2018年1月21日日曜日

教育と人格形成

うちの大学の場合

僕の勤める大学の学生たちは、とても勤勉で真面目だ。僕には到底まねできない。これほど真面目だったら、もっと勉強ができて、もっと有名な大学に進学していてもおかしくないと思う。
偏差値で言うと60弱くらい。理系なので、文系と比べる場合は偏差値を+3くらいしないといけない(理系は全体の3割であることを考慮)ので、偏差値63相当になる。そうすると、小学校でクラスで1番ではないけど、その次くらいの成績だった子たち、という感じで、インタビューするとその通りだ。
勤勉で真面目で勉強が良くできるのに、大学受験では少し損している、そんな学生たちが集まっている。僕が疑問に思うのは、なぜそんな子たちが大量に存在するのか、ということだ。うちの大学の特徴として、そのような学生ばっかり、というのがとても気になっている。

ちなみに、ここで用いている偏差値は単なる勉強の尺度ではなくて、確率に対応し、どのくらいのセレクションを受けたか、あるいはどのくらいレアかを表す。偏差値は50から10離れるとレア度がおよそ10倍(出現確率が1/10)になる。大学受験で苦しめられた偏差値で話をすると、レア度が生々しくイメージできるので、話題に現実味が出ると思う。

偏差値が60~65というと、結構成績が良い方だと思う。少し良い高校に通っていたはずだ。そうすると高校内での偏差値は55前後と推測される。偏差値55というと、30%くらいの人数が集中する成績だ。すこしテスト成績がよいだけで、席次がグンっと上がる。得点で言えば、60~70点で、少しの勉強量によって10点くらい簡単に変わってくる。だから、定期テストでつねに頑張っていたと推測できる。つまり、一生懸命頑張って勉強して、成績を現状維持してきたのだろう。その結果、真面目で勤勉な人格が形成された、あるいはそれが淘汰されたのだと考えられる。
歴史的にみると、日本の発展はこうした真面目で勤勉な国民性が有利に働いた結果であるとことが大きいので、学校教育がそのような人材育成に最適化しているのだと思われる。

東大出身者の場合

僕は東大の出じゃないのでそんなに多くの人物を知っているわけではないが、僕が出会った東大出身者に関してある種の共通性を感じている。それは、とても真面目で勤勉だということだ。うちの大学の学生たちの特徴とすごく似ているが、東大出身者は真面目さと勤勉さがうちの学生たちの比ではない。真面目を通り越して、愚直とも言うべき域に達している。
東大というのは大学入試において頂点に君臨する。偏差値で言うと75以上ということになるのだろう。偏差値75というのは小中学校くらいだと学校で1番に相当する。クラスで1番でも学年で1番でもない。何年かに1人くらいのレベルで、一般人の場合、これまで出会った中でもっとも勉強が良くできる人物となるだろう。
そのくらいの成績だと、通常のテストでは正確に学力を測定することができなくなる。定期テストだと、軒並み90点以上。5科目合計で480点前後と推定される。間違いの多くは、書き間違い、読み間違い、計算ミス、勘違いであり、運の要素が強くなる。得点アップは難しいが、逆に10点20点ダウンしても席次には関係ない。偏差値は出てくるけれど、統計量が足りないので信頼性が全くない。
このくらいのレベルになると、ミスが我慢ならなくて徹底的に勉強をするか、頑張っても頑張らなくてもあんまり変わらないので勉強に興味をなくすか、の二択になる。僕の知る東大出身者の多くは前者だ。彼らは95点からさらに努力し、100点を目指す。95点を100点にする努力は70点を80点にする努力(うちの学生たちの勤勉さ)の何十倍にも及ぶ。普通の人から見ると、頭がおかしいくらいの勤勉さだ。そういう努力を続けられる人が東大に入るのだと思う。

東大出身者を無敵に思うかもしれないが、そもそもそんなに勉強して100点を目指すことにどれほどの意義があるだろう。勉強はできるかもしれないが、ちょっと頭のねじが緩んでいる印象がある。それが「愚直」という表現につながる。
ある目標があって、それを達成するには膨大な作業が必要だと判明したとき、努力と根性で作業を続け目標達成するという戦略を選択するのが、東大出身者の傾向で、それは彼らの受験勉強の戦略そのものだ。
彼らは、受験勉強での成功体験によって、努力と根性で何でもなんとかなる、と信じているようだ。勝てないことで有名な東大野球部に元巨人の桑田真澄氏がコーチングしたことがNHKで取り上げられたことがある。東大のピッチャーは1日12時間以上練習し、あらゆる球種を投げていたと紹介された。これこそ、東大生の愚直さである。人智を越えたスポ根を続けることができてしまうのが東大生だ。
同じことが科学研究にも言える。東大出身者の研究は、お金や人をかけたものが多い。あるいは、超人的な努力(能力ではない)に立脚したも多い。逆に、知恵を絞ってひねりを入れた研究は不得意のようだ。研究では最終的な目標がわかりやすいものも多い。そういう研究目標は多くの人が取り組んでいるにもかかわらず、達成できていないという状況にある。目標達成できない理由は様々だが、人・モノ・金だったり、作業量だったりする。そういう状況の時、迷わず人・モノ・金や、超人的作業量を選択する傾向が東大出身者に見られる。
すこし前の例になるが、ヒトゲノム計画が理研の主導で実施された。理研はおおむね東大の外研のような感じになっており、理研の研究室のプロジェクトリーダーの多くは東大教授の兼務だ。ご存知のようにヒトゲノム計画では人海戦術のアプローチがとられた。国際的な研究プロジェクトだったが、日本の進捗は芳しくなかった。そうこうしているうちにセレラジェノミクス社に先を越された。セレラ社は人海戦術と並行して、ゲノム解析の自動化技術を推進し、国際プロジェクトチームの10倍もの効率を達成することにより、人的・資金的不利を覆した。自動化技術という選択肢は誰でも思いつくが、自動化しなくても努力と根性で何とかなるなら、努力と根性で何とかしようと考えるのが、東大的な秀才の思考パターンということだと僕は思っている。

僕は仕事柄いろんな企業の方と話をする機会があるんだけど、真面目で優秀だけど使えないというのが東大出身者の評判になっている。例えば、ある仕事を指示すると完璧にこなすんだけど、それを際限なくやり続けるとか、やり終わったらぼーっとしているとか、いう話を耳にする。あるいは、やり方をきっちり教えないといけないとか。こう書くと、まるでできの悪いロボットのようだ。全ての東大出身者が該当するわけでは決してないが、頭が良いはずなのに、知恵よりも努力と根性を選択する傾向があるように思う。

就活での壁

大学生にとって最大のイベントとなっているのが、就活だ。多くの学生はそのときはじめて自分の人材的価値を突きつけられる。真面目に大学に通っていた学生の評価はかなり厳しいことは広く知られている。かつてはバイトやボランティアの経験を重視したが、昨今はみんながそういうことをアピールするものだから、逆にそういうのがないと減点になるかもしれないという雰囲気がある。
企業がのぞむ人材にはいくつかのカテゴリーがある。現状の業務遂行に必要な人材はある程度必要だ。工員、事務員、末端の営業員、こうした業務は真面目にしっかりこなすことが肝要だ。特別の才能は不必要で、真面目に仕事をこなせればよい。当然、給与は相応のものとなる。一般の人が「働く」というイメージに近いので、多くの大学生はそのような職種に就くことを想定しているはずだ。ただ、業務内容にもよるが、大卒である必要はないものも多い。実のところ、そのような人材は比較的容易に調達できるので、わざわざ新卒採用する企業は多くないか、採用するとしても人数は少な目だ。むしろ、喫緊に人材補充が必要な場合を除くと、別枠で採用しておいて入社後の業務成績が芳しくなかった人を割り当てるという戦略をとる企業が多い。そのため、最初からそのような業務を目指す大学生は内定がもらえなくて最後まで余ってしまう。

ひとつの事業が永遠に利益を生むことは極めて稀で、大企業と言えども常に新しい試みを続けていかなければならない。新しい顧客、新しい商品、新しい技術などが常に求められている。そうした新しいことに対応するために、多くの人材が投入されている。それでも新しい何かは容易には見いだせないので、新しい人材を投入することで現状打開を試みる。だから企業は常に新卒を採用し、新陳代謝を目論みる。その場合、新卒採用された新入社員学生には、その会社に何らかの「化学反応」を起こすことが期待される。なので、企業は就職を希望する学生が「化学反応」を起こすポテンシャルを持つのかどうかを見極めようとする。特殊なバイトの経験は何か新しい要素を組織にもたらすかもしれないため、就職で有利に働く。ボランティアに参加する積極性は、現状を打開し新しい何かをもたらす可能性が高い。企業は常に多様性を求めているのだ。
そう考えると、単なる真面目・勤勉な人材は、新卒採用では不利になる。うちの学生たちは、ソニーやトヨタといった超一流の企業からは見向きもされない。東大出身者は期待値が高い分、就職後の評価が高くない。就職市場のミスマッチというような陳腐な言葉で片付けるのは正しくないと僕は思う。

多様性とは逆の教育システム

僕が今の大学に就職して強く感じたのは、講義の出席率が極めて高い、ということだった。僕は講義に出ないことを身上とする学生だったので、びっくりした。そうこうしているうちに、大学生にもっと勉強させろ、という通達を文部科学省が出した。そのため、休講がなくなり、ほとんどすべての講義で出欠確認するようになった。おかげで講義の出席率はさらに向上した。
さて、それによって大学生は勉強するようになったのか?答えは否だ。出欠確認を行うと出席率は向上するが、講義出席そのものが目的となり、講義内容の聴講や理解が目的から外れてゆくという一般的傾向がある。出席率は向上したが、試験成績はほとんど変化がなかった。そして、学習意欲が低下した。
文科省の通達前でさえ、学生たちは「講義さえ真面目に出て単位を取得すれば、卒業出来てバラ色の人生が待っている」と信じて疑わなかった。通達前は研究室での指導によって、そういう幻想を取り除くことができた。けれど通達後は、あまりに強く刷り込みが行われてしまっていて、研究室での修正が効かず、幻想抱いたまま卒業するようになってしまった。「講義さえ真面目に出て単位を取得すれば、卒業出来てバラ色の人生が待っている」というのは、画一的な人材であることを重視する価値観であり、企業が特別望む人材ではない。待っているのは、就活における不採用の嵐だ。「講義さえ真面目に出て・・・」は東大のような有名大学の学生にとってはある程度真実だ。でもそういう人は就職後の評価に苦しむことになる。真面目で得をするのは役人くらいで、だから文科省はそのような通達を出したのだと思ってしまうくらいだ。

「講義さえ真面目に出て・・・」は、大学生に限った話ではない。僕たちは多かれ少なかれ小学校からそれを叩き込まれている。高校生くらいになるとちょっと反発したものだが、今の高校では指定校推薦という制度があって、先生に反抗したり、授業への取り組み態度が悪いと、大学進学に深刻な悪影響がある仕組みなっている。高校生たちは見かけ上従順になり、文科省は大満足だろう。その成功体験を大学に適用しようとしたわけだ。ちなみに、高校生たちは見かけは従順になったが陰湿化し、スクールカーストやいじめの問題につながっている。大学進学を望まない生徒が大半を占める高校では、先生の統率が効かないため、「教育困難校」という問題につながっている。あるいは、先生に対する暴力が稀にニュースで取り上げられている。
極端に言えば、今の高校生は従順を強制されており、そのようなシステムに順応できた人だけが大学に進学できるということなる。彼らにしていれば、大学で最後の最後に従順じゃだめだよ、と言われても、話が違うじゃないか!となるだろう。以前は、大学では大きな自由が与えられて、従順なだけでは生き残れない環境が形成されていた。しかし、文科省の通達によってカリキュラムが厳密適用され、大学においてもカリキュラムに従順でないと卒業できなくなった。その結果、学生たちは従順以外の生き残り戦略を試す機会を失い、いきなり非従順を求められるビジネスの最前線に送られる。ルールが違うので、当然のように連戦連敗となる。

世間は多様な人材を欲しているのか?

そもそも、世間が多様な人材を真に欲しているかは疑わしい。「普通信仰」の記事でも指摘したが、突出した個性は時に不快感につながる場合がある。いや断定してもよい。突出した科学者や芸術家が変人だという例は枚挙にいとまがない。
組織の和を乱さず、多様性をもたらすというのは、相反する事象を同時に実現しようとするものかもしれない。組織の統一性と多様性を同居させることが不可能だと仮定したとき、世間はどちらを選択するだろう?世間というのが緩く結合した大きな組織だと仮定すると、短期的な利益を重視するなら統一性を選択するはずだ。いじめの問題というのは、ちょっとした非統一性を発端にしていることが多いことからも、それは一般的原理として採用してもよいと思う。つまり、組織として存続するためになんらかの共通の価値観が必要であるとするなら、それは多様性を排除する根拠になりうるということだ。
一方、人類の様々な進歩は多様性によってもたらされてきたという歴史的事実もある。ナポレオンとか信長とか、強烈な個性によって人類全体の運命が左右されてきた。英雄とか偉人と呼ばれる人々のことである。彼らは組織に埋没しなかったからこそ、顕著な業績を残してきたのだ。多くの平凡な役人は社会の維持管理に大きな貢献をしてきたにもかかわらず、歴史の教科書にその名が載らないけれど、それに異を唱える人はいないだろう。
科学や芸術の世界でも同様に傑出した業績は、その他大勢とは異なる一部の個性に依存するところが大きい。ニュートンやアインシュタインは誰でも知っている科学者であるが、同時代を生きた科学者たちとは一線を画すると僕たちは認識している。そして、そのような個性が世界を変革してきたと考えている。ニュートンやアインシュタインは生きているうちに評価された幸運な人々だが、業績の評価は死後ずっとあとになってなされることもある。例えば、ゴッホはかなり晩年になってからしか評価されなかったし、宮沢賢治も貧乏で有名だ。僕が敬愛するヘンリー・キャベンディッシュは裕福な貴族であったが、人嫌いの変人だった。キャベンディッシュの研究業績は死後にマックスウェルによって見出され同時代の科学者と比べて数十年先んじていることが判明した。それまでキャベンディッシュは科学者としては無名だった。天才は理解されない、と言うのは簡単だが、その根底には多様性を受け入れにくい人間社会の本質があると思う。

翻って、企業は自らの維持と発展のために多様性を取り込むべきだと考えているはずだ。個人の人生という尺度では、老いや死という終末が用意されているので、ピークを過ぎて事業縮小することは容認される。しかし、法人という不死の「人格」には、老いや死というものは既定路線ではない。そのため、時間経過に伴い事業縮小することは単純には容認されない。常に、学び、成長し、新陳代謝を続けることが求められる。その方法論として多様性は極めて重要だと位置付けられているはずだ。多様性を取り込むことによって、学びと成長が期待できるからだ。しかし、新陳代謝はどうなのだろう?
企業にとっての新陳代謝とは、若い人材を取り込み、年老いた人材を取り除くことだ。経験豊富な老社員を切り捨て、未熟な社員で置き換えると、短期的には必ず損である。しかし、老社員のパフォーマンスは必ず低下するものであり、そのような新陳代謝なくしては長期的な自己保全が不可能なのは自明だ。だからこそ、定年を設定し、一定数の社員を自動的に排除する仕組みが考え出された。

ここから、新陳代謝に関しては短期的不利益を甘受するという覚悟が見える。であるならば、同様の理由で多様性の取り込みによる短期的な不利益を甘受できるだろうか?これはとても難しい問題だ。多様性の価値についての評価法は実際のところ定まっていないからだ。
さて、通常業務の業績では劣るかもしれない多様性担当社員の給与はどのくらいが適性だろうか。日々の業務に不利益があるのだから、低く抑えるべきだという考え方がある。これは障碍者雇用促進法として制度化されている。一方、高く設定すべきだという考え方がある。カルロスゴーン氏などが典型例だ。多くの場合は、一般社員の50~80%程度の給与というのが常識になっているかもしれない。それは派遣社員制度だ。現在の派遣制度は、適切なスキルを持つ人々を安く雇って人件費を抑えようというものだ。広く浸透しているため、派遣社員が持つスキルが一般社員を凌駕することも少なくない。そういうスキルは組織にとっては多様性と考えてもよい。その場合には一般社員よりも高い給与を設定すべきだが、現実にはそんなことはありえない。現在の企業のありようを見ていると、多様性を尊重し取り込むということに対し、本気が見えないと言わざるを得ない。

「ゆとり」肯定論

多様性を尊重するというのは、今は亡きゆとり教育のスローガンだ。ゆとり教育が終了し、もう7年目だ。今の大学1年生は中学校から脱ゆとり世代となっている。中学校からということは本格的な勉強はすべて脱ゆとりということだ。だから、彼らは勉強が良くできる、かもしれない。僕が関わる学生たちはもうちょっと年齢が上の人たちが多いので、本当のところはまだわからない。でも、一つだけ確実に言える変化がある。それは、「元気がなくなった」ことだ。
ほんの数年前まで「完全ゆとり世代」だったが、そのころは講義中のレスポンスが良かったように思う。自由度のある課題に対して、多くの創意工夫がみられた。しかし、今年の新入生は、工夫よりも確実性を優先するようだ。「遊び」が少ない印象だ。
講義中もおおむね真面目で、自由度を与えたときのレスポンスに手ごたえが少ない気がする。僕はパソコンの習熟に関する講義を受け持っているが、明らかにパソコンに触れる機会が減っているようだ。以前はほぼすべての学生が高校でパソコン実習を経験していた。しかし、今の新入生の中にはパソコンに触れたことが無い人が10%程度存在した。これは10年前のレベルだ。脱ゆとりによって、勉強の比重が増し、勉強以外の体験が大きくそがれている可能性を示唆している。

ゆとり教育の多様性をはぐくむという理念は、十分ではなかっただろうけど一定程度の効果があったと僕は思っている。それを極端に改めてしまったため、ゆとり教育の良い面まで否定した格好になっていると思う。
今、脱ゆとりの揺り戻しが来ている。歴史教育では暗記要素の大幅減量が検討されている。あまりに極端な減量に対して批判が殺到しているが、傾向としては悪くはない。今のセンター試験の内容を見るとわかるが、あまりに暗記要素が多いのだ。それを改めるというのは正しい方向性だと思う。しかしながら、歴史などの社会科の内容に対する教育目的・重要性をきちんと議論してから取り掛かるべきだと思う。

ゆとり教育を受けてきた人たちは、先生に対する質問に物おじしない傾向があるように思う。わからなかったら気軽に先生に質問をするのだ。また、実験でうまくいかなかったら、すぐに助けを呼ぶし、手順がわからなかったらすぐにヘルプを求める。少し我慢が足りない気もするが、ホウ・レン・ソウの原則がすでに徹底されているとみることもできる。僕はホウ・レン・ソウが良いとは思っていないけど、一般社会ではホウ・レン・ソウはないよりあった方がよいとみなされている習慣であり、ゆとり教育ではそれが徹底されるような経験を経てきたということなんだと思っている。社会に役立つ人材育成という意味では、ゆとり教育は悪くなかったかもしれない。

僕は中学校や高校に行って主張授業を年に2回ほどおこなっている。以前は非常にレスポンスが良かったんだけど、最近はだんだんとおとなしくなっている。特に、都会の学校ほどレスポンスが悪い。
田舎の中学や高校というのは、非常に広い地域に1校しかない場合が多く、学校を選択する余地がない。そのため、勉強のできる子からできない子まで多様性に富む。その中で切磋琢磨して、たくましい人材が育っているように思う。ただし、試験成績の絶対値はどうしても不利になるかもしれない。一方、都会の中学・高校では選抜試験が実施され、優秀な生徒を集めている。その場合、どうしても人材が均質化する。選抜するということはそういうことだからだ。その結果、どうしても多様性は少なくなる。一方、勉強に関しては競争が激化する。元々そこそこ勉強ができる子の集団を選抜していると、平均値は必ず上昇する。本当にトップの一部を除き、選抜前と比較すると試験点数や偏差値は低下する。それが刺激になって競争が進む。それはある種の教育手法ではあるが、今の中学・高校教育では普段の勉強成績や態度が進学を大きく左右する。ちょっとでも悪目立ちすると不利になるのだ。そのような中では個性を押し殺して集団に埋没したほうが安定した成績を得られる。中学・高校の先生方は個性尊重を意識しているとは思うが、システムが個性を殺すようにできている。
そのような教育を生き抜かなければならなかったため、学生は極めて従順で没個性という生存戦略を選択していると僕は見ている。

まとめ

うちの大学の学生の真面目さ、東大出身者のクレージーなストイックさなどから、置かれた立場や教育環境によって、形成される人格に少なからず影響があると僕は思っています。特に中学校や高校での教育環境はとても大事だと思います。まさに、「孟母三遷の教え」です。そうして形成された人格は一生引きずることになります。こちらはまさに「三つ子の魂、百まで」です。だからこそ、教育は大事だと思うのです。
ほとんどの場合、真面目さ・勤勉さは美徳です。しかしながら、組織の永続性を考えたとき新陳代謝をもたらす多様性は必須であり、組織の上層では特にそれが大事とされています。それなのに日本の会社は旧態然として従順さを優先するような気がしています。それは多様性を尊重するという建前とは真逆な気がします。学生たちの就職状況からそれを強く感じます。
国策として多様な人材育成を推進するというスローガンが掲げられており、その方策の一つがゆとり教育でした。ゆとり教育は廃止されましたが、一定程度の成果があったと思います。その成果がきちんとした評価を得るまでまだ20年かかるにもかかわらず、朝令暮改で脱ゆとりに舵が切られました。多様性尊重の建前とは裏腹に、あらゆる事象が多様性軽視の方向性を示しているように思えてなりません。

2018年1月7日日曜日

西川式微分方程式2章


級数展開


微分方程式で複数の基本解が得られたとして、それらの基本解の一次結合も解になるということは1章で述べました。ある一連の関数がその微分方程式をうまく満たす場合、その一連の関数からなる一次結合すなわち級数は、その微分方程式の解になります。その一連の関数からなる級数が完全直交性という特別な性質を満たすとき、その微分方程式を解く作業は、その級数の係数を決定する作業に帰着します。
で、数学者は千年以上もかけて、そのような一連の関数を模索してきました。我々はその恩恵を受けることで、一般解とは何者か、どのように一般解を選べばよいのか、1章で見てきたやり方ですべての解を網羅できているのか、という疑問に対する答えが得られます。

級数展開を微分方程式に応用してみる

一番なじみのある級数展開はTaylor展開でしょう。
\begin{equation}f\left(x\right)=f\left(a\right)+f\prime\left(a\right)\left(x-a\right)+f\prime\prime\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^2}{2!}+f\prime\prime\prime\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^3}{3!}+\cdots\cdots\label{taylor}\end{equation}

ですね。Maclaurin (マクローリン)展開は、$a=0$の特別な場合を言います。一連の関数としては、$\frac{\left(x-a\right)^n}{n!}$であり、その係数が$f^{(n)}\left(a\right)$になるという風にこの式を理解しましょう。ちなみに、式が出てきたとき、その式の意味をじっくり読みとるというのはとても大事な技術で、習慣にするとよいと思います。
このように、何らかの一連の関数で、与えられた関数(ここでは$f\left(x\right)$)を書きなおすことを、級数展開と呼びます。Taylor展開では、無限の次数まで集めると、近似ではなくなります。すなわち、$f\left(x\right)$を($\ref{taylor}$)式で置きかえることができます。そこで、$f\left(x\right)$の微分を考えます。
\begin{equation}\frac{d}{dx}f\left(x\right)=\frac{d}{dx}f\left(a\right)+\frac{d}{dx}f^\prime\left(a\right)\left(x-a\right)+\frac{d}{dx}f^{\prime\prime}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^2}{2!}+\cdots+\frac{d}{dx}f^{\left(n\right)}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^n}{n!}+\cdots \\
 =0+f^\prime\left(a\right)+f^{\prime\prime}\left(a\right)\left(x-a\right)+\cdots+f^{\left(n\right)}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^{n-1}}{\left(n-1\right)!}+\cdots\end{equation}
となります。ついでにn次微分まで考えてやります。
\begin{equation}\frac{d^m}{{dx}^m}f\left(x\right)=f^{\left(m\right)}\left(a\right)+\sum_{n=m+1}^{\infty}{f^{\left(n\right)}\left(a\right)\frac{\left(x-a\right)^{n-m}}{\left(n-m\right)!}}\end{equation}
となります。で、懐かしの例題1を考えると、
\begin{equation}\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=f\prime\prime\left(0\right)+\sum_{n=m+1}^{\infty}{f^{\left(n\right)}\left(0\right)\frac{x^{n-2}}{\left(n-2\right)!}}=-a^2\left\{f\left(0\right)+\sum_{n=1}^{\infty}{f^{\left(n\right)}\left(0\right)\frac{x^n}{n!}}\right\}\end{equation}
となります。係数を比較してやって、
\begin{equation}f^{\prime\prime}\left(0\right)=-a^2f\left(0\right)\\
f^{\prime\prime\prime}\left(0\right)=-a^2f\prime\left(0\right)\\
f^{(4)}\left(0\right)=-a^2f\prime\prime\left(0\right)\\
f^{(n)}\left(0\right)=-a^2f^{(n-2)}\left(0\right) \label{taylorsolution}\end{equation}
となります。全然解けていませんが、Tayler展開はあらゆる関数に適用できるので、ここまでの式変形に問題はありません。たまたま、すべてのnについて$f^{(n)}\left(0\right)=-a^2f^{(n-2)}\left(0\right)$を満たすような関数があれば、めでたく解けたことになるでしょう。

ここでの教訓は、任意の関数は級数展開できるということと、級数展開するときに用いる関数系は与えられているので、微分などの計算が実施可能である、ということです。Taylor展開やMaclaurin展開は例題1を解くまでには至りませんでしたが、計算を進めることはできました。

級数展開できる関数系

数学公式集という本があって、難しい数式がたくさん載っているのですが、その中に特殊関数とかの章があり、いろんな級数展開が紹介されています。世の中にはたくさんの級数展開が存在するのです。前節で示したように、与えられた関数に対して、ある条件は課せられることはありますが、いつでも展開できるというのが級数展開の便利さです。そのような級数展開が複数存在するということは、一つの与えられた関数に対して、複数種類の級数展開を考えることができる、ということを意味します。どのような級数展開を使用するのかは、僕たち自身で決めることができます。

少し難しいところで、Bessel(ベッセル)関数を用いたBessel級数展開の話をしたいと思います。ここでは、Bessel関数の中身に対しては立ち入りません。直交性という性質を持ち、級数展開できる、難しいBessel関数というのがあるという紹介です。

Bessel関数は次の微分方程式の一般解として与えられます。
\begin{equation}x^2\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)+x\frac{d}{dx}f\left(x\right)+\left(x^2-a^2\right)f\left(x\right)=0\end{equation}
全然わけわかりません。いろんな説明がありますが、工学的に重要なのは、第一種のBessel関数、いわゆるJ関数と呼ばれるもので、次のようなものです。
\begin{equation}J_n\left(x\right)=\left(\frac{x}{n}\right)^n\sum_{m=0}^{\infty}\frac{\left(-1\right)^m}{m!\mathrm{\Gamma}\left(m+n+1\right)}\left(\frac{x}{2}\right)^{2m}\end{equation}
Γ関数が使われていますが、いわゆるビックリマークとほぼ同じ意味です。ただし、非整数の場合にも定義されています。nは普通は整数なのですが、半整数の場合も考えられてその場合は、球Bessel関数と呼ばれます。その話は別の機会に。
nはいわゆる次数です。Bessel関数の元の微分方程式を変形してやると、
\begin{equation}\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=-\frac{1}{x}\frac{d}{dx}f\left(x\right)-\left(1-\frac{a^2}{x^2}\right)f\left(x\right)\end{equation}
これは0次微分と1次微分がわかっていれば、2次微分が求まるよ、という意味の数式です。すると、1次微分と2次微分がわかりますから、次のように3次微分が得られます。
\begin{equation}\frac{d^3}{{dx}^3}f\left(x\right)=-\frac{1}{x}\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)-\left(1-\frac{a^2}{x^2}\right)\frac{d}{dx}f\left(x\right)\end{equation}
同様に、次のような漸化式が得られます。
\begin{equation}\frac{d^n}{{dx}^n}f\left(x\right)=-\frac{1}{x}\frac{d^{n-1}}{{dx}^{n-1}}f\left(x\right)-\left(1-\frac{a^2}{x^2}\right)\frac{d^{n-2}}{{dx}^{n-2}}f\left(x\right)\end{equation}
そうやって求めたものが、$J_n\left(x\right)$というわけです。
ベッセル関数には、次のような直交性と呼ばれる性質があります。
\begin{equation}\int_{a}^{b}{J_n\left(r\right)J_m\left(r\right)rdr}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\frac{b^2}{2}\left\{J_n\left(b\right)\right\}^2&if\ n=m\cr}\right.\end{equation}
ただし、nとmは0以上の整数とします。$rdr$という積分素は$r$が円の半径であるような図形の積分で頻繁に現れます。これを以て、Bessel関数は円筒座標系でうまく記述できるような現象でしばしば使用されます。
こういう直交性があるということは、後述するように級数展開に使用できるよ、ということを意味します。特にBessel関数は、円筒座標や2次元の極座標において、半径方向に級数展開するときに適した関数です。ここでは説明しませんが、nは円周方向の分割数を表しており、これを以て、2次元空間全体を級数展開することができます。

Bessel関数に限らず、特殊関数と呼ばれているものはその根底に微分方程式があり、その微分方程式は微分に関する漸化式と見ることができます。その漸化式を解くことによって、一連の関数を定義することができます。その一連の関数には、それぞれに直交性があります。それ故、級数展開することができます。特殊関数は元々の微分方程式の一般解なので、その微分方程式が持つすべての可能性を網羅しています。なので、特殊関数の級数を考えて、その係数を一意に決定できれば、その微分方程式を解くことになります。数学者はそういう性質を持つ関数群を注意深く探してきました。ここで述べた特殊関数の性質を証明するのはプロの数学者の仕事です。数学は世の中で最も信頼のおける学問ですから、僕らは数学者の仕事を信じて前に進むことができます。

直交性の概念の拡張

一般論として、直交性という性質があれば級数展開できるのですが、ちゃんと直交性を説明していないので、よくわからないと思います。そのあたりの説明を詳しく行います。

直交というのは、「直角に交わっていること」ですので、直交性とは「直角に交わるという性質を持つこと」というのが直接の言葉の意味です。ところが、数学では意味が拡張されて使われます。すなわち、「図形的に直交しているかどうか」ではなく、直交という言葉が元々意味していた「直角に交わっている」という状態を数学で再定義し、再定義された式などに形式的に従うものをすべて直交と呼ぶ傾向にあります。この傾向は直交という言葉に関してだけでなく、他の多くの数学用語に共通します。数学を学ぶ上で障害となるのは、こうした言葉の定義が十分に説明されないことだと思います。

まず、直角に交わっているということを数学で定義しましょう。小学校レベルでは、図形に三角定規の直角部分をあてて、図形の線が沿っていれば、直角と習います。次に直角というのは線が交差していてもよいと習いました。もう少し進むと、三角定規ではなくて分度器をあてて角度を読み、90度であれば、直角であると定義されました。中学校ぐらいから、直交という語が導入されるかもしれませんが、定義自身は変わりません。高校になると、ベクトルが導入され、ベクトルを用いて、
\begin{equation}\vec{a}\bullet\vec{b}=0\end{equation}
と、内積が0になることで、直交を定義しました。ここで初めて式として直交を記述することができたことが、とても重要です。数学にとっては厳密さが重要ですので、式のようなあからさまな形式で、簡潔に記述できると、とても重宝します。ですので、むしろ、ベクトルで定義された直交を、根本的な定義としてよいだろう、とします。

さらに掘り下げて、$\vec{a}\bullet\vec{b}=0$の式が意味するところを考えます。ベクトルというのは厳密にいうと普通の数ではありません。足し算や引き算は定義されますが、掛け算はちょっとあいまいです。その掛け算の一つとして僕たちは内積を良く用います。厳密に言うと内積は掛け算ではありません。掛け算とは、二つの数を「掛けて」一つの数が出てくる操作です。かけられる「数」と答えの「数」は同じ性質をもつものを想定しています。「食べ物」と「食べ物」を掛け合わせても、とりあえずは「食べ物」として成立する、というようなニュアンスです。数学者は「積」の計算方法は「数」の種類に応じて変化するけど、「積」とみなせる計算方法の、共通の性質を大事にしようとします。なので、かけられる「数」と答えの「数」が同じ種類の「数」でなければ、それは「積」といえないのです。また、「積」には、「和」と区別される重要な性質が必要とされますが、その話は、ここでは必要ないので、興味があったら調べてね。
そのように考えると、内積の場合は、かけられる2つの「数」がベクトルで、答えは普通の「数」です。入力と出力が異なるので、「積」とは微妙に性質的に異なるのです。なので、内積は、「積」とは区別されます。もっと言えば、「内積」は「単純な数字ではないもの」同士の演算によって、数字を1個得る、という特別な操作である、ともみなせます。だから、2つのベクトルから数を一個作り出す操作という類型に合致しているから、それを「内積」と呼ぶことにしよう、と考えます。定義→概念ではなくて、概念→定義で考えるということです。そのような主客逆転を自由に行うことこそが数学の極意だと僕は思います。その「内積」の分類を一般化して、2つの「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」から数字を一個作り出す操作を内積と考えることにするのです。

そうして一般化された内積を考えた時に、結果として得られる数が0になるとき、元々の2つの「何か」が直交していると、考えます。まとめると、2つの「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」から数字を一個作り出し、その数字が0になるとき、元々の2つは直交している、ということになります。「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」というのはかなり制約が緩いですし、内積の定義には全く触れていません。ですから、直交という概念はかなり広くなりました。こうして拡張された直交の概念を関数に適用したものが、これから説明する直交性です。

関数における直交と級数展開

バレバレの展開ですが、関数は「数ではないけど、足し算と引き算が定義されているもの」に該当します。直交とは、内積が0であることと定義されたので、まず、内積を定義しないといけません。そのために、関数とベクトルの対応関係について見ていきます。

関数というのは、$f\left(x\right)$のように書かれ、任意のxに対して値が一つ定まるものです。グラフで書くと、横軸にxを取り、縦軸に$f\left(x\right)$をとると、線が一本描かれます。線は上下に波打つものの、x軸方向には、戻ったりしません。

そのグラフを細かな棒グラフで表すことにします。とりあえずx軸方向に等間隔に刻んで、それぞれのxに対して棒を立てます。十分に細かく刻むと、関数$f\left(x\right)$をほぼ再現できます。x軸方向の刻み点を数字の列$\left\{x_i\right\}$として表します。すると棒グラフの高さは、$\left\{f\left(x_i\right)\right\}$とあらわせます。結局数字の列なので、大胆に、$\left\{f_i\right\}$とあらわすことにしましょう。刻み幅を無限に小さくとれば、数列$\left\{f_i\right\}$は関数$f\left(x\right)$に一致するでしょう。


図2-1 連続関数$f(x)$と数列$\left\{f_i\right\}$の関係

数列$\left\{f_i\right\}$の要素数はべらぼうに多いですが、数字が並んでいるという点では次元がべらぼうに大きなベクトルと変わりありません。なので、数列$\left\{f_i\right\}$をベクトル$\left\{f_i\right\}$と読みかえることにしましょう。同じように関数$g\left(x\right)$から作ったベクトル$\left\{g_i\right\}$を持ってくると、足し算や引き算が次のように定義できます。
\begin{equation}f\left(x\right)+g\left(x\right)=\left\{f_i\right\}+\left\{g_i\right\}=\left\{f_i+g_i\right\}\end{equation}
\begin{equation}f\left(x\right)-g\left(x\right)=\left\{f_i\right\}-\left\{g_i\right\}=\left\{f_i-g_i\right\}\end{equation}
ポイントは、暗黙の了解として、x軸方向の刻みベクトル$\left\{x_i\right\}$を共通に用いることです。

関数$f\left(x\right)$の横軸の刻み幅を無限小にして数列$\left\{f_i\right\}$を作り、ベクトルとの類似を指摘するという考え方は、量子力学の議論の中で発明された数学です。量子力学では、関数とベクトルの本質的な類似に基づいて、行列を使ったハミルトニアンの表示とか、波動関数をブラとケットのベクトルで表すディラック形式などでの議論が展開されます。現時点では関数に対して内積を定義するだけですが、後で線形結合についても類似性を指摘します。

関数がベクトルで表示できるとすると、掛け算のようだけど数が一つ得られる演算である内積はほとんど自明なものとして定義できます。
\begin{equation}\left\{f_i\right\}\bullet\left\{g_i\right\}=\sum_{i}{f_ig_i}\end{equation}
この内積の表示を関数で考えると
\begin{equation}\left\{f_i\right\}\bullet\left\{g_i\right\}=C\int f\left(x\right)g\left(x\right)dx\end{equation}
となることがわかります。積分素$dx$は刻み幅です。ベクトル表示の値と対応させるために係数Cが必要になりますが、特に意味はありません。積分表示の場合、厳密には、内積とは呼びません。なので「内積のようなもの」と呼ぶことにします。

直交するとは、内積が0であること、でしたので、関数に対しても、内積のようなものが0になるとき、直交している、ということにします。すなわち、
\begin{equation}\left\{f_i\right\}\bullet\left\{g_i\right\}=C\int f\left(x\right)g\left(x\right)dx=0\end{equation}
です。今、内積のようなものが0かどうかだけが問題なので、Cは0以外なら何でも良い、ということです。

ここでは単純な積の積分として内積のようなものを考えましたが、積分の定義は特に決まっていません。先の例では不定積分のように書いていますが、実際には積分区間を設定しないと数字が定まりません(積分定数が残る)。また、Bessel関数のときのように$rdr$を積分素に使う場合もあります。

Sineとcosineでの検証

抽象的な議論ではピンとこないかもしれませんので、具体例で考えます。直交性を示す関数列で最も有名なものの一つは、 です。良く知られた性質ですが、自然数nとmに対して、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\sin{mx}dx}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\pi&if\ n=m\cr}\right.\end{equation}
となります。一応、ちゃんと計算しておきましょう。三角関数の加法定理によって、
\begin{equation}\cos{\left(nx+mx\right)}=\cos{nx}\cos{mx}-\sin{nx}\sin{mx}\end{equation}
\begin{equation}\cos{\left(nx-mx\right)}=\cos{nx}\cos{mx}+\sin{nx}\sin{mx}\end{equation}
となり、下式から上式を引くと、
\begin{equation}\cos{\left(nx-mx\right)}-\cos{\left(nx+mx\right)}=2\sin{nx}\sin{mx}\end{equation}
になります。ですので、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\sin{mx}dx}=\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\cos{\left(n-m\right)x}-\cos{\left(n+m\right)}x\right\}dx}\end{equation}
$\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\cos{\left(n+m\right)}x\right\}dx}$は$n+m$が0でないので、積分値は0になります。$\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\cos{\left(n-m\right)}x\right\}dx}$は$n-m$が0ときだけ、$\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}dx}$となり、積分値は$\pi$になります。

このように、系列を成す関数であって、同じ者同士以外の「内積」が0になる場合、直交関数系列と呼びます。$\sin{nx}$は最もよく知られた直交関数系列です。Bessel関数も直交定理がありますので、直交関数系列になっています。
$\sin{nx}$は少し特別で、同じように直交関数系列である$\cos{nx}$と組になって、さらに直交関数系列になっています。すなわち、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\cos{mx}dx}=0\ \ for\ all\ n\ and\ m\label{sincos}\end{equation}
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{\cos{nx}\cos{mx}dx}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\pi&if\ n=m\cr}\right.\end{equation}
ということです。($\ref{sincos}$)式だけ特別です。
$\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\cos{mx}dx}=\int_{0}^{2\pi}{\frac{1}{2}\left\{\sin{\left(n-m\right)x}-\sin{\left(n+m\right)}x\right\}dx}$から、$n-m=0$のとき、$\sin{\left(n-m\right)x}$は0になるので、値が残りません。

話が長くなるので、証明はしませんが、昔、フーリエという人が、あらゆる周期関数がsineとcosineの系列の和で記述され得るということを示しました。フーリエ級数展開と呼ばれる考え方です。これを数式で書くと、
\begin{equation}f\left(x\right)=a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{nx}+b_n\cos{nx}\right\}\label{fourieseries}\end{equation}
となります。ただし、周期を$2\pi$とします。先ほどから取り扱ってきた$\sin{nx}$と$\cos{nx}$の一次結合になっています。ある周期関数$f\left(x\right)$が与えられたとして、このように書けるというのがわかっているなら、あとは、係数を決める方法が問題になります。このとき、$\sin{nx}$と$\cos{nx}$が直交系列になっているということがとても大事になります。

ある種の直感によって、$\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}$を計算することにしましょう。
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}=\int_{0}^{2\pi}{\left[a_0+\sum_{m=1}^{\infty}\left\{a_m\sin{mx}+b_m\cos{mx}\right\}\right]\sin{nx}dx}\\
=\int_{0}^{2\pi}{a_0\sin{nx}dx}+\int_{0}^{2\pi}{a_1\cos{x}\sin{nx}dx}+\int_{0}^{2\pi}{a_2\cos{2x}\sin{nx}dx}+\cdots\\
+\int_{0}^{2\pi}{b_1\sin{x}\sin{nx}dx}+\int_{0}^{2\pi}{b_2\sin{2x}\sin{nx}dx}+\cdots+\int_{0}^{2\pi}{b_n\sin{nx}\sin{nx}dx}+\cdots\end{equation}
cosineとsineの積の項は全部0でした。$\int_{0}^{2\pi}{\sin{nx}\sin{mx}dx}=\left\{\matrix{0&if\ n\neq m\cr\pi&if\ n=m\cr}\right.$でしたので、$b_n$の項だけ残って、
\begin{equation}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}=\pi b_n\label{bn}\end{equation}
となります。ここから、$b_n$を決定したければ、$f\left(x\right)$に$\sin{nx}$を掛けて積分し、$\pi$で割ればよい、ということが分かります。$a_0$だけは特別で、
\begin{equation}a_0=\frac{1}{2\pi}\int_{0}^{2\pi}f\left(x\right)dx\label{a0}\end{equation}
となります。


三角波のフーリエ級数展開


あらゆる周期関数が($\ref{fourieseries}$)式のように表せるということを具体例で考えましょう。ふつうの関数では表わしにくい周期関数として三角波を考えてみます。式で書くと以下のようになります。
\begin{equation}
f\left(x\right)=\left\{\matrix{\frac{1}{\pi}x&if\ 0\le x \lt \pi \cr 2 - \frac{1}{\pi}x&if\ \pi\le x \lt 2 \pi \cr } \right.
\end{equation}


図2-2 三角波

簡単のために1周期だけ示してあります。この式をフーリエ級数展開してみましょう。
まずは、($\ref{a0}$)式に従って、定数項を計算します。
\begin{equation}
a_0=\frac{1}{2\pi}\int_{0}^{2\pi}f\left(x\right)dx
=\frac{1}{2\pi}\int_{0}^{\pi}\frac{1}{\pi}xdx+\frac{1}{2\pi}\int_{\pi}^{2\pi}\left(2-\frac{1}{\pi}x\right)dx \\
=\frac{1}{2\pi}\left[\frac{x^2}{2\pi}\right]_0^\pi+\frac{1}{2\pi}\left[2x-\frac{x^2}{2\pi}\right]_\pi^{2\pi}\\
=\frac{\pi^2}{4\pi^2}+\frac{2\left(2\pi-\pi\right)}{2\pi}-\frac{4\pi^2-\pi^2}{4\pi^2}=\frac{1}{4}+1-\frac{3}{4}=\frac{1}{2}
\end{equation}
実は、$\sin{nx}$の項の計算の方が簡単なので、先に$b_n$の項、($\ref{bn}$)式を適用します。
\begin{equation}
b_n=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\sin{nx}dx}=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\sin{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\left(2-\frac{1}{\pi}x\right)\sin{nx}dx}=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\sin{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{2\sin{nx}dx}-\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\frac{1}{\pi}x\sin{nx}dx}
\end{equation}
ここで、難しいところだけ、先に計算してしまいましょう。部分積分のテクニックを使います。
\begin{equation}
\int{x\sin{nx}dx}=-\left[\frac{x}{n}\cos{nx}\right]+\int{\frac{1}{n}\cos{nx}dx}=\left[-\frac{x}{n}\cos{nx}+\frac{1}{n^2}\sin{nx}\right]
\end{equation}
なので、
\begin{equation} b_n=\frac{1}{\pi^2}\left[-\frac{x}{n}\cos{nx}+\frac{1}{n^2}\sin{nx}\right]_0^\pi -\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{2}{n}\cos{nx}\right]_\pi^{2\pi} -\frac{1}{\pi^2}\left[-\frac{x}{n}\cos{nx}+\frac{1}{n^2}\sin{nx}\right]_\pi^{2\pi} =-\frac{x}{n\pi^2}(\cos{n\pi}-1)+\frac{x}{n\pi^2}(1-\cos{n\pi})=0\label{tribn} \end{equation}
($\ref{tribn}$)式では1行目に現れる$\sin{nx}$の項はすべて0、中央の項も0です。残りの項も0になります。実は、周期関数$f\left(x\right)$はy軸対称になるので、偶関数です。なので、奇関数であるsineとの積は奇関数となり、$b_n$は自動的に0になるのでした。
最後に$a_n$です。
\begin{equation}
a_n=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{2\pi}{f\left(x\right)\cos{nx}dx}=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\cos{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\left(2-\frac{1}{\pi}x\right)\cos{nx}dx}\\
=\frac{1}{\pi}\int_{0}^{\pi}{\frac{1}{\pi}x\cos{nx}dx}+\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{2\cos{nx}dx}-\frac{1}{\pi}\int_{\pi}^{2\pi}{\frac{1}{\pi}x\cos{nx}dx}
\end{equation}
ここで、$\int{x\cos{nx}dx}$は奇関数の積分です。多分、消えるのですが、まっとうに計算します。
\begin{equation}
\int{x\cos{nx}dx}=\left[\frac{x}{n}\sin{nx}\right]-\int{\frac{1}{n}\sin{nx}dx=}\left[\frac{x}{n}\sin{nx}+\frac{1}{n^2}\cos{nx}\right]
\end{equation}
より、
\begin{equation}
a_n=\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{x}{n}\sin{nx}+\frac{1}{n^2}\cos{nx}\right]_0^\pi-\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{2}{n}\sin{nx}\right]_\pi^{2\pi}-\frac{1}{\pi^2}\left[\frac{x}{n}\sin{nx}+\frac{1}{n^2}\cos{nx}\right]_\pi^{2\pi}=\frac{1}{n^2\pi^2}\left(\cos{n\pi}-1\ \right)-\frac{1}{n^2\pi^2}\left(1-\cos{n\pi}\right)=\frac{2}{n^2\pi^2}\left(\cos{n\pi}-1\ \right)
\end{equation}
これではよくわからないので、具体的に計算してみましょう。
\begin{equation}
a_1=\frac{2}{1^2\pi^2}\left(\cos{1\pi}-1\ \right)=\frac{2}{\pi^2}\left(-1-1\ \right)=-\frac{4}{\pi^2}
\end{equation}
\begin{equation}
a_2=\frac{2}{2^2\pi^2}\left(\cos{2\pi}-1\ \right)=\frac{2}{\pi^2}\left(1-1\ \right)=0
\end{equation}
\begin{equation}
a_3=\frac{2}{3^2\pi^2}\left(\cos{3\pi}-1\ \right)=\frac{2}{9\pi^2}\left(-1-1\ \right)=-\frac{4}{{9\pi}^2}
\end{equation}
\begin{equation}
a_4=\frac{2}{4^2\pi^2}\left(\cos{4\pi}-1\ \right)=\frac{2}{{16\pi}^2}\left(1-1\ \right)=0
\end{equation}
すなわち、$n$が偶数のとき$a_n=0$で、奇数のとき、$a_n=-\frac{4}{n^2\pi^2}$です。これをまとめると、
\begin{equation}
f\left(x\right)=\frac{1}{2}-\sum_{n=odd}^{\infty}{\frac{4}{n^2\pi^2}\cos{nx}}=\frac{1}{2}-\sum_{n=1}^{\infty}{\frac{4}{\left(2n-1\right)^2\pi^2}\cos{\left(2n-1\right)x}}
\end{equation}
となります。

級数展開の一般論

フーリエ級数展開において、重要だったのは関数$f\left(x\right)$がフーリエ級数で展開できるという前提条件と、級数の項である$\sin{nx}$と$\cos{nx}$が直交系列になっているということでした。「フーリエ級数展開が可能」とはフーリエ級数で$f\left(x\right)$が再現できるという確証があるということです。その確証を示すのはちょっと難しいのですが、数学者が証明しているので、信じてよいでしょう。フーリエ級数のように、あらゆる関数が級数展開で再現できるような直交関数系列のことを完全直交関数系とよびます。
$\sin{nx}$と$\cos{nx}$では自分自身との積分が1になりませんでしたので、πの係数がありましたが、最初から$\frac{1}{\sqrt\pi}\sin{nx}と\frac{1}{\sqrt\pi}\cos{nx}$ にしておけば、係数は必要ありません。そのような係数の調整を行ったものを「正規」と呼ぶこともあります。ある関数系列$\phi_n\left(x\right)$ が与えられて、正規完全直交系になっているとします。つまり、
\begin{equation}
\int{\phi_n\left(x\right)\phi_m\left(x\right)dx=\left\{\matrix{1&if\ n=m\cr 0&if\ n\neq m\cr}\right.}
\end{equation}
であって、関数 が
\begin{equation}
f\left(x\right)=\sum_{n=1}^{\infty}{{C_n\phi}_n\left(x\right)}
\end{equation}
のように展開でき、そのときの係数は、
\begin{equation}
C_n=\int{f\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}
\end{equation}
で与えられるということです。なぜなら、
\begin{equation}
\int{f\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}=\int{\left[\sum_{m=1}^{\infty}{{C_m\phi}_m\left(x\right)}\right]\phi_n\left(x\right)dx}=\sum_{m=1}^{\infty}{C_m\int{\ \phi_m\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}}\\
=C_1\int{\ \phi_1\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}+C_2\int{\ \phi_2\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}+\cdots+C_n\int{\ \phi_n\left(x\right)\phi_n\left(x\right)dx}+\cdots
=C_n
\end{equation}
となるからです。
内積に相当する積分の定義は、関数系によって異なりますが、一般論として、完全直交系であれば、級数展開に用いることができます。

先に紹介したBessel関数も完全直交系になっています。なので、Bessel関数を級数展開に用いることができます。Bessel関数でも触れましたが、級数展開できる関数系列には元となる微分方程式が存在します。その微分方程式は、関数系列の漸化式として用いることができるので、無限の項ができます。無限の項を用いれば、どんな関数でも級数展開することができます。

級数展開を一般解にする

完全直交系の関数列があると、「条件に合うすべての関数」を級数の形で書き表すことができます。これを微分方程式に代入し係数の条件を決めるということは、「条件に合うすべての関数」の中から微分方程式を満たすものを選び出すという作業にほかなりません。つまり、「条件に合うすべての関数」という制約はあるものの、僕たちがイメージする「微分方程式を解く作業」そのものなわけです。 最もなじみ深い級数展開であるフーリエ級数を用いて具体例を示したいと思いますが、($\ref{fourieseries}$)式のフーリエ級数は周期が$2\pi$に限定していたので、周期を$L$に拡張したいと思います。とは言うものの、簡単です。
\begin{equation}
f\left(x\right)=a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\label{FSL}\right\}
\end{equation}
これを懐かしの1章の例題1、$\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=-a^2f\left(x\right)$、に代入してみます。
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=\frac{d^2}{{dx}^2}\left[a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\right\}\right]=-\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\left(\frac{2\pi n}{L}\right)^2\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\left(\frac{2\pi n}{L}\right)^2\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\right\}=-a^2\left[a_0+\sum_{n=1}^{\infty}\left\{a_n\sin{\frac{2\pi n x}{L}}+b_n\cos{\frac{2\pi n x}{L}}\right\}\right]
\end{equation}
係数を比べると、
\begin{equation}
\left(\frac{2\pi n}{L}\right)^2=a^2
\label{2-46}
\end{equation}
であることがわかります。係数が消えて、周期に関する条件になりました。また、($\ref{2-46}$)式に$n$が含まれていることから単に周期に関する条件ではなくて、特定の項だけが選択されることになります。つまり、周期の選び方にかかわらず、級数ではなくて、$\frac{2\pi n}{L}=\pm a$を満たす項だけが解である、ということです。こんなことになるのは、sineやcosineの特別な性質です。本来ならば、(\ref{taylorsolution})式のように条件が延々と続くのですが、sineやcosineは微分を行っても項の基本的な形が変化しないので、級数の項が簡単に整理できるのです。
級数の項が整理できるかどうかは保証されませんが、このようなテクニックはすべての級数で使えます。そして、我々が良く知る$C\sin{\omega x}$や$C\cos{\omega x}$といった一般解は、($\ref{FSL}$)式で行った計算法の省略版なのです。
sineやcosineは微分しても級数の次数が変化しないという特別な性質があります。なので、級数のすべての項を考える必要はなく、一般化した$C\sin{\omega x}$や$C\cos{\omega x}$という項を調べるだけで充分だというのです。つまり、どうせ$\frac{2\pi n}{L}$の条件を見つける作業になるのだから、$\frac{2\pi n}{L}=\omega$と置いてやれば、全部の項を調べたことと同じだということです。
もちろんこれはフーリエ級数の特徴であり、フーリエ級数に関係のない関数を使った場合にはうまくいきません。例えば、$C\tan{\omega x}$とか$ C\log{\tau x}$なんて関数は一般解として使えないということがこれで説明できます。
僕たちが知っている微分方程式の解法はフーリエ級数を一般解に用いた場合の省略形だったということがこれでわかりました。フーリエ級数を一般解に用いると、すべての周期関数について網羅的に調べることができます。逆に、周期関数以外の場合に「もれ」がある可能性を否定できません。しかしながら、周期が不定なので、実質的にほとんどの関数をカバーでき、実質上問題になることはありません。

エルミート多項式による解法

さて、フーリエ級数以外を用いて微分方程式を解いてみましょう。ほとんどの級数の微分は複雑で扱いが大変なのですが、比較的簡単なものにエルミート多項式があります。
エルミート多項式は、次式の微分方程式の解として与えられます。
\begin{equation}
\left(\frac{d^2}{{dx}^2}-2x\frac{d}{dx}+2n\right)H_n\left(x\right)=0
\end{equation}
ちょと複雑ですが、次式のように表されます。
\begin{equation}
H_n\left(x\right) =n!\sum_{m=0}^{\left\lfloor n/2\right\rfloor}\frac{\left(-1\right)^m\left(2x\right)^{n-2m}}{m!\left(n-2m\right)!}
\end{equation}
ただし、
\begin{equation}
\left\lfloor\frac{n}{2}\right\rfloor=\left\{\matrix{\frac{n}{2}&n:even\cr\frac{n-1}{2}&n:odd\cr}\right.
\end{equation}
エルミート多項式にはいくつかの公式があるのですが、とっても便利なのが、次式です。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}H_n\left(x\right)=2nH_{n-1}\left(x\right)
\end{equation}
これを使って例題1を変形していきます。
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}\sum_{n}{C_nH_n\left(x\right)}
=\sum_{n}{C_n\frac{d}{dx}2nH_{n-1}\left(x\right)}\\
=\sum_{n}{4n(n-1)C_nH_{n-2}\left(x\right)}
=-a^2\sum_{n}{C_nH_n\left(x\right)}
\end{equation}
これを$H_{n-2}\left(x\right)$で整理すると、次式を得ます。
\begin{equation}
4n(n-1)C_nH_{n-2}\left(x\right)=-a^2C_{n-2}H_{n-2}\left(x\right)
\end{equation}
あるいは、$H_n\left(x\right)$の係数を取り出して
\begin{equation}
4n(n+1)C_{n+2}=-a^2C_n\left(x\right)
\end{equation}
この式は漸化式になっているので、境界条件に応じた係数$C_n$を低次から順に決めることができます。少し複雑になっていて、漸化式を永遠に追跡しないといけないですが、どうにかこうにか微分方程式を解くことができます。フーリエ級数を用いた場合に比べて手間も労力もかかりますが、解けることは解けます。エルミート多項式を用いる場合は、まだまだ楽な方です。別の級数を用いると、係数が発散して、見通しがとても悪くなります。でも原理的にはあらゆる級数で同じ方法を用いて微分方程式を解くことができます。

一般にはこうした方法を使わないわけですが、それには理由があります。それは苦労して得た式は、楽な方法で得た式と実質的に同じであることが理由です。

級数関数と微分方程式

エルミート多項式を用いた解法で重要な役割を果たしたのは、元になる微分方程式があることです。元になった微分方程式と解きたい微分方程式の形が似ている場合は、チャンスです。その級数展開が利用できる可能性が高くなります。そして、それこそが数学者が千年をかけて微分方程式を研究してきた理由といえます。一般に、常微分方程式の完全な解は級数展開の形で与えられ、完全直交系になります。そして、級数展開はそれぞれの項が1次独立で、級数展開はそれらが線形結合したものです。それぞれの項の係数は、独立に決められるので、各項を次元に見立てることができます。この性質を持って、微分方程式の解となる級数展開のことを、「微分方程式が張る空間」と呼びます。級数展開にいろんな条件がある場合があります。フーリエ級数展開では、周期関数という条件があります。ベッセル関数展開では、系が極座標表示しやすいことが緩い条件といえます。

どのような級数を選ぶかは全く任意です。一つの関数に対して、複数の級数展開を考えることができます。級数展開の選択は、その背後にある微分方程式の選択に通じます。ある級数で展開した時に、高次項が消えるようなことがあります。俗に、「うまく展開できる」とか言ったりします。ということは、その関数は元の微分方程式と何らかの関係を持っている、と考えることができます。逆に、元の微分方程式と関係がある状態のすべてを級数展開が表しているとも言えます。
級数展開を微分方程式に応用する場合、うまく項の数が制限できれば成功、と考えることができます。項の数が整理できずに延々と計算しなければならない場合は、別の級数展開を探した方が良いかもしれません。

微分方程式を解くためにどのような級数展開を選択するかには任意性があります。どの級数展開を選択したとしても、得られる解は実質的に同じです。しかしながら、単純な式になれば見通しがずっとよくなります。見通しの良い解があると、その微分方程式の性質を深く理解できるようになります。
僕たちの実益という点ではこれで十分ですが、(疑問2:一般解以外の解は存在しないのか?)については、 イエス・ノー半々という、中途半端な結論になります。つまり、級数展開の選択によって、解の見た目が変わりうるということです。これは実は哲学に通じる事象です。自然科学は自然の真理の探究が目的ですが、複数の解を許すということは複数の真理を認めるということです。数学ではそれでよいかもしれません。でも、物理や化学や生物という分野ではそれは受け入れがたいことです。しかしながら、多くの自然現象が微分方程式で記述できる以上、我々は複数の解=解釈に出くわすことになります。逆言えば、自然の真理を読み解くというのは、より単純な級数展開(理解)を探索する行為なのです。

さて、周期関数は網羅的に探索されることは理解できますが、非周期関数は探索できていない気がします。もちろんその通り!それを説明するためには、フーリエ級数ではなくてフーリエ変換を理解しないといけません。

2017年12月10日日曜日

西川式微分方程式1章

問題提起

西川式微分方程式では、微分方程式の学習で生じる次の3つの疑問を考察します。
(疑問1)一般解というのはどういう理由で導入されるのか?
(疑問2)一般解以外の解は存在しないのか?
(疑問3)一般解をどのように選択すればよいのか?
これらの疑問を解消しない限り、解法を暗記するという学習法から脱却できません。きちんとした理解に達しない限り、シュレディンガーが水素原子の電子軌導の計算に球面調和関数やルジャンドル陪関数を用いた理由は永遠に理解できないでしょう。それは20世紀半ばの科学技術に僕たちは追いつけないというみじめな敗北を意味します。それでよいわけないですよね。

簡単な例からスタートし、僕らが微分方程式に対して抱いている漠然とした疑問を、具体的に検証したいと思います。このテキストの目的は、微分方程式の解法の意味を理解するものであって、微分方程式の解法をノウハウとして学ぶためのものではありません。僕たちが落ちこぼれた原因を解消するのが目的です。ですので、まずは、落ちこぼれた原因を整理し、問題点を共有したいと思います。そのために、普通は検討しないような別解を繰り返し紹介します。


例題1

\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=-a^2 f(x)
\end{equation}

解法1-1(通常の教科書的な解法)

一般解 を$f(x)=C \sin⁡{\omega x}$として、代入すると、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=C \frac{d^2}{dx^2} \sin{\omega x} =-C \omega^2  \sin{\omega⁡ x}=-a^2 C \sin{\omega⁡ x}
\end{equation}
$-\omega^2=-a^2$となり、
$\omega =\pm a$。よって、
\begin{equation}
f(x)=\pm C \sin{⁡ax}
\end{equation}

あとは境界条件によって係数$C$を決定します。係数$C$だけを残した形まで決定された解を基本解 と呼びます。$C$の前に$\pm$がありますが、$C$の符号の選択の問題ととらえれば、$\pm$は無視して構いません。
ま、これでも良いんですが、最初に$f(x)=C \sin{⁡\omega x}$と置く理由が全くわかりません。
例えば$f(x)=C \cos{⁡\omega x}$でも良いんじゃないか、と思うわけです。というわけで、次は、$f(x)=C \cos{⁡\omega x}$を一般解として採用してみましょう。

解法1-2(cosineを使った解法)

一般解を$f(x)=C \cos{⁡\omega x}$として、代入すると、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2} f(x)=C \frac{d^2}{dx^2} \cos{\omega ⁡x}=-C \omega^2  \cos{\omega ⁡x}=-a^2 C \cos{\omega ⁡x}
\end{equation}
$-\omega^2=-a^2$となり、
$\omega=\pm a$。よって、
\begin{equation}
f(x)=\pm C \cos{ax}
\end{equation}

で、同じように解けました。この解法は、普通の教科書でも紹介されているかもしれません。解法1-1とは、明らかに解が違います。どちらが解として正しいのでしょう?

結論を言えば、どちらも解である、ということです。通常は境界条件が設定されていて、Cを決めたり、sineかcosineかを選択します。例えば、境界条件として、$f(x)=0$というのがあれば、$f(x)=\pm C \cos{ax}$は解になることができず、$f(x)=\pm C \sin{ax}$と定まります。このような結果オーライ的な説明は、数学としては違和感があります。ただ、この2つの解で万事うまくゆくなら、それでよいのかもしれません。しかしながら、解法はこれだけではありません。

解法1-3

一般解を$f(x)=Ce^{i\omega x}$として、代入すると 、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=C \frac{d^2}{dx^2} e^{i\omega x}=-\omega^2 C e^{i\omega x}=-a^2 C e^{i\omega x}
\end{equation}

$-\omega^2=-a^2$となり、
$\omega=\pm a$
よって、
\begin{equation}
f(x)=C e^{\pm iax}
\end{equation}

またまた別の解が出てきてしまいました。しかも今度は、$\pm$という記号があって、この$\pm$は係数の符号として片付けることができません。ですので、解が2つ出てきたことになります。先ほどと同様に$f(0)=1$が境界条件の場合を検討すると、$f(0)=C , C=1$となります。ただし、$f(x)=C e^{- iax}$か、$f(x)=C e^{ iax}$か決まりませんね。どちらも解として採用して良さそうですが、解法1-2の$f(x)=\cos{⁡ax}$とは違いますね。

解法1-1、1-2、1-3を総括すると、異なる一般解を用いて、同じ方程式を解くと、異なる解が得られるということになります。ですから、一般解はきちんと選択されなければならないし、天下り式に一般解を受け入れてうまく解けたとしても、他の一般解における別の解の存在を検討しなければ、ちゃんと解けたことにならない、ということがわかります。まさしく、(疑問2:般解以外の解は存在しないのか?)は当然であり、天下り式の一般解には納得いくはずもなく、他の解の可能性を排除できていないという気持ち悪さを感じないとおかしい、ということです。後でもう少し紹介しますが、この例題1に対して利用できる一般解はまだまだ存在します。その話をする前に、別パターンの例題を紹介します。

例題2

\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=a^2 f(x)
\end{equation}


例題1と似ていますが、右辺のマイナスが取れています。それが故に、ちょっと解法が異なってきます。

解法2-1(教科書的な解法)

一般解を$f(x)=C e^{-\tau x}$として、代入すると、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=C \frac{d^2}{dx^2}  e^{-\tau x}=\tau^2 C e^{-\tau x}=a^2 C e^{-\tau x}
\end{equation}
$\tau^2=a^2$となり、
$\tau=\pm a$なので、
\begin{equation}
f(x)=C e^{\pm ax}
\end{equation}

今度は指数関数を代入することで、指数関数の解が得られました。よくある境界条件は、$f(0)=1$かつ$f(\infty)=0$で、$f(x)=e^{-ax}$と決定されます。
普通の教科書では、これで終わりですが、例によって、別の一般解を使ってみます。

解法2-2

一般解を$f(x)=Ce^{i \omega x}$として、代入すると、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=C \frac{d^2}{dx^2}  e^{i\omega x}=-\omega ^2 Ce^{i\omega x}=a^2 Ce^{i\omega x}
\end{equation}
 $-\omega ^2=a^2$となり、
$\omega =\pm ia$なので、
\begin{equation}
f(x)=Ce^{\mp ax}
\end{equation}

解法1-3と同じ一般解を用いました。普通は、こんな一般解は使いませんが、それでもこのようにきちんと解けます。しかも今度は、解法2-1と同じ解が得られました。(疑問3:一般解をどのように選択すればよいのか?)は結構適当で良い、という可能性が出てきました。これができるなら、逆も可能かもしれません。ということで、解法1-1と同じ一般解でトライしてみます。

解法2-3

一般解を$f(x)=C \sin{\omega x}$として、代入すると、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}   f(x)=C \frac{d^2}{dx^2}  \sin{\omega⁡ x}=-C\omega⁡^2  \sin⁡{\omega⁡ x}=a^2 C \sin{\omega⁡ x}
\end{equation}

$-\omega⁡ ^2=a^2$となり、
$\omega⁡ =\pm ia$。よって、
\begin{equation}
f(x)=\pm C \sin{⁡iax}
\end{equation}

sineの中に、虚数単位があるというわけのわからない関数が出てきました。この関数は計算できないことはないのですが、使っているのを見たことありません。ひらめきによって、$\cos{⁡iax}$を考えて、オイラーの公式を適用してみます。
\begin{equation}
\cos{⁡iax}+i \sin{⁡iax}=e^{ax}\label{Euler}
\end{equation}

となり、$\sin{⁡iax}$は通常の指数関数をオイラーの公式でむりやり展開したときの虚数成分であることがわかります 。さらに、$\cos{⁡iax}-i \sin{⁡iax}=e^{-ax}$なので、これとの差を考えると、$\sin{⁡iax}=\frac{1}{i}\frac{e^{ax}-e^{-1x}}{2}$であり、これはすなわち、$-i\sinh{ax}$であるとわかります。
($\ref{Euler}$)式の係数に純虚数を考えれば、解法2-1にあるような指数関数と整合していないことはない、ということです。

では逆に、解法2-1で用いた一般解で例題1を解いてみましょう。

解法1-4

一般解を$f(x)=Ce^{-\tau x}$として、代入すると、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2} f(x)=C \frac{d^2}{dx^2} e^{-\tau x}= C \tau^2 e^{-\tau x}=-a^2 Ce^{-\tau x}
\end{equation}
$\tau^2=-a^2$となり、
$\tau=\pm a$。
よって、
\begin{equation}
f(x)=Ce^{\pm ax}
\end{equation}

となり、解法1-3と同じ解がでてきました。

ここから、一般解というのは、かなり緩い制約しかない、ということがわかります。ただ、使用する一般解によって、解に違いが出てきていますので、どの一般解を使うのか、ということが問題になってきます。
次は、例題1についてこれまで出てきた解を統一的に理解するということを試みますが、その前に、もう一つだけ別の解法を考えます。

解法1-5

一般解を$f(x)=C \sinh⁡{bx}$とする。$\sinh{⁡bx}=\frac{e^{bx}-e^{-bx}}{2}$なので、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2} f(x)=C \frac{d^2}{dx^2} \frac{e^{bx}-e^{-bx}}{2}=b^2 C \frac{e^{bx}-e^{-bx}}{2}=-a^2 C \frac{e^{bx}-e^{-bx}}{2}
\end{equation}
$b^2=-a^2$となり、
$b=\pm ia$。
よって、
\begin{equation}
f(x)=C \frac{e^{\pm iax}-e^{\mp iax}}{2}=-Ci \sin{⁡\pm ax}
\end{equation}
最後は、オイラーの公式を使って、sineに書き直しました。Cに純虚数を考えれば、解法1-1と同じです。一般解として$f(x)=C \cosh{⁡bx}$から出発すると、$f(x)=C \cos{⁡ax}$が得られます。

こうしてみると、一般解にはいろんなものが使えるということがわかります。でも、どんなものでOKかというとそういうわけではありません。例えば、$C\tan{\omega x}$とか$ C\log{\tau x}$を一般解として使ってみましょう。

解法1-6

例題1において、一般解を$f(x)=C\tan{\omega x}$とする。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f(x)=C\frac{d}{dx}\tan{\omega x}=C\omega\frac{1}{\cos^2{\omega x}}
\end{equation}
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}f(x)=C\omega\frac{d}{dx}\frac{1}{\cos^2{\omega x}}=C\omega^2\frac{-2\sin{\omega x}}{\cos^3{\omega x}}=-a^2C\frac{\sin{\omega x}}{\cos{\omega x}}
\end{equation}
なので、$\omega^2\frac{2}{\cos^2{\omega x}}=a^2$。
左辺に$x$が残っているので、微分方程式を常に満たす関数は、$f(x)=C\tan{\omega x}$の形式では表せない。

解法1-7

例題1において、一般解を$f(x)=\ C\log{\tau x}$とする。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f(x)=C\frac{d}{dx}\ \log{\tau x}=C\tau\frac{1}{\tau x}
\end{equation}
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}f(x)=C\tau\frac{d}{dx}\frac{1}{\tau x}=C\frac{-1}{x^2}=-a^2C\log{\tau x}
\end{equation}
なので、$\frac{1}{x^2\log{\tau x}}=a^2$。
左辺に$x$が残っているので、微分方程式を常に満たす関数は、$f(x)=\ C\log{\tau x}$の形式では表せない。

このように、多くの関数が一般解として使える一方、一般解に使えない関数があることが確認できました。一般解として使える関数にはどのような条件があるのでしょう。また、微分方程式の解として様々なものが得られました。実用上は与えられた境界条件を満たす解を選択するわけですが、結果オーライ・ご都合主義な感じがします。本当に解けているのか不安になります。

解をまとめる

さて、解法1-1~5において、$C \sin{⁡ax}$、$C \cos⁡{ax}$、$Ce^{\pm iax}$という解が得られました。さらに、$C \sin{⁡ax}=\frac{C}{i}  \frac{e^{iax}-e^{-iax}}{2}$であることがわかっています。つまり、例題1-5の解は例題1-3の解($Ce^{\pm iax}$)の和であって、係数Cが虚数であるということです。
同様にこれまでに得られたすべての解が$Ce^{±iax}$の和として表すことができることに気づくかもしません。これらから、係数Cとして複素数を許し、$C_1 e^{iax}+C_2 e^{-iax}$とすれば、これまで出てきた解をすべて包括するような気がします。しかしながら、$C_1 e^{iax}$と$C_2 e^{-iax}$の足し算が許されるかどうか、は自明ではないような気がします。また、係数$C$が複素数でも大丈夫かというのは確かめておかないといけない気がします。まず、簡単な後者からやっつけておきましょう。

$C=c+id$とすると、$Ce^iax=ce^iax+id e^iax$です。これを元々の微分方程式に代入します。
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=\frac{d^2}{dx^2}  \{ce^iax+id e^iax \}\\
=-ca^2 e^iax-ida^2 e^iax=-a^2 (ce^iax+id e^iax )=-a^2 f(x)
\end{equation}
となり、例題1の微分方程式を自動的に満たします。

次に、個別の解の和が解になれるかどうかを調べます。

$f(x)=C_1 e^iax+C_2 e^{-iax}$とすれば、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2}  f(x)=\frac{d^2}{dx^2} \{C_1 e^iax+C_2  e^{-iax} \}=-C_1 a^2 e^iax-C_2 a^2 e^(-iax)=-a^2 (C_1 e^iax+C_2  e^{-iax} )=-a^2 f(x)
\end{equation}
となり、例題1の微分方程式を自動的に満たします。ですから、$f(x)=C_1 e^{iax}+C_2 e^{-iax}$とすれば、これまで出てきた解をすべて包括することができます。だから一般解としては、$f(x)=C_1 e^{i\omega x}+C_2 e^{-i\omega x}$を使うべきかもしれないという予想がたちます。
ここに至り、(疑問2:一般解以外の解は存在しないのか?)はますます深刻です。調べれば調べるほど、似ているけれどちょっと違う解が見つかるということは、例題1を$f(x)=C \sin{\omega x}$として解くのでは不足であると結論されます。そして、すべての解を調べつくしているのかどうか疑わしくなります。さらに、(疑問3:一般解をどのように選択すればよいのか?)に対する演繹的な答えは絶望的に見えてきます。

一次結合と線形微分方程式の説明

例題1-3や例題1-4では、$f\left(x\right)Ce^{\pm i a x}$が解として得られており、$f\left(x\right)=C_1e^{iax}+C_2e^{-iax}$に近いですが、得られた二つの解の和が解として成立するかどうかについて、明示的な指針はありません。しかしながら、線形の微分方程式の場合、すべての基本解の一次結合も解として有効である、というのが常識とされています。

こういう言い方は因果関係がおかしくて、正しくは、基本解の一次結合が解として有効であるような微分方程式を線形微分方程式と呼ぶのです 。一次結合というのは、線形和とも呼ばれ、二つ以上の数式やベクトルに対して定義されます。例えば、数式$f_1\left(x\right)とf_2\left(x\right)$があったとして、一次結合というのは、係数$C_1$と$C_2$を使って、$C_1f_1\left(x\right)+C_2f_2\left(x\right)$のようにあらわされた数式のことを言います。

今、基本解として、$f_1\left(x\right)とf_2\left(x\right)$があったとして、例題1の微分方程式$\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=-a^2f\left(x\right)$をどちらも満たすとします。であるなら、
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}f_1\left(x\right)=-a^2f_1\left(x\right)かつ\frac{d^2}{{dx}^2}f_2\left(x\right)=-a^2f_2\left(x\right)
\end{equation}
が成立します。それぞれ係数$C_1$と$C_2$をかけてやって、
\begin{equation}\frac{d^2}{{dx}^2}C_1f_1\left(x\right)=-a^2C_1f_1\left(x\right)\end{equation}
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}C_2f_2\left(x\right)=-a^2{C_2f}_2\left(x\right)
\end{equation}
が成立するのは、当たり前だし、二つの式を足してやって、
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}C_1f_1\left(x\right)+\frac{d^2}{{dx}^2}C_2f_2\left(x\right)=-a^2C_1f_1\left(x\right)-a^2{C_2f}_2\left(x\right)
\end{equation}
が成立するのも当たり前です。少し式を整理すれば、
\begin{equation}
\frac{d^2}{{dx}^2}\left\{C_1f_1\left(x\right)+C_2f_2\left(x\right)\right\}=-a^2\left\{C_1f_1\left(x\right)+{C_2f}_2\left(x\right)\right\}
\end{equation}
つまり、$C_1 f_1\left(x\right)+C_2 f_2\left(x\right)が\frac{d^2}{{dx}^2}f\left(x\right)=-a^2f\left(x\right)$を満たしているという式になります。すべての微分方程式において、このように基本解の一次結合(線形和)が解となるわけではありません。線形和が解になるかどうかは、その性質は元の微分方程式の形で決まっており、基本解の一次結合が自動的に解となるような微分方程式を線形微分方程式と呼びます。
逆に、微分方程式が線形かどうかは、2つの基本解を仮定してやって、微分方程式に代入し、和を計算してやればわかります。例えば、$\frac{d}{dx}f\left(x\right)={f\left(x\right)}^2$を考えてやると、
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f_1\left(x\right)={f_1\left(x\right)}^2
\end{equation}
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f_2\left(x\right)={f_2\left(x\right)}^2
\end{equation}
が成り立っているとして、両辺の和を取ります。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f_1\left(x\right)+\frac{d}{dx}f_2\left(x\right)={f_1\left(x\right)}^2+{f_2\left(x\right)}^2
\end{equation}
となります。右辺はどうあがいても、$f_1\left(x\right)+f_2\left(x\right)$だけで表すことができません。ですので、$\frac{d}{dx}f\left(x\right)={f\left(x\right)}^2$は線形微分方程式ではない=非線形微分方程式である、と結論できます。ある微分方程式が線形か非線形かはパッと見ではわからないことがあります。つまり、式を見ただけで線形・非線形を判断するのは危険ということです。

非同次の線形微分方程式

線形微分方程式では、基本解が複数得られた場合、基本解の線形和がすべて解の候補になります。線形和の場合、それぞれの項に係数を付けることができるので、最終的な解を求めるときは、係数を決定する、という作業が必要になります。一般に、線形和の係数を決定するという作業は、境界条件を参考にしながら行います。

これまで議論してきた微分方程式において、$f(x)=0$は常に成り立つことはすぐにわかります。だから、$f(x)=0$は自明な解として問題にしませんでした。しかしながら、世の中には、$f(x)=0$が解になり得ない微分方程式も存在します。$f(x)=0$が解になるかどうかによって解法が少し違ってくるので、それぞれに名前を付けて区別します。$f(x)=0$が解になるタイプの微分方程式を「同次」と呼び、$f(x)=0$が解にならないタイプの微分方程式を「非同次」と呼びます。当然、「同次」より「非同次」の方が難しくなります。

前節で出てきた線形/非線形の定義によれば、ほとんどの「非同次」な微分方程式は「非線形」ということになってしまいますが、「線形」の定義をすこし拡張し、非同次の線形微分方程式の範囲をすこし増やすのが通常です。それは非同次微分方程式の解法に由来します。まず、次のような非同次な微分方程式を考えます。
\begin{equation}
\sum_{n=0}^{N} k_n \frac{d^n}{dx^n} f(x) =q(x)
\end{equation}
のように、$f(x)$に関する部分とそれ以外に式を分けます。左辺は十分に一般化されていませんが、通常はこの程度の一般化で十分なはずです。この微分方程式の解を複数考えて、足し合わせると、左辺が$2q(x)$になるので、元の方程式を満たさないことがわかります。つまり、前節の定義では「非線形」です。
しかしながら、右辺を0として、
\begin{equation}
\sum_{n=0}^{N} k_n \frac{d^n}{dx^n} f(x)=0
\end{equation}
と置くと、これは「線形」です。微分方程式において、$f(x)$に関する項とそうでない項をそれぞれ左右にまとめあげて、$f(x)$に関する項を0とした微分方程式が線形であるとき、特別に「非同次線形微分方程式」と呼びます。というのも、非同次線形微分方程式は線形微分方程式の応用で解くことができるからです。

非同次線形微分方程式を解く場合には、まず、無理やりにでも1個だけ解を見つけます。例えば、$q(x)$が多項式だとしめたものです。
微分の次数の上限は$N$であることを鑑み$f(x)=\sum_{n=0}^{N} a_n x^n$と置くと、ちょっとした計算で左辺が次のように変形できます。
\begin{equation}
\sum_{m=0}^{N} k_m \sum_{n=m}^{N} a_n \frac{n!}{(n-m)!} x^{n-m}
\end{equation}
これと$q(x)$とを比較すれば、$a_n$を決定できます。こうして得られた解を$f_0(x)$とします。この$f_0(x)$は言わば「割り算のあまり」のようなものです。
非同次線形微分方程式の線形部分の解は
\begin{equation}
\sum_{n=0}^{N} k_n \frac{d^n}{dx^n} f(x)=0\end{equation}
を満たすので、いくら足しても方程式は変わりません。だから、余分に$f_0(x)$を足してやると自動的に$\sum_{n=0}^{N} k_n \frac{d^n}{dx^n} f(x)=q(x)$を満たすようになります。すなわち、大部分の解は線形部分の解で、それらに「あまり」を足してあげるわけです。

例題3

具体的に非同次線形微分方程式を提示し、調べてみましょう。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)+3x=0
\end{equation}
今までの例題に対して余計な3xがついている、というパターンです。これがなければ、これまでと同様、適当に一般解を選べば、問題なく解けます。

解法3-1

直感によっ$f(x)$が多項式であると考えて、せいぜい2次くらいだろうということで、$f\left(x\right)=ax^2+bx+c$とする。これを元の微分方程式に代入してみる。
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)+3x=2ax+b-5ax^2-5bx-5c+3x=0
\end{equation}
すべての$x$について成立しなければならないので、
$-5a=0,\ 2a-5b+3=0,\ b-5c=0$となる。すなわち、
$a=0,\ b=3/5,\ 5c=3/25$で、$f\left(x\right)=\frac{3}{5}x+\frac{3}{25}$は一つの解である。確かにこれは、例題3の微分方程式を満たす。これを特別解と呼ぶ。
一方、これまでの解法と同様に$\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)=0$には他の解がある。もし、$\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)=0$が成り立つ解があれば、これを先の特殊解に足したものも解として使える。なので、$\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)=0$を解くことにしよう。
一般解を$f\left(x\right)=Ce^{\tau x}$として、代入すると、
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)=\tau Ce^{\tau x}-5Ce^{\tau x}=\left(\tau-5\right)\ Ce^{\tau x}=0
\end{equation}
$\tau=5$となり、
よって、
\begin{equation}f\left(x\right)=Ce^{5x}\end{equation}
このようにして求めた解は、同次解と呼ばれている。
同次解と特殊解の和が解となるので、最終的に、
\begin{equation}
f\left(x\right)=Ce^{5x}+\frac{3}{5}x+\frac{3}{25}
\end{equation}
が得られる。

この解法におけるポイントは、$\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)+3x=0$を
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)=-3x
\end{equation}
\begin{equation}
\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)=0
\end{equation}
の二つの方程式の和と考える点にあります。元々の方程式は線形なので、解をいくら足しても解として成立します。ただし、上側の式には$-3x$だけ余りがあります。なので、あまりの部分を別枠で計算することにします。それが$f\left(x\right)=\frac{3}{5}x+\frac{3}{25}$です。この解は絶対必要です。さらに下側の式から出てくる同次解をオプション的に付け足してもかまいません。オプションを付け足すかどうかは境界条件で決まります。
例題3のように「余り」のある場合、特殊解という「余り」の条件を満たす解を足してやることで、うまく解が表せる、というのは線形微分方程式の特性を利用しています。ただ、ここに至って特殊解の求め方に、「直感」が導入されており、またしても天下り的な要素が出てきてしまいました。この直感の部分はいかんともしがたいものです。さらに、直感で解かれた特殊解が唯一無二のものかどうかははっきりしません。また、特殊解と同次解の和以外のパターンの解は検討していませんから、得られた最終解がすべてのパターンを網羅しているかどうかは、不明なままです。つまり、本当に解けているのかどうかわからない、という状態です。


解法3-2

通常の教科書を見ると、同次解を求めるために特性方程式というものを使うことがあります。特性方程式とは微分方程式に含まれる任意の次数の微分を対応する対応する次数のn乗の記号に割り当てるテクニックです。
特別解の求め方は解法3-1と同じとする。
同次解$\frac{d}{dx}f\left(x\right)-5f\left(x\right)=0$については、対応する特性方程式を考える。すなわち、$\frac{d}{dx}f\left(x\right)$を$t$の1乗、$f\left(x\right)$を$t$の0乗で置き換える。すると、次式を得る。
\begin{equation}t-5=0\end{equation}
これを解いて、$t=5$から
\begin{equation}f\left(x\right)=Ce^{5x}\end{equation}
以下略


実は、特性方程式というのは、$f\left(x\right)$で割り算してから、$\frac{d}{dx}$を$t$、$\frac{d^2}{{dx}^2}$を$t^2$というように機械的に置き換えてやって、多項式を作成することで、半自動的に微分方程式を解くテクニックです。このテクニックの根底にあるのは、一般解が$f\left(x\right)=Ce^{tx}$であることが前提ということです。$f\left(x\right)=Ce^{tx}$であると考えれば、一次微分や二次微分で、$t$や$t^2$が出てきます。途中で$Ce^{tx}$を割り算するというのがわかっているので、最初から割り算しておこう、という手抜きです。先に手抜きを教わってしまうので、わけがわからなくなるという理屈です。特性方程式というのは労力を端折るためだけのものなので、特にこだわる必要はないと、僕は思います 。

特性方程式にも学ぶ点があります。微分方程式を機械的に特性方程式に変換してよいということは、一般解を$f\left(x\right)=Ce^{tx}$に決め打ちしてよい、ということに他なりません。これまで見てきたように、普段は$f\left(x\right)=C\ \sin{\omega x}$ を一般解に用いるような場合であっても、$f\left(x\right)=Ce^{tx}$を一般解にして解くことができます。なので、$f\left(x\right)=Ce^{tx}$を一般解にもちいることは、一般性を失わない、ということだと推測できます。

この章のまとめ

ということで、わかったことは、一般解は普通$f\left(x\right)=Ce^{tx}$を使うとよい、ということです。その他の一般解で解いたとしても結果は同じになるのです。$t$は複素数であってもかまいませんから、$f\left(x\right)=Ce^{i\omega x}$を一般解に使ってもOKです。ただし、この場合、特性方程式は虚数単位を含むことになり、解き方は変わりませんが、ちょっと違和感があります。ただ、答えは同じです。

特性方程式に見られるように、実のところ、一般解を天下り式に受け入れると、基本解はほとんど自動的に求まります。ですので、微分方程式を解くという作業の大半は、境界条件を満たすように、基本解の係数を決定する、という作業が占めます。また、解法2-3や解法1-4で示したように、一般解が少々雑でも、基本解をちゃんと求めることができます。だから、少々強引でも天下り式に一般解を導入しても結果に影響はないんだ、ということで、一般解に関する議論を避けているような気がします。
それでもやっぱり、解法1-1と解法1-2は排他的な解であり、片方だけしか検討しないなら、すべての可能性を考慮したことにはなりません。そういうことが実際にあるのだから、複数の解法をいくら示しても、別の解がある可能性を払しょくできません。やっぱり解けていないんじゃないか、という気持ち悪さが残ります。

まずは、一般解をこのように決め打ちしてよい理由を説明したいと思いますが、そのためには、線形微分方程式の解き方の「フルバージョン」を示す必要があります。フルバージョンの説明には、実はフーリエ級数などの級数展開の話をしなくてはいけません。

2017年12月2日土曜日

アルゴリズムを数式に接続する

きっかけ

最近、「素数の音楽」という本を読んで、その中で「すべての素数を生み出す数式」というのが紹介されていたのに強いインスピレーションを受けた。普通の数式ではないが、明らかに多項式で、不思議な数式だ。この数式がどのようにして得られたのかにも興味をそそられるが、たぶん、僕の知力では追いつかないだろう。それよりも、素数を生み出すというようなアルゴリズム的な機能を数式に落とし込んでいるという点に感銘を受けた。そして、僕はどのような課題をクリアすれば、アルゴリズムを数式に落とし込めるだろうかと考え始めた。すぐにアイデアが浮かび、詳細を詰めた。全てではないが、単純なアルゴリズムであれば、比較的容易に落とし込みが可能だと今は思っている。

素数公式

今や電子暗号技術の根幹を成す素数は、数学のみならず全ての人類にとって重要な問題となっている。特に数学では、ギリシア時代から延々と議論が続いている。例えば、「ある数N以下の素数はいくつあるか」という素数の数え上げ問題などだ。
素数の数え上げ問題に最初に肉薄したのは、カール・フリードリヒ・ガウスだ。$N$以下の素数の数を$\pi$とおくと
\begin{equation}\pi\left(N\right)\propto \log{N}\end{equation}
という大まかな分布にたどり着いた。実際には、もう少し詳しいところまで到達しているが、驚くべきはその成果が若干15歳で達成されたことだ。ガウスの天才が規格外であることを示すエピソードとして有名だ。
以来、多くの数学者が素数の数え上げ問題にかかわったが、転機となったのはゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマンだ。リーマンは素数の数え上げに言及し、おそらく完全に素数の数え上げに対応する関数を示した。
リーマンの示した方法で素数の数え上げを行うには、ゼータ関数の非自明な0点がある特徴的な直線に並んでいる必要があることがわかっており、「リーマン予想」と呼ばれている。人類が調査可能な範囲において、リーマン予想は正しいことがわかっているが、リーマン予想が「完全に」正しいという証明は存在していない。このリーマン予想を証明することは数学における大問題となっている。ま、僕にはよくわからない世界だ。

リーマン予想は証明されない方が人類にとって良いかもしれないという意見もある。リーマン予想が正しいとなると、我々は素数を見つけるためのもう一つのアルゴリズムを手にすることになる。現在の暗号技術は素数を見つけるのが困難だという数学的経験則に基づいて成立しているのだが、リーマン予想によって別の素数探索法が現れる可能性がでてくる。すると、これまでの経験則が崩れて暗号技術全体が崩壊する可能性が出てくる、というのだ。

素数の探索

素数の探索は、プログラミングの格好の教材で、プログラマなら何度かつくったことがあるだろう。もっとも単純なものは次のようなものだ

ある数Nが素数かどうかを調べるために、Nを2~N‐1までの整数で割り算し、割り切れるかどうかを調べる。もし、一度も割り切れなければNは素数である。

JavaScriptで書けば次のようになるだろう。
function IsPrime(N) {
    var i
    for(i=2; i<N; i++) {
    if( (N % i)==0) return 0;
    }
    return 1;
}

話の都合上、$IsPrime$関数は$N$が素数の時に1を返し、素数でない時は0を返す関数として設計してある。
これは最も単純なので、計算に無駄が多い。計算の無駄を少なくすることでプログラムを高速化する手段はいくつも存在するので、素数の探索プログラムは、アルゴリズムの性能アップを学ぶ格好の題材なのだ。僕の目的はアルゴリズムを数式に変換することなので、もとになるアルゴリズムは効率よりも単純さが重要だ。だから、これでよい。

素数判定アルゴリズムを使うと素数の数え上げが簡単に作成できる。すなわち、
\begin{equation} \pi\left(x\right)=\sum_{N=2}^{x} IsPrime(N) \label{algopi} \end{equation}
一方リーマンの素数公式はもっと複雑で、
\begin{equation}
{\displaystyle \pi (x)=\sum _{m\leqq \log _{2}x}{\frac {\mu (m)}{m}}\left({\rm {li}}(x^{\frac {1}{m}})-\sum _{\rho }{\rm {li}}(x^{\frac {\rho }{m}})-\log 2+\int _{x^{\frac {1}{m}}}^{\infty }{\frac {dt}{t(t^{2}-1)\log t}}\right)}
\label{Riemann}
\end{equation}

になるらしい(Wikipediaより)。


アルゴリズムを数式にする

アルゴリズムによる素数の数え上げ式($\ref{algopi}$)とリーマンの素数公式($\ref{Riemann}$)は、複雑さが段違いということにすぐ気づく。リーマン予想が正しいとすると両者は同じ値を与える関数であるはずだ。ということは、両者の複雑さの違いは$IsPrime$関数に由来する。もし、$IsPrime$関数を普通の式で書き下せば、リーマンの素数公式に一致(あるいは類似)するのだろうか?という疑問を僕は持った。
ということで、$IsPrime$関数を数式に変換することを考えよう。Javascriptで例示したプログラムでは、for構文とif構文が1回ずつ使われている。これらを数式に置き換えることができるだろうか?
for構文の部分は$\sum_{i=2}^{N-1}$に極めて近い。$\sum$は和をとるが、プログラムでは、実は論理積がとられている。なので、積をとる$\prod$の方が近い。つまり、
\begin{equation}
\prod_{i=2}^{N-1} if\left(mod(N,i)\ne 0\right)
\end{equation}
ただし、$mod(N,i)$は$N$を$i$で割った時の余りを値とする関数とする。また、$if$関数は
\begin{equation}
if(x)=\left\{\begin{matrix}0&{if\ x\ is\ false}\\1&{if\ x\ is\ true}\end{matrix}\right.
\end{equation}
となっていると都合がよい。
ここで定義した$if$関数はプログラミングテクニックとして比較的なじみ深いもので、いくつかの言語では条件分岐に関してこのような実装を行っている。
さて問題は、このような$if$関数が通常の演算で実現できるだろうか?ということだ。リーマンの素数公式で使われている数学要素は、足し算、引き算、掛け算、割り算、積分、複素数、無限といったところだ。だから、僕たちは$IsPrime$関数をこれらの要素で構成しなければならないだろう。$if$関数に極めて近い関数に、$sgn$関数がある。
\begin{equation} sgn\ x =\left\{ \begin{matrix}-1&{if\ x\lt 0}\\0&{if\ x=0}\\1&{if\ x\gt 0}\end{matrix}\right. \end{equation}
$sgn$関数は別名を符号関数という。極めて便利だけど、残念ながら人工的すぎて、上述の数学要素で直接構成できるわけではない。この$sgn$関数に似た関数の一つにHilbert変換のインパルス応答関数$H(q)$がある。
\begin{equation} H(q) =\left\{\begin{matrix}-i&{if\ q\lt 0}\\0&{if\ x=0}\\i&{if\ q\gt 0}\end{matrix}\right. \end{equation}
これはインパルス応答関数なので、実空間のタイプがあって、
\begin{equation} H(q) =\int_{-\infty}^{\infty} \frac{1}{x}e^{-iqx}dx
\end{equation}
であれば、if関数に類似のものを次のように定義できる。
\begin{equation} if^\prime (x)=\frac{1}{2}+\frac{1}{2i}H(x)
\end{equation}
ただし、0のところだけ、違っている。引数が整数に限定される場合には、
\begin{equation} if (x) \sim if^\prime (x+\delta)\ where\ -1\lt \delta\lt 1
\label{iffunc}
\end{equation}
数学における4つの不等号$\lt,\le,\gt,\ge$に応じて$\delta$が選択される。
数学的な美しさというものが存在するなら、$\delta = \frac{1}{2}$とするのが良いかもしれない。
もし$\delta$関数が使えるなら、$if^\prime$関数は次のようにしてもよい。
\begin{equation}
if^\prime\left(x\right)=\int_{-\infty}^{x}{\delta\left(x\right)dx}
\end{equation}
これは、ヘビサイド関数として知られている。要は、$if^\prime$関数というのは、極めて人工的だけれど、通常の数学の概念と親和性があるということだ。

余りを計算する

プログラムに見られる構文は2つだけだが、実は余りの計算がもう一つの関門になっている。あまりの計算は通常の演算では作り出せない。そこで、$N$を$M$で割ったときの余りを返す$mod(N,M)$という関数を$if$関数を使って構成することを考える。
当たり前のことだけど、$N=pM+r$を満たす$0\le r\lt M$なる$r$を見つけることがミッションになる。いろんな方法が考えられるが先に$p$を見つけることを考えた方が実は近道かもしれない。すなわち、$r=N-pM$というわけだ。$p$を見つける最もシンプルな方法の一つが次の数式だ。
\begin{equation}
p=\sum_{m=0}^{\infty}if(N-mM)
\end{equation}
これを使うと$mod$関数は簡単で、
\begin{equation}
mod(N,M)=N-M\sum_{m=0}^{\infty}if(N-mM)
\end{equation}
以上をまとめると、
\begin{equation}
IsPrime(N)=1-if\left(\prod_{M=2}^{N-1}mod(N,M)\right)
\end{equation}
となる。
めだたく、新しい素数公式が次のように得られる。
\begin{equation}
\pi(N)=\sum_{n=2}^{N}\left\{1-if\left(\prod_{M=2}^{N-1}\left[n-M\sum_{m=0}^{\infty}if(n-mM)\right]\right)\right\}
\label{final}
\end{equation}

これは素数公式か?

アルゴリズムから出発したので、上式は素数公式であることが確実だ。ただし、$if$関数にフーリエ変換があり、精密な数値計算には向かない。また、途中に∞個の総和があり、計算量の見通しが難しい。また、アルゴリズムが有する計算量を完全に反映する。もっとも愚直なアルゴリズムから出発しているため、効率の面では最低だ。
この式の計算を進め、欠点を補えれば、使い物になるかもしれないが、僕は悲観的だ。重要なのは実用面ではなく、アルゴリズムを普通の解析関数に落とし込んだ点だと僕は思っている。ここまで落とし込めば、アルゴリズムという散文的な概念を数式という伝統的な数学で議論することが可能になるからだ。
リーマンの素数公式の驚くべき点は、素数という典型的な数論の概念を解析関数という別の数学概念に接続している点だ。ここで議論した$mod$関数は数論の世界を解析接続するための基本ツールの一つだ。もう一つのツールは$if$関数だ。ここでは$if$関数を使って$mod$関数を構成したが、その逆も可能だ。そこから、$if$関数と$mod$関数はある種の「同値」関係にあることがうかがえる。

ここに至り、僕は一つの仮説を持っている。リーマンの素数公式というのは、ある種のアルゴリズムを解析接続したものだというものだ。リーマン予想を証明する代わりに、素数探索アルゴリズムの解析接続をいろいろ試すというアプローチがあるんじゃないだろうか。僕は$if$関数を梃子にしたが、それはプログラマとしてはとても自然な発想だ。でも、$mod$関数が$if$関数で構成できるように、梃子として用いることができる数学的ツールはほかにもあるだろうことがうかがえる。

僕がここであらたに導入したのは本質的に$if$関数だけなのだけど、$if$関数だけですべてのアルゴリズムを伝統的な解析関数に変換できるかは不明だ。というのも、プログラミングの世界ではプログラミング言語として万能性を持つために必須な要素というのはもう少し多いからだ。ただ、最小チューリングマシンが極めてシンプルに構成できるという事実は僕たちにとって朗報だ。論理的には最小チューリングマシンの要素をすべてカバーする変換ツールを用意できれば、すべてのアルゴリズムが解析接続できることになるのだから!それは新しいパラダイムを提供するはずだ。

リーマン予想についてのコメント

式($\ref{final}$)とリーマンの素数公式が同じものだと考えると、$if$関数とゼータ関数が何らかの対応を持つことになる。そう思うとリーマン予想についていくつかの推測が得られる。式($\ref{iffunc}$)にあるように、$if^\prime$関数の引数が0になることを避けるために、不自然なオフセットが付け加える必要がある。そのオフセットはある範囲で自由であり、それを$1/2$とするのは自然に思える。逆に言うと、$1/2$でなくてもい。リーマン予想はゼータ関数の0点の実部が$1/2$であるというものであるが、それが$if^\prime$関数に付け加えるオフセットと対応するかもしれない。
例えば、式($\ref{final}$)に半整数を入力してみると、計算が破たんする。そうした破たんは半整数の場合にだけ顕著に生じる。つまり、特異点だ。ただし、入力が素数-1/2の時は、$if^\prime$関数が0になることがない。リーマン予想の$1/2$が式($\ref{iffunc}$)で付け足した$1/2$と対応しそうな感じがするでしょ?
そうすると、ゼータ関数の0点が$1/2$である必然性はないことになる。つまり、$if^\prime$のオフセットと同様に1以下の一定値であればよい、という話かもしれない。であれば、なぜ$1/2$なのかを説明するのは極めて難しいということが推測される。まずは、一定値だということを示すべきなんだろう。
$if^\prime$関数が0になるとは、約数を持つ=素数でないということだから、ゼータ関数の0点も素数でないことを示しているのかもしれない。0点という特別な性質なんだから、特別な性質をもつ素数と何らかの対応を持つだろう、と勝手に思い込んでしまっていないだろうか。式($\ref{iffunc}$)は、そういう先入観とは真逆の可能性を強く示唆していると思う。であれば、ゼータ関数の0点がほぼ等間隔である理由も思い当たる。ゼータ関数の0点はエラトステネスのふるいであるかもしれないということだ。ふるいの目(穴)は等間隔に開いているものだ。
すでに指摘したがリーマンの素数公式は数論の問題を解析接続してしまうという驚きの成果であり、どうしてもそれに目を奪われてしまう。つまり、意味がきちんとしているのは整数の入力だけなのに、複素数の入力が許されてしまうためのにそこに惑わされるのだ。$if$関数を定義するためにどうしても複素数の計算が出てきてしまうわけだが、それがゆえに式($\ref{final}$)も複素数の入力を許してしまう。意味がないとは知りつつ、複素数を入力を試してしまい、その不思議な光景に目を奪われるのだ。

マイルストーン

現時点では、$if$関数以外のツールを僕たちは手にしていないが、どのようなツールが可能かについてちょっとしたアイデアがある。NHKの白熱教室のエドワードフレンケル教授の回でラングランズプログラムの例として、ある方程式の解の数を多項式の係数として得るという奇妙な数式が紹介された。その時は全く理解不能だったが、それはアルゴリズムを数式に変換する全く別の形態であるという気がしている。
プログラマの視点からすると、$if$関数と不自由なループしか使えないというのでは、万能性からは程遠いと言わざるをえない。プログラミング言語が万能性を持つには、複数の変数を取り扱う手段がほしいところだ。なので、アルゴリズムを数式に変換するツールとして、複数の数値を交差計算するツールがほしいということになる。その一つの方法として、代数式の係数が使える。つまり、因数分解された多項式の括弧を外す際に各多項式の複数の係数の積和が実施される。どの係数とどの係数をかけ合わせるかは、変数の次数が制御する。それはある種のアルゴリズムを構成する。
このアイデアを一般化するために、テンソルが応用できる。例えば、2階のテンソルは、2次の多項式と対応させることができるが、それは一つの行列で特徴づけることができる。同様にn階のテンソルは、n階の行列で特徴づけることができる。すなわち、変数に対応するベクトルに対し、n階のテンソルの和を考えることで、あらゆる代数式を構成できるだろう。
これまで僕たちはアルゴリズムを一つの値を出力する一つの関数に表現するとしてきたが、そのようなスタイルに適合するアルゴリズムは極めて限定的だ。例えば、ワードプロセッサはそのようなフォーマットにはそぐわないのは明らかだ。別の表現形式として、多項式の係数を利用するということも悪くない。すなわちそれが、NHKの白熱教室で紹介された奇妙な多項式の背後にある数学だと直感している。もしかすると、その方が簡単かもしれない。そのようなテンソル形式で$if$関数を構成するには無限階のテンソルが必要になる。予想としてはそのようなテンソルを使えば、ワードプロセッサのような複雑なソフトウェアを含むあらゆるアルゴリズムを一つの数式として得ることができるだろう、ということだ。

2017年11月12日日曜日

西川式微分方程式0章

西川式:微分方程式と線形応答

ずいぶん昔に、学生向けにテキストを書いていました。大学院でも似た内容の講義をするので、Web版を作ったら、みんな読めるかな?ちょっと長いので、連載形式にして、章ごとに公開します。今回はプレビューというか、予告編というか、そんな程度です。


はじめに

大学で学ぶ数学・物理において、微分方程式は極めて重要です。しかしながら、なかなか理解するのが大変で、微分方程式が解けるかどうかというのが、学生にとって一つの関門になっています。僕自身も長年納得がいかず、大変苦労しました。ただ、その苦労の大半は、ちゃんとした説明があれば、必要ないものでした。だから、テキストにまとめることによって、多くの人が僕のような苦労をせずに済むようにしたいと思っています。

このテキストは、大学で学ぶ微分方程式の講義についていけなかった人、疑問だらけで納得がいかない人、そういった落ちこぼれチックな人のためのものです。微分方程式なんて、チャラいよ~、という人は読む必要はありません。きっと頭がすごく良いのでしょう。微分方程式の解法は数学者たちが1000年かかって作り上げてきた人類の至宝です。その極意をたった1年かそこらで理解できる超天才に僕が教えることなどないでしょう。
それから、一旦、他の教科書や講義で微分方程式を学んでおいてください。僕のテキストは微分方程式を学ぶ中で生じる違和感を共有しているという前提で書かれています。その違和感を持っていないと、面白さがわからないかもしれません。

できない子の論理

微分方程式を解く場合、天下り式に一般解というのを代入してみて、一般解に付随している係数を決める、ということを行います。このとき、いくつかの疑問が発生します。
(疑問1)一般解というのはどういう理由で導入されるのか?
(疑問2)一般解以外の解は存在しないのか?
あとでも詳しく例示しますが、
\begin{equation}
\frac{d^2}{dx^2} y = -a^2 y
\end{equation}
のとき、$y=\sin{⁡bx}$とおいて、$a$と$b$の関係を求めます。(疑問1)はなぜ$y=\sin{⁡bx}$とおくという発想に至るのか?という疑問です。そして(疑問2)は$y=\sin{⁡bx}$ではなくて、$y=\cos{⁡bx}$とか、$y=\log{⁡bx}$ではだめなのか?という疑問です。
こうした疑問はまず間違いなく講義では説明されません。確かに、一般解を用いて求められた解は与えられた条件を満たすため、元の微分方程式の解であるわけで、結果オーライなのだから、最初に与えた一般解というのは成功だった、と因果律をさかのぼって、天下りの一般解が正当化されます。
また、いくつかの微分方程式のパターンを学ぶにつれ、微分方程式に応じて適切な一般解を選択せねばならないということがわかってきます。そうすると、次の疑問が浮かびます。
(疑問3)一般解をどのように選択すればよいのか?
先に述べたように、微分方程式の解法では、結果(解)が仮定(一般解)を正当化するので、(疑問3:一般解をどのように選択すればよいのか?)は説明する必要がない、という立場をとります。しかしながら、それは乱暴であるように思います。結果が仮定を正当化するということは、言い換えると、一般解は必要条件(解が求まる)を満たすということは納得できるが、十分条件(他の可能性が排除される)は満たしていない気がします。十分条件を満たしているよ、という説明がない限り、納得できません。

落ちこぼれ脱出作戦

僕はこれらの疑問はまっとうだと思っています。そういう疑問を置き去りにして、形式だけを学ぶという、通常の講義スタイルこそダメだと思っています。同じことは多かれ少なかれ量子力学にも言えます。量子力学の出発式は微分方程式であり、微分方程式こそが自然の本質であるというのが量子力学の真骨頂です。ですから、微分方程式の理解と量子力学の理解のレベルは直結しており、どちらも今一つ得心がいかないという状況が似ているのは当然かもしれません。
そういうことなので、微分方程式や量子力学が理解できない、というのは決して恥ではなく、むしろ、現在の講義スタイルで理解できたと思っている人の大半は、理解できていないことすら理解できていないという救い難い状況だと思っています。だから、このテキストをここまで読んできた人には、ご褒美をあげたいと思いますが、そのご褒美は、テキストを進むうちにもらえます。

2017年11月4日土曜日

糖尿病患者をなめるなよ!

糖尿病歴10年

僕は糖尿病と診断されて、10年以上経ちます。インスリンも10年以上ってことです。筋金入りの糖尿病患者です。あんまり優秀な糖尿病患者ではありません。でも、それは仕方がないのです。糖尿病患者の苦しみは実はすさまじいものです。

血糖値と空腹感

動物は、血糖値が下がると、空腹を感じ、血糖値が上がると満腹を感じます。ふつうの人は、超絶におなかがすいた状態で血糖値が70mg/dlくらい。食後は、140mg/dlくらいまで上昇します。通常は100mg/dlくらいです。だから、マイナス30mg/dlは、たまらなく空腹を感じるってわけです。僕は血糖値のコントロールが悪いと、通常の血糖値が180mg/dlくらいです。その状態だと、空腹時には120mg/dlくらいまで下がります。マイナス60mg/dlです。数値的には常人の倍くらい空腹を感じることになります。もっとひどい時もあります。それこそ、気が狂うくらいの空腹です。それを我慢しろなんて、無理です。

このような議論は、医療関係者にも知られています。糖分は麻薬のようだ、とも言われています。実際、麻薬と同じような効果があるという説まであります。麻薬中毒者には、支援団体がありますが、糖尿病患者には生活支援団体がありません。糖分はどこでも入手できます。麻薬より多くの誘惑があります。それを根性論でなんとかするなんて、不可能に近いと思います。ふつうの人の腹ペコの状態が四六時中続いていて、それでも空腹を我慢しないといけないなんて、想像つきますか?

糖尿病の治療では、75歳を一つの基準にします。その理由の一つに、統計的に糖尿病患者は100歳までに死亡することがわかっていることが挙げられます。糖尿病患者は早死にするのです。だから、75歳以降は無理せず、安楽な生活を送る方が幸せだ、ということです。もう一つの理由があります。75歳くらいから認知症が深刻になります。認知症になると我慢が効かなくなり、食事療法や運動療法が満足にできません。すなわち、いくら医者が努力しても、患者が言うことを聞かないので、すべての努力が報われないのです。だから、患者と医者の合意の下で、75歳になったら、もういいよね、という取り決めを行うのです。
だから、僕の寿命は75歳です。もしかしたら、80歳まで生きるかもしれませんし、70歳くらいでダメかもしれません。少なくとも、健常者よりはかなり短いでしょう。余命宣告というほど短くはありませんが、はっきりと100まで生きることはないと宣言されるのは、それはそれでショックなことです。

ダイエット

糖尿病の治療の基本は食事療法と運動療法です。食事療法とは、平たく言うとダイエットです。糖尿病患者は、ダイエットのプロです。命がけでダイエットしている人たちが、糖尿病患者です。

僕は糖尿病歴10年以上なので、10年以上ダイエットを続けています。糖尿病では、最初に入院を勧められます。糖尿病の入院は治療が目的ではなく、糖尿病に関する知識を勉強するのが主たる目的で、教育入院と呼ばれます。その中で最も時間を割くのが、食事療法=ダイエットです。

ダイエットは商業的にも重要なので、医学的な研究がたくさんあります。その重要な結論として、ダイエットで結局重要なのは、カロリーの抑制だ、ということです。食べ方とか、食べ物の種類とか、いろいろなダイエット法が巷に溢れていますが、そんなことは些細な事。摂取カロリーが少なければ痩せるし、多ければ太るという単純で冷酷な関係があるということです。

医学的には、20歳時の体重を基準として、そこからの体重の増加はすべて余分な脂肪であると推定されます。そして、脂肪1Kgにつき、7000kcalの熱量があります。もし、40歳で、20Kg太っているなら、20Kgの脂肪が蓄積されており、その脂肪は140メガカロリーに相当します。ビール腹のおじさんは、大体このくらいの太り方をしています。この場合、1年あたり1Kg = 7000 kcalだけ余分に摂取してきたということになります。
これを365日で割ると、一日当たり20 kcalだけ余分だった、ということがわかります。成人男性の1日の標準摂取カロリーは2400 kcalなので、0.8%だけ余分だったということです。たったの0.8%です。これは逆にものすごい精度で2400 kcalを守っているとも言えます。
例えば、定規なしで1mの線を描くことを考えてみてください。ぴったり1mなんてなりません。10cmくらいずれてもおかしくないでしょう。その精度は10%です。0.8%の精度というのは見た目が1mぴったりなのはもちろん、線がまっすぐかどうかでもくるってきます。線がまっすぐでない場合、線の太さによっては、線の曲がりの外側と内側でもくるってきます。そういうことまで考慮しないとダメなレベルで、僕たちは無意識にカロリーコントロールしているということです。
例えば、20 kcalというのはコンビニおにぎりの10分の1くらいです。すなわち、おにぎりを一口食べると、20kcalを軽くオーバーするってことです。毎日の食事量がその精度で制御されているということです。もちろん、毎日の食事量は変動します。多い時もあれば少ない時もあるでしょう。でも平均すると、+20 Kcalということです。それを「無意識」におこなっているのです。我々は摂取カロリーを労なく誤差1%以下に制御しているのです。この医学的事実から、この無意識の制御は非常に正確で強力だと考えられています。

ダイエットはその正確で強力な無意識の制御を上書きしようという行為です。無意識による食事量の制御は非常に強力なので、一時的に食事量を減らしても、無意識のうちに減らした分を取り戻してしまいます。この制御は、生物が何億年もの進化の末に獲得してきたものですから、当然です。
逆に考えると、減らさねばならないのは一日当たりたったの20 Kcalです。大幅に減らす必要はないのです。たったの20Kcalなら、概ねひと口に相当します。なので、すべての食事において、一口残す、ということを習慣にするだけでOKです。
重要なのは習慣です。生物には、強力な食事量制御が無意識のうちに働きます。意識的な制御は、一時的には無意識の制御を上書きしますが、気を許した瞬間に無意識の制御が復活します。
例えば、のどが渇いて、自動販売機でジュースを買うとします。その時、何を飲みますか?カロリーに気を付けていれば、コーラゼロを飲むかもしれません。コーラゼロのカロリーの表示は0Kcalですが、実はちょっとだけカロリーがあります。100mlあたり5kcal未満の場合は、0 Kcalの表示になります。ペットボトルは500 mlなので、最大25 Kcalあるかもしれません。我々の脳はそれを抜け目なく知っていて、カロリーが完全にゼロのお茶ではなく、20 Kcalのコーラゼロをあなたに選択させるのです。そして、せっかく控えた20 Kcalをこっそり取り戻しているのです。無意識の制御はこのように狡猾に抜け目なく、ダイエットに抵抗します。

多くのダイエット法では1か月に10 Kg痩せた!なんてのを売り文句にします。でも糖尿病患者のダイエットは、1年間に1Kgでよいのです。いや、体重なんて減らなくてもよいくらいです。そのかわり、糖尿病患者のダイエットは一生続きます。そのような継続的なダイエットでは、狡猾な無意識の食事量制御が本当の敵になります。無意識の制御を欺く方法の一つが「習慣」です。

例えば、自動販売機では、お茶とブラックコーヒーしか買わないと誓いを立てるのです。最初は我慢が必要ですが、だんだんと当たり前になり、習慣となります。習慣になったらコーラゼロを避けるのに、苦労がなくなります。糖尿病患者は10年、20年の単位で戦うのです。我慢なんて秒単位の戦いではないのです。
毎食事の際に、かならず一口残すと簡単に20 Kcal程度の削減になります。外食ではご飯を一口残します。家ではおかずを半分残します。職場のカフェテリアでは、おかずを一品減らします。食事を残さず食べることを小さいころからしつけられてきたので、食事を残すことに強い抵抗感が今でもあります。毎日おいしい食事を用意してくれる家内には、申し訳なく思っています。でも、食事を残すことを習慣づけることで、ほんのちょっとだけ減らすのです。これを1か月続けると少しだけ、体重が減るかもしれません。

運動療法

食事療法と並んで重要なのが運動療法です。20歳以降に増加した体重はすべて脂肪というのは、言い過ぎで、一部は筋肉なんじゃないか?と思うかもしれません。でも、ほとんど確実に、脂肪です。いや、筋トレしてるから、筋肉だよ、と思うかもしれません。でもその筋肉は、ダイエットでは脂肪扱いなんです。

食事療法主体のダイエットでは、脂肪はほとんど減らないという実験事実があります。人間の場合、最初に糖類がエネルギーとして使われます。糖類が減ってくると、次は筋肉を分解して、糖に変えて用います。脂肪は最後まで使われず、飢餓状態に備えるのです。糖類は一時的なエネルギー源なので体重の減少にはほとんど寄与しません。なので、正しい運動療法を組み合わせないダイエットでは、脂肪が減らず、筋肉が分解されます。女性が大好きな食事制限ダイエットで減る体重は筋肉なので、ダイエットを繰り返す女性は筋肉量が減り、痩せにくい体質になるという悪循環は、隠れ肥満として有名です。

筋トレでは、脂肪は燃焼しませんので、筋トレ+食事療法だと筋トレで作った筋肉を筋トレで分解するという、わけがわからないマッチポンプ状態になります。なので、筋トレで作った筋肉はダイエットでは脂肪と同等の扱いになるのです。
脂肪の燃焼は、基礎代謝の一部と、有酸素運動が主なものになります。筋トレで筋肉を増やせば基礎代謝は増えますが、それは一日当たり10 Kcalのオーダーでの話です。1Kgの脂肪を燃やすには、7000 Kcal必要なので、基礎代謝の改善で1 Kg痩せるには、2年くらいかかる計算になります。

ダイエットの本来の目的は体重を減らすことではなくて、脂肪を減らすことです。そのためには、有酸素運動しかありません。有酸素運動というのは、かなり面倒くさい性質を持っています。

まず、有酸素運動で脂肪を燃焼させるには15分程度のウォーミングアップが必要です。ウォーミングアップ中は脂肪の燃焼はほとんどありません。ダイエット目的での有酸素運動では、15分経ってから、どのくらい運動したかが重要になります。例えば、20分のジョギングは、40分のウォーキングと同じくらいのカロリー消費量ですが、脂肪燃焼時間は、ジョギングが5分、ウォーキングが25分になり、ウォーキングの方が3倍くらい効率が高くなります。

次の面倒くさい性質は、有酸素運動で脂肪が燃焼しだしても、脂肪だけが燃焼するわけではないことです。脂肪はかならず糖とセットで燃焼することが知られています。糖のストックは多くありませんので、糖がなくなると筋肉が分解されます。つまり、長時間の有酸素運動は、筋肉量の低下を招くのでよくない、ということです。これはオーバートレーニングとして知られており、マラソン選手の上半身が痩せている理由です。かれらは、足以外の筋肉をトレーニングで文字通り食いつぶしてしまっています。

さらに面倒なのは、燃焼の際の脂肪の割合は50%が最大で、運動強度が増すにつれ、効率が落ちます。つまり、頑張って激しい運動をするほど、脂肪の比率が減り、筋肉が減るリスクが高まるのです。ウォーキングなら脂肪燃焼が50%ですが、ジョギングだと25%になったりするわけです。その場合、同じ時間のウォーキングとジョギングでは、脂肪燃焼量はほとんど変わらないことになります。

ここから結論されるのは、脂肪燃焼を目的とした運動療法では、なるべく低負荷の運動を無理しない程度に長時間行うのが効率的ということです。

運動の種類ですが、筋トレは最悪です。筋トレは、実際の運動時間が秒単位なので、トータルの消費カロリーは多くないのです。無酸素運動とよばれ、ダイエット効果には不向きです。しかし、有酸素運動は筋肉を食いつぶす傾向があるので、ダイエットでは、少しの筋トレを併用する方が良いとされています。
単位時間当たりの消費カロリーが最も高いのは水泳です(1000 Kcal/hour)。でも水泳は1日1時間、週1回ぐらいが適切なところなので、水泳選手でない限り、長い目で見たときの消費カロリーは多くありません。
1日あたりで見ると、登山の消費カロリーがダントツ(最大8000 Kcal/day)です。どんな登山好きでも、1か月に2日くらいしかできませんが、長い目で見ると、水泳よりも多くのカロリー消費になります。
一般に、ダイエット目的なら、自転車が最も効果的です。自転車はウォーキングより少し高めの運動強度ですが、運動時間を長くとることができます。自転車は1時間乗ってもそれほど長く感じませんが、1時間のウォーキングは結構退屈するのです。1か月くらいの平均で消費カロリーを比較すると、あらゆる運動の中で自転車が最も多くなります。

脂肪の燃焼比率は最大で50%なので、1 Kg = 7000 Kcalの脂肪を燃焼させるには、14000 Kcalの運動が必要です。ウォーキングでは1時間あたり280 Kcal程度なので、50時間の有酸素運動が必要になります。ただし、15分のウォーミングアップを考慮すると、1時間のウォーキングなら62回行うことになります。概ね、1日2回のウォーキングで1か月1Kgの脂肪を減らすことができます。うまくすると、2Kgくらい減るかもしれませんが、無理をしていると1Kgの筋肉が分解される可能性も残ります。これ以上に効果的な運動療法はありません。

過激なダイエットでは、1か月に5Kgとかの減量効果を謳うことがあります。5 Kgの脂肪は、35000 Kcalに相当し、一日当たり、1000 Kcal以上の運動が必要になります。ジョギングだと、毎日2時間に相当しますが、そんな運動はできないはずです。ということは、脂肪以外の何かが体重減少に寄与したと考えるべきです。脂肪のほかに、水分・便・筋肉が体重減少に寄与します。女性の場合、宿便が取れるだけで、2~3キロ減ります。また、水分は簡単に1~2キロ減ります。なので、1か月に5Kgというのは、脂肪も少し減ったかもしれませんが、内訳の多くは、宿便と水分と推察されます。なので、すぐに戻るし、実際のところはダイエットでも何でもないと思われます。

手軽な運動療法としては、ウォーキングが最も高効率なので、糖尿病患者はウォーキングを運動療法の基本に据えます。健常者の場合、中年以降は運動量が減り、体力が衰えるものですが、頑張っている糖尿病患者は毎日の運動によって、体力が維持され、健常者より健康なくらいです。僕は自転車通勤を運動療法として取り入れていますが、散歩と合わせて一日の運動時間が2時間を軽く超えます。ちょっとしたアスリートです。血糖値以外はすこぶる健康というのが、理想的な糖尿病患者です。

食事

食事療法の基本はカロリーですが、食べ物に関する知識がないと、カロリーを計算することができません。なので、食事を見てカロリーが計算できなければなりません。それには、栄養士並みの知識が必要になります。
栄養士は食材と重量からカロリーを計算するわけですが、糖尿病患者は見た目からカロリーを概算しなければなりません。なので、食材の量の目分量や調理法にも通じておかなければなりません。
カロリーを計算する方法として、80 Kcalを1単位とした計算法が一般的です。というのも、お惣菜の小鉢1皿が概ね80 Kcalくらいで、見た目にわかりやすいのです。白米はもっとも計算しやすい食材です。外食にでてくるごはんだと、お茶碗1杯で4単位くらいです。家庭では3単位くらい。女性や子供用の小さなお茶碗だと2.5単位です。2.5単位というのは、コンビニのおにぎり1個に相当します。僕は糖質を少し控えるようにしていて、1回の食事では2.5単位のごはんにしています。
お肉は20~30gで1単位です。肉料理一人前だと、3~4単位のお肉が使われることになります。野菜は1回の食事でせいぜい1単位です。調味料や炒め油で1単位上乗せします。揚げ物はさらに1単位。食材は無数にあって、それぞれにカロリーがあるので、ある程度詳しく理解しておかないといけません。エビ・カニ類は、案外低カロリーだったりして、勉強するとおもしろい発見があります。
1回の食事では800 Kcalが基本です。でも、ライフスタイルにも依存します。僕は朝が500 Kcalくらい、昼が600 Kcalくらい、夜が1000 Kcalくらいになっています。

毎日の積み重ねを10年の単位で続ける

糖尿病患者の苦しみは、以上のことを毎日、10年単位で続けることです。何とかダイエットなんて、1か月か2か月の話です。次元が違います。また、糖尿病患者のダイエットは体重減少が目的ではないというところもポイントです。1か月に1Kg減量すると、1年で12Kg、10年で120Kgも減ってしまって、僕の体は跡形もなくなるでしょう。ある時、体重減少がうまく止まらなくて、困ったことすらありました。良好な体重を維持するというのが糖尿病患者のダイエットの目的なのです。

糖尿病患者はダイエットのプロです。普通の人が知っているようなダイエット法はすべて知っていると考えて間違いありません。最初にサラダを食べるとか、10年前から実践していますが、あんまり効果はありません。でも効果がわからないだけかもしれません。医学的には、サラダを最初に食べることで血糖値の上昇が緩やかになることは証明されています。糖尿病患者はダイエットのプロなので、医学的に証明されたことはちゃんと実践するのです。そして、巷にあふれる怪しいダイエット法は無視します。

医学的に効果が完全に証明されたらくちんなダイエット法というのは、世の中に存在しません。というのも、肥満は万病のもとと考えられており、肥満を解消するための研究は世界中で続けられています。にもかかわらず、肥満の治療が本格化しないのは、それが存在しないからです。
生物は長いな進化の歴史を持ちますが、現在の人類のように食料に困らず、肥満を解消する必要に迫られたことは一度もありません。生物の歴史は、むしろ飢餓との戦いの歴史なのです。なのですべての生物は飢餓状態に適応するように進化してきました。糖尿病は、極端な飢餓状態の中では特に優れた形質だったと考えられ、むしろ生存に有利だったのです。人間社会の進歩が、生物としての人間の進化をはるかに超えて進行した結果、食料が有り余る現代への適応不良として顕在化した病気が糖尿病です。がんや認知症も、人間の寿命が急激に伸びた結果、顕在化した病気と言えるので、同じようなものです。

教育入院

僕は、こういった知識を糖尿病発覚直後に行った教育入院で勉強しました。授業料(入院費)はそこそこしますが、保険適用なのでお得です。午前中は勉強をして、午後は、検査と問診をします。その間に運動療法をします。
ご飯は結構しっかりしたものを食べます。そこも重要です。基本的に、糖尿病患者が食べられないものはありません。食事を抜くのもよくありません。決められた量の食事を、決められた時間にきちんと食べることがよいとされています。
外食などの場合には、食事の量がお店のお任せになってしまいます。その場合、ちゃんと量を計算して食べねばなりません。教育入院では、食事の量を覚えるということも重要な勉強なのです。「腹八分目」を体に覚えこませるのです。いや、「腹五分目」くらいかな。
僕の上の娘は、高校生の時にダイエット検定なるものを受けましたが、その内容は僕が教育入院で勉強したものの「サブセット」でした。糖尿病患者は命がけでダイエットするのです。ちゃらちゃらしたダイエット検定なんて、目じゃないのです。

糖尿病であることを公言する

糖尿病はどっちかというと恥ずかしい病気だと考えられています。努力が足りないから糖尿病になったという印象があるからです。でも、病的な肥満でない限り、カロリーオーバーなのは1日当たりたったの20Kcalです。それは無意識の制御がちょっとミスっているだけです。食べる量だけではなく、運動量にも無意識の制御が働いているのです。20Kcalというのは、曲がり角を曲がるとき、内側を歩くか、外側を歩くかの違いくらいで生まれてしまいます。信号が赤になりそうなとき、少し早歩きするか、あきらめるかの違いで、20Kcal/dayくらい変わります。20分朝寝坊するだけで20Kcalくらい違います。普段の生活の中のちょっとした省エネが何十年も積み重なると10Kgくらい太るのです。ちょっと早歩きを心掛けたとしましょう。でも体はその分、朝寝坊になったり、一口多くおかずを食べたりして、無意識のうちにそのカロリーを取り戻します。1年に1Kgくらいの体重増加はむしろ自然なことです。それを恥ずかしいと思う方がおかしいよね。

肥満の定義は、あまりはっきりしません。肥満の判定基準として、身長と体重から計算されるBMIがよく知られています。日本では肥満の基準は25以上ですが、WHOの基準では、30以上が肥満とされています。身長170cmだと、BMI=25は72.5Kgですが、BMI=30は86.7Kgです。日本では、BMI=30の人は、ほとんどいません。日本では、そのような人は病的肥満と呼ばれていますが、海外で病的肥満と言えば、マツコ・デラックスみたいな体形です。病的肥満は何か別の理由から肥満になっている病態を指します。多くは、脳の病気です。そういう人はそんなに見かけませんよね。だから、世界標準では、日本にはほとんど肥満はないのです。
そういうことなので、肥満気味の状態は、糖尿病の遠因ではありますが、別の要素も多いと考えられています。ただ、別の要素というのは、遺伝的な要因だったりして、本人の努力ではいかんともしがたいので、治療改善を目指す医学的立場からは、肥満気味ということを目の敵にせざるを得ないわけです。でも考え方を変えて、がんや認知症のようにほとんど運・不運が原因と思われているような病気と同じ扱いにした方が良いと思います

糖尿病の教育入院で議論されることですが、多くの糖尿病患者は自分が糖尿病であることを隠す傾向にあります。でも、糖尿病であることを公言する人もいて、比べると、糖尿病であることを公言する人の方が血糖値のコントロールが良いと言われています。理由は、隠し事をする、恥ずかしいと思うとことに伴うストレス説が有力です。公言していると周りが気を使ってくれて、気持ち良いので、逆にストレスがたまりにくいという説もあります。

僕は糖尿病であることを公言しています。僕はサイエンティストなので、血糖値測定結果などの実験事実を認めることを信条としているのです。実験事実は包み隠すべからず、です。その時、なるべくあっけらからんな印象を与えるようにしています。僕は36歳で糖尿病と診断されましたが、すでにかなり深刻な状態で、その2年前くらいから深刻な糖尿病の状態だったと考えられます。診断が下ったときはショックでした。だって不治の病なんですよ!健常者とは違っていろいろ無理が利かなくなるわけです。
落ち込んだのですが、よく考えると、50歳を超えると誰でも1つくらい病気を抱えるものです。僕は15年ほど早いですが、そういう人たちの仲間入りをしたわけです。ま、人生の段階をちょっと飛び級した、という風に考えました。病気があることを悲観しても、何も始まりません。いずれ誰でも病気になるもので、それが僕の場合は若くして糖尿病だっただけの話です。

僕は、糖尿病が恥ずかしい病気でなくなると良いな、と思っています。というか、糖尿病患者はたゆまないダイエットに取り組んでいるアスリートなんだって、思ってもらいたいのです。

P.S. 糖尿病でよかったことの一つが、ちょっとした薬や治療が保険適用になる場合があることです。一度、軽い水虫になったのですが、その時、水虫の軟膏を6か月処方してもらいました。糖尿病が深刻だと、水虫を端緒として傷口から雑菌が侵入し、足先とかが壊疽して切断に至る場合があります。だから、水虫は糖尿病合併症としてちゃんとした治療対象なんです。効き目抜群の処方薬をタダ同然で使えて、すっかり治りました。またある時、ちょっと足首が捻挫して痛い時がありました。足首を痛めてウォーキングできないと、血糖値のコントロールが悪くなるので、これも治療対象になるのです。使えきれないほどの湿布をもらいました。全部保険適用です。
ちょっと下痢気味だというと、整腸剤(漢方薬とかビオフェルミン)を処方してくれます。糖尿病治療薬のいくつかは下痢の副作用があるのです。定期検診は、今のところ6週間に一度なんで、風邪とかを診てもらうわけにはいかないんですけど、コンビニ医療の大義名分になってて、ちょっと気が引けるくらいのときもあります。

おまけ:御堂筋暴走事件

糖尿病では低血糖が最も怖い症状です。普段は高血糖なので、経口薬やインスリンで血糖値を無理やり下げています。しかし、いろんな事情で食事がとれなかったり、遅くなったり、量が少なかったりすることがあります。その場合は注意が必要になります。
血糖値を下げる薬剤は即効性のもありますが、通常は2時間から6時間のタイムラグがあります。なので、朝の投薬では昼と夜の食事量を計算に入れて量を調整することになります。もし、昼食が満足に取れないと、血糖値を下げる薬の効果が、血糖値を上げる食事の影響をはるかに超えてしまい、低血糖を起こします。低血糖は最悪の場合、気絶(昏倒)を引き起こし、死に至ります。
低血糖が引き起こしたとみられる痛ましい事故が、2014年6月30日に御堂筋で起きました。運転手が低血糖で気絶し、自動車がそのまま暴走し、3人の歩行者が重軽傷を負いました。運転手は糖尿病で、経口薬とインスリンを常用していました。仕事が忙しく、昼食を満足にとれなかったということです。自己血糖値測定で低血糖を認識したので、どら焼き1個とオレンジジュースを食べたと証言しています。

一般に、インスリンを使用している糖尿病患者がどら焼きを食べることはありません。オレンジジュースも飲みません。食事がとれない場合の非常食としてどら焼きとオレンジジュースを食べたのはきわめて合理的です。
血糖値というのは血液中のグルコース量のことです。グルコースというのは単糖と呼ばれます。食品ではグラニュー糖あるいはブドウ糖のことです。ふつうの砂糖はショ糖と呼ばれ、グルコースが2つくっついた化合物です。インスリンを使っている糖尿病患者の多くはグルコースを10g程度常時携帯していて、低血糖の症状が出たらグルコースを食べます。5分~10分で血糖値が急上昇し、低血糖の症状はなくなります。でもそれは、低血糖の症状を感じた場合の応急処置です。
さて、食事がとれなくて低血糖が「懸念される」糖尿病患者は、グルコースを食べるべきかどうか?答えはNOです。携行しているグルコースはせいぜい10gです。一時的に低血糖を改善する役には立ちますが、すぐにまた低血糖になる可能性があります。なので、別の手段を使います。
この場合の低血糖の根本原因は食事として摂取する糖分が足りないということです。なので、糖分の多い食品を食べることが根本対策になります。とりあえず何でもよいかというとそうではありません。カロリーがそこそこで、糖分が多いものが良いとされています。簡単に言うと、腹持ちのする脂質の少ない食品、です。この観点からすると、チョコレートは低血糖対策としてはよくありません。ミルクとかヨーグルトとかもよくありません。ハンバーガーとかフライドポテトは、カロリーの大半が脂質です。良いとされるのは、アンパンとかです。どら焼きは成分がほとんどアンパンと同じですから、予備的な低血糖対策として理想的な食品です。でもそれは、血糖値を上げてしまうので、普段は決して食べません。オレンジジュースも同じです。なので、運転手が低血糖対策として食べた食品は、医学的には正解です。そして、それ以上の対策は無理です。にもかかわらず、有罪の判決が出ました。これは納得がいきません。

そもそも罪というのは、故意であること、が要件です。その中には、予見できたけど対策しなかった、というものも含まれます。予見して対策したけど不十分だったというのは、グレーゾーンです。予見して可能な限り対策したけど防げなかった、は完全にセーフとされています。御堂筋の事件では、運転手は予見し、可能な限り対策したけど、防げませんでした。これで有罪はダメです。運転手は事故の2時間ほど前に臨時の血糖値検査をして、どら焼きとオレンジジュースを食べました。血糖値の検査には手間とコストがかかります。保険適用でも1回50円くらいになります。所要時間は3分です。車を止めて手間とコストをかけて血糖値測定をしたのち、低血糖対策に適したどら焼きとオレンジジュースを購入し、食べたはずです。これ以上の対策は思いつきません。

一審では有罪判決でしたが、その後控訴し、2017年3月16日に、一審判決を破棄、差戻しになっています。普段食べることがないどら焼きを食べていることを指摘し、低血糖に対する対処を行っており、過失ではないとの判決文になっているようです。

低血糖の症状というのは自覚がとても難しいものです。健常者でも日常的に低血糖になっています。例えば、空腹。低血糖と診断されるギリギリの血糖値まで下がります。低血糖の初期症状の一つが空腹感です。例えば、二日酔い。二日酔いはアルコールの分解に糖が使われて糖が不足することに伴う低血糖が原因です。頭痛、吐き気、むかつきは、ほとんどが低血糖の症状です。例えば、めまい。軽い低血糖の場合、バランス感覚が少し狂います。でもそれは、脳こうそくの症状かもしれません。問題は、空腹を感じても低血糖とは限らない、ということです。低血糖になると空腹を感じますが、タイムラグがあります。生物の体にはホメオスタシス(恒常性)があるので、低血糖の対策が自動的に取られます。低血糖から空腹感に至るタイムラグの間に、普通であれば血糖値を上げる対策が奏功し、危機的な低血糖状態は避けられます。しかしながら、糖尿病患者の場合は、頻繁な低血糖が知らないうちに進行し、万策が尽きて、重大な低血糖症状を引き起こす場合があるのです。低血糖対策はたくさん用意されているのですが、今どのレベルの低血糖対策がなされているのかを知る術はありません。なので、今の低血糖がどのくらい深刻な状態なのかがわからないのです。
地震に似ています。小さな地震が続いていても、大地震が起こるとは限りません。大地震が怖いので、小さな地震を見逃さないようにしていて、地震対策をしていたとしても、思っていたより大きな地震がやってきて、地震対策が十分でなかったとわかる。同じ構図です。さて、大地震を予見できなかった地震学者に罪はあるやなしや。ちなみに、イタリアでは一度有罪判決が出ています。

イタリアの地震裁判は素人目にもやりすぎ感がありますが、糖尿病患者の発作に関しては予断を許しません。糖尿病患者は病気をカミングアウトして、周囲の理解を得るための努力をすべきなんじゃないかな、と僕は思います。



2017年10月17日火曜日

アウトソーシング

アウトソーシング全盛

昨今は経費削減のためにいろんな業務が外部委託(アウトソーシング)される傾向にある。アウトソーシングすると、どうして経費削減できるのだろう?

アウトソーシングには利点と欠点があり、それをよく理解しないといけないし、安定した組織においては、アウトソーシングは不経済であることが多く、導入のメリットがないばかりか、害悪になる。特に、図書館などのサービスはアウトソーシングのやり方を考えないといけない。

身近なアウトソーシング

家庭のレベルの伝統的なアウトソーシングは、家政婦である。ご存知のように、家政婦を雇うには、そこそこの経済力が必要で、並みのパートでは賄えない。なので、ほとんどの家庭では自分たちで家事を行う。つまり、家政婦の場合はアウトソーシングが不経済ということだ。最近多いアウトソーシングの例は、配食サービスだ。食材だけ、あるいは調理済みの食事を宅配するサービスだ。家事の時間が取れない場合は経済的に釣り合うが、一般的にはこれも不経済だ。一般家庭の経済感覚では、アウトソーシングというだけでは、経費削減にはならない。
アウトソーシングは別の理由でも敬遠されることがある。タクシーは自動車移動のアウトソーシングである。タクシーは不経済に思うかもしれないが、マイカーの場合、車両価格、ガソリン代、駐車場代、保険代、維持費もろもろを計算に入れると、タクシーの倍くらいになる。それでも我々はマイカーに利点を見出す。いつでも車をつかえる利便性、プライバシー、自分の好みの車、そういうものに価値を見出しているので、タクシーではなく、マイカーを使いたいと思うのだろう。自動車会社のCMに踊らされている面もあるだろう。細かな使い勝手をカスタマイズできないというのは、アウトソーシングの弱点の一つで、それがタクシーの例では見て取れるとおもう。

それでもアウトソーシング

利益を追求する企業がアウトソーシングを進めるのは、その方が利益があるからだ。アウトソーシングの利益とは何だろう。第一に、人件費の圧縮だ。
比較的専門性が低く労働集約型の業務は、真っ先にアウトソーシングの対象になる。最近は、事務作業のうち、比較的容易なものはどんどんアウトソーシングになっている。正式な雇用契約のある社員の人件費は比較的高額なので、より経済効率の高い業務につかせたいという経営判断により、アウトソーシングが進んでいるのだと考えられる。

しかしながら、そもそもこれは経営者の判断ミスの埋め合わせだと考えることもできる。つまり、人件費が高騰して、軽作業用の人員が確保できなかったという経営判断のミス、と理解することもできる。あるいは、人員配置のミスと言ってもよい。判断ミスなら、それを修正して正常化すべきなのだが、アウトソーシングが常態化しているのが現在のやり方だ。

アウトソーシングが広がったのは、バブル崩壊後、しばらく経ってからだ。バブル崩壊時に社員採用を大幅に削減し、人件費を圧縮できたものの、人を減らしすぎて業務が滞るようになった。その欠員を補充するために、人材派遣が多くなった。バブルで人件費が高騰し、バブル崩壊で軽作業用の人員を大幅削減してしまい、人材確保できなくなり、派遣に頼るようになった、ということだ。短期的には悪くない判断だが、中長期的には修正すべき対応だ。しかしながら、中長期的な展望を欠いた経営者が現状維持に甘んじた結果、派遣社員の問題がかなり深刻になった。派遣社員の待遇はもちろんだが、派遣を受ける側の企業の経営がおかしくなっている。

アウトソーシングのデメリット

僕が人材派遣会社なら、ターゲット企業にある程度食い込んでから、契約更新時にじわじわと契約条件を吊り上げる。練度の高まった派遣社員を引き上げられると、当該企業は業務に支障をきたすようになる。そうすると契約の主導権は逆転し、人材派遣会社が有利になる。現在は、そのようなフェーズで、アウトソーシング経費が経営にのしかかる。
かといって、今更アウトソーシングをやめるわけにもいかない。というのも、アウトソーシングしている作業がどんどん高度化してしまっていて、社員で肩代わりすることができなくなっているからだ。つまり、アウトソーシングが進んだ結果、業務内容が高度化し、逆に専門性が高い業務がアウトソーシングされるという状況になっている。社員はアウトソーシングされた業務にはタッチしないのが原則なので、社員の練度が上がらず、アウトソーシング経費をねん出するために社員を切るという選択を迫られる。これこそ、人材派遣会社が狙っていた展開だ。アウトソーシング経費は、人材派遣会社の言いなりにならざるを得なくなる。

そうすると会社側の行動として、派遣されている人材をハントして社員として取り込む、ということが進む。このフェーズも現在進行中だ。派遣切りが社会問題化していて、その解決策として派遣社員の中途採用優遇が進められており、これは世論の賛同を得ている。
しかしながら、正社員として採用すると、実質的な将来債務が発生してしまい、経営の自由度を制限する。そのため、会社は、派遣社員をフリーランスとして再契約するようになる。ただ、現状の法制度では、フリーランスの雇用条件が非常に悪い。これも社会問題化しており、現在は働き方改革というのが進んでいる。

行ったり来たり

時系列を整理してみよう。経営者たちの求めに応じて、人材派遣の規制緩和をしたのが2000年ごろだ。すると派遣社員の待遇が悪いとして、2005年ごろには派遣期間に規制を設けた。それでも問題はなくならず、法の抜け道をついてアウトソーシングがどんどん進んだ。しばらくいたちごっこが続いたのち、人材派遣会社が極めて強力になり、アウトソーシング経費が高騰しだした。それが2010年頃だ。経営者たちはたまったものではないので、優秀な派遣社員を人目る策として、個人契約を進めた。しかしながら、それは単に給料の切り下げでしかないので、適正化に向けて法整備を検討しだした。それが2015年ころで働き方改革というものだ。
ここ20年くらいで、アウトソーシングのメリットとデメリットを行ったり来たりしていることがわかる。短期的には経済的なアウトソーシングを進めるが、5年を目途に中長期的には不経済であることがわかる。法的な規制によって適正化するが、やはり5年程度で不経済であることがわかってきて、再び法整備による解決を図る、ということを続けている。
この流れを見ると、経営者の判断ミスから業務のアウトソーシングが進み、アウトソーシングの欠点が露呈すると、小手先の対策や政治介入を通じて、短期的な対策を図るも、最終的には次の問題が生じるという、なんともコントのような展開であることがわかる。改革すべきは経営者であることが明白なのだが、経営者たちを支持基盤とする自民党政権下では、根本的な解決は無理かもしれない。

問題点の整理

個人レベルのアウトソーシングの例でみたように、アウトソーシングの多くは中長期的には不経済であったり、デメリットが多い。企業のアウトソーシングでも同じことが言える。経営者は短期的なメリットを見て、それを中長期的に採用したいと考えるが、現状のアウトソーシングは、もともと短期的な応急措置としての装置であり、システムとしては脆弱なのだ。中長期的にアウトソーシングに頼るという経営判断を根本的に改めなくてはならない。
そもそも、経済活動というのは、得意な分野を結集し、価値を最大化するという行動規範だ。極めて特別なノウハウや投資によって得意分野を先鋭化し、付加価値を高めて利潤を上乗せするというのが企業経営の基本である。経営資源という考え方で整理するとわかりやすい。経営資源には、資産・設備などの資本、ノウハウなどの知財、そして人材がある。また、人材には、特別な才能と訓練教育等で培われた能力との2種類がある。大きな企業になると個人にとどまる特別な才能は、大量のマンパワーに薄められてほとんど無視できる。人材の多くの部分は交換可能である。その互換性に目をつけたのアウトソーシングである。アウトソーシングでは企業は教育訓練の費用と時間を節約でき、その分の経費負担がない。また、仕事の質と量をある程度予測できるので、費用対効果がわかりやすい。しかしながら、アウトソーシングでは、業務内容の改善や練度向上を期待できない。仕事の効率は、最初から80%くらいあって、その後緩やかに上昇し、最終的には110%とかになるかもしれない。一方、社員の場合、最初は30%くらいかもしれないが、すぐに80%に達し、最終的に200%くらいになる。その段階で後進の育成を行い、スループットを落とさず、継続的に業務効率を高いレベルに維持する組織とすることができる。派遣と社員では成長率がかなり違う。というのも、派遣の場合は100%以上はサービスなので、それ以上向上させるインセンティブがない。日本人は比較的お人よしなので、派遣であっても頑張る人が多い。しかし、派遣が一般化した現在、そういう人は少なくなってくるだろう。というのも派遣で働く人は、社員になりたいと思っていない人も多くなっているからだ。
しかしながら、経営者はそのような派遣の事情をよく理解していないので、社員の練度向上を過小評価してアウトソーシングを進めている。その結果、業務が空洞化し、人材が枯渇する。
つまり、アウトソーシングにおける派遣社員は経営資源ではないという点に注意しなければならないということだ。経営資源のうち、人材だけはほぼ確実に成長が見込める。つまり、中長期的には最も重要な経営資源であるということだ。アウトソーシングはそれを(短期的には)捨てるという経営判断をするということなので、本当は慎重に決めないといけないんだけど、そうなってないよね。

アウトソーシングで気をつけないといけないもう一つのことは、業務内容にも中長期的な視点がなくなるということだ。短期的な派遣社員にとって、中長期的な業務というのは自分で責任が持てないことになる。その時の判断として、その中長期的な業務を無視するか、軽視するかとなるのは、致し方ない。業務の定義の中に、その中長期的業務が含まれていたとしても、その業務の質(結果)が判明するのは派遣期間内ではないだろう。そうすると、手を抜いてもバレないし、頑張っても評価されない。中長期的業務というのはアウトソーシングに適さないということがわかる。

アウトソーシングすべきでない業務

中長期的視野に立たないとだめな業務として、教育・人材育成がある。先に述べたとように、人材は中長期的には最も重要な経営資源だ。そして、人材を経営資源たらしめるのは教育である。派遣では教育の観点が欠落しているので、派遣社員を経営資源とみなすことができない、という解釈ができる。
教育というのはかなり時間がかかるものだ。短期的な利益を見れば、極めて効率が悪い。「教育は国家百年の計」言われるくらい、その成果が隅々までいきわたるのに長い時間がかかる。ある教育に着目すると、その教育を受けた人(第一世代)は、その教育内容を人生の中で実践し、様々なノウハウを蓄積する。第一世代が先生になると、その教育内容に加えて、ノウハウも教えるようになる。なので、第一世代の教育内容に欠けていたノウハウの部分も、第二世代は教わることができる。その結果、第二世代はノウハウの蓄積という時間のかかる作業から解放され、より効率的に教育内容を活用できるようになる。第一世代が先生になって教育する側になるまでにおよそ20年必要だ。第二世代以降の教育内容はほとんど変わらないので、ある教育改革が完全に定着するには20年はかかるということだ。そして第二世代以降は人生の中でその教育内容を活用するわけだが、その影響は死ぬまで続く。ある教育の導入時点では、その教育を施された老人にどのような影響があるのかなんて、知るすべがない。個人レベルでは実験可能かもしれないが、社会的影響は実験のしようがない。だから、その教育の成果は第二世代が死ぬくらいの時期まで見ないと、正しく判断できない。第二世代が死ぬという時間がちょうど百年くらいだ、というのが、先の言葉だと僕は思っている。

僕たちは戦後生まれだけど、先生の世代は戦中くらいだった。ずいぶん考え方が違うことを実感してきた。戦後教育で大きく変わったのは、戦争に対する考え方だ。戦後教育では戦争反対が強く押し出された。僕たちは戦争は悪いことだと教えられてきたし、日本の平和憲法は自虐的なものではなくて、誇り高いものだと信じている。平和憲法に強い影響を与えた当事者である米国が、湾岸戦争で先制攻撃を正当化して以来、その誇りが揺らいでいる。僕より上の年代は、日米安保・学生運動の時代を生きてきた人たちで、学校で教わった平和憲法の理念と、親から教わった敗戦の屈辱とのはざまで、様々な葛藤があったのだろう。平和憲法の後ろ盾だったはずの米国が、自ら平和憲法の理念を踏みにじる様子を見て、葛藤の反動で平和憲法の否定に傾くのもよく理解できる。僕の世代は、親も平和憲法の下で教育を受けており、米国と平和憲法と結び付けて考えることはない。米国はきっかけでしかなく、平和憲法の理念を僕たちの哲学としてどのように受け止めるか、ということが重要であり、それを行動として示すためにどのような選択肢があるのか、を僕たちの世代は考えると思う。平和憲法は屈辱ではなく誇りであり、米国が果たせなかった夢を我々が果たし、世界をリードする我々の強力な武器であると、信じている。日本の平和憲法は条文が極端ではあるが、運用においてはバランスがとれており、多くの国で手本として研究されているという事実がある。

バイトになぞらえて理解する

アウトソーシングというのは、むしろアルバイトに近い。バイト君に経理をやらしてよいか?という話だ。派遣社員をバイト君に読み替えれば、極端なアウトソーシングがいかに危険かわかるだろう。能力のあるなしではなく、責任のあるなしで見てみると、何がアウトソーシングに適して、何がそうでないかは一目瞭然だ。

今、図書館業務のアウトソーシングが盛んで、僕はとても心配している。図書館の業務のうち、図書の貸し借りと、一般蔵書の維持管理は、短期的な業務なのでアウトソーシングが可能だろう。一方で、図書館の重要な機能として、図書の長期的な管理がある。図書の中には、一般貸出が可能な図書と、貸し出しが禁止か、あるいは手続きが厳密な貴重本等があり、後者の維持管理は極めて長期的な視点に立たねばならない。そのような業務は一般の人の眼には触れないが、図書館の重要な業務である。
市井の図書館でも、地域の行政文書や資料、古文書などの維持管理を行っているはずだ。図書館業務のアウトソーシングによって、これらの貴重な文書や資料が存亡の危機にある。というか、実際に廃棄されている。いくつかの例では、市の職員が廃棄していたが、おそらく、図書業務を専門としない職員だったと思われる。つまり、組織内で図書館業務をアウトソーシングしていたということだ。図書館業務に責任を持つ司書というのは国家資格である。図書館業務には、文書の歴史的価値・保存方法に関する専門知識が必要とされているからだ。しかしながら、司書の給与水準は低く、専門家として尊敬されていない。そのため、図書館は真っ先にアウトソーシングの対象になってしまっている。これは緩やかな焚書と言ってよい。

コンサルティングは知性のアウトソーシング

通常はアウトソーシングという印象はないが、各種のコンサルティングは高度な専門業務のアウトソーシングだ。内容にもよるが、コンサルティングの単価はかなり高い。しかしながら、同じクオリティの業務を社員で賄えない場合に、コンサルティングを導入することになる。コンサルティングする側はビジネスなので、割に合わないことはやらない。だから、報酬しだいで業務の質が変化する。この場合は、業務に対する熱意を金で買う、という構造になる。
一般に、コンサルティングは高い利益率を誇るが、それはコンサルタントの高い専門性と情報力、そして企画力に基づいている。コンサルタントと同程度の技量を持つ社員がいたとしても、その社員は通常業務に忙殺され、生産性がなかなか上がらないことも多い。そういう雑事から解放され、より先鋭化することで、コンサルティング業が成り立つという側面がある。
善良なコンサルティングの導入は、多くの場合、経費圧縮と業務改善につながる。ただし、超短期的には高額のコンサルティング料に目を剥くことになるだろう。ただ、コンサルタントはプロなので、コンサルティング料くらいの利益はすぐにもたらすだろう。つまり、早々に損益分岐点を越えて、お得になるということだ。長期的には社員でコンサルタント級の人材を賄うことになるのだが、それには10年、20年かかるだろう。その間の教育コストを考えれば、コンサルティングは安いし、正しいアウトソーシングと言える。

まとめ

中長期的視野での業務、責任が発生する業務、熱意が必要な業務、こうした業務がアウトソーシングに向かない。あるいは、それらをアウトソーシングするなら通常の倍くらいの報酬が必要だ。日産は社長をアウトソーシングして成功したが、そのために支払った報酬は、一般社員の100倍以上だった。アウトソーシングは経費削減を意味しないことを、経営者たちはよく理解すべきだ。