暴力が稀にニュースで取り上げられている。
極端に言えば、今の高校生は従順を強制されており、そのようなシステムに順応できた人だけが大学に進学できるということなる。彼らにしていれば、大学で最後の最後に従順じゃだめだよ、と言われても、話が違うじゃないか!となるだろう。以前は、大学では大きな自由が与えられて、従順なだけでは生き残れない環境が形成されていた。しかし、文科省の通達によってカリキュラムが厳密適用され、大学においてもカリキュラムに従順でないと卒業できなくなった。その結果、学生たちは従順以外の生き残り戦略を試す機会を失い、いきなり非従順を求められるビジネスの最前線に送られる。ルールが違うので、当然のように連戦連敗となる。

世間は多様な人材を欲しているのか?

そもそも、世間が多様な人材を真に欲しているかは疑わしい。「普通信仰」の記事でも指摘したが、突出した個性は時に不快感につながる場合がある。いや断定してもよい。突出した科学者や芸術家が変人だという例は枚挙にいとまがない。
組織の和を乱さず、多様性をもたらすというのは、相反する事象を同時に実現しようとするものかもしれない。組織の統一性と多様性を同居させることが不可能だと仮定したとき、世間はどちらを選択するだろう?世間というのが緩く結合した大きな組織だと仮定すると、短期的な利益を重視するなら統一性を選択するはずだ。いじめの問題というのは、ちょっとした非統一性を発端にしていることが多いことからも、それは一般的原理として採用してもよいと思う。つまり、組織として存続するためになんらかの共通の価値観が必要であるとするなら、それは多様性を排除する根拠になりうるということだ。
一方、人類の様々な進歩は多様性によってもたらされてきたという歴史的事実もある。ナポレオンとか信長とか、強烈な個性によって人類全体の運命が左右されてきた。英雄とか偉人と呼ばれる人々のことである。彼らは組織に埋没しなかったからこそ、顕著な業績を残してきたのだ。多くの平凡な役人は社会の維持管理に大きな貢献をしてきたにもかかわらず、歴史の教科書にその名が載らないけれど、それに異を唱える人はいないだろう。
科学や芸術の世界でも同様に傑出した業績は、その他大勢とは異なる一部の個性に依存するところが大きい。ニュートンやアインシュタインは誰でも知っている科学者であるが、同時代を生きた科学者たちとは一線を画すると僕たちは認識している。そして、そのような個性が世界を変革してきたと考えている。ニュートンやアインシュタインは生きているうちに評価された幸運な人々だが、業績の評価は死後ずっとあとになってなされることもある。例えば、ゴッホはかなり晩年になってからしか評価されなかったし、宮沢賢治も貧乏で有名だ。僕が敬愛するヘンリー・キャベンディッシュは裕福な貴族であったが、人嫌いの変人だった。キャベンディッシュの研究業績は死後にマックスウェルによって見出され同時代の科学者と比べて数十年先んじていることが判明した。それまでキャベンディッシュは科学者としては無名だった。天才は理解されない、と言うのは簡単だが、その根底には多様性を受け入れにくい人間社会の本質があると思う。

翻って、企業は自らの維持と発展のために多様性を取り込むべきだと考えているはずだ。個人の人生という尺度では、老いや死という終末が用意されているので、ピークを過ぎて事業縮小することは容認される。しかし、法人という不死の「人格」には、老いや死というものは既定路線ではない。そのため、時間経過に伴い事業縮小することは単純には容認されない。常に、学び、成長し、新陳代謝を続けることが求められる。その方法論として多様性は極めて重要だと位置付けられているはずだ。多様性を取り込むことによって、学びと成長が期待できるからだ。しかし、新陳代謝はどうなのだろう?
企業にとっての新陳代謝とは、若い人材を取り込み、年老いた人材を取り除くことだ。経験豊富な老社員を切り捨て、未熟な社員で置き換えると、短期的には必ず損である。しかし、老社員のパフォーマンスは必ず低下するものであり、そのような新陳代謝なくしては長期的な自己保全が不可能なのは自明だ。だからこそ、定年を設定し、一定数の社員を自動的に排除する仕組みが考え出された。

ここから、新陳代謝に関しては短期的不利益を甘受するという覚悟が見える。であるならば、同様の理由で多様性の取り込みによる短期的な不利益を甘受できるだろうか?これはとても難しい問題だ。多様性の価値についての評価法は実際のところ定まっていないからだ。
さて、通常業務の業績では劣るかもしれない多様性担当社員の給与はどのくらいが適性だろうか。日々の業務に不利益があるのだから、低く抑えるべきだという考え方がある。これは障碍者雇用促進法として制度化されている。一方、高く設定すべきだという考え方がある。カルロスゴーン氏などが典型例だ。多くの場合は、一般社員の50~80%程度の給与というのが常識になっているかもしれない。それは派遣社員制度だ。現在の派遣制度は、適切なスキルを持つ人々を安く雇って人件費を抑えようというものだ。広く浸透しているため、派遣社員が持つスキルが一般社員を凌駕することも少なくない。そういうスキルは組織にとっては多様性と考えてもよい。その場合には一般社員よりも高い給与を設定すべきだが、現実にはそんなことはありえない。現在の企業のありようを見ていると、多様性を尊重し取り込むということに対し、本気が見えないと言わざるを得ない。

「ゆとり」肯定論

多様性を尊重するというのは、今は亡きゆとり教育のスローガンだ。ゆとり教育が終了し、もう7年目だ。今の大学1年生は中学校から脱ゆとり世代となっている。中学校からということは本格的な勉強はすべて脱ゆとりということだ。だから、彼らは勉強が良くできる、かもしれない。僕が関わる学生たちはもうちょっと年齢が上の人たちが多いので、本当のところはまだわからない。でも、一つだけ確実に言える変化がある。それは、「元気がなくなった」ことだ。
ほんの数年前まで「完全ゆとり世代」だったが、そのころは講義中のレスポンスが良かったように思う。自由度のある課題に対して、多くの創意工夫がみられた。しかし、今年の新入生は、工夫よりも確実性を優先するようだ。「遊び」が少ない印象だ。
講義中もおおむね真面目で、自由度を与えたときのレスポンスに手ごたえが少ない気がする。僕はパソコンの習熟に関する講義を受け持っているが、明らかにパソコンに触れる機会が減っているようだ。以前はほぼすべての学生が高校でパソコン実習を経験していた。しかし、今の新入生の中にはパソコンに触れたことが無い人が10%程度存在した。これは10年前のレベルだ。脱ゆとりによって、勉強の比重が増し、勉強以外の体験が大きくそがれている可能性を示唆している。

ゆとり教育の多様性をはぐくむという理念は、十分ではなかっただろうけど一定程度の効果があったと僕は思っている。それを極端に改めてしまったため、ゆとり教育の良い面まで否定した格好になっていると思う。
今、脱ゆとりの揺り戻しが来ている。歴史教育では暗記要素の大幅減量が検討されている。あまりに極端な減量に対して批判が殺到しているが、傾向としては悪くはない。今のセンター試験の内容を見るとわかるが、あまりに暗記要素が多いのだ。それを改めるというのは正しい方向性だと思う。しかしながら、歴史などの社会科の内容に対する教育目的・重要性をきちんと議論してから取り掛かるべきだと思う。

ゆとり教育を受けてきた人たちは、先生に対する質問に物おじしない傾向があるように思う。わからなかったら気軽に先生に質問をするのだ。また、実験でうまくいかなかったら、すぐに助けを呼ぶし、手順がわからなかったらすぐにヘルプを求める。少し我慢が足りない気もするが、ホウ・レン・ソウの原則がすでに徹底されているとみることもできる。僕はホウ・レン・ソウが良いとは思っていないけど、一般社会ではホウ・レン・ソウはないよりあった方がよいとみなされている習慣であり、ゆとり教育ではそれが徹底されるような経験を経てきたということなんだと思っている。社会に役立つ人材育成という意味では、ゆとり教育は悪くなかったかもしれない。

僕は中学校や高校に行って主張授業を年に2回ほどおこなっている。以前は非常にレスポンスが良かったんだけど、最近はだんだんとおとなしくなっている。特に、都会の学校ほどレスポンスが悪い。
田舎の中学や高校というのは、非常に広い地域に1校しかない場合が多く、学校を選択する余地がない。そのため、勉強のできる子からできない子まで多様性に富む。その中で切磋琢磨して、たくましい人材が育っているように思う。ただし、試験成績の絶対値はどうしても不利になるかもしれない。一方、都会の中学・高校では選抜試験が実施され、優秀な生徒を集めている。その場合、どうしても人材が均質化する。選抜するということはそういうことだからだ。その結果、どうしても多様性は少なくなる。一方、勉強に関しては競争が激化する。元々そこそこ勉強ができる子の集団を選抜していると、平均値は必ず上昇する。本当にトップの一部を除き、選抜前と比較すると試験点数や偏差値は低下する。それが刺激になって競争が進む。それはある種の教育手法ではあるが、今の中学・高校教育では普段の勉強成績や態度が進学を大きく左右する。ちょっとでも悪目立ちすると不利になるのだ。そのような中では個性を押し殺して集団に埋没したほうが安定した成績を得られる。中学・高校の先生方は個性尊重を意識しているとは思うが、システムが個性を殺すようにできている。
そのような教育を生き抜かなければならなかったため、学生は極めて従順で没個性という生存戦略を選択していると僕は見ている。

まとめ

うちの大学の学生の真面目さ、東大出身者のクレージーなストイックさなどから、置かれた立場や教育環境によって、形成される人格に少なからず影響があると僕は思っています。特に中学校や高校での教育環境はとても大事だと思います。まさに、「孟母三遷の教え」です。そうして形成された人格は一生引きずることになります。こちらはまさに「三つ子の魂、百まで」です。だからこそ、教育は大事だと思うのです。
ほとんどの場合、真面目さ・勤勉さは美徳です。しかしながら、組織の永続性を考えたとき新陳代謝をもたらす多様性は必須であり、組織の上層では特にそれが大事とされています。それなのに日本の会社は旧態然として従順さを優先するような気がしています。それは多様性を尊重するという建前とは真逆な気がします。学生たちの就職状況からそれを強く感じます。
国策として多様な人材育成を推進するというスローガンが掲げられており、その方策の一つがゆとり教育でした。ゆとり教育は廃止されましたが、一定程度の成果があったと思います。その成果がきちんとした評価を得るまでまだ20年かかるにもかかわらず、朝令暮改で脱ゆとりに舵が切られました。多様性尊重の建前とは裏腹に、あらゆる事象が多様性軽視の方向性を示しているように思えてなりません。

2018年1月7日日曜日

西川式微分方程式2章


級数展開


微分方程式で複数の基本解が得られたとして、それらの基本解の一次結合も解になるということは1章で述べました。ある一連の関数がその微分方程式をうまく満たす場合、その一連の関数からなる一次結合すなわち級数は、その微分方程式の解になります。その一連の関数からなる級数が完全直交性という特別な性質を満たすとき、その微分方程式を解く作業は、その級数の係数を決定する作業に帰着します。
で、数学者は千年以上もかけて、そのような一連の関数を模索してきました。我々はその恩恵を受けることで、一般解とは何者か、どのように一般解を選べばよいのか、1章で見てきたやり方ですべての解を網羅できているのか、という疑問に対する答えが得られます。

級数展開を微分方程式に応用してみる

一番なじみのある級数展開はTaylor展開でしょう。
\begin{equation}f\left(x\right)=f\left(a\right)+f\prime\left(a\right)\left(x-a\right)+f\prime\prime\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^2}{2!}+f\prime\prime\prime\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^3}{3!}+\cdots\cdots\label{taylor}\end{equation}

ですね。Maclaurin (マクローリン)展開は、$a=0$の特別な場合を言います。一連の関数としては、$\frac{\left(x-a\right)^n}{n!}$であり、その係数が$f^{(n)}\left(a\right)$になるという風にこの式を理解しましょう。ちなみに、式が出てきたとき、その式の意味をじっくり読みとるというのはとても大事な技術で、習慣にするとよいと思います。
このように、何らかの一連の関数で、与えられた関数(ここでは$f\left(x\right)$)を書きなおすことを、級数展開と呼びます。Taylor展開では、無限の次数まで集めると、近似ではなくなります。すなわち、$f\left(x\right)$を($\ref{taylor}$)式で置きかえることができます。そこで、$f\left(x\right)$の微分を考えます。
\begin{equation}\frac{d}{dx}f\left(x\right)=\frac{d}{dx}f\left(a\right)+\frac{d}{dx}f^\prime\left(a\right)\left(x-a\right)+\frac{d}{dx}f^{\prime\prime}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^2}{2!}+\cdots+\frac{d}{dx}f^{\left(n\right)}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^n}{n!}+\cdots \\
 =0+f^\prime\left(a\right)+f^{\prime\prime}\left(a\right)\left(x-a\right)+\cdots+f^{\left(n\right)}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^{n-1}}{\left(n-1\right)!}+\cdots\end{equation}
となります。ついでにn次微分まで考えてやります。
\begin{equation}\frac{d^m}{{dx}^m}f\left(x\right)=f^{\left(m\right)}\left(a\right)+\sum_{n=m+1}^{\infty}{f^{\left(n\right)}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^{n-m}}{\left(n-m\right)!}}\end{equation}
となります。で、懐かしの例題1を考えると、
\begin{equation}\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=f\prime\prime\left(0\right)+\sum_{n=m+1}^{\infty}{f^{\left(n\right)}\left(0\right)\frac{x^{n-2}}{\left(n-2\right)!}}=-a^2\left\{f\left(0\right)+\sum_{n=1}^{\infty}{f^{\left(n\right)}\left(0\right)\frac{x^n}{n!}}\right\}\end{equation}
となります。係数を比較してやって、
\begin{equation}f^{\prime\prime}\left(0\right)=-a^2f\left(0\right)\\
f^{\prime\prime\prime}\left(0\right)=-a^2f\prime\left(0\right)\\
f^{(4)}\left(0\right)=-a^2f\prime\prime\left(0\right)\\
f^{(n)}\left(0\right)=-a^2f^{(n-2)}\left(0\right) \label{taylorsolution}\end{equation}
となります。全然解けていませんが、Tayler展開はあらゆる関数に適用できるので、ここまでの式変形に問題はありません。たまたま、すべてのnについて$f^{(n)}\left(0\right)=-a^2f^{(n-2)}\left(0\right)$を満たすような関数があれば、めでたく解けたことになるでしょう。

ここでの教訓は、任意の関数は級数展開できるということと、級数展開するときに用いる関数系は与えられているので、微分などの計算が実施可能である、ということです。Taylor展開やMaclaurin展開は例題1を解くまでには至りませんでしたが、計算を進めることはできました。

級数展開できる関数系

数学公式集という本があって、難しい数式がたくさん載っているのですが、その中に特殊関数とかの章があり、いろんな級数展開が紹介されています。世の中にはたくさんの級数展開が存在するのです。前節で示したように、与えられた関数に対して、ある条件は課せられることはありますが、いつでも展開できるというのが級数展開の便利さです。そのような級数展開が複数存在するということは、一つの与えられた関数に対して、複数種類の級数展開を考えることができる、ということを意味します。どのような級数展開を使用するのかは、僕たち自身で決めることができます。

少し難しいところで、Bessel(ベッセル)関数を用いたBessel級数展開の話をしたいと思います。ここでは、Bessel関数の中身に対しては立ち入りません。直交性という性質を持ち、級数展開できる、難しいBessel関数というのがあるという紹介です。

Bessel関数は次の微分方程式の一般解として与えられます。
\begin{equation}x^2\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)+x\frac{d}{dx}f\left(x\right)+\left(x^2-a^2\right)f\left(x\right)=0\end{equation}
全然わけわかりません。いろんな説明がありますが、工学的に重要なのは、第一種のBessel関数、いわゆるJ関数と呼ばれるもので、次のようなものです。
\begin{equation}J_n\left(x\right)=\left(\frac{x}{n}\right)^n\sum_{m=0}^{\infty}\frac{\left(-1\right)^m}{m!\mathrm{\Gamma}\left(m+n+1\right)}\left(\frac{x}{2}\right)^{2m}\end{equation}
Γ関数が使われていますが、いわゆるビックリマークとほぼ同じ意味です。ただし、非整数の場合にも定義されています。nは普通は整数なのですが、半整数の場合も考えられてその場合は、球Bessel関数と呼ばれます。その話は別の機会に。
nはいわゆる次数です。Bessel関数の元の微分方程式を変形してやると、
\begin{equation}\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=-\frac{1}{x}\frac{d}{dx}f\left(x\right)-\left(1-\frac{a^2}{x^2}\right)f\left(x\right)\end{equation}
これは0次微分と1次微分がわかっていれば、2次微分が求まるよ、という意味の数式です。すると、1次微分と2次微分がわかりますから、次のように3次微分が得られます。
\begin{equation}\frac{d^3}{{dx}^3}f\left(x\right)=-\frac{1}{x}\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)-\left(1-\frac{a^2}{x^2}\right)\frac{d}{dx}f\left(x\right)\end{equation}
同様に、次のような漸化式が得られます。
\begin{equation}\frac{d^n}{{dx}^n}f\left(x\right)=-\frac{1}{x}\frac{d^{n-1}}{{dx}^{n-1}}f\left(x\right)-\left(1-\frac{a^2}{x^2}\right)\frac{d^{n-2}}{{dx}^{n-2}}f\left(x\right)\end{equation}
そうやって求めたものが、$J_n\left(x\right)$というわけです。
ベッセル関数には、次のような直交性と呼ばれる性質があります。
\begin{equation}\int_{a}^{b}{J_n\left(r\right)J_m\left(r\right)rdr}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\frac{b^2}{2}\left\{J_n\left(b\right)\right\}^2&if\ n=m\cr}\right.\end{equation}
ただし、nとmは0以上の整数とします。$rdr$という積分素は$r$が円の半径であるような図形の積分で頻繁に現れます。これを以て、Bessel関数は円筒座標系でうまく記述できるような現象でしばしば使用されます。
こういう直交性があるということは、後述するように級数展開に使用できるよ、ということを意味します。特にBessel関数は、円筒座標や2次元の極座標において、半径方向に級数展開するときに適した関数です。ここでは説明しませんが、nは円周方向の分割数を表しており、これを以て、2次元空間全体を級数展開することができます。

Bessel関数に限らず、特殊関数と呼ばれているものはその根底に微分方程式があり、その微分方程式は微分に関する漸化式と見ることができます。その漸化式を解くことによって、一連の関数を定義することができます。その一連の関数には、それぞれに直交性があります。それ故、級数展開することができます。特殊関数は元々の微分方程式の一般解なので、その微分方程式が持つすべての可能性を網羅しています。なので、特殊関数の級数を考えて、その係数を一意に決定できれば、その微分方程式を解くことになります。数学者はそういう性質を持つ関数群を注意深く探してきました。ここで述べた特殊関数の性質を証明するのはプロの数学者の仕事です。数学は世の中で最も信頼のおける学問ですから、僕らは数学者の仕事を信じて前に進むことができます。

直交性の概念の拡張

一般論として、直交性という性質があれば級数展開できるのですが、ちゃんと直交性を説明していないので、よくわからないと思います。そのあたりの説明を詳しく行います。

直交というのは、「直角に交わっていること」ですので、直交性とは「直角に交わるという性質を持つこと」というのが直接の言葉の意味です。ところが、数学では意味が拡張されて使われます。すなわち、「図形的に直交しているかどうか」ではなく、直交という言葉が元々意味していた「直角に交わっている」という状態を数学で再定義し、再定義された式などに形式的に従うものをすべて直交と呼ぶ傾向にあります。この傾向は直交という言葉に関してだけでなく、他の多くの数学用語に共通します。数学を学ぶ上で障害となるのは、こうした言葉の定義が十分に説明されないことだと思います。

まず、直角に交わっているということを数学で定義しましょう。小学校レベルでは、図形に三角定規の直角部分をあてて、図形の線が沿っていれば、直角と習います。次に直角というのは線が交差していてもよいと習いました。もう少し進むと、三角定規ではなくて分度器をあてて角度を読み、90度であれば、直角であると定義されました。中学校ぐらいから、直交という語が導入されるかもしれませんが、定義自身は変わりません。高校になると、ベクトルが導入され、ベクトルを用いて、
\begin{equation}\vec{a}\bullet\vec{b}=0\end{equation}
と、内積が0になることで、直交を定義しました。ここで初めて式として直交を記述することができたことが、とても重要です。数学にとっては厳密さが重要ですので、式のようなあからさまな形式で、簡潔に記述できると、とても重宝します。ですので、むしろ、ベクトルで定義された直交を、根本的な定義としてよいだろう、とします。

さらに掘り下げて、$\vec{a}\bullet\vec{b}=0$の式が意味するところを考えます。ベクトルというのは厳密にいうと普通の数ではありません。足し算や引き算は定義されますが、掛け算はちょっとあいまいです。その掛け算の一つとして僕たちは内積を良く用います。厳密に言うと内積は掛け算ではありません。掛け算とは、二つの数を「掛けて」一つの数が出てくる操作です。かけられる「数」と答えの「数」は同じ性質をもつものを想定しています。「食べ物」と「食べ物」を掛け合わせても、とりあえずは「食べ物」として成立する、というようなニュアンスです。数学者は「積」の計算方法は「数」の種類に応じて変化するけど、「積」とみなせる計算方法の、共通の性質を大事にしようとします。なので、かけられる「数」と答えの「数」が同じ種類の「数」でなければ、それは「積」といえないのです。また、「積」には、「和」と区別される重要な性質が必要とされますが、その話は、ここでは必要ないので、興味があったら調べてね。
そのように考えると、内積の場合は、かけられる2つの「数」がベクトルで、答えは普通の「数」です。入力と出力が異なるので、「積」とは微妙に性質的に異なるのです。なので、内積は、「積」とは区別されます。もっと言えば、「内積」は「単純な数字ではないもの」同士の演算によって、数字を1個得る、という特別な操作である、ともみなせます。だから、2つのベクトルから数を一個作り出す操作という類型に合致しているから、それを「内積」と呼ぶことにしよう、と考えます。定義→概念ではなくて、概念→定義で考えるということです。そのような主客逆転を自由に行うことこそが数学の極意だと僕は思います。その「内積」の分類を一般化して、2つの「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」から数字を一個作り出す操作を内積と考えることにするのです。

そうして一般化された内積を考えた時に、結果として得られる数が0になるとき、元々の2つの「何か」が直交していると、考えます。まとめると、2つの「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」から数字を一個作り出し、その数字が0になるとき、元々の2つは直交している、ということになります。「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」というのはかなり制約が緩いですし、内積の定義には全く触れていません。ですから、直交という概念はかなり広くなりました。こうして拡張された直交の概念を関数に適用したものが、これから説明する直交性です。

関数における直交と級数展開

バレバレの展開ですが、関数は「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」に該当します。直交とは、内積が0であることと定義されたので、まず、内積を定義しないといけません。そのために、関数とベクトルの対応関係について見ていきます。

関数というのは、$f\left(x\right)$のように書かれ、任意のxに対して値が一つ定まるものです。グラフで書くと、横軸にxを取り、縦軸に$f\left(x\right)$をとると、線が一本描かれます。線は上下に波打つものの、x軸方向には、戻ったりしません。

そのグラフを細かな棒グラフで表すことにします。とりあえずx軸方向に等間隔に刻んで、それぞれのxに対して棒を立てます。十分に細かく刻むと、関数$f\left(x\right)$をほぼ再現できます。x軸方向の刻み点を数字の列$\left\{x_i\right\}$として表します。すると棒グラフの高さは、$\left\{f\left(x_i\right)\right\}$とあらわせます。結局数字の列なので、大胆に、$\left\{f_i\right\}$とあらわすことにしましょう。刻み幅を無限に小さくとれば、数列$\left\{f_i\right\}$は関数$f\left(x\right)$に一致するでしょう。


図2-1 連続関数$f(x)$と数列$\left\{f_i\right\}$の関係

数列$\left\{f_i\right\}$の要素数はべらぼうに多いですが、数字が並んでいるという点では次元がべらぼうに大きなベクトルと変わりありません。なので、数列$\left\{f_i\right\}$をベクトル$\left\{f_i\right\}$と読みかえることにしましょう。同じように関数$g\left(x\right)$から作ったベクトル$\left\{g_i\right\}$を持ってくると、足し算や引き算が次のように定義できます。
\begin{equation}f\left(x\right)+g\left(x\right)=\left\{f_i\right\}+\left\{g_i\right\}=\left\{f_i+g_i\right\}\end{equation}
\begin{equation}f\left(x\right)-g\left(x\right)=\left\{f_i\right\}-\left\{g_i\right\}=\left\{f_i-g_i\right\}\end{equation}
ポイントは、暗黙の了解として、x軸方向の刻みベクトル$\left\{x_i\right\}$を共通に用いることです。

関数$f\left(x\right)$の横軸の刻み幅を無限小にして数列$\left\{f_i\right\}$を作り、ベクトルとの類似を指摘するという考え方は、量子力学の議論の中で発明された数学です。量子力学では、関数とベクトルの本質的な類似に基づいて、行列を使ったハミルトニアンの表示とか、波動関数をブラとケットのベクトルで表すディラック形式などでの議論が展開されます。現時点では関数に対して内積を定義するだけですが、後で線形結合についても類似性を指摘します。

関数がベクトルで表示できるとすると、掛け算のようだけど数が一つ得られる演算である内積はほとんど自明なものとして定義できます。
\begin{equation}\left\{f_i\right\}\bullet\left\{g_i\right\}=\sum_{i}{f_ig_i}\end{equation}
この内積の表示を関数で考えると
\begin{equation}\left\{f_i\right\}\bullet\left\{g_i\right\}=C\int f\left(x\right)g\left(x\right)dx\end{equation}
となることがわかります。積分素$dx$は刻み幅です。ベクトル表示の値と対応させるために係数Cが必要になりますが、特に意味はありません。積分表示の場合、厳密には、内積とは呼びません。なので「内積のようなもの」と呼ぶことにします。

直交するとは、内積が0であること、でしたので、関数に対しても、内積のようなものが0になるとき、直交している、ということにします。すなわち、
\begin{equation}\left\{f_i\right\}\bullet\left\{g_i\right\}=C\int f\left(x\right)g\left(x\right)dx=0\end{equation}
です。今、内積のようなものが0かどうかだけが問題なので、Cは0以外なら何でも良い、ということです。

ここでは単純な積の積分として内積のようなものを考えましたが、積分の定義は特に決まっていません。先の例では不定積分のように書いていますが、実際には積分区間を設定しないと数字が定まりません(積分定数が残る)。また、Bessel関数のときのように$rdr$を積分素に使う場合もあります。

Sineとcosineでの検証

抽象的な議論ではピンとこないかもしれませんので、具体例で考えます。直交性を示す関数列で最も有名なものの一つは、 です。良く知られた性質ですが、自然数nとmに対して、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\sin{mx}dx}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\pi&if\ n=m\cr}\right.\end{equation}
となります。一応、ちゃんと計算しておきましょう。三角関数の加法定理によって、
\begin{equation}\cos{\left(nx+mx\right)}=\cos{nx}\cos{mx}-\sin{nx}\sin{mx}\end{equation}
\begin{equation}\cos{\left(nx-mx\right)}=\cos{nx}\cos{mx}+\sin{nx}\sin{mx}\end{equation}
となり、下式から上式を引くと、
\begin{equation}\cos{\left(nx-mx\right)}-\cos{\left(nx+mx\right)}=2\sin{nx}\sin{mx}\end{equation}
になります。ですので、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\sin{mx}dx}=\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\cos{\left(n-m\right)x}-\cos{\left(n+m\right)}x\right\}dx}\end{equation}
$\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\cos{\left(n+m\right)}x\right\}dx}$は$n+m$が0でないので、積分値は0になります。$\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\cos{\left(n-m\right)}x\right\}dx}$は$n-m$が0ときだけ、$\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}dx}$となり、積分値は$\pi$になります。

このように、系列を成す関数であって、同じ者同士以外の「内積」が0になる場合、直交関数系列と呼びます。$\sin{nx}$は最もよく知られた直交関数系列です。Bessel関数も直交定理がありますので、直交関数系列になっています。
$\sin{nx}$は少し特別で、同じように直交関数系列である$\cos{nx}$と組になって、さらに直交関数系列になっています。すなわち、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\cos{mx}dx}=0\ \ for\ all\ n\ and\ m\label{sincos}\end{equation}
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\cos{nx}\cos{mx}dx}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\pi&if\ n=m\cr}\right.\end{equation}
ということです。($\ref{sincos}$)式だけ特別です。
$\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\cos{mx}dx}=\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\sin{\left(n-m\right)x}-\sin{\left(n+m\right)}x\right\}dx}$から、$n-m=0$のとき、$\sin{\left(n-m\right)x}$は0になるので、値が残りません。

話が長くなるので、証明はしませんが、昔、フーリエという人が、あらゆる周期関数がsineとcosineの系列の和で記述され得るということを示しました。フーリエ級数展開と呼ばれる考え方です。これを数式で書くと、
\begin{equation}f\left(x\right)=a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{nx}+b_n\cos{nx}\right\}\label{fourieseries}\end{equation}
となります。ただし、周期を$2\pi$とします。先ほどから取り扱ってきた$\sin{nx}$と$\cos{nx}$の一次結合になっています。ある周期関数$f\left(x\right)$が与えられたとして、このように書けるというのがわかっているなら、あとは、係数を決める方法が問題になります。このとき、$\sin{nx}$と$\cos{nx}$が直交系列になっているということがとても大事になります。

ある種の直感によって、$\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}$を計算することにしましょう。
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}=\int_{0}^{2\pi}{\left[a_0+\sum_{m=1}^{\infty}\left\{a_m\sin{mx}+b_m\cos{mx}\right\}\right]\sin{nx}dx}\\
=\int_{0}^{2\pi}{a_0\sin{nx}dx}+\int_{0}^{2\pi}{a_1\cos{x}\sin{nx}dx}+\int_{0}^{2\pi}{a_2\cos{2x}\sin{nx}dx}+\cdots\\
+\int_{0}^{2\pi}{b_1\sin{x}\sin{nx}dx}+\int_{0}^{2\pi}{b_2\sin{2x}\sin{nx}dx}+\cdots+\int_{0}^{2\pi}{b_n\sin{nx}\sin{nx}dx}+\cdots\end{equation}
cosineとsineの積の項は全部0でした。$\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\sin{mx}dx}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\pi&if\ n=m\cr}\right.$でしたので、$b_n$の項だけ残って、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}=\pi b_n\label{bn}\end{equation}
となります。ここから、$b_n$を決定したければ、$f\left(x\right)$に$\sin{nx}$を掛けて積分し、$\pi$で割ればよい、ということが分かります。$a_0$だけは特別で、
\begin{equation}a_0=\frac{1}{2\pi}\int_{0}^{2\pi}f\left(x\right)dx\label{a0}\end{equation}
となります。


三角波のフーリエ級数展開


あらゆる周期関数が($\ref{fourieseries}$)式のように表せるということを具体例で考えましょう。ふつうの関数では表わしにくい周期関数として三角波を考えてみます。式で書くと以下のようになります。
\begin{equation}
f\left(x\right)=\left\{\matrix{\frac{1}{\pi}x&if\ 0\le x \lt \pi \cr 2 - \frac{1}{\pi}x&if\ \pi\le x \lt 2 \pi \cr } \right.
\end{equation}


図2-2 三角波

簡単のために1周期だけ示してあります。この式をフーリエ級数展開してみましょう。
まずは、($\ref{a0}$)式に従って、定数項を計算します。
\begin{equation}
a_0=\frac{1}{2\pi}\int_{0}^{2\pi}f\left(x\right)dx
=\frac{1}{2\pi}\int_{0}^{\pi}\frac{1}{\pi}xdx+\frac{1}{2\pi}\int_{\pi}^{2\pi}\left(2-\frac{1}{\pi}x\right)dx \\
=\frac{1}{2\pi}\left[\frac{x^2}{2\pi}\right]_0^\pi+\frac{1}{2\pi}\left[2x-\frac{x^2}{2\pi}\right]_\pi^{2\pi}\\
=\frac{\pi^2}{4\pi^2}+\frac{2\left(2\pi-\pi\right)}{2\pi}-\frac{4\pi^2-\pi^2}{4\pi^2}=\frac{1}{4}+1-\frac{3}{4}=\frac{1}{2}
\end{equation}
実は、$\sin{nx}$の項の計算の方が簡単なので、先に$b_n$の項、($\ref{bn}$)式を適用します。
\begin{equation}
b_n=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\sin{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\left(2-\frac{1}{\pi}x\right)\sin{nx}dx}=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\sin{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{2\sin{nx}dx}-\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\frac{1}{\pi}x\sin{nx}dx}
\end{equation}
ここで、難しいところだけ、先に計算してしまいましょう。部分積分のテクニックを使います。
\begin{equation}
\int{x\sin{nx}dx}=-\left[\frac{x}{n}\cos{nx}\right]+\int{\frac{1}{n}\cos{nx}dx}=\left[-\frac{x}{n}\cos{nx}+\frac{1}{n^2}\sin{nx}\right]
\end{equation}
なので、
\begin{equation} b_n=\frac{1}{\pi^2}\left[-\frac{x}{n}\cos{nx}+\frac{1}{n^2}\sin{nx}\right]_0^\pi -\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{2}{n}\cos{nx}\right]_\pi^{2\pi} -\frac{1}{\pi^2}\left[-\frac{x}{n}\cos{nx}+\frac{1}{n^2}\sin{nx}\right]_\pi^{2\pi} =-\frac{x}{n\pi^2}(\cos{n\pi}-1)+\frac{x}{n\pi^2}(1-\cos{n\pi})=0\label{tribn} \end{equation}
($\ref{tribn}$)式では1行目に現れる$\sin{nx}$の項はすべて0、中央の項も0です。残りの項も0になります。実は、周期関数$f\left(x\right)$はy軸対称になるので、偶関数です。なので、奇関数であるsineとの積は奇関数となり、$b_n$は自動的に0になるのでした。
最後に$a_n$です。
\begin{equation}
a_n=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\cos{nx}dx}=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\cos{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\left(2-\frac{1}{\pi}x\right)\cos{nx}dx}\\
=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\cos{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{2\cos{nx}dx}-\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\frac{1}{\pi}x\cos{nx}dx}
\end{equation}
ここで、$\int{x\cos{nx}dx}$は奇関数の積分です。多分、消えるのですが、まっとうに計算します。
\begin{equation}
\int{x\cos{nx}dx}=\left[\frac{x}{n}\sin{nx}\right]-\int{\frac{1}{n}\sin{nx}dx=}\left[\frac{x}{n}\sin{nx}+\frac{1}{n^2}\cos{nx}\right]
\end{equation}
より、
\begin{equation}
a_n=\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{x}{n}\sin{nx}+\frac{1}{n^2}\cos{nx}\right]_0^\pi-\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{2}{n}\sin{nx}\right]_\pi^{2\pi}-\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{x}{n}\sin{nx}+\frac{1}{n^2}\cos{nx}\right]_\pi^{2\pi}=\frac{1}{n^2\pi^2}\left(\cos{n\pi}-1\ \right)-\frac{1}{n^2\pi^2}\left(1-\cos{n\pi}\right)=\frac{2}{n^2\pi^2}\left(\cos{n\pi}-1\ \right)
\end{equation}
これではよくわからないので、具体的に計算してみましょう。
\begin{equation}
a_1=\frac{2}{1^2\pi^2}\left(\cos{1\pi}-1\ \right)=\frac{2}{\pi^2}\left(-1-1\ \right)=-\frac{4}{\pi^2}
\end{equation}
\begin{equation}
a_2=\frac{2}{2^2\pi^2}\left(\cos{2\pi}-1\ \right)=\frac{2}{\pi^2}\left(1-1\ \right)=0
\end{equation}
\begin{equation}
a_3=\frac{2}{3^2\pi^2}\left(\cos{3\pi}-1\ \right)=\frac{2}{9\pi^2}\left(-1-1\ \right)=-\frac{4}{{9\pi}^2}
\end{equation}
\begin{equation}
a_4=\frac{2}{4^2\pi^2}\left(\cos{4\pi}-1\ \right)=\frac{2}{{16\pi}^2}\left(1-1\ \right)=0
\end{equation}
すなわち、$n$が偶数のとき$a_n=0$で、奇数のとき、$a_n=-\frac{4}{n^2\pi^2}$です。これをまとめると、
\begin{equation}
f\left(x\right)=\frac{1}{2}-\sum_{n=odd}^{\infty}{\frac{4}{n^2\pi^2}\cos{nx}}=\frac{1}{2}-\sum_{n=1}^{\infty}{\frac{4}{\left(2n-1\right)^2\pi^2}\cos{\left(2n-1\right)x}}
\end{equation}
となります。

級数展開の一般論

フーリエ級数展開において、重要だったのは関数$f\left(x\right)$がフーリエ級数で展開できるという前提条件と、級数の項である$\sin{nx}$と$\cos{nx}$が直交系列になっているということでした。「フーリエ級数展開が可能」とはフーリエ級数で$f\left(x\right)$が再現できるという確証があるということです。その確証を示すのはちょっと難しいのですが、数学者が証明しているので、信じてよいでしょう。フーリエ級数のように、あらゆる関数が級数展開で再現できるような直交関数系列のことを完全直交関数系とよびます。
$\sin{nx}$と$\cos{nx}$では自分自身との積分が1になりませんでしたので、πの係数がありましたが、最初から$\frac{1}{\sqrt\pi}\sin{nx}と\frac{1}{\sqrt\pi}\cos{nx}$ にしておけば、係数は必要ありません。そのような係数の調整を行ったものを「正規」と呼ぶこともあります。ある関数系列$\phi_n\left(x\right)$ が与えられて、正規完全直交系になっているとします。つまり、
\begin{equation}
\int{\phi_n\left(x\right)\phi_m\left(x\right)dx=\left\{\matrix{1&if\ n=m\cr 0&if\ n\neq m\cr}\right.}
\end{equation}
であって、関数 が
\begin{equation}
f\left(x\right)=\sum_{n=1}^{\infty}{{C_n\phi}_n\left(x\right)}
\end{equation}
のように展開でき、そのときの係数は、
\begin{equation}
C_n=\int{f\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}
\end{equation}
で与えられるということです。なぜなら、
\begin{equation}
\int{f\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}=\int{\left[\sum_{m=1}^{\infty}{{C_m\phi}_m\left(x\right)}\right]\phi_n\left(x\right)dx}=\sum_{m=1}^{\infty}{C_m\int{\ \phi_m\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}}\\
=C_1\int{\ \phi_1\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}+C_2\int{\ \phi_2\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}+\cdots+C_n\int{\ \phi_n\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}+\cdots
=C_n
\end{equation}
となるからです。
内積に相当する積分の定義は、関数系によって異なりますが、一般論として、完全直交系であれば、級数展開に用いることができます。

先に紹介したBessel関数も完全直交系になっています。なので、Bessel関数を級数展開に用いることができます。Bessel関数でも触れましたが、級数展開できる関数系列には元となる微分方程式が存在します。その微分方程式は、関数系列の漸化式として用いることができるので、無限の項ができます。無限の項を用いれば、どんな関数でも級数展開することができます。

級数展開を一般解にする

完全直交系の関数列があると、「条件に合うすべての関数」を級数の形で書き表すことができます。これを微分方程式に代入し係数の条件を決めるということは、「条件に合うすべての関数」の中から微分方程式を満たすものを選び出すという作業にほかなりません。つまり、「条件に合うすべての関数」という制約はあるものの、僕たちがイメージする「微分方程式を解く作業」そのものなわけです。 最もなじみ深い級数展開であるフーリエ級数を用いて具体例を示したいと思いますが、($\ref{fourieseries}$)式のフーリエ級数は周期が$2\pi$に限定していたので、周期を$L$に拡張したいと思います。とは言うものの、簡単です。
\begin{equation}
f\left(x\right)=a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\label{FSL}\right\}
\end{equation}
これを懐かしの1章の例題1、$\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=-a^2f\left(x\right)$、に代入してみます。
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=\frac{d^2}{{dx}^2}\left[a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\right\}\right]=-\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\left(\frac{2\pi n}{L}\right)^2\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\left(\frac{2\pi n}{L}\right)^2\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\right\}=-a^2\left[a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\right\}\right]
\end{equation}
係数を比べると、
\begin{equation}
\left(\frac{2\pi n}{L}\right)^2=a^2
\label{2-46}
\end{equation}
であることがわかります。係数が消えて、周期に関する条件になりました。また、($\ref{2-46}$)式に$n$が含まれていることから単に周期に関する条件ではなくて、特定の項だけが選択されることになります。つまり、周期の選び方にかかわらず、級数ではなくて、$\frac{2\pi n}{L}=\pm a$を満たす項だけが解である、ということです。こんなことになるのは、sineやcosineの特別な性質です。本来ならば、(\ref{taylorsolution})式のように条件が延々と続くのですが、sineやcosineは微分を行っても項の基本的な形が変化しないので、級数の項が簡単に整理できるのです。
級数の項が整理できるかどうかは保証されませんが、このようなテクニックはすべての級数で使えます。そして、我々が良く知る$C\sin{\omega x}$や$C\cos{\omega x}$といった一般解は、($\ref{FSL}$)式で行った計算法の省略版なのです。
sineやcosineは微分しても級数の次数が変化しないという特別な性質があります。なので、級数のすべての項を考える必要はなく、一般化した$C\sin{\omega x}$や$C\cos{\omega x}$という項を調べるだけで充分だというのです。つまり、どうせ$\frac{2\pi n}{L}$の条件を見つける作業になるのだから、$\frac{2\pi n}{L}=\omega$と置いてやれば、全部の項を調べたことと同じだということです。
もちろんこれはフーリエ級数の特徴であり、フーリエ級数に関係のない関数を使った場合にはうまくいきません。例えば、$C\tan{\omega x}$とか$ C\log{\tau x}$なんて関数は一般解として使えないということがこれで説明できます。
僕たちが知っている微分方程式の解法はフーリエ級数を一般解に用いた場合の省略形だったということがこれでわかりました。フーリエ級数を一般解に用いると、すべての周期関数について網羅的に調べることができます。逆に、周期関数以外の場合に「もれ」がある可能性を否定できません。しかしながら、周期が不定なので、実質的にほとんどの関数をカバーでき、実質上問題になることはありません。

エルミート多項式による解法

さて、フーリエ級数以外を用いて微分方程式を解いてみましょう。ほとんどの級数の微分は複雑で扱いが大変なのですが、比較的簡単なものにエルミート多項式があります。
エルミート多項式は、次式の微分方程式の解として与えられます。
\begin{equation}
\left(\frac{d^2}{{dx}^2}-2x\frac{d}{dx}+2n\right)H_n\left(x\right)=0
\end{equation}
ちょと複雑ですが、次式のように表されます。
\begin{equation}
H_n\left(x\right) =n!\sum_{m=0}^{\left\lfloor n/2\right\rfloor}\frac{\left(-1\right)^m\left(2x\right)^{n-2m}}{m!\left(n-2m\right)!}
\end{equation}
ただし、
\begin{equation}
\left\lfloor\frac{n}{2}\right\rfloor=\left\{\matrix{\frac{n}{2}&n:even\cr\frac{n-1}{2}&n:odd\cr}\right.
\end{equation}
エルミート多項式にはいくつかの公式があるのですが、とっても便利なのが、次式です。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}H_n\left(x\right)=2nH_{n-1}\left(x\right)
\end{equation}
これを使って例題1を変形していきます。
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}\sum_{n}{C_nH_n\left(x\right)}
=\sum_{n}{C_n\frac{d}{dx}2nH_{n-1}\left(x\right)}\\
=\sum_{n}{4n(n-1)C_nH_{n-2}\left(x\right)}
=-a^2\sum_{n}{C_nH_n\left(x\right)}
\end{equation}
これを$H_{n-2}\left(x\right)$で整理すると、次式を得ます。
\begin{equation}
4n(n-1)C_nH_{n-2}\left(x\right)=-a^2C_{n-2}H_{n-2}\left(x\right)
\end{equation}
あるいは、$H_n\left(x\right)$の係数を取り出して
\begin{equation}
4n(n+1)C_{n+2}=-a^2C_n\left(x\right)
\end{equation}
この式は漸化式になっているので、境界条件に応じた係数$C_n$を低次から順に決めることができます。少し複雑になっていて、漸化式を永遠に追跡しないといけないですが、どうにかこうにか微分方程式を解くことができます。フーリエ級数を用いた場合に比べて手間も労力もかかりますが、解けることは解けます。エルミート多項式を用いる場合は、まだまだ楽な方です。別の級数を用いると、係数が発散して、見通しがとても悪くなります。でも原理的にはあらゆる級数で同じ方法を用いて微分方程式を解くことができます。

一般にはこうした方法を使わないわけですが、それには理由があります。それは苦労して得た式は、楽な方法で得た式と実質的に同じであることが理由です。

級数関数と微分方程式

エルミート多項式を用いた解法で重要な役割を果たしたのは、元になる微分方程式があることです。元になった微分方程式と解きたい微分方程式の形が似ている場合は、チャンスです。その級数展開が利用できる可能性が高くなります。そして、それこそが数学者が千年をかけて微分方程式を研究してきた理由といえます。一般に、常微分方程式の完全な解は級数展開の形で与えられ、完全直交系になります。そして、級数展開はそれぞれの項が1次独立で、級数展開はそれらが線形結合したものです。それぞれの項の係数は、独立に決められるので、各項を次元に見立てることができます。この性質を持って、微分方程式の解となる級数展開のことを、「微分方程式が張る空間」と呼びます。級数展開にいろんな条件がある場合があります。フーリエ級数展開では、周期関数という条件があります。ベッセル関数展開では、系が極座標表示しやすいことが緩い条件といえます。

どのような級数を選ぶかは全く任意です。一つの関数に対して、複数の級数展開を考えることができます。級数展開の選択は、その背後にある微分方程式の選択に通じます。ある級数で展開した時に、高次項が消えるようなことがあります。俗に、「うまく展開できる」とか言ったりします。ということは、その関数は元の微分方程式と何らかの関係を持っている、と考えることができます。逆に、元の微分方程式と関係がある状態のすべてを級数展開が表しているとも言えます。
級数展開を微分方程式に応用する場合、うまく項の数が制限できれば成功、と考えることができます。項の数が整理できずに延々と計算しなければならない場合は、別の級数展開を探した方が良いかもしれません。

微分方程式を解くためにどのような級数展開を選択するかには任意性があります。どの級数展開を選択したとしても、得られる解は実質的に同じです。しかしながら、単純な式になれば見通しがずっとよくなります。見通しの良い解があると、その微分方程式の性質を深く理解できるようになります。
僕たちの実益という点ではこれで十分ですが、(疑問2:一般解以外の解は存在しないのか?)については、 イエス・ノー半々という、中途半端な結論になります。つまり、級数展開の選択によって、解の見た目が変わりうるということです。これは実は哲学に通じる事象です。自然科学は自然の真理の探究が目的ですが、複数の解を許すということは複数の真理を認めるということです。数学ではそれでよいかもしれません。でも、物理や化学や生物という分野ではそれは受け入れがたいことです。しかしながら、多くの自然現象が微分方程式で記述できる以上、我々は複数の解=解釈に出くわすことになります。逆言えば、自然の真理を読み解くというのは、より単純な級数展開(理解)を探索する行為なのです。

さて、周期関数は網羅的に探索されることは理解できますが、非周期関数は探索できていない気がします。もちろんその通り!それを説明するためには、フーリエ級数ではなくてフーリエ変換を理解しないといけません。