2019年9月12日木曜日

辺野古問題

大臣が変わっても辺野古問題は維持。

でもちょっと乱暴だと思う。

河野新防衛相 辺野古「唯一の解決策」 地位協定改定は「所管外」

僕は辺野古を見に行ったことがあります。

ビーチの大半がフェンスで立ち入り禁止になっていて、住民が怒るのも無理はないと思います。でも、僕は辺野古がよいと思います。辺野古は反対運動だけがクローズアップされて、公正に論じられているとは思えません。

地理的条件について

辺野古って、すごい閑村です。別荘地になっているので一部の建物は立派です。でも、裏返すと、普段の人口は少ないということです。これといった産業もなく、観光地でもありません。買い物できる商店もなく、歩いている人を見かけませんでした。

基地は半島になっており、半島の根元に唯一のゲートがあります。半島の根元を横切るように道路があり、ゲートは半島の根元の中央の峠にあります。基地のゲートから2kmの範囲の道路に信号はおろか交差点すらありません。道路を破壊されると基地が孤立するので、セキュリティー的に好ましくありません。米軍はこの点で明らかに譲歩しています。おそらく、「基地」というより「要塞」として運用するのだと思います。



住民の意見について

基地移設先の優先条件を「住民の理解が得られること」とするならそんな場所は日本のどこにもありません。そこで、この条件を読み替えて「住民の反対が少ないこと」とするなら、もともと住民がほとんどいない辺野古は条件に適合します。

条件にあいまいさがあるから反対運動が盛り上がってしまうのだと僕は思います。例えば「住民の反対が1万人以下であること」と、具体的に数字を設定すればよいと思うのです。1万人(5千人でもよいですけど)の根拠は、住民に対する補償の規模を合理的範囲に収める、とすればよいでしょう。

名護市の人口

騒音について

辺野古は、海に面していて騒音被害を減らせます。事故の観点からも海に面していることが条件になっているのだと思います。

加えて辺野古は、陸側は山の斜面になっており、陸側への騒音も遮断できます。この条件でダメなら、無人島しかありません。

騒音問題に関しては辺野古は極めて優秀です。

自然破壊について

辺野古の土地は軟弱な赤土で、雨が降るとは大量の土砂が海に流出します。ですので、辺野古のサンゴは基地の有無にかかわらず、人の手を入れない限り早晩全滅の運命にあります。基地が建設され、土地改良がおこなわれると、もしかしたら、サンゴの保護につながるかもしれません。

基地建設は少なからず自然破壊を伴います。ただ、辺野古に関しては、プラス面もあるので、環境保護派の理解も得られると思います。対策費用を環境保護団体に請求し、払えないなら黙っておけ、と言うのです。

米軍について

以上は日本から見た時の条件です。もう一方の当事者である米軍にも意見があると思うのです。僕は、米軍もかなり譲歩したのだと思います。米軍が基地を置くときの条件の一つに、近隣に一般人が生活可能な都市が存在すること、というのがあったと思います。基地では多くの人が働きますから、その人たちが生活する場所が必要です。基地内部で生活のすべてをまかなうにはコストがかかりすぎます。なので、多くの人が基地の外で普段の生活を送るわけです。それが可能でない場所には基地を設置できないというのが米軍の主張です。ですので、無人島は基地の移設先として適切でない、ということになります。

実際、無人島だったら、日本には適当な広さのものが無数にあるわけで、簡単な話だったはずです。その点に関しては、米軍は譲歩できないのだと思います。翻って辺野古ですが、ぶっちゃけ陸の孤島で、住民もほとんどいません。ということは、「ほぼ無人島」みたいなところです。それでも、沖縄本島であり、車で15分も走れば、買い物が可能というところで、譲歩できたのだと思います。
「米軍が許容できる」というのが基地移設の極めて重要な条件です。この米軍の条件と日本の事情は、二律背反になっています。利便性の観点から都市の近くにいたい米軍と、トラブル増加を防ぐために都市部から遠ざけたい日本、という構図です。お互いに譲歩しないとまとまらない話です。辺野古は「結構ギリギリ」だと僕は思います。

所見

辺野古しかない、という確信は僕にはありませんが、辺野古が良い選択肢であるというのは間違いないと思います。政府は辺野古がよい理由を正直に話すべきです。

辺野古が閑村だというのは住民にとっては不快でしょうが、事実です。もし、基地が嫌だというなら、引っ越し費用を全額負担してあげればよいと思います。沖縄なら2000万円くらいでりっぱな家が買えると思うので、100戸程度の手当てなんか誤差の範囲です。ダムの立ち退きでやっていることですから、法律的には全く問題ないはず。

2018年12月5日水曜日

ブラウン運動の勉強をしました

本読み会

僕は縁あっていろんな研究室を渡り歩きました。どの研究室にもそれぞれにさまざまな流儀があります。研究の流儀はもちろんですが、教育に関しても流儀があります。学生のみの勉強会があったり、論文紹介があったり、先生が手厚く指導したり。それぞれに一長一短があり、どれがベストかなんてわかりません。最先端の研究を強力に推進することで評判をとっている研究室では、最新の論文の紹介をやってました。ある研究室では博士課程の学生やポスドクが多くいて、先生の書いたレクチャーノートを学生だけで読んで勉強する会があったりしました。最先端ではあるけど、地味な研究分野では、最新ではない論文の紹介をしていました。より長期的な研究を指向する研究室では、論文ではなくて本(教科書)を輪読していました。みんなで教科書を読むというスタイルが僕の好みです。

教科書や論文にかかわらず、文章の読み書きにはある種の技術が必要です。僕の経験では、学生ではその技術が未熟です。だから、本読みの技術を高めることがとても大事だと思っています。多くの研究室ではそれは英語の論文を読むことで鍛えられると考えられています。でも僕はやっぱり母語でやったほうが手っ取り早いと思います。ただ、母語でやる場合、単に読むだけでは、読む技術のポイントがスルーされるので、適切な指導者がつく必要があります。大学の先生方の中には、学生に手間をかけられない人もいますので、そういう研究室では学生のみの英語本読み会が行われる傾向にあるように思います。
英語に関しては、学生のスキルはさらに貧弱です。これは日本の教育システムの欠陥だと思います。だから、学生だけで英語の本読み会をすると、すっちゃかめっちゃかになる場合があります。ポスドク以上の人ががきちんとついていれば、まだましなのですが、そのような余裕のある研究室は稀です。そのような事情ですので、どのような教育関連イベントを保持しているかで、研究室の性格がおおむねわかるように思います。

本の選定

幸い、新しく自分の研究室を立ち上げるという機会に恵まれたので、これを機に思いの教育システムを構築したいと思っています。その手始めに始めたのが、「本読み」です。目的は「学生に本読みスキルの低さを自覚させ、新たなレベルの読解力を目指す」というものです。その目的であれば、日本語が良いでしょう。長々とやってるわけにもいかないので、短めの薄い平易な本。トピックスは何でもよいとしました。学生が選んだのは、「乳酸菌」のハンドブックと「ブラウン運動」に関する数冊の本でした。

僕は「研究と直接関係しなくてもよい」という条件を設定していたのですが、さすがに「乳酸菌」はびっくりしました。ただ、その本はハンドブック的なもので複数の専門家が専門家のために書いたものの寄せ集めです。読み始めるには、生化学の基礎知識が必要です。しかも、ハンドブックなので散発的なトピックスの寄せ集めで分野全体がわからないでしょう。ページ数もとても多いものでした。そしてなにより、複数の著者が別々に書いているので過不足があるでしょう。そういうものは教科書としてはあまりよくないのです。なので、慎重に却下しました。僕は生物物理の研究室にいたこともあるので、生化学の基礎知識も少しあります。だから、内容に関しては特定の章だけということにすれば条件を満たします。却下の最大の決め手はページ数でした。特定の章を読むにしても、章が多いので各章のカバーする範囲は狭くなります。必要最小限の章を厳選するにしても、ページが多いのです。
ブラウン運動に関しては、3冊ほどの候補がありました。そのうち一冊はなんと経済学の本でした。ブラウン運動は最終的には確率過程の議論にたどり着きます。確率過程は、物理系では信号理論以外ではお目にかかりません。しかし、現代経済学では基礎理論の一つになっているのです。というのも、現代経済学は「経済」という確率現象を取り扱う数学の一分野になっているからです。もう一冊は図書館に蔵書がなく、すぐには内容確認できませんでした。最後の一冊は物理学OnePointシリーズの小さな薄い本でした。最後のものが僕の条件にピッタリあうので、3か月を目標に週1回で本読み会を始めました。

本の読み方

日本語の本を輪読する場合、「何をすべきか」というのがあいまいになります。英語の本なら、翻訳をすれば80%くらい完了ですが、日本語ではその作業が必要ありません。何をすべきかというのが学生にはわからなかったようです。
僕は「要約を作る」ことを指示しました。「要約」というのは、中学校ぐらいの国語で学ぶはずですが、きちんとした指導はなかったように思います。単に、文章を短くすること、くらいの意味に思う人が大半だと思います。でも本当は違うのです。僕は言語能力が低いので、こういうことを感覚的に理解することができません。とっても苦労して、「要約」という概念の理解に至ったのですが、結論としては簡単です。「要約とは段落1個を1文にしてゆくこと」です。もちろん、原則なので厳密でありません。でも、これを意識すると機械的に要約を作成することができます。逆に一文を段落に膨らますという作業が長文を作成するコツになります。すなわち、文章の骨格を箇条書きで編集し、各項目を段落に膨らますと、首尾一貫した長文になります。これは論文作成時のテクニックの一つです。意識する・しないにかかわらず、実践している人は多いはずです。それを逆に行うのが「要約」です。

僕たちの行った本読みでは、担当者が各段落を要約し、その要約で不明な部分に対して参加者たちがツッコミをいれます。答えるのは基本的に担当者です。ただ、理解が浅いことが多々あります。なので、僕がツッコミを入れたり、補足したりします。
ツッコミポイントの設定には一定の決まりがあります。難しい点とかややこしい点というのはわかりやすいツッコミポイントですが、それ以外に、文章があいまいなところが重要なツッコミポイントです。僕たちは、教科書というのは間違いがないという前提で勉強をしがちなので、教科書の記述に疑問を感じないように訓練されています。そのため、あいまいな記述があっても、それを鵜呑みにしてしまう傾向があります。研究者として経験を積むと、玉石混交の論文の世界を肌で感じたり、自分自身が教科書を書いたりする機会が増え、文献と言えども不正確な記述がまかり通っているという現状を思い知ります。そのため、教科書を頭ごなしに信じないようになっているものです。でも、学生たちはそうじゃないので、そのための訓練をするわけです。スタンダードな教科書であっても、論争が存在するトピックスや、完全な証明に至っていない「仮説」が含まれています。そういった部分の記述は往々にして「あいまい」になっているものです。著者の「迷い」や「不理解」がにじみ出てしまうからです。そういう部分を抜け目なく見つけるには相当な訓練が必要ですから、それを例示するのは指導者の務めだと思うのです。

僕たちの本読みは3か月の予定でしたが、結局4か月かかりました。ま、割と順調だと思います。

著者と編集者の問題

比較的あっさりしていて、読みやすい感じの本でした。ただ、いくつかの不満があります。それは肝心の議論において、記述不足や論理的整合性の不備が散見されることです。その一つは「プランクの空洞放射エネルギーの量子化」に関する記述です。原子論が受け入れられるかどうかの時代のアボガドロ数の発見に絡む逸話として取り上げられているのですが、僕にはつながりが理解できません。もっと言えば、おそらく著者は空洞放射というものが何なのか知らないのではないかという疑いがあります。
そもそも空洞放射という現象に科学者が注目したのは、ガラスや陶芸の窯の温度を職人たちが窯の内部の「色」で正確に推定しているという事実があったからです。熟練すると1000℃以上の窯の温度を10℃くらいの誤差で言い当てることができるそうです。ここから色と温度の関係の存在が推定されます。当時の科学者はこれを研究したのです。
そのうち、高温状態だけでなく、低温においても放射が認められ、「黒体輻射」と名付けられました。高温での放射と低温での黒体輻射はちょっと違うスペクトルを持つのですが、プランクの「思いつき」によって統合されるわけです。そこにボルツマンの悲劇がからんでくるのはとても有名な逸話です。
プランクの提案したスペクトルのカーブにおいて、アボガドロ数は強度に関する比例定数として含まれます。プランクたちの議論はスペクトルの形状に関するものであり、強度の絶対値はプランクの議論からは決定できません。だから、空洞放射の議論をアボガドロ数の存在例として挙げるのは不適切だとおもうのです。この本ではかなりのページ数を割いていて、空洞放射の議論がアボガドロ数が認められるための重要イベントだと、著者が考えていることがわかります。

ほかには、「エネルギー等分配則」が挙げられます。この言葉は本のいたるところで出てくるのですが、それがいったい何者で、ブラウン運動の議論とどのようにつながるかが、一切触れられていません。エネルギー等分配則は成立することが自明ではありません。エネルギー等分配則が成り立つにはその背景に頻繁なエネルギー交換現象が存在する必要があります。それはブラウン運動であることが多いのです。つまり、エネルギー交換則を認めてブラウン運動を論じるのではなく、ブラウン運動によってエネルギー交換則が説明される、という文脈でなければなりません。その部分の議論がすっぽり抜けています。

ちょっとあきれるのは、微分方程式の解法が論理的な整合性を欠くことです。比較的一般向けの本なので、微分方程式は極力避けて必要最小限のとどめています。だからこそ、その部分は丁寧に記述するべきだと思うのです。ところが、その記述はどこか別の教科書からのコピペっぽくて、説明の文章と式の展開が整合していないのです。特に、非同次の場合に不整合がみられます。おそらく、著者は非同次の微分方程式を自力で解くことができないのだと思われます。有名な理論物理学者なのにね。
ま、専門家には往々にしてあることです。微分方程式なんかは「みんなできる」ことになっている科目ですが、本当のところは違います。ほとんどの人は「裸の王様」状態なのです。専門的な研究では基本の微分方程式を改変して調べるので、多くの場合非線形です。解けるタイプではないため、解析的に微分方程式を解くことはめったにありません。解ける場合は珍しいので、誰かが論文にします。なので、自力で微分方程式の解析解を出せなくても、研究には一切差し支えありません。その状態で「自分は裸の王様でした」とカミングアウトすることはとてもできません。でも、教科書、とくに初歩的な教科書を書くと、バレるのです。微分方程式を自在に解ける人は、実はほとんどいないので、できなくても本当は恥ずかしいわけではないのですけどね。とにかく、微分方程式に絡む部分ではことごとく「しったかぶり」な記述になっています。わからなければ、わからないと吐露するか、あるいは参考文献を挙げるにとどめるというのが科学者としてのマナーです。知ったかぶりは最低です。

あるいは、ページ数の制限によって説明を省略しているとも考えられます。これは編集者の判断が大きく影響します。編集者の判断によって内容の割愛がある場合には、割愛された内容が存在することを示し、補足するための方法(アドバイス)を記述するべきです。そういうのはどうも見当たらないのです。底の部分は著者の責任です。

でも読んでよかった

いくつか不満はありましたが、総じて興味深い本でした。僕はブラウン運動を真面目に勉強したことがなかったので、いろいろ発見がありました。最も感心したのは、ブラウン運動に関するアインシュタインの議論の出発点が、浸透圧だったことです。実のところ、アインシュタインは世間で言われているほど天才ではないんじゃないかと思っていました。でも、この議論はアインシュタインの天才を感じるものでした。
浸透圧は高校で学ぶような基礎的でよく知られた現象です。浸透圧の法則は気体状態方程式に似ている単純なもので、しばしば計算問題に登場します。それでわかった気になるものです。僕ですら、浸透圧というものがいったい何者なのかというのは特に注意してきませんでした。でも、よく考えると、なぜ束一量(モル数に比例)なのか、なぜ粒子や溶質の種類に依存しないのか、ということはきちんと説明されません。浸透圧には、そういうちょっと正体不明な部分があるのです。
アインシュタインは溶質粒子1個の浸透圧を考えることで、それがどのような影響を及ぼすかを考察しました。その結論として、浸透圧の元になる粒子の熱的運動が、条件が整いさえすれば直接観察可能であることを示しました。それはすなわち、ブラウン運動だったのです。
実のところ、この時、粒子が持つ平均の運動エネルギーが$kT/2$であり、熱エネルギーなのです。粒子は他の粒子(溶媒も含む)と衝突するので、時々刻々のエネルギーは変化します。それでも、溶媒・溶質関係なく、一体として運動する物体の重心位置の運動を考えるとすべての粒子の運動エネルギーの平均値は1自由度当たり$kT/2$になっています。これが成立するためには、エネルギーの交換が頻繁である必要があります。これこそが、エネルギー等分配則の正体であり、僕たちが「温度」と呼ぶ状態量なのです。

もう少し厳密に言うと、溶質粒子1個にも浸透圧が生じるはずなので、その浸透圧が溶質粒子を「押して」、溶質粒子は速度を持ちます。その速度は周りの溶媒との摩擦(粘度)で急速に減衰します。系は疑似的に閉じているので、減衰した速度のエネルギーは溶質粒子の浸透圧に戻ります。こうして、無限に繰り返されるので、粒子の速度に関しては不定です。でも粒子の速度分布(速度の標準偏差=二乗平均)については有限の値を持ちます。速度の二乗平均に質量をかけて2で割ったものが運動エネルギーなので、粒子は有限の運動エネルギーを持つことがわかります。これはブラウン運動です。こうして、ブラウン運動と浸透圧が同じ現象であることが結論されます。その時、エネルギー等分配則も「ついで」に理解されるのです。

この議論を知って、僕は脱帽しました。アインシュタインは天才です。僕もこのような考察をするチャンスは十分あったと思います。でも、僕はできなかった。気づかなかった。そこには圧倒的な差があるのです。
逆に、アインシュタインはなぜこんなことを考えたのでしょう?一つは、浸透圧という正体不明な現象を徹底的に理解しようと努めたことが挙げられます。アインシュタインは当初ブラウン運動のことを知らずに論文を発表しました。だから、アインシュタインがブラウン運動の研究をしようとしていたわけではないことがわかります。アインシュタインは浸透圧を理解したいと思っていたはずなのです。その中で、浸透圧が溶質粒子の運動から生じるものだと気づいたのだと思います。ではその運動を見てみたいと思うのは人情です。理論物理学者としては、その運動が観察できるとしたらどのような条件かを計算すべきで、アインシュタインはそれを実行したわけです。
そもそも、浸透圧に対して僕たちが抱くイメージは連続的なものです。溶質粒子1個の浸透圧なんて想像したことがありません。でもアインシュタインはそれを行いました。当時の時代背景として原子仮説の議論があったことは重要かもしれません。すべての原子、分子は最終的には1個2個と数えることができるものだ、というのは、今でこそ当たり前です。でも当時はそれが確定していませんでした。すべての現象を原子論によって書き直してみようという機運があったと思われます。その一つとして、アインシュタインは浸透圧の問題に原子論を適用してみようと思いついたんじゃないかな。

学生さんとの読み合わせなんてことをしない限り、僕がこんな薄っぺらなブラウン運動の本を読むことはなかったでしょう。ブラウン運動の勉強をせずに一生を終えていた可能性すら大いにあります。そうしたら、アインシュタインの素晴らしい発想力に触れることもなかったでしょう。
僕は自分のことを、勉強や研究に関して抜け目がない、と評価していました。でも、今回大いに反省しました。もっと注意深く世界を見ないといけないと思いました。

2018年6月30日土曜日

アダムスミスを勉強したことありますか?

働き方改革、通っちゃいました。

働き方改革関連法案が成立しましたね。「高プロ」という概念が物議をかもしています。
今回の法律が良いか悪いかは別にして、日本人の働き方は改革すべきだと思います。理由の一つは、給料の問題です。そして、ワークライフバランスも問題だと思います。それから、ワンアウト退場システムをやめるべきだとも思います。
最近の政治は、対処療法に終始していて、その方策には「知恵」が感じられません。人々も物事を深く考えることはせず、対処療法を歓迎している気がします。ビジネスではPDCAを繰り返すことが強く死傷されていますが、これはすなわち対処療法を続けるという思想です。
そもそも、対処療法を続けるのは日本人の得意とするところです。しかし、ガラケーの衰退にみるように、時折、本質的な転換があって、なすすべなく負けるわけです。PDCAは普段の努力としては良いですが、それと並行して根本的な問題解決の努力もすべきだと思います。
今回の働き方改革は、主に経営者からのリクエストにも届くPDCAサイクルなわけです。問題点は2つ。対処療法であることと、労働者視点が希薄であることです。労働者視点での根本的な問題を掘り下げて見たいと思うのです。

給料の問題

常勤労働者の平均給与に関する統計というのがあって、僕は驚愕しました。


この統計はなかなかに衝撃です。ここ30年で給与は上がっていないどころか、下がっているのです。一方で、別の統計もあります。


ここでは10年間で、アルバイトの時給が20%程度上昇していることが示されています。パート・アルバイトでは深刻な人手不足にあることが、その原因という分析ですが、本当にそうでしょうか?

労働区分における労働意識の違い

パート・アルバイトと、通常の雇用での労働者の意識の違いを考えると腑に落ちます。パート・アルバイトでは労働条件が悪いと、労働者はすぐにやめてしまいます。だから、賃金を下げることはできません。一方、正規雇用だと、労働条件が多少悪くても我慢してしまいます。そういう意識の違いが、賃金上昇率の差につながっていると思います。
この状況はアダムスミスの時代とほとんど変わりません。アダムスミスは労働者と経営者の間で1対1の労働交渉をした場合、経営者が必ず勝つと喝破しています。労働交渉中、労働者は賃金が得られないが、経営者は他の労働者を使って事業継続できるからです。なので、団体交渉権というものが労働者に認められています。
個人主義が浸透した結果、労働組合は力を失い、まともな団体交渉がなくなっています。そのため、労使関係は産業革命の時代のレベルに戻っているような気がします。にもかかわらず、アルバイトの時給が上昇するのは、労使間のパワーバランスが変化しているからだと推測できます。すなわち、アルバイト労働者は面倒で長期にわたる労使交渉などせずに、さっさとやめることで、経営者にプレッシャーを与えているのです。
アルバイト労働者にこのようなことが可能なのは、多様な労働条件の仕事がたくさんあって、一つの仕事をやめてもすぐに別の仕事を見つけられる環境にあるからです。あるいは、複数の仕事を掛け持ちしていて、一つやめても致命的な状況には陥らないからです。流動的な雇用市場とフルタイムでない労働条件が、それを可能にしていると思います。

アルバイトの事情をそのまま適用すれば、常勤労働者の給与を適正化するには雇用市場を流動化すればよい、となります。しかしながら、安定した労働環境がメリットである常勤労働者を流動化するというのは、論理的に破綻しています。

苦肉の策として副業の解禁

常勤労働者の労働市場を流動化させる地ならしとしての役割があるかもしれないのが、副業・兼業の解禁です。副業・兼業が一般化して、本業がだめになってもしばらく食いつなげるのであれば、退職をする常勤労働者が増えるかもしれません。働き方改革に副業・兼業が原則解禁が盛り込まれています。
副業・兼業が解禁となると、労働者にとっては本業にしがみつく必要性が減る、というメリットがあります。無理な転勤や過重な労働条件を拒否することが可能になるのです。それは経営者に対するプレッシャーとなり、労働者の立場を強くするかもしれません。
一方で、経営者は労働者が我慢できなるなるギリギリの労働条件を設定するようになるかもしれません。労働者は副業があるので、本業での収入が削減されても働き続けることが可能になるからです。

今回の改革では、副業・兼業の定義が実はあいまいです。副業として想定しているのは在宅での仕事だろうと思います。しかしながら、副業での収入が増えてくれば、本業の時間を削りたいという人たちが出てくるでしょう。また、副業での収入が本業の収入を上回ったとき、保険や年金はどのように取り扱えばよいでしょう?
そもそも、本業と副業を定義することは極めて難しいことです。本業と副業を区別することすらナンセンスだと思います。現在に思いても、複数の肩書を持つ人は多くいます。多くの場合は経営者であり、保険や年金の問題は表面化していません。しかし、一般労働者の多くが複数の肩書を持つようになったときはそうはいきません。例えば、雇用保険というのは会社にとってはなかなか重い負担なのです。年金や健康保険も多くの会社で赤字になっているので、本体企業が補填して運営するのが常態化しています。本音を言うと、企業は社員の年金や健康保険をサポートしたくないはずです。
そういうババを引きたくない企業は、労働者と本業としての契約を結ばなくなるかもしれません。同一業務同一賃金の原則というが働き方改革に盛り込まれましたが、読みようによっては非常勤と常勤の給与水準を同じにするというように受け取れます。非常勤は年金や保険の企業負担が軽いので、手取りを同じにするなら、非常勤の方が低コストです。あるいは、名目賃金を同じにすると非常勤の方が手取りが多くなるでしょう。すると、常勤から非常勤に切り替える人が出てくるかもしれません。経営者はむしろそういう状況を狙っているかもしれません。

おじさんたちが自主退職する理由

僕周りでは、多くのおじさんたちが突然退職するということがありました。その理由は、介護です。40代後半になると、両親が病気になったりして介護が必要になることも多いのです。一般企業に勤めていると任地を選べませんから、働き続けるか、介護をするかの二者択一になります。多くの場合、介護を選択するようです。その結果、僕は多くの人から「退職します」というあいさつを受けるわけです。
退職に至るのは介護のためだ、と理解するのはあまりに浅はかです。働きながら介護をするという選択肢がないことが本当の問題です。その選択肢がない理由は、2つあります。一つは、任地を選べないこと、もう一つは、介護に必要な時間のために勤務時間が制限を受けること、です。任地を選べないのは、単に労働者の商習慣の問題です。労働者は立場が弱いので、業務命令には逆らえないのです。逆らったらクビなわけです。本来はそれに至るまでに様々な交渉があるべきなのですが、そういうプロセスがあり得ないのが問題だと思います。もう一つは週5の常勤だと介護に必要な時間を確保できないことです。週5の勤務でないとダメというのが普通なので、常勤と介護を両立できないのです。
前者の解決策は、労働者と経営者のパワーバランスを改善することが一つの方法になります。働き方改革は経営者視点なので、むしろ経営者が強くなります。もう一つの方法は労働市場を流動化させることですが、常勤労働者は労働市場が流動的でないことにメリットがあるので、通常は難しいでしょう。
後者の解決策は、常勤=週5という固定観念をなくすことです。では週4ならどうでしょう。ユニクロは10時間x4日という勤務形態を取り入れました。でもうまくいっているという話は聞きません。では、週4で介護との両立はできるでしょうか?状況にもよるでしょうが、焼け石に水でしょうね。
週3だとどうでしょう。たぶん、企業としては、それは常勤とは言わないので非常勤として再雇用する、という提案をするでしょう。であれば、いったんやめるのだから、田舎に帰って親の面倒を見る方法を探る、というのが労働者の発想になるでしょう。実際のところ、それで退職するのだと思います。

週休4日の可能性

僕は以前、週休4日制に多くのメリットがあるという話を書きました。週休4日というのはスローガンみたいなもので、重要なのは多様な働き方を可能にするということです。その実現に必要なのは、皆勤勤務を前提としない組織体制と、ダブルポジションを可能にする年金・保険の法整備です。働き方改革は最終的にそれに向けた法整備であってほしかったんですが、そういう議論は一切なかったですね。たぶん、政治家たちの想像力の欠如の現れでしょうね。あるいは、働き方改革にかかわる識者たちの能力不足かな。
日本人は、現実予測能力がどうも低いのかもしれません。現状を客観的に分析し、根本的な問題点を整理し、最適な解決策を模索するというのは、基本的な方法論のはずです。でも、どうも苦手なんでしょうね。ガラケーは見事にやられました。

働き方改革では、働き方の多様性を目指しています。「働き方」の根源は、何曜日の何時から何時までを労働時間としますか、ということです。それを決めるのは雇用契約ですが、それに多様性を持たせるというのが、働き方改革の基本だと思います。今は、常勤・非常勤、正規・非正規、社員・アルバイトなどの別があるわけですが、それらの定義をフレキシブルにしようという考え方は正しいと思います。これらの分類をやめちゃえ、というのは基本的にはよいと思います。ただ、経営者に有利な変更は厳に慎むべきだと思うのです。

では、どのようにして分類をやめるのかを考えてみましょう。
常勤とは週5で、非常勤というのは週3以下、みたいな感覚がします。でも、それは雇用契約で決めるべきもので、法律で決めるべきものではないでしょう。
正規とは契約変更なしに定年まで働くことができる雇用形態で、非正規とは定期的に契約更改が必要な雇用形態とするなら、それは雇用契約の話であり、法律で決めるべきものではないでしょう。
社員とは業務に対し責任を負う労働者であり、アルバイトとはかなりの免責がある労働者です。例えば、勤務態度が悪いとアルバイトは怒られるだけですが、社員は査定が悪くなります。そいうのが業務に対する責任の有無なわけです。とするなら、それは雇用契約にその旨記載すべきであり、その責任の大きさに応じて給与に差があるのは当然でしょう。そして、これも本質的に雇用契約の問題なわけです。
法律の役割は、不当な雇用契約を防止することとなるでしょう。そのためには、雇用契約における妥当・不当の境界が条文になるでしょう。例えば、他社との雇用契約を阻害するような雇用契約の是非(あるいは条件)、労働者の責任の範囲をどのように雇用契約に盛り込むか、給与の算出方法の標準形あるいは妥当な範囲、年金や保険の取り扱い。

法律はインセンティブを与えるように設計すべき

役人たちとやり取りをする際に感じるのは、彼らは法律やルールというのものは当然守るべきもの、と考えているらしいということです。僕などは、「法律やルールは守らなければならない」⇔「守りたくない」⇔「可能なら守らない」と考えたりします。程度の差こそあれ、法律やルールは守ることにメリットがないと守る気になれないもののはずです。だからこそ、罰則まで踏み込んで条文化するわけです。
罰則によって守られるルールというのは、ルールとしては最悪です。ルールを遵守させるためには監視のコストが発生したりします。警察というのはそういう類のコストです。良いルールというのは守ることでメリットがあるものです。うまくルールを設定すると、みんなが気持ちよく守ってくれるものです。そういう工夫が最近の法律には全く見られないのが残念です。
働き方改革では、議論が紛糾しましたが、利益が対立しがちな労働者と経営者の両方を規制する法律なのに、経営者のメリットが目立つということが理由に思えます。労働者のメリットがわかるような説明があれば、もう少し建設的な議論ができただろうと思うと、とても残念です。
統計は残酷です。もう10年たって、さらに給与水準が下がるような結果になっていないことを祈るばかりです。


2018年6月16日土曜日

再審棄却の高裁決定

袴田事件はまだ続く

2018年6月11日、は袴田巌氏の死刑判決の再審開始決定を不服とした検察抗告の高裁決定があり、再審請求棄却の判決が出ました。再審は当面開始されないことになりました。とても残念です。
https://www.asahi.com/articles/ASL6C64G8L6CUTIL099.html?ref=yahoo
https://www.asahi.com/articles/ASL6C4R5VL6CUTIL027.html?iref=pc_rellink

袴田事件は、袴田巌氏を犯人とする殺人事件で、検察の言い分が二転三転し、次々とあやしい証拠が出てきて、最終的に死刑判決に至りました。ただ、かなり証拠が怪しいので、えん罪事件という意見が多くあります。袴田氏には軽い知的障害があり、検察に詰め寄られるなかで、ポロリとうその自白をしてしまった可能性が高いそうです。

さて、この再審棄却決定を出した大島隆明裁判長はやや異端の判事で、おおむね良心的で頭の良い判決で定評があります。にもかかわらず、今回は高検の言い分を全面的に認める判決でした。ちょっと納得がいかないなあ、というのが大方の見解だと思います。

しかし、この判決には奇妙な点がいくつかあります。
袴田氏は高齢で認知症もあるので、再収監の必要はない、という旨の追記があるのです。これは、裁判長からの、「調停」を勧めるメッセージだと思われます。

日本の裁判制度では、上告した側の主張が上級裁判所で審議されます。検察が上告し、被告が上告しない場合、量刑は重くなることはあっても軽くなることはありません。逆に、検察が上告せず、被告だけが上告する場合、量刑が軽くなる可能性だけが審議されます。

さて、今回の判決では検察の主張が全面的に認められたので、検察は上告できません。なので、袴田氏側が上告しなければ、無実を勝ち取れないものの、袴田氏の死刑執行はなく、収監もされません。つまり、実質的に無実の状態が続くことになります。
逆に、再審開始の判決を出すと、検察は必ず上告し、10年単位での裁判が続くことになるでしょう。袴田氏は高齢なので、再審開始を待たずして寿命がくるかもしれません。あるいは、再審は開始されたとしても、結審まで存命である可能性は低いかもしれません。であれば、このまま平穏な人生を全うするというのが人道的な判断だろう、ということで、名を捨てて実を取る判決を選択した可能性があります。

同じような判決は、これまでも何度かある。

今回の再審請求において、検察は何が何でも過ちを認めないという意思が見え隠れしています。ま、とにかくこの事件の証拠にはひどいものが多いので、再審が始まると検察は相当に苦しくなるのは事実と思われます。
袴田氏が高齢で、健康状態もよくないことを考えると、検察としては時間切れに持ち込むのが最も良いはずです。再審請求の棄却を求める裁判も、4年をかけているのはそのせいかもしれません。

現在の検察のシステムでは、裁判での勝率が検事の成績とみなされています。そのため、裁判で勝てるという確信がなければ起訴しないし、起訴したら証拠をねつ造してでも有罪を勝ち取るという雰囲気があります。しかし、そのようなシステムは明らかに公共の利益に結びつきません。それは正しく裁判を受ける権利を著しく害するものです。だから、検事の成績と裁判での勝率は結びつけないようにすべきだ、という意見もあります。

おそらく、大島裁判長はそういう事情に辟易しているものの、現状を変えることはできないので、検察の手足を封じた(全面的に検察の主張を認める)うえで、実質的な放免を提示したと思われます。

無駄な大岡裁きかもしれない

司法では、今だに「大岡裁き」を理想とする雰囲気があります。それに照らし合わせると、今回の判決は、さらに上級の裁判所がある高等裁判所としての判決としてはよく練られたものかもしれません。つまり、ここでやめるなら、やめられるよ、というメッセージです。
でも、この一連の裁判は、袴田氏の名誉を争うものであるので、その名誉が挽回されない限り、終わらないでしょう。また、この裁判には、検察は間違いを犯すことがないという神話を打ち砕くという意味もあります。この判決では、検察の間違いはうやむやなままです。裁判の支援者たちは決して認めないでしょう。
そしてそのような事情は大島裁判長もよくわかっているはずです。どのような判決であっても裁判が続くのなら、裁判所としては調停的な判決を出しておく価値があるだろう、と考えたはずです。そしてそれが受け入れられないことも承知しているでしょう。ただ、もしかすると袴田氏側は、上告しない可能性も少しはあります。

間違いを犯すことがない=無謬性は、役人のよりどころでした。お上の決定は絶対なので、それを実施する役人に間違いがあってはならないということなのです。現実はそんなことはないので、今ではゆるくなっていますが、決して譲れない場面が最後に一つ残っています。それが死刑判決です。

死刑判決が下ると最終的に死刑が実施されます。殆どの刑は実施されてもある程度は補填が可能ですが、死刑だけは後戻りが決してできません。なので、死刑判決と死刑執行だけは無謬性が必須なのです。その死刑判決に間違いがあったということになると、司法システムに大きな打撃になります。だからこそ、昔の話にもかかわらず、検察は無謬性にこだわるのです。ただ、えん罪を疑われた死刑囚が獄中死してきたことを考えると、司法システムもこの一連のデッドロック的な状態を打開したいと思っているはずです。

裁判制度の近代化が必要じゃないかな


裁判は真実を明らかにするシステムではありません。事実関係を確認し、利益の調整を行い、当事者たちの合意を得るためのシステムです。
刑法犯を裁く場合に、被告が事実関係を認めない場合があり、その状態を打開するために、判事が第三者的な立場で事実認定を行う、という制度が採用されています。なので、第三者の裁定によって当事者たちは納得せねばならないという、強制的な調停制度とみなすことができます。
であれば、事実関係の認定と量刑の決定は別個に判断できるはずです。そういう制度は米国で採用されています。一方、日本では各種の罪に対して個別に量刑が設定されているため、事実関係の認定(罪の定義)と量刑の決定を同時に判断する必要があります。そのような事情があるため、判決では事実関係の認定より量刑に注目が集まります。
その結果、裁判とは量刑を測る制度と認識され、有罪率が99.9%なんて馬鹿げた状態になっています。つまり、裏を返せば、事実関係の認定機能が裁判から失われているということです。これは、裁判システムが機能不全に陥っていること意味しているかもしれません。

えん罪事件の裁判は、そういう機能不全を正そうという一般市民の正常な反応だと思います。

2018年5月26日土曜日

やりたいことって言われてもねぇ

就職活動真っ只中。

今年2018年は、かなりの売り手市場らしいですね。

日本では、新卒一括採用が行き過ぎているのだけど、だれもそれをやめられなくなっています。新卒ってのは大学を出たばかりで、業務に必要なスキルをほとんど持ちません。なのに、将来性という名目で好待遇での採用が横行しています。一方、企業側も、優秀かもしれない人材を他社にとられまいと、好待遇を競う。新卒採用というのは、学生にとっては一生に一度の好機となるので、自分を高く売るために様々な駆け引きが繰り広げられます。そういった状況に便乗すべく、就職産業というマーケットが幅を利かすことになります。リクルートなどの就職産業は、企業と学生のマッチングと称し、様々な就職セミナーを開催し、学生をあおって、自分たちの事業を拡大してきました。

就職セミナーの主な内容は、「企業研究」「自己分析」「エントリーシートの書き方」「面接の心得」などです。ちゃんと掘り下げた内容ならまだよいですが、1時間ほどのセミナーでは薄っぺらい内容にならざるを得ません。また、正直に現実を伝えると、学生は絶望するだけになるので、かなり甘い内容にならざるを得ません。そんなセミナーに意味があるのか?といつも思います。

企業研究

学生程度が「企業研究」と称して、正しく状況を読み解けるなら、株で損する人はいません。また、企業も経営を左右するような核心的な情報は開示するわけがありません。
自分が会社の中でどのように貢献できるのか考える、というのが企業研究の目的のひとつとされています。しかし、企業では、何十人、何百人という社員が毎日知恵を絞って、自分たちの会社への貢献方法を考えているわけで、一人の学生がポッと思いつくようなアイデアなんて、何十回も検討されて否定されているはずです。企業は学生にそんなことを期待したりしません。何のために「企業研究」を学生に進めるのか理解不能です。
就職してしまえば、会社のことを知る機会と時間はたっぷり確保できます。だから、企業のことは就職してから学べばよいと思います。経営を目指すならば、企業研究の分析力が重視されるでしょう。その場合に重要なのは、ライバル企業との比較であり、志望先のことだけをマニアのように調べ上げることは要求されません。そういう理解でないということならば、その人は自分の能力が足りないことを露呈していることになります。ということで、あんまり調べすぎると、むしろ逆効果、ということになると思います。

面接の心得

僕は「面接」の対応をやったことがあります。ちょっとした入試業務です。その時、ご多聞に漏れず「志望動機」を最初に尋ねました。でも実のところ、志望動機は面接の採点には一切関係しませんでした。志望動機を尋ねるのは、挨拶みたいなものという位置づけで、面接対象を落ち着かせるのが目的でした。
志望動機というのはだれでも用意してくるもので、本当に吟味したければ文章であらかじめ提出させることができます。例えば、エントリーシートにも志望動機欄があるものです。面接というのは極めて高コストな試験法なので、文書で検査できる項目をわざわざ面接で行うのは非合理的です。時間がもったいなので、面接では志望動機を聞きたくないのが面接官の本音でしょう。にもかかわらず尋ねるのは、以降の面接をスムーズに行うためです。
面接では文書では審査できない側面を重視します。というか、ちゃんとした面接はそうでなくてはいけません。受け答え、論理性、課題に対する真摯さなどです。だから、服装も容姿もあからさまな審査対象ではありません。
ただし、合理性という観点からは、服装は審査対象となりえます。例えば、目立つことが主たる目的の服装・容姿はビジネス上の障害になるのでNGだけど、それがビジネス上の演出として理にかなっているなら、服装・容姿が加点となるでしょう。就職産業のセミナー講師は現実には素人なので、他人の人生を左右する最終判断を行う責任をちゃんと理解していません。だから、被面接者の視点からしか「面接」を理解できていません。そういう人を講師にしたセミナーに意味なんてあるわけありません。

自己分析

自己分析ってのは、自分の長所と短所を自覚しましょう、ってことだと思いがちです。でもちょっと短絡的ですよね。まず、長所と短所を一対にしているところが浅はかです。言葉としては対になっていますが、現実には全く別物です。
長所と短所のもっとも違う点は、短所は厳然として存在しており、長所は自ら形成してゆくものだ、ということです。日本人は単一民族なので、生物としての基礎力に個人差がほとんどありません。これまでのトレーニングや努力によってさまざまな形質を獲得し、個人差が生まれています。そのようにして形成された個人差のことを「長所」と呼びます。生まれつきの有利不利は多少あるでしょうが、誇れるような長所は自らの意思で獲得してきたものです。一方、短所はトレーニングや努力が及ばず、そのままに残された形質です。自らの意思とは関係なく、現在持っている形質です。だから、長所と短所を列挙するとき、短所はすぐに見つかりますが、長所はなかなか見つかりません。
また、長所や短所がどのくらいのレア度かということが現実には重要になります。例えば、「社交的」という形質において、アベレージくらいのレア度でも長所に分類するかもしれません。でも、その程度の形質は実際には無視されます。長所として特筆できるレベルは最低でも10人に1人くらいのレア度が必要です。そして、そのくらいのレア度に達しようとすると、何事においても継続的・意識的トレーニングが必要になります。
そのようなトレーニングを行っている学生はめったにいません。確かに、スポーツをやっていれば、レア度の基準はクリアできます。ただし、そのスポーツが仕事に役立つかが大事ですよね。そこのつながりを説明できないと、就職活動における長所として挙げることができません。
長所とは意識的にトレーニングするものなので、「自分がどのような人間になりたいか」ということを突き詰め、そのための努力を継続した結果、獲得するものということになるでしょう。就職活動の準備として半年前くらいに見つけようとしても無理です。

短所は逆に既存の形質のはずで、それはすぐに見つかります。でも、短所はある場合には長所にもなるということを意識することが大事だと僕は思います。例えば、僕はぐうたらです。それは「勤勉」という良い形質の対極にあります。ただ、ぐうたらでいるためには、勤勉でなくてもよいようにうまく立ち回らなければなりません。なので僕は、あらゆる物事に工夫をします。それは僕のよい形質になっています。
勤勉な人は与えられた課題をきっちりこなそうとします。ぐうたらな僕は、課題を完全に達することは最初からあきらめ、その課題を含むような新たな課題設定を考え出し、それをより少ない努力で達成しようとします。その結果、当初の課題を越えて達成し、より高い評価を得るようにしています。そういうのはむしろ手間暇かかるわけですが、最終的には少ない努力で+αの評価を得られて、お得です。そのような行動原理は本質的に「ぐうたら」に起因すると僕は思っています。僕の評判は決して「秀才」ではないのです。
短所は時に長所にもなります。それをきちんと理解するのは大事なことです。ただ、そういうのは就職活動の一環として行うようなものではないと思います。

エントリーシート

現在の採用プロセスでは、履歴書とは別に様々な自己PRを記載したエントリーシートが要求されます。志望者が多すぎるので、書類選考するのですが、その材料にするものです。なので、エントリーシートは基本的に候補者を間引くために使われると思って間違いありません。
では、どのくらいの確率で書類選考をパスするでしょう。まず、スペックによる選考があり、これは学歴等が重視されます。基準に達していなければ、エントリーシートを頑張って書いても無駄になります。合格率が50%なら、気合が入りすぎるのはよくないかもしれません。合格率が10%なら、丁寧さが重視されるでしょう。合格率が5%以下なら、普通に書いても無駄です。何かしら個性が要求されます。
極端に合格率が低い場合を除き、重視されるのは文章力だと思います。僕もそうだったのですが、日本の学校教育では文章力が使い物になりません。研究室では徹底して日本語の文章を書く練習を行うくらいです。書類選考が通らない学生については、エントリーシートの添削を行うことがあります。そうすると面接に進めたりします。ただ、そのように僕らが手を貸したとしても、どこかの時点で文章力の不足が露呈するでしょう。
逆に、ある程度の文章力が備わっていると就職活動を有利に進めることができます。ただ、文章力を鍛えるにはきちんとした指導者と時間と本人の意思が必要です。特に、自分の文章力がダメだということは、なかなか受け入れがたいもので、本人の意思が最も大きな障害です。

コミュニケーション

コミュニケーション力というと、「しゃべる能力」と短絡する傾向にあります。でも、本当のコミュニケーション力はもっと別のところにあります。
フリーアナウンサーの宮根誠司氏が朝日放送に入社した際の面接の話がとてもわかりやすいです。もともとアナウンサー志望ではなかったそうですが、気軽な気持ちで応募したそうです。3つくらい面接があったそうですが、それぞれの面接で面接官の役職や年齢が異なると考えて、面接官の年齢層に応じたネタを仕込んで面接に臨んだそうです。それはつまり、コミュニケーションの基本の一つ、相手のことを考える、ということです。そして、幅広い年齢層に合わせたコミュケーション術を身につけておくということも大事です。今の若い人たちは、同年齢の人たちとしかコミュニケーションの経験がないので、世代を超えたコミュニケーションが苦手です。そういうのを普段から鍛えておくべきでしょう。
もう一つ重要なのは、就職面接において何が審査されるのかきちんと理解するということです。僕たちは理系なので、研究内容のプレゼンテーションが要求されます。学生たちは一生懸命研究内容を説明しようとしますが、実は面接で要求されているのは研究内容そのものではありません。面接官はその研究の専門家ではないので、細かな内容までわかりません。だから、ディテールが精密で正確かなんてのは要求されません。それよりも、門外漢を想定した説明になっているか、情報の重要度がきちんと分類され、重要なものほど伝わりやすいように工夫されているか、自分のコントリビューションをアピールできているか、などが評価されます。であれば、ごちゃごちゃ詰め込んだプレゼンは逆効果で、内容を絞って重要なことだけを伝えるように準備すべきです。でも学生は不安なので、そういう思い切ったプレゼンは作れないのです。であれば、内定は遠いよね。

右へならえ

今の学生はゆとり教育真っただ中で育った世代です。ゆとり教育は個性尊重が叫ばれ、実践されたはずです。にもかかわらず、学生たちはハウツーに終始し、第三者(就職産業)に振り回されています。僕の実感ですが、ゆとり教育によって「右へ倣え」が得意な人たちがむしろ増えたように思います。いきなり自由が与えられると、どうしたらよいかわからないので、他人の真似をするようになる、ということだと僕は思います。自由を与える前に、自由を活用する知識とスキルがないといけません。そのためには、本人の意思を無視して、様々な選択肢を体験する必要があります。
就職活動を始めるときに、「どの会社でもチャンスがありますよ~」「やりたいことを実現する手段として就職してくださいね~」ときれいごとを言われても、ぶっちゃけ困るというのが学生たちの本音だと思うのです。
就職活動が自由化したせいで、膨大な選択肢が学生たちにはあります。その膨大な選択肢の中で、就職活動を有利に進める情報を求めてあがき、就職産業に踊らされているのは、極めて不幸です。そして、もっと不幸なのは、そういう状況に自分が置かれていることを全く理解できていないことです。
世の中には膨大な数の会社があります。どんな会社に就職しても、やることはほとんど変わりません。給料も10%くらいしか変わりません。任地や待遇は少し違うかもしれません。それに応じて、就職後の生活もちょっとは違うかもしれません。でも、それらはほんの少しの違いかもしれません。
僕らの学生の頃は、指導教官の推薦で面接などなしに就職先が決まりました。選択肢のない「お見合い結婚」みたいな感じです。いや、むしろ会社とのコネを太くするための「政略結婚」かもしれません。でも、気に入らなくて会社を辞めた、という話はほとんど聞きません。今は、「合コン」「デート」を繰り返えす「恋愛結婚」に近いわけですが、会社を辞める話を多く聞きます。僕の学生でも2割~3割は転職しています。昔に比べると、若い間の転職が多くなっていると思います。それは、見合い結婚が減って、離婚が増えているという事情に通じるのかもしれません。

現代社会は極めて急速に変化しています。変化の波に乗り遅れないことは大事です。ただ、変化があまりに急速で、僕たちは過去について顧みなくなっています。でも、どれだけ世の中が変化しても絶対に変化しないものがあります。その一つは、社会の構成要素としての人です。これも将来揺らぐかもしれませんけどね。
世の中は人の集団です。人は自由に創意工夫し、しのぎを削っています。その中で、どれだけ有利に人生を過ごせるかを競っています。より良い就職先を見つける努力は、まさにその一環です。競う相手は他人です。他人と自分の違いを見つけて、有利な展開に持ち込むのが鉄則です。有利不利を決するのは個性です。どのような個性が有利であるかは、事前に知ることができません。でも、個性がなければ、勝てる見込みは生まれません。学生の間は、個性を作り出すこと、個性を磨くことが大事です。それは今も昔も変わりません。「右へ倣え」戦略は絶対的に不利なのです。それが、今も昔も、おそらく人間が社会の構成要素の主役である限り、続くものです。

自分は何がしたいのか?

就職はゴールではありません。就職してから、何十年も働くことになります。しかしながら、学校教育では「働く」ということ自体を勉強する機会がないようにも思います。
「働く」には様々な定義があります。多くの人は「労働力を提供し、対価を得る行為」と言うとすっきりするかもしれません。でも、「労働」とは「働くこと」なので、言葉の循環があって定義になっていません。また、「労働」には、「体を動かす」というニュアンスがありますが、仕事にはそういうもの以外も含まれます。なので、アルバイト等では、「時給」という概念を用います。対価としての給料が時間で発生するということです。この考えに従えば、働くとは「時間を提供することで、対価を得る行為」となります。
しかし、時給が設定されるのは、比較的低級な仕事だけです。高度な仕事に対しては「時給」は適用されません。高度な仕事とは、「できる人が限られている仕事」ですから、プレミアが発生しているので、給与に上積みがなされます。高い給与を得ようとするなら、プレミアを多くする必要があるわけです。そのためには、人材としてのレア度を高める必要があるわけです。
就職してから長い間働くわけですから、会社はあなたの隅から隅まで知ることになるでしょう。採用面接のとき、背伸びして取り繕って何とか内定を勝ち取ったとしても、数年働けば、底が知れます。その時、人材として再び査定され、その後の待遇が決まります。レア度の低い人材の価値は高くなりようがないので、出世は望めません。鶏口牛後の牛後になるでしょう。

そういう人生がよいのですか?
世の中で活躍したいのではなかったのですか?

僕はどちらでもよいと思っています。期待され、活躍する人生は、極めてストレスフルです。それを苦にする人も多いと思います。だから、できるだけ大きな会社に就職して、目立たない人生を目指すというのは、合理的かもしれません。でも、そのような人生を希望することを表明する学生は見たことがありません。
理由は二つあり、身の丈を知らず、能天気な希望を抱いているか、本当は希望しているけど恥ずかしいから公言できないか、だと思います。前者は本人の前途が多難です。後者だと、会社を裏切ることになります。
会社は何度も裏切られてきたのです。だから、採用面接を何度も行い、「良い人材」を見つけようとするのです。大卒あるいは大学院卒で「働く」ということは、活躍することが期待される環境に身を置くことです。その期待に応える能力が自分に備わっているかどうかをしっかり考えなければなりません。その能力は、トレーニングで身につくものです。ただ、どのような能力が有利なのかは事前に知ることができません。もしわかってしまうと、みんながその能力を身につけてしまい、レア度が下がり、その能力では期待に応えることができなくなります。不確定性原理みたいですね。
トレーニングは時間が必要です。大学や大学院での勉学のなかで、自分のレア度を高める努力を継続しなければなりません。残念ながら、多くの学生はそのようには考えません。ということは、逆にそのように考えて実行に移せば、それだけでレア度が上がるわけです。ちなみに、僕は学生時代にそう考えて実行しました。ただ、その時の努力は直接は役に立ってません。でも、陰に陽に影響はあると思います。

こういう議論をする就職セミナーは聞いたことがありません。

2018年5月12日土曜日

西川式微分方程式6章


微分方程式の解法あれこれ


このテキストの本論はすでに終了していますが、微分方程式を解くテクニックはまだまだあります。普通の微分方程式の教科書に倣い、いろんなパターンの解法を解説します。ただし、すべての解法を網羅するつもりはありません。よく目にする解法について、ちゃんと解けているかどうかを中心に議論します。

変数分離法

ほとんどの1次常微分方程式は解くことができます。その際に変数分離というテクニックが活躍します。その際の強力なテクニックが変数分離と呼ばれるものです。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y-p\left(x\right)q\left(y\right)=0
\label{6-1}
\end{equation}
今まではyの代わりに$f\left(x\right)$を使ってましたが、そうするとややこしくなるので今回は$y$で許してください。ちょっとした変形を行うと次のようになります。
\begin{equation}
\frac{1}{q\left(y\right)}dy=p\left(x\right)dx
\label{6-2}
\end{equation}
両辺を積分すれば、解が得られます。このとき、$\frac{d}{dx}y=\frac{dy}{dx}$であり、微分要素を一つの変数のように扱っています。なんとなく自然な感じがします。確かに1階微分の場合は大丈夫なんですが、いつもこんな感じでOKかというとそうでもないので気をつけましょう。
1階の微分方程式の場合には、($\ref{6-2}$)式のように最終的に単純な積分に帰着できる場合があって、変数分離形と呼びます。現時点では抽象的なので変数分離がどのくらい役に立つかはピンとこないと思います。

1階線形微分方程式

次のような微分方程式を考えます。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y+p\left(x\right)y=q\left(x\right)
\label{6-3}
\end{equation}
この微分方程式はかなり一般性を持つということがわかると思います。さて、この微分方程式は非同次なので、とりあえず同時形を考えます。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y+p\left(x\right)y=0
\label{6-4}
\end{equation}
この微分方程式はすぐ解けます。というのも次のように変形し、$y$と$x$を左右に分けるのです。
\begin{equation}
\frac{1}{y}dy=-p\left(x\right)dx
\end{equation}
これは変数分離形の一種です。なので、両辺を積分すると解が得られます。すなわち、
\begin{equation}
\log{y}=-\int p\left(x\right)dx+C
\end{equation}
ただし、積分定数も考慮します。もうちょっとわかりやすい形にしておきましょう。
\begin{equation}
y=Ce^{-\int p\left(x\right)dx}
\label{6-7}
\end{equation}
このようなことができるのは、($\ref{6-4}$)式で$y$に関する項と$x$に関する項とを左右に分けることが可能であったということが重要です。

($\ref{6-3}$)式は非同次でした。なので、特殊解が存在するはずです。特殊解は無理やり見つけてやればよいということを第2章で論じました。その方法は何でもよいはずです。そこで、直観によって($\ref{6-7}$)式を少しいじった次の式を考えます。
\begin{equation}
y=r(x)e^{-\int p\left(x\right)dx}
\end{equation}
この式を($\ref{6-3}$)式に代入してみます。すると、次式が得られます。
\begin{equation}
e^{-\int p\left(x\right)dx}\frac{d}{dx}r\left(x\right)-r\left(x\right)p\left(x\right)e^{-\int p\left(x\right)dx}+p\left(x\right)r\left(x\right)e^{-\int p\left(x\right)dx}\\
=e^{-\int p\left(x\right)dx}\frac{d}{dx}r\left(x\right)=q\left(x\right)
\end{equation}
左辺第2項がうまく消えてくれました。ここから、
\begin{equation}
\frac{d}{dx}r\left(x\right)=q\left(x\right)e^{\int p\left(x\right)dx}
r\left(x\right)=\int{q\left(x\right)e^{\int p\left(x\right)dx}dx}
\label{6-10}
\end{equation}
となります。逆に、($\ref{6-10}$)式を満たす$r\left(x\right)$は($\ref{6-3}$)式の特殊解として使えるということです。この特殊解と同次解である($\ref{6-7}$)式と合わせたものが最終解となります。すなわち、
\begin{equation}
y=e^{-\int p\left(x\right)dx}\left\{C+\int{q\left(x\right)e^{\int p\left(x\right)dx}dx}\right\}
\label{6-11}
\end{equation}
これは一般には「公式」として知られているものです。このように導出は少し面倒ですが、基本に立ち返ればそれほど難しいものではありません。微分方程式を解くための基本が理解できていれば、説明に時間はかからないのですが、基本が理解できていないと、無理やり特殊解を持ってきてそれでOKとする根拠が示せません。だから、公式として説明なしに片付けてしまった方が楽だ、となってしまいます。そんな講義を受けると、解けることは解けるけどなぜ解けるのかはわからないし、解けたという確信も得られません。この公式を覚えろ、と言われた時点で、僕はその講義を放棄しました。

普通ならこれで終わりなんですが、もう少しだけ詰めておきましょう。($\ref{6-7}$)式や($\ref{6-10}$)式ではネイピア数の指数に不定積分があります。不定積分なので積分すると積分定数が付け加わりますが、どのように取り扱えばよいでしょう。簡単な方の($\ref{6-7}$)式からやっておきましょう。
\begin{equation}
\int p\left(x\right)dx=P(x)+D
\end{equation}
とすると、($\ref{6-7}$)式は
\begin{equation}
y=Ce^{-\int p\left(x\right)dx}=Ce^{-P(x)-D}=Ce^{-D}e^{-P(x)}
\end{equation}
となり、$e^{-D}$という定数が乗じられます。これは元々ある係数Cと区別できないので、ネイピア数の指数に現れる不定積分か生じる積分定数は無視して構わないと結論できます。少し複雑にはなりますが、($\ref{6-10}$)式の積分定数は$r\left(x\right)$の中に吸収できるので、これも無視できます。

ベルヌーイの微分方程式

($\ref{6-11}$)式はとても強力なので、導出する手間を惜しんで暗記するくらいでよいということで、通常の講義では「公式」として示されています。前節で示したように導出は難しくないのですが、特殊解と一般解の関係をきちんと説明しないと、導出の際に確信が持てません。説明する側としては、つっこみが怖いので避けたいところです。おそらくそのような後ろ向きの理由によって導出が議論されないんでしょうね。
導出の問題があるものの、前節の「公式」はとても強力です。そのままでも十分強力なのですが、さらに発展形も存在します。その発展形の一つにベルヌーイの微分方程式と呼ばれるものがあります。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y+p\left(x\right)y=q\left(x\right)y^n
\label{6-14}
\end{equation}
nが0の時は($\ref{6-3}$)式と同じです。nが1の時の右辺は左辺第2項とまとめることができ、同次形の($\ref{6-4}$)式と同じになります。それ以外でも解けるというのがベルヌーイの微分方程式の重要な点です。
テクニックとしては、($\ref{6-14}$)式を無理やり($\ref{6-3}$)式の形にしてあげるということです。具体的には、$z=y^{1-n}$という新たな変数を導入します。これを$y$で微分します。
\begin{equation}
\frac{dz}{dy}=y^{-n}
\end{equation}
ここから、$y^ndz=dy$として、($\ref{6-14}$)式に代入します。
\begin{equation}
y^n\frac{dz}{dx}+p\left(x\right)y=q\left(x\right)\frac{dy}{dz}y^n
\frac{dz}{dx}+p\left(x\right)y^{1-n}\\
=q\left(x\right)
\frac{dz}{dx}+p\left(x\right)z=q\left(x\right)
\end{equation}
これは($\ref{6-3}$)式と同じ方法で解くことができます。このような変形は($\ref{6-14}$)式の形式であれば必ず可能です。逆に、このような変形が可能な特別な形が($\ref{6-14}$)式というわけです。この導出に見られるように、nは整数以外でも大丈夫ということがわかります。
ベルヌーイの微分方程式のように、解けるタイプに変形可能な特別な形式の微分方程式はまだまだ存在します。しかしながら、それらの各論は普通の微分方程式の教科書に書いてあって、僕が改めて議論しても似たり寄ったりにしかなりません。であれば、のこりの部分は他の教科書に任せることにします。

演算子法

特性方程式を使うと、機械的に微分方程式を解くことができます。その背景にはフーリエ変換やラプラス変換があり、微分を変数で置き換える根拠になっています。それをさらに発展させることもできます。
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}y+a\frac{d}{dx}y+by=q\left(x\right)
\end{equation}
このような微分方程式があった場合、特性方程式では$\frac{d}{dx}$を$t$とかで置き換えて、同次解を求めました。$\frac{d}{dx}$はある種の演算子$D$だと思って、次のように置き換えてみます。
\begin{equation}
D^2y+aDy+by=\left(D^2+aD+b\right)y=q\left(x\right)
\label{6-18}
\end{equation}
もし、ここから
\begin{equation}
y=\frac{1}{D^2+aD+b}q\left(x\right)
\end{equation}
って出来たらとてもラッキーな気がしませんか?そういうことが可能かどうか、可能ならどういう原理だろうか、というのが今回のお題です。
もっと簡単な場合を検討してみましょう。いろんなものをそぎ落として次の式なら簡単です。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}y=q\left(x\right)
\label{6-20}
\end{equation}
これは、簡単に積分出来て、
\begin{equation}
y=\int{q\left(x\right)dx}
\label{6-21}
\end{equation}
です。一方、演算子$D$を使うと($\ref{6-20}$)式は$Dy=q\left(x\right)$なので、
\begin{equation}
y=\frac{1}{D}q\left(x\right)
\label{6-22}
\end{equation}
($\ref{6-21}$)式と($\ref{6-22}$)式は同じはずですから、$\frac{1}{D}$という演算は積分だとわかります。一方、($\ref{6-20}$)式のフーリエ変換は、
\begin{equation}
i\omega Y\left(\omega\right)=Q\left(\omega\right)
\end{equation}
なので、
\begin{equation}
y=\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{i\omega}Q\left(\omega\right)\right]
\end{equation}
ここから、($\ref{6-22}$)式において、$D$は$i\omega$、フーリエ変換・逆フーリエ変換が省略されているということがわかります。
さて、もう少し難しい形である
\begin{equation}
Dy+by=q\left(x\right)\\
y=\frac{1}{D+b}q\left(x\right)
\end{equation}
を考えてみましょう。$\frac{1}{D}$は単純な積分ですが、定数の補正が付いているとどのような演算なのか見えにくくなります。でもフーリエ変換・逆フーリエ変換が介在すると考えると、
\begin{equation}
y=\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{i\omega+b}Q\left(\omega\right)\right]=\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{1}{i\omega+b}Q\left(\omega\right)e^{i\omega x}d\omega}
\end{equation}
ここで、$i\omega+b=iq$とすると、$q=\omega-ib$
\begin{equation}
y=\int_{-\infty}^{\infty}{\frac{1}{iq}Q\left(q+ib\right)e^{i\left(q+ib\right)x}dq}=\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{iq}Q\left(q+ib\right)e^{-bx}\right]
\end{equation}
ここで、
\begin{equation}
Q\left(q+ib\right)=Q\left(q\right)\otimes\delta\left(q+ib\right)
\end{equation}
であることを考慮すると、
\begin{equation}
\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{iq}Q\left(q+ib\right)e^{-bx}\right]=
\mathcal{F}^{-1}\left[\frac{1}{iq}Q\left(q\right) \otimes\delta\left(q+ib\right)\right] e^{-bx}
\end{equation}
\begin{equation}
y=\left\{\int{q\left(x\right)e^{bx}dx}\right\}e^{-bx}
\label{6-30}
\end{equation}

さらに、($\ref{6-18}$)式は演算子を用いて、
\begin{equation}
y=\frac{1}{D^2+aD+b}q\left(x\right)=
\left\{\frac{1}{D+c_1}+\frac{1}{D+c_2}\right\}q\left(x\right)
\end{equation}
というように分数の和に変換できるので、($\ref{6-30}$)式と同じように積分が可能です。このように微分演算子Dをあたかも変数のようにして微分方程式を解くテクニックを演算子法あるいは逆演算子法と呼びます。

このままでは($\ref{6-30}$)式に残る積分がなかなか歯ごたえがありますが、$q\left(x\right)$が$e^{\alpha x}$という特別な形の場合にはとても簡単になります。すなわち、
\begin{equation}
\left\{\int{q\left(x\right)e^{bx}dx}\right\}e^{-bx}=\left\{\int{e^{\alpha x}e^{bx}dx}\right\}e^{-bx}\\
=\frac{e^{\left(\alpha+b\right)x}}{\alpha+b}e^{-bx}=\frac{e^{\alpha x}}{\alpha+b}
\end{equation}
ここで、αに関しては複素数もOKだし、指数の和もOKです。つまり、三角関数もOKということです。
もちろん、この方法は特殊解を求めるものですので、同次解は別途計算し、和の形で追加されます。さて、$q\left(x\right)$が$e^{\alpha x}$の場合は、特殊解を$Ce^{\alpha x}$と決め打ちしてもよさそうです。すると、
\begin{equation}
Dy=C\alpha e^{\alpha x}=\alpha y
\end{equation}
になります。ここから、$D=\alpha$と短絡します。これを($\ref{6-18}$)式に代入すると、
\begin{equation}
y=\frac{1}{\alpha^2+a\alpha+b}e^{\alpha x}=Ce^{\alpha x}
\end{equation}
ここから、$C=\frac{1}{\alpha^2+a\alpha+b}$と求まります。さて、($\ref{6-30}$)式はとても汎用性が高いものですが、積分が残っていて、うまい具合に積分できるかは未確定です。一方、$q\left(x\right)$が指数の形だと、とても単純になるので、こちらの方が使い勝手が良いという事情があります。なので、演算子法というと、最後に紹介した方法を指す場合があります。これも、途中の考え方が一切失われて、省略形だけが劣化コピーとして伝承された例だと僕は思います。

数値計算

微分方程式には線形以外に非線形もあります。非線形の場合は解の和が自動的に解になることはないので、すべての解を網羅的に列挙することは極めて困難です。というかほとんど不可能です。その代り、具体的に数値を代入して解くということがしばしば行われます。数値計算なんて呼ばれますが、ある場合にはシミュレーションとも呼ばれます。というのも微分方程式がある現実的な実験系を想定している場合、その方程式を解くということは、想定している実験系の計算機実験にほかならないからです。

さて、微分方程式を数値計算によって解くにはどうしたらよいでしょう。基本的な考え方は難しくありません。$dx$を非常に小さい値だと思って、式の評価を繰り返すというのが基本です。例えば、($\ref{6-20}$)式だと、$dy=q\left(x\right)dx$なので、すごく小さな$dx$に対して、すごく小さな$dy$が得られます。それらの$dx$と$dy$に対して、以下の操作を繰り返します。
\begin{equation}
y\gets y+dy\\
x\gets x+dx
\end{equation}
このような式変形を「差分化」と呼びます。さて問題はどのくらい小さな$dx$を使えばよいか、ということです。その議論はシミュレーションが盛んな流体力学の分野で真剣に議論されており、CFL条件あるいはクーラン条件として知られています。端的に言えば、$\frac{dy}{dx}$は1より小さくなければならない、ということになります。ま、あくまでも目安で、精密な計算のためには刻み幅は小さければ小さいほど良いのです。ただし、小さすぎると計算時間がべらぼうに必要になります。

さて、この方法は数値積分で言うところの区分求積に相当します。というのも、微分方程式を解くとは、積分操作に近いからです。あるいは比喩的に「積分」と呼ぶことすらあります。数値積分では計算誤差を抑えるためにSimpson法なるものが使われます。そのSimpson法の微分方程式版とも言えるのがRunge-Kutta法です。詳しいことは、ググってください。ほとんどプログラミングにかかわることなのでこのテキストでは名前の紹介にとどめます。

偏微分方程式

微分方程式の中には変数が複数ある場合があります。よくあるのは、時間tと座標xを変数にしたもので、次のような拡散方程式は典型例です。
\begin{equation}
\frac{\partial}{\partial t}\phi\left(x,t\right)=D\frac{\partial^2}{\partial x^2}\phi\left(x,t\right)
\label{6-36}
\end{equation}
このとき用いている$\partial$は偏微分記号です。$\phi\left(x,t\right)$は$x$と$t$の関数ですが、$\frac{\partial}{\partial t}\phi\left(x,t\right)$では$t$に関してだけ微分を考えるという意味になります。これに対し、$\phi\left(x,t\right)$の全微分というのもあって、おおむね次のような関係を指します。
\begin{equation}
d\phi\left(x,t\right)=\frac{\partial}{\partial t}\phi\left(x,t\right)dt+\frac{\partial}{\partial x}\phi\left(x,t\right)dx
\end{equation}
偏微分、全微分の違いのために、偏微分記号を用いた微分方程式を偏微分方程式と呼びます。一方、全微分に基づく微分方程式は常微分方程式と呼びます。これまでの議論はすべて常微分方程式を取り扱ってきました。というのも、1変数の関数では偏微分を考える必要がないからです。ここから、偏微分方程式というのは多次元関数を取り扱う際に重要になることがわかります。
さて、($\ref{6-36}$)式を解くための一般解ですが、今まで取り扱ってきたものは1変数の関数がほとんどでしたので、なかなかピンとこないと思います。というか、境界条件によってはそのような一般解がないこともあります。ということでフーリエ変換やラプラス変換を考えてみましょう。ラプラス変換は1次元じゃないと積分区間の問題が生じるので使いにくいという問題があります。するとフーリエ変換が残ります。ただし、フーリエ変換も1次元だったのでこれを2次元以上に拡張します。
\begin{equation}
\mathcal{F}\left[\phi\left(x,t\right)\right]=\iint{\phi\left(x,t\right)e^{-i\left(\omega t+qx\right)}dtdx}
\end{equation}
詳細は省きますが、ネイピア数の指数部が内積の形になります。これを用いると($\ref{6-36}$)式は次のようになります。
\begin{equation}
i\omega\Phi\left(q,\omega\right)=-Dq^2\Phi\left(q,\omega\right)
\end{equation}
ここから、$i\omega=-Dq^2$となります。さらに解き進めるには境界条件等が必要になります。そしてその点が偏微分方程式の特徴でもあります。境界条件がはっきりしていないと途中までしか計算を進めることができないのです。

偏微分方程式を取り扱う際に特に重要なのは変数分離形です。もし$\phi\left(x,t\right)=X\left(x\right)T\left(t\right)$である場合、($\ref{6-36}$)式は次のようになります。
\begin{equation}
X\left(x\right)\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)
=DT\left(t\right)\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)\\
\frac{1}{T\left(t\right)}\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)
=\frac{D}{X\left(x\right)}\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)
 \label{6-40}
\end{equation}
これが偏微分方程式における変数分離形です。$x$と$t$は基本的に独立変数なので自由に変化します。もし$x$を一定値にして$t$を変化させたとき左辺の変化と右辺の変化が常に同じであるのには無理があります。そのようは無理があっても($\ref{6-40}$)式が成立するためには、($\ref{6-40}$)式は一定値である必要があります。すなわち、
\begin{equation}
\frac{1}{T\left(t\right)}\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)=\frac{D}{X\left(x\right)}\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)=\lambda
\end{equation}
$\lambda$は任意の定数です。大きさは境界条件から決まることが多いです。ここから、2つの微分方程式が得られます。。
\begin{equation}
\frac{\partial}{\partial t}T\left(t\right)=\lambda T\left(t\right)\\
\frac{\partial^2}{\partial x^2}X\left(x\right)=\frac{\lambda}{D}X\left(x\right)
\end{equation}
それぞれの式には偏微分記号がありますが、1変数なので常微分方程式として解いて構いません。このテクニックはシュレディンガーが水素原子様電子軌導を解いた際にも用いられました。
さて、この解法において、$\phi\left(x,t\right)=X\left(x\right)T\left(t\right)$と置いたことがポイントでした。このように考えるのは妥当でしょうか?それはわかりません。そのように置けない可能性は否定できません。偏微分方程式の特徴としてすべての可能性を網羅しつくすことはとても難しいのです。そのため、「偏微分方程式を解け」という問題はテストに出にくいのです。だからと言って、重要でないというわけではありません。

コメント

微分方程式の一般的な講義に対するアンチテーゼとしてこのテキストを作りました。天下り式の解法をひたすら暗記するという方法ではなく、きちんとした解法の「原型」を示し、他の解法を「原型」に対応させて理解するという方法を取りました。その試みは成功していると僕は思っています。僕の中ではすべての事柄が矛盾なく説明できていると思っています。一部にわかりにくい部分があるかもしれませんが、とりあえずはこれで完成です。
普通は行わないような細かな議論も丁寧に含めるようにしました。その結果、テキスト内で取り扱う内容が厳選されることになりました。特に、種々の解法では多くのものを割愛しました。ただ、第2章で級数展開による解法を紹介しており、それでかなりの解法をカバーするはずです。「解けるものしか解けない」のだから解けるものだけを議論するという立場はあまりにも乱暴だと思います。今解けないとしても、未来永劫解けないとは限りません。このテキストでの議論は、新たに発見されるかもしれない級数展開をカバーするという点で、他のテキストは一線を画していると思います。
惜しむらくは、例題がほとんどないことです。もし、書籍として出版する機会があれば、その部分を増補したいですね。

僕は決して数学者ではありませんし、特別に微分方程式を勉強したわけでもありません。テキストの随所に書いていますが、僕はむしろ落ちこぼれです。落ちこぼれだからこそ、しつこく考え続けられたのだと思っています。僕は10年以上かけて、ゆっくりと理解に至りましたが、ちゃんとした教科書あるいは指導者がいれば、そんな苦労は必要なかったと悔しく思っています。それがこのテキストを作成した動機です。
僕が微分方程式の解法にある程度の確信を得たのは、フーリエ変換を身につけたときです。フーリエ変換を使うとある種の微分方程式を演繹的に解くことができます。しかしながら、そうでないものもあります。あるいは、通常の解法はフーリエ変換とは違うものも多いですよね。
次の理解の段階に達したのは、「微分方程式の解が張る空間」というフレーズの意味が直観できたときです。線形微分方程式の一般解は直交関数系の線形和になっていて、ベクトルとの類似性から多次元空間とみなせるというのがフレーズの意味です。それが一般的に成立すると先のフレーズは暗に主張します。多くの特殊関数と呼ばれる級数は微分方程式の解として得られており、それらには直交性があります。つまり、数学公式集に載っている級数はことごとく微分方程式の解になり得るということです。いや、本当は、そういう特性があるからこそ、数学者たちはそのような級数を探し続け、その成果を公式集に収めているのだとわかりました。であれば、最初からそのように教えてほしかった、というのが正直なところです。シュレディンガーはそう理解していたから、ルジャンドル陪関数と球面調和関数を選択することができたのです。
そういうからくりに自力で到達しなければならない理由は見当たりません。このテキストにあるように、それほど多くない分量の議論で説明し、理解できるのです。そのような教科書や教授法が見当たらないのは人類の損失だと思います。

微分方程式が理解出来たら、次は量子力学にチャレンジしたくなりますよね。僕は学生のころ、微分方程式が理解できなかったので量子力学もあきらめました。微分方程式が解けるなら、量子力学だって理解できるかもしれません。
もちろん、量子力学もこんな調子で「再構築」しています。ただ、一般的な流儀からあまりにかけ離れているので、細部の詰めが完了していません。という状態が10年にもなっているので、何とかしないといけないなぁ、とは思っています。でも、僕の専門は微分方程式でも量子力学でも何でもないということは知っておいてください。

2018年4月22日日曜日

視覚・触覚の地図

視野の欠落について

僕は糖尿病歴10年以上で、コントロールもよくないので網膜症があります。網膜症というのは網膜細胞に酸素と栄養を供給する血管に出血があり、その先にある網膜細胞が壊死する病気です。壊死するとその場所の視力が失われます。壊死するのが視野の端っこなら問題ないのですが、糖尿病性網膜症の場合、壊死するのは視野の中央部分のもっとも重要な部分なのがとても大きな問題です。普段は気にならないのですが、本を読んだりすると視野が欠けていることがわかります。おそらく、欠けているのは視野の5%程度なのですが、視野の中央にあるために、読書時に使う視野のうち10~15%が使えません。とてもイライラします。

視野欠けは普段気になりません。理由は脳が視野欠けを補完しているからです。僕らの目には「盲点」がありますが、普段は盲点を知覚することはできません。盲点を探り当てたとしても、盲点の領域は空間がゆがんで切り取られたようになっていて、直接的な視野情報を得ることはできません。実は重力レンズみたいな状態になっているので、盲点周辺の視野は不自然にゆがんでいます。つまり、僕たちの空間知覚自体がゆがんでいるのです。しかしながら、それがあまりに当たり前になっているので、特別に意識を集中しない限りゆがみを感じることはありません。
僕のように視野が欠けた場合にも同じような視野の補完が行われるのですが、後天的であることと、視野の中央付近であることから、完全な補完が行えません。だから条件がそろうと欠けている視野を知覚します。僕はかけた視野をグレーの一色の領域だと感じています。

ところで、視覚というのは網膜で受けた信号が視神経を通じて脳に伝えられ、脳の中で知覚されます。先天的な視野の欠落である盲点は、空間ごと切り取られたように感じるのですが、後天的な視野の欠落はグレーの領域として知覚されます。この違いはどうして生じるのでしょうか?

網膜から脳への配線

さて、盲点は存在すら知覚が難しいという理由は、盲点周辺のイメージがゆがんでいて、パックマンのワープトンネルよろしく不自然につながっているからかもしれません。視野の端にワープトンネルがあるのなら理解できなくもないですが、盲点は視野の中に存在しているので、その部分の接続は不自然なはずです。写真だと気づくはずですが、視界だとわからないのです。そのようなつなぎ目のない視野の歪みという現象が可能なのは、僕らの視野と脳の接続の段階で何らかの調整がされているからと推測されます。そこで、網膜と脳の接続について考えてみます。
僕たちは2次元の画像が網膜から脳に送られていると思っています。それはCCDからPCへ画像情報がケーブルを伝って送られるようなイメージです。CCDとPCをつなぐケーブルでは、画像情報がきちんとした順序で伝送されます。もし配線が少しでも狂ったり、伝送順序に少しでもエラーがあれば、伝送された画像は著しい影響を受けます。これは画像情報の単位である画素には「色情報」だけでなく「位置情報」が含まれるからです。CCDとPC間の接続では、規則正しい伝送プロトコルが画素の位置情報を持っているのです。
翻って、網膜と脳の接続ではどうでしょう。一般に、網膜細胞と脳細胞が微細な視神経と1対1で接続されていると考えられています。つまり、個々の視神経の区別が網膜細胞の位置情報に対応しています。一方、脳の表面付近の電気的刺激によって、視野を誘起できることが知られています。全盲の人に視野を取り戻すという研究の一環でそのような実験が行われているのです。その結果、脳の視覚野の表面に与えた2次元的なパターンを視野として認識できることがわかっていて、そこから、脳の視覚野の表面には網膜で検出した2次元画像が、そのまま再構成されていることが推測されます。つまり、視神経は網膜細胞の位置情報をきちんと脳に伝えているということになります。
しかし、それはどうも不可能に思うのです。視神経が網膜のセンサー細胞に接続されていることは確実でしょう。網膜につながった神経細胞は盲点を通って眼球の外に出ます。その際、盲点の手前では束になり、盲点の裏側の穴を通って、おそらくねじれながら脳に向かいます。その途中、左右の視神経は合流し、様々に交差すると言われています。これは視交叉と呼ばれます。現在、この視交叉はウソかもしれないという話もありますが、視神経が束になって脳に向かうのは確実です。脳では視神経は視覚野と呼ばれる脳の領域に最終的に接続されます。
莫大な数の視神経が束になってねじれながら脳に接続するのです。それが完全に秩序だって行われるためには、神経の束の配置が脳と網膜で完全に保たれていなければなりません。それはつまり、光ファイバーの束のように規則正しい結晶構造のような配置が視神経の束に存在しなければならないことを意味します。昆虫の視神経ではそのような配置がみられるようですが、僕たちの視神経にはそのような規則構造は見当たらないようです。
ではどうやって網膜からの画像情報が僕たちの脳にゆがみなしに伝えられるのでしょうか?どうのような配線ルールがあるのでしょうか?
規則構造はないにしても、視神経がミックスされたら配線がうまくいかないはずだ、と考えると視交叉があってはいけないと考えることができます。しかし、解剖学的な知見から、やはり視交叉があると考えられています。
最終的に脳の視覚野に網膜でのパターンが届いていることから、何らかの形で規則正しい配線がなされていなければならないのですが、それはハードウェア的な接続でなくても良いはずです。ハードウェア的な配線はぐちゃぐちゃでも、ソフトウェア的な作用で脳の視覚野では網膜上の画像が正しく再生されているかもしれません。それが可能になるためには、網膜の信号を正しく再配列する機能が脳に備わっている必要があります。幸い、ニューラルネットワークは論理的な配線を自由に配置可能であることを本質的な機能としていますので、その目的にはもってこいです。

触覚はもっと極端

視覚ではなくて触覚のことを考えてみましょう。僕たちの体表近くには、触覚細胞が散らばっていて、体中のほとんどの位置で触覚を得ることができます。そして、きちんと触覚の場所を認識することができます。脳のある部分には、体全体の触覚がマップされていて、それはおおむね人のジオメトリを再現しているということがわかっています(体性感覚野の体部位局在)。
触覚等を担う神経線維は脊柱の定められた場所で他の神経繊維と束ねられて脊索となって脳に接続されます。おおむねのレイアウトは決まっているのかもしれませんが、脳細胞のジオメトリと体表面のジオメトリは大きくかけ離れており、直接的な1対1対応を担保するのは極めて難しい問題です。加えて、脳内の触覚のマップは各器官の重要度に応じて重みづけされており、奇怪なレイアウトになっています。手や足などの分岐があると幾何学的な制約も出てきます。それらの困難をものともせず、脳と触覚の接続が整然と行われています。
これらがハードウェア的な接続によって実現されているならば、生物の発生メカニズムというのは極めて繊細で緻密ということになります。そのような緻密なシステムであると、ちょっとした奇形でも極めて重大なエラーになるはずです。例えば、6本指の奇形なんかが稀に見られるのですが、その場合、6本の指は問題なく機能します。もしハードウェア的な接続が決まっているなら、脳に存在する5本指用の配線と、手足に存在する6本の指との接続の際に、指のどれかが余らざるを得ず、6本の指のうち、どれか1本は致命的な機能不全を示すでしょう。しかし、実際にはそんなことはありません。考えられるのは、脳には6本どころか10本指くらいまでの接続スロットがあるという可能性です。極限まで効率を優先する生物の世界において、そういう無駄は多分ないでしょう。とすると、脳中のマップは神経が接続されてから形成されると考えるべきとなります。もし、その接続がハードウェア的で融通の利かないものだとすると、脳内に整然と体のジオメトリが再構成されているという事実は奇跡と言うしかなくなります。
一方、ハードウェア的な接続とは別にソフトウェア的接続によって融通が利くシステムがあって、脳への接続後に脳内の接続が調整されて、最終的に脳内に体の物理モデルが構築されるという可能性もあります。その際には、脳内のモデルを再構成するアルゴリズムの存在が示唆されます。もし、そのような仕組みがあれば、ハードウェア的な接続がテキトーであっても、全く問題ありません。脳内の物理的レイアウトと体の物理的レイアウトが少々違っても問題ないでしょう。重要度によって脳内マップでの大きさが違うということも自然に達成されるのかもしれません。
さて、脳内モデルを後天的にレイアウトするためのアルゴリズムとはどのようなものでしょう?体上で物理的距離が近い感覚信号は、似たタイミング・似た強さで発生するはずです。接続経路が違っても、「いつも同じタイミングで同じような刺激」という接続は近いところにレイアウトすべきという原理があれば、ソフトウェア的な接続に十分な自由度があれば、ハードウェア的な接続の無秩序さをカバーできるかもしれません。というか、そういう仕組みがないと、脳はうまく機能しないと思うのです。「同じタイミングの同じような刺激を束ねる」という原理は、シナプスの長期増強として知られる脳神経の基本特性の一つと酷似しています。

触覚において面白い現象の一つに、1点の刺激では場所を間違えることは少ないのに対して、2点以上の同時刺激だといろいろ不思議な錯覚を生じる、というものがあります。僕たちの触覚は極めて高い空間分解能を持っていますが、無数にある感覚器のすべてが1対1で脳に接続されているというのはちょっと無理があります。それよりも複数の感覚細胞の統合によって高い空間分解能を達成していると考える方が合理的です。その場合、複数の同時刺激に対してはイベントの位置の特定が難しくなり、錯覚を起こすでしょう。
脳内に「同時刺激を束ねる」という動作原理があるとすると、複数の感覚信号を束ねて空間分解能を高めるという機能の実現が容易になります。
同様に、視覚においても多少の配線誤差は「同時刺激を束ねる」という脳細胞の動作原理によって修正され、網膜上の刺激が正しく脳内にマップされるということが理解できます。

いつ脳の配線が確定するか

さて、脳と体の接続はいつ最適化されるのか、という問題が浮上します。発生段階では刺激が少ないので接続の最適化は十分に進まないでしょう。それがうかがえる内容をナショナルジオグラフィックの記事に見つけました。
「新生児の時には、たとえて言えば、インターネットのケーブルはとりあえず配置はされてるんだけど、接続してない状況です。生後、シナプスが急激に増えていって、接続されるところが増えていく。シナプスの数を数えた研究がありまして、新生児の時期から生後6カ月から12カ月にかけて急激に増えて、その後、また減っていくと分かっています」
一旦、「同時刺激を束ねる」ために、様々な接続をしてみて「同時刺激を受けない接続をカット」するというアルゴリズムを採用していると推定できます。 逆に、この時期を過ぎると「同時刺激を束ねる」というのはそれほど大規模に起きないだろうということも推測されます。

盲点における神経接続の不均一性は新生児期に形成されたものなので、完全に違和感がありませんが、僕が糖尿病性網膜症で損傷した視野の欠落は、後天的なので、違和感が残ります。とはいうものの、脳梗塞等で脳の一部が死んで機能不全があった場合、リハビリを続ければ少しは改善するということが知られていますので、「同時刺激を束ねる」機能は大人になってもすこしは維持されていると思われます。時間がたつにつれ僕の失われた視野は徐々に消えてゆき空間のゆがみを感じるくらいになるかもしれません。

サイボーグ

さて、ここから将来のサイバネティクスに関するいくつかの推測が可能になります。僕たちの脳と感覚器官の接続は主にソフトウェア的なものであり、ハードウェア的な接続は不確定要素が多くて個人差も大きいと思われます。なので、神経繊維をぶった切って再びつなぐというような乱暴なことをすると神経の混信を生じるでしょう。例えば、親指を動かすつもりで薬指が動いてしまう、みたいな状態が起こります。だから、腕を切ってつなげるようなそういうことは極めて難しいと言わざるを得ません。
今、筋電位を使った外骨格型の義肢が発達していますが、これは筋電位という神経の末端での接続なのでうまくゆくのです。脳に近いところで接続しようとすると、ハードルが高くなります。義手・義足では神経との直接接続というのは現実的ではないということがわかります。
脳表面の電気的刺激によって視覚を得る研究が有名で、スティービーワンダーも興味を示したという逸話があります。これは脳の表面での電気刺激というのがポイントです。普通なら、視神経に接続したいところですよね。それは難しいのです。視神経と画素を正しく接続できれば問題ないのですが無数にある画素と視神経を一つ一つ間違いなくつなぐ技術は僕らにはありません。
攻殻機動隊で多く取り扱われている脳だけ生身の全身義体は、おそらく無理でしょう。個性の大きな神経線維を共通化するようなインターフェースが開発できれば、可能性はあります。しかしながら神経線維のレイアウトにおける個性が一定程度共通化できるという前提の存在すら怪しいのが現状です。特に、生命維持に関する神経接続が共通化できない場合、全身義体は不可能と結論されます。

人工知能

現在、人工知能がいよいよ使い物になるという空気があります。でも、僕たちは、自分たちの知能・知性を構成する脳の機能についてあまりにも無知です。もっと真剣に脳の機能を理解しないといけないと思います。
脳細胞と感覚器官の接続を精密に行うのは極めて難しいことです。もし、視神経が視覚細胞と脳細胞を規則正しく接続しているとすると、発生時に極めて特徴的な現象がみられるはずです。網膜あるいは脳細胞どちらが先かわかりませんが、かならずどちらかが先に完成しないといけません。例えば、網膜が先に完成するとすると、網膜から視神経が伸びていって、脳に到達し、その先で脳細胞が発生しないといけません。でも、脳の表面に網膜での刺激と同じパターンがみられることから、視神経が伸びていって、脳の表面に到達するまで網膜上の視覚細胞のレイアウトを保持しなければならないでしょう。そのためには、視神経が互いにねじれたりしないように特別な仕掛けが必要なります。脳細胞が先に完成する場合であってもそれは同じでしょう。人間の視神経は盲点で束ねられて眼球から出てゆくので、盲点で一回裏返ります。視神経が一度もねじれたり交差したりしないようにするのは極めて困難な気がします。
また、脳の表面に視野が再現されるということは、視神経が直接脳の表面に到達しないといけないわけですが、それは無理です。視神経は脳の下側から脳に接続されているので、脳の表面に信号が届くには、脳の下側から複数の脳細胞を経由しないといけません。脳内の脳細胞の神経接続は完全にソフトウェア的、つまり、後天的なものです。視神経が網膜上のレイアウトのまま脳に到達しても、そのレイアウトが脳の表面に到達するための別仕組みを考えなければならないのです。その仕組みは、ニューラルネットワークの最適化に関するなんらかのアルゴリズムでなければなりません。そう、結局アルゴリズムが必要なのです。
DNAはある種のプログラムコードではありますが、僕らがよく知っているようなコード体系ではありません。特に、切って、貼って、混ぜるというDNAの進化の手法に対して、ロバストでなければならず、かなりな冗長性を持っているはずです。人間のDNAはおよそ3ギガ個の塩基対で構成されています。1個の塩基対は2ビットなので、バイト数に直すと1GBでおつりがくるのです。それでいて十分な冗長性があるはずなのです。ちょっとしたアルゴリズムなら含めることができますが、ワードとかエクセルとかくらいの複雑なソフトウェアコードを保持することはできないでしょう。なので、脳内で働いているアルゴリズムはかなり単純な原理にしたがうシンプルなものでなければならないでしょう。
機械学習に基づく人工知能は極めて効果的に機能することがだんだんとわかってきました。機械学習はアルゴリズムとしては恐ろしく単純です。おそらく、脳内で重要な働きをするアルゴリズムはいずれも、機械学習と同程度の単純さだと推測されます。例えば、同時刺激に対して接続を強固にする、というのは極めて単純なアルゴリズムなので、その候補の一つということです。

僕はけがをしたり、病気をしたりするたびに、自分の体のいろんなことを気づきます。僕ですら、失敗あるいは例外からしか学ぶことができないということに、ショックを受けています。でも、逆に、そういうことに健常者が気づくのはとても難しいことだとわかります。僕は年齢もそこそこですし、体もいろいろ壊れてきているので、体や脳の機能不全から逆に本来の機能についてのちょっとした気づきがあって、そういうのをピックアップするのは僕の役どころかな、と思っています。