2017年7月25日火曜日

深く考える

自分で考えろ!

というのは、説教する時の常とう句です。あるいは、学校の先生の常とう句に、「皆さ~ん、わかりましたね~。じゃ、自分で考えて、やってみてください」というのがあります。「考える」ってのは、とても便利な言葉です。でも、今風に言えば、「むちゃぶり」にとても近いと思いませんか?
「考える」とはどういうことなのかについて、以前、「考える機械」というタイトルで考察しました。僕は生粋のプログラマなので、思考についての自己探求能力を常に訓練しています。だからこそ、「考える」という行為のあいまいさが気になるのです。今回は、「考える」には、いろんなレベルがあるんだよ、ということを考察しました。

深く考える

僕が高校生の時、母が一冊の本を買ってくれました。というか、小学校卒業以降、母が買ってくれた本は後にも先にもその一冊だけだと思います。それは、フィールズ賞を受賞した広中平祐氏の自伝「生きること、学ぶこと」でした。字がとても小さな文庫本で、読みにくかったのを覚えています。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、「数学では、深く考えることが最も大事だ」という一節です。その言葉に感銘を受けたわけではありません。「深く」考えるというのは、どういうことだろう、と疑問を持ったのです。

当時の僕は高校生で、受験勉強もあったので、数学の勉強もしていました。ご存知のように、数学では、問題が出題されて、それに対する答えを記述するというフォーマットがあります。その「数学」では、正解を探し出す行為が「考える」なので、正解が見つかればもう「考える」必要ないはずです。であれば、「深く考える」の「深く」というのは、どういう意味だろう、と僕は思いました。正解にたどり着いても考えることをやめないということかもしれないけれど、無駄な行為なのではないか?百歩譲って、数学の一部の問題には、別解というのがあるので、すべての別解を見つけ出すというのが、「深く」考えるということなのか?なんて思いました。

このエピソードにおけるポイントは、広中平祐氏の「数学」と高校生の僕にとっての「数学」はちょっと違うものだということです。広中氏の「数学」は研究対象であり、未知の部分を多く含んだ「オープンワールド」です。一方、高校生にとっては、「数学」は「試験の問題」であり、正解が用意された「箱庭」です。学校教育では、内容が「箱庭」であることを感じさせないように細心の注意が払われていますから、いかに優秀な高校生であっても、数学の問題において解けないことがあるなんて、微塵も思いません。だから、数学の問題というのは、必ず存在する「正解」を見つけ出すゲーム、と短絡しても不思議ではありません。そのゲームの舞台は箱庭なので、「考え」を掘り下げても、「底」に突き当たるだけです。一方、本物の「数学」では、「底」なんてないので、どんどん「深く」掘り下げて考えることが可能なのです。

さて、それを理解したとしても、「深く」考えるとは、どういうことなのかについての答えは得られません。うんうんうなればよいのか、時間をかければよいのか。でも正解にたどり着いた後、さらに考えるというのは、どういうことなんだろう。たぶん、今の学校教育では、それがすっぽり抜けているんだと、僕は思っています。

パズル好き

唐突ですが、僕はパズルが大好きです。パズルというのは、適切な組み合わせを見つけるゲームの総称です。ルールは、きっちりと定義されていて、多数の正解の候補の中から、唯一の正解を見つけ出す、という一般的なパターンがあります。正解の候補の数が多いほど、パズルの難易度は高くなります。ルールはシンプルな方が好まれます。

学校のテストというのは、ほとんどがパズルだと僕は思います。最もあからさまなのは、計算問題です。計算というルールのもと、正解にたどり着きます。そのプロセスに分岐はほとんどないので、パズルとしての面白さは希薄です。因数分解とかになると、少しパズルの傾向が強くなります。
漢字の書き取りも、ある種のパズルです。教科書に載っている漢字のなかで、問題に当てはまる漢字や熟語を答えるゲームだとみなせます。社会科の問題も同様です。英語はもう少しパズル的です。学習範囲内の英文法(ルール)と単語を組み合わせて、英文を作成したり、英文に対応する日本語を作成したりするゲームです。理科もほとんどその通りです。
数学の一部の問題は、あからさまにパズル的な要素が含まれています。例えば証明問題とか。ただ、利用可能なルールはかなり限られていて、それらの組み合わせも多くありません。パズルとしての難易度はそこそこにとどまります。

頭の良くなるパズルというのがあって、僕は結構好きです。有名な塾の先生が考案したもので、確かに頭が良くなりそうな気がします。でももっと重要なのは、パズルにのめりこむメンタリティと学校教育の親和性なんだと思います。ぶっちゃけ、僕は大学受験までの「勉強」はパズルだと思います。

難問はパズル

以上のように、ほとんどの「勉強」はできの悪いパズルなわけですが、数学や物理の難しい問題は、もう少しマシなパズルです。というのも、知識の組み合わせが要求されるからです。知識の組み合わせは、知識単体よりも正解の候補の数が劇的に増えるので、正解を見つけるのに多くの試行錯誤を必要とします。
僕たちは、その試行錯誤を「考える」と思う傾向があります。つまり、学校教育で必要とされる「考える」とは、ルールブック(教科書)にある知識を対応させるあるいは、それらの組み合わせを検討する、ということです。
しかしながら、パズルなので、正解が存在します。そして、その正解を見つけてしまえば、その問題は用済みです。つまり、正解を見つけるための「考える」を越えて、「深く」考える必要はないのです。

正解を探す以外の「考える」

学校教育には、「こっそり」別の「考える」が設定されています。残念ながら、それはあまり重要視されていません。その分野は、「美術」です。自分の作品を制作する過程での「考える」がそれにあたります。
美術の作品製作過程では、与えらえた題材(テーマ、画材)に対して、自分なりの作品(解答)を制作します。その際、様々な要素を組み合わせ、関連付け、題材を最大限活用する工夫を施します。その過程が、美術における「考える」です。いい加減な組み合わせでも、作品としては成立するので、「考える」が少なくても文句は言われません。逆に、「考える」が多くても何の問題もありません。本当は、作品制作過程の思考過程を徹底的にトレーニングしたほうが良いのですが、時間が圧倒的に不足がちな美術では、作品そのものの製作に主眼が置かれ、「考える」がおざなりになっているというのが現状です。

美術における「考える」は他の教科と何が違うか、ということを整理すると、学校教育に足りない「考える」が見えて来ます。先に述べたように、要素を適切に組み合わせ、効果を最大化する、ということが作品制作過程での「考える」プロセスです。通常科目では限定的に組み合わせを要求しますが、美術ほど自由度は高くありません。自由度の高い組み合わせでは、候補が極端に多くなります。しかも、美術ではいくつの要素を組み合わせても作品として成立します。なので、組み合わせの数は、正確にはわからないほど多くなります。さらに、要素を適切に配置するという過程においても、無数の組み合わせがあります。それらの組み合わせを適切に選び取るには、極めて多くのことを考慮する必要があります。だから、美術における「考える」は、本来は高度で難しいもののはずです。しかしながら、多くのことを考えなくても、適当に「選ぶ」ことも可能です。美術では「考える」「考えない」にかかわらず、それほど結果に影響しないのです。だから、美術では「考える」を重視しません。
というか、芸術に携わる多くの人は、「選ぶ」ことを「洞察」に頼っています。本当は、その洞察の中に多くの「考える」が隠れているのですが、論理的な思考過程として見えにくいので、「センス」というあいまいな概念で片付けてしまっています。でも、そこをもっと掘り下げて、一流の芸術家の「センス」を分析するといろいろ面白いことがあるんだろうと僕は思っています。それはまた別の話。

試行錯誤と研究

美術における試行錯誤は、「考える」という行為に関してバリエーションを与えます。しかしながら、美術においては目的が極めてあいまいで、試行錯誤の効果が結果に反映されにくいということが問題です。すなわち、頑張っても、頑張らなくても、作品のクオリティはちょっとしか変わらない、ということです。であれば、美術が大好きでない限り、頑張る必要はないよね、となります。

残念ながら、明確な目的をもって試行錯誤をするという状況設定は、学校教育ではほとんどありません。なぜなら、試行錯誤は時間と労力と費用が必要になるからです。それらのリソースが限られているマスエデュケーションでは、そのような状況設定をむしろ避ける傾向にあります。しかしながら、何か新しいことを成し遂げようとしたときには、かならず試行錯誤が必要です。「誰か」が何か新しいことをしなければ世の中は進歩しませんから、その「誰か」が出現する必要があります。人材は突然出現なんかしませんから、教育して育てる必要があります。試行錯誤を教育するには、多くのリソースが必要なので、適切な人を選抜して資本投下することになります。その選抜の一つが大学入試です。その先にあるのは、大学における教育・研究です。すなわち、試行錯誤とは「研究」のことであって、大学において、学生が研究に携わるのは、試行錯誤の体験を通じて、新しいことを成し遂げるためのスキルを身に着けるためだと理解できます。
「研究」の過程では、通常の学校教育では避けられていたタイプの「考える」が鍛えられます。だから、学生に足りなくて、研究の現場で必要に感じるタイプの「考える」の中に「深く考える」のヒントがあると思います。広中氏は数学の研究者なので、研究対象である数学において、深く考えることは、彼にとって研究そのものです。研究者にとってそれがもっとも大事なことなのだという結論は、きわめて合理的です。

深い洞察

ここまで来てなお、美術に見られるような組み合わせの試行錯誤と「深く考える」には齟齬があります。なぜなら、組み合わせの試行錯誤というのは、要素が並列に並んでいて、「深く」が持つ「順序」とか「垂直」というニュアンスが希薄だからです。試行錯誤であれば、「広く考える」のほうがしっくりきます。
確かに、研究においては試行錯誤が必要で、組み合わせをいろいろ試すことは、大事なプロセスです。でも、組み合わせだけの研究は、あまり良い研究だとはみなされません。良い研究というのは、もっと深い洞察に基づいた巧妙な視点が必要だというのが、コンセンサスだと思います。おっと、「深い」って使っちゃいましたが、そこがポイントです。深い洞察」とはどういうことでしょう?

「洞察」というのは「勘」に似ていますが、一応、知識・論理と経験に基づいた結論のことです。そのプロセスの規模が大きいので、言葉で説明するのがおっくな場合に、「洞察」という言葉が使われます。あるいは、着眼点が素晴らしくて、ほかの人たちが見逃していたようなことがらにも使われます。
「洞察」として表にでてくるには、「着眼点」から知識・経験による考察を通じて、結論までのある程度の見通しが立つ必要があります。知識・経験による考察というのは、すなわち試行錯誤の結果です。だから、「深い洞察」には洗練された「試行錯誤」が必須です。しかしながら、試行錯誤が開始するきっかけとなる「着眼点」も同じくらい重要だと考えられています。むしろ、「着眼点」の素晴らしさこそ、もっとも重要な要素だとみなされるくらいです。ただ、「着眼点」の素晴らしさは、試行錯誤の末に辿りつた見通しの価値によって担保されるので、着眼点と試行錯誤は車の両輪のような関係にあります。

実のところ、試行錯誤は組み合わせの問題なので、基本的に誰でも実行可能です。もちろん、速い・遅いという能力差はありますが、時間さえかければ、基本的に誰でも同じ結論にたどり着くものです。だから、「深い洞察」の決定的な差は「着眼点」に尽きます。

着眼点の発見

「着眼点」が素晴らしいというときのポイントには、「ほかの人が見逃していた」というニュアンスが含まれるわけですが、なぜほかの人が見逃していたのでしょう。そして、なぜその人だけが気づけたのでしょう。
情報が過剰に流通する現代において、各個人が受け取る情報に差はほとんどありません。つまり、同じものを見て、同じものを聞いているはずです。にもかかわらず、異なる「着眼点」が生まれ、それが「研究」などの価値を左右します。
研究というのは、完全にわかっていることにどれだけ取り組んでも、成立しません。完全にはわかっていないことについて、それが正しいか正しくないかなどを明らかにすることが、研究です。このとき大事なのは、「完全にはわかっていないこと」という問題設定です。その問題設定に対して答えが出せない場合にも、研究は成立しないので、単になるわかっていない、ではだめなのです。「着眼点」には、わかってそうでわかっていないとか、ほとんどわかっているんだけど、そこだけわかっていないとか、そういう微妙な境界が多く含まれます。むしろ、そういう微妙な境界において、多くの抜け道が発見され、ブレイクスルーをもたらすのです。だから、既存の知識の中に、ほころびを見つけるということを、我々研究者は大事にします。

知識のほころび

科学というのは人類が1000年以上かけて蓄積してきた知識の総体のことです。人類の英知という言い方もします。ほとんどの知識は入念に検証され、正しいということになっています。ところが、稀に間違いも混入しています。あるいは、完全に理解できたと思われていたことに穴があることが、後になって発見されたりします。学校教育で取り扱われる知識には、そのようなことはほとんどありませんが、最先端の科学では、検証が追いついておらず、諸説が飛び交っています。だから、教科書や論文が間違っているなんて日常茶飯事です。だから、研究の現場では、既存の知識に対して疑問を持つということが推奨されます。いや、むしろ、自分の考えすら、信用していません。そういう立場・信条のことを「懐疑主義」と言います。

懐疑主義というのは、教科書等に記述されている内容に少しでも疑問を持ち、検証してみようと思い立つことです。「正しい」とされている知識に対して疑問を持っても、たいていは徒労に終わります。すなわち、時間の無駄です。「勉強」の場合には、「勉強」に要する時間が延びるということを意味します。手っ取り早く「勉強」を終わらせたい場合には、それは害悪でしかありません。だから、学校教育では懐疑主義の立場を取りません。また、教科書中では、疑問の余地を残さないような配慮がされています。だからと言って、その疑問はなくなるわけではありません。巧妙に隠されるものなのです。

当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、言うほど簡単ではありません。知識というのは世の中に無数に存在します。そのほとんどは正しいのです。また、それぞれの知識について、疑問の持ち方は一つとは限りません。だから、無数の知識の数倍の疑問の候補が存在し、そのすべてを疑うことは困難です。そして、その疑問が正当なものかどうかというのは、その疑問を具体的に詳細に検討したのちにしか結論が出ません。その検討プロセスは知識を習得するコストの何十倍、何百倍にもなります。当たり前に見える事柄に疑問を持つというのは、単純な勉強よりもはるかに困難で、見返りの期待値も少ないのです。にもかかわらず、そのような疑問を持たないと、素晴らしい「着眼点」は得られません。だから、疑問を持ち、検討するということを続けなければなりません。

労力を最適化するためには2つの方法があります。検討する項目を少なくするか、検討する時間を短くするかです。検討する項目を少なくすると、見落としが増えます。同じような着眼点を持ったほかの人がその見落としを活用する可能性が増えます。検討時間を短くするには、検討を途中で切り上げるという方法があります。しかしながら、途中で切り上げるとそれは見落としとなります。ある程度の見落としを覚悟するなら、そのような戦術も正当化されます。検討時間を短くする別の方法は、検討のスピードを上げることです。素早く徹底的に検討できれば、見落としを少なくすることができます。検討スピードはトレーニングによって改善することができます。また、最後まで検討を完遂する技量も必要です。というのも、検討が進めば進むほど検討が難しくなり時間がかかるようになるものだからです。どの程度検討を進められるか、ということはすなわち、「深く考える」に通じます。

結局のところ、どこに疑問を持つかは、運が左右します。はずれが多いので、あたりを見つけ出す戦略は二つしかありません。数をこなすか、徹底的な検討によって無理やり「着眼点」にたどり着くかです。現実の世界は、厳しい競争下にあるので、生半可な検討だと、他の人たちが検討済みの可能性が大いにあります。競争に勝つには、他の人たちが到達できないような領域まで検討を進めるということが大事になります。それこそ「深く考える」ということです。それでも、「着眼点」として成立するかわかりません。多くの疑問を持ち、徹底的に「深く考える」ことで、あたりに巡り合える確率を上げることができるだけです。

無理数の発見のエピソード

知識のほころびの例は、「無理数の発見」に見ることができます。古代ギリシアにおいて、ピタゴラスはピタゴラス教団という団体を組織し、数学を宗教として探求していました。ピタゴラス教団では、世界は数学に支配されており、数学の完全性に神の存在を感じていたとされています。そのピタゴラス教団では、分数が世界のすべてだと考えていました。どんなに近い2つの数を持ってきても、その隙間に新たな別の分数を見つけることができます。だから、世の中のすべての数は分数で表せると考えていました。ところが、2の平方根など、無理数が発見され、混乱したと伝えらえています。その結果、無理数の議論を封印し、なかったことにしようとしたそうです。すべての数が分数で表せるということが既存の知識だったところに、無理数がやってきて、無理数は分数では表せないということが判明するというのは、まさに知識のほころびだと言えます。文字通り、分数の世界には無理数という穴=ほころびがあったわけです。
科学というのは、既存の知識に対して、新しい知識を追加したり、修正したりして発展してきました。科学に限らず、当たり前だったことをひっくり返すことで世の中は進歩するものです。ガラケーからスマホへの転換もよい例です。ガラケーの末期には、ユーザーがプログラミングしてアプリを追加できる機種が発売されており、原理的にはスマホのようなアプリ追加型サービスがありました。しかしながら、結局はスマホの時代になりました。ガラケーという既存の常識からの脱皮が不十分だったのでしょう。携帯端末に対する「深い洞察」がスマホをもたらしたのだと思います。ガラケー時代も、年々画面が大型化し、高解像度化する傾向にありました。スマホはそれを極端に進め、端末の全面積を画面にしました。また、インターネットとの親和性も高まっていましたが、スマホはPCと同じクオリティーのインターネット接続性を実現しました。ユーザーがアプリを作ることができるということもスマホは徹底しました。スマホはほぼゲーム機と同等ですが、ガラケー時代もゲームはとても重要な要素でした。ガラケーの進歩はスマホと同じ方向性を持っていましたが、スマホはそれをより洗練し先鋭化しました。ガラケーが芋虫として成長している間に、スマホはサナギを経て蝶になった、みたいな感じです。さしずめサナギはiPodでした。
ガラケーからスマホへの進歩をもたらしたのは、ガラケーを常識としない「懐疑主義」だと思います。携帯端末として重視すべき要素を見直して、携帯端末の可能性を追求したのがスマホですが、そのきっかけはガラケーに疑問を持つことだったはずです。ガラケーについて「深く考える」ことなしに、それは成し得なかったと僕は思います。

「懐疑主義」は「疑り深い」ではない

おそらく、多くの人は懐疑主義を誤解していると思います。懐疑主義というのは疑り深くなるということではありません。僕は結構な懐疑主義者ですが、だからと言って、いやな性格のいやな奴ではないと思っています。僕の理解する懐疑主義というのは、正しいか正しくないかわからない、中立的な立場を守るということです。見たり聞いたりして得た知識について、無条件に信じたりしないということです。自分で検証し、納得した上で、自分の検証した範囲で「正しい」と考えます。納得できなければ、「間違っている」ではなくて、「正しくないかもしれない」と考えます。また、検証の範囲を超えた知識の適用も「正しくないかもしれない」と考えます。「正しくないかもしれない」知識に基づいた議論は、「正しくないかもしれない」ので、別の視点からの考察を併用し、可能性の範囲を絞り込みます。それをすべて自分の判断で行うことを徹底します。
僕は、他人の意見が正しいとは思っていませんし、自分自身の考えも正しいとは信じていません。様々な事象が矛盾なく整合すること以て、「正しい可能性がある」と判断します。ここに至っても「可能性」にとどめます。完全に正しいかどうかは、つねに保留する立場を取ります。前提条件や適用範囲が変わると、その知識は正しくないかもしれないからです。
このような「懐疑主義」は極めて面倒なものです。知識はゆっくりとしか増えていきません。でも、それでよいと僕は思っています。人類が存続する限り、僕たちの知識は1万年とか1億年とかの時間をかけて蓄積することが可能です。今、急ぐ必要は全くありません。また、積み重ねた知識の中に、疑問が隠れているかもしれません。そのような疑問を発見することはとても重要です。新しい分野を開拓することより重要かもしれません。というのも、そのような隠れた疑問を発見するには、新しい発想が必要だからです。そしてその疑問が解決されることによって、ブレイクスルーがもたらさる可能性が高いのです。それこそ、研究の醍醐味で、まさに「深く考える」ということだと思います。

広中平祐氏は数学の研究者であり、だからこそ、彼の場合には数学について深く考えることが最も大事なのです。僕にとっては、僕の研究分野において「深く考える」ことが大事であるのは、当然のことです。

2017年7月21日金曜日

普通信仰

「普通」と「個性的」の差

以前、天才というのを統計の観点から、考察しました(http://automatic-meal.blogspot.jp/2017/01/blog-post_29.html)。そのとき、「質」の問題を意図的に排除しました。出現確率を論じる限り、天才の質の議論は不要なんですが、それでも、「天才」というものの「質」的な特徴には、特別の興味があるのものです。

天才に対して、秀才という言葉がありますが、これら2つの言葉の存在が示唆するように、人間の能力には量的な側面と質的な側面があると思うのです。簡単に言えば、量的に優れるのが秀才で、質的に優れるのが天才、というわけです。しかしながら、人間の能力の質を論じるのは、抽象的で結論が出ない可能性があります。というのも、世の中に計量のベクトルというのは無数に存在し、どのベクトルに価値を見出すか、ということが質の差に直結するからです。質というのは比べるのが非常に困難ですが、比べられなければ、論が進まないので、質に関する議論というのは進まないのです。
そこで、視点を変えて、「個性的」という軸を論の中心に据えてみましょう。これは、希少性に通じますが少し違います。希少性というのは統計学的な視点です。統計学的な視点はすでに論じた通りです。「個性的」というのは、その内容も吟味する、というニュアンスがあります。そして、個性的というのは単独で存在するものではなく、人格の総体として評価されます。その前提として、複数の「個性」の存在が了解されているんじゃなかな、と思うのです。「個性的」の反対は「没個性」ですが、もう少しポジティブに言うと「普通」となります。

「普通」信仰

大学時代の友人の一人で、「とにかく何でも普通が良い」という人がいました。結構徹底していて、テストでいい点を取ると目立つのでわざと間違えた、とか。ヒステリックだなあと思いました。が、その背景には、「普通」でないことを許容しない環境があります。その人曰く、目立つといじめられる、ということでした。田舎でなくて、都会でもない、という地域では、勉強の出来不出来にかかわらず、地元の高校に進学するという傾向がありました。昔の京都もそうでしたし、兵庫県は今でもそうだと聞いています。生徒の学力差が大きすぎると、授業に差し障るので、特進クラスとかを設定したりします。しかしながら、クラブ活動では一緒になるので、勉強が出来る子がクラブ活動を休んだりした日には、いろいろ言われたりするわけです。そういう環境で育つと、処世術としてわざと間違えて、点数をレギュレートする、なんて子が出てくるわけです。最近は、普段の学業成績の序列化が絶対視され、定期テストでわざと間違えるなんてことは稀だと思いますが、それはそれで問題があります。

僕の大学時代の友人の例は極端ですが、多かれ少なかれ、「普通」であることに価値を見出す傾向は、今もあります。というか、今の方がずっと強いと思います。すこし前、「KY」というのが流行りました。「空気読め」「空気読めない」の「空気」というのは、「普通の感覚」「普通の人なら共有できる感情」という意味です。そういう「普通」の感覚を共有できないと、馬鹿にされたり、いじめられたりするというのが「KY」の背景です。これは「普通」を極端に尊重する、「普通信仰」とも呼べるような傾向です。
一方で、ゆとり教育は、個性の尊重を謳います。それは「普通信仰」とは真逆の方針のはずでした。ところが、ゆとり教育が浸透すればするほど、普通信仰が強くなっていきました。圧倒的な皮肉です。
「個性尊重」が十分に浸透しているのにもかかわらず、日本の教育では、クラスメートと同質化することを強く求められるのは事実です。「普通」のレベルをすべてこなしたうえで、「個性」を認められる傾向があり、その「普通」のレベルを達するのに、かなりの努力を要します。その結果、「普通」をクリアするのに必死で、クリアしても疲れ果てて、その先(個性)を発揮することができない状況にあります。

個性礼賛は難しい

最近、NHKが極めて挑戦的な番組を放送しています。バリバラと呼ばれている、障碍者を中心としたバラエティー番組です。僕は時折視聴するのですが、残念ながら、最初から最後まで通してみることはできていません。それは、時間がないとか面白くないとかそういうことではなく、視聴しているとたまらなくなるのです。直視を避けてきた現実を突きつけられ、いたたまれなくなるのです。
障害を持つ人たちの生きる力を感じる、とても良い番組だと思っています。もちろん、必死に生きる姿に感動を覚えるわけです。しかしそれ以上に、彼らが人間であることを痛烈に感じるような編成になっています。人間であるという意味は、きれいな面も汚い面もすべてひっくるめた全人格が、赤裸々に語られる、ということです。
重度のダウン症の女性が、ジャニーズのアイドル歌手と結婚するのが夢、と語る様子を見て、複雑な気持ちになりました。ま、普通の女の子が同じことを言ってても、結果は同じなんだけどね。でも、どのような障害を持っていても、女性は女性であり、人生に希望を持ち、必至に生きている限り、障害以外の部分は普通の人と全く変わりないという、当たり前だけど残酷な現実が僕の胸に刺さりました。僕は、テレビを消しました。

僕たちは、普段、障碍者から隔離されていて、彼らの生活を知りません。彼らは、施設や病院にいるかわいそうな人たち、そんな印象を持っています。しかし、バリバラではそういうのを徹底的に否定します。健常者からすると見るに堪えない姿を彼らはすべてさらけ出し、その上で、自分たちの人生を豊かにするべく努力しています。そこでは障害は、個性として、むしろ尊重されます。両足のない男性がブレイクダンスで、健常者には絶対できないアクロバットターンを決めるとき、それは障害をむしろ特別な能力としているのです。リオパラリンピックの閉会式で同じ趣旨のダンスがありました。

それは美談の部分です。両足のない男性のブレイクダンスは、あまりに健常者のものとはかけ離れていて、それは最高にアーティスティックです。大絶賛です。しかし、グロテスクに見えます。あまりに個性的過ぎてグロテスクなのです。それは、僕の感性がおかしいからではなく、突出した個性は時にグロテスクだ、という真理の一端だと思います。

障碍者に見られる個性尊重の傾向は、「空気」を共有する若者たちと対極にあります。本物の個性というのは、万人に受け入れられる物ではなく、個性を尊重したとしても、理解しあえない場合があることを知っておかねばなりません。障碍者の話は、別の機会にまとめたいと思います。
身体障碍のような極端な個性でなくても、個性は受け入れられない傾向があります。


スクールカーストの考察

これもちょっと前になりますが、スクールカーストというのがクローズアップされました。生徒間のパワーバランスが極端化し、不自然な上下関係が形成されるという問題です。スクールカーストの出現は、「普通信仰」の成れの果てだと、僕は思っています。

ぶっちゃけ、「普通」というのは、「多数意見」です。統率されていない集団において、多数意見の形成は、共通の価値観や正義感などが重要な役割を果たすべきですが、隔離された小集団ではなかなかそうなりません。特に、「普通信仰」が極端な集団においては、顕著です。普通信仰があると、「普通」=「多数意見」は錦の御旗であり、極めて大きな価値になります。多数意見を制御下に置ければ、集団を支配できるからです。多数意見はすなわち権威そのものなわけです。

多数意見を制御する因子は、オピニオンリーダーと呼ばれます。比較的従順な人の集団では、声の大きなオピニオンリーダーとなります。さらに少数の追従者を獲得すれば、合意形成を強引に行うことが可能です。これは、ガキ大将を頂点とする小さなコミュニティーをイメージするとわかりやすいと思います。スクールカーストは、多数意見の形成を効率よく制御するシステムであり、多数意見=普通を大きな権威とみなす「普通信仰」のあるソサイエティでは、必然的に発達するコミュニティー形態だと考えられます。

多数意見の制御が政治手法になっている

この手法を階層的に行うのが、かつての自民党の派閥政治です。派閥というのは派閥の領袖と呼ばれるオピニオンリーダーと比較的少数の追従者によって構成されます。派閥間でしのぎを削り合うことで、どうしようもなく少数派であるはずの一つの派閥が自民党全体を統治し、それによって国政を牛耳るという仕組みでした。
現在の自民党は、安倍さんをオピニオンリーダーとして、その取り巻きと、中立者、という構造です。安倍さんとその取り巻きは、ガキ大将コミュニティーを形成しているように見えます。その他の自民党議員は、次のオピニオンリーダーの取り巻きを狙って、安倍さんのコミュニティーから距離を置いている感じがします。

ガキ大将コミュニティーを徹底的に行うのが、アメリカのトランプ大統領です。彼の手法は、ガキ大将コミュニティーそのものです。アメリカという大国の大統領のメンタリティーがガキ大将というのは、とても危険な感じがします。でも、共和党の大統領はこれまでも多かれ少なかれガキ大将でした。ただ取り巻きは諸外国の首脳でした。ブッシュJr.さん時代の当時の国務副長官アーミテージさんは「Show the Flag」と言って、諸外国首脳に踏み絵を敢行しました。踏み絵という手法は、典型的なガキ大将のメンタリティーです。

政治の世界では、結構ガキ大将システムが生きているのです。小さな集団が、集団全体を制御するためのシステムとしてそれは合理的なのです。

こうしたことから、スクールカーストという概念はガキ大将のメンタリティーをより陰湿化したものだと理解できます。日常にちりばめられた細かな「踏み絵」によって、カーストを作り上げるので、より狡猾です。こうした環境の中で今の若い人は成長するので、自己防衛の手段として、「空気を読む」ことを重視するのです。それはちょうど、小魚が大群を作ることや、ウミガメの赤ちゃんが一斉に海を目指すこと、サンゴが満月の前後に一斉に産卵すること、そういうのと一緒です。群れの中に潜むことで、個人攻撃をかわすのです。

普通信仰をやめるのではなかったのか?

個性尊重のスローガンは、むしろ「普通信仰」を否定するものだったはずです。Bill Gatesも「将来のあなたの上司がGeekである可能性は高い」ということを語っています。テクノロジーが発達し、低レベルな仕事のコモディティー化が進むと、高レベルで高収入な仕事の多くは専門性が高く、普通の人には手が出ないものになるという予測があるのです。そういう社会情勢をにらんで、より高品質な人材を多く育成する目的で、個性尊重が叫ばれました。「普通」から逸脱した人を保護し育てるということが重要なミッションになったわけです。
ところが、「普通」でない人というのはレアなのです。レアだから「普通」でないのです。マスエデュケーションというのは、教育の効率化のための手段です。効率とは費用対効果を最大化することです。教育における効果とは、どれだけ優秀な人間をどれだけたくさん輩出したか、ということで測られます。前者は質を、後者は量を意味します。効果を定量化する場合、最も単純な方法は質×量という尺度を用いることです。質を縦、量を横とした四角形を考えると、質×量は面積です。四角形の面積を最大化=効率化する場合、もっともよいのは正方形を考えることです。つまり、積のような尺度を用いると、質と量をバランスさせるという戦略が推奨されるということです。それは従来型のマスエデュケーションです。
普通信仰からの脱却を目指し、バランスを「質」に振るというのが「個性尊重」です。だから、教育の効果の尺度を変える必要があったのです。つまり、縦長の長方形を目指すように意識改革すべきだったのです。しかし、それは行われませんでした。その結果、いびつな教育が行われるようになりました。

個性尊重型の教育を実践している分野がある

均質な教育というのは日本の教育制度の最大の特徴です。だから、それをやめるという決断は極めて難しいということは理解できます。しかしながら、それを飛び越えて、個性尊重型のシステムが導入されている分野があります。それは、スポーツです。特に、陸上競技が顕著です。

体育の授業では、走力の測定なんかが日常的に行われます。個々の運動能力を測定し、トレーニングの成果を実感するという意味もありますが、もう一つ極めて重要な目的があります。それは、才能の発掘です。
極めてレアですが、普通の子供たちに交じって、運動能力が特異的に高い子供が存在します。体育の授業でタイムを計った際、そういう子供を発見することがあります。体育の先生は、その子供を呼び出し、さらに能力を測定し、場合によっては特別のカリキュラムを用意したり、特別の学校への転校を勧めることがあります。そのような子供は最終的にオリンピックなどを目指すことになります。
中学校時代のクラスメートの一人が、ハードル走でなかなかのタイムを出したので、放課後先生に呼ばれて、追試を受けていました。成績が良くて追試なんて意味が分からないとぼやいてました。陸上競技では稀にあります。短距離走の桐生選手は洛南高校出身ですが、彼のような選手はどの高校や中学校で発見されてもおかしくありません。水泳もそのようなことが多くあります。

スポーツでは、計量の仕方が極めて分かりやすく、出口(オリンピック)もしっかりわかっています。だから、極端な教育システムを採用しやすいという事情があります。一般的な人材育成において、そのような個性を計量し選抜するのは困難な面があります。

数学では稀にそのような才能が見つかることがあります。それを促進するために、数学オリンピックという仕組みがあります。それに倣って、物理オリンピックや化学オリンピックも作られていますが、あまり効果が上がっていないように思います。というのも、物理や化学というのは数学に比べて使用する能力が多彩だからです。
数学オリンピックの制度は、ソ連時代の数学英才教育にヒントを得ています。ソ連では、数学の才能のある子どもは選抜され、能力があると認められると全寮制の特別学校に「監禁」されました。徹底的な英才教育が施され、かなりの確率で気が狂ったそうです。でも、おかげで、ソ連の数学者や物理学者には、頭の良い人が多くいます。日本も、そういう個性を発掘しようと推薦入試とかやっています。京大の推薦入試の問題が難問すぎたという話題は記憶に新しいところです。そういう試みがうまくいくのかどうかは、じっくりと見極めていかないといけません。

普通をやめさせられない

僕たちの「普通信仰」は極めて根深いものになっています。人間関係、社会システムの隅々まで、僕たちは他人に「普通」であることを陰に陽に期待しています。そして「個性」により価値があるということを声高に叫ぶにもかかわらず、「普通」以外の価値観を持てていません。打開するには「普通」以外の価値観というのは、とても難しいものだということを認識するということが前提になると思います。

日本の教育制度では同化圧力が強いため、何もしなくても「普通」に大きな価値観を持つようになります。「普通」であれば、不利益を被るリスクを避けることができるからです。生活が安定し、特に努力しなくてもそこそこの生活が手に入る社会では、リスクの回避は極めて高い価値を持ちます。
その高い価値を持つ「普通」を手放し、新たな「価値観」を採用するには、その「価値観」がより高い価値を持つと確信できなければなりません。特に、その価値観が個性的であるためには、その価値が「自分にとって特別」重要である必要があります。つまり、個人個人の価値観を確立するような教育が大事ということです。今の日本の学校教育では、価値観教育がすっぽり抜けています。これまで、日本では「普通であること」が唯一で絶対の共通価値観でした。そこに異論をはさむ余地は全くありませんでした。むしろ、それに疑問を抱くことすらタブーであるような雰囲気があります。

でもそれは、学校教育では、という限定付きです。実社会ではそんなことはありません。ある程度の社会常識としての「普通」は要求されますが、むしろ創意工夫が価値を生みます。多くの若者は、就職の際に初めて「個性」を要求され、戸惑い、失敗します。僕はそういう学生たちを多く見ています。大学では「個性」を伸ばすための時間的猶予が与えらえるのですが、多くの学生はそれを無駄にしています。就職セミナーでも、「個性をみつけましょう」的な説明がなされます。でも「個性」とは訓練し、伸ばし、磨き上げるもので、時間と手間がかかります。大学での4年あるいは6年をそれに費やしていれば、すぐにわかります。逆に無駄に過ごしていれば、それもすぐにわかります。

個性を伸ばすには、それを自分の価値観と同一化しておかなければなりません。それが自分にとって価値があるものでなければ、自分の幸せに寄与しないからです。自分の幸せに寄与しない努力というのは、人生を無駄にすることです。好きなこと、大事なこと、そういうことを真剣に考えることによってしか、価値観をはぐくむことはできません。
子供を産み、育て、子孫に命をつなげるということが、生物の根源的な価値観です。人類においても、近代化するまでは、それが唯一絶対の価値観でした。ところが、近代化によって個人の生活が安定し、人口が増えると、資源の効率的利用の観点から子孫を増やすことは、場合によってはデメリットになりました。我々は別の価値観を持たねばならなかったのです。その一つが、普通信仰だと僕は思います。
ベンサムは最大多数の最大幸福を唱えましたが、それを実現する価値観が普通信仰だと思います。個人の幸福の最大化ではなく、集団に価値を見出しています。集団というのはあいまいですが、集団を構成する個人をあえて考えるなら、集団の平均値がモデルになるでしょう。それはすなわち「普通の人」です。逆に、自分が「普通」であれば、幸福の最大化の恩恵を受けられると、僕たちは直観しているのです。

ベンサムの哲学は、衣食住が十分に分配できない時代のものであるという指摘があります。つまり、衣食住が足りて、さらに発展を続ける現代社会には適しないかもしれません。さらなる発展により価値を見出そうというのが、Bill Gatesの話です。進歩の先端では常にそれが重要な価値です。マクロ経済学の立場では、進歩がない停滞した状態では社会は滅びに向かうと考えます。一方、進歩はもう十分だという意見もあります。急激な進歩を目指さず、現状維持をしながら、ゆるやかな進歩を目指そうというのが、持続可能型社会というやつです。進歩のベクトルを「持続可能技術」に振り向ければ、マクロ経済も維持できるという主張です。僕にはよくわかりません。が、強い「普通信仰」を感じているので、社会全体としては、どちらかというと持続可能型社会を目指す雰囲気にあるのだろうと思っています。

それにしても、強すぎる普通信仰は人間を家畜化するので、僕は嫌いです。やはり、個性を尊重し、様々な価値観のぶつかり合いがあった方が健全だと思います。



2017年6月19日月曜日

精神的に病む理由(個人的意見)

カウンセリング

僕は一度カウンセラーの人と話したことがあって、その時に、カウンセラーがやたらと優しいので、違和感を感じました。後で調べたところによると、カウンセリングの中で何らかの解決策を見つけるのではなく、カウンセリングそのものが精神的なケアであるということでした。
カウンセリングで大事のなのは、言い分を全面的に肯定することで、絶対に否定してはいけないそうです。だから、カウンセラーに必要なのは、相手の話に感情移入せずに肯定的な相槌を続けるスキル、ということになります。そういう正体不明な態度が、カウンセラーに感じた違和感の正体だと思いました。カウンセリングはストレス発散にはなりますが、問題解決にならないような気がします。

一方で、現代の精神科では脳に作用するさまざまな医薬が処方されます。薬で何とかなるんだったら、薬を使えばよい、というのは何ともアメリカ的ですね。でもこれでは問題を解決したことにはなりません。元々、西洋医学は対処療法が主体なので、精神的なトラブルの問題解決は医学の範疇にはない、という立場なのかもしれません。そうすると、精神的なトラブルを抱えた人は、カウンセリングでも医学でも救われないということになります。もっと、問題の根本に関して理解を深めないといけないと思います。

科学者のメンタリティー

正直に言うと、僕は精神的に病んでいた時期があります。ちなみに、前述のカウンセリングの経験は別件です。今は大丈夫だし、今後も大丈夫だと思います。最近ちょっと悩みがあったりしますけどね。その時の経験からすると、精神的に病むのは本人の問題というよりは、環境要因の方が大きいと考えています。その話をしたいと思います。

一般に、科学者というのは精神的にタフです。世俗的な欲求を制限し、たゆまず自己研鑚に努め、容赦のない競争にさらされるという人生を自ら選択するのですから、タフでなければ生きてゆけません。そんな科学者でも自殺をします。もちろん、一般人のように家族や経済的理由によって自殺を選択した例もありますが、目立つのは科学的なプライドを傷つけられたことによる自殺です。

FM変調を発明したエドウィン・アームストロングは象徴的です。裁判官がAM変調とFM変調の技術的な相違を理解できなかったために、FM変調は特許が認められませんでした。アームストロングは絶望し、自ら命を絶ったと伝えられています。
ボルツマン定数に名を残すルードヴィッヒ・ボルツマンは、当時の最高権威者の一人であるマックス・プランクにいちゃもんをつけられ、精神を病んでついに自殺します。後年、プランクは自らのいちゃもんが不当であったことに気づき、ボルツマンの名誉回復を宣言しますが、失われた才能は戻ってきません。
ナイロンを発明したウォレス・カロザースは、デュポンの社員であったことから、ナイロンに関する研究成果を発表できず、鬱になって自殺しました。
計算機技術の基礎を築いたアラン・チューリングは、同性愛者の疑い(当時は犯罪だった)をかけられ、社会的なバッシングをうけ、研究成果も評価されなくなり、自殺しました。チューリングにかけられた嫌疑は、事実ではなかったという説があります。
日本で広く知られた事例では、STAP細胞騒動で主導的立場にあった方が自殺されました。大きなプロジェクトの責任者であったことから、科学的威信が揺らぐと、立場上つらくなるということもあったのでしょう。研究室に行っても仕事にならないとか、研究室に行けないとか、そういうことは研究者にとってはショックなことで、その中で意気消沈していったと報道されています。騒動のために研究活動が大きく制限されたことが、科学者としては最も深刻な問題だったかもしません。

それぞれのケースの詳細は異なりますが、自分の仕事が評価されないということに思い悩んでいるというところが共通しています。科学者の精神は比較的タフなのですが、そのタフさを支えているのは自らの科学に関するプライドです。そのプライドは、リスペクトを受けることによって維持されます。そのリスペクトを失うと、プライドが瓦解し、殺人的なストレスに直接さらされるのです。

プライド

この事例から、プライドというのがストレスに対する重要な防御機構であるということがわかります。だから、プライドを破壊するような環境におかれると、ストレスに抗しきれなくなり、精神を病むのだと思います。ストレスとプライドの関係は、科学者以外の場合にも適用されます。プライドを維持するには、リスペクトされることが一番です。平たく言えば、「ほめられること」「認められること」です。それらは、他者の存在が必須です。精神的にまいってしまったら、家族や隣人が本人を精一杯「リスペクト」することがとても重要だということです。引きこもりはダメです。引きこもって周囲と断絶してしまうと、周りはリスペクトしようがありませんからね。

さて、最近の新卒採用では、本人本位の採用プロセスが徹底しているという傾向があります。しかしながら、採用プロセスで評価対象となるのは、本人の能力よりも性格だと言われています。というのも、就職してから精神を病んで、戦力外となる人が多いので、精神的にタフな人を選抜したいという思惑があるようです。
自殺した科学者たちの事例にあるように、よっぽど精神的にタフな人々でも、特定の状況に置かれると、自殺に追い込まれるわけです。だから、少しばかりタフだったとしても、ある状況下では精神を病みます。問題は、本人のタフさではなくて、環境だと思うのです。
精神的にまいってしまう人が多い職場では、プライドを傷つけるような事例が多いんじゃないでしょうか?プライドが傷つく人(被害者)がいれば、加害者もいるでしょう。犯人探しというわけではありませんが、加害者対策の方が現実的ではないですか?加害者対策で最も有効なのは、加害者にならない対策だと僕は思っています。
感受性は人によって異なるので、ちょっとしたことで、すべての人が加害者になり得ます。悪意があろうとなかろうと、他人を傷つけるリスクがあります。特に、健全なコミュニケーションでは少なからず対立があるものなので、対立の中でプライドを傷つけるというマイナス要素は必ずあります。それを否定し排除することはできません。そういうマイナス要素を完全に排除したものが、「カウンセリング」です。カウンセリングを受ければわかりますが、違和感を感じるはずです。その理由は、リスクを排除するためにコミュニケーションが健全でなくなっているのです。日常が「カウンセリング」みたいだったら、逆に気が狂うと思います。

コミュニティーを健全に保つ

健全なコミュニケーションがある限りマイナス要素の排除は無理なので、プラス要素であるリスペクトをなるべく多くするしかありません。具体的にはお互いの良い点をしっかり観察し、指摘し合うことです。芝居がかった無理のあるリスペクトは皮肉になりますから、日ごろから細かく、良い点を具体的に指摘し合うというのがほとんど唯一の解決法だと思います。他人のプライドをリスペクトし、むやみにプライドを傷つけないというコンセンサスが、精神的な健全さを保つことに極めて有効だと思います。
こういうのは女性の方が得意ですよね。何かにつけて「かわいい!」と連呼し合うのは、「かわいい」という言葉に含まれるニュアンスが、女性に対するリスペクトに対応しているからです。女性の方がストレス耐性があるとされるのは、そういうコミュニケーションの勘所を女性たちが経験的に知っているからでしょう。

いくらリスペクトをもらっていても、一瞬でもプライドが傷つくと、どうしても落ち込みます。それもまた避けることはできません。僕の場合も、精神的に落ち込んだのは、ひどくプライドが傷ついたことが主な原因でした。最後の砦としてのプライドが瓦解すると、他者からいくらリスペクトをもらっても、なかなか立ち直れないものです。リスペクトを受けてもプライドが補強できない、となると、リスペクトを受ける以外の方法でプライドを補強するしかありません。

根拠のないプライドを発達させてしまう場合があります。そのプライドは根拠がないので、他者とのコミュニケーションで容易に崩壊します。そのため自己防衛的に他者とのコミュニケーションを避けるようになるでしょう。つまり、「ひきこもり」です。引きこもりでは、ゲームや漫画などのホビーに逃避する傾向が有名ですが、それはそのようなホビーにプライドの根拠を求めているのです。ただ、本人もそのプライドが幻想であるということを理解しているため、部屋を出ることに恐怖を感じるのだと思います。

処方箋

「ひきこもり」のような解決法は生産的ではありませんので、別の方法を考えましょう。一つの方法はプライドを新たに導入することです。よくあるのは、ちょっとしたアルバイトやボランティア活動などに参加し、「感謝」をもらうことです。そうして導入されるプライドは極めて小さなものですが、普通の人のプライドというのは、大きくないのが普通です。
別の方法として、自分の中のプライドを強化するという方法もあります。プライドの根拠を補強し、崩壊しないように高度化するのです。僕は科学者なので、科学者としてのプライドに必死にしがみつくことで、苦境を克服しました。

一般には、そういう方法は難しいとされています。そこで、テクニカルな面を補足したいと思います。傷ついたプライドを修復するコツとして、プライドを切り刻むというのを提案したいと思います。客観的に見て、プライドが傷ついた状況は妥当なのかもしれません。すなわちそれは、自分が悪い、ということです。でも、不当に高いプライドであれば、攻撃を受けても文句を言えません。
でもよく考えてみてください。自分のプライドにも根拠はあるはずです。プライドが高くないことがプライドだっていうのもアリですから、誰だってプライドはあるものです。でも、自分のプライドと他者の認識との間にギャップがあった場合、衝突が生じ、あなたのプライドは傷つくかもしれません。あなたのプライドが悪いわけでも、他者が悪いわけでもないということがあり得ます。あなたのプライドの範囲や程度が適切でなかったという可能性を検討すべきです。
人間だれしも得意不得意があるものです。不得意な部分にプライドを持つことは不当です。自分のプライドの範囲をもっと細かくみると、プライドを持ちすぎな領域もあるはずです。傷つけられた部分というのは、そういう部分なはずです。自分の本当のプライドの範囲を見つめなおせば、傷つけられたのは、弱い部分だけで、本当に強い真のプライドの部分は、無傷なことに気づくでしょう。本当にプライドが持てる領域は、決して誰にも傷つけられないのです。だから、本当のプライドの部分を信じて進めば、必ず立ち直れるものなんだと思います。

中二病

ちょっと話を戻しますが、世の中では「中二病」というものがささやかれます。ファンタジーと現実の区別があいまいな精神状態を指します。小さいころは自分が物語の主人公のようになれると信じているものですが、中学校2年生までには、現実を認識するようになり、自分は実は、one of themだということを理解すると言われています。最近は、子どもにストレスを与えないように大人が配慮しすぎる傾向があって、そのような現実認識のタイミングがどんどん高年齢化していると言われています。それを指して「中二病」と呼ぶようです。
この中二病というのは、過剰なプライドを持っている状態と理解することができます。過剰なプライドは他者と衝突し、負けます。プライドが傷つけられ、深刻な精神的ダメージがあるかもしれません。それを笑うことはよくないと思います。人の現実認識は完全に主観に基づいています。客観性というのは、経験に基づき主観に組み込まれるのもので、別の言い方をすれば、現実の条件に則するように修正された主観です。なので、だから、無修正の幼稚な主観に基づく判断を馬鹿にするのは正当でないと思うのです。
中二病では、ファンタジーな部分が主観に残っているため、本人にとってはそのファンタジー部分もれっきとした現実認識なのです。問題は、ファンタジーと客観性の境界があいまいなことです。これは、先ほどの過剰なプライドと同じ構図だとわかります。すなわち、うつ病の社会問題化と中二病の根っこが同じということが推測できます。そう考えると、両者とも「ゆとり教育」と密接なかかわりがありそうだ、とピンときます。

一概にゆとり教育が悪いとは言えませんし、因果関係を見るのは乱暴かもしれません。でも、中二病や不登校の問題はゆとり教育が大きな影響を与えています。ゆとり教育では、個性尊重を錦の御旗として、誰もが主役となる教育を実践しようとします。理念はとても素晴らしいと思います。
しかしながら、個性の定義があいまいなことに問題があると僕は思っています。個性とは「あるがままの自分」と認識されています。それを幼少期に適用すると、「幼稚な考え方を無理に改める必要はない」となります。幼稚な考え方の一つとして、ファンタジーが相当し、無理に改める必要がないので、改めずに成長した結果、中二病になります。さらに、様々な幼稚な考え方を、馬鹿にされたり、幼稚な考え方によって他人を傷つけた結果、不登校が拡大再生産されます。
不登校の構図が大人になってから発生すると、うつ病という状態になります。精神的なダメージに対する処方箋はプライドを保つことに尽きます。大勢の人間が同時に存在する現実社会では、プライドの範囲を適正に設定し、正しくプライドを保つ必要があります。ある場合には、プライドを切り刻み、一部を捨てる必要があります。そのようにして、個性が確立してゆくのです。それはつらいことなので、人は時間をかけてゆっくりとそれを行うのです。

がんばる≒努力

僕の個人的なスローガンに、「がんばるな、努力しろ」というのがあります。現代は極めてグローバルな競争の時代です。極めて多くの人が、様々な場面で競い合っています。昔は身分制があって、競争に参加できるひとは少数でした。でも今の僕たちは、その競争に参加する条件をみんなが満たしています。それは人類の進歩なんだと思います。
競争に参加する人数が多いということは、競争が過酷になります。昔は、競争が緩やかだったので、ちょっと頑張れば、それなりの結果がついてきたかもしれません。でも、激しい競争のある現代では、「がんばる」はデフォルトです。みんなが、頑張っているのです。その中で抜きんでるためには、もっと「がんばる」べきでしょうか?
僕は「がんばる」にも限界があると思うのです。「がんばる」に似た言葉に「努力」というのがあります。何が違うと思いますか?「がんばる」と「努力」の違いが明らかになるのは、応援の掛け声です。「がんばれ!」とは言いますが、「努力しろ」とは言いません。
応援の現場では、競技等がすでに進行していて、できることは限られています。その状態で、できることと言えば、「あきらめない」とかほとんどが精神面に限定されます。一方、「努力」は競技等が始まる前に、トレーニングするといった意味合いがあり、精神面よりも行動・行為に重きが置かれます。「努力」とは、目的のために行動すること、なのです。
精神を病んでいる人に、「がんばれ!」というのは、疲弊している人に鞭打つようなことであり、逆効果だと思うのです。行動することで、できることを確認し、それを広げ、自分の世界を構築し、社会とつながってゆく、そういうプロセスが重要だと思います。その中に、「がんばる」要素は全くないと思うのです。

精神的に病む理由として、僕が思うのは、周りが「がんばれ!」って言いすぎなんじゃないかと思うのです。また、本人も、「がんばろう!」って思っているはずです。それが逆に重荷になってしまうというのが、僕の経験です。それよりも、「できることをやろう」とか、「気分転換してみよう」とかして、なんでもよいので、何かをする「努力」が大事だと思うのです。その中で、自分のできることとできないことを見極めて、できないことを「がんばって」やろうとすることの不毛さ、そして自分の限界に気づくのは一つの処方箋だと思うのです。
自分の限界が認識できると、逆に自分の可能性にも気づくかも知れません。今の限界は、未来永劫同じく限界であるとは限りません。明確になったその限界を突破するための「努力」は、次の目標としてぴったりです。

精神的に病む理由

人は工業製品ではないのでそれぞれに個性があります。しかしながら、人としての基本性能は大きく変わりません。だから、特定の状況に置かれると、壊れるのは仕方のないことです。皆が気をつけなければならないのは、そのような状況を作らないこと、そして修理することです。
タフであっても無理をすれば壊れます。誰でも壊れうるというコンセンサスが大事だと思います。
壊れた場合は、「がんばれ」は禁物です。「がんばれ」には、現状が「頑張っていない」こと、「がんばる」余地があること、という言外の意味が含まれます。すでに精一杯「がんばっている」人に、「がんばれ」は無理を強いることになり、前述のようにさらに壊れる危険性があります。
現状を打開するには、何か行動を起こし、環境に変化をもたらすというのが良いはずです。その行動が望ましい結果につながらなかったら、別の行動に変えればよいと思います。言うは易く行うは難し、ですが、やれないことはないというのが僕の経験です。

2017年6月2日金曜日

官僚が出会い系カフェを取材する

安倍内閣に真っ向勝負な話

元文部科学省事務次官の前川氏が、若い女性の貧困を調査するために出会い系バーに出入りしていた件で、安倍内閣から攻撃を受けている。前川氏の行為を非難する意見が大勢を占めているようだが、前川氏の言い訳を、考察してみよう。僕は、個人的には前川氏に頑張ってほしいと思っているが、この考察は単なる知的ゲームだ。

若い女性の貧困を調査したいという釈明は筋が通るか?

さて、人によっては職業として、貧困の研究をしているかもしれない。でも官僚がそれを調査したいというのは、ちょっと違和感がある。しかしながら、前川氏は退職後に夜学の臨時教員のボランティアをしていたという話がある。そのエピソードを鑑みると、学校教育からドロップアウトした人たちのケアについて興味を持っていたことがうかがえる。

教育行政のトップが、自らの教育行政の失敗の産物であるドロップアウトした人に興味を持つのは、悪いことではない。自分の仕事に誇りを持つために、自分の仕事の限界を知り、その限界を乗り越える努力をする。こういうことができる人は少数だ。でも、それを続ける人だけが、トップランナーとなることができる。それを前川氏は実践しようとしていたのかもしれない。
あるいは、現在の教育行政ではドロップアウトした人たちのケアがどうしてもおろそかになる現状を、行政組織のトップですらどうしようもない現実に直面し、自ら行動を起こすべきだ、と考えたのかもしれない。
それが出会い系バーに出入りすることを正当化するには、まだまだ説明が必要だろう。

ドロップアウト後の人生

さて、高校中退した人が辿る人生をご存じだろうか?僕も、資料を読み解く程度でしか知らないが、それでもいろいろなことが見えてくる。

およそ2.5%の人が高校を中退すると言われている。最近は減少傾向らしい。人数でいうとおよそ5万5千人。高校を中退すると、ほとんどの人は定時制あるいは通信制の高校などに再入学するそうだ。そして、それらの高校で卒業にこぎつけるのはおよそ50%と言われている。
それらの高校をドロップアウトした人のうち、そこそこ勉強ができる場合は、高卒認定試験を受験する。高卒認定試験は年2回あり、重複もあるが、年間のべ2万6千人受験している。先の定時制・通信制高校の卒業率を勘案すると、定時制・通信制高校を卒業しなかったほとんどの人が高卒認定試験を受験していると考えてよいだろう。
高卒認定試験の合格率は30~40%ということなので、逆算すると、およそ1%の人は完全に高校中退となる。

1%というのは年間1万人以上の人が高校中退になっていることを意味する。高校中退だと、いろんな職業に就く機会が奪われるということ以上に、人生に希望を持てなくなることが問題だろう。親族からの経済的支援が得られない場合は、自暴自棄になる可能性も高い。特に若い女性は賃金が著しく低いので、簡単に貧困に陥る。もっともひどいのは、沖縄だと言われている。沖縄ルポがあるので、それを参考にされたい。

簡単に言うと、沖縄では貧困のために、若い女性が非常に安い料金で売春をしている。彼女らは、望んでか望まずにかわからないが、10代で妊娠し出産する。貧困なので、子育てが満足にできず、ネグレクト気味で子供が育つ。貧困家庭なので進学できず、かといって仕事もない。女の子の場合は、簡単に売春に行きつく。そうして貧困が連鎖する。

沖縄ほどではないにしても、出会い系バーというのは、かなり近いのかもしれない。文部科学省が指導監督する教育行政のエラーを実地調査するには、格好の題材と言えなくもない。

高校中退者(1%)の約半分が女性だと考えると、この最後の0.5%のうちの何割かは、出会い系バーで援助交際を募っている、と類推できなくもない。あるいは、出会い系バーの存在は、将来、沖縄のような貧困の連鎖の始まりを意味しているのかもしれない。

貧困の連鎖を断ち切るにはどうしたらよいか?

沖縄のルポにあるようなひどい悪循環の直接の原因は貧困だが、貧困によって若い女性が性産業に流れる、というリンクがあることに気づく。このリンクは、「貧困」以外に、「若い女性」と「性産業」がキーワードになっており、これら3つの要素のいずれが欠けても成立しないはずだ。3つの要素の連携を破壊するには、それぞれの要素をやっつけるという方法が単純だが、「貧困」の撲滅は難しいし、「若い女性」は撲滅できない。また、違法な「性産業」は犯罪で取り締まられているにもかかわらずなくならないし、違法でない「性産業」も多数存在する。だから「性産業」を撲滅することも現実的ではない。

別の方法として、それぞれのキーワードの連携を崩す、ということが考えられる。例えば、「貧困に苦しむ若い女性」と「性産業」とのリンクを断ち切れればどうだろう。「性産業」以外の選択肢があれば、事態は改善するかもしれない。
実際のところ、この方針を実際に行っていたというルポが週刊文春に掲載されたらしい。その後、フラッシュは週刊文春を裏付けるような記事を掲載しているらしい。ただし、夕刊フジは別の記事を書いている。夕刊フジは、前川氏を貶める方向での論説を掲載しているらしい。
写真週刊誌と夕刊紙のどちらを信用するかというと、難しい問題だが、夕刊フジの記事は、出かけてその場の人に声をかけてすぐ書ける内容であるのに対し、フラッシュは前川氏を知る人物を店の中で尋ねて回らないと書けない内容である。ということは、フラッシュの記事の方が手間がかかっているということだ。文春の記事はさらに多くの取材が必要なので、取材量を目安に考えれば、文春>>フラッシュ>フジということになる。前川氏が、「貧困に苦しむ若い女性」と「性産業」のリンクを断ち切る活動を実践していた可能性は高いが、伝聞に基づいて判断するのはよくない。

ただ、そのリンクは決定打にはならない。キャバクラなどは「性産業に携わる若い女性」と「貧困」が形式的にはつながっていない。その結果、合法的なキャバクラは隆盛を極め、あまり健全ではない発達を遂げている。3つのキーワードのリンクを不用意に切ったりつなげたりすると、好ましくない結果につながる可能性がある。
好ましい結果につなげるためには、実態を注意深く調査することが欠かせないのは道理だ。出会い系バーは沖縄とは違って、貧困とは関係のない話なのかもしれない。でも、すくなくとも、現行の教育システムの何らかのエラーが、若い女性と性産業を安易に結び付けているのは間違いない。

システム管理者がエラーの原因究明をするというのは当然だ。だから、文部科学省として調査すべきだと思うかもしれない。文部科学省にはいろんな事案について個別に調査研究するセクションがある。しかし、「出会い系バーの調査」を企画しそれを実行できるかというとかなり難しいだろう。というのも、調査においてリスクが高すぎるからだ。同じ理由で部下にそれを命令することもはばかられる。自分で調査すべきだ、と結論するかもしれない。

調査目的で出会い系バーに出入りするという証明

前川氏は頭の良い人のはずなので、遊び目的で出会い系バーに出入りするなんてことはしないはずだ。ガチの調査をしていた場合には会話音声などの記録があるはずだ。優秀な官僚は自分の行動を日記に書き残す習慣を持っている。ガチの調査でなくとも、日記には記述があるはずだ。前川氏はいくらでも反論できるはずだが、積極的に反論していない。いつでもひっくり返せるということかもしれないし、あるいは関係者(取材対象)に迷惑をかけることを嫌っているのかもしれない。文春の記事によれば、その可能性がもっとも高いことになる。

官僚のトップが、時の政権と喧嘩すると腹をくくったということは、確実に勝てるだけの材料をがっちり持っているはずだ。ちょっと楽しみではある。

2017年5月25日木曜日

ツーマンセルを基本にする

関連記事:週休4日

週休4日はハードルが高い

僕は何年も前から週休4日で、副業を持つという働き方が良いと思っています。そのことについては、「週休4日のすすめ」に書きました。でも、それって、組織の理解とか社会制度とかいろいろクリアしないといけない課題が多くて、なかなか踏み切れません。
そこで、折衷案として、すべての業務をツーマンセルにして、所属を2重にするというのを最近提案しています。週5での勤務のうち、3日弱はメインの職場、2日強は別の職場で別の業務をするというやり方です。一人の人は週3でしか関われないので、業務に支障をきたしますが、それは同じような事情を持つ別の人が補います。結局、すべての業務の担当者が2名ずつ(ツーマンセル)で、日毎に交代するというわけです。実質的にメインの業務は週休4日で、サブ業務が副業になります。これだと、組織内の取り決めだけで、実質的な週休4日制を実現できます。

ツーマンセルのメリット

週休4日制のメリットをおさらいしておきます。

  1. 常に交代要員が確保されているので、休みを取りやすい。
  2. 最低限の収入を確保しつつ別のこと(起業やボランティアなど)にチャレンジできる。
  3. 子育てや介護などに参加しやすい。
  4. 複数の職場を比較できるので、業務改善が進みやすい。
  5. 新たな職能の発見につながる。
  6. 転職が促進され、人材が流動化する。
  7. 引継ぎが必要ないので、人事異動が容易。
  8. 専門的な職能を持つ人材を、市場調達しやすい。
  9. 一時的な雇用調整が容易。

ツーマンセル型でもこれらのメリットのほとんどは継承されます。ただし、転職は促進されません。その結果、人材が流動化しないので、人材の市場調達は従来のままです。雇用調整として、メイン業務のみとすれば、それはワークシェアリングそのものです。
でも、そもそも社会の理解が必須な週休4日制を、会社の理解だけで先行導入するというのがツーマンセル型なので、社会へのインパクトが最小限にとどまるのは仕方がないことです。そう考えると、ツーマンセルによって、週休4日制のメリットを現状制度の限度いっぱいまで享受できると期待できるわけです。

いくつかの会社の人に提案してみた

僕は、いろんな会社の人と話す機会があります。ほとんどは、研究の末端の方なんですが、管理職の人たちもいて、そういう場合に時折、週休4日制を提案しています。さすがに、びっくりされます。
最近は、そのあと、ツーマンセル型の業務形態の話を続けています。すると、これならできるかも、と思ってもらえます。日本の学校教育では、休まない・遅刻しないということを徹底しており、それは大人になっても美徳とされています。それは日本の良い面だと思いますが、それに経営があぐらをかいて、欠勤がないことを前提に組織と業務を構築してしまっています。その結果、休めない体制が出来上がっているのです。
普段はよいのですが、病気やケガで休まざるを得なくなったとき、組織は大ダメージを受けます。関係者たちは大騒ぎになるわけで、しばらく会社勤めをすれば、数年に1回くらいそういうことを経験するものです。病気やケガは一定確率で発生するものです。このようなイベントは、経済用語でリスクと言います。日本の組織は、リスクがヘッジされていない状態にあると理解できます。であれば、ヘッジすれば改善されます。ヘッジの方法は簡単です。互いに各自の仕事を交代できるようになっていればよいのです。

人材リスクのヘッジ法

人員の入れ替えが多く発生する組織ではそのリスクをヘッジすることが重要なので、ヘッジの方法が発達します。アルバイトのシフトが典型例です。
一般のアルバイトが行う業務は、基本的に誰でも対応可能です。ある程度は訓練が必要だったりしますが、特定の業務について、一人のアルバイトしか対応できないようなものは、あり得ません。もし、そのアルバイトが辞めちゃうと、業務が滞りますからね。そして、アルバイトは必要な人数(スロット)より多くの人数が常に登録されています。つまり、バックアップが担保された状態にあるわけです。組織は、登録人数がスロットより多くても、余裕が少なくなると募集をかけます。常に十分な登録人数が確保できて、人手が余っている状態が通常なのです。シフト表を綿密に作成することで、業務を効率的に配置します。

愚痴

日本の組織では、登録人数がスロットに一致するか、やや足りないくらいで、通常運転になっています。正社員の場合、登録人数×給与が人件費総額で経費になって、利益を削りますから、登録人数を足り内気味でむりやり業務を行うと、経営が楽になるわけです。そのような無理な経営は、欠勤がないことが前提になっています。それでは、仕事がきついし、休めないのは当たり前です。しかもそれは経営者の問題で、だから、政府は経営者に業務改善を指示します。しかしながら、日本の経営者は無能なので、コストカットでしか利益を上げられない状態にあり、結局状況を改善できず、社員に効率化を指示します。社員はすでに精一杯効率化をおこなっており、余力はないので、何もできません。そうすると、業を煮やした政府が再度経営者に指示を出し、ということが延々と繰り返されています。不毛です。
実際のところ、楽な業務とキツイ業務があって、その配分を何とかすれば、少しはマシになるよね、みたいなことはやっているかもしれません。でも、キツイ業務の負担を分散するというやり方だとコストが増えるので、楽な業務を束ねてキツイ業務に近づける方向で調整されます。すると人が余るので、リストラしてコストカットします。そうやって何十年もやってきて、現在に至っています。
理想的な解は、キツイ業務を分散して、楽な業務にするんだけど、コスト増につながらないようにする、というもののはずです。そのためには、業務にかかる単価を抑えるしかありません。そこから、「同一業務同一賃金」という発想が出てきます。でも、これはうまくいきません。なぜなら、社員は業務を選べないからです。アルバイトの仕組みがうまく機能するのは、アルバイトは登録時に業務を選んでいるからです。そして、その仕組みがうまくいくのは、アルバイトは仕事が無くても生死につながらないからです。業務の選択が生計に直結する場合は、極めて悲惨な状況が予想され、危険です。

実質的に行うのはシフト表の作成

ツーマンセル型の業務形態は、安全に「同一業務同一賃金」を導入する折衷案にもなり得ます。基本的に業務に応じて賃金を設定することができるはずです。社員は、能力に応じてある程度の希望によって業務を選択してもよいでしょう。あるいは、2つ持てる業務のうち、一つは業務命令で、もう一つは選択性というのもよいでしょう。希望が完全にかなうとは限りません。希望が叶う場合とかなわない場合で単価(賃金)に差をつけることもできます。
実際の運用にあたっては、シフト表をきっちり作成することだけが重要になります。ツーマンセルで、組み合わせが流動的だと、互いに互いの業務を監視・評価することになるので、業務改善が進みますし、より効率化します。今まではチーム制で同じようなことをしていたかもしれません。でもチーム制だと個々の責任があいまいになりがちだし、なれ合いが発生します。流動的なツーマンセルでは、なれ合いは発生しにくく、強制的な配置転換によって、モラルの向上が期待できます。
シフト表の作成という管理業務が増えますが、管理者の実質的な業務は低減されると思います。ツーマンセルでは、担当者同士の意思疎通が必要です。言った言わないの水掛け論にならないように、明文化することになります。それはつまり、勤務実態≒日報です。業務実態を把握するには、そのコミュニケーションを保管し、必要に応じて参照することで、実質的な目的を達します。通常、管理者には、個々の業務実態をまとめて報告する作業が課せられますが、ツーマンセルでは担当者同士が、お互いを管理する関係にもなるので、業務に問題があれば、かなり早い段階で発覚するようになります。管理者は、現場からの苦情を捌くだけで、実質的な管理になるということです。
この仕組みは、アルバイトの勤務実態を観察すると見つけることができます。一般に、アルバイトに単独でお店を任せるということはしません。牛丼チェーンでのワンオペが問題になりましたが、労働が過酷という問題以外に、勤務実態のモラル低下の問題の方が深刻です。アルバイトはお店の経営とは潜在的に敵対関係にあるので、お店の収益をちょろまかすことに関して、デメリットがありません。発覚するとクビになるかもしれませんが、元々長期契約ではないので、クビになっても痛くもかゆくもありません。
そのようなアルバイトでも、ちゃんと経営が成り立つのは、つねに複数の人で業務を遂行しているからです。お互いがお互いを監視・管理している状態なので、歯止めになるのです。しかも、本人たちは、お互いを監視・管理していることを意識しませんので、気持ちよく働けるわけです。
ここからわかる教訓は、一つの業務を複数の人で共有する仕組みは、管理業務を大幅に圧縮する、ということです。日本の人件費の多くは、管理業務に費やされているわけで、アルバイト導入で経費が圧縮されるのは、管理業務が間接的に圧縮されることも重要な要素だと理解できます。

隗より始めよ

他人に言うばっかりじゃなくて、自ら率先してみよう、と思いました。でもよく考えると、僕は根っからの自由人なので、週休4日というか、週に3日も一つの仕事をすることがない、ということに気づきました。気晴らしがてらに、いろんなタイプの仕事をミックスしているので、もともと本業は週休4日くらいで、のこりの時間を本業以外に充てているんですね。例えば、この記事のようなことを考えたり、それをお客さんに話したり。それって、本業とは違うんですよね。そもそも、僕のお客さんは、僕の本業にかかわる人の方が少ないしね。
僕は、本気で副業を考えようかな。本を書きたいと思っていたし、週3日は研究で、週3日は物書きに充てるかな。ただし、研究でも論文絡みだったりするし、そうすると、物書きが本業になるのか。難しいね。

さて、ほとんどの業務はツーマンセルにできるはずですが、個人の特殊な才覚を利用した仕事は替えが効かず、ツーマンセルにできません。それは組織にとってはリスクです。この話は、また別の機会に。




2017年5月2日火曜日

SSHにモノ申す

SSHって知ってますか?

SSHとは、Super Science High-schoolの略で、先進的な理科教育を目指した高校生向けのカリキュラムです。文部科学省が選定した高校に対し、高度な理科教育実現のための予算を配分します。高校では、SSH対応の特別コースを設置し、SSH用のスペシャルな活動を実施します。スペシャルな活動というのは、具体的には、大学の先生を招いての講演会(出張授業)や、夏休みや放課後を活用した課題研究(先生の指導付きの自由研究)などです。さらに、合宿をやったり、発表会をやったりします。成績優秀者は研究成果発表の全国大会に参加します。高校生たちを「理科」の中で競わせて、理科の英才教育を施そうというわけです。

SSHが始まったの2002年で、様々な批判を浴びながらも、規模を拡大しつつ継続しています。類似の事業で、SGH(Super Global High-school)があり、どちらかというとこちらは文系向けとなっています。

SSHのきっかけ

世界的にみると、経済的に豊かになると理科離れが深刻になる傾向があります。アメリカでは、勉強ができる子は、大学で金融を学び、証券会社で儲けようとします。その結果、アメリカの大学の理系では、アメリカ出身者の割合が極めて低くなっています。

日本ではそこまで極端なことはないのですが、それでも理科離れが深刻化しています。その理由の一つに入試があります。理系の大学はほとんどが国公立で、ちゃんとした入試が実施されます。そのため、ちゃんと勉強しなくては大学に行けません。また、数学などは、知識の積み重ねが大事で、一度挫折してしまうと取り返しがつきません。そのため、理系の大学を受験する段階で、かなりのセレクションを受けるのです。そのため、理系は損だ、大変だ、という評判になり、人気が低迷しています。ちなみに、文系は、私立大学が多く、無試験での入学が半数を超えているんですよ!
その傾向を如実に感じ取ったのが、中学校や高校の先生方です。でんじろう先生の理科実験パフォーマンスが流行ったあたりから、理科に対する興味を駆り立てれば、理系を目指す子供が多くなる、という論理で、理科啓蒙活動が活発化しました。
一方、大学も学生をしっかりと確保したいため、高校と大学の連携を活発化してきました。その先陣を切っていたのが、東京工業大学とその付属高校です。東工大付属高校は、東工大の先生の講演、及び東工大の施設利用を含む課題研究(自由研究)を目玉としたカリキュラムを早くから実施していました。時折、その研究成果がPhysical Reviewなどの一流科学雑誌に掲載され、新聞で報道されたりしていました。その活動を陰で支える教師陣にはかなりの苦労があったはずですが、そんな苦労話をすると高校生の成果とみなされません。それは公然の秘密でした。その華々しい成果に官僚が目をつけ、東工大付属高校の活動モデルを全国に拡大適用する事業としてSSHが始まりました。東工大付属高校の理念は素晴らしいですが、高校生が主役であるという建前を前面に出しすぎたのが問題でしたね。SSHでは、東工大付属高校の先生方の苦労が、全国に拡大適用されることになりました。

SSHでは何をやりたかったのか?

そもそも論として、SSHでやりたかったのは、高校生たちの理科に対する興味を向上させ、将来有望な研究者としての素養を早くから醸成することでした。この論理にはいくつかの問題点があります。理科への興味と、研究者としての素養は、実は直結しないという事実と、研究者としての素養の定義がはっきりしないということです。

プロの研究者として、はっきり言えるのは、研究者の多くは自分の研究以外にそれほど興味を持っていない、ということです。それはすなわち、「理科」の中で、興味を持っているのは、「自分の研究にかかわる範囲」だけであり、その他の大半の「理科」には興味がないのです。そういう「興味の偏向」は、むしろ「研究者としての素養」である可能性があり、科学啓蒙活動の題材に用いられる(理科に関する)広範な関心は、研究者としての素養に寄与しないという論理も成り立つのです。
好奇心は常に研究者に必要なものだと僕個人は信じています。しかし、「プロの研究者」に必要かと言われれば、躊躇します。異論はあるでしょうが、プロとして専門性を高めるためには、専門外への興味を抑制することが必須だからです。僕の経験では、興味が広すぎる人(僕を含め)は、研究者としてはアウトローな存在になりがちです。

SSHでは課題研究(自由研究)が必須です。大学で行うような研究のスタイルを高校生のレベルで実施しようというのです。特別なセレクションを受けた高校生たちなので、標準的な大学生レベルの能力は有するはずだ、というのが建前です。しかし、実際のところは高校の先生方がいろいろ介入しないと、モノになりません。その結果、先生方に大きな負担がかかっています。

先生の問題

現在の日本の教育制度において、理科の先生の育成は、教育系でない理系大学がかなり負担しています。というのも、教育学部はどちらかというと文系に分類されており、理科と数学の教員養成が制度的に難しいのです。そのため、理科と数学の先生は慢性的に不足しています。
その対策なのかもしれませんが、理系大学では、理科と数学の教員免許が取得できるようになっています。うちの大学では、20~30%の学生が教員免許を取得します。うちの大学は中堅エンジニアを養成するのがミッションなので、ほとんどの学生は一般企業に就職します。全体の2%くらいがもしかしたら、教員になっているかもしれませんが、決して多くはありません。ただ、高校教員を志望した学生の大半は希望通り採用される傾向にあるので、もし、中学・高校教員を目指すなら、教育大学よりも、確実なキャリアパスだと思います。

さて、大学において、最も優秀な学生は、アカデミックを目指す傾向があるかもしれません。残念ながら、アカデミックキャリアは極めて厳しいので、半分くらいの人が挫折します。アカデミックを目指して挫折した人のうち、高校等の教師になったという話はほとんど聞いたことがありません。多くは、企業に就職するはずですが、そのあたりのキャリアパスは非常に問題が多いということだけはわかっています。

アカデミックを目指さない人の大半は、一般企業に就職し、企業研究者になります。企業研究者を数年務めたのち、一念発起して高校教師になった人は、何人か知っていますが稀です。高校教員になった人からは、言い訳として「自分は研究者に向いていない」ということをしばしば聞きます。つまり、理系大学出身で高校教師になるというキャリアパスでは、どこかの段階で研究者として挫折しているということが結論されます。一方、教育学部(大学)では、そもそも本格的な科学研究は行いません。つまり、教育学部(大学)出身者は、研究者としての可能性がもともとないということです。
以上をまとめると、高校の理科の先生は、研究者としての適性や経験に問題を持っているということがわかります(先生という職業を辱める意図はありません。求められている特性が違うという意味です)。そういう人たちに向かって、「さあ、研究指導をしなさい」と命令するのはかなり無理があることがわかります。
高校教師の能力と、研究者としての能力は全く別物です。だから、SSHのカリキュラムを高校の先生たちにゆだねるのは、そもそも問題があるのです。だからと言って、大学の先生は、教育・指導能力に劣ります。特に、精神的に未熟な高校生を指導すると、かならずトラブルになると思います。
以上より、SSHはそもそも目標設定と、目標達成のための手段の両方において、思慮が足りないということがわかります。そりゃ、不満が出るよね。

科学研究において大事なことは何か

高校生の時点では、将来プロの研究者になるかどうかは決まっていませんし、研究者になるための教育は、大学進学後にみっちりやります。高校生の時点でそのような訓練が必要かどうかは不明です。にもかかわらず、その訓練を高校生たちに施そうというのがSSHです。しかも、課題研究を目玉に据えているので、割とちゃんとしたレベルの課題研究の実施を求めています。その研究テーマを考えることも、高校生たちに期待しています。

我々プロの研究者の場合でも研究テーマを一から立ち上げるのは極めて高度な仕事です。通常、これまでやってきた研究や先行研究の結果に基づき、それを発展させるあるいは、修正する形で、テーマを設定します。その際、研究に用いる道具立て(装置、試料、周辺知識)は、なるべくこれまでの研究で用いたものが流用できるようにします。全く独自に研究テーマを設定できるようになるのは、30歳を超えてから、というのが普通です。

そういう事情なので、高校生が研究テーマを考え出そうとすると、大変になります。まず、これまでの研究成果はありませんし、先行研究の状況も知りません。もちろん、これまでの経験がないため、道具立ても新調しなければなりません。特に、周辺知識の不足は致命的です。先端的な研究の場合、周辺知識をそろえるだけで、数年かかるのが普通です。それだけで、高校が終わります。なので、高校生にプロ並みの研究は不可能なのです。
そして、研究の指導ができるほど経験を積むには、10年程度必要です。高校の先生方はもちろんそのような経験がありませんから、本格的な研究指導は基本的にできません。SSHの制度が望むような斬新な本格的課題研究は、高校生と高校の先生の組み合わせでは、原理的に不可能なのです。プロの研究者は、何十年という長い時間をかけて研鑽を積み、ようやく勝負しているのです。そんな研究の世界に素人が割って入れるわけはありません。

以上の議論は、プロの研究者と全く同じ土俵での話です。そもそも、高校生がプロの研究者とガチンコで研究対決しなければならないなんてことはないはずです。SSHで目指すのは、研究成果ではなく、課題研究を通じて得られる教育効果のはずです。なので、どんな研究をしたらよいか、ではなくて、どんな教育効果を目指すか、を議論すべきなのです。
専門知識は大学で学ぶものなので、専門知識が必要な研究活動は除外すべきです。特殊な装置や試料は、素人には手が出ません。とすると、身近な現象を題材に、なにかしらの考察を行う、という方法しか残りません。

そのような研究成果は、もちろん、最先端というわけではありません。研究テーマは、既存の知識で理解できる、という結論になるのが大半でしょう。でも、現実の現象は、多くの要素が絡み合っており、幅広い知識を集めないと、ちゃんとした理解に至りません。プロの研究者の場合、普段から専門分野に明るいので、自分の専門分野内の特定の要素を切り取ったのち、研究とします。なので、複雑に絡み合った現象を細かな要素に紐解くという過程は、プロの研究者はほとんど扱いません。でも、紐解く過程では、意外な事実が見えてきたりするものです。それは、高校生ならではの視点として、プロの研究者と勝負できる状況を作り出します。
ダメを押しておくと、日常に転がっている何気ない事象を科学的に説明するということが、高校生の研究としてふさわしいんじゃないか、ということです。

ミニ研究のすすめ

どうすれば、そんなことが可能になるでしょうか?それこそ、SSHで目標とすべき教育効果のヒントになります。僕の大好きなデモンストレーションに、「クッキーとビスケットの研究」というのがあります。実は、JASの規格があって、クッキーとビスケットは、違う食品とされています。そこで、クッキーとビスケットの違いを詳しく調べてみましょう!というのがテーマになります。クッキーとビスケットの研究は、おおむね1時間くらいで完了するので、出張授業等で生徒さんたちとともに、おこなうことができます。
まず行うのは、クッキーとビスケットの箱を観察することです。詳しく見て、比較するというのが、観察の基本です。次に、クッキーとビスケットを箱から取り出して、外観を観察します。さらに、割ってみて、断面を観察します。においの違いを比べてみても面白いです。最後に、食べてみて、食感を比較します。観察結果をレポートにまとめ、クッキーとビスケットの違いと共通点をディスカッションします。科学的な大発見があるとは考えにくいですが、「研究」にまつわる重要な要素を体験し、学習できます。

僕は、このようなフォーマットを「ミニ研究」と呼んでいます。比較的似た研究対象を2つ用意し、様々な観点から比較します。その中から、研究対象がなぜ似ているのか、どこが違うのかについて、考察するのです。最初の段階では、特別な道具は必要ありません。とりあえずの考察後に、積み残しになる疑問点が必ず出てきます。その疑問を明らかにするには、何をすればよいか考え、それを実行する計画を立て、可能なら実行し、さらに考察を進めます。計画・実験・観察・考察の繰り返しこそが「研究」の本質だと、僕は思います。SSHでは、身近な現象を題材に、このサイクルを自力で回す能力を鍛えるべきというのが、僕の提案です。

研究者の素養

実際のところ、研究者は40歳~50歳くらいで、完全に独立しなければなりません。概ねそのくらいの年齢で、教授になってゆくということです。出世するのはとてもよいことです。特に、研究テーマを自分で自由に設定できるというのはとても幸せなことです。
一方で、研究費を自力ですべて確保することが求められます。これはとても難しいことです。特に我々のような中堅どころの地方大学の教員の場合には、とても難しくなります。というのも、凡庸な専門性では、有名国立大学に太刀打ちできないからです。僕の持論ですが、狭くてもよいので特定の分野におけるランキングでダントツトップでないと、お呼びがかからないのです。というのも、企業研究者の方が相談事をしようと思った時、僕と東大の先生のどちらに行こうか迷ったとすると、まず間違いなく東大に行きます。そこで解決できない時、僕の方に話が回ってくるかもしれませんが、よっぽど特殊ケースでない限り、僕の順番にはなりません。
要は、教授昇進の基準の一つは、何かしらの研究領域でトップかどうか、ということです。既存の研究領域でトップになるのは難しいので、独自の研究領域を作り出せているかが、重要になります。独自の研究領域を作り出すというのは、口で言うほど簡単ではありません。僕と同年代の研究者の多くは、それがうまくできなくて悩みます。
独自の研究領域を作り出すと言っても、無から有を作るわけではありません。既存の研究領域で、何かしらの独自性を加味することで領域を拡張し、それを広げるのです。何かしらの独自性というのが曲者です。世界中の研究者が同じようなことを目指しているわけですから、ちょっとやそっとでは独自性が出ません。日々観察し、考察し、疑問を持ち、探求する中で、少しずつ独自性が育ちます。これって、「ミニ研究」で訓練される素養です。

研究者としての独自性を生み出す下地として、「ミニ研究」のサイクルが重要だと僕は思います。そのサイクルをたくさん、速く回すことができれば、より独自性が高まり、独自の研究領域が成長することになります。ミニ研究サイクルをたくさん速く回すことができれば、研究者として有利なわけです。
ミニ研究は、1時間とか2時間で行えますし、1クラスくらいなら、同時にまとめて指導できます。SSHに向いていると思うのです。ミニ研究では議論しきれない疑問が積み残されます。そういう積み残された疑問の中に、大発見があるかもしれません。研究の現場では、積み残された疑問から新たな研究が芽吹くものです。つまりそれは、研究のタネということです。SSHのカリキュラムの前半で、ミニ研究をしこたま訓練すれば、後半に設定されている課題研究のテーマに困ることはないと思うし、高校生たちが自ら研究テーマを提案することだって、できるようになると、僕は思います。

ミニ研究で重要なこと

ミニ研究は科学の方法論を学ぶにはうってつけです。ミニ研究では、徹底的に観察を重視します。特殊な装置が手元にあるとは限りませんから、まずは自分の目で見て、匂いをかぎ、触って、音を聞き、時には味わって、五感のすべてを動員して、観察します。観察結果に基づいて議論が始まるわけです。自然科学が宗教と異なるのは、客観的な観測に基づくという一点のみです。客観的な観測の第一は観察です。その点で、ミニ研究は「科学」です。
ちなみに、通常の理科は「教科書の記述」をフォローすることに尽きます。理科の教科書の記述は、人類が積み上げてきた科学知識に基づいており、客観的な観測に裏打ちされたものです。なので、教科書の記述をフォローするだけでも、重大な間違いは起こらないでしょう。でももし、その教科書が聖書や経典なら、それは「宗教」です。つまり、学校での理科は、客観的な観測事実で裏打ちしないと、限りなく宗教に近くなるのです。そのために、教科書では、歴史的な実験とその結果についての記述が盛り込まれています。しかしながら、それは確実に正しいとは限りません。

2009年に山形県の17歳の少年が、ゴム状硫黄の色が黄色であることを発見し、ニュースになりました。高校の教科書には、ゴム状硫黄の色は褐色とされていましたので、そこから教科書の記述が変更になりました。少年をたたえるのはもちろんですが、なぜこんな間違いが教科書に残っていたのでしょう?多くの高校ではゴム状硫黄の実験なんか行いません。だから、観測が圧倒的に少なかったんだと思います。それはつまり、「理科」という科目が、高校教育の現場では半ば宗教化していると、言えるのではないでしょうか。

科学というのは、客観的な観測に基づいて構築されています。しかしながら、技術の向上や知識の蓄積によって、より高度な観測結果や解釈により、以前の観測結果の意味が変化することがあります。なので、科学的事実というのは簡単にひっくり返るものなのです。そういうダイナミズムも科学の重要な要素です。ミニ研究では基本的に特殊な観測手段を想定しません。なので、その観測結果に不確かさやあいまいさが含まれます。なので、正しい結論にたどり着けないかもしれません。でもよいのです。ある観測結果に基づいて、最大限努力するというのも科学の真実なのです。正しさだけが科学ではありません。結論が出ない部分を認識し、その影響を考察し、いくつかの仮説を立てることができます。そうして得られた仮説を一つ一つ検討することで、科学は進歩してきました。そのプロセスは、現在の学校教育から完全に排除され、大学の研究室で初めて体験するようになっています。SSHのカリキュラムが、本物のサイエンスの英才教育を目指すなら、そういうプロセスこそ重視すべきだと思います。ミニ研究はうってつけだと思うのです。

僕が修士課程のときの研究室では、毎週金曜日の夜に酒盛りをしていました。先生方と一緒に、ビールを飲みながら、雑談するだけなんですけどね。話題は多岐にわたりました。その中で僕が気に入ったのは、時事ネタに便乗して、具体的な計算をする、というゲームです。例えば、夏の電力が足りないかもしれない、というニュースがあれば、記事中にピーク時の電力は何万KWと書いてあります。それの情報をもとに、人口で割って、一人当たりの電力消費量を計算してみます。あるいは、その電力を火力発電で賄うとすると、どのくらいの石油が必要になるのか計算してみます。さらに、CO2排出量を計算することもできます。その計算の中で、いろんな発見があるのです。一人当たりの電力消費量はびっくりするほど多くなります。僕たちが毎月支払う電気料金の何倍もの電力が消費されていることがわかります。そこから、僕たちが個人の家庭レベルで省エネを遂行しても、焼け石に水だということが結論されます。また、CO2の排出量は、原料の石油より多くなるんですよ!これはすでにある種の研究です。こうした考察を何気に行うことで、研究のタネが見つかるのです。
こうした「研究遊び」は、いつでもどこでも行えます。目についたものすべてに対して、ちょっとした考察を加えてみるのです。それは、研究のための訓練にもなります。そのころから、僕は意識してこの研究遊びを続けています。今では、ほとんど自動的に行っています。ミニ研究はこの遊びが誰でもできるように、わかりやすい組み合わせを抜き出したものです。僕がクッキーとビスケットの違いについて考えたのは、テレビの何かの番組で、それがJASの規格あるという言及があったからです。そこから、食感の違いに思いを馳せ、製法の違い、構造の違いに思い当たります。それを逆に組み立てて、ミニ研究としてのフォーマットに整えた、というわけです。

プロの研究も同じようなものです。きっかけは、過去の研究だったり、他人の研究だったりしますが、その中でいくつかの疑問点を見つけ出します。それぞれについて、ちょっと考察し、自分の手持ちの道具立て(知識、技術、独自の観点)で解決できそうかどうか考えるのです。あるいは、他人の研究が自分の研究に使えそうか考えます。それはちょうど「研究遊び」であり、元ネタがちょっと専門的なだけです。ほとんどすべての研究はそのようにして始まります。

そもそもそれが必要か?

ミニ研究で鍛えられる素養は、上級サイエンティストとして必要な素養ではありますが、単なる研究者にとっては必要とは言えないかもしれません。経験を積んで自分独自の分野を開拓する段階では、知識・技術・独自の観点をフル活用するスキルはとても大事です。しかしながら、その途中、研究者としての経験を積む段階では、むしろ不要です。研究者に必要な要素はそれだけではないのです。知識や技術の習得には、長い時間と忍耐が必要です。ミニ研究で活用される自由闊達で気ままな知的探求は、知識や技術の習得を遅らせる可能性があるのです。

それでも、僕は早い時期からミニ研究による訓練を行った方が良いと思っています。科学の進歩は教科書によってもたらされるものではありません。誰かが教科書に書かれた知識を探求し、解き明かした結果、その成果が教科書に記載されているのです。一つ一つの細かな知識について、それが誰によってもたらされたのかは記載されていませんが、必ず誰かがいるのです。その人は、何か別の教科書を見て、その知識を得たわけではありません。興味を持ち、疑問を抱き、仮説を立て、検証するという科学の基本を踏襲した結果、その知識を世界にもたらしました。こうした知識を産み出す過程は、通常のマスエデュケーションとは全く違います。いわゆる勉強とは全く異なるスキル体系が必要で、そのために研究者は長い時間をかけて、自らを訓練するのです。
理科教育の一つの目的は、一人でも多くの人を知識を生み出す側に送り込むことのはずです。であれば、少しでも知識を産み出すスキルに適性のある人を見い出し、才能を育てるべきです。その試みは成功するかどうかわかりませんが、やってみる価値はあると思います。

SSHへの提案

科学エリートを養成するという目標は素晴らしいと思います。ただ、その手段がきちんと組み立てられていないように思います。官僚的なんですよね。素晴らしいお題目に対して、あいまいな公募を行い、良さそうな企画に、過小な予算をつけ、過大な成果を要求する。アイデア・計画・実施・サポートすべて丸投げ。このフォーマットは、どんなお題目でも同じです。専門性とか要りません。逆に、専門性が必要ないフォーマットとすることで、ジェネラリストの権化である官僚でもマネジメントできるようになるわけです。これは決して良くないと思います。
日本の教育は、いろいろ問題はありますが、かなり高水準だと僕は思っています。その高い教育水準は、多くの現場のノウハウを蓄積して高度にマニュアル化されたマスエデュケーションの方法論にあると思います。すなわち、エリート教育を排するという方針が、教育水準の押し上げになっているという、一見奇妙な因果関係があると思うのです。つまり、科学エリートの養成は、科学教育の水準に直結するわけではない、かもしれないということです。

SSH事業は、東工大付属の成功モデルを全国展開するというものではダメだ、というのが僕の意見です。東工大付属のケースが成功モデルかどうかについても僕は懐疑的です。でも、百歩譲って、成功モデルとしたときに、何を以て成功と言えるのか、その成功がどのように価値を持つのか、成功につながった要素は何なのか、どういった教育(法)がその要素を作り上げたのか、その要素を形成するもっと良い方法はないか、要素形成の方法をマスエデュケーションにフィットさせるにはどうしたらよいか、そういったことをきちんと議論して、SSH事業でどの部分をサポートするのかをはっきりさせるべきでした。現在の形式は拙速に過ぎるというのが僕の分析です。特に、何を以て成功と言うのか、という最初のステップで、間違っています。

科学というのは、様々な知識の積み重ねという側面があります。ある知識は別の知識に基づいて構築されたりします。基になった知識があやふやだとその上に構築された知識が瓦解する恐れがありますから、知識は慎重に積み重ねる必要があります。
新しい知識を発見すること自体はそれほど価値はないかもしれません。というののもその知識が正しいかどうかは、時間をかけて検証してゆかねばならないからです。膨大な知識が蓄積された現在の科学界では、多くの研究がそのような検証作業に充てられます。検証作業の中で矛盾を発見し、新しい知識に至るというのがほとんどです。このような理解があれば、派手な発見を大々的に成果と見る現在のSSHのカリキュラムは、むしろ危険な側面を持つことがわかるでしょう。


2017年4月3日月曜日

危機管理について

避難訓練とマニュアル

僕の最初の職歴はERATOのプロジェクトの研究員でした。そのころのERATOは大学の研究室と完全に分離するという基本ルールを忠実に守っていたので、僕たちは、真新しい貸しラボで研究室を立ち上げました。
一応、大学ではないので、一般企業と同じように徹底した安全管理が適用されます。なので、危機対応マニュアルというのが作成されました。この部分はどっちかというとお役所的な作法でした。そのマニュアルというのがすごく細かいのです。僕は辟易しました。
この本の著者のうち、非常事態の経験者は何人いるのだろう。

危機対応は非常事態の経験が必要だと思う

今も変わらない僕の信念として、非常事態に対応するには、非常事態に直面した経験に勝るものはない、ということがあります。非常事態の経験のない人が、非常事態を空想して作成した危機対応マニュアルというのは、ほとんど役に立たないと思うのです。それは、僕の経験に基づく信念です。僕はいままで火事の現場に2回居合わせたことがあります。どちらも実験室での火事で、見事な火柱が上がってました。

最初の火事体験

最初の体験は、修士2年生だったと思います。土曜日でした。僕は今も昔も土曜日と日曜日はしっかり休むのですが、その日はたまたま友人がラボに来たいということで、友人の都合で土曜日にラボにいました。ラボにはほかに人はいなくて、廊下もとても静かでした。でも突然、非常ベルが鳴り響きました。
急いで廊下にでると、長い廊下の天井を白い煙が這ってました。薬品の匂いがしました。僕は部屋に戻って扉を閉めました。最初に思ったのは、「どうやって逃げる?」でした。友人に他の研究室での火事であることを告げましたが、それ以外、頭が真っ白になって、身動きできませんでした。
意を決して逃げることにしました。ラボは2階だったので、階段に向かいました。すると、「火事はどこだ?消火器もってこい!」と叫びながら何人かの人が駆けていきました。よく見ると、みんな消火器を抱えてダッシュしていました。それで僕も研究室に戻って、消火器を持ち出して、みんなが走ってゆく方向に向かいました。
そこで僕が見たのは、天井まで届くピンク色の火柱と、次から次へと消火器をぶっ放す白衣を着た男性でした。その周りには、たくさんの使い終わった消火器が転がっていました。傍らには、まだ使っていない消火器が並べてあって、僕は持ってきた消火器を隣に並べました。
すでに空になった消火器の数からすると、非常ベルの少し前から消火活動が行われていたと思います。僕が躊躇していた時間もあるかもしれません。僕は何もできなかったことを恥じました。
消火活動の甲斐あって、その火事はしばらくして鎮火しました。気が付くと外では消防車の音が鳴っていました。火元は試薬等を保管しておく古い冷蔵庫で、あまりに古くて壊れてしまったそうです。庫内の温度が上昇し、不安定な薬品が爆発したと後日聞きました。化学系の研究室では20年に一度くらいはボヤ騒ぎがあるものです。その時の火事は幸い、致命的なものにはなりませんでした。
火事になったらこんな奴がたくさん必要

火事の体験から学ぶ

この火事でいくつかのことを学びました。
1.いざ非常事態になると、頭の中が真っ白になる。
2.消火器1個では火は消えない。
3.消火器の噴霧は2~3秒と短い。
4.僕は消火器の使い方がわからない。
5.薬品系の火事だと、消防が介入しない。
6.自分の不注意とかに関係なく、事故は起こるし、巻き込まれる。
7.消火器の中身は、ピンク色の粉で、掃除が大変。

最も重要なのは、1です。危機に瀕すると、頭の中が真っ白になり、何をしたらよいかわからなくなります。日ごろの避難訓練なんかすっかりぶっ飛びました。マニュアルがあったとしても、たぶん役に立ちません。細かな点順なんて確認している暇がありませんし、第一、危機対応マニュアルの保管場所って知っていますか?なので、頭に入っている危機対応手順で応急措置をすることになります。うまく対処するには、なるべく応用の利く危機対応手順を日ごろからストックしていることが重要になります。できますか?という話です。
2~4は消火器のことです。火事になると頼りは消火器です。でも当時の僕は消火器を使ったことがありませんでした。だから、使い方は知りませんでした。消火器には、ストッパーがあって、そのままではレバーを握れず、消火できないんですよ!
そして、消火器をたくさん使わないと火は消えないのです。家庭では、1個の消火器で消えなければ、逃げるような指導になっています。それで消える火事って大したことないです。そして、消火器って2、3秒しか噴霧しないんです。すぐ終わりになります。射程距離もとても短いのです。そういうことって、消火器を使った経験がないと、なかなかわかりません。
とても印象に残っているのは、消防車は来ていたのに、消火活動は行われなかったことです。火事は2階の階段横の部屋で起こりました。消防車は1階の階段下まで来ていました。鎮火した後、階段を下りると、消火用のホースが展開されてました。見ると、火事元の研究室の先生と消防士が立ち話(事情説明)をしていて、「化学系の火事の時は、水をかけると危ないことがあるので、(消火に)入れないんですよ~」みたいなことを話していたと思います。また、「火元は古い冷蔵庫」みたいな話もしていました。その時初めて、僕らの世界では、消防を当てにできないんだということを知りました。

危機管理において極めて重要な事実として、どれだけ管理を徹底しても、避けられない事故があるということを忘れるべきではありません。僕が遭遇した火事は、隣の隣の研究室の出来事です。僕は当時学生だし、隣の隣の研究室なんて、ほとんど入ったこともありませんでした。でも、火事に巻き込まれるわけです。僕がどれだけ努力しても火事を防ぐことはできませんでした。冷蔵庫が故障したのは古かったのが理由の一つですが、新しくてもある確率で故障します。爆発を防ぐために、防爆仕様が理想ですが、それでも反応で生じたエネルギーはどこかに逃げねばなりません。爆発のタイミングが遅れ、より大きな爆発を生じた可能性もあります。そんな危険な薬品を保管するのは問題ですが、一時的な保管だったかもしれません。どれだけ対策をして手間とお金をかけようとも、事故の確率をゼロにはできません。まして、自分たちの手が届かない原因もあります。研究内容が素晴らしすぎて、研究室がテロの対象になるかもしれません。そういう可能性は常にゼロではないのです。だから、いくら手を尽くしても、非常事態は発生しうるのです。そして、自分が関係なくとも、非常事態に巻き込まれることがあるのです。
これは、危機対応マニュアルが完成したから安心、という考え方を否定しなければならないことを意味しています。危機対応マニュアルは、自分たちが責任のある事態に対して作成されます。したがって、もらい事故に関しては、危機対応マニュアルではカバーしきれないのです。それでも危機対応マニュアルを作成することには意味があります。危機対応手順を作る過程で危機対応に対する考え方が吟味され整理されます。そのプロセスがとても大事だと僕は思います。特に、優先すべきことと後回しで構わないことを整理してプライオリティーをはっきりさせることが大事です。非常事態では時間的に追い込められることが少なくありません。限られた時間の中で、効率よく対応するには、正しい優先順位を理解しておかねばなりません。また、非常事態に直面した全員に指示を与えることは困難なので、個々の構成員は自分の判断で動くことが求められます。そのためには、全員が危機対応の考え方をしっかりと理解せねばなりません。実際のところ、危機対応マニュアルは危機管理者が作成し、内容を熟知するのはその危機管理者のみという場合が普通です。それでは、マニュアルは機能しませんよね。絶対的な指揮命令系統の下で責任と責務を細かく分割統治する日本的官僚(軍隊)のやり方は、非常事態には対処できないのです。歴史が証明しています。

火事の後、帰宅の際に、廊下が得体のしれない粉で覆われていました。そのときは「なんだろう?」と思っていましたが、それは消火器の中身の粉でした。大量の消火器を発射したので、びっしりと降り積もっていました。廊下を歩くと足跡が残りました。次の日、火元の研究室総出で掃除したそうです。月曜日には、ほとんど片付いていました。


火事の経験は僕を変えた

最初の危機対応マニュアルのくだりは、僕の最初の火事体験に基づく批判です。マニュアル作りをいくらやっても、遊びのような避難訓練をいくらやっても、本物の非常事態では一切が吹っ飛ぶのです。マニュアル作りを一生懸命行っていた同僚には悪いけど、僕はそれを冷ややかに見ていました。
最初の職場では、結構ちゃんとした避難訓練をやっていました。建物に備え付けの消火設備を実際に使って、放水したり、期限切れの消火器を実際に発射してたき火を消したりしました。消火器の訓練を駐車場で行ったのですが、消火器の粉が車の上に降り積もってしまい、みんなからは不評でした。次回から消化器の訓練は、水と空気を充てんした模擬消火器で行うようになりました。通勤用の車が汚れるのと消火訓練とどっちが大事と訊かれて、消火訓練と答えられるドライバーはほとんどいないのです。危機対応なんて、非常事態の経験者じゃないかぎり、その程度なんです。
僕はその時初めて、消火器を実際に使いました。火事に際して何もできなかったという思いがあって、かなり真剣に積極的に訓練しました。ほかの人との温度差を感じました。僕は自分の火事の経験をみんなに話をしたのですが、まともに取り合ってくれませんでした。

2回目の火事

ERATOのプロジェクトというのは期限があって、5年で終了です。僕は終了時まで在籍していて、後片付けをやってました。研究室には化学薬品もあって、化学実験担当の研究員が危険な薬品を廃棄処理していました。
薬品を廃棄する際は、中和したりして無害化しないといけません。その時は中和ではなかったのですが似たような処理でした。そういう処理では熱が発生するのが普通です。なので、慎重にやっていたつもりだったのですが、反応を制御できなくなり、火柱が上がりました。ちなみに、有機化学系の研究室の火災原因で多いのは、古い冷蔵庫、廃液処理、有機溶媒の蒸留と言われています。
このときの火災は小規模だったので、消火器2本くらいで鎮火したのですが、窓のない実験室だったので、部屋が真っ白けになりました。みんな急いで実験室から脱出しました。あとには、真っ白な煙が充満した部屋が残されました。
窓のない実験室なので、排気装置があるのですが、それは止まっていました。なので、部屋の中に入れなくなりました。白い煙は消火器の中身が一つの原因ですが、廃棄中の薬品からの気体かもしれません。毒性があるかもしれませんし、何かの反応が進んで、酸素が少なくなっているかもしれません。問題は排気装置のスイッチは、実験室の一番奥で、簡単には到達できないということでした。それを動かさないと誰も実験室に入れないので、ジレンマに陥りました。
みんなで、しばらく相談していましたが、僕が突入することにしました。もちろん、突入前に危険性を確認しました。酸素がなかった場合、呼吸を一度でも行うと気絶します。だから呼吸をしないことにしました。息を吐くのもダメ。一発で死ぬほどの有毒ガスの種類は多くありません。廃液処理で発生する可能性があるのは、強酸性のガスですが、これは強い刺激があるので突入時にわかります。シアン系のガスも致死性ですが、これは杏仁豆腐の匂いがします。扉からはそのような匂いはしませんでした。稀に、目からも毒が侵入します。これは完全には防げませんので、滞在時間を短くすることが重要になります。まとめると、呼吸を止めて突入し、刺激がなければ、そのまま呼吸せずにスイッチを押して急いで戻れば、死にはしない、と結論しました。その通り実行して事なきを得ました。実際には、そんなにビビることはなかったと思いますが、今となってはわかりません。そういう念押しも危機対応の大事なポイントです。
酸欠での秒殺の気絶は、安全講習で必ずやるネタです。その他は、いくつか考えられる化学実験で死ぬ可能性の代表例です。これも安全に配慮していれば必ず出くわす知識です。僕はそれらを実際に出会う可能性のある危険としてピックアップしていました。2回目の火事では活躍できました。

危機管理者には、緊急事態の経験者を充てるべき

この2回の火事以降、慌てるような事故には出くわしていません。2回の緊急事態の経験は、日ごろの研究活動における危険性に対して注意を払う理由として十分でした。いつも、起こりうる事故を想定するようになりました。
以前、とても重い鉄の扉をクレーンにつるすということをよくやってたのですが、その時の手順が事故を想定して作られていることに感心していました。クレーンシステムのどこかが壊れても、時間が稼げて安全に避難できるようになっているのです。そのためには、荷物をつるす部分がとても重要です。タマガケと呼びます。タマガケは免許制になっています。

非常事態というのは日常的な業務から極端に逸脱した状態を指します。日常業務に習熟していても、危機対応ができないのは当たり前です。日常業務と危機対応とは全く別物なのです。だから、日常業務者に危機対応マニュアルを作成させるのは愚の骨頂です。
福島の事故だって、マニュアルがあるから大丈夫ってなってたんだけど、そのマニュアルが使いこなせなかった面もあるようですし、マニュアルが想定していない事態もたくさん起きました。マニュアルを作って安心するというのは、非常事態の経験がないからだと思います。

危機対応の責任者になるには、非常事態の当事者経験が必須だ、と僕は思っています。特に、大きな組織や危険度が高い施設では、無理をしてでもそういう人に権限を与える方が良いと思っています。非常事態が起きないことは重要です。日常業務をしっかりしていれば、非常事態は起こりにくいでしょう。それでも非常事態は起こります。非常事態というのは想定を超えた事態のことです。想定を超えるのですから、それを想定してマニュアルを作るなんてできません。論理的にちょっとおかしい話なのです。

非常事態を経験すると、「非常事態というのは起こるものだ」「非常事態では慌てるものだ」「非常事態ではマニュアルは役に立たない」といったことを思い知ります。そして、訓練が役に立つことが実際にある、と知っているので、実践的な訓練をしないと意味がない、と考えるようになります。その考え方は、非常事態を経験しないとなかなか実感できないものです。僕も、頭では理解していました。でも、最初の火事で、自分の甘さを思い知りました。あれは僕のトラウマです。
危機管理の責任者は、非常事態の現実を自分の血肉としている人であるべきだと思います。僕は人が死ぬほどの現場には立ち会っていませんが、それは単にラッキーだったからだと思っています。重大な事故では、簡単に人が死ぬのです。人が死ぬという可能性を想定して、危機管理を考えないといけないと思うのです。

うちの大学では、危機管理の一つを担当していた人が、最近退職しました。実験中に事故を起こしたというのがその理由です。危機管理担当者が、事故を起こすというのは極めて由々しき問題ではあります。でも、辞めるのはどうなんだろう、と僕は思っています。
その人は多分、もう一生事故を起こすことはないでしょう。なぜなら、気を付けていても事故が起こりうるということを身をもって知ったからです。気を付けているだけでは、事故は防げないのです。事故を起こさないようにするには、ミスがあっても事故には至らないようにする工夫を何重にもめぐらすしかありません。それでも重大な事故に至る可能性は残ります。最後は被害を小さくする工夫で対処しておくのです。それが危機管理です。
そういう貴重な経験をした人を失うのは、とても大きな損失だと僕は思います。

訓練は危険を伴う

先日、雪山訓練の途中で雪崩が発生し、高校生たちが亡くなりました。様々な論調がありますが、指導していた教員たちの判断ミスを糾弾するパターンが多いようです。でも、ここで述べた危機管理の考え方に基づけば、雪山訓練を行ったという判断ミスは些細な問題だと、僕は思うのです。
大前提として、雪崩のような不測の事態は生じるものだ、という前提に立たねばならないと思います。雪崩を完全に予測できるなら、プロの登山家は雪崩に巻き込まれたりしません。ところが、2014年のエベレストでは、多数のベテラン登山家やシェルパ(荷物運び人)が雪崩で大勢亡くなっています。多くのスキーヤーでにぎわうスキー場ですら、定期的に雪崩が生じています。
次の前提として、雪山訓練は、最終的には雪山で行なうことになる、ということです。雪山訓練を行うとした時点で、雪崩の可能性がゼロではない雪山に行くことが決定します。雪山では、雪崩を完全に避けるのは無理です。雪崩の危険性を受け入れるか、雪山訓練をしないかの2択になります。ということなので、雪山訓練を禁止すべきだ、という短絡的な論調が出てきています。
しかしながら、雪山訓練をしなくても、雪山に近づけば雪崩の危険があるという事実があります。ゲレンデで発生した雪崩で毎年数人の死者が出ています。雪崩の危険性があるからスキーやスノボを禁止するというのはさすがにやりすぎでしょう。

そもそも雪山訓練は、雪山での危険性を認識し、対処法を学ぶことが最大の目的だったは
ずです。被害にあった高校生たちを引率した教員たちに欠けていたのは、本来の目的である危機対応訓練を忘れて、ハイキングだと勘違いしたことにあると僕は思います。
「安全だと思った」という教員たちの意見に異論はありません。当時の状況は現場にいた人にしか判断できませんから、外野がとやかく言得るものではないのです。しかしながら、安全だという意見を受け入れたとしても、事故を想定しなくてよいとか、危機対応の機材を用意しなくてよいとかにはなりません。安全だと思っても起こるかもしれないのが事故なのです。
高校生たちが訓練していたラッセルというのは、そのまま歩くと危険を伴う新雪の上を、安全に走破するためのある種の避難グッズ・技術です。すなわち、ラッセルの訓練というのは、危機対応のための訓練だったはずなのです。ところが、危機対応の意識がうすれ、新雪の上を歩くことを目的にしてしまったために、救助用ビーコンなどを装備しなかったのだと思われます。
雪山訓練というのは、雪山の危険性を認識し、それに対する備えと対応を周知するものであったはずなので、実際に雪崩事故に巻き込まれた場合に、訓練の成果によって安全に生還するべきだったし、生還するための訓練だったはずです。つまり、雪崩事故に遭うのは、そのための訓練なんだからある程度は仕方がないということです。もちろんわざと雪崩に遭いに行くわけではありませんそして、運悪く雪崩に遭った場合には、訓練の成果が生きなければなりませんでした。高校生が死亡したことは、とても悲しいことです。でも、雪山訓練であれば、訓練に伴う危険性は承知の上だったはずです。そもそも雪崩の確率は元々低いもので、訓練を中断すべきほどの悪い気象条件ではなかったかもしれません。だから、訓練決行の判断はミスとは言い切れません。ただ、死亡者の数が多かった理由として、対策や訓練がきちんとしていなかったのだと思います。漏れ聞こえてくる教員たちの言葉はこれを裏付けているように思います。この点において、教員たちには決定的に罪があります。
言い換えると、危機管理者が、危機対応訓練なのに危険性をちゃんと認識していなかったという点がとても問題だと指摘したいわけです。くだんの雪山訓練事故の場合は、死亡者も出て糾弾されていますが、同じ構図は我々が普段行っている避難訓練にもぴったり当てはまります。消火訓練では実際に火を起こして、それを消すということをやったりします。その火が風にあおられて近隣の建物に燃え移り火災に至るということは、あり得ないことではありません。消防署の指導下で訓練する際は、風が強い時は中止になるし、火をつけるときは、防火用の水をたっぷり用意するか、事前に放水訓練して消防ホースを準備しておくかしていますよ。危機管理者は様々な危険性を常に意識していなければなりませんし、前もって対策するのが当たり前です。特に、危機対応訓練では、最悪の事態を仮定して、装備点検も兼ねて現有装備を総動員するのが常識です。救助用ビーコンとか、必要ないと思っても装備するのが訓練の目的の一つでもあります。
でもそういうことは、非常事態の経験がないと、なかなか難しいと、僕は確信しています。実際、火事に出会う前と後では、危険性に対する僕の意識が全く違っているからです。危険を完全に避けることはできないので、対策を万全にするというのは、言葉では簡単ですが実戦するのは難しいのです。特に、対策というのは機材を用意するハード面のだけではだめで、機材の定期的な動作チェック、使い方への習熟など、ソフト面での用意も万全にしなければなりません。でもみんな、避難訓練って面倒くさいって思ってるでしょ!その結果が、くだんの雪山事故だと思うのです。
危機対応訓練の最中に運悪く発生した実際の危機において、訓練の成果が生かせなかったというのが最悪なのです。何ための訓練で、いつ訓練の成果を活用するつもりだったのでしょう。実際のところは、危機対応訓練だなんて思ってなかったんでしょ。それは指導者として失格だよね。

苦言

最後に苦言。日本では避難訓練時に、「本業が忙しければ参加しなくてよい」とかいうルールがあり、また訓練開始時刻が完全に予告されているのが普通です。また、訓練内容も予め告知されます。これらは、避難訓練を無意味にするものだと思います。

米国のシンポジウムに参加した時、主催者が「今日は避難訓練が予定されています。開始時刻はわかりませんが、アナウンスがあったら非難しなければなりません」と告げたことがありました。我々は、かなりの出張費をかけてシンポジウムに参加しているし、我々と議論する機会は現地の人たちにとっても貴重なので、シンポジウムを中断するのはかなりの損害を伴います。しかしながら、避難訓練に例外は認められないということでした。実際、その日の午後に、アナウンスがあり、僕たちはシンポジウムを中断して、建物の外に出ました。ついでに集合写真を撮りましたけどね!
米国では、避難訓練を割とまともに行うようです。時間だけでなく、訓練日も定まってない場合もあるそうです。そして、例外なく全員参加です。事故は場所やタイミングを選んでくれません。どんなタイミングでも、安全に避難できるように意識することがとても大事なのです。どれだけ重要な実験の最中であろうと、避難しなければならないことがあり得ます。ある場合には、ほっぽり出して非難すると大惨事になることもあるでしょう。その場合には、適切な対処をすることになります。その対処をすることも訓練の一つになります。そのような対処は、個々の仕事で違ってきます。だから、危機対応マニュアルなんか用意していられません。訓練の際、みんなヤレヤレという雰囲気でしたが、それでも良いのです。そういう感じで避難出来たら、避難時の事故は起こりませんからね!

日本では、避難訓練を軽んじすぎています。その理由の一つに、危機管理者が非常事態を未経験だからかもしれません。米国では退役軍人が社会に多くいます。米国の軍隊は実際に戦争をするので、極めて実践的で、非常事態が身近にあります。町中でも、ときどき銃撃戦があるみたいだし。だから、非常事態に対する考え方が日本よりマトモなんだと思います。阪神大震災後、世の中は少し変わったと思いたかったのですが、ダメでした。東北震災では少し意識が高まった気がしました。

京都市では、シェイクアウト訓練というのが2013年くらいから始まりました。最初は、時間が決まってませんでした。しかし、今では時間ぴったりにケータイにメールが届きます。しかも、届くだけ。なにも起きません。完全に形骸化しています。せめて、市営地下鉄や市営バスを停止するくらいしないといけません。非常時の連絡体制の確認、機材の機能チェック、さらに運転員が非常事態に対応できるかどうかを確認する、こうしたことは、乗客の命に関わるとても大事なことです。さらに、運転員の乗客に対する適切な説明や避難誘導は、乗客の訓練にもなります。乗客の利便性に優先すべきことです。東北があってもダメでした。

2016年には熊本地震がありましたが、2017年のシェイクアウトはいつの間にか終わってました。土曜日だったからかもしれませんが、地震は土日が休みなんてのは聞いたことがありません。何人死ねば理解できるのでしょう?